温度差がある


ペルーの日本大使館人質事件の解決直後に朝まで生テレビでテリー伊藤さんが、日本の対応とペルー政府の対応には温度差がある、というようなことをたしか言ったのです。なんだそれは?と思ったのですが、それ以前あまり聞かなかったし(覚えがない)、それ以降しばしば他の人も言うし彼も言うので、自分の中では彼がこの言葉(の用法)の元祖ということになっています。田原総一郎さんは、温度差(って何)?みたいな反応をしていました。どっちの温度が高いのか低いのかHOTな対応なのかCOOLな対応なのかわかりません。圧力差があった、という表現だったらどうでしょう。物理量を示す表現は他に沢山あります。電位差があった(電圧のこと)、と言ってもいいじゃないか。いやそもそも単純に”差があった”という表現でなにか問題があるのか。温度差に何の意味があるのだ。彼は何を表現しようとしたのだろう。

温度差というと、同じ場所でのことか、それとも離れた場所のことか、どちらにしてもエネルギーの移動が起こる、と思うわけです。科学の話題ではないし彼は科学の専門家でもないのに温度差と表現するのが気になるのです。えっ?何度くらいの差があるんだろうって。情熱、というのは科学の用語ではないから気にしませんが、温度差なんですよ。

ペルーと日本では電位が違った。電圧があった。これは気になるでしょう。何ボルト?って。

熱い、冷たい、という表現を人間の感情にあてはめているのかもしれない、とも考えられる。だとすると、どうなんだろう。熱い思い。冷たい思い。熱い人が冷酷な行動することはありえるだろう。熱いからこそ、冷徹に行動できる。あ、くどいな。

マックスウェルの悪魔
確率から物理学へ
都筑卓司
講談社B152

いかに高温でも(つまりどんなに熱エネルギーがたくさんあったも)、あたりいちめんに全部同じ温度だったら、この熱エネルギーを利用して、機械を動かしたり、くるまを走らせたりすることは不可能である。ところが「温度差」というものがありさえすれば、これを利用して自動車などを動かすことが可能になってくる。

まとまらない話。


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