alternative autonomous lane No.14
1999.3.24

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目 次




【日の丸・君が代問題】

「日の丸・君が代」実施は「忠誠」のものさし(北村小夜)

校長の自殺と日本共産党の路線転換(天野恵一)

【新ガイドライン】

新ガイドライン・英文←→日本文の欺瞞を撃つ! (武藤一羊)

「県内移設」を許さない!―沖縄県知事選敗北以降の反戦平和運動の闘いの展望 (安次富浩)

【議論と論考】

運動のデモクラシーとデモクラシー運動について――ダグラス・ラミスの『ラディカル・デモクラシー――可能性の政治学』(加地永都子訳)を手がかりに(天野恵一)

無党派運動の思想――絶対平和主義としての共産主義批判(北野誉)

【チョー右派言論を読む】

ガイドライン関連法案実務者の講演を聞いて(太田昌国)

天皇抜きのナショナリズム/再び(伊藤公雄)

【世界から】

フセイン・ヨルダン国王の死と中東和平プロセスの行方(岡田剛士)














「日の丸・君が代」実施は「忠誠」のものさし

北村小夜●元教員

 小学校四年生の時だった。修身の教科書に「君が代」は、天皇陛下のお治めになる御代がいつまでも栄えるようにという意味だとあった。さざれ石が小さな石で、巌が大きな岩であることもわかったが、小さな石が大きくなるということがわからなかった。可愛くない子どもだったわたしは、とうとう厳粛な式の練習中に大声で「巌が砕けてさざれ石になるならわかるけど、どうして小さな石が巌になるのですか」ときいて先生を怒らせてしまった。後で校長に呼び止められた。校長はそれがとても長い時間のことだといったあと、世の中には考えずに従わなければならないことがあることを懇々と語った。
 子どもの「内心」などには、ほとんど配慮することなく、もうずいぶんたくさんの子どもが歌わされているが、いま、私のような子はいないのだろうか。それともいまどきの子どもはそんなこと弁えずみというのだろうか。
 文部省の一〇〇%実施をめざせという意を受けて、九八年一一月、都教育庁指導部長は、徹底通知を出した。「日の丸」は式場正面に揚げる。屋外の会場は生徒・保護者・来校者に認知できるところにする。「君が代」については、式次第に「国歌斉唱」と記載する。司会者が「国歌斉唱」と発声する。などというものである。
 いま、卒業式・入学式を控えて、心ある教師たちはほんとうに厳しい闘いを強いられている。組合はあてにならないどころか、あらたな壁にもなる。マスコミの現状を追認している。
 文部省調査によれば全国平均の実施率は

九七年度卒業式 九八年度入学式
    小  九九・〇%   九八・八%日の丸 中  八八・二%   八六・六%    
    高  九八・五%   九八・四%    
    小  八四・八%   八四・七%君が代 中  九八・一%   九八・一%  
    高  八〇・一%   八〇・六%

となっている。
 有馬文相はこれを「現場の校長先生の並々ならぬ努力によって定着してきている」といっているが、けっして定着しているのではない。力でねじ伏せている状況でしかない。
 なぜ、実施率が上がるかといえば、「日の丸」「君が代」が、文部省の進める教育行政への「忠誠」度を測るものさしになっているからである。教育行政を進める側にしてみれば実に都合のいいものさしで、教頭になるにも校長になるにも、さらなる昇進にも通らなければならない「踏み絵」である。だから、卒業式や創立記念日などが近づくと日頃は温厚そうに見える校長も人が変わったようになり、職務命令を発したりする。管理職にとって、儀式における「日の丸」「君が代」は死を賭しても実施しなければならないものであるが、自分の信念に基づいてのことではないので悲惨である。
 私は旗や歌にそそのかされて戦争をした経験を持っているので、もう旗も歌もこりごりだと思っているが、仮に百歩譲っても力でねじ伏せられて揚げたり歌ったりしているものを「国旗」「国歌」というわけにはいかない。まして「日の丸」「君が代」なのだからなおさらである。
 戦後「日の丸」「君が代」が公然と学習指導要領に登場するのは五八年改訂版である。
 すでに五五年には民主党がパンフ「うれうべき教科書問題」を出し、やがて保守派が合同して自由民主党を結成し「愛国心や日本の防衛」に力を入れ始めていた。五五年改訂で、小学校社会科に「天皇の地位」が登場している。
 五八年改訂は、四七年版依頼試案であったものを官報に告示して基準にし法的拘束力を持たせ、道徳科を特設した。音楽では一年で「日のまる」を教え、「君が代」は各学年を通じ児童の発達段階に即して指導するものとするとし、社会科では、「わが国の国旗をはじめ諸外国の国旗に対する関心を深め、これを尊重する態度を養うことが必要である」と示した。
 この指導要領は勤務評定、文部省一斉学力テスト、学校保健法公布などと一体で現場を襲い、「能力」による子どものふりわけとともに「日の丸」「君が代」の強制が始まり、反対闘争にかかわる教職員の処分がおこなわれるようになった。
 さらに強制が激しくなるのは八五年九月に出された文部省の徹底通知である。これは全国の公立学校を対象に実施した「特別活動の実施状況に関する調査」(八四年度卒業式の全国平均実施率は「日の丸」九二・五%、「君が代」七二・八%)で、入学式・卒業式での、「国旗掲揚・国歌斉唱」の実施率の低い県や市を問題にして適切な扱いを徹底するよう出されたもので、とくに、八七年国体を前にしてほとんど未実施の状態にあった沖縄県等に向けられたものであった。現場では憲法や法律より通知あたりがもっともよく機能する。各学校では校長による職務命令が頻発され処分も激増する。徹底通知から一〇年の間に「日の丸・君が代」関係で処分された教職員は、岡村達雄著『処分論』によれば、八三〇人を越えている。
 九八年一二月、告示された小・中学校新学習指導要領は、五日制にあわせて教育内容を三割減らし、ゆとりを持たせ自ら考える力を育てるという。遅れがちな子にも配慮したというが、選択教科は増え、飛び級もできるのだから、要は「できない子はもう無理しなくてもいいよ、できる人にもっとがんばってもらって国をひっぱっていってもらうから」というのである。
 三割減といっても、特別活動の「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」は全く現行と同じで一字も減っていない。音楽の「君が代」の扱いも同様である。社会科ではむしろ増えている。現行では「わが国の領土」で「日の丸」が、六年の「国際理解」で「日の丸・君が代」が扱われていたが、削減で「領土」が五年に移った。当然「日の丸」も移るべきであるが、地域の産業や生活は外国と関係あるとこじつけて、「日の丸」を残している。勿論五・六年にはいままで通りのものが盛り込まれている。
 現行の八九年改訂には「日の丸・君が代」が「望ましい」から「指導するものにする」に変わり、強制につながるとして日本ペンクラブをはじめ地方の教育委員会や議会などから撤回要求書や抗議の意見書が出されたが、今次はほとんど動きがない。彼らにも「忠誠」物差しが機能しているのだろう。
 二月二八日、広島県立世羅高校の校長が、「日の丸・君が代」強制をめぐって自殺に追い込まれた。これを契機に、政府は「日の丸・君が代」の法制化を主張しはじめている。
 この件について、マレーシアの「星洲日報」は次のように報じている。「この動きは日本の右傾化を示しており、新たな形の軍国主義が復活するのではないかと懸念している」「日本の軍国主義の侵略を受けたアジア諸国にとって、今回の国旗と国歌の法制化は憂慮せざるをえない右傾化の現象である」。
 実施率の上昇はけっして定着を示すものではないが、「侵略」への道であることは確かである。(『反天皇制運動じゃ〜なる』20号、1999.3.9号)

















「日の丸・君が代」の「法制=強制化」
――校長の自殺と日本共産党の路線転換

天野恵一●反天皇制運動連絡会


 三月四日の『沖縄タイムス』には、日の丸・君が代法制化の動きについて、こういう記事が載っている。
 「日の丸掲揚、君が代斉唱をめぐる対立の中での広島県の高校長の自殺が波紋を広げている。政府は『現場に判断を任せておくと今回のような事件も起き得る』として日の丸・君が代を法制化する方針を決めた。法制化されれば影響は学校だけにとどまらない」。
 そこには、政府が法制化の口実に使っている、校長の自殺について、こう紹介している。
 「『式で君が代をお願いできないか』。卒業式を二日後に控えた二月二七日夜、広島県立世羅高校の石川敏浩校長(五八)から電話を受けた教頭と教組側の教諭二人が同県御調町のカラオケボックスに集まった。
 『今日も県教委から電話があった。君が代を歌わない学校は少ないそうだ』。約一時間議論したが、職員会議の『従来どおり実施しない』方針は譲らなかった。
 『処分は覚悟しなきゃいかんなあ』。石川校長は別れ際にこんな言葉を漏らし、翌二八日午前、自殺しているのが見つかった。
 広島では平和運動などの経緯から教組側の影響力が強い。県教委は一九九二年、『(君が代は)国民の十分なコンセンサスが得られていない』とする確認書を教組側と交わした。
 だが最近、文部省の強い指導を背景に、県教委は二月二三日『日の丸・君が代』指導徹底の職務命令を出すなど強硬路線に転じた。……。
 『校長自身、君が代の押し付けに消極的だった』『君が代をごり押しする人ではなかった』と同校の教諭は口をそろえる。校長はこれまで指導してきた現場教育との整合性に悩み、追い込まれていた」。
 校長の自殺の直接的な原因が、この問題であったとすれば、八九年の小中高校の学校指導要領の改定、日の丸・君が代について「望ましい」から「指導するものとする」への変更、すなわち国による強制の強化が、校長を死に追い込んだことは、あまりにも明らかではないか。それなのにこの件を「法制化」という強制の徹底化の口実に使っているのだから、政府の手口はえげつない。教育現場に判断(決定)させない方向、すなわち全面的な「強制の制度化=法制化」こそが、いま、政府によって目指されているのだ。
 そうであるにもかかわらず、野中広務官房長官は、日の丸・君が代を「義務づける強制条項は盛り込むべきではない」と記者会見で発言しているとマスコミは伝えている。
 「強制できるとか、そういうものを法律の中に位置づけるものではなく、既に(国民に)定着している問題なので、むしろ国民の今日的理解をより法律的に担保することが、わが国の新しい世紀へのスタートになるのではないか」
 野中は、こんなふうに主張しているのである。教育現場への国による強制(義務づけ)は、年々強化され続けてきており、強化された結果、校長の自殺者まで出す事態が生まれているのに、法制化は「国民に定着」しているものを法律的に担保するだけだと強弁している。自分たちが強制して自殺者を作りだしといて、原因を教育現場のトラブルに転化し、強制の完成を目指す法制化は「国民」の意思だというのだ。「定着」させるために、これだけ「国民」に強制し続けてきた上で、最終的に法制化しようというときに、「強制条項は盛り込むべきではない」などと、ソフトなイメージをふりまいてみせる。法制化自体が強制そのものであるのに、ふざけた話である。ここには国による「強制」を「国民」の自発性にすり替えるトリックがあるのだ。
 さて、ついこの間の日本共産党の、国旗・国歌の法制化の必要論と、法制化されたら日の丸・君が代を認めるという発言と、この政府の姿勢を重ねて考えてみると、うんざりしてくるではないか。共産党は、政府のトリックに主体的にはまりこんでいこうというのだというのだ。どうなっているのか。
 『週刊新潮』に「共産党よ『日の丸』にスリ寄るな『赤旗』を守れ」(三月一一日号)というからかい記事がある。
 これを読みながら、日本社会党が日の丸・君が代容認の方向へ大きく進み出した(いいかえれば自己解体しだした)時、右翼の宣伝カーが党大会の会場に向かって、「日の丸」を掲揚して大会を開け、今までのことを「陛下」に謝罪しろというような主張をしていたことを思い出した。
 与党になれるのではという幻想がバネの路線転換であろうが、共産党の「一人一人に強制することは反対だ」といいつつの容認は、結局、国の強制への屈服であり、そのままいけば、強制への加担であるにすぎまい。新ガイドライン安保体制という戦争国家へ向かう日本の動きと連動する、こうした政策への同調。それは、この党の「自殺」への道ではないのか。(『反天皇制運動じゃ〜なる』20号、1999.3.9号)






新ガイドライン・英文←→日本文の欺瞞を撃つ!

武藤一羊●ピープルズ・プラン研究所

 新ガイドラインについて英語と日本語のテキストを読み比べることは、揚げ足とりや、重箱の隅をつつく話ではない。新ガイドラインは日米両国政府の間の取り決めであり、日本政府が米国にたいして行った対外誓約である以上、一体日本は何を誓約したのかがまず一義的に確定されなければならない。そうでなければ議論が成立しないのである。もし英文と日本文の間に違いがあれば、どちらが正文かを確定しなければならない。新ガイドラインには、どちらが正文かは附記もされていない。2月15日におこなわれた「アジア記者クラブ」の会見で、新ガイドラインの作成に参加した防衛庁陸幕調査部の一等陸佐山口昇氏は、質問に答えて「どちらが正文ということはない。両方とも正文だ」と述べたそうである(出席した太田昌国さんの話)。そうだとすれば人を愚弄した話である。日英テキストの中身が異なっているとき、米国は英語のテキストにしたがって、日本側は日本語のテキストにしたがって行動するというわけにはいかないだろうからである。
 現在国会で審議中のいわゆる「周辺事態法」は、法案本文中に新ガイドラインへの言及はまったくないけれど、新ガイドラインの「II 基本的な前提および原則」に「期待」されている「立法措置」として提案されていることは明らかであるから、この法案に用いられている用語・概念は新ガイドラインに由来するはずである。事実新ガイドラインと合わせて読まなければ、この法案は何を言っているのか分からぬ完結性を欠いた文章であることを、私はしばらく前指摘したことがある(「反天皇制運動ジャーナル」No.16)。だとすれば、法案の審議は絶えず新ガイドラインのテキスト自身に盛られた概念の厳密な吟味に立ち返って行われなければならない。強制力をもつ法律をあいまいな概念の上に据えるわけにはいかない。特にそれが日本社会全体の戦時動員と自衛隊の戦争参加という重大な事柄に関わるからには。そしてテキスト自身、となれば直ちに、どちらのテキストか、という問題にぶつかるのである。すなわちわれわれは一体何を約束したのかという基本的問題にである。
 その意味で、小林秀之・西沢優氏による『超明解訳で読み解く日米新ガイドライン』(以下「明解訳」とする)の出版は、間一髪のところで間に合った運動にとっての力強い「後方支援」である。
 問題はこれをどう「実戦」に使いこなすかである。「明解訳」は、新ガイドラインの日本語テキストを「政府訳」としているから、正文は英語テキストだと前提にしている(私も恐らくそうだろうと思う)。しかしそれは確かめられていないのである。国会審議でも、法案審議の前提として、まずそこにテコを差し入れ、向こう側に岩をひっくり返すことが必要である。二つのテキストが食い違っていれば、そしてその双方が成立しているとすれば、日米安保協議会に、そのどちらかを修正させ、その上で法案を審議する、という手続きが必要である。そうでなければ、法案が依拠している概念が定まらないからであり、法案を審議することさえできないのである。
 テキスト問題にはそれほど重大な問題が隠されている。以下、「明解訳」の「解説」部分に指摘されている点を除いて、その二、三を検討してみよう。

■1「周辺事態」■
 「周辺事態」が新ガイドラインのカナメであることは誰でも認めるところだが、驚くべきことに、英文テキストの本文では、どこにも「周辺事態」は定義されていないのである。この項Vの日本語テキストは「周辺事態は、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態である」と始まっている。これは一応の定義である。しかし英文テキストは、“Situations in areas surrounding Japan will have an important influence on Japan's peace and security.である。「明解訳」は、「周辺事態は、日本の平和と安全に重要な影響をもつであろう」としている。逐語訳すれば「日本をとりまく諸地域における諸状況は、日本の平和と安全に重要な影響をもつであろう」となる。これは定義ではなくて、叙述である。状況・事態は限定されていない。「犬は人間に飼い慣らされている」といっても犬を定義したことにならないと同じである。確かに周囲の事態は日本の平和と安全に重要な影響をもちうる。当たり前の話である。べらぼうに広い、一般的な話である。原発の事故でもタンカーの座礁でも当てはまる。ところがそれが、共同作戦に直結するのである。定義らしい書き方は、Vの中見出しに表れる。そこでは「日本の平和と安全に重要な影響をもつであろう日本周辺の地域における事態での共同作戦」(明解訳)となっていて、これは状況・事態を限定する書き方になっている。しかし中見出しは、本文を要約する便宜的なものに過ぎない。中見出しで定義を与え、本文で定義しないなどという正式文書があるだろうか。
 「状況・事態」が限定されていないとすると、“situations”という一語に、軍事的介入を合理化する重みを支えさせなければならない。つまり「緊急事態」( contingencies)といった意味合いをもたせなければならない。しかし“situations”は、ウエッブスターを開いてみても、演劇用語以外では、まったく中立的な言葉であって、「緊急事態」などという意味はないのである。さらに“important influence”(重要な影響)の“important”という語も弱い言葉である。“serious”(深刻な)、“critical”(危急の)、“crucial”(決定的な)などに比べて、はるかに弱い。その弱い言葉が意図的に選択されているのである。
 訪中した小沢一郎が、台湾海峡で紛争が起こってもそれは日本にたいする直接の攻撃ではないから、新ガイドラインには関係ない、と説明したと伝えられるが、新ガイドラインのテキストは、仮にあの中見出しの規定を本文にくりこんだとしても、「重要な影響をもつだろう状況」だけで、日米共同作戦は発動できるとしているのである。影響が「深刻」だったり「危急」だったりしなくともである。さらにその上に、「周辺事態は地理的でなく状況的概念」という例の不可解な一句が加えられることで、世界のどこで「事態」がおこっても共同作戦が発動できることになる。
 共同軍事作戦発動の要件がこうしてきわめて低いところに引き下げられていることに注目すべきである。その前提の上に、周辺事態法が組み立てられているのである。

■2「主体的」■
 日本語テキストにはやたらに「主体的」という言葉がでてくる。例えば「IV 日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等、2−(1)−(a)」では、「日本は、日本に対する武力攻撃に即応して主体的に行動し、極力早期にこれを排除する」とある。英文テキストはこうである。“Japan will have primary responsibility immediately to take action and to repel an armed attack against Japan as soon as possible.”「明解訳」では「日本は直ちに行動し、日本に対する武力攻撃をできるだけ早く撃退するための主な責任をもつ」。日本語テキストでは、“primary”を一貫して「主体的」と表現しているのである。これは両テキストの重大な齟齬である。Primaryは、「主要な」「第一次の」という意味であって、「主体的な」などという意味はまったくない。ちなみに広辞苑によれば主体的とは「ある活動や思考などをなす時、その主体となってはたらきかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」である。新ガイドライン英文テキストのこのくだりは、軍事作戦における日米軍の役割分担を明確にしているのであって、ここでは日本への攻撃があった場合自衛隊が「主要な責任を負う」ことを述べているのである。そしてその際自衛隊は、両国の戦力を「調整された」方法で運用する双務的な作戦の一環として戦うのであって、「主体的に」つまり自己の判断で「自己の純粋な立場において」作戦を行う余地などはないのである。Primaryと「主体的」とはまったく違うことを規定しているのである。いったいどちらが本当の新ガイドラインなのか。

■3「計画についての検討」■
 日本語テキストは、一貫して英文テキストの“planning”を「計画についての検討」としている。例えば「VI 本指針の下での有効な防衛共同作戦のための双務的計画」(明解訳)は「包括的メカニズム」を規定している部分だが、日本語テキストは「日米両国政府は、計画についての検討を行うとともに共通の基準及び実施要綱等を確立するため、包括的なメカニズムを構築する」となっている。英文テキストは“the two Governments develop a comprehensive mechanism for bilateral planning …”であり、明解訳はここを「双務的計画立案」としている。Planningは計画を作り確定することであって、「計画について検討」することではない。「計画について検討」なら、「計画の決定」の方はどこか他所で行われるかもしれない。英文テキストはそのような余地を一切残していない。「包括的メカニズム」は計画を決定する権限をもつ機関である。計画は作成され、決定されれば、後は実施・執行されるだけである。
 「周辺事態法」は「周辺事態」にさいして総理大臣は「基本計画」を定め内閣の承認を得るとしているが、「包括的メカニズム」について口を拭っている。「双務的計画作成」の権限が「包括的メカニズム」に与えられている以上、本当の「基本計画」はここで決定されている。「周辺事態法」にいう「基本計画」は、法案を読めばわかるように、すでに「包括的メカニズム」で決定済みの本当の基本計画の細目についての実施計画であるにすぎない。
 「周辺事態法」は、新ガイドラインの実施法である。したがってそれを新ガイドラインと切り離して、自立した法案として論じることは、罠の中に飛び込むようなものである。そして二つのテキストとして存在する新ガイドラインそのものは、「明解訳」が明らかにしているように、また上に論じたように、突き返すしかない代物である。そこに論戦の戦線を新たに開くべきである。(『派兵チェック』 No.78、1999.3.15号)











「県内移設」を許さない!
――沖縄県知事選敗北以降の反戦平和運動の闘いの展望

安次富浩●ヘリ基地反対協共同代表

■開発がもたらす自然破壊■
 沖縄には、日本復帰から今日まで復帰特別措置または沖縄振興策という名目で5兆円を超える財政資金が投下された。その結果、沖縄の山林・原野はダム工事、国道・県道改修工事、農地改良事業等の公共工事で破壊され、海も赤土汚染により多くのサンゴが死に追いやられ、豊富な魚介類が激減するなど、あるがままの自然の恵みを享受してきたウチナンチュの生活が破壊されてきた。これは、本土並みの生活水準に慌てて追いつこうとした沖縄県と日本政府の無謀な政策の結果といえよう。振興策=高額補助なるゼニづけという物乞い行政が乱開発による自然環境の悪化を促進し、県民所得が全国最下位という魔訶不思議な経済環境をつくったのである。
 昨年末の県知事選では、政府・企業の無策がもたらした全国的な未曾有の不況のなか、「県政不況」なるデマゴギーと失業率9%の責任追及という巧みな選挙戦術に負けて、稲嶺知事の誕生を許してしまった。稲嶺保守県政は、沖縄振興策とリンクする基地政策を標榜して、普天間基地代替施設の15年限定使用を条件の「北部軍民共有飛行場」建設案と返還合意後25年間も放置されてきた那覇軍港を浦添沖へ移転させる「軍民共有の国際ハブ港湾」建設案を柱とする「普天間飛行場・那覇港湾施設返還問題対策室」を県庁内に新設(3・1)し、日・米政府の意向に添うかたちで、県内移設に向けた具体案の策定づくりに着手せんとしている。それを補完するかのように、過去に一度も来沖がなかった米政府高官の稲嶺知事への表敬訪問も現出した。

■浦添移設は基地機能も拡大強化■
 一方、県知事選挙戦のさなか、海上ヘリ基地建設断念を匂わせた日本政府は、海上ヘリ基地が「SACO合意の最善策」と言辞をひるがえし、アメリカ政府も15年限定使用を拒否している有り様である。あまつさえ、名護市民投票の時、垂直離着陸機 MV-22オスプレイ配備問題に関する市民からの追及に曖昧な発言を繰り返す防衛施設庁であったが、在沖第三海兵隊遠征軍カステロー副司令官はMV-22オスプレイを「(現存ヘリの交代機として)2007〜8年までには普天間飛行場に配備することが決定」と記者団に発表した。このMV-22オスプレイは空中給油で朝鮮半島まで出撃可能な奇襲攻撃型兵員輸送機といわれる。また、浦添沖に造ろうとする軍港は、水深が横須賀海軍基地よりも深く、最近のマスコミ情報によると、過去2回にわたる米軍側の軍港構造案には、強襲揚陸艦に兵員を運ぶ機能を持つ汎用揚陸艇LCUの接岸岸壁の配置、大型輸送船の積み降しに対応するガントリークレーンの設置など、現那覇軍港の面積から約6割(56.8→35.3ヘクタール)へ縮小しても輸送機能の拡充や海兵隊の出撃機能を持たせるなど大幅な軍港の機能強化をもくろんでいることが判明した。原子力空母キティーホークや大型輸送艦船、強襲揚陸艦ベローウッドなどの寄港が可能となり、東洋一の海兵隊牧港補給基地と連動した壮大な浦添新軍港、沖縄県や那覇・浦添市商工会等が主張する「一時使用的軍民共有港」とは似ても似つかぬ代物なのである。

■浦添市民の闘いが全県・全国に■
 このように、米軍基地の基地コロガシ=タライ回しである老朽化した米軍基地の「県内移設」は、米軍のアジア戦略(極東10万人体制)に基づく基地の飛躍的な機能の強化拡大・固定化を狙ったものである。また、155ミリりゅう弾砲移転演習では、日出生台等5ケ所において夜間演習が実施されるなど朝鮮半島有事を想定した演習強化が行われ、民間運送業者によるりゅう弾砲や砲弾の輸送、民間飛行機のチャーターによる兵員の輸送等々新ガイドラインの先取りが実施されている。新ガイドライン−−周辺事態関連法によって、沖縄を後方支援基地のみならず、出撃拠点基地にすることは間違いないといえよう。
 現在、那覇軍港の浦添移転問題では、浦添地区労や政党・民主団体等が中心の「那覇軍港の浦添移設に反対する市民の会」が結成され、浦添移設反対を公約に掲げて当選した宮城浦添市長(革新系)への公約遵守を追求しつつ、那覇・浦添市商工会の「国際ハブ港湾」案が莫大な財政赤字を生む等の矛盾点と欺瞞性を浦添市民に情宣中である。
 稲嶺県政は小渕首相の5月訪米を睨んで、那覇軍港の浦添移設問題を最優先課題として位置付けている。この動きに対抗するため、「ヘリ基地反対協」と「移設に反対する市民の会」が交流会を持ち、浦添での勝利がヘリ基地建設阻止に繋がるとの相互確認のもと、全面的な支援・協力体制が約束された。また、一坪反戦地主会浦添ブロックの結成を皮切りに、1フィート運動など35市民団体で構成する「海上ヘリ基地に反対する市民団体連絡協議会」は「軍事基地の県内移設に反対する市民団体連絡協議会」へと衣替えし、浦添市民への支援体制に入った。さらに、浦添地区労と沖縄平和センター共催の「那覇軍港の浦添移設に反対する集い」には、200名余りの労組員が参加するなど全県的な支援体制が作られつつある。海上ヘリ基地反対闘争のように、浦添市民の闘いと全県・全国的な支援体制がつくられるならば、勝利の展望は必ず切り開かれる。

■「県内移設」阻止という反戦平和闘争へ!■
 米・英のイラク攻撃に率先支持し、米軍基地の機能維持に膨大な思いやり予算を支出する日本政府。数百億円の水増し請求問題で防衛産業と癒着する防衛施設庁官僚どもが、地方分権がらみで米軍特措法の再改悪を狙っている。その中味は、県収用委員会の権限を弱め、反戦地主の土地を首相権限で強奪できる合法化=改悪を企んでいる。さらに、名護市民投票条例をみずから改竄し、敗北すると海上ヘリ基地建設の受け入れ表明して名護市民を裏切った比嘉前市長を協力者として表彰する防衛施設庁の傲慢さ等々、日本政府によるウチナンチュを愚弄する沖縄差別政策の数々。沖縄の民衆は米軍基地の整理・縮小を曖昧にする日本政府を絶対に許しはしない。 
 大田前知事を支持した約34万票の反戦平和を願う沖縄民衆がいる。また、各種世論調査でも「県内移設反対」の支持が60%余りもある。沖縄民衆の反戦意識を背景に、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク空爆とアジアの人びとの殺戮に否応なく加担させられてきた反省と、沖縄戦−−米軍植民地支配の中から導きだした「生命どぅ宝」をもとに、那覇軍港の浦添移設及び軍民共用空港阻止を中心とするSACO合意に基づく米軍基地の「県内移設」阻止という新たな反戦・反基地闘争を作り上げていきたい。(『派兵チェック』 No.78、1999.3.15号)










運動のデモクラシーとデモクラシー運動について
ダグラス・ラミスの『ラディカル・デモクラシー−−可能性の政治学』(加地永都子訳)を手がかりに

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 ダグラス・ラミスの『ラディカルデモクラシー−−可能性の政治学』(岩波書店、 1998年)の書評で、石田雄は、民主主義は「政治の本質、可能性のわざ」という結論にいたるこの本の論理展開のプロセスを「考えぬかれた政治原論である」と論じている(『ピープルズ・プラン研究所』2〈1999年1月〉号)。
 この政治学者の語る通り、『ラディカル・デモクラシー』は、肩の力をぬいて読める多くの他のラミスの著作と比較して、かなり「原論」風な硬質な性格の本である。
 この本を読みながら、私は、著者とのあるやりとりを思い出した。湾岸戦争後1年ということを意識してつくられた『インパクション』(特集名は「メディアの中の戦争メディアの外の戦争」)の74(1992年4月)号で私はラミスをインタビューした。そのラストである。彼は、国と国との交流ではない、民衆相互の国境を越えた積極的な交流について語った時、「国境を越える主権があると、非常に面白い新らしい政治現象になるんじゃないかと思うんです」と発言した。私は、主権という概念は、国家といっしょに作られてきたもので、国家を基礎づけているから、語義矛盾になるのではないかと受けた。その点がおもしろいと思っての発言であったのだが、彼は、以下のようにストレートに対応した。
 「違う、民主主義論から考えると、国家があって国民に主権があるんじゃなくて、国民に主権があってはじめて国家を作るっていう考え方ですよ。だから国家を作るか作らないかというのは国民が決めるんです。そうすると、国民に誰が入っているか、国境はどこかということ、それも国家が決めるんじゃなくて、民の方が決める筈なんです。そうすると、政治活動によって民の意識が国境を越えた場合、主権はここまであるんだと、民の方が決めれば、そうなってるはずなんですよ。だから、かなり国家原理に対する挑戦だと思うね」(「ベトナムから湾岸戦争まで−−反戦運動を横断する」)。
 この民の自己決定の力としての民主主義こそが彼のいうラディカル・デモクラシーである。
 この本には、「はじめに」の前に「断章」があり、そこには、多数の人々の民主主義についての発言が(短く)引用されている。何の解説もなく18ページも引用だけである。しかし、それは民主主義という言葉が、いかに古くから多義的に使われてきたか、どれほど手垢にまみれた言葉であるか、それにもかかわらず、いやそれだからこそ重要な言葉であることを、なによりも有弁に語っている。そこで、ここでも、ラディカル・デモクラシーとは何かを「開発・発展」と「機械」の反民主主義性を具体的に批判することを媒介に「民主主義の傷だらけの伝統」をくぐって正確に確認しようとしてこの本から、著者自身の定義ともいうべき発言を、いくつか引用したい。それで、著者のいうラディカル・デモクラシーとは何かを具体的に確認しよう。
 「民主主義とはピープルが王や公正な支配者に祝福されることを意味するのではない。ピープルがみずから支配するという意味である」。
 「概して民主主義は地方偏重主義であって、人びとが住んでいる地域に依存している。人びとがいる場所とは別のところに権力を置くのは、民主主義の意味するところではない」。
 「……思慮深い理論家たちは、極端な経済的不均等は民主主義とは相いれないと教えている」。
 「しかし、民主主義は権力があると『感じる』ことではない。実際に権力を手にすることである」。
 「ラディカル民主主義とは、人間が自分の手でつくりだす冒険、人間の自由のための条件を表現している。そして、この冒険の主な部分はまだ手がつけられていないのである」。
 「民主主義とはコモンセンスである」。
 「民主主義とは人民(ピープル)による支配を意味する」。
 「民主主義的コモンセンスの言葉は道徳を語る言葉でなければならない。別の言い方をすれば、民主主義的コモンセンスとは道徳をめぐる論議、選択、行動を通してつくり出されるものである」。
 「カリスマであれ官僚制、階級、軍、企業、党、労働組合、テクノクラートなど何であれ権力の集中するものを批判するのが民主主義である」。
 「ラディカル民主主義は権力は廃止せず、人民がそれを手にすべきであって、権力は人民にとって自由になるはずだと言う」。
 「ラディカル民主主義のビジョンでは、人民は何もない空の下で、偉大な父親的国家や偉大な母親的社会の厳しい監督などいっさいない公的スペースに集まり、リヴァイアサンの権力を再び自分のものにし、表現の自由、選択の自由、行動の自由を取り戻すのである」。
 「ラディカル民主主義が正当性そのものなのである」。
 「……民主主義をめざす真に有効な教育制度が民主主義、民主的行動そのものである」。
 「一人ひとりの人間が知的、道徳的力を十分発展させることは、目的であって手段ではない。この目的の政治的表現という以外に、ラディカル民主主義は何だというのだろう」。
 「ラディカル民主主義は、ソクラテスが個々に登場する人びとに対して取ったと同じ態度を、個々の文化に対して取るしかない。説教ではなく問を発すること、個々の文化が民主的形に変わっても、それは文化の破壊ではなく開化をもたらすはずだという信念である」。
 全体が300ページ近い、この本の1章の終りの75ページのところまでの引用で以上である。2章以下で、定義はより具体的になっていくので、まだまだ引きたいが、引用はここでストップするしかあるまい。
 佐々木寛は、この本の書評を、「読んだ後、久しぶりに元気が出た」、民主主義を元気づけるだけでなく読者をも元気づけるものがこの本にはある、という主張で、結んでいる(『市民の意見30の会・東京ニュース』第52〈1999年2月〉号)。
 私は読みながら、自分たちが民主主義をラディカルなものとイメージする強烈な体験を持った時の事を想起した。それは1980年代後半の「天皇ヒロヒトXデー」の政治過程での運動体験であった。
 私にとっては、かつて、運動の世界に深入りすればするほど民主主義という言葉は、「統治のための手段」であり、「支配の秩序」であると実感されるようになった。民主主義という言葉に新たに積極性を認めるべく考えるというより、もっぱらそれは支配と管理を美しく飾る支配者のためのイデオロギーにすぎないと主張し続けていた。これは全共闘運動の時代、学生運動の時代に身についた認識であった。
 80年代に開始した反天皇制運動においても、「象徴天皇制デモクラシー」秩序と正面から向きあう運動。これこそが、私たちの追求するものであった。
 しかし、ヒロヒト天皇の病気・死という事態で、政府・マスコミが一体化してつくりだした「自粛」ムード。様々な民衆のイベントへのストップの圧力(それは単に上からの力だけではなく、民衆自身の横ならびへの力−−みんなでやめようの論理−−によって)は全国化した。テレビから笑いも消え、歴史を偽造した天皇(制)賛美の画一的番組のオンパレードという状況。この天皇制国家が、私たちの日常の空間(そして時間〈歴史認識〉)に、ドロ靴でズカズカと公然と入ってくる状況に抗して、私たちは天皇制批判、拒否の声を大きく上げて動いた。全国各地で噴出したそういう声(運動)を結びつけるべく私(たち)は走り廻ったのだ。
 この、私たちにとっては反天皇制運動連絡会を核とする運動が大きく広がっていくプロセスで、民主主義という言葉が、はじめて、私(たち)の中で積極性を持つものとして浮上してきたのである。それは、護憲民主主義者との共闘の必要という政治配慮から、そうなっていったなどということでは、なかった。
 支配者が、民衆の時間と空間を勝手にコントロールし管理することを、これ以上許してはおけないという怒りとともに、自分たちで自分たちの時間と空間を決定する、積極的なビジョンとして〈民主主義〉という言葉を、私(たち)は使い出さざるをえなかったのだ。
 「民主主義に天皇制はいらない!」、そういうスローガンが、各地の反天皇制運動の中に、ほぼ同時に、飛び交い出したのである。
 まっとうな〈民主主義〉は天皇制(王制)と対決するものであるのがあたりまえだ、象徴天皇制と対決する〈民主主義〉の運動へという動きが、全国化したのである。
 これは、ささやかにであれダグラス・ラミスがいう、ラディカル・デモクラシーを、私(たち)が運動的に生きた貴重な体験だったのだなと、この本を読みながら、あらためて思った(私は、ヤマパーレンをつけて民主主義という言葉を使うことで、この言葉の積極性を自己確認することが必要であったのだ)。
 私(たち)は、この時、何度も、「天皇制と民主主義」をめぐる問題について、運動の中で討論し続けた。それは、自分にとっても、まったく予想外の展開であった。しかし、民主主義をどのようにラディカルなものにしていくのか、そういう運動をこそつくりだそうという動きの中で、世代を超えた運動体験の生き生きとした交流を、部分的にであれ、何度もつくりだしえたという事も忘れてはいけない体験である。
 私たち(この場合の「たち」は、派兵チェック編集委など)は、浜松での2月27日、28日の「新ガイドラインとAWACSに反対する全国集会」に参加した。巨大な空飛ぶ司令搭であるAWACSの導入に反対し続けている「浜松NO!AWACSの会」主催の「全国集会」は2回目である。ここでの、各地の新ガイドライン安保体制づくりに反対する多様な運動の報告を聞いていて、私たちの運動の世界から、「階級闘争による革命」という「高い目標」の手段としての反戦運動を位置づける主張や言葉が、ほぼ消滅しているという、すでに以前から明らかな事実をあらためて実感した。国家が軍隊によって安全を保障してやるという論理が、国家の武装の強化と社会の軍事化を加速している状況。新ガイドライン安保(その関連法案である「周辺事態法」など)がそれを決定的な局面に押しあげ、「平和国家」のたてまえも全面的に崩壊させることになるだろう、という事態。米軍と組んだ国家権力の策動、それがつくりだしている状況(事態)に、各地で具体的に抵抗している活動は、「非武装国家」の理想を手ばなさずに、反基地・反軍隊の運動を、自分たちの生きやすい「非軍事社会」を、自分たちの手でつくり出そうという方向で追求し続けだしているのである。
 ここにも、生活空間と時間の自己決定という、ラディカル・デモクラシーへの動きが確認できるのではないか。報告を聞き、討論をしながら、私は、そう思った。
 私(たち)は、3月21日の『非武装・非軍事国家=日本』実現への具体的青写真を考える」という討論会(主催「提言:新ガイドラインを問う」)の準備にも向かっている。これも、そういった各地の運動の流れをふまえて、ラディカルなデモクラシーをつくり出し
ていくための具体的な運動プランを練りあげる一つの場所としたい、私はそう考えている。(『派兵チェック』 No.78、1999.3.15号)













無党派運動の思想
――絶対平和主義としての共産主義批判

北野誉●反天皇制運動連絡会

 反天連は日常的に、さまざまなグループ・個人と共同で「実行委員会」を形成し、皇室外交などさまざまな天皇イベントに対する反対闘争や、新ガイドライン・戦争国家化に抗する闘いをつくり出してきた。いうまでもなくそこには多くの党派および党派系大衆団体の人びとが参加し、膨大な実務をこなしつつ、共闘関係を継続している。昼間は生活の糧を得るための仕事に忙殺されている私たちにとって、彼ら党派活動家(とりわけ専従者)の存在なくしては、現在の運動のリズムを維持することさえままならぬだろう。しかしそれを、党派―無党派の「相互利用」に陥らせることなく、平場の共闘関係として作り上げていくことに、実行委のメンバーは自覚的であったと思う。それは、天野たちの世代の党派―無党派活動家による、初期の実行委活動における共闘原則のたゆまぬ確認、長期にわたる協働と討論にもとづいた信頼関係によってつくり出された運動の作風にほかならないが、そのような運動のスタイルが、なによりも七〇年代以降の新左翼運動の系譜が持った、「負の運動経験」への総括を初発の意志として持っていたことは疑いない。
 天野恵一の新刊、『無党派運動の思想』(インパクト出版会刊)は、サブタイトルを「[共産主義と暴力]再考」とする。もちろん共産主義と暴力はここで単に並列されているのではなく、共産主義=暴力として発現せざるをえなかった、運動の過程全体が問題とされているのである。新左翼の掲げた「革命的暴力の復権」が連合赤軍や内ゲバ、反日の爆弾テロに行き着かざるをえなかったこと、もっぱら大衆運動に対する破壊のみを繰り返す「前衛党」、それらすべてに対して、その根拠にまで遡って批判する。だが、この「共産主義批判家」天野の主張が、実行委内部の党派活動家との「信頼関係」を破壊することは、もちろんないだろう。まったくあたりまえのことだが、それは実行委を軸として行われてきた運動の中から生み出されたひとつの思考の産物であり、結論は別にして、実行委に参加してきたすべての人びとにおいてその前提は共有されているものであるはずだからだ。
 端的に言えばその言説は、運動に対する「責任意識」というものに尽きているかもしれない。天野は連合赤軍の「同志殺し」や内ゲバを、「無党派人」も「わが事として引きうける」という論理、あるいは全共闘運動が行き着くべき「最終地点」として連赤を位置づける論理を、きっぱりと批判して言う。「言い換えれば自分に引きつけて、問題を〈経験〉化するためにこそ、『他人事』として成立したという現実に、まず執着すべきなのだ。私(たち)は『連赤』のような運動を事実として生きなかったのだから」「(武装政治革命で一挙にすべて解決するといった)〈革命観〉へのハッキリとした不信も、あの時代の運動の思想の中にうみだされていたはずである。そして、その不信は、すべて運動をやめる(途中下車)というかたちで表現される以外になかったわけではないのだ」。
 けれども、天野にとっても、そのような当時の「気分」をすっきりと論理化して提示する上では、「人殺しの専門集団である軍隊や基地の存在(その男性主義がもたらす文化)をまるごと否定する絶対平和主義の〈反戦〉の闘いをくりひろげ続けている沖縄の反基地・反安保の運動のメッセージを受けとめて動き続けた、ここ数年の反戦運動の体験」が「決定的」であったのだ。軍事の論理(文化)と行動と内部粛清やリンチは連動しており、軍隊の論理は共産主義革命の思想に常に内包されている。ここにおいて、「絶対平和主義としての共産主義批判」が成立するのである。
 ただ、ここでの批判に限れば、「党」と「軍」が共産主義において不可分のものとして串刺しにされているが、この点はもう少し論理展開が必要ではないかと感じた。「正義の戦争」という観念から暴力革命=軍を肯定する論理への批判と、党そのものへの批判とはどう接合するのか。というのは、九〇年代に入ってかつての新左翼の流れの中から、レーニン主義はもちろん、マルクス主義をも放棄した政治組織がいくつか登場しているからである。それらは「党」とは違う新しいものであるのか、それとも、単なる「党」の衣替えなのか、あるいは「党」の残骸なのか、天野さんはそれをどう評価するのかな、とここを読んだときにふと思った(もっとも、答えはなんとなく予想できたが)。
 もちろん、それぞれの「党」の事情もあろうし、それ自体はどうでもいいことではある。カテゴリー論議をしてもはじまらない。だが、たとえばこの本のなかで天野が言及している、小林勝の『断層地帯』における主人公・北原の「おれたちが党だ」という言葉をどう理解するかということとも、それは関わると思う。白川書院版の著作集に収められた『断層地帯』の解説を書いた愛沢革が、「〈党だ〉というこの一句の述語にのみ眼を向けるのではなくて、〈おれたちが〉という主語に着目するならば、そこから運動内部の官僚主義に対決する大衆的な造反の可能性をとりだすことができると考えた」として、党ではない全共闘的な方向性を読み取ったのに対し、天野は、「〈おれたち〉という主語が復権せざるをえない、北原らの党〈活動〉体験への明快な否定的こだわりの持続に共感すればするほど、新しい〈党だ〉へと円環してしまう結論に私はいらだつ」と述べる。『断層地帯』に即して言えば、天野の言うとおり、北原らの「党」はやはりレーニン主義的な「あるべき党」への希求であったろう。あとからの「文献知」によって理解する限りでも、そのほうが自然だ。『断層地帯』が党的結集を求める新左翼文化のなかでよく読まれたというのも、その点でよくわかる。ところで、もしも五〇年代の運動において、北原らに「おれたちが無党派だ」と語らせる別の可能性があったとすれば、それはどのようなものとしてあったのだろうか? (『反天皇制運動じゃ〜なる』20号、1999.3.9号)











《チョー右派言論を読む》 

ガイドライン関連法案実務者の講演を聞いて
太田昌国●ラテンアメリカ研究家

 杉山隆男の『兵士に聞け』という本は、1995年に新潮社から単行本で出版された。自衛隊護衛艦やレンジャー訓練に同行しながら隊員の生の声を取材したという本の性格には注目したが、読む機会はいままでつくらなかった。今度新潮文庫に入ったのを機に読み始めたところだ。読み終えたところで必要だと考えたらきちんと取り上げようと思うが、先験的な自衛隊批判派に対して皮肉な視線を向ける著者は、たとえば冒頭で次のように書く。「旧軍の影を曳きずらずに自分たちの手でまったく新しい軍人像を描こうと意気に燃えて防大に入った一期、二期の人たちは、開拓者の宿命として辛い思いを味わってきた。のちのノーベル賞作家から『同世代の恥辱』と口汚く呼ばれたのも、通りすがりの人に『税金泥棒』と罵声を浴びせられたのもあの人たちだ」。
 40年以上も前、私が10歳代前半であった頃の記憶の糸を手繰り寄せてみる。北海道の東の果てに近い街から札幌へ向かう列車の中で制服姿の若い「軍人」の姿をよく見かけた。休みを利用して札幌に住む兄姉や親戚を訪ねる旅に出かける私は、自分より 10歳ほど年嵩であろうその人たちに対して「税金泥棒」と口に出して言うことはなかったが、彼らを見つめる私の視線は冷たいものであった。それは忘れようもない、遠い記憶だ。憲法違反の軍隊を平然と作り出しておいて、それを言葉をもてあそぶようにして正当化する政府に対する幼い怒りと憤懣は、貧しい時代状況の中で保安隊=自衛隊を生きる場として選んだ(多くの場合選ばざるを得なかった)人びとに対しても、何ら屈折することなく向かっていったのだろう。
 いま思うと、その頃から今日に至るまで、私は自衛隊員と言葉を交した記憶がほとんど、ない。去る2月15日、防衛庁・陸幕調査部一等陸佐/山口昇氏の講演に耳を傾けながら、私はそんなことを思っていた。ところはアジア記者クラブという名の集まりの定例会。現役のジャーナリストとジャーナリスト志望の若い人びとの勉強の場だ。テーマは「周辺事態法案の実務者に聞く」。前述の山口氏は、防衛官僚として、日米両政府による防衛協力のための新ガイドライン協議の場に参画し、策定メンバーであったという。自己紹介によれば、氏は1995年の防衛計画大綱の立案にも参画したというし、上記のような民間の小さな勉強会にも講師として出席する「自由さ」を享受しているのだから、自衛隊中枢部にあって、しかも対外的なスポークスパースンの役割も演じることのできる人物なのであろう。
 氏の講演は、日本が冷戦の終結によって対ソ包囲網の中で果たしてきた役割を喪失し、湾岸戦争や北朝鮮の「核疑惑」のような新たな不安要因を前に、新たな防衛構想を組み立てる必要に迫られたという1990年代以降の世界情勢のスケッチから始まった。客観的な状況をどう分析するかという視点の問題について異論は多々あるが、ここではそれは取り上げない。全体を通じて、氏は、「新ガイドラインによって自衛隊がやることそのものは、自衛隊の防衛出動や治安出動の場合と違って、荒っぽいものではない」という言葉が象徴するように、ガイドライン関連法案から軍事色を一掃することに力を注いでいるように思われた。法案がいう後方地域捜索救助活動にしても船舶検査活動にしても、その職務に従事する自衛隊員が武器を使用できるのは「生命又は身体の防護のためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合」に限られており、それらの行為は、米軍に「物品及び役務を提供」する後方地域支援ともども、「現に戦闘行為が行なわれておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行なわれることがないと認められる」後方地域においてのみ可能なのだから、「周辺事態とは、起きてみるとほとんど軍事ではない」というのが、氏が強調したいことなのだろう。
 このような立場は、新ガイドラインの正文をめぐる私の質問への答えにも見られた。政府が公表しているガイドライン日本語文は英語からの翻訳ではなく、討論を経てふたつの言語で同時に起草したという。実際にはふたつの文章は厳密な対応関係にはなく、日本語文は、語る内容から軍事色を消すことに腐心しており、ガイドラインがまぎれもない戦争マニュアルであることを隠そうとしていると私は質問したが、それは見解の相違で、そんなつもりはない、と氏は「とぼけた」。
 先に触れた後方地域とか戦闘行為をめぐって「言葉の上だけで戦争色をなくそう」とする法案の規定は、私のような軍事問題に関する素人から見ても荒唐無稽な空想上の産物としか思えず、言葉合わせによるやり繰りを旨とする外務官僚ならともかく、「職業軍人」としての陸幕防衛調査官が起草できる水準のものとは、とうてい思えない。だが、1951年生まれで、防衛大を卒業し、対戦車ヘリコプター隊に所属し、ハーバード大客員研究員を経て、(ガイドライン策定の「功績」なのであろう)1999年6月から在ワシントン日本大使館の駐在武官として赴任するというエリート・コースを行く山口氏は、この規定に加担した。私がガイドライン関連法案に反対する理由はほかにもいくつもあるが、幼い私が冷たい目で見つめたこともある末端の自衛隊員が、日本政府と自衛隊の特権上層部のこんな無責任な方針によって「戦地」に放り出されることを許すわけにはいかないという思いもその一端にはある。それは、おそらく、大杉隆男の『兵士に聞け』を貫く考えとの別れ道でもあるのだろう。(『派兵チェック』 No.78、1999.3.15号)

《チョー右派言論を読む》 

天皇抜きのナショナリズム/再び
伊藤公雄●男性学

 昨年暮、本欄に、天皇抜きのナショナリズムについて、ちょっと書かせてもらった。早速、本欄のお隣、あるいは裏表のページで栗原幸夫さんが、この動きに対する論議を展開されているし、また、『インパクション』(112号)では、天野恵一さんが、「天皇抜きのナショナリズムの動きなんてあるのか」という、どちらかというと「そんなものは実体がない」という観点から、批判的な議論をされている。
 ぼくは、とりあえずは「ある」という立場をとりたい。というのも、こうした動きは、かなり以前から見え隠れしていたからだ。しかも、多くの場合、「天皇抜き(といって悪ければ、天皇から距離をとる)」の議論は、改憲と結び付いて議論されることが多かったように思われる。再軍備とひきかえに天皇制を後退(ないし廃止)するという議論だ。ちょっと古くなるが、たとえば、大前研一氏は『平成維新』で、憲法改正=軍隊の所有と天皇制の憲法条項からの廃除を論じている。また、1990年代に入ってからも、あの『SAPIO』で、あの落合信彦氏などが「愛国者」という立場から天皇制廃止を議論したこともある。
 もっと興味をひくのは、読売新聞の憲法改正草案の最初の素案が出されたときだ。第1章からは、天皇制は消え、「国民主権」がうたわれ、象徴天皇制の条項は、かなり後ろの方に配置される形になっている。おそらく、その理由は憲法における9条と1章(1〜8条は天皇条項)とのかかわりをめぐる認識があるのだろう。実際、この憲法草案の解説では、こう書かれている。「GHQは、『これ(9条)は天皇制擁護のためであり、日本民衆の意識に合致したものだ』と説明した」と。
 平和主義をうたうためではなく、天皇制を残すために戦争放棄が書き込まれたというのだ(今では歴史的常識に属することだろう)。確かに、通常であれば、(特に、連合軍やアジアの人々から見れば)、天皇はどう見ても最高の戦争犯罪者である。実際、戦争の被害を受けた国や交戦国から、天皇制の廃止はあたりまえのこととして主張されていた。その天皇・天皇制を処断せずに存続させる(当時の日本の支配層とGHQの合意でもあった)ということになれば、担保が必要だ。それが9条というわけだ。「もう戦争はしないから、天皇制は残してくれ」、というわけだ。
 天皇をめぐってこうした認識があるなら、9条を変えるということになれば、どうしても天皇の議論をせざるをえない。読売新聞はそれを当初、「国民主権」をまずうたい、天皇条項を下げることによって表現しようとしたわけだ。
 実際、戦後の日本社会がアジアをはじめとする戦争被害国、欧米の交戦国と、なんとか関係(特に政治・経済関係)が維持できたのも、この9条によるところが大きかったのは、国際状況にふれている人にとっては明らかなことだったろう。日本の再軍備があのファナティックで凶暴な天皇制と結びつくことの危険性については、多くの国々の人々は、おそらくは一般の日本人以上に敏感に対応してきたはずだ。だから、日本が再軍備するということになれば、ファナティックな天皇制の亡霊には姿を消してもらわねばならない。これが、「まっとうな」再軍備派の論理になるのは理の当然だ。
 こんなことを言うと、「天皇制の危険性はないというのか」とか「反天皇制の運動は意味がないというのか」という人もいるだろう。そうではない。「だからこそ、もっともっと天皇制をめぐる議論を展開する必要がある」というのがぼくの意見だ。
 確かに、国際社会の現場にいる合理的で功利的な保守派にとって、ファナティックな天皇イメージを後景に配置させたいのは事実だろう。特に、再軍備=改憲ということになれば、そうでもしないとアジアの国々が説得できないのは目に見えているからだ。
 ところば、「そうは問屋がおろさない」のが日本の事情だ。戦後、(いってよければ、新憲法と東京裁判の不徹底のおかげで)そのまま温存された天皇主義右派が、未だに政治や経済のバックには存在しているからだ。保守派が保守派として力を発揮するには、どうしてもこの天皇主義右派と結ばなければならない。実際、先に述べた大前氏も落合氏も、また読売憲法草案も、天皇制賛美の復活に結果的に流されているのだ。
 だから、「天皇抜きのナショナリスト」といえども、政治的な力を発揮するためには、こうした右派の力とどこかで妥協しなければならない。『諸君』の大塚英志氏(戦後民主主義を擁護する大塚氏の方が、明らかに天皇制賛美なのも面白い)との対談で、福田和也氏が、それまでの天皇をめぐる議論を突然転換させ、「天皇陛下はいらっしゃっていただかないと困る」などと(かなりいんぎん無礼な言い方なので、これも面白かったが)敬語をつかったりするあたりにもうかがえるだろう(もちろん、ここでいう「面白い」は、なにもこうした政治状況を面白がっているわけではないことはいうまでもない)。
 何度も繰り返すが「天皇制抜きのナショナリズム」議論の登場は、天皇問題はもう議論する必要がないということを意味しない。むしろ、改憲=再軍備の動きがある今こそ、アジアの人々との具体的な交流を通じて、これまで以上に天皇・天皇制の戦争責任・戦後責任を問う必要があると思う(浮上しつつある国旗・国歌をめぐる議論も、アジアの人々にとっての日の丸・君が代という視点を含んで、現実の国際的連携が何よりも大きな意味をもつだろう)。
 ガイドライン関連法、改憲の動きのある今だからこそ、そこに、天皇・天皇制の議論を持ち込むことは、天皇をあいまいにしてきたリベラルな保守派と天皇主義右派の間に亀裂を生むことにつながる可能性があると同時に、「開明派」を装う「天皇抜きナショナリスト」たちが、結局、天皇がらみから抜けだしえない状況を明らかにするためにも必要なことなのだ。(『派兵チェック』 No.78、1999.3.15号)




















《世界から》




フセイン・ヨルダン国王の死と中東和平プロセスの行方

岡田剛士●パレスチナ行動委員会

 去る二月七日、ヨルダンのフセイン国王が死去した(六三歳)。八日の国葬には日本の皇太子夫妻と小渕総理、また健康に不安があるとされるエリツィン・ロシア大統領まで含めて約五〇ヶ国から要人多数が参列。アメリカ合州国からはクリントンの他、フォード、カーター、ブッシュの歴代大統領三人、イスラエルからはワイツマン大統領、ペレス前首相、シャミル元首相、「対アラブ強硬派」のシャロン外相らまでもが参加した。「弔問外交」という言葉と共に、この葬儀の様子はTVでも伝えられた。「中東和平のために努力を惜しまなかった国王」といった押し出しの報道も多かったと思う。
 ここでヨルダンについて、少し振り返っておく。
 一六世紀初頭以来、東アラブ地域(現在のイラク、ヨルダン、シリア、パレスチナなどを含む地域)はオスマン帝国の支配下にあった。一九一四年に第一次世界大戦が勃発するとオスマン帝国はドイツ側で参戦。この第一次大戦を中東に引き付けて見れば、オスマン帝国の広大な領土をヨーロッパ帝国主義諸国が分割支配するための戦争だった。そしてイギリスは、この目的達成のために「フセイン・マクマホン書簡」(アラブがオスマン帝国に対する反乱を起こしてイギリスに協力し、イギリスは見返りに東アラブ地域の独立を承認する)、「サイクス・ピコ秘密協定」(東アラブ地域をフランスとの間で分割支配する)、さらに「バルフォア宣言」(パレスチナにユダヤ人の『ナショナル・ホーム』建設を約束)という矛盾する三つの「約束」を相次いで交わす。
 戦後、一九二〇年のサンレモ会議はサイクス・ピコ秘密協定をベースにして、東アラブ地域のイギリスとフランスによる(国際連盟から委託された「委任統治」という名目での)分割統治を決定した。アラブ側は約束通りオスマン帝国に対する反乱を起こしたにもかかわらず、フセイン・マクマホン書簡にあった「アラブ地域の独立」は反故にされたのだ(日本は、この会議に「戦勝国」側で参加している。つまり日本国家は、東アラブ地域の帝国主義支配に責任があるとも言い得るのだ)。
 ちなみに、この書簡に名前の付いているフセインとは、第一次大戦当時イスラムの聖地メッカのシャリーフ(守護職)としてあったフセイン・イブン・アリーのことで、彼の家系はイスラム教の預言者ムハンマドの後裔とされる名家――ハーシム家であった。先に死亡したフセイン王は彼の曾孫にあたる。
 そしてイギリスは、サンレモ会議を通して新たに線引きし、自らの植民地として形作ったヨルダンおよびイラクという国家を支配するために、この「アラブ・イスラムの名家」を再び利用した。ヨルダンにはフセイン・イブン・アリーの次男アブドゥッラーを、またイラクには三男のファイサルを、それぞれ国王として据えたのだ。現在にまで引き続く「アラブ諸国体制」は、こうして作り出された。
 その後ヨルダンでは、アブドゥッラー国王が一九五一年に暗殺され、約一年間は息子のタラールが国王となった。しかし彼が病弱のため五二年にはタラールの息子フセインが国王となり、そして今年二月、フセインの死去に伴い長男アブドゥッラーが国王となった。
 こうした一連の歴史過程の中で押さえておくべきことは、(1)ヨルダン(「ハーシム家のヨルダン王国」)や他の東アラブの国々は、結局のところヨーロッパ帝国主義によって恣意的に線引きされ、形作られた国家・権力体制であったこと、
(2)そうであるが故に「国王」といっても、「イギリスが勝手に支配のために連れてきた王様だ」ということをアラブの民衆は知っていたこと、(3)関連して、その「王様」とは、何かしら超越的な権能を有するとされる存在などではなく、あくまでも「有力な家系の筆頭者」という存在であること、などだ。
 そして一九四八〜九年のイスラエル建国/第一次中東戦争後にヨルダンは「ヨルダン川西岸地区」(この時点まではイギリス委任統治下のパレスチナの一部だった)を併合、国名を「トランス・ヨルダン」(つまりイギリスから見て「ヨルダン川の向こう側の国」)から、「ハーシム家のヨルダン王国」(つまり、ハーシム家が統べるヨルダン川両側の国)へと変えた。以後ヨルダンは、イスラエルと最も長い「国境」線を接する国として、中東紛争の最前線に位置付けられてきた。一九五二年に即位したフセインは、こうした歴史をヨルダン国王として生きたことになる。
 だから、(a)フセイン国王は、湾岸戦争「終結」後の一九九一年一〇月からマドリードで開始された中東和平会議や一九九三年のオスロ合意以降のパレスチナ暫定自治なども含めて中東の政治舞台に欠くことのできない役者の一人だったし、(b)その死は、一九二〇年を契機とする「アラブ諸国体制」の柱の一つとしての「ハーシム家のヨルダン王国」での「代替り」であった(もう一つの柱であったイラク王制は一九五八年に打倒された)。こうした二つの点が、去る二月のフセインの死と葬儀の背景としてあっただろう。
 しかし、それだけだったのか。二月一三日付けの東京新聞(夕刊)「世界の街から」の欄に「アンマン/ふに落ちぬ国王の死」という記事があった。同紙海外特派員のコラム的なこの欄の記事は、「一月下旬の皇太子の突然の交代劇からフセイン国王の葬儀にいたる一連のヨルダンをめぐる激変を見ていて、幾つかふに落ちない場面がいまも頭に残っている」と書いている。
 経過としては、一月一九日に合州国での「がん治療を終え」(例えば、共同通信・一月二六日付)半年ぶりに一時帰国したフセイン国王は、約三四年間も皇太子の地位にあった実弟のハッサンを「国王に忠実な軍首脳を更迭しようとした」との理由で皇太子の地位から解任し、長男アブドゥッラーを皇太子に指名した。しかも、このハッサンの更迭は書簡で伝えられたという(同、共同通信)。さらに「(同じ二六日に)がんが再発、米国に戻り骨髄移植手術など治療を受けていた」(共同通信・二月五日付)フセインは、二月四日に容体が急変、重体の状態で五日に帰国し、七日に死去したと報じられた。つまり、「死人に口なし」的な状況での「皇太子交代」劇だった。
 東京新聞に戻ると、この夕刊の記事/コラムは、一月の帰国の際にフセインは「ぼけが始まって」おり、二月初旬の帰国と死去については「実はすでに逝去していたのではないか。親国王体制準備のため、時間稼ぎがあったのではという疑念は消えない」とし、「欧米メディアの逝去の扱い」も含めて「政治的な匂いを感じた」とまとめている。
 興味深いが、しかし「時間稼ぎ」は、単に新国王体制の準備のためだけではなかったのではないか、と考える。昨年から今年一月にかけての政治状況の中でイスラエルは、総選挙を今年五月に前倒しすることを決めている。これによって、五月四日に迎える現在のパレスチナ暫定自治(=「オスロ和平プロセス」))の五年間という期限は完全に無意味なものとされてしまった。だが、これではパレスチナ人たちが納得するはずもない。そこで合州国(およびイスラエル、ヨーロッパ諸国――という可能性もある)は、ヨルダンに対して「パレスチナ・ヨルダン連邦国家」という、つまりはヨルダンという国家自体の再編をも可能性として含み得る選択肢を強いたのではないか。さらに、そのための「皇太子交代」劇と大々的な「弔問外交」だったのではないか、ということだ。
 この「連邦国家案」は、もちろん憶測の域を出ない。しかし、もしもこの選択肢が(例えば五月のイスラエル総選挙を一つの目処として)今後具体的に浮上してくるならば、そのことが意味するのは、オスロから開始された現在の和平プロセスに対する緩慢な、しかし最終的な死亡宣告だ。そして中東は、新たな「合意された枠組み」を求めて流動化してゆくことになるだろう。(三月一日 記)
(『反天皇制運動じゃ〜なる』20号、1999.3.9号)