alternative autonomous lane No.24
2000.1.22

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目 次



【議論と論考】

迂回路を通って天皇制へ(池田浩士)

「君が代」ってエロ歌じゃなかったっけ?(大熊亘)

われわれにとっての「憲法論議」とは(栗原幸夫)

やったぜベイビー」から流産へ――「御懐妊の徴候」大騒ぎの後(天野恵一)


【沖縄の闘い】

基地の「押しつけ」と「戦争の記憶」の改竄−−「検証・平和資料館問題」(『けーし風』)を読む(天野恵一)

【書評】

吉岡斉著『原子力の社会史 その日本的展開』(小山俊士)

戸井昌造『戦争案内 ――ぼくは二十歳だった』 (たま)







迂回路を通って天皇制へ

池田浩士●京都大学教員

 わたしの職場のお客さん、つまり大学生のひとりが、このたび卒業するにあたって、某大手民営大学の大学院を受験したいので、入試のノウ・ハウを手ほどきしてほしい、とやってきた。わたしの担当部門とは遠く離れた、というより正反対の、情報科学専攻の学生で、もちろんこれまで言葉を交わしたことも顔を正面から見つめあったこともなかったのだが、なんとそれが、その民営大学の有名な先端ハイ・テクノロジー研究科に行きたいというのである。
 そんな、きみ、こういうのを「お門違い」というんだよ、と言下に門前払いを喰わせようとしたところ、いえ、ぜひ、前年度の問題に目を通していただいて、確実に合格する答案の書き方だけでいいから教えてください――という。確実に合格する先端ハイ・テクノロジー学の答案の書き方が他人様に教えられるくらいなら、なんでこんなに他人様の軽蔑と失笑を買いながら断乎としてパソコン未使用を貫徹してなどいるはずがあろうか!? 嗚呼!
 ところが、前年度の問題なるものを強制的に目に入れさせられてみたところ、なんと、なるほどこれなら一生懸命に答えてみようかと思いたくなる種類のものなのである。週刊誌一ページ分くらいのそれぞれ別個の文章が三つ与えられており、その三つは著者も発表メディアも別だが、コンピューターについて論じている点では共通している。一つは、自閉症ぎみで登校拒否もきちんとやってきたA君が、ある偶然でパソコンをいじりはじめたところ、自分を表現し自分から発信することの充実感を生まれて初めて出会い、すっかり明るく積極的な子になった。パソコンには、このように人間の隠れた可能性を引き出す機能もあるのだ、という内容で、日本の教育者だか教育学者だかの文章。二つ目はよく憶えていないので省略するが、三つ目は、アメリカのコンピューター専門の研究者の論文である。この研究者は、コンピューターの技術的可能性や限界を論じているのではない。二十一世紀にコンピューターがさらに普及することで、失業者が増えつづけ、それが人類にとって致命的なわざわいになる、という予測を、きわめて具体的なデータを示しながら述べて、もしもこの問題が解決されぬままコンピューター社会が進行すれば、コンピューターは人類(および宇宙)の敵となる、と結論づけている。
 かんじんの入試問題は「三つの文章の問題点に言及しながら、コンピューター社会の未来についての自分自身の展望を、八百字以内で述べよ」というもので、要するにその学生は、この「述べよ」というその「述べかた」がわからないので、それを教えてほしい、というのである。
 問題の意味はわかるし、答えも自分なりにわかっているのに、それを表現することはできない、というわけだが、それなら一つ目の文章のA君みたいにパソコンと向き合えばおのずと解決するんじゃないの、と言いたいところをグッとがまんして、何度か八百字を書いては書き直す、という練習につきあったが、そうして受験した結果はもちろん不合格だった。コンピューター社会の未来は、有望な研究者をひとり失ったのである。
 さて、わたしが一生懸命答えてみたい、と思ったのは、一つ目の文章と三つ目の論文との距離が何とも魅力的だからにほかならない。多くのコン宅(めんどくさいので、コンピューター・オタクをこう呼んでおく)が思い入れたっぷりに主張するとおり、コン畜生(コンピューターのチクショウメ!の略称)が人間の隠れた能力なるものを引き出す力を持っている、というのは、本来なら人間が潜在的に持っているはずの時速二十キロの速力を自転車が引き出し、本来ならだれもが持っているはずの時速百キロを自家用自動車が引き出し、本来なら一人の人間にそなわっているはずの潜在的な殺人能力を核兵器が引き出す、という意味では、なるほど納得できることである。その点に関する限り、たとえば死ぬほど字の下手な人間がワープロによって、あるいはインターネットによって文書マニア・メールマニアとして生まれ変わって公害を垂れ流し、肢体が不自由な人間がキイを何らかの方法で打つだけで表現の可能性を獲得することも、あるいは立派で高価な印刷製本とは別の手作りの本なり百科事典なりをだれでもが作成できる可能性をもつことも、なにも非難される理由などない。
 ところが、たとえばわたしの嫌いなドイツの緑の人達(いわゆる緑の党)は、旧西ドイツで、旧日本でと同じように国有鉄道がつぶされようとしたとき、何をしただろうか?――かれらは、まずひとつには、国鉄の累積赤字なるものが、もしも自動車交通社会になったときに、事故で失われる人命や、破壊される自然環境や、その他の社会的損失の額と比べれば、赤字どころかずっと小さなマイナスにすぎないことを数値を示して明らかにした。そして第二に、なんと感動的なことだろうか、国鉄がつぶされることによって職を失う人間の問題を指摘した。つまり、社会は、人間の職場を保証する義務がある、労働によって生きる誇りを保証する義務がある、というのである。いったい、日本の緑エピゴーネンが、こういうドイツの緑の理念を、どれだけわれわれに伝えてくれたか。
 入試問題用の第三の論文、北米合州国の先端技術研究者の警告は、ひとりの人間がコンピューターによって解放される可能性と同等の重みを持っている。いや、それが真に解放というにふさわしいものとなるためには、第三の論文の問題提起にきちんと答える社会でなければならないのだ。いまから四十年近くも前の大むかしに、ソ連という国があり、フルシチョフという首相があった。そこの共産党の第一書記でもあったこの人物は、二十年後のソ連は労働時間が一日に四時間とかに短縮され、余暇は芸術活動をはじめとする非強制的営為にあてられるであろう、そのための科学技術の驚異的進歩を、ソ連社会主義は達成するであろう、という「綱領」、つまりプログラムを世界に公表した。かたちのうえでは、コンピューター社会は、人間労働の総量を大幅に減少させるであろう。かたちのうえでは、労働から人間が解放されるであろう。残念なことに、実現された共産主義の社会においてではなく、コンピューターを生産手段とする資本主義社会において、それがなされつつあるのである。真に社会的問題というに値するこの社会的問題を見ないそぶりをしつづける合理化主義者は許せない――などと、原理主義的反技術主義を振りまわすために、この雑文を書いているのではない。そうではなく、コンピューターによって解放され、コンピューターを自己の人間実現のかけがえのない手段として武器として「活用」しうる人間が、うれしいことに現に存在するかたわらで、大失業時代がこの科学技術によって準備されるという現実――つまり恩恵は目に見えるが危害は見えにくいその現実のなかで、目に見えにくい危害に身をさらす人間の位置に、自分の身を置くのかどうかを、わたしもまた考えざるをえないのである。
 医療技術の進歩発展は、その恩恵に浴する人間とそうでない人間との隔差を、地球規模で拡げ、かつ浴さない人間を圧倒的に増大させつつある。こうした社会的差別の拡大深化が、来たるべき世紀の特質である。そうしたなかで、「天皇制は差別の根源」という正しい標語は、しかし、根源的に問いなおされる必要がある。そうではない。天皇制の最大の武器は、あの「一視同仁」なのだ。こちら側から言えば、天皇ヘーカは臣民を分け隔てなく愛しいつくしんでくださるのだ。熾烈な差別と選別の現実、先端テクノロジーによって徹底的に貫徹されるこの現実を、天皇制は一視同仁の無差別社会として統合する。マサコサマ、オカワイソウ――そう、子供が欲しいと願いつづけてきた男女が、あるいは女が、まったく原因不明のままみごもった胎児を流産しなければならなかったとしたら、同情に値するかもしれない。そういう男女なり女なりとマサコサマとを同次元に並べて嘆いたり喜んだり気づかったりするところに、コンピューターのために職を失う人間とコンピューターによって自己の潜在的可能性を実現する人間とを同次元に並べてコン畜生を賛美するコン宅たちとの共通点をみることができる、などとわたしは言っているのではない。そうではなく、天皇の前にみな平等になってしまう現代天皇制と正面から向き合うことは、また、コンピューターが人類すべてにとって解放の武器になるというようなコン畜生精神と、正面から向き合うことになるのではないかと、せめて言いたいのである。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』30号、 2000.1.19号)

「君が代」ってエロ歌じゃなかったっけ?

大熊亘●音楽

 考えて見れば、昨年法制化されるずっと以前からも「国歌」イコール「君が代」と言われていたが、法的根拠はなかったわけだ。随分押し付けてくるわりにはなんで法的根拠がないままに続いているのだろうと不思議に思ったことがあるが、戦前は実定法などという下々の下世話な道具などには制約されないほど神聖なもの、とみなされていたのだろうか。ともかく法的根拠がないうちに何とかしておけばよかったのだが、敗戦後のどさくさにも天皇制とともに延命してしまった。アメリカも余計な混乱をみるよりは、円滑な国民統合のほうに優先順位を置いたのだろう。
 さて頂いたお題のひとつは、昨秋一瞬話題になった忌野清志郎氏のアレです。が、残念ながら私には少なくとも音楽として興味が持てず、いまだに耳にしてないので、彼の「作品」自体にかんしては述べる資格がない。その上で、この一件から聞き取れる状況に対しての若干の思うところを述べてみたい。
 そもそも分かりにくいパフォーマンスだった。狙いが何だったのか。本人もコンセプト的にはあまり思い入れもないみたいだし。
 「君が代」全否定ではないが、ストレートには賛意も持てず、強制はいやだ、とにかくひと騒ぎを起こしてやれ、というあたりにとどまるのではないか……。
 一見毒がありそうで、そうではなさそうなこのパンク・バージョンから看てとれるものは。
 だいたい軽々しくパンク・バージョンというけれど、昔のセックス・ピストルズのあの程度の「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」だって相当自己流の勝手なアレンジでもっとテンション高かったと思うし、ご都合主義的にパンクの名が語られることに対しては批判されるべきではないだろうか(もっともパンクってえのも語源的には「ろくでなし」とか、とにかくダメなやつのことだったようだから、あまりこだわるのもどうかとは思うが、とにかく「分かったようで分からない」から「とりあえずパンク」で金を取るのはひどいだろう)。
 「怒り」で思い出したが、「怒り」のベクトルが不明瞭で、はっきり見えてこないのは「ずらし」に収まってしまっているからだろう。
 話を戻して今度は比較論でいってみよう。多分、清志郎氏自身の連想のうちにもあったであろう、ジミ・ヘンドリクスの、あのあまりにも有名な「アメリカ国歌」の怪演とは、どこが違うのだろう。
 ひとつには、もちろんジミ・ヘンの方は、彼の演奏が「音楽として」とてつもなくデモーニッシュなものだったから、たんなる身振りとしての一パフォーマンスにとどまらず劇的かつ多義的な行為/事件として共有されたのだといえる。また、ジミ・ヘンがすごかったからといって、単純に「君が代」で真似ようとしても同じような音楽的緊張感が生まれるとは限らない。単に「君が代」をエレキでデフォルメして演奏する、といったあまりひねりのないジミ・ヘンもどきのパフォーマンスは(有名なところでは当時のカルメン・マキ&OZなど)、70年代のロック・フェスなどでは、特に珍しくもなかったはずだが、語り継がれるエピソードがほとんど見当たらないのをみると、どうやら得るところはあまりなかったようだ。
 もっとも問題としてはミュージシャン個々の力量というより、「曲」の違いの方が大きいだろう。
 もとはイギリスの酒場のメロディーだといわれるアメリカ国歌「スター・スパングルド・バンナー」と、西欧列強にストレスを受けた明治政府が、いわばあせってひねり出したような「君が代」との性格の違いはたしかに隔たりがある。
 ことさらジミ・ヘンの神秘化の上塗りをするわけではないが、絶頂の時期に(薬も手伝って)マイノリティのブルース(恨み節)的強調も多分に込めながら弾き放った、あの切れ切れのメロディーは、単にカッコいいというような代物ではなく、いわば地獄の底をのぞくような深さがあったのではないだろうか。そして、そもそもがすでに流行っていた旋律、つまり不特定多数の口に鍛えられ、集合的な記憶になっていた歌「スター・スパングルド・バンナー」としては、そのようなカウンター・パンチもあえて受け入れ、さらに総体として厚みを増して行くような、いかにも多民族国家アメリカらしいタフさを見せていたのではなかったろうか。
 翻って「君が代」だ。いかなる「他」のアレンジも受け付けない。それはいかにも免疫力のなさそうな、恐怖の裏返しの剣呑さだ。かつて卒業式でジャズ風の演奏をしたあの教師は、たかがアレンジひとつで、どれだけの仕打ちを受けたことだろう。楽しい「君が代」、踊れる「君が代」などお呼びでないのだ。したがって昨秋の清志郎氏の一件も、その意味では「君が代」の豊富化に貢献したとか、なんらかの蓄積になったりはしなかった、といえるだろう。ほとんど唯一の消極的な意味は、推奨しかねる「他」のアレンジながら、そういう社会的存在もある、と一定の認知を促したことにつきるのではないか。
 そう、つまり「君が代」はジミ・ヘン的「異化効果」を必要としていない。すでにそれは地獄のようにおぞましいのだ。音楽として日本的な権力の闇を背負っている。
 この点では、どんなうら若い女性ボーカル独唱であろうと、どんな糞ジャズ親父が演奏しようが、同様の引きつった表情が聞こえてくるように感じられる。なにかの亡霊が背後霊のようにはりついているみたいだ。ところで、ここ数年、スポーツ・セレモニーなどでのミュージシャンの「君が代」動員も無視できない広がりを見せていること、こちらのチェックも要注意だろう。
 さて、もうすこし音楽的に考えてみよう。たかが童歌のような限られた音階による旋律。しかし異文化的アレンジを許容しないからといって、こと音楽的には必ずしも弱さの証明とばかりは矮小化できないのではないか。
 整理してみると、一八八〇(明治一三)年、宮内庁雅楽部のほぼ集団的な創作により、あの旋律が定められたのは、お雇い音楽教師J・W・フェントン(英軍)の進言で作業が始められてからじつに一〇年後のことだ(フェントン自身による第一作は失敗。明るい牧化的な旋律だった)。当時雅楽部の連中は軍楽隊を除けば唯一西洋音楽の習得に励む国策的音楽の最前衛だったといえる。ただし根は雅楽(ここで文脈に即して雅楽について触れるのは簡単ではないが、宮廷音楽としてのさまざまな政治的要素を仮に捨象してみると、システムとしても協調・求心性と個々人のランダムさ・誤差の問題を、ある種「確率的」に解決していく興味深いものであるし、各パートの響きのなかには近世の世俗音楽には伝わらなかったような、力強く倍音ゆたかな音色が残っていて、案外なめたものではない。むしろここから使えるものは奪還していく方向性が必要だろう)。
 閑話休題。「君が代」生成を音楽的「自己神秘化」のはじまりと評した知人がいるが、いい得て妙だ。つまり五線譜に書かれた最初の「日本」を表象する音楽であり、またいいかえれば西洋音楽からの視線を内在化させた最初の雅楽的新作曲であった。
 さらに無視できないのは、現在まで貫徹されている、あの不気味な管弦楽アレンジによる重さだ。とくに複雑ではない、むしろシンプルな編曲ではあるが、フェントンの後釜、ドイツ人のF・エッケルトによるものであり、それはあの一本の旋律、草笛でもふける単純なメロディーと不即不離の音楽的武装だったといえる。
 あの鈍重なユニゾンや、下方へと降りていく三度の低い響き、このなかにエッケルトが調合したもの、そのなかにゲルマン的な暗さだけでなく、近代の闇とでもいうしかない響きがあるとすれば、エッケルトは何が求められているのかよく理解していた、といえるかもしれない。
 さて現実に戻らなければならない。いろいろ講釈を垂れてはみたが、やはり地道に拒否の網を張っていくしかないだろう。私個人は国の歌など不必要と考えるし、もちろんそうでない人々の、例えばオリンピックで歌うウタがないと困る、などの意見が多数だとしても、歌わない自由もまた断然保証されなければならないと考えるからだ。
 それにしてもある意味でもっとも横暴な事件だったのは「君」の定義付けなど、歌詞の解釈の政治的決着ではないだろうか。こんな火事場泥棒的な出鱈目があるだろうか。ぜひ戦闘的文学方面からのご教示を願いたいものだ。(了)
(『反天皇制運動じゃ〜なる』30号、 2000.1.19号)

《「憲法論議」を論議する》

われわれにとっての「憲法論議」とは

栗原幸夫●「文学史を読みかえる」研究会


 昨年八月の、こちら側の連戦連敗という事態を見ていると、たしかに向こう側が一方的に勝利して、彼らのいわゆる戦後国家の超克というプログラムが、着々と実現しているように見える。海外派兵の可能な「普通の国」、天皇の政治的機能の強化による国民統合、戦後民主主義の最終的な清算、それらの仕上げとしての改憲。――事態は一見、このような彼らの明確なプログラムにしたがって進行しているように見える。しかし本当にそうなのだろうか。
 この、いまわれわれの眼前で進行している事態を、もう少し違う角度から見てみよう。違う角度とは経済の方からという意味で、政治的な出来事も一度は経済の方から見るというかつては常識だった方法が、近頃はすっかり馬鹿にされ忘れ去られてしまっているのは嘆かわしいことである。そして経済の方から見た現在の日本国家は、とうてい向こう側の連戦連勝などと言えるようなものでないことは、誰の目にも明らかなのだ。九九年度末の国債発行残高は三三四兆円。地方自治体の公債をあわせると国の抱える長期債務(借金)は約六〇〇兆円だ。二〇〇〇年度末の国が抱える借金は国民一人当たり五四〇万円になる。
 総理大臣・小渕は「私は世界一の借金王」と言っているらしいが、冗談ではない。その借金は国籍を問わず、日本列島の住民みんなの肩に税金という形で転嫁されるのだ。そんなことができるのか。また政府の首脳は「深刻なのはよく分かった。どうしたらいいか教えてほしい」などと言っているらしいが、あいかわらずの公共事業中心のバラマキ予算を組んでいる。彼らのやっていることは、利権と権力に執着した「後は野となれ山となれ」というニヒリズム以外のなにものでもない。整然としたプログラムなど何もないのだ。
 日本国家の崩壊は、なにも財政に限ったことではない。選挙を回避しながらの政権党の数合わせのための離合集散は、議会代表制の機能喪失を誰の目にもあきらかにした。いまやこの国の政体を議会制民主主義だと考えるようなお人好しはいない。崩壊は治安機関にまでおよんだ。神奈川県警の一連の事件は氷山の一角に過ぎない。汚職事件は自衛隊でもおこった。そして国民教育の全般的な崩壊である。崩壊したのは「学級」だけではない。いまわれわれが目にしているのは、日本という国民国家の全般的な崩壊現象なのである。
 かぞえあげればきりがないこのような崩壊現象にたいする向こう側の対応が、新ガイドライン、周辺事態法であり、盗聴法、住民基本台帳法のような一連の治安立法であり、天皇による国民統合の再構築(日の丸・君が代法制化)であり、日本をこんなにしたのは戦後憲法だ、だから「人心一新」のために憲法を変えろという改憲論である。彼等の危機意識の中心にあるのは「周辺事態」ではない。一人当たり五四〇万円の借金を背負い込まされた日本列島住民の反乱なのである。その反乱に在日米軍が要請に応じて日本列島のどこにでも鎮圧に出動できる体制の整備のための法的保証こそ、ガイドラインであり周辺事態法であり有事法制なのである。
 このなかで向こう側が中心に考えているのはいうまでもなく国民統合の再構築だ。しかし天皇を中心にそれを実現しようという彼らの思惑は成功しないだろう。もちろん彼らはこれからもあの手この手を考えてくるだろう。しかし先日の「天皇即位十年をお祝いする国民祭典」なるものが暴露したように、天皇制の大衆化にははっきりした限界があり、それはけっして若者のサブ・カルチャーにまでその触手を伸ばすことはできないということ、また天皇の再神格化を望む者も、天皇制自体が米国の国益によって生き延び、安保条約と沖縄の長期占領を貢ぎ物として保身を計った昭和天皇の所業が知られている以上、天皇とナショナリズムの間には非融和的な歴史があること、そしてなによりも、天皇主義右翼、たとえば神社本庁や日本会議がじつは理念とは遠い利権集団でしかないこと、などによって天皇中心の国民統合の道は彼らが夢見るほど簡単ではないのである。また天皇中心の国民
統合という路線は夢よもう一度ということで、それによって日本の未来が見えてくるということもない。 おそらく向こう十年ぐらいの間に「財政再建」の名のもとにおこなわれる収奪にたいし、列島住民の爆発をおさえる有効な向こう側の方策は、テンノウヘイカバンザイではなく、反米ナショナリズムだろう。経済的には円を基軸通貨とするアジア経済圏、軍事的には日本の独自の再軍備と地域的な安保体制の創設、つまりあたらしい大東亜共栄圏構想であろう。この構想にとって汚物にまみれた天皇制はむしろ邪魔なのである。天皇制を「九重の雅び」に封じ込めようという一部右派の「放言」には多少の現実味がある。
 アジア主義もナショナリズムも過去において右翼の独占物ではなかった。むしろ左翼こそが理論的にも実践的にもその推進者であったのである。安保世代が中心を占めている現在の官僚制度は、転向者・革新官僚が「新体制」(真の意味での「国家社会主義」)のプランナーとなった戦時中の状況と、似ているように私には見える。彼らが何を考え何を構想しているかは、とくに注目する必要がある。この国の政治を自民党や野合連立政権のレベルでだけ見ていると、とんでもないしっぺ返しをうけることになるだろう。
 テーマは憲法論議である。それなのになんでこんなことを長々しく書いたのか。それは改憲論が現実味を帯びてきたその現実的な背景をまず認識する必要があると考えるからだ。憲法論議は言うまでもなくこの国をどのようなものに作り替えるのかという、いわば理念についての議論が中心になるが、しかし憲法自体はあくまでも現状の確認でありその法的な規定であって、実現すべき目標をのべるものではない。憲法は理想でも綱領でもないのである。だからわれわれは向こう側が仕掛けてくる憲法論議を、憲法論議の枠から引きずり出さなければならない。もちろんその前提として、憲法論議をまず国会の外へ解放しなければならない。そして憲法論議がじつは護憲・改憲という対立ではなく、この国の改造のプログラムとそれを実現する主体の形成をめぐる対立なのだということを、明らかにしていかなければならないのである。(なお、私の憲法観については十年ほど前に「憲法のイリュージョンについて」という短文を書いた。私のホームページ〔http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_5/kennpou.html〕にあるのでご参照いただければありがたい。)
(『反天皇制運動じゃ〜なる』30号、 2000.1.19号)
   


「やったぜベイビー」から流産へ
「御懐妊の徴候」大騒ぎの後

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 十二月十日の『朝日新聞』の雅子の「懐妊の徴候」スクープから始まった、マスコミのフル回転の「おめでとう」の大騒ぎ。ウンザリした気分でいたら、十三日検査、正式に懐妊とはいえず、マスコミの騒ぎへの自粛要請(宮内庁発)ということになる。アレアレ報道協定づくりへ向かっているのだろうが、それにしてもと思っていたら、三十日夜、再検査で流産の発表。
 あふれかえった「おめでとう」騒ぎの記事を読みなおすと、シラジラしさはひとしおである。一紙だけ紹介しよう。『サンケイスポーツ』(十二月十一日)、一面カラーで皇太子と雅子の半身写真が大々的にあり、「雅子さまご出産」の大見出しに「おめでとう」「ミレニアム8月上旬」「ご成婚7年目……待ちわびたコウノトリついに!!」という小見出しが添えられている。一面のはじに「本日は『雅子さまご懐妊特集』のため特別紙面構成になります」とある通り、二面三面(カラー)の上横(全体の四分の一ぐらい)に「やったぜベイビー」の大見出し、「不景気ムード吹っ飛ぶ」「ご結婚7年目の慶事」「皇太子殿下『第一子』」「列島 興奮、喜び縦走」の小見出し。記事の中の見出しはこんな調子。「ご結婚の時と同じ。マイペース貫く」「おめでたケーキなど……セール考えます」「経済効果につながる」「株価もご祝儀相場を期待」「日本が待ちに待った吉報」。
 各紙(誌)ともほぼ同じトーン。内容は見出しだけで、読まなくてもわかる。すべてのマス・メディアが「女性週刊誌」化してしまった。テレビも内容はほぼ同じ。
 『週刊新潮』(一月二十日号)には、スクープした『朝日新聞』に対する、カラカイのしあげとでもいった記事がある。
 大スクープにはしゃいだ『朝日』は、年明けに折り込むPR版の中に「ご懐妊スクープ」の宣伝を大きく掲載していたが、三十日の発表で、うろたえ、全国の販売店から回収という騒ぎになったというのだ。
 「朝日新聞販売局の有力OBによれば、/『PR版には1部あたり10円のコストがかかっており、今回のケースはすべて回収ですから、最低でも4500万円の損害が発生しています。通常なら、会社に1000万円以上の損害を与えた場合、その関係者には当然、しかるべき処分が下されますが、今回の企画は社のトップの方からの指示によるものらしくて、責任を問う声すらあがっていないそうです』/というから、社を挙げて世紀のスクープに浮かれていたのだろう」(「雅子妃『流産』で密かに回収された『朝日』PR版450万部」)。
 『朝日』に続いてハシャいだことを忘れたかのような、他のマス・メディアの「雅子さまの気持ちを無視、人権を考えない」スクープへの非難の声が、宮内庁の怒りをバックに、かなり出だして、その後流産となった時、この大ハシャギ『朝日』は、弁解の記事まで出すしまつ。公人中の公人の国民の関心事だから書いた、という主張。
 確かに、皇太子と雅子のセックス(子づくり)に「国民はこぞって関心を寄せよ」という姿勢でマス・メディアが横ならびしていることは事実だ。だから、こぞって大ハシャギだったわけである。
 ステロタイプな発言ばかりの「おめでとう」騒ぎの中で、私がオヤと思ったのは、雅子の母親の『毎日新聞』(十日夕刊)の、「もし違っていたら」「傷つくだけ」「心配」と涙ぐんだという記事。喜びの涙とも読めなくはないが、子供ができないプレッシャーで悩み抜いた娘が、こんなに騒がれて、もしできなかったら娘はどうなってしまうのかという母の心配の方が、「喜び」なんかをこえていることがよく示された発言。彼女の心配した通りの結果になったのだ。
 流産の事実が報道された時、私は、この母の発言を思い出した。
 私は、雅子やその母に同情しているわけでも、同情すべしと主張したいわけでもない。セックスが公務中の公務であり、マス・メディアがその「私的=公的」生活をのぞきみすることに耐えるのが天皇一族の公的任務である。情報社会の象徴天皇制というものは、そのようにつくられてきたのだ。優秀なエリートである雅子は、その事を十二分に知りながら、おそらくその超特権的身分へのあこがれもあり、皇太子と結婚する道を、いろいろ圧力はあったとはいえ、最終的には自分で選択したのだ。
 「御懐妊」大騒ぎ、そして「おいたわしい」大騒ぎとマスコミはハシャぐ。あげくに「雅子さま」が心配だからあまり騒ぐべきではないなどと「騒ぐ」。どうなったって、マスコミあっての象徴天皇制の「悲劇=喜劇」だ。
 雅子に同情すべきなのではなく(それが天皇制を支える!)、こんないろいろな意味で非人間的な制度をどのようになくしてしまえるか、このことに関心が集中されるべきなのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』30号、 2000.1.19号)

 

《沖縄の闘い》

基地の「押しつけ」と「戦争の記憶」の改竄−−「検証・平和資料館問題」(『けーし風』)を読む

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 12月19日夜、沖縄に着いた。21日の那覇市与儀公園での普天間基地の県内移設に反対し、基地の撤去を求める「県民会議」の集会に参加。公園は8000人の人でいっぱいになった。名護市議会の普天間基地の移設整備促進決議が成立する直前という状況下での集まり。
 元知事大田昌秀はストレートにそう発言していたが、「命どぅ宝」を「銭どぅ宝」に変えてはならない、金(取り引きとして提示されている振興予算)で命を売るなという切実な気持ちと、基地の押しつけへの怒りがあふれた集会であった。特に移設予定地とされている名護の人々の声をふるわせた抗議の発言への共感は会場全体を包みこむものであった。
 翌日22日は朝から名護市議会の傍聴。反対派の議員は、実に説得的に、まったく具体的内容も示されていない段階で基地受け入れを急ぐ賛成派の主張を、こまかく、かつ鋭く批判していた。しかし、この日、数の力で、促進決議が採択されてしまうことは、残念ながら、ほぼ明らかな状況であった。夜の飛行機に乗るため、延長されている市議会を後にした。
 年内に、岸本名護市長も受け入れを表明するという、日本政府の「シナリオ」にそった展開は阻止できず、やはり市長のリコールという反撃で、本格的な「移設反対」の運動があらためて地元で始まることになるのだ。どんな協力が私たちに可能か、「本土(ヤマト)」の私たちがしなければいけない日本政府への抗議の動きをあらためてどうつくるのか。帰りの飛行機の中で、そんなことをあれこれ考えた。
 もう一つ、沖縄の問題で私が気になっていることがあった。沖縄メディアでも、すでに大きく扱われることはなくなってきた新平和祈念資料館と八重山平和祈念館の展示改竄の問題である。
 『けーし風』(第25〈1999年12月〉号)が「検証・平和資料館問題」という特集を組んでいる。その「特集にあたって」という文章で屋嘉比収が、こう書いている。
 「新平和祈念資料館問題・八重山平和祈念館問題が、8月に新聞に公表されてから 11月中旬までの3ヶ月のあいだに、地元2紙に掲載された関連記事は、50点を超えている。/この数字は、この資料館問題が沖縄県民にとって、いかに大きな出来事であったかを、如実に示している。/一方、本土紙では、この資料館問題に関する2、3の記事を除いてはほとんど報道されていない。その事実は沖縄戦の認識において、本土と沖縄の関係を考えるうえで大きな問題をはらんでいる。本特集ではとくに記録性を重んじて、本土の読者に資料館問題の経緯が全般的に把握できるようにした」。
 『けーし風』ならではの、タイミングのいい企画である。沖縄メディアで大きな問題となっても、「本土(ヤマト)」のマス・メディアでは、特別な局面以外は無視というのは基地問題についても同様であるが、この件については、「本土(ヤマト)」のメディアだけ見ていたら、いったい何がおき、どういう事になっているかが、さっぱりわからないという状態である。
 日本政府の意向を先取りして、沖縄戦での住民に対する残虐さを薄める方向への改竄が、「反日的」ではまずい、「国策」にそって、という稲嶺県政が直接に介入することで、なされた。知事らは自分たちがそうさせたことを隠し続けたが、それがだんだん明らかにされていったのである。改竄は、一応ストップされた。しかしどういうものにまとまるかは、まだはっきりしない。この新しい平和祈念館づくりで発生した問題が八重山平和祈念館の問題をも明らかにする契機となった。
 「沖縄戦終結間近の1945年(昭和20年)6月、八重山では、風土病の悪性マラリア有病地帯として恐れられていた山岳地へ日本軍による住民の『退去』が行われた。その結果多くの住民がマラリアに罹り、3600余人が犠牲となった」。
 この「全住民の有病地帯への一掃移動の『退去』命令」。この軍の命令を隠し、民家をも押しつぶす米軍の攻撃の残忍さを含めた、戦場の悲惨さを薄める方向で変更はなされた。
 「さらに、館内の展示計画及びキャプション等については、監修委員、専門委員によって作成された計画内容が、現県政に代わり、新平和祈念資料館との整合性をはかるという理由で密かに改竄されていることが明らかになった。のちに監修委員に示された改竄の理由は、(1)正確さ、(2)出所を明らかにする、(3)推量を避ける、(4)簡素な表現にする、となっている」(引用は、潮平正道の「祈念館建設及び記念碑建立に携わって」〈『けーし風』25号〉)。
 日本の植民地支配・侵略戦争の事実を隠す、あるいは正当化する方向へ事実をネジまげようという「自由主義史観」グループなどの思想や動きと対応させて、この問題を考えることはまちがいではあるまい。しかし、日本(ヤマト)に構造的に差別されている側の行政が、そうしているのだ。だから二つはストレートに同列に論じるべき問題とはいえない。
 しかし、日本の派兵国家化と右派の戦争の歴史の書きかえとが対応しているように、沖縄の基地の強化のための移設の押しつけと、戦争の「記憶」の書きかえという事態は対応している。
 私たちは、国家の軍隊・基地による「安全保障」という論理に、軍隊・基地の存在を拒否し国境を越えた民衆相互の連帯と交流による「安全保障」(=「民衆の安全保障」)を対置してきた。
 この「民衆の安全保障」という思想は、必然的に「戦争の記憶・歴史認識」という土俵でも「改竄派・隠蔽派」と闘える内実を持ったものでなくてはなるまい。
 稲嶺県政のブレーンとして高良倉吉の名が上山和男の論文(「新平和祈念資料館問題と全国的な加害展示への攻撃の動き」『けーし風』25号)であげられている。
 改竄政策を支える思想(論理)を、より緻密に批判的に対象化することは、私たちにとっても今後の重要な課題であるはずだ。
(『派兵チェック』No.88 号/2000年1月)

《書評》

原子力政策の「歴史的アセスメント」と公共政策への民主化への提言

吉岡斉著『原子力の社会史 その日本的展開』〔朝日選書、1999年4月、1500円+税〕

小山俊士●反天皇制運動連絡会

 9月30日の東海村のウラン加工施設JCOでの臨界事故は、放射線を被曝した社員から死亡者を出し、周辺住民をも被爆させるなどした。ここであらためて原子力の安全性や原子力産業の体質、科学技術庁の管理体制といった問題が問われてきているのだけれど、そうしたことは90年代に何度も起きた事故と、西欧の原発離れが明確となっていく中で繰り返し問われてきたことである。4月30日に発行された本書は、この事故を予測していたというわけではないだろうが、経済情勢の変化や社会的批判にもほとんど影響されずに、拡大の一途をたどってきた日本の原子力開発の歴史を分析することを通して、問題がどこにあるのかを明らかにするものと言えないだろうか。
 著者の吉岡は、前著『科学文明の暴走過程』(海鳴社、1991年)で現代科学という対象に対するマクロ構造学的な分析を行い、それを自己増殖し暴走する癌細胞という比喩でとらえて批判する枠組みを提示している。その理論的描像を、戦後日本の科学技術史の中から事例を選び、検証しようとしたのが本書であると言えよう。そして、吉岡も編者の一人となって発行されている『[通史]日本の科学技術』(学陽書房、 1995年〜)に纏められている戦後科学技術史の共同研究が行われており、その中での日本の原子力や核政策についての研究が土台となっている。もう一つ本書の中に述べられていることだが、吉岡は、95年12月の「もんじゅ」事故後に設置された高速増殖炉懇談会(1997年2月21日設置)に、ただ一人の高速増殖炉開発に反対する専門委員として参加し、少数意見を述べたという。そこでは、事務局(科学技術庁)が主導して性急なとりまとめを行い、高速増殖炉推進路線の継続が決まったわけだが、そうした具体的なやりとりを通じて経験した科学行政の実態を加えたことで、批判的な歴史分析によりリアリティが与えられたようだ。
 日本の原子力政策は、電力・通産連合と科学技術庁グループの二つのサブグループからなる原子力共同体が、原子力政策に関する意思決定権を事実上独占するという〈二元体制的サブガバメント・モデル〉によって捉えられるという仮説のもとで、通史を追いかけていく。戦後の原子力政策の展開について細かく時期区分を行っていくが、それは日本の原子力開発利用は、外部勢力の介入から保護された空間内で、二つのグループの縄張りの境界領域における小さな勝利と敗北をくり返しつつ、事業の「安定的・包括的拡大」という発展パターンを描くこととなった、というものとして概括されている。実際、1970年代以来、経済状況やエネルギー需要の変動とは関係ないかのごとく、平均年2基ずつ原子力発電所の増設が進められてきたという歴史は、あらためてしめされると驚かされるものがある。本書が「社会史」であるということから分析は主として経済的な面についておこなわれており、もう一つの政治的な面、核兵器開発のための潜在的な可能性を保持し続けるということについては簡単に触れられている程度である。
 吉岡は戦後の原子力政策の妥当性に対して、各時点において発揮しえたと想定される最高の知恵に照らして、それぞれの時代の政策判断の妥当性を評価する「歴史的アセスメント」を試みている。評価は次のようなものだ。“原子力は軍事面では非常に大きな影響力を発揮してきた。原子力発電事業からの段階的撤退という路線を、世界と日本が選択することが妥当である。”ただし、この評価は政策判断の合理性によるものというよりは、意思決定のプロセスの非公開による限定された材料による結論であるとされ、国家の安全保障と経済的利益の追求という目標のもと、行政と資本が情報と政策決定を独占し、その政策判断が合理的であったかどうかの検証すらできない戦後日本の科学技術政策に対する批判という面が強く打ち出され、公共政策の民主化、すなわち、日本の「市民革命」を求めた提言であるとも言える。
 原子力政策は、いくつもの事故や立地の困難といった要因により、プルトニウム利用路線が行き詰まり、軽水炉建設も1997年から2002年までは新規発電所開発計画がブランクとなっているものの、計画の上では、2005年以後の大増設がうたわれており、決して「段階的撤退路線」を選択したものとはなっていないという現状が述べられている。政策決定プロセスの民主化ということに関しては、政界再編や官庁の問題噴出といった状況も手伝って、一定程度の情報公開等が進んだものの、現在の国会では、保守政党の野合の下、官僚主導で重大な法案がほとんど審議なく通過していくような状況になっている。原子力行政にいたっては、合理的な政策論争を提起しようとする政党すら見あたらない中、従来の路線が継続されていくのであろうか。原子力政策に限定せず、そうした政策決定過程をどのように変えていくのか、ということが依然として大きな問題として残ることを感じさせられた。
(『派兵チェック』No.88 号/2000年1月)

《書評》

戸井昌造『戦争案内 ――ぼくは二十歳だった』 
(平凡社ライブラリー 一八〇〇円+税)

たま●高校教員

 後書きにあるのだが、著者の戸井さんは、自分の年を言う時、戸籍の年から三つ引くそうだ。二〇〜二三歳の三年間。「このうらみは書きとめておかねばならぬ、そうでないと、ロスは永遠のロスになってしまう」。そのうらみ本が八六年に晶文社から刊行されている。それが、平凡社ライブラリーとして再刊された。
 二〇歳で学徒出陣。福井の鯖江、千葉の習志野で迫撃兵として訓練を受け、中国大陸に渡り、小隊長として指揮もとる。敗戦で捕虜になり、栄養失調になりかけるが、得意の絵で何とか食べ、無事帰国する。三年間の体験談だ。その体験がさし絵入りで、絵ときで解説されている。当時身につけていた物や服、食べたもの、歩兵銃のしくみから、ゲートルや襟布の巻き方に至るまで。著者の本業がえかきなので当たり前かもしれないが、このさし絵が実にわかりやすくてよかった。兵隊とはこういうものだ。当時の軍隊の様子・文化(?)を伺い知ることができる。
 印象に残ったのは、兵隊としてつくられていく所だ。「こんなことバカバカしい」というセリフが何度も出てくる。そこで『軍人勅諭』の暗記をサボり、東条のアジテーションにのっての雨中の大行進をサボり、軍に対して反抗したりする。しかし、シゴキやイビリ、徹底した階級社会の中で、兵隊につくられていく。「ひとりの人間が兵隊にしたてあげられていく。いまの人はふしぎに感じるかもしれない。だが、ぼくらにはさしたる抵抗感はなかった。すでにそれまでのあいだにぼくらはきびしい軍国主義教育をうけてきたからだ。小学校のころから君が代がきこえたら直立不動。「日の丸」や神社のまえでは最敬礼し、下級生は上級生に挙手の敬礼――そんなことが習慣として身についていた。敬礼にもカッコイイやりかたがあったし、よくできないとカッコよくなかった。それとはべつの生き方があるかもしれないなどとは、かんがえたこともなかった」(本文より)。
 ここ数年の教育現場への厳しいしめつけや、去年の国旗・国歌法の成立など、年々、「日の丸・君が代」反対の声を上げるのが難しくなってきている。これが習慣化されれば、何となく兵隊につくられていくのは、昔話ではない。
 それから、シラミのつきやすいところ、南京虫のひそんでいるところの話が、面白かった。さし絵には虫の拡大図と、虫のいるところは×印が示されていて、シラミが血を吸うと腹が黒くなること、どちらも割れ目や縫い目を好むことがわかる。自分の肌着の中で体温であたたまり、どんどんシラミのたまごが孵化していく。最初はゾッとした著者も、だんだんそれがかわいいと感じていくようになる。「いつ殺されるかわからないままに腹はへる。その苦しみに耐えているうちに、日常的な感覚になる。苦しみが苦しみじゃなくなってくる」「地獄と日常とが次第に近づいてきて、ついに同じものになってしまう」(本文より)。人間の感覚なんて、非日常では簡単にマヒしてしまうものだと思った。
 いよいよ戦場の漢口に入り、明日死ぬかもしれない時に、童貞を捨てにいく所がある。非人間的日常の中で、明日死ぬやも知れぬという時、セックスは人間性を取り戻せる唯一のスベなのだろうか。ちょっと引っかかるところもあるが、総じて面白く、スルッと読める本です。私は帰省の電車の中で、一気に読みました。ぜひ、読んでみて下さい。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』30号、 2000.1.19号)