2001.4.21  No.39

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目 次

【状況へ】

気づいたら法廷で発言していた(竹森真紀)

憲法を活かすことと守ること(中北龍太郎)

【議論と論考】

〈混合政体〉としての共和主義の再検証(池田五律)

「米海兵隊削減・撤退」要求と新しい米軍基地づくり――「軍隊で民衆の安全は守れない!」4・1集会 (天野恵一)

【言葉の重力・無重力】(14)

戦争のなかの文化遺産――「タリバーンのバーミヤン大仏破壊」報道を読む(太田昌国)

【反天運動月報】(6)

「自己陶酔」史観教科書の登場―「今日的価値観」をふまえて過去の歴史を考えよう(天野恵一)

【書評】

呉連鎬著『朝鮮の虐殺――20世紀の野蛮から決別するための現場報告書』(芦澤礼子)

安川寿之輔著『福沢諭吉のアジア認識―日本近代史像をとらえ返す』(高橋武智)

【状況へ】

気づいたら法廷で発言していた

竹森真紀●ココロ裁判原告

 「日の丸・君が代」とつきあって二〇年近くが経つ。学生時代に部落問題と直接的に出会うことから、天皇制とともにこの「ウタ・ハタ」が「どうも変!」と考え初めてから二〇年程つきあってきた私が、この間さまざまな場で言い放ってきたことは、一昨年の「法制化」によって、「日の丸・君が代」に戦後初めてと言って良いほどに一気にスポットがあたり、その影響で北九州市の片隅でちまちまと闘い続けてきた私たちココロ裁判は「法制化太り」と言えるほど注目を集めた、ということ。法制化を境にして、多くの出会いと運動の拡がりと多様な問題意識を共有する場面を生み出すことができた。私はこのことこそが、「状況が状況を変える」ということだと確信を持つ。そして、改めてもう一度、「何か変!」の意味を振り返ることができたし、そこに希望も見えてくる。

●精神的自由(ココロ)のことだから
 法制化後、共に流行った言葉が「内心の自由」。北九州市においても、「国旗・国歌」の取り扱いに関する初めての教育長答弁が、「内心の自由は絶対的に保障されなければならない」であった。「君が代」を「起立して正しく心を込めて斉唱すること」が、減給などの懲戒をもって貫徹され続けてきた、教育現場に向かってである。いくら人権後進国ニッポンとはいえ、これが時代錯誤だと一笑に付されることもなく、真顔でまかり通ってきた。処分を覚悟で着席する側の教員たちが、明らかに「変人」扱いされてきたと言える。「日の丸・君が代」は天皇と共にタブーであったから。「日の丸・君が代」は、学校での「歴史」教育とか「平和」教育とかと、それほど結びついてはいなかったし、戦争を知らない世代の私たちにとって、力で押しつけられてくる「日の丸・君が代」をはねかえす、積極的な理由や根拠はなかなか見いだし得なかった。
 それでも、私たちが処分と向き合いながらも「はねかえしたい」と思ったのは、なぜなんだろう。やっと、辿り着いたところが、一九九六年提訴の「学校現場に内心の自由を求め、君が代強制を憲法に問う」裁判のネーミングだった。「君が代」の「君」は明らかに天皇であるし、過去の侵略の記憶も、現在の「平和」も大切であるから、そんなウタは歌えない。なのに、とことんココロを服従させようとするウタは、私たち一人一人のココロよりもなぜか尊重され、「歌えない」というココロは処分という弾圧によって押しつぶされていくのだ。「何で処分を受けてまで座るのか」と問われても、理路整然とは応えきれなかった私たちだが、絶対に譲れない「怒り」というのは人のココロ(良心)の中にある、不変なものであるように思う。「内心の自由」という言葉は、その時の私たちにとってはその「怒り」の根源をあらわしてくれるような気がした。

●「とおくまでいくんだっちゅうの」原告意見陳述集から
 一九九九年二月末、ココロ裁判原告(当時一七名)は、法廷において約二年にわたってなされた原告全員の意見陳述をパンフレットとしてまとめ、売り出すことを決めた。その時期が、まさか広島県教委の職務命令体制による、一人の校長の自殺者を生んだ時と重なるなどとは、思いも寄らなかった。私たちとしては、原告一七名で裁判に打って出たとはいえ、この北九州状況を変えうるなど期待もできないことであり、とにかく発信し続けるしかなく、結果のみを予想すれば北九州の中でこの「君が代」処分問題は収束し、原告の存在すら跡形もなくなってしまうのかなという悲観さえあった。校長の自殺がセンセーショナルに報道され、あっという間に法制化の声が聞こえ、そのシナリオは貫徹された。が、これに危機感をもつ多くの人たちが、行動を起こした。そして、原告一人ひとりがなぜ処分を背負ってまで「着席」という行動をとったのかをとつとつと綴った「とおくまでいくんだっちゅうの」は一〇〇〇部完売した。この反天連ニュースにも『書評』で取り上げられ、ノンフィクションライターの田中伸尚氏がこれを見てパンフを手にされ、かの「岩波新書」でココロ裁判を紹介されるに至り、その波及効果で全国のこれまで結びつくことのできなかった関係が、縦横に繋がっていった。そのとき既に「法制化」は終了していたが―やっぱり、私たちはとおくまでいくんだっちゅうの!

●少数者の人権の重みを見せつけていこう
 昨年、ココロ裁判に二人の原告が加わった。一人の女性は、これまで「日の丸・君が代」への反対の意思はもっていたものの、敢えて「着席」することはなかった。が、広島の校長が自殺したことに衝撃と怒りを押さえきれず、一九九九年春の入学式で静かに着席で抵抗し、市教委より厳重注意処分を受けた。そして、一年ほど考えたあげく、ココロ原告に加わった。その彼女が、今年は我が子の入学式に際し、「子どもの良心の自由」の保障を求めて、果敢に、地域へ、学校へ、市教委へと行動を起こしている。
 もう一人の男性は、昨年校長の露骨な「起立して歌え」との職務命令に従えないとして座ろうとしたが、座れなかった。このことの自責と校長への怒りが彼を原告に加わらせた。処分こそ受けていないが、これからもその意思を確かめ続けたいという決意の現れだ。
 ココロ裁判の第一七回弁論において、大法廷の原告席にずらり所狭しと並んだ一九名の原告を前に、被告北九州市教育委員会は焦りを隠せなかった。権力が恐れてきたものが何であるかが一目瞭然である。一人の例外をも許さず、「異議申し立て」をおさえつけるための「君が代」処分であったはずが、法制化後、新たな異議申立者を生んだのである。本人訴訟で代理人に依らず、裁判所の権威をものともせず、自分たちのココロを自分たちの言葉で示しながら歩みをすすめてきたココロ裁判の過程で、被告北九州市教育委員会は自らの蛮行を思い知らされるに違いない。私たちは裁判所に判断を仰ぐものでなく、判断を迫り続ける。

●「目には見えないけど、だれにでも守りたい大切なものがある」
 今年二月一八日、卒・入学式を前にして集会を行った。十数年継続してきた北九州市での市民集会だが、改めて「知ろう! 日の丸・君が代 語ろう! 私たちの自由」と題して、一昨年、法制化前に卒業式の日の丸掲揚中止を提案して、外部からの圧力で取りやめさせられた下関市立大学下山学長、一九八七年福岡市長尾小学校でのゲルニカ事件の当事者である高宮由美さんの話を聞いた。久しぶりに一五〇名以上の参加者があり、顔ぶれも新しく、講演の後も議論が続く熱気のあるものとなった。
 それは、なぜか。話をされた二人とも、何が何でも「日の丸・君が代」絶対反対を突っ走ってはいない。下山学長は、一旦上げざるを得なくなった「日の丸」掲揚問題をきっかけに、大学の内で外でと、自らの思いや日の丸・君が代の意味を知らせ、伝えていくことに力を注いでいる。
 また、ゲルニカ事件から一四年、最高裁まで争い敗訴の結論も経た上で、「君が代を歌えません」と発言し着席した行動を、永い沈黙の中で自らの内面へ問い続けてきた高宮由美さんの言葉は、参加者の心を惹きつけた。「今でも、日の丸・君が代に反対という、確固たる意思があるわけではないんです」「でも、日の丸におじぎもしないし、歌うこともしない。ただ、敢えて座るという行動ができるかどうか分かりません」と、「確固たる意思」を持たないことを語ることに躊躇いのあった由美さんであるが、今でも「日の丸・君が代」を語るには、校長らからの説明もなくゲルニカを自分たちの手ではがすことを求められたことへの「怒り」を思い出してしか語れないということであった。そして、「君が代」のときに座ったこと、「歌えません」とまで発言したことは、「ゲルニカという守りたいものがあったから」であり、「だれにでも目には見えないけど守らなければならないものがあるはず」と確信する。北九州市教委においてさえ、「人権は絶対であり、内心の自由は保障される」との言葉が重みもなく飛び交う。由美さんの言葉に比してみれば、「ウタ・ハタ」だけが儀式の中で尊重され、それを見上げ歌えない人のココロは抹殺されてきたこの北九州市の教育現場では、あまりに空しい「人権」という言葉である。
 本ニュース前号で駒込氏は、現在の状況を「精神の戒厳令」(作家山口泉氏の言葉)と称した。これをうち破るために必要なこと、それは歴史認識の上に戦争の史実を想像でき得る思想であり、その思想は「目に見えない大切なもの」を守るために「怒り」を「行動」へと突き動かしていくエネルギーであり、このことこそ、今、育まれなければならない。私は、二〇年「日の丸・君が代」にこだわり続け、「気づいたら法廷で発言していた」のだ。(『反天皇制運動PUNCH!』6号、 2001.4.11号)











憲法を活かすことと守ること

中北龍太郎●弁護士・関西共同行動

(『反天皇制運動PUNCH!』6号、 2001.4.11号)

●活かすか壊すか
 『憲法を活かそう―人権を守る裁判から』(日本評論社から四月出版予定)の執筆に追われていて、依頼されていた原稿が大幅に遅れてしまったことを冒頭お詫びします。
 出版予定の本は、私が弁護士生活二五年の中で関わってきた政治的・社会的事件を取り上げ、憲法と現実との矛盾の中で、当事者・支援者とともに、憲法を活かそうと悪戦苦闘してきた裁判の記録である。
 国や企業の力を後ろ盾にした悪政や人権無視を目の前にして、私たちが最も頼りにできたのは憲法だった。自衛隊の海外派兵、表現に対する規制・抑圧、死刑制度、国と宗教の癒着、日の丸・君が代問題、外国人登録法、環境破壊、市民運動に対する弾圧、リストラ解雇、地方議会における懲罰処分、戦後補償、住民訴訟などどの裁判でも、最後には憲法で対抗するしかなかった。その意味では、現場ではどっこい憲法は生きている。
 憲法は、あの忌まわしい戦争の時代はもう二度とあってはならないという反省と決意に立って、命を大切にすることを何よりも重んじている。非武装平和、人権、民主主義の憲法三原理の底には、この命の思想が横たわっている。この心を活かし、憲法の各条項を実現していくことが、戦後日本の課題だった。
 しかし、政府と議会は、裏切り続けてきた。武装国家から派兵国家へ、国権優先・人権無視、民意無視の政財官癒着の退廃政治。憲法を無視してきたあげくの果てがこの現状である。国の憲法蹂躙に対して、市民は様々な場で抗い、また憲法実戦に力を尽くしてきた。憲法を破壊するものと憲法を活かそうとするものとの対抗が、戦後政治の一つの大きな軸であった。
 この両者の力関係が、様々な要因と絡み合って、憲法状況をかたちづくってきた。優位に立ってきたのは、いうまでもなく憲法蹂躙派である。その結果、あってはならない違憲の現実がいつしか平然と大きな顔をして居座るようになってきた。この現実から改憲の動きが次第にのさばるようになってきたのだ。

●改憲の狙い
 昨年五月三日、読売新聞社が発表した「第二次憲法改正試案」は、「国の安全や公の秩序」を理由にした人権制限、「自衛のための軍隊」の明記、緊急事態条項の新設などを盛り込んでいる。
 本来憲法の「公共の福祉」は人権相互の調整原理なのだが、解釈改憲で、国の安全や国の都合で人権を締め付けるのを正当化する用語にすりかえられてきた。この「試案」はこの現状をさらに国寄りにして、民の権利を締め上げようとするものだ。九条の改憲条項も、現状を追認した上で、戦争のできる国づくりをさらに推し進めようとするものだ。世界有数の軍隊に成り上がり海外派兵法を手にした自衛隊は、次の課題として有事立法の制定に照準をすえている。「試案」はそれを先取りして改憲案の中に盛り込んでいる。
 昨年暮れ自民党橋本派が発表した「憲法改正」案は、集団的自衛権を盛り込むとともに「試案」と同じ緊急事態条項を打ち出している。これらの案をみても、九〇年代における海外派兵、米軍への戦争協力体制を一層拡大強化していくことが改憲のもくろみであることは明らかだ。
 改憲の最大の狙いが、憲法前文と九条にあることはもはや疑いない。
 周辺事態法の制定で、安保再定義に基づく戦争のできる国づくりは一サイクルを終え、その土台の上に、この法の下での実戦化と新たな有事立法で、戦争発動一歩手前まで突き進もうとしている。折から、ブッシュ新政権は日米軍事同盟の飛躍的強化を求めてくることが確実視されている。政権側の改憲熱はいやがおうでも高まってくるだろう。改憲の動きを止めない限り、平和憲法(憲法前文と九条)が瀬戸際に立たされることは必至だ。
 確かに、政権側には、戦争のできる国づくりを完成していくためのもう一つの選択肢として、解釈改憲という手段がある。今政府が踏み込もうとしている集団的自衛権の行使は、これまで数十年にわたって政府自ら表明し続けてきた見解に反している。この見解を変えるのはもちろん無茶苦茶だが、歴代政府はそんなことでも強引にやってきた(政府によれば、自衛隊は軍隊でも戦力でもないということになっている)。またそんな常套手段を踏襲するのだろうか。
 憲法調査会を設けて改憲を政治の表舞台に押し上げてきたのは、そんな戦後政治を総決算し、明文改憲で一気に、強い国と国をなによりも大切にする政治・社会を作りたいという野望である。こんな強権的な政治手法が登場してきたのは、日本の経済・政治・社会全体にわたる危機の深まりと密接に絡んでいる。株価は最安値を更新し続け、不況・倒産・失業の悪循環の出口は全く見えない。利権政治に市民の絶望感はますますつのっている。この危機の処方箋として支配者の差し出すメニューは、偏狭なナショナリズムだ。市民に犠牲を強い、その怒りを差別と排外主義に転化し、強い国づくりへの奉仕に振り向けさせ、いざとなれば戦争を発動する国家へ変態させる、それが改憲派の描く二一世紀・日本の未来像だ。明文改憲が浮かび上がってきたもう一つの要因として、このような強権的な国家に国民を統合していこうという思惑が働いていることを無視できない。改憲案の中に、天皇元首化、人権制限・国への義務の拡大、首相公選制など強い国家を志向する条項が盛り込まれているのも、そのためである。

●今、憲法の意味を問う
 これまでの憲法破壊の累積によって、逆説的に、憲法を守り、活かすことの意味が明らかになってきている。平和憲法が実行されていたなら、日本には基地も軍隊もなく、日本は平和の発信センターとして世界平和に大きな役割を果たしていたはずである。人権条項についていえば、表現の自由が定着していれば、市民の政治参加は進み、民主主義は豊かに開花していたに違いない。生存権の保障は福祉社会を、外国人の人権保障は共生社会をとっくの昔に実現していた。”if“を語りすぎたかも知れない。しかし、平和、人権、民主主義のどれをとっても、絶望的な現状とは比べられないほど希望ある社会を築けたことは確かだ。
 このことは、憲法実践に限らず、憲法それ自体にもあてはまる。戦後初期、戦前を徹底的に総括し、その上に立った自前の構想を創り出し、自ら憲法制定権力となって憲法を誕生させていたならば、天皇制条項を抹消できていたかもしれない。憲法の命を大切にするという原点に徹しきるならば、民衆の命を奪い尽くした天皇制を残すことは背理だからである。だが、これも歴史の”if“である。
 もちろん、問題の多い天皇制があるからといって、憲法を守るということが天皇制を擁護することにはならない。というのは、命を大切にすることを原点にしている憲法にあっては、天皇制は異物であり、この原点を具現化した三原理を実現していけば、天皇制は限りなく無化していくことになるといえるからである。
 憲法制定時の力の弱さが憲法の中に矛盾を持ち込んだように、憲法を実現する力の弱さが、憲法と乖離した現実を招いている。しかし、政府による憲法破壊に抗するひとびとの憲法実践が無駄だったという訳ではけしてなかった。憲法破壊の歯止めとなり、また部分的にしろ憲法を現実化する力となった。だから、これからも、無数のひとびとの憲法にかける思いと行動は、憲法を守り、活かし、根づかせる源泉となるに違いない。

●憲法を活かそう
 憲法蹂躙の体制下で、憲法実現の道ははるかに遠い。政府が憲法を嫌悪し踏みにじっている現状にあって、市民にとって、憲法は圧政への抵抗の武器であった。そうした闘いの中でこそ、憲法は機能し、磨かれてきた。憲法の実現も、道は遠いが、そうした憲法実践の延長線上にあるに違いない。二一世紀の日本のあるべきかたち、その構想も、そこから大きなヒントを得ることができるだろう。
 確かに、憲法には矛盾があり、完全なものでもない。だからといって、性急に憲法改正を唱えるのはどうだろうか。世の中は文章だけで変わるものでもない。実践に裏打ちされていない綱領は絵に描いた餅に過ぎないともいえる。であれば、憲法実践を通じて、憲法を根づかせる努力を先行すべきだろう。こうした憲法実践を蓄積し憲法実現の道を進む中から、実践に裏付けられた新しい憲法構想をつかみとる事ができる。
 こうした憲法力を蓄えることが、直面する改憲の動きにストップをかける力にもなる。改憲の動きに対抗し、改憲案の持っている危険な本質を見破り、憲法の優位性を再確認する作業をやり切ろう。憲法状況が厳しくなっているからこそ、初心に返って、市民の手で憲法を活かし、創造する道を切り開こう。
(『反天皇制運動PUNCH!』6号、 2001.4.11号)











【議論と論考】

〈混合政体〉としての共和主義の再検証

池田五律●反天皇制運動連絡会事務局

 伊藤晃は、天皇が生身に食いこんでいる日本国家から天皇を引き剥がすことは国家を傷だらけにするから共和主義運動は「別の国民国家」を求める運動ではないとして、共和主義をくぐった国民国家批判を提起した(本誌・第1号)。北野誉は、思考訓練としての共和主義に意味があるかもしれないとしつつも、それを「国家像」として語ることには「懐疑的」な立場を表明した(本誌・第2号)。杉村昌昭は、改憲論を右派から奪還することが日本国家を共和制へ変えていく必須条件と述べた(本誌・第3号)。杉村の改憲論奪還論は、北野の「懐疑」をあえて踏み越える提起だともいえる。それは、テッサ・モーリス=鈴木の改憲論議の機会を積極的に使うという提起を受けたものでもある(『反天皇制運動じゃ〜なる』第37号)。
 状況的に改憲論奪還論、積極利用論が妥当か、というのも重要な論点だが、本稿では、共和主義に即した提起をしたい。
 共和主義は市民革命期、君主制と鋭く対立した。現在でも、オーストラリアの英連邦離脱をめぐる国民投票など、国家(国民)的アイデンティティの創出と関連して、アクチュアルな問題である。しかし、旧憲法調査会や日本国憲法制定期の論議だけでなく、植木枝盛の共和国憲法案が君主制を含んでいたように、日本では君主制と共和制が反対語でない思想史が存在する。だからこそ、共産主義が君主制打倒という課題を唯一担う状況、逆にいえば自由主義や民主主義が天皇という帽子をかぶったものでしかなかったという問題があり、故に共和主義の見直しに意義があるともいえる。だが、フランス革命の批判的検証を通して生み出された保守主義は、自由を守るにも君主を存置するという、共和主義と君主制を反対語としない理論を作り出した。それは、アナーキズムとともに、ジャコバン独裁という共和主義的専制への反省に根差すともいえる。そして、共和主義は忘れられていく。
 ところが、ここ四半世紀、共和主義の見直し論議が活発化している。その一つが歴史修正主義(右翼と限らない)からの提起である。それによれば、近代において、古代ギリシャ以来の共和主義のパラダイム・チェンジが起きたという。アリストテレスは、君主政、貴族政、民主政の三形態の政体とその堕落形態である専制、寡頭制、衆愚制の六政体の繰り返しとして、政治史をとらえた。この堕落を免れた共和政が存立するには、公共善が実現されねばならず、そのためには私益でなく公共善を担う資質=徳を備えた公民の存在が不可欠である。近代の共和主義は、規模が国民国家に拡大する故に直接民主主義は成立しないという矛盾を抱えつつも、そうしたポリスをモデルとする。と同時に君主政、貴族政、民主政の「混合政体」を堕落を免れる政体とした。そして、公債発行で赤字財政を招き官職・栄典を乱発した十八世紀イギリス(今の日本!?)を批判したアダム・スミスらは、そうした意味での共和主義者だった。また、「混合政体」が変容される形でアメリカは国家形成された。以上を踏まえるならば、非公民の排除、私益を優先しない条件=一定の財産を公民資格とするといった問題だけでなく、「混合政体」との関連でも共和主義は再検証する必要がある。
 現実政治でも、レーガンは共和主義的レトリックで「強い国家」への支持を獲得した。一方、その「小さな政府」、市場化の徹底、新自由主義の正当化のために、自己決定権の尊重というリバータリアンの言説を利用した。加えて、不平等に対抗したコミュニタリアンの中にも、ナショナル・サービスを是認する者もある(日本のボランティア義務化論とも通じる)。こうした中で、非保守的な多元的トクヴィル型共和主義の現代版を提起する者も現れている。イギリスでは、サッチャーの新自由主義的政策により、斎藤純一のいう「三分の一」社会化が生じた。テッサは、王室はそうした政府への批判をそらす役割を果たしたという。それに止まらず、「聖女=ダイアナ」は切り捨てられた人々を「救う」者という統合機能を果たした。「混合政体」は生きている。斎藤は天皇の統合機能の弱体化を指摘するが、「聖女=ダイアナ」同様の機能を果たすものとして、「三分の一」社会化故に天皇制の強化が図られることもありえよう。一方、共和主義的レトリックを用いた首相公選論も台頭している。それらが現在的な日本型「混合政体」の再編として展開されている。そうした批判の視点も必要ではないか。
 いずれにしろ、欧米の論議の文脈を無視した自己決定権を市場での自己責任に短絡させ、「共同体」や「共和」の単位を国家に安易に結びつけ、政治思想の読み直し(の方法論)を御都合主義的に利用する改憲派(ポーコックの『徳・商業・歴史』をもじった『市場・道徳・秩序』を出世作とする坂本多加雄はその典型)に対して、偽称という批判だけでは弱い。その批判において、テッサのいう「市民自体に国家体制を決める権利」と伊藤のいう「自分たちのことは自分たちで決定し執行する権利」との差異は、北野の懐疑と杉村の改憲論奪還論の差異とも重なり、重要論点となろう。私は、国家単位の「共和」は懐疑しつつ、伊藤のいう権利を考え続けたいと思う。
(『反天皇制運動PUNCH!』6号、 2001.4.11号)











「米海兵隊削減・撤退」要求と新しい米軍基地づくり
「軍隊で民衆の安全は守れない!」4・1集会

天野恵一●反天皇制運動連絡会事務局

 昨年の那覇市長選(11日)に次いで2月の浦添市長選も「革新」候補は負け、軍港建設反対派は後退し、「革新王国」と呼ばれた沖縄は崩壊に向かっている。「伝統的保守地盤の糸満市以外はすべて『革新』系市長であったが、現在では那覇市、沖縄市など五つの市で保守系市長となった」と遠山洋は、沖縄レポートを書いている(「浦添新軍港建設阻止は正念場へ」『飛礫』2001年春、30号)。そこには、自民党まで含めた議会中心の海兵隊の削減・撤退要求と地位協定改定要求の大きな動きについてふれつつ、こう論じられている。
 「これらの動きを推進する中心部分は、名護市辺野古沿岸域への新巨大基地建設、さらに那覇および浦添での最新の大軍港建設攻撃について、ひとしく無関係のもののごとく装い、沈黙を決め込んでいる。それは連合沖縄も同様だ。/この二つの巨大軍事施設は、いずれも海兵隊が主要に使用することが前提になっている。ほんとうに海兵隊の削減・撤退を要求するならば、同時にこれら巨大基地の建設にも反対し阻止すべく行動しなけらばばらない。それが道理というものだ。」 運動の原則論からすれば、そういうことだろう。連続する米軍犯罪に対して県議会は、初の海兵隊削減の全会一致の決議(1月)をし、稲嶺県知事も削減と訓練の移転を日本政府に要求するという状況をふまえてのこういう主張もある。 「海兵隊の半数は6カ月ローテーションで来る部隊であり、沖縄で行われている訓練をグアムに移すことを米軍自身が検討を開始している。昨年以来米国政府の内部でも沖縄から海兵隊を他地域に分散するべきだとする声があがっており、ブッシュ政権はそのような論客を政策スタッフに登用しつつある。在沖海兵隊司令官が部下の司令官達にへのEメールのなかで、県議会の海兵隊削減決議を止めなかった稲嶺知事などを『ばかな腰抜け』と書いたのは、このような動きに対する危機感の表れでもある。今ほど海兵隊を沖縄から追い出す好機はないと私は考えている。普天間基地のヘリ部隊のローテーションで配備される部隊であり、訓練がグアムに移ることになれば必然的にその一部がグアムに配備されることになる」(伊波洋一「今こそ、海兵隊撤退の運動を!」『戦争協力を拒否し、有事立法に反対する全国FAX通信』2001年3月21日、10号)。
 運動(基地反対の)の力はダウンしてきている今、状況的には(主にアメリカの転換の可能性の拡大によって)、海兵隊を削減・撤退させる最大の「好機」がおとずれている、というのだ。
 3月12日、幹部自衛官の女子中学生への「性暴力」事件が発生。米軍のみではなく、軍隊・基地そのものの恐ろしさを、あらためて問題にし出した沖縄から、私たちも参加している「沖縄の反基地闘争に連帯し、『有事立法』に反対する実行委員会」(新しい反安保実V)は、県会議員伊波洋一を招いて、4月1日に「軍隊で民衆は守れない!」集会とデモ。
 伊波は、95年以来の反米軍基地運動のもりあがりが、アメリカに沖縄の状況に注目させる状況を作り出し、日本政府も一応、沖縄側の要求を無視するわけにもいかず、公的にアメリカに沖縄の主張をつたえるようになった。この力がいま、プラスに作用しているということを力説した。
 アメリカ側は、すでに海兵隊を減らす方向で動きつつあるが、日本政府には米軍を沖縄に多く留めておきたい意思があり、沖縄県政などの意思は伝えるが、自分たちが海兵隊削減へ向けて積極的に動かない。こういう状況ではないかというのだ。 基地(軍隊)の存在が必然的に、兵隊の「犯罪」を作りだすと主張してきた、基地反対派議員とちがって、自民党などの、基地容認派の議員は、「綱紀粛正」の兵隊教育で、「犯罪」は抑えられと強調してきており、続発する「犯罪」に、私たち反対派議員以上に、怒りをあらわにせざるをえない方向においこまれて、「削減」で基地反対派と一致したのだと、彼は説明した。この状況はチャンスなのだと。新基地づくりの現状(もちろん彼もこれに反対している)と海兵隊減少の可能性を彼は、相対的にわけていると思える発言であった。
 集会前日(3月31日)に、私たちは彼との交流会を持った。日本政府に海兵隊撤退へ向けてアメリカと交渉するように働きかける運動を「本土」でつくりだしていくのは私達の任務であることは、それなりに自覚的なつもりである。しかし、新しい強力で合理的な米軍基地が沖縄につくりだされる事態にベールをかけ、基地・軍隊への当然の怒りや反発のエネルギーを、少し海兵隊を減らすことのなかに吸収してしまう構造に、いま沖縄の状況はなっていないかとの疑問を私たちはかかえていた。 私は率直に、その点を質問してみた。
 SACOの決定の実施すら、ほとんどできていない状況で、実は名護の新基地づくりなどは、ジュゴンの存在が確認され、自然環境の問題でのクレームも大きくなっていることに象徴されるように、本当のところはリアリティをうしないつつあるのではない。そう語った後、彼は、〈安保体制全体の問題の解決を、沖縄だけで担えという要求を出されてもね、そして、海兵隊がかなり削られるということが現実のものになれば、それは、今、力が弱くなっている大衆運動自体にもプラスの方向へ転ずる契機になり得ないだろうか〉。そんなふうに語ってくれた。 私たちが、危惧を表明しているだけでは、まったく沖縄の運動の力をあてこんだ主張になってしまうことに、私は、改めて気づかされた。 新しい一括法案としての「有事立法」問題も浮上し出している。私たちは、「有事立法」に反対する反安保行動をつくりなおすことで、沖縄の反基地の運動への具体的な「連帯」の通路を、さらに模索していくしかあるまい。
(『派兵チェック』103号、 2001.4.15号)

【言葉の重力・無重力】(14)

戦争のなかの文化遺産
「タリバーンのバーミヤン大仏破壊」報道を読む

太田昌国●ラテンアメリカ研究者

 バーミヤンの石窟と大石仏は、篠山紀信などの写真を通して何度か見ていた。もちろん平山郁夫の絵も、本で眺めたことはある。一方は高さ55メートル、他方は38メートルのふたつの巨大な大仏像の姿もさることながら、800メートルもの距離をもって左右に離れた両大仏の間を埋める石窟という、まったく既視感の感じられない物珍しい全体像が、バーミヤン渓谷の風景のなかにごく自然に溶け込んでいる様子が印象的だ。この風景に対する関心は、ここを、アレキサンダー大王が、玄奘三蔵が、ジンギスカンが通ったのだという、歴史の途方もない厚みへの思いも重なって、大きかった。
 それでいて、ふとアフガニスタン内戦の現実に引き戻されると、かつて僧侶たちが住居としていた岩山の中の僧房が、難民の住まいとなっていることを伝える写真もあって、いまの現実を生きるしかない人びとの生活上の必要条件と「文化遺産」との親和性が感じられて、悪い気はしなかった。だが、それは当然にも戦乱の悲劇を物語るものでもあって、大仏の足元が弾薬庫と化し、むき出しの砲弾がびっしりと積まれている写真が私の目をうった。これが、1979年の旧ソ連軍侵攻に始まって現在に至る20年有余の歳月において、人口2000万人のこの国で、死者150万人を出している戦争の現実なのだ。
 アフガニスタンの「イスラム原理勢力」タリバーン最高指導者モハマド・アマールが、「偶像崇拝は認めない」として、仏像や彫像を破壊する布告を発令した今年2月末以降、国際社会にはこれを厳しく非難する言論が溢れた。タリバーンは、バーミヤン渓谷を占領した1997年にも大仏爆破を予告したのだったが、この時は世界的な非難を前に撤回した。だが今回はちがった。3月中旬、爆破時の噴煙に包まれる石窟や、爆破された大仏像の残骸の、無惨な姿が報道された。国際的な非難の声はさらに強まった。「歴史への理解 カケラもなし」「大仏こわし世界から非難:イスラム教信じる集団の一つ」。シルクロード好きな日本社会を覆ったタリバーンに対する雰囲気は、こんな新聞の大見出し文字に象徴されているように思える。 侵攻ソ連軍がアフガニスタンから撤兵して5年を経た1994年、この国に突如現われ実効的に支配しているタリバーンの政治・宗教思想に、私は何の共感も持たない。タリバーン主導による人権侵害や女性に対する徹底した差別と暴行も、おびただしい例が報告されており、それを読むことは心理的に苦しいほどの内容に満ちている。今回のバーミヤン大仏像の破壊も愚かな行為だとしか言いようがないことを前提としたうえで、だが果たして、文化遺産破壊というレベルでの批判を行なうだけでいいのかという問題を考えてみたい。
 文化遺産や美術品の破壊と略奪は新しい現象ではない。新大陸に行ったスペイン人たちが、インカやアステカの文化遺産をどう扱ったかを思い起こしてみればよい。大英博物館なるものは、エジプトのファラオのミイラやギリシャ・アテネのアクロポリスの丘にあるパルテノン神殿の大理石装飾をはじめとして、大英帝国時代に旧植民地から奪い去ったり何人かを篭絡して買い取った「文化遺産」を大量に所蔵していてはじめて、その「権威」を保っている。19世紀末から20世紀初頭にかけてまとめられたハーグ条約は、文化施設、歴史的記念建造物、美術品を「計画的な奪取、破壊、損傷」から保護することを決め、多くの国々がこれに調印したが、人間に対する暴力・殺傷行為が「戦争」として公認されている以上、国を挙げての戦争行為の「武器」あるいは「盾」として下位に従属するほかはない文化遺産が、ひとり無傷でいることなどありえないのだ。
 遠い時代の話ではない。ナチスによる文化遺産の破壊と美術品の略奪、それに対して「勝利した」ソ連による報復的な略奪の、恐るべき実態については、アキンシャとコズロフの『消えた略奪美術品』(新潮社)が詳しく明らかにしている。われらが足元を見て、明治新政府の神道国教化政策の下で行なわれた廃仏毀釈や、朝鮮と中国で行なった美術品や書籍の大量略奪などを忘れるわけにはいかない。米国務長官パウエルは、タリバーンの所業を指して「人類に対する犯罪」と呼んだが、1960年代から70年代にかけて己の国が行なった対インドシナ戦争において、ベトナムのチャンパ文明の遺跡やカンボジアのアンコールワットなどを危機に陥れた責任を自覚することもないままに、他者を非難することがどうして出来ようか。パウエル自身が責任をもつ時代で言えば、イラクのシュメール文化の遺産、バビロン遺跡、アッシリア帝国の遺跡などを一部にせよ破壊した多国籍軍によるイラク全土への空爆と地上戦を思い起すだけでよいのだ。また、イスラエル軍による聖地エルサレムのアル=アクサ・モスクの破壊が、どうしてバーミヤン破壊と同じ世界的な関心と非難を呼び起こさないのかという疑問が、私たちの心には生まれる。ここでもまた、何を非難し、何を暗黙のうちに認めるかをめぐる二重基準が作用している。 しかも米国はタリバーンの誕生と発展に、アフガニスタンに侵攻した旧ソ連と同等の責任を負っている。米国がソ連封じ込め戦略のためにイスラム原理主義勢力にテコ入れし、ソ連崩壊後は石油・天然ガス権益確保のためにタリバーンに肩入れしたことは周知の事実だ。タリバーンが急速に勢力を拡大し、米国の思うがままにはならなくなった時に、タリバーンは米国にとって「国際テロリスト」となった。そして国連の経済制裁を受け、民衆は餓死線上をさまように至っている。 それにしても、人びとの生きる現実には無関心なまま、遺跡の保存のためだけには涙を流す連中が、世の中には何と多いことだろう! それこそが問題の本質である。タリバーンの一幹部は、ユネスコなどがバーミヤンの石仏を保護・修復するために資金提供を申し出た際に「彫像に資金を費やす代わりに、食糧がなく死んでいるアフガニスタンの子どもたちをなぜ救わないのか」と怒ったという。アフガニスタンの現状をもたらしたタリバーン指導部の責任は大きいが、この言葉は真実の一端を突いている。パキスタンとアフガニスタンで医療活動を続けるペシャワール会の医師、中村哲は言う。「我々は(タリバーン)非難の合唱に加わらない。餓死者百万人という中で、今議論する暇はない。人類の文化、文明とは何か。考える機会を与えてくれた神に感謝する。真の『人類共通の文化遺産』とは、平和・相互扶助の精神である。それは我々の心の中に築かれるべきものだ」(朝日新聞2001年4月3日付夕刊)。「本当は誰が私を壊すのか:バーミヤン・大仏の現場で」と題されたこの文章は、事態に関わる無数の報道のなかで、いちばん私の心を打った。
*前号の「李東輝」を「李登輝」に訂正します。
(『派兵チェック』103号、 2001.4.15号)

【反天運動月報】(6)

「自己陶酔」史観教科書の登場
「今日的価値観」をふまえて過去の歴史を考えよう

天野恵一●反天皇制運動連絡会事務局

 三月二〇日の「女性国際戦犯法廷」報告集会(主催VAWW―NETジャパン)には、やはり十数人の右翼が押しかけ、脅迫的行為(入口で入場を止められた時の暴行も含めて)を長時間(集会が始まる以前から終わるまで)くりかえした。公安警察は、ほぼなすがままに放置。もちろん集会は、この妨害をはねのけ、キチンと持たれた。
 右翼グループは、しきりと「勉強しろ。マルクス・レーニン主義狂信集団、反日の目をさませ」だとかの非難を会場入口ふきんにたむろして、くりかえしていた。この間、彼らの主張は、右翼天皇主義・国家主義者であると自己主張するのではなくて、自分たちは、イデオロギーから離れた、公正で客観的な主張をしており、自分たちが非難している対象こそが、イデオロギー的偏向だというスタイルのものになっている。このスタイルは「自由主義史観」派登場以来のものといえよう。
 四月四日の新聞各紙は、三日にこの「新しい歴史教科書をつくる会」の中学の歴史と公民の教科書が、検定の修正をした後に合格したことをつたえている。「自由主義史観」=「新しい歴史教科書をつくる会」などの右翼グループの機関誌となっている『産経新聞』の一面には、中西輝政の以下のような主張がある。
 「まず率直な印象として、あれほど一部の人々が未公表の段階で騒ぎ、論議を集めたのに、修正を経て出来上がってみると『普通の教科書』ではないか、ということである。/これは、それだけ従来の歴史教科書がとても普通ではない、深刻な問題をはらんだものが多かったということだ」。
 「つくる会」の会長西尾幹二は、『朝日新聞』(四月四日)の「私の視点」で、こう語っている。
 「私たちの教科書は自虐の克服だといわれたが、むしろ『非常識』の克服であったと考えている」。
 「私たちは一つのイデオロギーに囚われるのではなく、イデオロギーに囚われた従来の一切の単調な歴史に反対するものである」。
 こういう口調を、脅迫右翼たちも、まねているのだろう。『産経新聞』(四日)には、こういう記事もある。
 「だが、森首相は昭和五七年、検定で『侵略』が『進出』に書き換えられたとマスコミが報じた『教科書誤報事件』で韓国に関係修復の特使として派遣され、相手国の批判に本音とタテマエがあるのを見ている。あくまで検定制度を守る姿勢を貫いた。/森首相は三月七日、国会内で自民党の若手議員らに『君ら若手ももっと中韓の国会議員と親しくなって率直に話し合える相手を見つけ、パイプをつくりなさい』と話した」。
 「天皇を中心とする神の国日本」というイデオロギーに立つ森善朗首相らの国家のトップにこの教科書がバックアップされたことに、いたく満足しているのだ。
 『朝日新聞』(五日)には、教科書(中学公民)の検定で、国旗・国家法が学校行事への「日の丸・君が代」の強制につながる懸念について掲載しようとした出版社のものが、その記述の部分が削られたとレポートしている。文部科学省はその理由を、「一般に法律は強制力を持つものであり、法律の強制をあやぶむという文章はおかしい」と説明しているらしい。
 ほんとうにフザけた話である。法制化は強制を意味しないと、政府が主張し続け、この法律は成立したのである。こういう詭弁のスタイルは、学校の卒業・入学式に抵抗する教師への処分をふりかざしての、「日の丸」一〇〇%へ向けた強制を展開している、文部科学省―教育委員会の動きと対応しているのだ。その記事には、こういう弁明もある。
 「同省教科書課は『法の強制力は一般論として言った。君が代を歌うことなどを強制するという意味ではない』としている」。
 それだったら、具体的に「強制をあやぶむ」という主張は何もおかしくないではないか。事実として、法制化によって強制が全国的に拡大強化されているのだから、本当は「あやぶん」だり「懸念」したりどころの話ではないのだ。フザケルナ!
 「つくる会」の教科書は、新聞の紹介だけでも、基本的な事実をも無視した、国家主義イデオロギーに満ち満ちたものにすぎないことはよくわかる。鹿野政直はこう批判している。
 「全編にわたる基本的性格は、意識を国家に一体化させるための誘導と、社会運動や思想弾圧に関する記述が少ないことなどに表れる民衆の歴史の黙殺だ。『国体』中心の『自己陶酔史観』が貫かれていると言ってよい」(『朝日新聞』四日)。
 この「自己陶酔史観」の排外主義イデオロギーの性格は、強制しないといって強制し、強制はあたりまえといって、それほど強制はないとしてみたりの文部科学省の詭弁のスタイルに、にている。私たちに「常識=普通」だといいながら、右翼国家主義のイデオロギーを押しつけるのであるのだから。
 佐藤学は、この教科書を、以下のように批判している。
 「イデオロギー色の強い教科書が現場に持ち込まれることで、教師や保護者、生徒から問題視したり反発したりする動きも出るだろう。教室の場にイデオロギーや政治的対立による混乱が持ち込まれることを憂慮している」(『朝日新聞』四日)。
 こういう批判には首をかしげざるをえない。「イデオロギー」とは政治的価値判断ということであろう。だとすれば、社会に政治(イデオロギー)的対立は現に存在するのであり、教育の場もまったくの真空の脱イデオロギー(公共=客観)空間などではありようもないではないか。歴史の基本事実をも無視しようという「つくる会」の教科書の姿勢を批判するのは当たり前だが、イデオロギーの対立を排して、というインチキな「イデオロギー」をふりまけばよいというわけではあるまい。
 テッサ・モリス鈴木は、「つくる会」側の、「今日的価値観」で過去を裁くな、といいながら、恣意的に「今日的価値観」で過去の日本文化を賞賛している論理の矛盾を指摘しつつ、「今日的価値観」をふまえた過去の過ちを裁く歴史教育こそが必要だと力説している。そうした価値観の歴史的限界や可能性を具体的に認識するためにもそうすべきだというわけである。そこで、テッサは、「地域や国家という境界を越えうる空間を創造する」教育という今日的価値を具体的に示している(「『現在の基準』で裁く意味」(『朝日新聞』四月五日)。
 私たちの反天皇制運動に必要なのも、「自国」利害を基軸にした歴史というイデオロギーを越えた、「今日的価値観」であることは明らかだと思う。
 脱イデオロギー的「物語」という国家主義者のプロパガンダに対して、私たちの方が「客観的=科学的」かつ「実証的」だと主張するのではなく、私たちが、どういう「今日的価値観」に立っているのかをこそ、より具体的に明示する運動こそが、さらに目指されるべきではないのか。「日の丸・君が代」拒否の運動も、国旗・国歌をめぐる、歴史的体験をふまえた「価値観」をめぐる闘いである。

(『反天皇制運動PUNCH!』6号、 2001.4.11号)











【書評】

日本人にも問題を突きつける米軍による住民虐殺
呉連鎬著『朝鮮の虐殺――20世紀の野蛮から決別するための現場報告書』
(大畑龍次・大畑正姫/訳、太田出版/2100円+税)

芦澤礼子●米軍人・軍属による事件事故被害者を支え、損害賠償法をつくる会)

 老斤里(ノグンリ)は朝鮮半島の内陸、今は韓国に属する忠清北道永同郡にある村の名前。永同郡は内陸部にあるため、比較的戦火に遭わずにすんできたところという。
 朝鮮戦争中の1950年6月25日、その老斤里で凄惨な悲劇が起こった。 その時、米軍は朝鮮人民軍に対して不利な戦況にあった。永同郡の村々に住む700余名の住民は米軍の避難勧告を受け、避難民となって歩いて移動していた。米軍は老斤里で道路を遮断し、避難民に「鉄道の線路に上がれ」と命令した。言われるままに上がった彼らを待っていたのは……米軍爆撃機のすさまじい狙い撃ちだった。吹っ飛んだ子どもの首、ぐにゃりと曲がった線路。生き残った避難民たちもトンネルに追い込まれ、米軍はそこでまた銃撃をした。死亡者300名余。なぜ軍人でもない普通の住民が虐殺されたのか。人民軍ゲリラ部隊に苦しんだ米軍では、このような命令が出ていたというのだ。「疑わしい避難民はすべて殺せ」と。 本書の著者、呉連鎬氏が老斤里について初めて知ったのは、1994年5月に偶然手にした小説『主よ、われらの痛みを知りたまえ』からだった。この本は実はフィクションではなく、老斤里事件をその直後に知った鄭殷容(チョン・ウニョン)さんが取材したルポだったのだ。月刊誌『マル』の編集者だった呉氏は鄭氏とともに現場検証をし、生存者の話を聞いた。トンネルに残る蜂の巣のような弾痕、母を、子を、兄弟を亡くした人々の慟哭。呉氏はこの取材を100ページの記事にまとめたが、この老斤里事件が世界的に大きく知られたのは、AP通信が大きく報道した1999年9月のことだった。
 ところが、虐殺事件は老斤里だけではなかった。忠北丹陽郡のコケ窟で300名以上、泗川市昆明面で54名、馬山市合浦区鎮田面で83名……米軍による住民虐殺は、老斤里報道がきっかけで次々と明らかになった。朝鮮戦争参戦米兵によると、これは「キラー作戦」という米軍の作戦であったという。 朝鮮戦争休戦後、韓国には米軍が駐留する。駐留後の犯罪もすさまじい。理由のない発砲、暴力による殺人のリストを見ると、その無軌道さに唖然とする。被害者の多くが子どもと女性。3歳の子どもがなぜ、疑われ銃殺されなければならないのか。おびただしい犯罪はすなわち米軍が「韓国人を人間とみなしていない」証拠だと著者は断罪する。
 なぜ老斤里をはじめとする虐殺事件が今まで隠されてきたのか、なぜ在韓米軍は犯罪をやりたい放題だったのか。北朝鮮との対立のなかで、反共「韓米友好関係」が免罪符であったと著者は指摘する。韓国は独立国のはずなのに、戦時作戦指揮権が米軍に隷属し、在韓米軍の地位協定は在日米軍より更にひどい。1960年「韓米行政協定」締結後1998年までの米軍犯罪のうち、韓国政府が一次裁判権を行使した比率はわずか 0.72%、NATOの32%、日本の32%、フィリピンの21%と比べて圧倒的に悪い。 私は「米軍人・軍属による事件事故被害者を支え、損害賠償法をつくる会」のメンバーとして、沖縄をはじめとする在日米軍による被害者の支援をしているが、この活動と韓国の被害者との連携をとる必要性を強く感じた。共に米軍の横暴による被害者なのだ。何の権利があって、他国の人間を踏みつけにするのだろう。著者は「20世紀の野蛮から決別しなければならない」と述べる。まさに米軍の行為は「野蛮」というにふさわしいものなのだ。
 老斤里事件のことを読んで、私が最初に頭に浮かべたのが、ベトナム戦争中の「ソンミ虐殺事件」だった。本書は最後にソンミ事件とベトナム戦争に触れ、特にベトナム戦争に参軍した韓国軍がベトナムで働いた蛮行を深く謝罪している。人間としての礼節をそこに感じる。日本はどうなのか。朝鮮半島を併合し、朝鮮民族の人権を奪った歴史を否定しようとする動きもまさに「野蛮」ではないのか。朝鮮戦争に責任があるのに、知らん顔をしていられるのか。本書はアメリカに問題を突きつけたと同時に、日本人にも問題を突きつけていることを、忘れてはならない。
(『派兵チェック』103号、 2001.4.15号)











『福沢諭吉のアジア認識―日本近代史像をとらえ返す』(安川寿之輔著/高文研)

高橋武智●翻訳者


 「まえがき」によると、本書は@福沢のアジア認識の体系的解明をとおして、日本とアジアののけぞるほどの歴史認識の深い溝を埋めること、A司馬遼太郎流の「明るい明治」「暗い昭和」の二分論を克服すべく、「政府のお師匠様」を自負した福沢を「日本近代化の道のり総体のお師匠様」と位置づけ、一元的に暗い日本近代史像を結ぶことを目的として書かれたそうだが、率直に言って、目標が壮大すぎた感がある。
 というのは、そのためには福沢を批判するだけではすまず、『日本近代教育の思想構造―福沢諭吉の教育思想研究』(一九七〇)以来、著者が課題とする、福沢を肯定的に評価してきた数多くの先行研究、特に丸山真男の所論を批判しつくさなければならないからである。次元を異にする二つの課題をこなすには、おそらく異なる手続が必要だったろうが、著者はありあまる意欲にうながされてペンを走らせたため、著者の旧著も先行研究も知らないぼくのような読者には、しばしば了解が困難であった。
 著者と読者とのあいだで、前提というか、議論の自明性が異なるのだ。この行きちがいが最も顕著なのは、激しいポレミックに終始する序章「福沢研究の七不思議」であろう。
 本論に入ると、1章「初期啓蒙期」、2章「中期:保守思想の確立」、3章「日清戦争期」と時代を追って、福沢の思想のなかでアジアにたいする蔑視がどのように顕在化し露骨になっていったかを、全集からの関連部分の抜き書き(【資料】福沢のアジア認識の軌跡)を参照させながら、具体的に分析している。ところが、福沢の「アジア認識・判断・発言を悉皆的に紹介した」という、この資料編が実は「各発言を網羅しているわけではない」ことは驚きというほかなく、紙幅の関係で触れない他の問題点とともに、本文をより深く正確に読みとろうとする者にとって利用しにくいのは残念である。行論が福沢からの引用を多くふくむ複雑な構成となっているだけに、明晰な丸山の文章とは残念ながら対照的に難解なのも惜しまれる。
 それはともかく、本書をつうじて現れてくる福沢像は、初期は啓蒙家の面影をかろうじて保つが、中期となると、日清戦争の前段階=壬午軍乱・甲申政変ではジャーナリストとして朝鮮・中国蔑視の好戦的論陣をはるだけでなく(『脱亜論』一八八五)、挑発行動にも直接参加しているし、日清戦争期にいたっては、よりショーヴィニスティックになり、天皇の海外出陣までも公然と求めている。
 この本のおかげで、『学問のすすめ』と慶應義塾の創立をのぞき、福沢は思想家としては二流のジャーナリストにすぎないとの確信を強くもったが、アジア認識にかぎっていえば、その姿は、十歳年下の中江兆民が『三酔人経綸問答』のなかで描いた「軍備は各国の文明の成果の統計表です。戦争は、各国の文明の力の体温計です」、「戦争は勇気がもとで、勇気は気がもとです」と言い、「大きな国(中国をさすと考えられる)がひとつあるが、これはよく肥えた大きなイケニエの牛である。どうしてこの半分なり、三分の一をさっさととりにいかないのか」(現代語訳による)と主張する「豪傑君」にかぎりなく近い。いうまでもなく、これにたいし「洋学紳士」は徹底した民主主義・平和主義・小国主義を説き、「南海先生」は日本の直面する困難な状況を強調する。
 もともと白石あたりから始まった蘭学は、鎖国時代の日本にあいた世界認識の小さな窓だった。渡邊華山や高野長英の頃には、英帝国主義による中国侵略の実態もかなり正確にとらえている(アジアの一国としてきわめて正当な危機意識)。ペリー来航と英・仏・露への開国以来、いずれも蘭学から出発した福沢・中江はそれぞれ英学・仏学への道を歩みはじめる。よかれあしかれ、明治の近代化は西洋化、すなわち「入欧」に等置されるが、明治初年の西洋化にはさまざまな可能性がはらまれていた。それが複雑な政治過程のなかで、やがて強引な政府による上からのプロイセン化に収斂されていったのである。
 「思想史的研究」をいう以上、日本における洋学の伝統という長いスパンで福沢をとらえてほしかった。初期に属する『文明論之概略』の終わり近く、
 「今のアメリカは、もと誰の国なるや。その国の主人たるインヂヤンは、白人のために逐われて、主客処を異にしたるにあらずや、故に今のアメリカの文明は、白人の文明なり、アメリカの文明というべからず。この他東洋の国々及び大洋州諸島の有り様はいかん。欧人の触るる処にして、よくその本国の権義と利益とを全うして、真の独立を保つものありや。ペルシャはいかん。シャムはいかん。ルソン、ジャワはいかん。……。シナの如きは国土も広大なれば、いまだにその内地に入り込むことを得ずして、欧人の跡はただ海岸にのみありといえども、今後の成り行きを推察すれば、シナ帝国も正に欧人の田園たるに過ぎず。欧人の触るる所は、あたかも土地の生力を断ち、草も木もその成長を遂ぐることあたわず。甚だしきはその人種を殱すに至るものあり。これらの事跡を明らかにして、わが日本も東洋の一国たるを知らば、たとい今日に至るまで、外国交際に付き甚だしき害を蒙りたることなきも、後日の禍は恐れざるべからず」という箇所(これを圧縮引用した資料編には「パワ・イズ・ライト」というラベルが付されているが、賛成できない)は、洋学の最良の伝統をついだ、アジアの半文明国の危機的な状況認識を物語る。この地点から保守主義へ、さらにはアジア蔑視・侵略へと「自己否定」していった、その契機と過程をこそ、「内在的に」明らかにしてほしかったと切に思う。
 本書のライトモチーフには、アジア民衆への戦争責任の問題が横たわっている。『「文明論之概略」を読む』以外に丸山の諸論文を読んでいないぼくには断言はできないが、丸山の福沢への思い入れ、特に一九三〇年代の「暗い谷間」における『文明論之概略』への思いこみについては理解できるような気がする。一般に広義の戦中世代は被害者意識が強く、自己の体験を対象化することが苦手であることは著者が身をもって知るところだろうが、丸山もまた例外ではありえなかったというのがぼくの答えである。(2001・3・29)
(『反天皇制運動PUNCH!』6号、 2001.4.11号)