alternative autonomous lane No.19
1999.8.19

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目 次




【議論と論考】

国旗「日の丸」の消滅に向けて(栗原幸夫)

国家は、ひとりの人間に対して、自発性以外の根拠にもとづいて、なにごとかをなさしめうるか?(彦坂諦)

首相の公式参拝への「環境整備」とは何か――「日の丸・君が代」法制化の次にくるもの(天野恵一)

「名誉回復」という問題――粛清・査問文化をめぐって(天野恵一)

【書評】

闘いのなかからの未来への展望―新崎盛暉・天野恵一『本当に戦争がしたいの!?』、新崎盛暉『政治を民衆の手に―問われる日本の針路』(武藤一羊)













国旗「日の丸」の消滅に向けて

栗原幸夫●文学史を読みかえる研究会


 江藤淳への追悼文(「江藤淳氏を悼む」、7月22日『朝日新聞・夕刊』)のなかで福田和也がつぎのように言っている。――「ガイドライン問題なども含めて、世情は『保守派』江藤淳が主張してきたように事物が動いているように見える。しかし現在進められつつある『保守』政策のほとんどすべてが偽物である事、〔中略〕――氏はガイドラインを米国による占領の拡大として批判していた――を江藤氏は明確に認識されていた。氏が亡くなった日、衆院内閣委員会で国旗・国歌法案が可決されたのは極めて皮肉だったと思う。このようにイカサマな手続きで、でっちあげられていく『国家』など、江藤氏はけっして認めはしなかっただろう。それは氏の喪失をさらに深くする事態だったのではないか。」
 現在の情勢を、ここで福田が言っているように「保守派」が従来主張してきたとおりに動いていると見る人は、われわれの仲間にも多い。この人たちは現在の政権与党が未来に対するはっきりした青写真をもち、それにいたる戦略・戦術にしたがってこれら一連の法案を強行していると見る。
 しかし本当にそうであろうか。自自公という、目先の政権欲にかりたてられた数合わせに奔走する政治屋たちがでっちあげた、恫喝と相互依存の連合の力学によって、はからずも現実の政治課題に浮上させてしまった国旗・国歌法案、盗聴法案、住民基本台帳法案だったのではないか。保守政治にとって長年の懸案であったこれら一連の「改革」あるいは実質的な改憲を意味する法案が、議論らしい議論もなしに実現していく現状に、われわれだけでなく、真正保守あるいはチョー右派である福田や江藤が、なぜこのように強い不快感を表し危機感をもつのか。そこには現在進行中の事態を考えるうえで興味ある示唆が含まれているように思われる。
 問題の真の所在を「日の丸」を例にとって考えてみよう。
 周知のように「日の丸」が日本国のマークとして公認されるのは1854年、徳川幕府によって「日本総船印」として布告されたのがはじまりである。明治維新以後もなおしばらくは、「日の丸」は日本船が海外で国籍を明示するためのマークとして使われてきた。他から自分を区別するためのマークとしてのこの「国旗」が、「大日本帝国」のシンボルとしての「国旗」になるためには、一つの条件が不可欠であった。その条件とは、「国民」的経験としての戦争である。富国強兵を追求して出発した日本の近代化があいつぐ戦争と不可分であったことは、過去の社会科学や歴史学が明らかにしてきたところだが、これはまた、「国民」の大多数がみずから積極的にこれらの戦争に参加したということでもあった。この戦争という「国民」的経験の蓄積のなかでマークはシンボルとしての「国旗」となった。だから先日のシンポジウムで北村小夜さんが、「日の丸・君が代」と一括して言うけど、「日の丸」の方がはるかに大きな問題だと言っていたが、まったく同感だ。
 このような認識に立てば、「日の丸」をどうするかという問題は、「国民」のなかに継承された戦争の経験、戦争の記憶をどうするかという問題なのである。それはもちろん歴史認識に深くかかわりながら、しかしそれよりもはるかに深い、ある意味では「闇」の部分をもつ領域だ。戦後の進歩主義は、占領軍の意図に沿って「国民」を軍国主義の被害者に仕立てあげることによって、この「国民」的経験から「闇」の部分を排除し封じ込めたうえで、科学的と称される歴史観によって戦争を弾劾するだけに終わった。しかし経験や記憶は抹殺されることはない。被害の記憶には場所があたえられても戦争への参加の記憶は抑圧され情念として闇に蟠る。その闇のなかには大岡昇平が『俘虜記』で描いたような汚れ潮垂れたものか、あるいは青空に翩翻と翻っているか、さまざまな形をとるにせよ日の丸が生きている。それを表にひきだし、「日の丸」をシンボル=国旗たらしめた「国民」的経験を肯定的に位置づけることなしに、政治ゲームのなかで拙速に法制化することは、問題の正統的な実現の邪魔になるだけだ、というのがチョー右派の彼らなりのまったくまっとうな現政権にたいする批判なのである。しかしこの地点でわれわれはチョー右派のセンセイたちと180度の分かれ方をする。彼らがめざすのは戦争の記憶の肯定的な再評価とその国家への集約でしかないからである。
 われわれにとっての「日の丸」問題の真の解決=「日の丸」の無化とは、このような「国民」的経験と記憶をどのように解き放ち、どのように国家に収斂されないあたらしい共同性へと昇華させるかという問題なのである。シンボルを消滅させるためにはそれをシンボルたらしめている現実を解決しなければならない。シンボル(たとえば国旗)を焼き捨てることはできても記憶は焼き捨てることができない。
 戦争についての閉じこめられた経験と記憶は、戦後の平和主義、とくに平和憲法とのあいだである種の"ねじれ"をうんだ。その"ねじれ"を正当に問題化したものとして、多くの異論をもちながらも私は加藤典洋の『敗戦後論』を評価した。多くの友人たちの顰蹙を買いながら……。その加藤は「日の丸」法制化に賛成してつぎのように言う。
 「日の丸が悪いイメージを引きずっているのは、戦後の日本がいまだに戦争の負債を返済しきれていないからで、日の丸はそのことの象徴なのである。もしこれが悪いイメージの汚れた国旗だというなら、それを引き受け、それを少しでもよいイメージのものに作り変えてゆくことが戦後の日本に求められていることだろう。もしこれを簡単に捨て去るなら、そのことこそ、被侵略国の心ある住民の不信の種になるはずである。」(5月11日、『毎日新聞』・夕刊)
 『敗戦後論』でせっかく戦後の"ねじれ"を引き受けようといったのに、なんだ引き受けたのは「日の丸」か。このボケ!
(『派兵チェック』No.83. 1999.8.15号)















国家は、ひとりの人間に対して、自発性以外の根拠にもとづいて、なにごとかをなさしめうるか?

彦坂諦
●作家

 電車のなかでたまたま読んだ雑誌のなかのつぎのような発言を発見して、私は個人的な怒りにつきうごかされた。

 むしろ僕がひっかかるのは、教育現場において日の丸・君が代を法制化することをある種の強制力と捉えていることについてです。(……)そもそも、国家である以上、個人を超えたもので、たとえば戦争状態になったらいかにして兵士の人員を調達するか、物資を調達するかということで、どうしても強制力が働く。(……)僕には国旗・国歌を強制されるのは嫌だという言い方そのものが国家権力対個人の権利・自由という図式にとらわれすぎていて、通俗的リベラル・デモクラシーに毒されているような印象があります。(「対論・主権国家にとってナショナル・アイデンティティーとは?――国旗・国歌問題が問いかけていること」『世界』六月号、イタリックは引用者)

 なんたる言いぐさか! 人間を「物資」のように「調達」するなんて、たとえ「戦争状態」であっても許されるべきことではない。「戦争状態になったら」だって? 「戦争状態」とは自然現象ではない。人間がそれをつくりだすのだ。「強制力」だって自然に「働く」のではない。国家権力がそれを行使するのだ。
 国旗を「掲揚」しろ国歌を「斉唱」しろと強制されるのは、私は嫌だ。この私の嫌悪の表明を、「社会思想史・社会経済学」の研究者であらせられる佐伯啓思先生は、いとも無邪気に、「国家権力対個人の権利・自由」という「図式」に「とらわれすぎ」た「言い方」といった型に分類なさっておられるのだ。「通俗的リベラル・デモクラシーに毒されて」いようがいまいが、「嫌だ!」というこの叫びこそ私が私でありうる根拠そのものであるというのに。

 国旗・国歌に反対する者も含めて、我々全員が、実はナショナルなものを前提にしている。だとすれば、そのナショナルなものの中軸になるものは、きちんと立てなければならない。それは精神的に言えば公共性〔パブリックネス〕・公民的精神〔シビック・ヴァーチュー〕というもので、公的儀礼の次元で言えば「想像の共同体」を体現するような象徴的なものとして、例えば国旗・国歌を設ける。それは私的な好悪の問題ではなく、国家公共性へのコミットメントの象徴です。繰り返しますが、実際にはナショナルなものの中で我々はものを考え行動しているにもかかわらず、それをあたかも認めないかのように振舞う、戦後の知的な風潮に、問題があったと思う。(前掲「対論」)

 「ナショナルなもの」ってなんだろう? 私のうちでは、それは民族的なものであっても国家的なものではない。私は国家的なもの「の中で」「ものを考え」たり「行動し」たりしていない。私は、民族的に日本人として生まれ育ったことを悔やんでいないし、たぶんだれよりも日本語を愛し日本の風土を愛しているが、しかし忸怩たる思いをいだかずにこのいまの日本国の国民であることはできない。どうしてこの私をほっといてくれないんだ?! この私をあなたの「我々」のなかに統合しないでいただきたい!
 どうしようもなく個人的な叫びをあげたせいで「主権国家」から殺された男がいた。第二次世界大戦中のアメリカでのことだ。エディ・スロヴィクはアントワネットを熱愛していた。彼女は彼の再生の原動力だった。貧民街に生れ育ち少年院への入出所をくりかえしてきたこの男が、生れてはじめて、彼女とともに生きる喜びを知ったのだ。(彦坂『ひとはどのようにして生きのびるか』下巻二〇一―二三七ページ参照)
 まさにこのとき、「戦争状態になった」「主権国家」が、「兵士の人員を調達する」必要に迫られてこの男を「徴集」し死の戦場に送りこんだ。彼は、「主権国家」が示した戦争の大義にはまったく関心がなく、愛する妻のもとに帰りたい一心で、戦場から脱走して、処刑されてしまった。南北戦争以来脱走の罪で軍法会議から死刑の判決を受けた者は大勢いたがじっさいに殺された者は一人もいなかった、というのに。
 彼だけがなぜ殺されたのか? 妻を愛しすぎたからだ。たいていのばあい、男たちは妻子を愛してはいるが、その愛は世間一般がそのなかにおだやかにとどまっている枠をはみだすことはない。なのに、スロヴィクははみだしてしまった。愛する妻との再会を彼はあまりに情熱的に望みすぎたのだ。過剰な情熱は良識の顰蹙を買う。
 妻とともに暮す幸福を、不当にも、アメリカ合州国が奪ったのだ、としか彼には思えなかった。だから、奪われたこの幸福を返してくれと国家に要求した。まさにこの点において、彼は、国家権力と原理的に対立していたのだ。だからこそ、国家権力にとっては、その彼の要求を認めることなどぜったいにできなかったのだ。
 ここに、根底的な問いかけがある。国家は、ひとりの人間を、自発性以外の根拠にもとづいて、兵となしうるのか? この問いは、いま私たちが直面している「国旗国歌法案」にひきつけて、つぎのように敷衍することができるだろう。国家は、ひとりの人間に対して、自発性以外の根拠にもとづいて、なにごとかをなさしめうるのか?
 強制はすでになされている。「国旗・国歌」に対する「尊敬」規定が省かれようが、強制はしないと政府がいくたび言明しようが、いたるところで、あからさまに、あるいは陰湿に、「日の丸」を掲げ(打ち振り)「君が代」を歌う(演奏・伴奏する)ことが現に強制されている。「国旗国歌法」が成立すれば強制はいっそう強まるだろう。考えてもみていただきたい、みんなとおなじようなことをみんなとおなじようにみんなといっしょにやろうとしなかったら、私たちのこの国ではどれほどすさまじい「いじめ」に耐えなければならないか!
 強制とは、文字通り理屈抜きの押しつけだ。大勢には逆らえないという暗黙の強制がすでに「定着」している私たちのこの国の風土のなかで、「法」といった可視的根拠を権力の側が手に入れたらどうなるか? ここにこそ、現に私たちの直面している問題は収斂する。
 侵略と差別のシンボルであった「日の丸」と「君が代」を国旗と国歌にすることに、むろん、私は反対だ。だが、「日の丸」だから「君が代」だから反対なのではない。「日の丸」や「君が代」ではない、「国民」のなかに自然に「定着」しうるような旗や歌があらわれたとしても、それを国旗・国歌と定めることには、私は賛成したくない。
 国旗も国歌も要らない、だけでなく、そんなもの有害無益でしかない、と私は思っている。なぜって、こうした旗とか歌とかいったものはひとびとをたぶらかす手段以外のなにものでもない、と考えるからだ。いや、このような旗や歌を必要とする状況そのもの、つまり「儀式」そのものが、つまるところ、ひとびとをたぶらかす手段以外のなにものでもないだろう。なぜ、ひとびとは、とうぜんのことのように、入学式や卒業式をするのだろう? なぜ、それは「儀式」でなければならないのだろう? なぜ、オリンピックやワールドカップでは、国旗を掲げたり、打ち振ったり、国歌を歌ったりするのか?
 だからといって、私は、みんなで旗を振りたいとかいっしょに歌って盛りあがりたいといった欲求を抑圧しようとは思わない。ただ、この私はまきこんでくれるな、と言いたいだけだ。それに、そのような旗や歌が国旗や国歌じゃなきゃいけない必然性ってあるのだろうか?(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.182. 1999.8.10号)
















首相の公式参拝への「環境整備」とは何か――「日の丸・君が代」法制化の次にくるもの

天野恵一
●反天皇制運動連絡会

 自民党が首相の靖国神社公式参拝への「環境整備」のための「有識者懇談会」を設置する方向で動き出した、という報道が八月六日の『読売新聞』に出た。そこで示されているのは「宗教色を薄める靖国神社の特殊法人化」というプランと「A級戦犯を他に移して祀る(『分祀』ぶんし)」案である。
 六日の午後野中広務官房長官が記者会見し、マスコミが、この問題を大きく取り上げた。八月七日の『毎日新聞』は関連発言をまるごと紹介している。
 「――自民党が靖国問題を検討するというが。
 ◇今世紀末を終わるにあたり、国家のために一命をなげうって犠牲になった人がまつられているが、そのありようは十分、整理されることなく五十数年が経過した。歴史をもう一度点検しながら、国民が国家の犠牲になられた人に心から哀悼(の意)を表し、総理はじめ、すべて国民が心から慰霊できるようなあり方を考える重要な時期にさしかかっているのではないかと個人的に思う。党内で考えられるとすれば、大切なことだと考える。
 ――A級戦犯分祀と神社の特殊法人化について。
 ◇内外に多くの犠牲を出した戦争だけに、誰かが責任を負わなければならない。東京裁判は(当否をめぐって)いろいろなことを言われるが、それとは別に(誰かが)戦争責任を負わなければならないと考えた時に、やはりA級戦犯に責任を負ってもらって、この方々を分祀することで、靖国はできれば宗教法人格をはずして、純粋な特殊法人として、国家の犠牲になった方を国家の責任でおまつりする。すべての宗教を問わず、国民全体が慰霊を行え、海外に出れば、総理が各国の国立墓地に献花するので、(逆に)各国首脳が来た時に、わが国の戦没者の国立墓地とでも申しますか、そういうものに献花できる環境をきちっとしておくべきだと思う。
 かつて中国のトウ小平が『もし、A級戦犯が分祀されるなら、私も日本に行った時に献花する』と言ったことを、私は唐家セン外交部長(外相)から聞いた。中国、韓国はじめアジア各国のわだかまりを解いていく(ため)にも重要な問題だと考えている」。
 この野中発言について、『読売新聞』(八月七日)は、こういう「政府首脳」のコメントを紹介している。
 「これに関連して、政府首脳は六日夕、『分祀は靖国神社を(宗教法人として)そのまま残す場合だ』と述べ、野中氏の発言はA級戦犯の分祀か特殊法人化のいずれかの措置が必要との趣旨であると説明。そのうえで、『無宗教の「国立靖国の墓地」に靖国神社を移行させるのが一番いいのではないか』と語った」。
 頭がカラッポを自認する首相の「政府首脳」らしい発言であり、この内閣の悪政をヨイショし続けているメディアの記者らしい、おかしな整理である。
 アレカコレカではなく、アレモコレモの提案と理解すべきなのだ。
 『毎日新聞』には、こうある。
 「1985年に初の靖国公式参拝を実現した中曽根康弘首相が翌年の参拝を取りやめたのは、同神社にA級戦犯が合祀されていることに中国が激しく反発したためだった。中曽根氏はその後、神社側にA級戦犯の分祀を働きかけるが、拒否される。同氏は今年5月、毎日新聞のインタビューに応じ、『靖国神社は宗教法人で独立の人格体だから、国が介入できない』と強調、宗教法人である限り、分祀は難しいという考えを示していた」。
 靖国神社側そして遺族も、政治的に「分祀」という方法に激しく反発して、拒否した。だから、今度は拒否できない「特殊法人」にまつりあげて「分祀」という提案と理解するしかないだろう(それとも「分祀」しなければ「特殊法人」化だ、という脅迫だとでもいうのか)。
 連立入りした公明党なら、この線でなんとかまきこめるだろうという判断もあり、靖国神社・神道主義右翼(自分たちの内部にもゴッチャリいる)路線との対決と説得ということがこの内閣で公然と開始されることになるのだ。
 目ざされているのは、天皇の神社「靖国」との国家の公然たる関係の回復である。しかし、それは単純に「国家神道」の復活ではない。宗教色を薄めた「靖国神社」と「人間天皇」を象徴とする「国家」の公然たる関係のつくりなおしなのであるから。
 「日の丸・君が代」の法制化、「靖国」と象徴天皇制国家の関係のつくりかえによる公然たるドッキング。
 これは、ポスト戦後(戦争のできる=戦死者のつくられる)国家への動きと対応した象徴天皇制という国民統合のシステムの新たなつくりなおしであることは明白だ。それは戦争へ向けた「環境整備」である。
 象徴天皇制国家の統合システムが、戦争へ向けてキチンと新たに整備されようとしているのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.182. 1999.8.10号)















「名誉回復」という問題――粛清・査問文化をめぐって

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 「沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会」(通称:新しい反安保実V)のニュース『向い風・追い風』(11〈最終〉号)で太田昌国・国富建治と私で実行委員会の総括座談会を持った(「成果と残された問題点――新ガイドライン関連法案の攻防をふりかえる」)。
 運動主体のあり方という点をめぐって、共産党との協力、共闘という、まったく新しく始まった事態について、私たちはどのように考えるべきかをめぐって必然的に論議になった。そこで国富は、こう論じた。
 「共産党は明らかに路線転換した。はっきりとしたのは去年ぐらいからだと思う。これまでは完全排除の対象だった人たちまで飲み込んでやっていく、という。そういう共産党の路線転換を、こちら側も使わせてもらったというところは、ある。議面行動なんていうのは、共産党議員の協力がなければ成立しなかった。それが一つの変化であるのは確かだけれども、今度は逆に、今のままのあり方だと、共産党にぶら下がるというか依存するということになりかねないと思うわけです」。
 確かに、議員面会所で集会を持つには、議員の参加が不可欠である。議員の絶対数が少ない社民党だけでは、誰も来れないということになってしまうのではという不安がいつもあり、共産党の議員の協力で、連日の「議面」集会が安心して持てたという、議員対策の責任者であった国富の感想は、正直に事実をつたえている。
 ここで私は、共産党の路線転換は、イデオロギーの面で見ると、政権近しの幻想をバネに、「安保」棚上げあるいは、論議をしての「国旗・国歌」の法制化論だのと、権力に妥協的な性格が強まっており、私たちに歓迎できる内容ではないことの問題を提起。自分たちの政治主張をキチンと押し出し、批判すべきは批判し、討論ができる関係をつくりだす努力が必要だと論じた。しかし、その時、違った意見は排除するという、あの官僚主義組織体質に長く親しんでいる人々と、どのような討論が可能なのかという思いが胸の内にわき上がってこなかったわけではない。
 『かけはし』(8月9日号)に「批判的共産党員」のホームページ「さざなみ通信」の『汚名』(油井喜夫・毎日新聞)の書評が紹介されている。
 1972年に日本共産党の中であった「新日和見主義事件」という「粛清事件」で罷免になった人物の手記である。この件は川上徹の『査問』(これは民青中央のリーダーだった人物)によって、いわれなき「査問」の実態については、こまかく体験的レポートがすでに書かれている。私は『査問』の方は読んでいるが、こちらの『汚名』の方はまだ手にしていない。私は『査問』を読んだ時、あんなことをされながら、長い長い時間共産党員でありつづけた川上らのあり方が不気味だった。今度も著者も、「その後も忠実な党員として身を持し、事件のことを黙して語らなかった。しかし、昨年ついに離党し、27年の沈黙を破って」手記を発表したのだそうである。
 党(中央委員会)の無謬性の神話が支配するシステムを生きた、生きる党員たちの心理が、やってもいないことを、やったと認めて、その後もひっそりと党員でいることを選択させるのだという分析が、著者の自己批評をふまえて、示されている。異論を発する者の存在を、すぐ「分派」の存在とかんぐり、指導者たちが「査問」をして、弾圧する。
 「たとえ、査問が形式的に本人の同意を得たものであっても、十数日間にわたって監禁することは絶対に許されないし、また今回のように重病人を病院から呼出して4日間も監禁することは、基本的人権を正面から蹂躪する蛮行以外の何ものでもない」。
 こういう怒りの主張に、私は共感する。しかし、党中央に、このように要求する論理は私には、まったく理解できない。
 「そして、事実関係にもとづいて、あの事件が冤罪であったこと、処分が間違っていたことを率直に認め、すべての関係者の名誉回復を行うべきである」。
 「名誉」を「回復」する権利なんてものが党中央にあるのかね。まったくの冤罪で人権蹂躪の査問をし、処分した党中央のメンバーは、本当にそうであるなら、被害者たちに具体的に謝罪をし、心身に与えたダメージについてキチンと賠償するべきであり、責任を取るしかないではないか。「名誉を回復」する権利などが、加害者の彼等にあるわけがない。
 私は、かつての共産主義国ロシアの党のリーダーたちが、党内でブチ殺した人々の「名誉回復」をするというセレモニーについて知らされた時、「テメーらに、そんな権利があるのかよ!」と、思った。かってに名誉(命までも)を奪い、後にあれはまちがっていたからと、加害者たちが「名誉を回復」してみせる(死者は二度殺される)。なんと傲慢で欺瞞的なセレモニーか。これに疑問や怒りを持たない感性や論理は、党(中央委員会)信仰の中を生きている感性や論理ではないのか。
 私は、言葉じりに、つっかかっているわけでは、まったくない。こういう「倒錯」の組織化によってこそグロテスクな政治文化が延命し続けていることにこそ、私たちは注目すべきなのだ。
 侵略戦争に人々を駆り立てた天皇制国家は、天皇にまったく責任を取らせずに延命させた。そして代替りしたアキヒト天皇や国の支配者たちが、戦死者たちを追悼して、平和を語ってみせる8・15の式典が毎年まだ続いている。加害者たち(国)が被害者(死者)をたたえることを、あたりまえとする倒錯。加害者に「名誉回復」を要求するという発想は、どこかこうした倒錯に通底してしまうものではないのか。
(『派兵チェック』No.83. 1999.8.15号)
















《書評》

闘いのなかからの未来への展望
  新崎盛暉・天野恵一『本当に戦争がしたいの!?』(凱風社、本体800円)
  新崎盛暉『政治を民衆の手に―問われる日本の針路』(凱風社、本体2200円)

武藤一羊●ピープルズ・プラン研究所

 「本当に戦争がしたいの?!」、「政治を民衆の手に──問われる日本の針路」。これは書評を頼まれた2冊の書物のタイトルであるが、1999年8月、「戦争できる国家」への政治の暴走を前に、カッコを外し、「タテカン」に大書して、キャンパスや広場やらに持ち出したくなるフレーズである。
 しかしタテカンの政治的アジテーションとは違って、この2冊には確かな実践に裏付けられた社会的思索と政治的分析、沖縄と「本土」の運動の総括が、ぎっしり詰まっている。「政治を民衆の手に」(以下「政治を」)は、97年から98年にかけて新崎盛暉が大小さまざまなメデイアに書いた30編の文章を収めた論文集、「本当に戦争がしたいの?!」(以下「戦争が」)は、その新崎と天野恵一が2日間にわたって行った対談を収めた小冊子である。新崎と天野については本紙の読者に改めて紹介するまでもない。「政治を」は、沖縄返還後の新崎の文章を編年的に収める「沖縄同時代史」の第 8巻でもある。97─98 年とはほとんど今のことであるから、8巻は日米関係、沖縄・日本をめぐる激動の時期のリアルタイムの同時代史となっている。「戦争が」では、 95年以降、少女レイプ事件を引き金とする沖縄の抵抗運動の高揚とそれに触発された「本土」の連帯運動、そしてガイドラインへの各地の抵抗、という沖縄、「本土」双方の実践を背景に、運動者・知識人である2人が肉声で語りあうことで、この間の運動の意味を浮き上がらせる。この2冊を合わせて読むと、95年以来の5年間がどれほど重要な時期であったか、そして自分もまたそれに立ち向かう運動に加わってきたことがどういうことなのか、が自ずと視野の中に立ち上がってくるだけでなく、そこに未来への展望がおぼろげながら姿を見せるのを感じることができる。
 「戦争が」の対談は、天野が聞き手として新崎の意見を引き出す形をとっているが、両者の発言一つひとつが、ここ数年の沖縄と「本土」での実践を潜って発せられる重みを備えている。95年以来、沖縄の闘いに触発されて「本土」でも新たに運動のイニシャチブが生まれ、全国的なネットワークが息づく。紙数がなくて引用できないのが残念だが、個人史を含めた2人のやりとりは、出発点を異にする沖縄と「本土」の運動に思想的・実践的な血管がつながり、血が流れ始めたことを証拠立てていると言っていいだろう。
 「政治を」の新崎の論文は、一つひとつが、激しく変化した97─98年の沖縄・安保状況のさまざまな局面に密着した闘いの文書である。私はとくに、この闘いのなかで新崎の視野が、沖縄の現実に深く根を下ろしながら、広くアジアと世界に開かれていることに感銘を受けた。視野だけでなく、「政治を」第二部「韓国の反基地運動とともに」で語られているように、すでに沖縄と韓国の運動者の間には、新崎たちの韓国訪問、韓国からの沖縄訪問をつうじて、米軍基地へのきわめて具体的な共同行動、学び合う連帯が広げられている。来年7月の名護サミットは、女性たちの活発な米国平和運動との連帯行動を含めて、議論と宣言だけに終わらない下からの基地包囲陣形をつくりだす機会になるだろう。
 両書とも、「政治を民衆の手に」とりもどす鍵が地方自治にあることを強調している。とくに、住民投票による直接民主主義がカナメとして論じられている。新崎は「政治を」の第四部で、県民投票と名護市民投票を総括しながら、安保についての直接国民投票を提唱している。下からの反安保世論を新しく盛り上げ、その条件をつくることが先決だと私は考えているので、それににわかに同調できないが、どのようにして下から全体を攻めてゆくのかという新崎の戦略的構想力から多くを学ぶ。99年8月「国会クーデター」によって、日本国家が変質した今、そのような構想力こそが運動に求められていると私は思う。「戦争が」の次のやりとりが印象深かった。

天野 非武装の理念は、理想主義であって現実にはありえないというような批判はいろ いろあるんですけど、新崎さんがどんなふうに考えているかということを、沖縄の運動の現実をふまえてお話しください。
新崎 九八年一一月の沖縄県知事選挙なんかで端的に表れてきたことなんだけど、たとえば基地に賛成する人は誰もいない、基地がないにこしたことはない、しかしそうはいったって現状はどうにもならんと。だからどうしようもない、という形で、現実と理想や原理・原則を全部きり捨てる論法が横行している。しかしこの間の沖縄の運動は、ある意味では人間の尊厳みたいな、まさに理念・理想を追求してきたのです。それに対する一種の反動が県政の交替に象徴的に表れた。しかし、理念がだめとか、理想がだめというというのは間違いですね。現実の状況をふまえながら、理想なり理念なりにどこまで近づけるのか、いわばにじり寄れるのかという、その努力が、僕は現実主義だと思う。

 いまわれわれに問われているのは新崎の意味での現実主義なのである。
(『派兵チェック』No.83. 1999.8.15号)