2000.6.17  No.29

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目 次




【言葉の重力・無重力】(4)

「現実的とは何か」をめぐる、大いなる錯誤――高良倉吉らの「沖縄イニシアティヴ」を読む(太田昌国)

【議論と論考】

星条旗はためく下に――アメリカの「国旗崇拝」と保守主義(島川雅史)

戦争責任問題の出発点と現在――国主義的意識の中での天皇制(伊藤晃)

沖縄基地づくりの「イニシアチブ」と対決する「民衆の安全保障」国際フォーラムの実現を――沖縄サミットに抗して(天野恵一)

「マサコ懐妊報道」を論議する(3)

〈ご懐妊〉報道がなぜ不敬につながるのか北原恵)

「呼び捨て」への暴行と「雅子さま」報道――右翼による言論への暴力に抗議を!(天野恵一)


ゴラン高原の自衛隊〔再開 その10〕(森田ケイ)

【書評】

安保・有事体制を巡る議論のために
◆『【講演録集】日米安保・戦争責任・反戦平和を語る〜活憲運動の発展をめざして』
◆『周辺事態法 新たな地域総動員・有事法制の時代』(池田五律)

追悼

小田切秀雄を送る(栗原幸夫)

















《言葉の重力・無重力》(4)

「現実的とは何か」をめぐる、大いなる錯誤
高良倉吉らの「沖縄イニシアティヴ」を読む

太田昌国●民族問題研究者

 首相在任中の小淵も出席した「アジア・パシフィック・アジェンダ・プロジェクト」沖縄フォーラム(3月25日〜26日)において、琉球大学の高良倉吉(歴史学)、大城常夫、真栄城守定(いずれも経済学)が行なった提言を読んだ。「アジアにおける沖縄の位置と役割」と題されたその提言には、「『沖縄イニシアティヴ』のために:アジア太平洋地域のなかで沖縄が果たすべき可能性について」との副題が付されている。
 日米同盟を評価する立場から米軍基地の存在意義を積極的に認めたうえで、「日本尽き、アジア始まる」地であると同時に「アジア尽き、日本始まる」地でもある沖縄を、日本とアジア太平洋を結ぶ知的な交流センターとしようと提唱するこの主張については、すでに朝日新聞(5月15日〜17日)で紹介され、沖縄タイムスと琉球新報では賛否両論の激しい論争が続いている(私もすでに、高良らの論旨に対する批判的な文章を両紙に書いた)。この論議は広く共有化される必要があると考え、ここでもう一度触れてみる。
 歴史家としての高良の仕事のすべてを知るわけではないが、いま思えば、彼の単著『琉球王国』(岩波新書、1993年)にはすでに、今回の「イニシアティヴ」に至る基本的なモチーフが見られたと言える。教師としての彼は、学生の次のような思いに直面する。「父母から聞く沖縄の歴史は、いつも苛められてきた話ばかりで、暗い。もっと大らかに生きた歴史を知りたい」。確かに、学生に歴史用語の意味を尋ねると、特設授業のおかげで沖縄戦に関する用語の知識は豊富だが、他の時代についてはまったく無知なことに気づく。いつまでも被害者の視点に拘束されたままでは、県民は卑屈になるしかない、沖縄の歴史の全体像を描くことが必要だと考えた高良は、もっとも希薄な分野である前近代史を解明するために「古琉球時代」を中心に琉球王国の歴史を描いたという。それは、東アジアや南アジアとの「大交易」によって琉球が生きていた時代で、確かに活力に満ちていたように描くことができる(藤岡某が、かの「自由主義史観」を主張し始めた時に引いたエピソードによく似ているが、だからといってこの段階で、高良の論議をその範疇に入れてしまうのは、性急で、安きにつくレッテル貼りだと思える)。
 これに先んじて、NHKテレビの大河ドラマ「琉球の嵐」の監修責任者となって時代考証を担当したのも、同じ思いからなのであろう。一国主義的「日本史」に包摂されない琉球史を確立しようとする志向性には、もちろん、異論はない。ただ、それが「琉球王国史観」とでも言うべきものにしか収斂していかないこと、他方で、「県民の大多数が日本復帰を希求し、やがてその結果に満足したとすれば、歴史家はこの県民世論を背景に歴史像を再構成する義務を負うべきだ」との主張が繰り返され、畢竟歴史の或る一段階のものでしかない「県民の大多数」の意志をそのように絶対化することは、果てしない現実肯定に行き着く場合が多いだけに、大きな違和感を感じていた――1993年刊の『琉球王国』は、私にとって、そんな意味合いに「留まっていた」ことを思い出す。
 その後の高良の論議は、しかし、さらに着実に「進化」を遂げていく。時期を画するのは、今回の共同提案者のひとりである真栄城と琉球銀行監査役・牧野浩隆(稲嶺県政下での現副知事)とで行なった鼎談『沖縄の自己検証』(ひるぎ社、1998年)であろう。「『情念』から『論理』へ」との副題が付されている。私自身は、この問題意識の一部を共有する。民族差別・民族的抑圧に関わる糾弾と告発の厳しさが「討論それ自体を封じ込める」傾向にあることを危惧した私が、日本人(ヤマトンチュ、シャモ)である自分の立場をわきまえつつも、「運動の論理の中で相まみえるために」という文章を書いたのは1986年のことだった。批判者を絶対的な正しさの高処におき、批判される側が、状況と運動の中で可変的であることを無視するような、双方が「情念」で拘束される傾向に、私がやりきれなさを切実に感じていたからである。
 だが、この問題意識を、一部なりとも彼らと共有できたのは、この時点で終わった。「自己検証」から今回の「沖縄イニシアティヴ」へと至る高良らの立論は、琉球の新しい歴史像の構築を志した高良が当初はもっていた慎重な自己規範をすべて解き放ち、現状における「県民の大多数」の意志に寄り添うかのような身振りによって、日本国家が辿ろうとする道を無条件に肯定する地点にまで至った。それによって、軍事基地問題に関しては、北米国家の方針とも、軋轢なく同化することになった。
 彼らは、日米同盟や米軍基地の「存在意義」に関して、かくかくしかじかの理由によって認めるとは、最初からは語らない。「大多数の国民が専守防衛を基本とする自衛隊の保持と対外政策の根幹としての日米同盟を支持しており、その枠組みの中で沖縄の米軍基地が定義されている」という論法を通してはじめて、二国間軍事同盟と基地を肯定する彼らの「提言」が導かれる。自分たち知識人の提言は、従来の夢見る知識人たちの空想的な戯言とは異なり、大衆的な支持基盤に基づいて「責任をもった」対案であることを、言外に誇るのである。
 高良らには、「現実的とは何か」をめぐっての救いがたい錯誤が見られる。自分たちの眼前にあるのが、その構想力においてきわめて貧しい「現実」でしかない時に、ひたすらそれに見合う「対案」を出すことが「現実的なこと」だと彼らは思いこんでいる。いきおい対案は、「現実」と「未来」をますます貧しいものにすることに加担する。国家が、何らかの問題をめぐる選択肢を限定的なものとしてしか示していない時に、私たちが自らの「夢」をその内部に封印してしまうことは、ない。そうでなければ、「現実」批判そのものが、この世では成立しえないのだと告白するにひとしいことになるだろう。◆

◆私は、冒頭に記したフォーラムに際して配布された資料で「沖縄イニシアティヴ」を読んだ。沖縄タイムス紙はその全文を、5月3、4、5、7、8、10、11日の朝刊紙面に連載したので、実際の文章を読みたい読者はそれを参照してください。
(『派兵チェック』 No. 93(2000年6月15日)








《議論と論考》

星条旗はためく下に
アメリカの「国旗崇拝」と保守主義

島川雅史
●立教女学院短期大学教員


1 「市民宗教」としての国旗崇拝
 S・M・グインターは、『星条旗 一七七七―一九二四』(和田光弘ほか訳 名大出版会 一九九七)において、アメリカ合州国における国旗崇拝をナショナル・アイデンティティの構築を目指す政治運動としてとらえ、国旗の成立から市民向けの規定が確立する一九二四年の第二回国旗会議までの経過を「市民宗教」の広布=確立過程として跡づけている。旗という「物」を擬人化して敬礼したり忠誠を誓うという行為は、シンボルに込められた価値意識・思想を崇拝するという意味において、まさに「市民宗教」と呼べるものであった。
 
2 星条旗「信仰」の歴史
 「日の丸」と同様に、合州国国旗の歴史も、所属を示す「船旗」の必要から始まっている。独立戦争の最初期には、邦(State)の艦船旗にはガラガラ蛇をあしらった旗なども使われていたが、一七七七年に大陸会議は新国家の国旗として「星条旗」を決定している。赤白交互の一三本のストライプ(条線)は独立・抵抗を表し、一三の白星は独立一三邦を意味していた。後に州の数が増えるにつれて、一三のストライプはそのままに、白星は州の増加とともに増えることになった。
 合州国の成立とともに、この「抵抗のストライプ」を持つ旗はナショナリズムのシンボルとなり、愛国主義・保守主義の形象となって行く。国旗崇拝のひとつの画期となったのが南北戦争であった。北軍は合州国の正統後継者として星条旗を掲げ、独立宣言以来の自由な国家の存続を戦争目的として訴えた。リンカーン大統領の「ゲティスバーグ演説」は、国旗を死守して八人の軍旗衛兵が戦死したその場所で行なわれている。以後も、米西戦争・第一次大戦など戦争の度に国旗崇拝熱は高められて行く。
 一方、日常社会の中でも、「愛国主義者」が編集する子供雑誌や退役軍人会などを推進力として星条旗「信仰」が広められ、学校教育の場における国旗儀式を主要な媒介として国民の中に浸透して行った。学校では、国旗への忠誠の誓いを斉唱し敬礼をすることが一般化した。星条旗は保守主義・体制同調(コンフォーミティ)のシンボルとなり、ついには、KKKの入団式で「国旗と憲法」に対する忠誠の儀式が行なわれるところにまで行き着く。

3 体制同調の強制
 星条旗という単なる旗は、戦場においては兵士が死守する至高のものとなった。国旗に対する表敬の有無は、体制に対する順応度をはかる「踏み絵」と同様な意味を持った。保守派は学校・一般社会への普及運動とともに国旗冒 禁止の法制化という政治運動を展開し、二〇世紀初頭には州法で国旗冒 を犯罪とする州が現れ、一九〇七年には連邦最高裁がこれを合憲と認めている。第一次大戦中には、親独プロパガンダの禁止とともに、厳しい国旗法がいくつかの州で制定された。国旗侮辱は反政府活動と見なされ、国旗を侮辱する言動までもが罰金刑や懲役刑の対象となった。
 連邦最高裁は引き続き国旗冒 禁止の法制化を支持し、一九四〇年の「ゴビティス判決」では、「エホバの証人」に属する子供が偶像崇拝拒否の信条から学校での国旗儀式を拒否したことに対して、国旗冒 禁止を当然とする判決を示している。理由は、「自由な社会の基礎」は「結合的感情による紐帯」にあり、これを醸成しようとする当局の行為は「正当」であるというものであった。

4 言論・信教の自由
 この保守的潮流に歯止めをかけたのが、一九四三年の連邦最高裁による「バーネット判決」であった。この時最高裁は、同じく「エホバの証人」の子供が公立学校における国旗への敬礼を拒否した事件に対して、三年前とは異なる逆転判決を下した。合州国憲法が掲げる言論・表現の自由、信教の自由からして、「市民に対して、内面の信念を言葉もしくは行動によって告白することを強制する」ことは憲法違反であるとされた。第二次大戦のさ中というナショナリズムが昂揚している時期に出されたこの判決は、その後も判例として定着し、公立学校における国旗崇拝強制の禁止は現在に至るまで維持されている。
 一九六〇年代には、ベトナム反戦運動や公民権運動の中で国旗を燃やす「表現」が多発し物議を醸したが、最高裁はこの「自由」を認めている。保守化のひとつの頂点であるレーガン政権期の一九八四年に、現在の国旗問題につながる事件が起こる。この年、共和党の党大会に際し、G・ジョンソンは核戦争政策に抗議して国旗を焼き逮捕された。彼は、テキサス州法に基づき、「尊敬を受けている物を汚す」行為により投獄され二千ドルの罰金を課された。しかし八九年六月に至って、連邦最高裁は五対四という僅差ながら、「言論の自由」を侵すものとしてこれを覆している。この判決を受けて、同年一〇月に連邦議会は「国旗保護法」を制定するが、ジョンソンやベトナム帰還兵が国旗を焼く事件が起こり、九〇年六月、最高裁はふたたび五対四で国旗保護法は憲法に違反すると判決し、この法律は廃止された。

5 保守派の憲法修正運動
 保守派は最後の手段として、憲法そのものの修正に向けて運動を転換する。一九九〇年の最高裁判決の直後に、議会に国旗損壊禁止法の制定権限を付与するための最初の憲法修正案が提出されているが、この時は上下両院で不成立に終った。九五年には、三一二対一二〇票で下院を通過したが、上院では三票差で三分の二を獲得することができなかった。九七年には下院の通過に留まった。九九年には、三〇五対一二四で三分の二を一五票上回って下院を通過したが、二〇〇〇年三月の上院の票決では六三対三七で四票が不足し、不成立となった。この問題の場合は党派性が比較的明確に現れていて、上記の上院の場合、賛成者は共和党が五一、民主党が一二名、反対者は共和党が四、民主党が三三名となっている。クリントン民主党政権も反対の意志表示を行なっている。
 現在のところ上院における僅差で国旗保護の憲法修正は阻まれているが、これは議員の変心や死亡、改選等の状況の変化によって、将来的には予断を許さない。また、憲法修正案の場合には、連邦議会の議決の次の手続きである州単位の批准段階(全州のうち四分の三の賛同が必要)で難航し廃案となることがあるが、国旗保護問題についてはすでに四九の州議会が連邦議会に憲法修正を求める決議を行なっており、いわば外堀は埋められている。
 憲法修正運動のセンター的役割を果たしている「市民国旗同盟」には、退役軍人団体や宗教団体、女性団体など一四〇の「草の根保守」団体が参集している。「同盟」は世論調査による八〇%の支持を誇って意気軒昂であり、次の機会をうかがっている。一方、湾岸戦争の立役者であるコリン・パウエル元統合参謀本部議長は、個人的には国旗焼損などは愚行と考えるがその行為は非難しても「表現の自由」自体は護るべきであるとして、この憲法修正運動に反対するよう呼びかけている。一時期は戦勝の人気を背景に共和党の大統領候補に擬せられたパウエル退役大将や、コソボやイラクに爆弾を雨下させたクリントン大統領があたかも「進歩派」であるかのように映るほど、アメリカ社会の保守化の度合いは深まっているということである。「連邦議会は米国国旗を物理的に汚すことを禁止する権限を有する」という憲法修正の実現は、三分の二条項によって上院で辛くも阻まれているというのが現在のアメリカの姿である。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.6.10, no.35)













戦争責任問題の出発点と現在
一国主義的意識の中での天皇制

伊藤晃
●千葉工業大学教員

内向けの反米ナショナリズム
 石原慎太郎の三国人発言にはいささか驚かされたが、彼のような排外主義思想が孤立したものでないところに重大な問題がある。
 日本には排外主義を明確にかかげた党派は少ない。ネオ・ナチ的現象は目立たない。ところが同時に排外主義に対する一貫した批判を思想として持つ党派もまた少ない。つまり排外主義は、それをめぐる広い思想闘争を欠いたまま、あいまいな輪郭で国民一般に広がっている。石原はこの国民的なものを刺激し、煽動しているのである。
 石原にはもともとある量の支持者がいる。そして彼らは石原の言動のあくどさをよろこんでいるだけではない。石原が一方で反米発言を売りものにしてきた人物であることに注目すべきである。
 アジア諸国に対する侵略主義・排外主義は、明治以来欧米列強への対抗意識の裏面である。明治日本が列強による外圧からの独立のコースを模索したとき、それは結局、日本が世界を支配する国の系列に加わること、世界を舞台に列強と対抗することに見出された。こうして武士たちの消極的な攘夷論は一個の積極的なナショナリズムに転化して、しだいに国民化したのである。ところが世界を舞台にといっても、それは近隣のアジア諸国を列強と争って獲得すること以外ではない。外圧に向けられるべき独立のエネルギーは、侵略のエネルギーになってアジア諸民族に向けられる。反列強を言うことで、アジア侵略は国民の内面で正当化されるのである。
 そこで石原慎太郎においては、アジアへの排外主義は反米と結びついて特殊な効果を現出することになるが、しかしよく見ると、彼の反米発言なるものは決して腰のすわったものではない。米日関係の本当の根本問題については器用に避けて通る。横田基地について云々する彼が沖縄については何も言わない。かつて石原は『NOと言える日本』という本を出して評判であったが、これを読むとその無内容、アメリカへの「NO」の微弱さに気づく。それにも理由がある。列強と対抗するとはいうものの、相対的に弱い日本は昔から単独ではアジアの盟主になれず、列強のどれかと組まずには成功できない。だから戦後日本は一貫して米国派である。石原もこれをよく承知している。
 そこで、石原の反米ナショナリズムなるものは、正面切った米国向けというより、内向けにナショナリズムを煽動するものなのだが、しかしそれはそれでバカにならないのである。それは国外に出たら何の役にも立たないというものではない。むしろアメリカの世界的ヘゲモニーのなかで日本帝国主義が闘争するための基本的な武器にかかわるものなのである。
 日本は、ことに経済面で外国とのあいだに無数の障壁、いわば目に見えない国境を構え、その内側の強固な民族的一体、労使一体の上に巨大な生産力を築き上げた。これを一国主義と呼ぼう。その成果は世界に出撃するときの有効な攻撃力として働いた。
 一国主義的ナショナリズムもまた明治以来の伝統がある。国内外の情報の出入が限られ、その関所を国家が管理するかたちになっていたことに注目すべきである。民主運動における国境を越えた連帯は作りにくく、国境の外からの批判の声は民衆に届きにくかった。日本国家の国外での行動に無知・無感覚な国民的一体、国民みなで了解し合っている排外主義が生まれた。外国人が国の外から悪をもたらすという石原の煽動は、この排外主義のなかで有効になる。

象徴天皇制を支える国民的心意
 近代日本のこのようなナショナリズムは、第二次大戦後により深化し、高度化されたのではあるまいか。
 日本国憲法=平和憲法は、こんにちまで積極的役割を果たす一方で、日本は悪いことをしない国になったという国民の自己了解をつくり出す役割を果たしたもいえる。それは、まだ未完成であった国民的主体が第二次大戦後に完成される過程の一面である。
 ここで天皇について考えてみよう。戦後天皇制発足時において重要なのは、このころ国民の九〇%以上が天皇の存在を支持していたとされることである。天皇制によって人びとは圧迫されたはずであり、戦争ではひどい目にあったはずなのであった。しかし元凶の天皇に対する憎しみは弱かった。これは強制されたとかだまされたとかいうより、むしろここで国民は積極的に国民的一体とその中心たる天皇を選んだのである。明治以来の国民的一体はまだどこか他律的であった。戦後の国民は、はじめて自分の意志で、一体となって日本を再建しなければならないと思った。「国民の天皇」たるべき近代の天皇は、戦後象徴天皇制において完成を見たのである。首相森喜朗の「天皇中心の神の国」発言は、戦前への復帰というだけでなく、戦後の現実を反映した面もあるのである。
 国民は内部で戦争責任追及をごまかし、それよりも民族的一体維持を選んだ。アメリカの占領政策がこれを助け、敗戦国日本における一体性の保持と解放されたはずの朝鮮における民族分断という奇妙な逆転が生ずる。朝鮮戦争でこの分断が固定化されたとき、一体の日本民族は沖縄を売り渡しながら占領の早期終結を迎えることになった。
 敗戦直後の戦争責任追及は、天皇をはじめとする個々の責任者にとどまらず、日本国家の歴史的行動への批判、さらには民衆の内面に対する歴史的自己批判の遂行にもつながったであろう。それが果たされなかった。国家に率いられて、民衆もまた、大日本帝国の悪を過去の世界に追い払い、国民の内面に対立が生まれるはずがないところの民主化の道に進んだのであった。
 このような国民的心意を戦後天皇は象徴している。これを批判する思想的課題は長く残され、いま私たちはそれを遂行しなければならない。天皇のさまざまな行為への批判はその出発点であるが、このとき私たちは、天皇の諸行為が乗っているところの国民的心意の現在をも批判することになる。皇室外交といわれることの批判もそうである。
 皇室外交の役割はいくつもあるが、そのひとつはもちろん過去の戦争や侵略によって国家間の関係につきささったままのトゲを抜きに行くことである。だからいわば過去を清算しに行くのであるが、それはあくまで現在における日本と当該国との関係を根拠に、その安定化・固定化を妨げる過去を清算するのである。だから欧米諸国に行くのとアジア諸国に行くのとでは、両者それぞれと日本との関係の現在が違うのに応じて、意味が違う。
 欧米諸国と日本とはこんにちの帝国主義的世界におけるプレー仲間である。そこにもヒビ割れはあるから天皇の出番があるが、友好の外観は作りやすいであろう。一方アジア諸国は日本など帝国主義国にとってプレーの対象と見なされる。日本での大量生産―大量消費―大量廃棄の経済体制・生活様式がアジア社会の利用・支配を前提にしているという現在がある。そうした現在を、国家間・支配層間の関係をつうじて押しつける上で妨げになる過去を清算することが問題なのである。
 この立場からは、こういう清算を超えるような、アジア諸国の日本への批判、過去清算要求はすべて不当なのであり、日本の当然の権利に対する侵害・攻撃と映る。過去清算の程度と範囲は日本が定めるべきなのであり、客体であるべきものが主体づらをして日本を批判することは許されないのである。
 思い出してみれば、第三国人という戦後のことばが民衆の心意のなかに生み出した意味合いは、客体であるべきものが主体として行動することへの心外さが、その主体的行動を不法行為・犯罪行為と重ねて感じたところにあった。主体的に行動すると犯罪者に見えるような、そういう目を人びとが持っているばあい、外国人の犯罪をとくに云々することは、外国人が日本で主体として存在することへの反感・敵意につながっていく。石原発言の危険性がここにある。
 だから、天皇が日本の過去について述べることばを批判するときの私たちの重要な視点は、日本と世界、ことにアジアとの関係の現在をどう変革するか、である。日本国家が国家・国民一体主義、国家無答責主義、国籍主義といった国権主義の諸要素を依然として捨てようとせず、むしろそれらを振りかざして戦後補償の要求をはねつけるのも、国民の一国主義的なせまい視野によって、何事をも安心して行えるからであろう。戦後史が私たちに課する大きな課題は、いま、かつてなく大きく浮かび上がっていると思う。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.6.10, no.35)









沖縄基地づくりの「イニシアチブ」と対決する「民衆の安全保障」国際フォーラムの実現を――沖縄サミットに抗して

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 5月9日、沖縄・名護地方裁判所は、名護市の前市長であった比嘉鉄也が市民投票の「基地NO!」の結果を無視して基地を受け入れる発言をしたことに対する、名護市民による損害賠償請求を棄却する判決を出した。
 弁護士の三宅俊司は、「住民投票の結果に反する行政行為が行われた場合には、司法判断の対象になりうる事を示した」点は評価できるが、判決内容は実質的に「投票結果の拘束力を否定している」ものであると批判している(「『名護市民投票条例裁判』判決批判」『インパクション』119号、2000年5月)。
 司法も、直接に基地被害をこうむる人々の意志を踏みにじったのである。サミットまでになんとか基地受諾をハッキリしろという日米政府の政治的圧力と、日本政府の基地受け入れのための振興予算のばらまき政策によって、ジワジワと締め付けられて、(基地受け入れ表明した)岸本名護市長リコール運動は中断に追い込まれた。この判決を背後で支えているのは、そうした日本政府の姿勢であることは明らかだ。
 沖縄サミット目前の今、沖縄は名護は、いろいろなすさまじい基地反対運動への切り崩しの力にさらされているのである。
 新しい米軍基地づくりを積極的に推進しようとしている、稲嶺県政のブレーンである高良倉吉、大城常夫、真栄城守定の3人が「沖縄イニシアチブ――アジア太平洋で果たす役割」を3月のアジア・パシフィック・アジェンダ・プロジェクト「沖縄フォーラム」で共同提案し、論議を呼んでいる。
 その内容は、『沖縄タイムス』に連載で紹介され、『朝日新聞』(5月15、16、17 日)にも紹介と大田昌秀前知事のそれへの批判などが載った。
 その「イニシアチブ」には、こういう立場の表明がある。
 「私たち3人は、アジア太平洋地域において、ひいては国際社会に対して、日米同盟が果たす安全保障上の役割を評価する立場に立つものであり、この同盟が必要とする限り沖縄のアメリカ軍基地の存在意義を認めている。つまり、安全保障の面で沖縄は我国の中で最も貢献度の高い地域として存在する、という認識を共有している」。
 基地を置くことの軍事的貢献度の高さが、イニシアチブを発揮できる前提条件なのである。「自衛隊の保持と、日米同盟を根幹とするグローバルな安全保障体制の維持」があたりまえとする、日米支配者の基本方針にそったイニシアチブ論だ。
 『沖縄タイムス』紙上には、この共同提案への批判の文章が次々と書かれている。
 「彼らの掲げる『沖縄イニシアチブ』とは、日本国の“先兵”になることを日本政府に誓い、沖縄人には“大政翼賛”を督励するスローガンでしかない。」「これは、“奴隷の思想“の表明である」(新川明、5月16日、17日号)。
 「アジア太平洋の安全保障の要(かなめ)に位置する沖縄は相応の『責任』を負う必要があるとしている。/この『責任』とは沖縄が戦場になり、県民が犠牲になることも含んでいるが、死を決意してまでも『沖縄イニシアチブ』を実行する必要があるのか」(松島泰勝、5月20日号)。
 「『国家』や『国民』の物語にすべてを回収する中央のまなざしと同一の志向性をもつ言説の登場」(田仲康博、5月25日号)。
 「『提言』型21世紀像は、どうも人間の精神性や創造性に欠け、軍備や社会的不平等に偏した強大な沖縄イメージが沸々とこみあげてくるものである」(保坂広志、5月27日号)。
 「現状追認論者のことば遊び、観念論」。「ところで彼らは、自分たちの論敵を、『絶対平和』論者として設定する。高良倉吉氏が『基地反対を叫び続けるだけでは問題解決は進まない』(本紙、5月25日)などといっているところをみると、『絶対的平和』論者とは、『基地反対を叫び続けるだけで』問題が解決されると信じている脳天気な連中を指すらしい。だが、一体どこに、そのような能天気な基地反対論者が存在するのだろうか」(新崎盛暉、5月29、30日)。
 ここには、ハッキリとした「安全保障」・「平和」観の対立が示されている。一つは、日米政府・稲嶺県政・「沖縄イニシアチブ」グループの、国家の基地・軍隊、軍事同盟による「安全保障」観、力のバランスと暴力による支配秩序という「平和」観である。
 他方は、国家の軍隊・基地によらない、それをなくしていく方向での民衆相互の交流を目指す、非軍事による「安全保障」という思想であり、非暴力(反基地・反軍事同盟)の原則に立つ平和づくりの思想である。
 沖縄・名護への新たな軍事基地づくりのために、わざわざサミットを沖縄(名護)に持ってきた日本の支配者たちは、こういう「沖縄イニシアチブ」論が沖縄の内部から浮上してくるような状況を、沖縄の反基地の思想と行動を包囲する動きを、つくりだしているのだ。
 これに対抗し、跳ね返す、「民衆の安全保障」沖縄国際フォーラム(6月29日〜7月2日)を、私たちは、沖縄の反基地・反軍隊を目指す人々とともにつくりだしていきたい。
(『派兵チェック』 No. 93(2000年6月15日)

















《「マサコ懐妊報道」を論議する》(3)

〈ご懐妊〉報道がなぜ不敬につながるのか

北原恵●表象文化論


 本欄で議論されてきた「マサコ懐妊報道」については、私は大川由夫の「『プライバシー』が見えなくさせるもの」(2000年5月号)に全く賛成である。このなかで大川は、戸籍法の出生届の項目を取り上げて、「普通に結婚し、普通に妊娠・出産した事実を国家に報告する……ことと引き換えに、その限りにおいて私たちの『私事』は『プライバシー』として『守られている』」ことを指摘し、常に国家が私たちの妊娠・出産を管理している事実を明示した。そして、マサコの妊娠・流産がプライバシーかどうか、その報道はどこまで許されるべきか、という議論そのものの危険性に警鐘を鳴らしている。全く同感である。
 たとえば、天野恵一は、「天皇一族の公事と私事」(本『じゃーなる』31号)において、「M子さんの私事」を暴露したマスメディアに論及し彼女の人権を擁護する本多勝一を批判して、週刊金曜日に寄せられた匿名教員の投書を引用し、「ある夫婦の妊娠や出産というまったくの私事が、国家と国民にとって重大な意味を持つかもしれないという現在の制度」に問題があるのだと主張している。だが、戦前の「産めよ増やせよ」政策、現在の少子化対策などを見ればすぐに分かるように、近代以降の歴史において「妊娠・出産」が、そのような意味で「私事」であったことなど、あっただろうか? 大川の述べるように「私事/公事」の区別を作ることによって国家が人々の管理を容易にしてきたことを考えるならば、私たちは区別そのものの構造を批判しつつ、マサコの「私/公」の問題を論じなくてはならないだろう。
 さて、今回本欄で考えてみたいのは、なぜ、マサコの生殖する身体を語ることが「不敬」につながるのか、という問題である。
 マサコ懐妊報道のなかで、最もヤリ玉に挙げられたのは、朝日新聞のスクープ記事と『週刊朝日』の「雅子さま幸せのご懐妊」(一九九九年十二月二四日号)であった。後者の『週刊朝日』に対しては、いち早く『女性セブン』などが自社メディアへの批判をかわすために「礼儀を欠いた報道」として攻撃しているが、それはあくまで「利用」の範疇内として理解されよう。問題となるのは右翼や宮内庁を批判し「閉ざされた皇室」を主張する福田和也、小堀桂一郎などをはじめとするナショナリストたちの怒りである。(福田和也「『閉ざされた皇室』のすすめ」『週刊文春』一九九九年十二月三〇日号、「かくも罪深きご懐妊報道」『選択』二〇〇〇年二月号、「ご懐妊報道の無礼――『朝日新聞』は不敬である」『諸君』二〇〇〇年三月号、小堀桂一郎「宮内庁よ、本分を忘れるな」『正論』二〇〇〇年四月号など)
 今回、そろって不敬だと批判されたのは、『週刊朝日』に載った「生理がなく、基礎体温が上昇していた」や「体のリズム」、「お二人の愛の結実は熊本で、だった?」などの描写である。くだんの『週刊朝日』に限らず、今回の報道を読み直してみて発見したのは、女の生殖する身体を語る敬語が存在しないことである。「ご懐妊」以外には、「御生理」「御基礎体温」「体の御リズム」「御不妊」「御尿検査」などのことばは、今のところ存在しない。(メディアが「懐妊」[*はらむこと、妊娠]という普段あまり使われない用語を用いたのも、読者が露骨に肉体を想像することを避けるためである。)あるいは、「死亡」に対する「崩御」のような敬語。そのような敬語は女の生殖する身体だけでなく、皇室一族の身体内部に関して語られてこなかったことに気づく。「生理」「基礎体温」「不妊」など一見中立に見える医学用語をメディアが用いるのは、我々の身体観が公的な場でそのような用語しか持たないからである。
 右派が今回の「ご懐妊」報道を不敬だと考えた根拠は、ふたつ考えられる。まず、第一に、不敬だと考える人々自身が、根底に徹底した女性の身体嫌悪・蔑視、ミソジニーを持つからである。つまり、女のからだへの蔑視と不敬は、裏表の関係にあるからである。マサコは、十二月十日に朝日新聞によって妊娠の兆候をスクープされ第一回目の検査を受けたのちの十五日、「賢所御神楽の儀」に欠席した。それは「まけ」と呼ばれる月経中の女性は入れない儀式であると伝えられた。そのような世界に彼女は生きているのである。
 第二に、皇族の身体内部は、徹底して隠されなくてはならないからである。「天皇なる対象に接近しつつ、回避する。名指しはするが具体的には描写しない」(渡部直己)という言説スタイルが、天皇表象の支配権を確立するための要件であったとするならば、女の生殖する身体は最もタブーとされるべき言説内容である。「生理」や「基礎体温」そのものの克明な描写が、その対象への批判と化すのである。
 一方において、マサコの身体は、「見せる身体」と「隠す身体」に二分されている。女性週刊誌で取り沙汰される皇族の女性のファッションは、「見せる身体」の最たるものであるが、彼女たちのファッションは、特に外交の場においては、簡単に〈日本性〉を誇示できる装置として重要である。男性の皇族が国際舞台でキモノを着ることはなくモーニングなどの洋装であるのに対して、彼女たちが外交の場でよくキモノを着るのはそのためである。「見せる身体」を持ちながら、皇族の女性たちは、自らの生殖する身体内部は隠さなければならない。この境界線が危うくなったところに、今回の「不敬」のもうひとつの根拠は存在する。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.6.10, no.35)










「呼び捨て」への暴行と「雅子さま」報道
右翼による言論への暴力に抗議を!

天野恵一●反天皇制運動連絡会


 森喜朗首相は、今度は「どうやって日本の国体を守ることができるのか」(六月三日)と発言。この「国体」発言、問題にされると、「失言」と語ったと思ったら、失言ではなく「取り消し」の必要はない、「国の体制」という意味で使っただけだとひらきなおり。
 この男の右翼天皇主義体質は、あまりに明白である。しかし、私たちは、大日本帝国憲法の精神を、いま生きているかに見える「復古」調、違憲の首相というマスコミのキャンペーンに同調していてよいわけがない。五月二〇日から始まり、六月一日までの天皇・皇后のスイス・オランダ・フィンランド・スウェーデンへの「皇室外交」に対する批判は、マスコミにはまったく存在しなかった。そもそも憲法は「外交」する権能などを天皇(ら)に認めていないはずである。そうであるにも関わらず、特にオランダを舞台にした、戦争責任の清算の政治セレモニーに象徴される、露骨に政治的な儀式(謝罪の「おことば」)を、マスコミは、こぞって賛美し続けた。
 森発言を違憲と批判しつつ、違憲の「皇室外交」を賛美し続ける、マスコミのダブル・スタンダード、これこそが問題なのだ。大日本帝国憲法・教育勅語の精神を生きる森への批判は、「国民主権=象徴天皇制」をよしとする立場からのものであり、「皇室外交」賛美は、戦争責任に「クリーン」なアキヒト・ミチコ象徴天皇制賛美なのである。マスコミの主張は、象徴天皇制大肯定・賛美で一貫しているのである。
 このことこそが、批判されなければならないのだ。マスコミの皇室報道の奇妙さという問題は、『噂の眞相』の編集長を日本青年社の右翼二人が暴行した事実を伝える『朝日新聞』の記事にもよく示されている。
 「調べでは、島村容疑者らは午後五時五十五分ごろ同誌の事務所に抗議に訪れ、編集長室で岡留さんと副編集長に抗議するうち、テーブルにあった灰皿や台所にあった果物ナイフを投げつけたり、殴ったりして岡留さんにけがをさせた疑い。岡留さんはナイフで右足を切るけがをしたという/『噂の眞相』の関係者によると、島村容疑者らは同誌六月号の『一行情報』というコーナーに掲載された皇太子妃の雅子さまに関する報道内容に抗議。『雅子さまを呼び捨てにしたのは納得がいかない。謝罪しろ』と話していたという」(六月八日・傍点引用者)。
 この記事には、被害者岡留安則編集長の「自由な表現活動を撤退するつもりは一切ない」というコメントもあり、全体として、他紙より大きくかつ具体的な報道で、右翼の暴行への抗議の姿勢もハッキリしている。
 しかし、なんと「雅子さま」報道なのだ。
 マサコを呼び捨てにすることなど、あたりまえなことではないか。『朝日』は、すでに右翼のいいがかりをのんでしまった水準で記事をまとめているのだ。
 この重大で、大切な一点で後退していることで、この抗議記事は、実に奇妙なものになってしまっている。
 雅子と呼び捨ては許さん、雅子さまとしろと暴行した右翼への抗議記事が「雅子さま」でまとめられる。ナンナンダ、コレは。
 「神の国」だの「国体」などという発言をする人物が首相になり、その首相の発言を批判しているマスメディアが、ひたすら象徴天皇制を賛美し、皇室への「さま」報道を続ける。神道主義=神権天皇を、「象徴=人間」天皇にモデル・チェンジして、侵略戦争と植民地支配の一切の責任を取らずに延命させる。こういうGHQ(アメリカ)の占領政策にのって、天皇とともに日本の支配者の多くも、責任を軍人(特に陸軍)のリーダーにおっつけて延命した。この延命への批判を、マスコミが基本的にタブーにして、すでに五十五年近い時間が流れてしまったのだ。
 この象徴天皇制としての天皇制の延命の時間こそが、「神の国」「国体」発言をする男を首相にするベースなのである。問題は、大日本帝国憲法・教育勅語の精神の「復活」なのではなく、そうしたものの、姿を変えての象徴天皇制の中への延命なのである。
 マスコミの皇室に対する敬語報道と、右翼のこうした許してはならない暴力とは、無関係ではない。いや無関係ではないどころか、大いに関係しているのである。マスコミのこういう日々の「神聖化」が右翼の暴力の突出の心理的土壌を日常的につくり出しているのである。右翼と『朝日』が「さま」で横ならびであることに、私たちは注目し続けなければなるまい。
 こうした右翼の言論への暴力に断固として抗議の声をあげよう。そして、皇室「呼び捨て」は私(たち)の日常ではあるが、何よりも大切なことは、こういうあたりまえの文化を、様々な場所で拡大する努力を更に持続することである。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.6.10, no.35)









ゴラン高原の自衛隊〔再開 その10〕

森田ケイ

 前回(本紙第90号[今年3月]に)書いた内容のフォローから。まずもって、「偽造旅券行使などの罪でレバノンの刑務所に服役、今月[3月]七日に刑期が満了していた日本赤軍メンバー五人について、レバノン政府は十七日午後……岡本公三容疑者(52)に政治亡命を認め、和光晴生(51)、足立正生(60)、山本万里子(59)の三容疑者と戸平和夫被告(47)の四人を空路、ヨルダンに国外退去させた」(読売新聞ニュース速報・3月18日付)件に触れなければならない。
 この日、ヨルダン政府はアンマン空港に到着した4人の入国を拒否、岡本を除く4人はヨルダン治安当局者に連行された後、日本側が事前に用意して待機していたチャーター機(アエロフロート)に乗って日本に向かい、成田空港に到着した時点で逮捕されたという。3月18日の「毎日新聞ニュース速報」は、「レバノン、ヨルダン、日本などが極秘に共同作戦を進めた」との消息筋のコメントを報じた。その程度の“構え”は十二分に想定し得るが、ここでレバノンからの国外退去・日本への移送の間に、“第三国”としてヨルダンが存在したことの意味は大きいと考える。
 このかん本紙第81、84、86号の拙文で、ヨルダンへの最大の援助国が日本であること、そして「中東和平プロセス」との関連からヨルダンが抱える最大の債務(対日債務)の軽減を合州国からも求められてきたことなどに触れ、しかし計算上は日本の債務軽減策は、およそ「効果的」とは思えない、と書いた。
 ところがヨルダンは、レバノンという一つの国家が“日本赤軍(とされる人々)という歴史的なカード”を切る際の“第三国”となった。ヨルダンにとっての日本政府の債務軽減策の意味は、この拙文の筆者が考える以上に大きかったのだろうと推測せざるを得ない。レバノン政府に対しても様々なアメ(援助=金)とムチ(その打ち切りを示唆する脅迫)を日本政府が与えていたことは、本紙90号の拙文で引用した新聞報道(東京新聞・3月4日付)が伝えている。
 非常に乱暴な表現をすれば、1991年の湾岸戦争とそれ以降の「中東和平プロセス」の過程で、「アラブの大義」と「日本赤軍」の値段が、日本の経済援助で十分に「買える」レベルにまで下がった──1990年代とはそのような10年間であった──とも言い得るのではないか。
 そしてもう一つ、日本の援助に関連して、奥付によれば外務省が「編集協力」となっている月刊誌『外交フォーラム』(発行:都市出版株式会社)の2000年2月号に掲載された「なぜ東京で『パレスチナ支援調整会議』か」という文章に触れておきたい。これを書いたのは、外務省中近東アフリカ局中近東第一課長という肩書きの香川剛廣なる人物。
 その中身は、昨年10月に外務省で開催された「パレスチナ支援調整会議」と、これまでの「中東和平プロセス」に寄り添いながらの日本のパレスチナ援助の“手柄話”だ。いわく「会議の参加者が口々に『こんなに雰囲気の良い会議は初めてであった』という感想を述べていたが、ホスト国として会議を準備してきた担当者としては、それだけで大成功という気分であった」。
 しかし、この香川の文章には、パレスチナ人たちが歴史的に一体どのような苦難を強いられ続けているのか、またイスラエルによる軍事占領や併合、土地の没収と入植地建設という一連のイスラエルの暴力的な政策などについての言及は、一切、ない。
 そして彼は、4ページに渡る自らの文章の最後の部分で、「当事者の意気込みから見ても、現在、交渉の最大の好機が訪れているのは間違いない。……パレスチナ支援はいわゆる平和の配当である」(傍点、筆者)と述べ、「日本は……恒久平和の達成に向けて最大限の支援を行なっていきたい」と結んでいる。
 しかし、その「平和」とは、例えば、この「連絡調整会議」の10日前に、パレスチナ公安局によって1週間前に逮捕(喧嘩沙汰が原因だったようだ)されていたヘブロンに住むパレスチナ人(33歳、7人の子供の父親)が、明らかにパレスチナ警察の拷問によって、最終的に移送された病院で死亡し、パレスチナ人たちの人権グループがパレスチナ暫定自治当局と警察の責任を追及する声明を発した、そのような事件を一顧だにしない人々や諸国家の語る「平和」ではないか。さらに例えば、この「連絡調整会議」の3週間ほど前の9月下旬に、ヨルダン川西岸地区のイスラエル軍司令官が、数百ヘクタールの農地、79のパレスチナ人の村、数百軒の家屋を含む広大な土地を封鎖するとの14の軍事命令を発し、多くの人々がその土地から追い出されることが危惧されている、そのような現実に一言も言及しない「平和」ではないか。こうした「平和」への「配当」として日本政府は「最大限の支援を行なって」いくというのだ。

 もう一つの「平和」にも触れておく。去る5月24日、イスラエル軍が南部レバノンから撤退し、1978年から22年間に渡る事実上の軍事占領が終わった。6月5日には、カイロで開かれていたアラブ8ヶ国外相会議が、この撤退を「アラブ全体の勝利」と讃え、イスラエルにゴラン高原からの撤退を要求する声明を発表した(時事通信ニュース速報)。
 しかし例えば、1977年11月のエジプト大統領(当時)サーダートのイスラエル訪問から1979年3月のエジプト・イスラエル平和条約締結という、当時としては「画期的」と評されたであろう“和平プロセス”の経過のただなかで、1978年のイスラエルのレバノン南部への侵攻があったし、この「平和」によって対エジプト戦線という軍事的な負担から解放されたイスラエル軍は、その兵力をレバノンに振り向け、1982年のレバノン侵攻、そしてサブラ・シャティーラ両難民キャンプでのパレスチナ人虐殺へと結果していった。
 だから、この5月の撤退によって逆にイスラエルは、レバノンとシリア(ゴラン高原)に対して軍事的圧力を強める可能性がある、と考える。今後、レバノン南部からの何らかの“攻撃”に対してイスラエルが“自国防衛”のための“応戦”を手控える理由は、何一つないからだ。
(6月10日 記)

【追記】6月11日の朝刊各紙は、10日にシリアのアサド大統領が死去したと報じた。彼の死によって事態が大きく流動化する可能性もある。継続的な注視が必要だ。
(『派兵チェック』 No. 93(2000年6月15日)








書評

安保・有事体制を巡る議論のために

『【講演録集】日米安保・戦争責任・反戦平和を語る〜活憲運動の発展をめざして』〔定価:1000円/連絡先:山口大学人文学部政治学研究室 電話0839-33-5278〕
『周辺事態法 新たな地域総動員・有事法制の時代』
 
〔社会評論社/定価:本体1800円+税〕

池田五律●『派兵チェック』編集部

 纐纈厚さんは、行動する研究者である。その活動の場である「憲法を活かす市民の会・やまぐち」から、『【講演録集】日米安保・戦争責任・反戦平和を語る〜活憲運動の発展をめざして』が刊行された。季刊誌『あくろす』に掲載された講演録をタイトルのテーマに従って編集したものである。構成は、以下である。◆第1部 安保・沖縄・新ガイドラインをつなぐ──I.これは「沖縄問題」ではない(西尾市郎)、II.憲法を突き崩す日米新ガイドライン(弓削達)、III.新ガイドライン安保の危険な構造(纐纈厚)
◆第2部 戦争責任問題と過去の克服のために──IV.世代と国境を越えて戦争責任を考える(内海愛子)、V.従軍慰安婦問題の現在的意味は何か(吉見義明)、VI.自由主義史観の正体と教科書攻撃(藤原彰)◆第3部 市民運動の課題とこれからの反戦平和運動とは──VII.アジアとの「共生」という名の欺瞞(徐勝)、VIII.謝罪と言葉─見えざる抑圧の克服(ノーマ・フィールド)、IX.無数の〈弱い人〉の反戦を、いまこそ(井上澄夫)
 本書は、次のような危機意識から生み出されたものだ。
 平和国家日本の解体と戦争国家日本の構築、平和憲法を内部から食い破るべく法制化された周辺事態法、強権政治の発動の用意、戦争国家日本の展開に反対しようとする者たちの監視、「君が代・日の丸」法制化による天皇制イデオロギーの注入と国家ナショナリズムの喚起……。
このような危機意識に基づいて、纐纈さん個人が執筆してきた諸論考を編集した新たな本も出版されている。『周辺事態法 新たな地域総動員・有事法制の時代』である。その目次は、以下である。
第一章 危機管理・有事法制体制と憲法の危機/第二章 戦前・戦後を貫く有事体制/第三章 新ガイドライン関連法の成立過程/第四章 総動員体制下の地方自治体・地域住民/第五章 誰のための総動員・有事法制なのか
 加えて、「三矢研究」や「防衛庁における有事法制の研究について」(1978年)など、総動員・有事法制関連資料も収録されている。
 【講演録集】を生んだ危機意識は、この本の「はじめに」では「99年体制」と名づけられている。その詳しい展開が、第一章だ。その情勢分析の特色は、「戦後日本の対米従属性という体質だけでなく、アメリカと同様に東アジア地域における日本の多国籍企業の経済的な保守が現実的な課題となって浮上してきており、その限りにおいてアメリカの軍事力の位置付けと同質の認識が存在している」、「場合によっては日本単独でも派兵に踏み切る用意」がある、「当面はアメリカ軍事力に依存しながら、最終的には自前の軍事力を単独使用してでも、海外の利権確保の途を探っているのである」という点だ。
 第二章は、「緊急権国家であった明治国家の国家構造が今日再生され、現代版緊急権国家とも言うべく『平成国家』の本質が全貌を現し始めた」ことを戦前の有事法制と戦後の有事研究の分析から実証するものである。
 ところが、第三章では、周辺事態法が対米「従属法制」であるとの分析がされる。第四章では、周辺事態法が「地域総動員体制」を隠蔽したものであることが告発されている。地方分権一括法により、鉄道、廃棄物処理、建設関連などで、大臣が戦争協力を遂行することが可能になったことが丹念に証明されている。だが、野呂田防衛庁長官が米の周辺事態認定−日本への協力要請に対してノーをいうことは、「絶えず緊密な連絡調整をやっているから、実態上はないと思います」と述べていることを以って「対米従属」性を証明する。
 第一章と、第三・四章のトーンには落差がある。私も、新ガイドラインを単なる「対米従属」とは考えない。だが、第一章の分析が、一国単位の国益確保のための一国単位の軍事力を前提とした同盟ないし単独の軍事力行使という枠組みを基本としている点に、疑問がある。アメリカですら同盟国のサポートを前提とした戦略を取る以外になく、ましてや日本の場合は、どういう名目の派兵でも輸送・情報などで米軍に依存せざるを得ない。ゴマ派兵後、単独派兵路線から新ガイドライン路線に明確に転換した経緯もある。単独派兵への迂回戦略というより、先進諸国が相互依存を前提に経済権益確保のための軍事力行使の体制を整え、役割分担をケース・バイ・ケースで変えつつ、平時からの調整をしている点が、現在の特色ではなかろうか。野呂田発言にしても、日常的な「連絡調整」でノーということが実態上ない状態が作られていることに、現在の日米安保の特色があるのではないか。
 第二章は、纐纈さんの研究の蓄積がものをいっている。しかし、戦前緊急権国家の再生というアングルだけで、現状を分析し尽くせるかは疑問だ。戦前との相違点に現在的な特色があるのではないか。アメリカの戦争権限法や包括的テロ対策法などとの同時代的な有事法制比較をすることが、その手がかりになるのではないだろうか。いわば、有事法制のグローバル・スタンダードの形成というアングルである。その観点から見た時、「連絡調整」の見方も豊富化されるのではないかと、考える。
 また、第五章は、平山誠一・全日本海員組合教宣部長のインタビューに応えたものだが、欲をいえば、平山の発言をもっと引き出す形で応えられていればと思う。
 いろいろ苦言を呈したが、それは私自身にとっても探求テーマとして課されるものだと思っている。纐纈さんの仕事を叩き台に、議論を活発化させたい。
(『派兵チェック』 No. 93(2000年6月15日)




















追悼

小田切秀雄を送る
栗原幸夫●文学史を読みかえる研究会

 去る五月二十四日に小田切秀雄が亡くなった。友人、知人によるお別れ会もおわって、いまは彼との五十年にもおよぶ交友をぼんやりとふりかえっている時間がおおくなった。五十年まえといえば、それは朝鮮戦争がはじまった年であり、日共の大分派闘争がはじまった年であり、私が大学を卒業した年でもある。
 わたしが小田切さんと知り合ったのはそれよりさらに二年前、わたしがごく短期間であったが新日本文学会で雑誌『新日本文学』の編集を手伝っていたときだった。しかし彼は間もなく闘病生活に入りそれは五十二年ごろまでつづいた。そして回復期の小田切秀雄を中心に、小田切進、西田勝、和泉あき、それにわたしをくわえて、後に日本近代文学研究所と名乗りを上げることになる研究会を発足させたのである。
 それからの月日にはおのずとその交友に濃淡の時期があったが、いまはそれをこまかく振り返ることはしないで、一九九〇年から後のことを書き留めておきたい。
 一九九〇年は言うまでもなくベルリンの壁の崩壊から社会主義圏全体の瓦解を生み出す出発点となった年である。この年、小田切さんは七十三歳であった。わたしと小田切さんとは十歳違いである。つまりその時の小田切さんといまのわたしはおなじ歳である。なんとこの十年は目まぐるしく流れたことか。
 昭和天皇の死の前後、さまざまな形での反天皇制運動が噴出した。この機関誌の母胎である反天皇制運動連絡会、いわゆる反天連もその中心を担った一つである。この時期以後、小田切さんはいままでになく頻繁に電話、手紙、はがきなどで、自分の意見を述べまたわたしの意見をもとめるようになった。それは彼の死にいたるまでつづいたのである。
 十歳違いの私には小田切さんははじめひどく老成した人に見えた。運動の世界でも彼が行をともにするのは中野重治であり佐多稲子であり、自分よりも上の世代だった。それがこの頃からか、あるいはそれよりも少し前からか、「ぼくは成熟しないねー」とくりかえすようになった。成熟しないというのは年長の世代のままでヤンガージェネレーションのなかに入っていくことではない。自分自身がヤンガージェネレーションになることである。小田切さんはさまざまな運動のメディアに丹念に目を通し、購読料を払うだけでなくときどき多額のカンパを送ったりして支持を表明した。彼がそのような形で支持した運動のメディアはどのくらいあったのだろうか。わたしを通じて定期購読者になってくれた運動メディアだけでも、いま思い出すだけで五種類に達する。
 彼はそれらをたんなるカンパ、財政援助のつもりで購読したのではなかった。じつに丹念に読んだ。おそらく彼は、長年続けてきた日共批判からはどのような可能性も生まれない、マルクス主義の人間主義的解釈によっては、マルクス主義の復権は不可能だと感じ始めていたのではないか。なにを今頃などと言ってはいけない。
 小田切秀雄の本領はいうまでもなく、文学史に裏付けられた批評である。かつては、中村光夫にしても本多秋五にしても平野謙にしても、文学史と批評とは車の両輪のようなものだった。ところがいまの若い批評家の批評は、作品を歴史から切り離し、作家の創作歴から切り離し、孤立したものとして論じるものが多い。構造主義ののこした荒廃である。小田切秀雄の批評はそれとは違うオーソドックスなものだった。しかしそれだけではない。彼の日本近代文学をたどるうえでの基本的なメルクマールは、天皇制にたいする距離であり、二葉亭いらいの日本近代文学における近代的自我の追求が、客観的に天皇制にたいする抵抗にほかならなかったことを、作品に即して明らかにしようとするこころみであった。天皇制問題は小田切文学史の核である。彼がわれわれの運動に共感を惜しまなかったのにはふかい根拠がある。
 小田切秀雄の作品のなかでとくべつな位置を占めるものに「退廃の根元について」という論文がある。『思想』の一九五三年九月号に掲載されたこの論文は、上に述べたような近代文学およびプロレタリア文学と天皇制との関係を方法論的に解明しようとした、小田切文学史にとって重要な位置をしめる論文である。この論文の成立にはわたしも若干かかわった。神山茂夫の絶対主義天皇制論をレクチャーしたのである。おかげで彼は神山派だという中傷を受けることになる。
 戦後五十年ということでいろいろな問題が噴出したとき、わたしは『歴史のなかの「戦後」』というブックレットを出した。天皇の「終戦」とはいったい何だったのか、八月一五日から十月四日の治安維持法廃止の指令にいたる五十日間の日本をおおった奇妙な沈黙の意味をもっと考えよう、というわたしの主張に、彼はながいながい共感の電話をかけてきた。そしてもういちど「戦後文学」を考え直すという決意をのべた。その仕事は八十歳をこえる老齢にもめげず、一九九九年八月号の『群像』から「戦後文学の回想と検討」の題で連載がはじまった。そしてそれは今年の五月号の四回目をもって中絶した。まさに現役での死であった。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.6.10, no.35)