alternative autonomous lane No.12
1999.1.20

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目 次

【新春座談会】

反戦平和運動の新たな展開と浮上を求めて(舟越耿一・武藤一羊・天野恵一)

【チョー右派言論を読む】

世紀の終わりに天皇制論議の更なる深化を(栗原幸夫)

保守系メディアのレトリック(伊藤公雄)

【議論と論考】

《10年目のアキヒト・ミチコ天皇制と対決する!》

「おことば」の中身のレベルを越えた論議を(たいらひとし)

米日韓三角軍事同盟の本格的展開を許すな!(北野誉)

アジア通貨危機と日韓一体化(池田五律)

天皇制側の「女帝」論議は本格的に始まった(桜井大子)

【表現のバトルフィールド】

文房具」発、女のためのおいしい情報――麻鳥澄江とジョジョ企画(桜井大子)
















新春座談会反戦平和運動の新たな展開と浮上を求めて

舟越耿一(長崎・県民の会)
武藤一羊(ピープルズ・プラン研究所)
天野恵一(『派兵チェック』編集部)


長崎という地域に徹底的にこだわる

【天野】 今日は長崎から舟越さんに参加いただきました。まず、この間の新ガイドラインに反対する長崎での運動がどうなっていて、舟越さんがピースバスなど長年担ってこられた平和運動との関係など話していただければと思います。
 先日の長崎新聞への新ガイドラインに反対する意見広告など、ちょっとびっくりした。ぽっと食卓に置いても違和感のないようなデザインやカラーであったこと、地域のメディアだからできる強みみたいなものもあったと思いますが、そこらへんのところもふくめてお願いいたします。
【舟越】 新ガイドラインの問題については、私自身が生きてきた価値観である憲法9条の平和主義が最終的に終わりになるかもしれないという危機感、非暴力というところまで僕は平和主義の中に含めて考えますから、これだけは絶対ゆずれないと、新ガイドラインをつぶすためには十分、徹底的に納得のいく取り組みをしようと考えていました。しかしそれまで私は長崎では、反安保といった大状況的なとらえ方をした反戦平和運動ではなくて、徹底的に地域の問題にこだわって、そこから運動を作っていくようなそういう平和運動をしようと心がけて、この10年やってきました。言葉でいうと「大状況主義を廃する」と。目標に対して道筋をつけてみんなこの道筋を歩め、といったような運動をやめようと。誰でも自分の言葉で語れる平和運動をやろうと、徹底的に「小状況主義」でいこうと考えてきたんです。かつては国際情勢から解き起こして運動の課題を語っていくスタイルがありましたけど、それを全面的にやめようということです。
 三菱の兵器生産に反対していく運動を始める時にはそう考えていました。当初一般的に語っていたのは、世界に向かっては「ノーモア・ウォー」と言いながら、内で営々と兵器生産をしていることにはノーコメントということでいいんだろうかということで、兵器生産の問題に真っ正面から向き合わなければ、長崎の平和運動・反核運動は非常に空洞化したものになる、ということでした。
 長崎の市民の人たちも町の真ん中に魚雷工場があることを知らない。私も運動をやるなかで魚雷の試射場まであるのをはじめて知った。自衛隊が使っている魚雷はすべて長崎で作っているということも知らなかった。真珠湾攻撃で使った魚雷も長崎で作ったといたことも知らなかった。つまり、長崎で作った魚雷で日米戦が始まり、長崎への原爆でそれが終わった、というストーリも知らなかった。そういうことがだんだんわかってきました。
 地域に根ざして、普段着の言葉で、教育問題からでもおんなの問題からでもどっからでも平和について自分の言葉で語れるような運動をしようということをずっとやってきて、その運動の蓄積のなかで、新ガイドラインを許さない県民の会ができたと言えると思います。
 今、隔週毎に街頭署名に出ていますが、平和センターの労働者は少なくて、中心になっているのは主婦やわたしたち市民運動のメンバーです。あいかわらず反核運動だとマスコミも大きく取り上げるんですが、反核の原点は反戦ではなかったのかと、いま私はいじわるく言っているんですけれど。通常戦争の延長上にしか核戦争はないわけだから、通常戦争一般に反対する姿勢がない反核運動はおかしいんじゃないかと問題提起をしていて、なんとかもっと運動の輪を広げようと考えているところです。
【武藤】 兵器生産反対の運動というのは、まず市民運動が始めて、それに平和センターが参加してきたんですか。
【舟越】 「ピースバス長崎」の運動は個人参加の運動です。結成当時は、市民運動が提起して、地区労、県評の人たちも大挙参加してくれました。運動そのものについては、主として三菱の「第三組合」、今「連帯」と言っていますが、この人たちが全面的にバックアップしてくれました。
【武藤】 立ち上げたのは何年ですか。
【舟越】 1986年です。その一年前から準備をして。兵器産業のチェックという視点が最初あったんですけれども、人間が確保できないし、どこでどうやって何をチェックするかといったことを考えたら生半可なことではできないということでして、とにかく、兵器生産の現場を見るピースバスと学習会をやろうと。長崎の経済に占める兵器産業の割合とか、人口構造の中で三菱関係がどれくらい占めているか、それが自治会やPTAなどを通じて地域の民主主義に対してどんな影響を及ぼしているかとか、学習会を重ねました。会社に対しても兵器生産を止めなさいという申し入れを真っ正面からもっていく、そういう運動でした。三菱の「第三組合」の人たちがやってきた運動がありましたので、その人たちとドッキングすることによって三菱との交渉も可能になったわけです。
【天野】 それはいまでも続いているわけですか。
【舟越】 続いています。
【天野】 そうすると反新ガイドラインの運動もその枠組みで動いているわけですか。
【舟越】 県民の会に結集した大きな流れのひとつとしてこのピースバスの運動があると思います。
「被爆地ナガサキ」という言葉がありますけれども、平和問題については、被爆者か被爆者団体かしか発言が求められない状況がありました。ピースバスができて、市民運動のネットワークができたら、戦後世代でも被爆者でなくても発言を求められるようになってきて、長崎の平和運動全体が変わっていくという局面がありました。
 新ガイドライン反対は、とにかくやらなきゃならないと言ってきたんですけれども、なかなか運動体の立ち上げに至らなかった。崎山さんが声をかけてきて一気に動き始めるのですが、まず市民運動と平和センターが連携をとり、それに被爆者団体も入ってもらう形で県民の会が生まれました。社民党関係も合流してきています。

■東京のネットワークをいかにつくるか■

【天野】 東京の集会にも舟越さんには来ていただいてますが、どういう印象をおもちですか。
【舟越】 まず、マスメディアと完全に切れているのが信じられないです。長崎の場合には、マスメディアがどこか必ず報道してくれる。新聞もテレビも来る。こまめに記者クラブには投げ込みをしてやるんですけど、東京の場合には、大きな集会しても次の日新聞に何も載らない。これには皆不思議がっていました。
【天野】 載るのが不思議です(笑)。特にそういう傾向はこの間強まっています。たまに記者会見をわざわざ設定しても、記者が来ないし、来てもほとんど記事にならない。テーマが天皇制のときにはややあきらめている部分もあるんですけれども、ガイドライン問題でもそうですね。
 もうひとつ特徴的なのは、集会には私服(警官)がわんさか来て、へたをするとデモ隊よりも多いとい馬鹿げたシチュエーションが現出しかねない局面も何回もあって(笑)。運動がそういうところに閉じこめられている構造がずっと続いています。
 東京でもそれぞれ地域の運動はあってそれらが分断されながらも、コミュニケーションがないわけではなんですが。
【舟越】 どこか運動の作り方に男性主義的なところがあるということはありませんか。長崎はもう半分以上女性になっているんですよ。会議でも署名でも女性の方が多い。私服は来ないですね(笑)。
【天野】 女性の運動は独自にもちろん東京でもあるし、東京はやはりうまくまとまらない、女性の運動は女性の運動でまとまってしまっていて、そことの交流も作られているところももちろんあるんですけれども。
【舟越】 ピースバス長崎というのは、市民運動ネットワークのワンノブゼムなんです。そのほかに、教育通信とか被爆二世教職員の会とか10団体くらいで市民運動ネットワークというものを作ったんです。最初はそれぞれが別個にやっていたんです。スケジュールの調整をするくらいで。そのうちみんなお互いに入り込むようになって最近は丼勘定になりつつあって(笑)、よくないとは思うんですが、まだそれでもそれぞれで動いているんです。そういう市民運動の結集の仕方がうまくいった例だと思います。
【天野】 東京周辺の運動の課題は、同じテーマで動いている人たちの相互のネットワークをどれぐらいつくれるかというのがひとつです。舟越さんの長崎や大阪など遠くの人たちとのコミュニケーションをとる関係はでき、沖縄のインパクトもあって生き生きと広がってきたんだけれども、東京周辺の運動のネットワークは、ないわけではないんだけれど、そのまとまりのなさ、求心力のなさ、集中力のなさはすごいな(笑)と、感じますね。
【舟越】 私たちも東京の集会に出ていくなんて、この十数年来考えたことがなかった。東京や全国とは関係なしで長崎は長崎だけでやるんだと決めていましたから。呼び掛けがあっても行かないということだったんですけれども、新ガイドライン問題では東京へ行こうという気持ちに皆なっているんです。

■地域の運動と求心力の衰弱■

【天野】 東京はしまりがないというか、呼び掛けなくちゃいけないという当為命題はあるんですが、東京と東京周辺できちんとそういう運動を組み立てていくことにまったく成功していないのが実情ですね。それは嘆いていてもしょうがないですけれど。どうしたらいいのだろう、というぐらいある種の求心力の衰弱は激しい。
【武藤】 東京も地域ではわりと層の厚い運動があるんですよね。三多摩は三多摩でまとまっているし、神奈川は神奈川のまとまりがある。しかし東京全体となるとまとまった力になりにくい。ひとつは、いろいろな運動の間の文化的な融合がなされていないというのが大きいよね。さっきも出ましたが、女性のネットワークと話がまったく切れているわけではないけれど、一緒にやりましょうというふうにはなかなかならない。アプローチの違いみたいなもので住みわけされてきていて、NGOスタイルとか文化もある。京都の軍縮会議に働き掛けるとか、ジュネーブへいくとかというところでは横につながりやすいけれど、ガイドラインとなると腰が重くなる。ガイドラインに賛成であるわけではないんだけれども、天野さんがやっている運動とはかなり個性が違う。
【天野】 運動というのは全部文化をもっているわけですから、いい意味でも、悪い意味でも。その文化が文化摩擦を起こすのは致し方ないのですけれども、その接点をお互いにつくっていくスタイルに成功していないんですね。
 女性たちの運動をぼくたちからみても、女性だから集まるみたいな集まり方は、ある種男に対する反発として根拠のあったエネルギーだと思いますが、そのことだけだと僕らとどう接点をもつのかと、あるいは運動をはじめから男ともやっている女性にとって、女性の運動がどう映るのかといったことなどの討論の場所なども、実際は開かれてもたれていないですね。だから、そうした具体的な手続きが運動の場所で踏まれていないから、いろんなエネルギーが個別的に、地域とかテーマで結集の軸が違ってあるわけです。それがある種の共通のテーマの中で、坩堝のように出会って、「おもしろいな」とか、「そうかそういう問題があったのか」とか発見をしながら批判をしあう運動が作れていない。
【武藤】 それが最大の課題ですね。
【天野】 それはなんでもないところでやれるわけでもなくて、たとえば新ガイドライン安保問題は、国家の全体の性格をかけた問題ですし、戦後全体の国家の顔を変えてしまおうという動きだからすごい大きいテーマなわけで、この土俵の中でそれができなければ次のステップはあまりないだろう、という感じは僕はしているんですが。そういう危機感はものすごくあるんですけれども。運動としてそれを実現することに成功していない。
 ただ、外に広がった関係が拡大しているメリットは、現在の状況はそんなに低く考えてはいないですね。

■ある種の中央機構の機能の必要性■

【武藤】 天野さんはそうは意図していないだろうけれども、全国をコーディネートしたりすることは、ある種の全国機能なんだね。東京に権力中枢があるという事実から仕方なく生れる機能。しかしその全国機能と、地域としての東京というのはいつも混同される構造になっている。なんの運動でもそうだけれどね。真ん中がドーナツ化していて、神奈川とか三多摩とかそういうところで地域というのが見えてくる。東京は見えない。それはずーっとある問題で、それをどういうふうに克服できるか。
【天野】 東京でもたとえば、大田区とか練馬区とか細かく分ければあるんですが。ただそれは、まとまってないというか。みんな知り合いでないかというとけっこうみんな見える関係ではいる。いろんなテーマで知り合いだったりしているにもかかわらず、まとまっていく力がなくて。
 東京は、労組中心の社会党的な集まりがあった時代は、それが集まりの軸だったわけで、有象無象が、悪口を言い合いながらも集まれる枠であった。そういう軸も、ぶっ壊してきたし、ぶっ壊されてきた構造の中で、ある種の運動的求心力の表現を作る場所がなくなってきている。みんな気が付いているんですけれどもどういうふうに再構築したらいいのか、わからない。運動の実践のスタイルとしてはかなり大きな問題としてある。
 それと、どういう思想的結集軸で集まっていくかということについては、なにもないわけではなくていろいろなことでたくさんの共通項があるとういことは、この間全国をぐるぐる回っていて本当に思うんですけれども、みんな考えていることはたいして違わない、共通項があるにもかかわらずなんでこんなに分散的なんだろう。
 マルクス主義的な図式でいろいろものを考えた人たちは言葉を失ったといいますけど、だいたいみんなそんなものからは逸脱して考えてきたところがあるわけで、逸脱して考えてきたところの歴史的蓄積はそんなにばかにならないわけで、それはたとえば、非武装とか非軍事といった場合に、みんなある程度には運動を蓄積してきているとか、その部分の理論的な連携ももっと自覚的に作られるべきでしょうし、それも運動自体のリンケージと別の事ではないと思うので、できる条件はあると思うんですけれども。
 この一年の運動は、そうした首都圏の空洞化をものすごく感じましたね。

■新しいスタイルの運動 遊び気分でシリアスな課題を■

【舟越】 私たちは毎年8月1日から9日までピースウイークというのを12年やっています。ひとつはっきりしてきたことは、最近は講演会には人は集まらないということです。何に集まるか。フィールドワークに集まる。だから意識的に、講演会ではなく、フィールドワークの設定を心がけています。遊び気分、ピクニック気分が半分で外でやる。でもやってることは非常にシリアスな問題なんです。そんなスタイルでないと運動のスタイルとしてはだめだな、と最近はみんな自覚しています、長崎は。
【武藤】 それはすごく大事なことですね。行動形態が、新しくなっていない。代々木公園をかりて、演説者がいて添え物のように音楽をやってさ、あれはまだ本当の表現になっていないね。行っても座っているだけという感じ。新しい運動形態をやってみて、たとえばフィールドワークを東京ならどういうことができるかということを考えて、おもしろいぞということになったり、予定していない自発的な行動がそこから出てきたりするようなことを今年は考えませんか。
【天野】 それは考えたほうがいいですね。ただぼくは、古典的な形態も持続し、新しいこともやってみる。いくつもいくつもやらざるを得ないと思いますね。
【武藤】 それはそうだけれど、古典的な形態でどの程度までしかいかないかというのは見えたと思いますね。
【天野】 運動については保守的に考えないでなんとかしたほうがいいとは思うんですけど、具体的なイメージをむすばないですね。そこは変えていかなくちゃならないとは思います。
 ただ新しいことをやろうとするとすぐ、デモをやめてパレードにしようとかフェスティバルにしようとか、そういう話ばかりがでてきて、それももう辞めてほしい(笑)。なんとなくそのほうが人が集まるというのもひとつの神話で、集まってくる人が新しい発見があるといったものではない。
 ぼくたちも、デモと集会。集会の中身はいろいろ考えますが。あとは沖縄の問題などの取り組みからはいろいろ音楽を間に挟むとかやっていますが、それ以上のことはほとんどやれたことはない。
【武藤】 音楽がね、やはりアトラクションとしてしか扱われていない。政治的怒りが表現されているという意味での文化、参加者の内発的な表現として出てこない。【舟越】 私たちのピースバスというのは、非常に硬派の運動ですよ。しかし、スタイルはものすごくミーハー的なスタイルですよ。「お天気のいい日に、お弁当をもって、三菱の兵器工場を見て回ろう」こんなふうに呼び掛けるわけですから。やってることはすごく質の高い運動なんですよね。
 もうひとつ予期せぬ評価を貰っているのが、8・9の市民集会ですよね。あれは爆心地公園でやるでしょ。すると、どこまでが集会の参加者で、どこまでが見物人で、どこまでが通行人なのか、これがわからないんですよ(笑)。それを外から来る人がすごく評価してくれるんですね。そのスタイルを初めてから、原水禁大会も、県外から来た人たちが、せっかく8・9の長崎に来ているのに屋内だけにいては何もわからない、外に出よう、ということを言い始めたということで、一昨年から原水禁も市民集会の後半に合流するようになってきたわけです。
 文字通り開かれているんです。そうした工夫の余地はあるような気がします。
【天野】 沖縄の闘争なんかをみていても本当に感じるんですよね。ぼくは沖縄が怠慢だ思うんですけど(笑)。怠慢だというのは、闘争形態の中身ではなくて、ビラがほとんどないんですよね。何万というぼくらでは考えられないような規模の集会をやりながら、あるのは「主催者のあいさつ」という短いビラとあとは特定党派のビラしかない。特殊政治集団のビラだけが流通していてあとは、主催者のビラ。本当に活字とあまり関係ない世界なんです。僕らが困るのは、発信してくれないと、活字でやっていることで意味を確認している僕らは困る、ということでイライラするんです。けれども向こうでみているとそれで十分という集まり方の形態にもなっている。そういうことができている仕組みは何なのかということは、よく考えないといけないなと感じるんです。沖縄にあるそうした「しゃべりの文化」と僕らが運動の中で失っているものの問題とかさなるのかなという感じはしている。活字の発信がないとこちらにいるとすごく困るんですが。
【舟越】 参加者の多くにとっては、活字よりもしゃべりのほうが重要ですね。ですから語りを工夫するというのは必要かも知れませんね。

■沖縄の闘いと本「土の」闘いの今後は■

【天野】 沖縄の話に転じますが、沖縄の民衆全体のエネルギーは別にして、大田革新県政を軸にして日本政府と闘うという図式をとることで運動の求心力になってきたことは間違いないと思います。多数派としての運動を展開することができる条件を沖縄県との関係で作ることができていた。それが大田知事か選挙で負けるということで、その条件を失った。沖縄がまとまっていく、求心力を持っていく場をどこで作る、むつかしくなっていく局面に入ったと思います。その沖縄の事態を、武藤さんなんかはどう考えますか。
【武藤】 大田知事を先頭にしてということは、95年以来の事態のなかでは決定的な意味がありましたね。沖縄というのは県ではなくて半ば国というほどの感じで。日本国家のなかに国に類似した勢力ができたような構造になった。これはすごいことだったと思うんです。
 しかし「本土」の方の運動が、それによりかかる形で動いてしまった。「連帯する」とか「支援する」とかという形での関わりを基本に作ってきた。僕はそういうことに対して、なんとかしなければいけない、という気持ちがあって、ガイドライン問題を独自に立ち上げることが必要だと思っていたんです。新ガイドラインや沖縄からでてきた地位協定の改定の問題を、こちら側としてはどうふうに受けとめるのか。「本土」にいる人間としての、沖縄に見合うものをどうすればつくれるのか、というふうに考えるべきだと。
 そうは言っていたんだけれども、圧倒的迫力は、大田県政を先頭に立てた沖縄の迫力に見合うものはつくれなかった。
 沖縄の側も、運動的には大田知事を先頭に立てた「県ぐるみ闘争」という構造はいつまでもつづくものではない。「なんとかぐるみ」でいった場合は、必ずどこかで次の局面にいくわけで、そこで運動の質がもうひとつ変わって、進化していく、そういうふうになりえる、そういう可能性はもっていると思います。ですから、県知事選の敗北は、そんなに絶望する感じではない。
【天野】 それはもちろんないですね。名護の住民投票のときは、負けたらまずい、と本気で思いましたが、県知事選はそれほど深刻さはなかった。
【武藤】 ただ、全体の運動の構造からいうと、大田さんを中心にして沖縄国家ががんっている、ということに依存するという関係はつくれない。
【天野】 ぼくはわりと抽象的原則主義者ですから(笑)、沖縄の闘争の問題は、日本の政府とわれわれがどうするかという媒介抜きで、沖縄に行ったり、沖縄の闘いに連帯すると言ったりすることは趣味ではない、という主義だったんです。でも、95年以降の事態のなかで、全面的に沖縄に行こうと方針を変えたんです。それはなぜかというのは、僕らの力量を判断したいということ、それには沖「縄の闘いに学ぶと」いうことをイイカゲンな意味ではなくて、実際にどういう事態になっているのか一から見なおすことをしなければ始まらない、それくらい僕らの運動はだめになっているという自覚があったんです。それでできるだけ沖縄に行こう、そしてできるだけ多くの人が行けるチャンスを作ろう。公開審理にもすべて行こうと。沖縄のおかれている状態のすごさと、エネルギーのすごさを還流させながら考える形態にまで行くべきだというのがぼくの政治判断でした。それは沖縄に依存しようということとはちょっと違うんですが。
【武藤】 それは正しかったんじゃないですか。ただ「本土」の方で、いったなにをつくるのかということのはっきりした議論がなかった。沖縄に見合うものは何だという問題があの時点でなかった。僕は、地位協定の見直しについての「本土」の基地のある地域の戦線とそれを広げた戦線で、「日本政府に対米交渉をしろ」ということを突き付ける必要があると言った。でも、なにせ非力で(笑)、演説会でしゃべるだけしかできなくて(笑)。
【天野】 原則的にはいまもそれは必要なことです。事実、基地問題を抱えている地域はそれで動きだしてもいる。
【武藤】 それを基地問題を抱えていない地域・人々の問題とするようにどうするのか、という問題です。
【天野】 そのことは皆十分うまくいっていない。先程の首都圏の運動の繋がりの問題でいえばそのことをどうするかという問題ですね。
【武藤】 ガイドライン問題の大きい部分はそれだと思いますね。
【天野】 地域的にあるいは課題にこだわり続けた人たちこそがもっと広くリンケイジするべき局面にきている。そのリンケイジの形態をどういうふうに積み上げられるかどうかという課題を、みんなが背負いだしていると思うんです。
 国家的な規模で決められてしまっていることに対してどうするんだ、ということが共通の課題なわけです。その課題についての政治的な対応力を持たなければ、個別に撃破されてしまう事態がどんどん進む。そのことを、「政治的な革命が必要だ」という集まり方ではなくて、国家規模で決定されている事態に決定し返す力を政治的にどうやって創るか、ということを、いままでの政治闘争とは違った形で考えなくてはいけない。そういうことが意識されはじめている。
【武藤】 新ガイドラインに対していろんなところからそうした流れがでてきて、複数化していると思うんです。海員組合とか自治労とか、大阪の運動とか、長崎の意見広告とか、そういういろんなものが出てくる。それが沖縄と連動する。向こう側のスケジュールが関連法案に関してはかなり遅れていることもあって、そのための時間はある程度かせげてきた。
 今年の前半は、そこでどういうふうにできるか。全体がゲットー化されている、社会的な力ある水面を破ってでられるかどうかというのが重要だと思います。そこには場所としての東京が大事な役割を担っている。東京で一回大きく浮上しないと。
 それと、自自連合がどういう動き方をするのかが全体の帰趨にかなり大きな影響を与えると思いますね。向こう側の亀裂を広げる要素もでてきている。運動が全国的に浮上するためには向こう側の亀裂がどうしても必要なわけで、その条件は生かす必要がある。
【舟越】 長崎でも反ガイドラインの学習会はあちこちで開かれています。ゲットー化を打ち破って浮上させる、そういうチャンスが熟しつつあるかもしれないという気はするんですけれども。沖縄問題から地位協定の見直し、新ガイドライン問題へと、これは一連の流れですよね。沖縄問題での学習もすごかったです。いろんな集会にこちらからも行った。それらが今の反ガイドラインの運動につながってきたと思います。
 長崎では、かなりの反ガイドラインの学習会が開かれてきています。
【武藤】 それはどういう人たちによってですか。
【舟越】 平和労働センターがまだ生きているんですよ。シンポジウムを開いたり、地区労レベルで学習会を呼び掛けたり。そういう意味では、沖縄の闘いとつながった形で新しい反戦平和運動の原初的なエネルギーが再び生まれつつあるという気はしますね。
【武藤】 長崎では意見広告で、地域のパワーとして浮上したという感じですね。でもそれらが、全国的なものとしてどういうふうに浮上するかということがやはり次の課題でしょうね。
【天野】 政治理念みたいなことで言いますと、この間の「市民の意見30の会」の集会で、ダグラス・ラミスさん、小田実さん、福富節男さんがパネラーで、言い方は違っていますがそれぞれ皆、「非暴力の原理をたてろ」といった趣旨のことを話しているんです。沖縄の女性たちの問題のたて方もはじめからそうでした。問題の根本としては同じことを押さえて、別の経験から別の言い方、別の言葉で語っているんですね。それをテーゼ風に纏るのは嫌いなんですけれども、共有できているもの自体を、具体性を捨象しないで共有しあうといようなこともいま必要なんじゃないか。思想的結集軸がどういう煮詰まり方しているのかを運動の中で論理化していく作業が必要なんではないか。運動自体が求心力を持つにはそれが不可欠の要素ではないかと思います。それができる条件が今あるのに、皆うまくいっていないという感じです。思想的求心力を共同で作って共有していく、それがかなり重要なことではないかという気がします。
【舟越】 そうした運動のなかの思想をテーゼ的にまとめるのはまだ早い気がするんですが。
【天野】 テーゼにするのは間違いです。共有の仕方自体をどうするのかということが大切で、共同の行動の中で共有が確認されなければダメだと思う。
【舟越】 この間ずっと指摘されてきたことに、全国各地でシングルイッシューの闘いがあって、共通のイッシューがないと。僕はまだ当分、それでいいという気がする。
【天野】 シングルイッシューにこだわっていることによる共有性があるわけです。
僕のいっているのはシングルイッシューか共同の課題かとはじめから立てるのではなくて、シングルイッシューでやってきている人たちの間にすでにかなりできてきている共鳴しあうもの自体をどう論理化するかということの必要性です。反新ガイドラインで求められている運動のリンケイジはそういうこと抜きでつながることはできないと思います。
【舟越】 長崎の場合、多様な市民運動と既成の労働組合や政党が思想性のレベルでの詰めはせずに、当面の運動課題ごとに結集していくというスタイルです。地方の場合、これまでの運動と組織が解体し、民主、社民、新社会、あるいは連合と平和センターというように分裂し、流動化はまだ終っていない。こんな状況では、思想的求心力の共有化という作業はものすごくむつかしい。
 私は、これまで平和運動をやってきた個人を組織の枠から引っぱり出して、どう個人として結集させるかということに関心があります。運動課題ごとに個人的に結集するという経験を積み重ねていくうちに、おのずと思想的共有化ができていくのではないかと思います。もちろん個人的には共有できる思想と文化の理論化という作業は必要だとは思いますが。もうしばらくは、今やっているような運動の経験を蓄積していくことにこだわりたいという気分です。
【天野】 話したいことはいっぱいありますが、本日はこのへんで。ありがとうございました。

*−−この座談会は、1998年12月6日に行なわれました。ただし文中の今年は1999年、昨年は1998年を示します。(編集部)
             (『派兵チェック』No.76、1999.1.15号)

















世紀の終わりに天皇制論議の更なる深化を

栗原幸夫●文学史を読みかえる研究会


 正月は退屈だと言いながら、古来からのゆかしい風習には異を唱えずに朝酒を飲んですごす。見るともなしに普段はほとんど見ないテレビを眺めていると、皇后美智子の例の国際児童図書評議会世界大会に向けたスピーチの再(再々々?)放送をどこかのBS局がやっていた。暮れに反天連の集会で北原恵さんのレポートを聞いたばかりだったので、おもわず起きあがり一時間あまり画面に目を凝らすことになった。北原さんの精密な分析は『反天皇制運動じゃ〜なる』17号に掲載されている「『スーパー越境者』皇后美智子」(インターネットでは、http://www.shonan.ne.jp/~kuri/index.html/aala/aala_11.htmlに掲載)をぜひご参照いただくとして、わたしとしてはやはり北原さんの言う「スーパー越境者」つまりトリックスターとして皇后美智子が突然に登場したことの意味をあらためて考えさせられた。
 彼女は「お言葉」ではなく「肉声」でスピーチをした最初の皇后であるだけでなく、戦後五十三年の歴史を通じて、米占領軍禁断の記紀神話に公式の場で触れたおそらく最初の皇室関係者である。もちろん記紀神話を軍国主義のイデオロギーとして禁止することは間違っている。それはたとえば古田武彦の記紀研究を思い起こすだけで十分だ。しかし同時に、その記紀神話が天皇の神格化と結びついたとき、あきらかに侵略の精神的なバックボーンになったことも無視できることではない。だからわれわれは、彼女が引用したのが日本列島原住民の殺戮者ヤマトタケルの物語であったことの以前の問題として、天皇家の人間が記紀神話に肯定的に言及することにつよく反対しなければならないのである。
 わたしはこの皇后美智子のスピーチを聞きながら、いま天皇制に何がおこっているのかとしきりに考えさせられた。その思いは、元日の『毎日新聞』に載った天皇と皇后の歌についてのベタ記事を読むにいたってさらに深まった。天皇の歌は「激しかりし集中豪雨を受けし地の人らはいかに冬過ごすらむ」という、あいかわらずの「お言葉」風であるのに、皇后美智子の歌は「語らざる悲しみもてる人あらむ母国は青き梅実る頃」、注には「英国で元捕虜の激しい抗議を受けた折、『虜囚』の身となったわが国の人々のことをも思って詠んだ」とある。このような政治的な題材を歌うことが異例なだけではない。英国の元捕虜の抗議はたちまち「わが国の戦争捕虜」へとずらされてしまう。たんにずらされるだけではない。抗議する英国の元捕虜にたいして悲しみを秘めてなお沈黙する旧日本兵(国民)というイメージが対置されるのである。そこに透けて見えるのは、空疎でワンパターンな「平和」と「謝罪」発言をくりかえす天皇とは異なる、相当にしたたかな言葉の使い手・戦略家である。
 いまや「女帝」は戦後象徴天皇制にとって「やむを得ざる選択」なのではなく、「期待されその命運をかけての選択」なのではないか。トリックスター=女性によって活性化された象徴天皇制とはどのような意味を持つのか。それは戦後象徴天皇制の終焉か、あるいはその変態を意味するのだろうか。それを、前号のこの欄でも伊藤公雄さんがふれている「天皇制なきナショナリズム」という右派の一部に台頭しはじめた言説と交差させてみると、現在の日本のどのような貌が浮かび出てくるだろうか。そこにわたしの関心がかきたてられる。
 象徴天皇制は言うまでもなく戦後日本国家の「国体」的表現であり、「平和天皇」というフィクションによって許容された、対米従属という条件の下での日米安保体制の「象徴」である。そして現在の状況とは、まさにこの戦後国家の限界が露呈し、右からも左からもその乗り越えが課題としてせまってきたところにある。それは当然、象徴天皇制をめぐる状況に反映している。これを図式化してみるとつぎのようになる。
 最右派には独自の核武装をふくむ米国からの軍事的・政治的自立と対等な軍事同盟、そして円を基軸通貨とするアジア経済圏構想がある。中間には戦後国家の継続を基本としながらの保守的あるいは進歩的修正の構想がある。左翼は残念なことにまだ具体的なプログラムを提起するにはいたらないが、国民国家の解体ないし相対化とさまざまな共同体的社会の再構成の理念が芽生えている。象徴天皇制との関係で言えば、中間派には自民党主流派から共産党までの「支持」ないし「容認」の立場が対応する。左派は言うまでもなく「反対」、そしてもっとも注目されるのが右派の動向なのである。
 前号でも話題になった大塚英志と福田和也の対談「『天皇抜き』のナショナリズムを論ず」(『諸君!』1999年1月号)にも引用されている福田の発言はつぎのようなものだ。−−「天皇制に関して僕がいってきたのは、天皇なしのナショナリズム、だから右翼に怒られて困っているんだけど。でも、ナショナルなものを皇室を中心にして機能させるのは、ナショナリストとしてはもう不可能だと思う。逆にいうと、天皇があるためにそれは顕在化しないし、天皇があるせいで左右両翼がナショナリティに対して無自覚であり得るという隠蔽の装置になっているからね。」そしてさらにこう言う。「現在のような形でマスメディアの注視の的になり、国体だなんだと云うたびにお出ましになる、というのもまた困った状況です。御歌など雅びやかな遊戯と神事に日を過ごされる暮らしに戻っていただきたい」。
 まあ身も蓋もなく言ってしまえば、国体だ植樹祭だと出歩いて平和イメージをふりまいたり、外国に出掛けてかつての戦争を「不幸な時期」などと言ってもらっては困るというわけだ。つまり右派にとっても戦後国家の乗り越えは象徴天皇制をどうするかという問題と不可分なのである。
 さて、世紀末のどん詰まりにきて、状況はぎしぎしと音を立てるように煮詰まってきたという感が強い。それに対応できるように、われわれの天皇制論議をさらに深めよう。
(『派兵チェック』No.76、1999.1.15号)















保守系メディアのレトリック

伊藤公雄●男性学


 保守系メディアをみていて、ぼくが面白いなあと思うのは、おおまかにいって保守系メディアの方が、左派系ないし革新系(これも古い言葉だが)メディアよりも多様性をもっているように見えることだ。
 戦後の左翼系メディアは、どうしても一枚岩風の議論が目立つ。少なくとも、論理的矛盾のないように、ある首尾一貫した流れを絶えず意識しつつメディアが編成されているといっていいかもしれない。典型例は、ぼくが毎日購読している日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』や、いまでは読者も少なくなったと思われる(旧)新左翼系の機関紙(最近、紙面を工夫する党派も出てきたが、『赤旗』程度の多様性もないものが多い)などだ。ある事件が起きたとき、このメディアがこの事件をどう分析するかが、あらかじめわかってしまうくらい論理の筋道が単純だ。原理原則に忠実に事件を論評するだけなのだ。だから、ぼくでも、いつでも『しんぶん赤旗』や党派機関紙の執筆者になれると思うくらいだ。
 また、保守系メディアの主要な敵である朝日・岩波文化もまた、「おりこうさん風の一枚岩」の方向で紙面・誌面が作られてきたのも事実だろう。付け加えれば、この朝日・岩波文化が、最近、保守系メディアを見習って(?)多様性を考慮した紙面・誌面作りをはじめているのは、多くの人が気がついていることだと思う。若い保守系の論壇人(福田和也氏、松原隆一郎氏など)や保守のなかでもリベラルな部分をもっていると考えられる人物(後藤田正晴氏など)が登場することも目だって増えている(日本共産党系メディアにも同様な傾向が見られる。たとえば、現・元自民党議員から、元共産党員で田中角栄氏の秘書だった早坂茂三氏、保守ではないがかつて徹底批判してきた浅田彰氏などが、『しんぶん赤旗』や『前衛』などに登壇するようになっている)。
 しかし、こうした戦後革新系メディアの多様性の装い(「ちょっと右」の人物など、これまでと異なるウィングにも手を伸ばしているように見せる態度)は、必ずしも成功しているとはいいがたい。結果的に、そんな意図はないのだろうが、「衣の下に鎧」みたいな誤解を与えることにもなりかねない。さらに、小手先の多様性の装いが、インチキさを醸し出して、かえってマイナスの効果しかあげていないように見えるくらいだ。
 この点、保守系メディアの方が、論者の配置に作為を感じさせないし、はるかに「自然」な印象がある(『文芸春秋』あたりだと、おおよそ、きわめて右の論者1割、保守を5割、中間派リベラルを3割、左派リベラルを1割くらいの配分になっているはずだ)。一見、多様な意見のごった煮状況のように見えながら、流れとして保守のヘゲモニーが貫徹されているのである。論争の仕掛けなどもうまい(もちろん、商業主義的な発想が強いということでもある)。また、「フェアーネス(公平さ)を貫いている」という態度の「見せ方」においても、左派系メディアよりはるかにうまい。たとえば、保守系メディアとしては低レベルの『正論』誌に、「編集者へ・編集者から」というコーナーがある。読者からの編集者への意見と編集者からの回答で作られている。手元にある1999年2月号で見ると合計28頁ある。ここには(編集者の意図的な選択が含まれているだろうが)、けっこう誌面への反論も掲載されている。以前、「革共同革マル派」による長文の反論などが掲載されているのを見て「面白いなあ」と感心したこともあるくらいだ。
 たぶん、ここには戦後左翼がもってきた近代主義的一枚岩主義(敵にしても味方にしても、「ひとつ」にくくらないと安心できないような「病」)とは異なる、伝統的保守の「懐の広さ」(の装い)みたいなものがあるのだろう。問題なのは、このプレ・モダーンともいえる保守のスタイルが、戦後左翼的な近代主義的一枚岩主義よりも、ポスト・モダーン風の価値相対主義の時代の流れにマッチし始めているということだ。そして、このことが、価値相対主義の一方で、何か自分を支えるものを求め始めた若い世代との、ある種の親和性を生み出しているのではないか。
 戦後革新系のメディアの発する「おりこうさん」ぶるくせに「卑怯な」態度に比べて、「保守論壇の方が、正直だ」、「保守の方が、フェアーだ」、「おりこうさんぶらずに本音主義だ」という認識が、特に若い世代にこの間生まれているようなのだ。この保守メディアの方法をきわめて巧妙に用いているのが小林よしのりのゴーマニズムのシリーズだ。彼の議論は、つねに自分の立場を、一度は相対化させるような装いをもっている。自分の方が「純粋マッスグ・サヨクくん」よりも柔軟でフェアーであるとみせつつ、その上で、「ワシはこうじゃ」というゴーマンをかましているのだ。
 もちろん、ここで言いたいのは、「こうした保守系メディアのもつレトリックをまねしよう」というものではない。自分たちの主張や思いを、多元性を保証しつつ、どう他者に伝えるのかという、「言葉と政治」「コミュニケーションと政治」の問題に、ぼくたちももっと敏感であるべきだ、といいたいのだ。「正しいことを言い続ける」ことだけで、政治的な変革は困難だ。それをどう伝えるか、どう表現するか、どう語るか、という政治のスタイルが、たぶん、今、ぼくたちには問われているのだ。(『派兵チェック』No.76、 1999.1.15号)

















「おことば」の中身のレベルを越えた論議を
  
たいらひとし

 ◆1◆
 アキヒト天皇制の一〇年という時代を大きく特徴づけるものとして、私たちはアジアを中心とした民衆の戦後補償要求の声を聴き、姿を見てきた。
 九一年八月、元「従軍慰安婦」の金学順さんが名乗り出たことを契機として、旧日本軍・政府の慰安婦制度関与を問う運動が、日本・海外を問わず大きく形づくられ、このことが九三年の「慰安婦」問題に関するいわゆる河野官房長官談話、「総じて強制性があったと認め、補償にかわる措置を講ずる」を引き出し、さらに後の細川発言、「戦後五十年国会決議」、村山首相談話を規定してきた。
 そしてヒロヒトの死を発火点として湧き出してきたそれらの動きは、まさに天皇制の戦争責任を問い直すことを日本政府に要求し、また私たち日本に住む民衆と運動に問うものとしてあったのだ。
 一方でアキヒト天皇制自体は、アキヒトを中心とした皇族による内外における頻繁な「外交」活動を展開、「動く象徴」あるいは「外交君主」としての姿を強くアピールしてきた。ASEAN・欧州の各国や米国とならび、九二年にはヒロヒトが足を踏み入れることの出来なかった中華人民共和国さえ訪問、そして今現在は十数年来の懸案であった韓国訪問を二〇〇〇年に実現すべく、準備を進めているという。
 これらの「外交活動」は、大きくは世界大に拡大した日本の権益を自力で確保する、自衛隊による海外派兵の了解をとりつけるため、あるいは政治的発言権確保の場としての国連安保理常任理事国入りの了解をとりつけるためという、日本政府の政治目標達成のためのキャンペーンとして展開されたものであり、そしてその目標達成の前提としての戦争責任の形式的な反省のアピールの場として展開された。
 それはまた同時に、諸外国における外交儀礼を通してアキヒトが事実上「元首」として扱われることにより、日本国憲法の枠を大きく踏み越えている現在のアキヒト天皇制に大きなアドヴァンテージを与え、さらには天皇元首化をも含んだ「改憲」に布石を打つものでもある。
 私たちはこのような「皇室外交」を、アキヒト天皇制の特徴的な問題点として批判の論議を積み重ね、また象徴天皇制固有の問題性として位置づけ、批判してきた。

 ◆2◆
 しかしながら日本国家・天皇制の戦争責任追及という視点が大きく浮上したことによって、「皇室外交」の進展は為政者の思惑と外れたところで沈滞を余儀なくされている。右派勢力のひとつの大きな結集軸として組織されてきた、「謝罪外交」反対・天皇(制)の政治利用反対の声である。
 八四年の全斗煥、九〇年慮泰愚、九四年金泳三と、韓国大統領の来日にあたっては、常に天皇・大統領会談、晩餐会における天皇の「おことば」の中身がマスコミ的議論の中心となり、いかに「謝罪」の色彩が盛り込まれたかが報じられてきた。
 しかしながら、そのような「謝罪」の「おことば」が繰り返され、かつ政府レベルでの「謝罪」発言が繰り返されるなかで、これを屈辱的「土下座外交」とする不満の声が公然と登場し、九二年天皇訪中においては右派の一大政治運動として、国会議員をも大きく巻き込んで形成されてきた。もちろんそれは制度としての天皇制をあくまで擁護するという立場からのものである。この点からも、私たちは、皇室外交反対をめぐる私たちの議論が、象徴天皇制固有の問題として位置づけることを抜きにしたものとならないよう心がけてきたつもりである。
 九八年一〇月の金大中韓国大統領来日においてマスコミは、前回の金泳三来日の際のアキヒトの「おことば」と比較して「過去に関する言及」が減ったことを、「慰安婦問題」に対する一片の言及もない『日韓共同宣言』と並べて、「未来志向」として賞揚する報道を垂れ流した。「過去」は「総括」され、そして二〇〇〇年天皇訪韓で「大団円」というシナリオが高々と掲げられた。そのような中で行われる訪韓に対する右派の動きを予想することは難しいが、「天皇の政治利用」反対を基調としつつ、天皇訪韓の実現―中止のどちらが「過去にケリ」のついたことの証しになるのか、という一点で議論を形成してくることになるのだろう。
 しかしながらこの天皇訪韓においても、アキヒトは恐らく何らかの謝罪めいた「おことば」を吐くことになるだろう。むしろそれは謝罪の多寡の議論をはなれて、未来志向―日韓の政治的・経済的一体化を演出する、ひとつのメディア・イベントとして期待されるものなのではないか。「謝罪」のレベルでは村山談話どまり、つまり実体的な補償の言質を含ませず、かつ戦後五十年の沖縄慰霊の旅にみられたように、アキヒト個人の私的な思い入れに絡めるようなかたちで、韓国との文化的な、精神的な一体感を賞揚するものとなるのではないか。
 しかしこれら「おことば」におわびやら謝罪やらが「文学的」に盛り込まれようとも、天皇が韓国民衆の前に元首然として対面する以上、謝罪になどなりようもないのだ。そしてそれは、そのような場で天皇に公式の発言をさせるという象徴天皇制の機能強化を大きくはかるものである点において、二重に欺瞞的で犯罪的である。韓国をはじめとした植民地支配、アジア・太平洋における侵略戦争の最高責任者たる天皇(制)に謝罪を求めるひとびとの心情につねに共鳴しつつも、天皇の謝罪の「おことば」を求めるような次元に埋没するのではなく、あらためて天皇(制)をやめる以外に謝罪の方法などないことを確認しながら、二〇〇〇年天皇訪韓に対する反対の声を形作っていこう。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.18、1999.1.12号)













米日韓三角軍事同盟の本格的展開を許すな!

北野誉●反天皇制運動連絡会

 昨年一二月一七日未明、アメリカ・イギリス軍は共同でイラクに対する大規模な空爆を開始した。九一年の湾岸戦争を上回る数の巡航ミサイルが発射され、多くのイラクの人びとが殺された。全国FAX通信や派兵チェックの仲間の呼びかけで取り組まれた緊急抗議行動や、その他さまざまな取り組みにおいて強調されたように、今回の攻撃は、アメリカの「世界秩序」に従わない「ならず者」「テロリスト」国家を、その強大な軍事力をもって地上から抹殺していこうとする、実に許しがたい「ならず者の論理」に基づいている。小渕政権はただちにこの空爆を支持したが、それは事前から準備されていたという。ここには、いかなる戦争であれ、アメリカの戦争を無条件で支持するという日本政府の基本姿勢が露骨に示されている。
 武藤一羊氏は、一一月二三日に発表された米国防省の「東アジア太平洋地域の安全保障戦略」にふれて、「『わが国の利益を犯すかもしれない他者││敵も味方も││の行動に影響を与え』ることで世界を『形成』しなければならない」とする「ほがらかなほどの覇権の再宣言」がそこでなされているとした。その背景として、「沖縄を前方展開拠点とする日米同盟を基軸に十万人の兵力を二一世紀にも維持し続けるという戦略」=アジア太平洋におけるグローバルな覇権の既成事実化があり、それが「九七年のガイドラインの策定で日本を完全に抱き込んだことから来ていることはあきらかだ」(「21世紀米国のネオ覇権軍事との対抗を」『インパクション』111号)。周辺事態法案が、アメリカの戦争への日本の「自動参戦」をもたらすということが、この間の運動の側からの批判の声として上げられてきたが、そのことを今回の日本政府の対応が、はしなくも証明してしまったのだ。
 私たちは昨年、金大中・江沢民来日│天皇会談に反対する一連の取り組みをおこなった。そのなかで、一連の外交舞台で浮上してきたアジアにおける新たな政治的・経済的・軍事的枠組みの総体を、批判的にとらえかえしていく必要性を、改めて認識させられていったと思う。軍事的側面については、金大中来日にあたってまとめられた「日韓共同宣言」「行動計画」で、両国の安保対話及び種々の防衛交流の強化について合意している。しかし、金大中政権発足以後、日韓の「安保防衛外交」は急ピッチで進展していたという。金大中は、大統領当選直後から「アジアの平和と安定に必要」であるとして新ガイドラインを支持していたが、昨年五月の「日韓安保対話」の新設、六月の日韓安保政策協議会の開催によって「日米、韓米の二者安保体制を、日米韓の三角体制に転換していく」ことが話し合われたとされる。「日米韓三角軍事同盟」への危惧は、運動の中でも以前から一貫して語られてきたと思う。だがそれは「従来は、韓国の反日感情もあって、米軍を媒介にした日米、韓米の合同演習をリンクした間接的な動きに留まっていて、実際にはあまり進展していなかった」。それが北朝鮮の「核疑惑」問題などを契機に、金大中によって「従来の政権が出来なかった部隊同士の直接的な軍事協力に大きく踏み出し」た。「この動きは、日米新ガイドラインの策定に対応したものだ。北朝鮮への作戦行動は米韓連合軍として行われるために、米軍への有効な支援にはどうしても日韓の軍事協力は不可欠なものなのである」(尾沢孝司「金大中来日と日韓軍事協力」『向い風・追い風』9号)。
 いわゆる「未来志向」の喧伝の中で、どのような事態が進行しつつあるのか、われわれはそれを決して見落としてはならないと考える。また「歴史問題」を「強硬」に主張した中国の姿勢も、おそらくこのアメリカのアジア太平洋戦略と大きく関係している。アメリカのアジア太平洋戦略は、短期的には「地下核施設」査察問題を盾にして、おそらくこの春には九四年の「核疑惑」並みの緊張の高まりを迎えるだろう北朝鮮との関係をにらんで、また中長期的には急速な経済成長を背景にアジアにおける「多極化」をめざす中国をターゲットとして、展開されていくであろう。積極的にアメリカの戦略に追随していく日本が、かつての植民地支配国であり、侵略戦争の相手国である韓国・中国の首脳をたてつづけに迎え、過去を「清算」し「未来志向」を謳い上げたということは、そういった点においても、確実にひとつのターニングポイントをなすものであったはずである。
 武藤氏は先の文章の中で、「戦後日本の反戦運動は、安保・基地・沖縄の問題を、冷戦という条件の下で、日米二国間関係というレンズから眺め、そこに映じる光景に対して反応してきた」。「もはや冷戦軍事ではないネオ覇権軍事との闘い」として、その「全体に対抗するスタンス・論理・実践への移行が求められている」と述べていた。ここで武藤氏が言う全体とはいわゆる「総合安保」として括られる外交、貿易、教育、科学、文化交流、環境にいたる分野のことであるが、たとえば「ワールドカップ共催」であり、「日本文化解禁」であるような日韓「新時代」の内実を批判していくことと、それは決して無関係ではないだろう。反天皇制運動としては、この数年中に実現させられようとしているアキヒト訪韓に反対する闘いを、全力で準備していかねばならない。ガイドライン安保に反対していく取り組みと反天皇制運動とは、依然として、さらに自覚的につなげられなければならない運動課題であるのだ。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.18、1999.1.12号)
 
















アジア通貨危機と日韓一体化

池田五律●


 一九九七年七月にタイ・バーツが急落してアジア通貨危機が起きると、日本政府は九月に榊原英資・大蔵省財務官らを派遣してアジア通貨基金(AMF)構想を各国に打診し、円の国際通貨化策動に出た。それは、以下のような為替リスクの回避が目的である。
 第一に、日本の対外資産の多くはドル建てで、円高・ドル安で目減りする。
 第二に、アジア通貨の下落は、日本の進出製造業の業績悪化につながる。日本企業は、一九六〇年代からアジアNIES、八〇年代後半プラザ合意後の円高を受けてASEAN、さらに九〇年代の円高を受けて中国へと、安価な労働力と原材料の調達を目的として輸出用生産拠点を移す投資を拡大したが、アジアの経済発展とともに現地市場での販売を目的とした投資を拡大してきた。アジア通貨危機→経済危機は、現地市場に打撃を与える。
 第三に、ドルと連動したアジア通貨の下落は輸出競争力を高めるが、円はアジア通貨に対して円高になるので、日本からアジア諸国への輸出が停滞する。また、円高になってもアジアから日本への輸出の増大は非弾力的である。しかも、日本の製造業の投資は九二年段階で伸び悩み、欧米の投資が増大してきた。アジアへの生産拠点の移転で日本国内産業の空洞化が生じてきたが、その上にアジアと日本との経済関係が希薄化しかねないのだ。
 第四に、アジア危機は不良債権問題を深刻化させる。大手商社は東南アジアと韓国の計五カ国に約一兆五千五百億円の投融資・債務保証残高を抱えるに至り(九八年六月時点)、日本の銀行のアジア向け融資額も千二百三十八億ドルに達した(九七年六月時点)。日本は海外に生産拠点を移しつつも資産大国化してきたが、その資産が泡と消えかねないのだ。
 第五は、通貨危機の原因にまつわる。日本の製造業の対アジア投資減退に見られるように、確実にバブルが生じていたところにアメリカの圧力もあってアジア諸国は金融自由化を押し進めた結果、大量の投機的短期資本の流入と流出に見舞われ、通貨危機を招いた。円建てなら邦銀は最後の貸し手となり、円は自己増殖的に循環する。
 アジア諸国には、欧米からの投資を呼び込もうという動きもある。一方で、ドルと連動していたことが円高や通貨投機に対応できなかった原因であるとして、九〇年に米国抜きの東アジア経済会議を提唱したマレーシアのマハティール首相だけではなく、IMFによる極端な緊縮・自由化政策を押しつけられたタイ・韓国などからも、円建て取引の比重拡大や邦銀へのドル建て債務の円建てへの転換要請などが生じ、一度アメリカの圧力によって消えかかったAMF構想が九八年五月頃から復活してきた。
 その背景には、アジア危機が、米経常赤字として流出したドルが経常黒字の日欧の資本輸出を通して世界に還流するという、プラザ合意後の国際資金循環のパターンの破綻を意味しているということがある。現に、アジア危機はラテン・アメリカ危機に連動し、ロシア危機ともあいまってアメリカ自身へと危機が波及しそうになった。短期資本の国際的管理は先進諸国総体の課題となり、日欧の発言力を強化するIMFの改組問題とも絡みつつ、円の国際化をアメリカが容認する可能性を高める。加えて、ユーロの登場は、円の地位の相対的低下の危険の一方で、ドルの相対化→円の国際通貨化に有利な状況を作り出す。
 かくして日本は、大蔵省が九八年五月に円の国際化に向けた規制緩和や銀行引受手形の流通市場の整備を打ち出したのを皮切りに円の国際化に邁進する。六月、自民党の短期金融市場の規制緩和を検討する小委員会は、長期国債の利払いに対する税を非課税にすることや、短期国債取引の税制を簡素化することを方針化。一一月には蔵相の諮問機関である「円の国際化専門部会」、円による取引の信頼度を高めるための決済システムの改善も盛り込んだ中間論点整理をまとめる。一〇月、日本輸出入銀行による直接融資や円借款、債務保証、利子補給などアジア支援三百億ドル枠を設けるという新宮沢構想を発表。一二月、小渕首相、対ASEAN円借款六千億円発表。与謝野通産相は、貿易保険を利用した五億ドル規模のタイ支援などを打ち出し、一二月、通産省、「二国間・地域協定」を重視する新通商方針。円建て化を推進していき、それを通して第二段階として基軸通貨化を狙うという戦略が着々と進められているのである。
 通産省の新通商方針の第一の検討課題の一つが、韓国との間での自由な投資を促す日韓投資協定の早期締結である。先立つ金大中韓国大統領の一〇月の来日時に発表された「日韓行動計画」では、日本輸出入銀行による総額三〇億ドル相当の融資などの韓国支援とともに、両国の経済協力、投資交流が打ち出された。一一月に行なわれた金鍾泌首相らとの閣僚懇談会では、投資協定への交渉開始で合意したばかりか、円とウォンの連動も論議され、金首相がアジア通貨基金を提案した。日本の銀行の対韓国債権残高は二百二億七千八百万ドルで韓国全体の債権の二一・五%を占める(九七年一二月末)。そうした権益の確保のために、韓国支援・円建て化・自由貿易推進・円とウォンの連動は不可欠なのである。一方製造業では日韓が競合しているため、共同の設備廃棄による両者の生き残りが進められ、新日鉄が浦項製鉄株を取得するといった合弁化などが進んでいる。また、設備廃棄に伴うリストラへの反発を想定して、一二月には日韓の労相により労働行政面での協力が打ち出された。経済面での現代版の「内鮮一体化」が確実に進んでいるのである。
 こうした日韓一体化は、韓中が交流を深め、歴史認識問題で日本に対していた金泳三前政権時代とは、様変わりである。日本には、中国も含めた「アジア経済共同体」指向もあれば、米中関係の親密化の中で、台湾も含めた「華僑」とアメリカの連合VS日本という図式でナショナリズムを煽る言論もある。また、中国を排除して韓国、台湾といった旧日本帝国版図を基礎としてベトナムも含むASEANとの連携強化を目論むものもある。いずれにせよ、様々な現代版「大東亜共栄圏」形成の要として、日韓一体化が位置づけられているのである。その一体化の仕上げが二〇〇二年ワールドカップであり、それに向けての日本による侵略責任と戦後責任の幕引きとして天皇訪韓が位置づけられているのだ。
 それに対して、歴史的責任を踏まえた水平的関係の構築をこそ、展望すべきである。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.18、1999.1.12号)











天皇制側の「女帝」論議は本格的に始まった

桜井大子


 昨年四月二九日(ヒロヒト誕生日・みどりの日)、世論調査会(共同通信社加盟社)による同月一八・一九日付け「皇室世論調査」の結果が報道された。目玉は見出しにも踊っている「『女性の天皇』五〇%が容認」という結果だ(『朝日新聞』)。九二年にも同調査は行われており、その結果は皇位継承権について「男子に限る」が四六・八%、「女子が天皇になってもよい」が三二・五%。昨年は「男子に限る」が三〇・六%、「女子が天皇になってもよい」が四九・七%と、「女帝」容認で完全に逆転した。私たちはこの結果そのものはもちろん無視できないと考えている。が、世論は作られるということも知っている。状況判断のための材料すなわち情報なくしては世論は作り出せないという当たり前の法則や、調査方法によって異なる結果を引き出せることも。そして、このカラクリをフル活用できるのが、経済力をはじめ多大なる力を持つマスコミであることも。世論調査の結果もさることながら、世論づくりに精を出す政府・宮内庁とマスコミの連携プレーに、私たちはより注目しなければならないのだ。
 九五年、宮内庁は内部検討用に作成した皇位継承資格順位に関する資料を作成した。翌九六年一月、『This is 読売』は「男子一系は絶対か」(加藤孔昭)や、他国の王位継承を紹介する記事など、「女性天皇の時代」と題する特集を組んでいる。ヒロノミヤ・マサコに子ども(男子)が産まれないという事態が続くこと二年半という時期であった。『This is 読売』はその約一年前(九四年一二月)にも「憲法を考えるときが来た」という特集を組み、「読売改正試案」なるものを出している。しかし、そこでは憲法第二条にあげられている皇位の継承についてはまったくふれていない。ヒロノミヤ・マサコ結婚の翌年(一年半後)のことである。
 ヒロノミヤ夫婦は相変わらず子どもを産まない。秋篠宮夫婦には産まれるが二人とも女子。この皇位継承者不在という天皇制にとっての危機は、時間がたつにつれ逼迫してくる。マスコミの報道は人工受精論まで飛び出すほどのエスカレートぶりだ。また直接「女帝」をうたっているわけではないが、皇位継承の問題を含め「皇室典範とセットで改正を」という憲法9条改憲論(岩井克人『朝日新聞』九六年八月九日)など、さまざまな論がここ数年起こってきている。ことの重大さに対応しきれない宮内庁は、九七年から九八年にかけてマサコの妊娠話についての報道を控えさせたようにみえた。少なくとも、「女帝」ものは一切姿を消した。そして昨年、例の世論調査から半年後の一〇月、一冊の本が出た。高橋紘・所功共著『皇位継承』(文春新書)だ。帯には「このままゆけばやがて皇位継承者がいなくなる日が来る?」とある。章だてを簡単に紹介しよう。序「皇位継承の危機」、一「『万世一系』はいかに保たれたか」、二「『女帝』出現の意味」、三「『皇室典範』の成り立ち」、四「お側女官の役割」、五「昭和天皇の苦悩」、六「新『皇室典範』のディレンマ」。
 ついに出たか、である。第一・二章では、歴史と呼ぶにはほど遠い『日本書紀』『古事記』を参考にした古代から幕末までの皇位継承の紆余曲折について。第三章では皇位継承問題を中心にすえた戦前・戦後の「皇室典範」の成立過程や内容。第四章、戦後廃止された「側室」制度がいかに皇位継承を助けてきたか。第五章、「側室」廃止をはじめとする皇室の「近代化」をはかった昭和天皇の「苦悩」。第六章、「皇位は皇統に属する男系の嫡出男子がこれを継承することとし、女系及び庶出はこれを認めない」「皇族は養子をなすことができない」という最初の改正法案のための要綱を基本的に取り入れた戦後の「皇室典範」。一貫しているのは、いかに「万世一系」を保つために歴代苦労してきたか、いかに現「皇室典範」が天皇制を危機においこんでいるか、である。そして「女帝」の歴史的な役割とこれからの可能性を随所に忍び込ませている。「女帝」推進派は本腰を入れてかかってきたのだ。「女帝」推進派だけではない。本書刊行の意味は、皇位継承問題からどうしても逃げることができない宮内庁の、「女帝」という選択肢も含めた「前向き」な検討が始まったということでもあるのだ。
 私たちは、『This is 読売』が「女性天皇の時代」を特集した九六年、積極的に反天「女帝」論議をニュース紙面上や討論会上で繰り返し行なった。反天連メンバーはもちろん、多くの人にさまざまな視点から論議に参加してもらった。「女帝」容認によって天皇制が維持されること、「女帝」が出たところで女性差別がなくなるわけではない、それどころか差別の構造をますます見えづらいものにしてしまうだろうこと、女というジェンダーに込められた意味が新しい天皇制を模索する側にどのような力を与えるか等々、出尽くしたか、と思えるほどの論点がすでに出ている。現在における私たちの主張は、基本的に二年前と変わるところはない。そのおさらいから始める必要もあるだろう。そして、ミチコのビデオ講演という突出したビヘイビアなど新しい状況を睨みつつ、新たな視点を加えつつ論議を再開しなければならない。
 状況は九六年に比してどのように違っているのか。決定的なことはさらに三年が経っているということだ。政府・宮内庁は本当になんらかの手を打たねばならないと考えているに違いない。私は、男子が産まれる産まれないに関係なく、憲法第一四条(法の下の平等)に内包される男女平等を掲げ、フェミニズムに敬意を表し、皇室の「民主化」をうたいあげて、誰もが納得できる形で「女帝」容認に踏み切るに違いないと考えている。また、このかん家族や結婚の問題が静かにそして着々と語られてきたことにも注意をとめておきたい。たとえば、『朝日新聞』は結婚、父子・母子関係、不妊問題等々、家族を中心に特集を続けている。メッセージは「家族の崩壊」への警鐘というよりも、現実にある人間関係や家族とどのように向き合っていくのか、である。モデル探しよりも、マスのレベルで家族概念や人間関係の新たな再構築の模索が具体的に始まったといえるのかもしれない。これらは天皇制の再定義にどのような影響を及ぼすのか。私たちには、大きくは軍事問題をも含め、これらの現実的な問題とすりあわせながら、そしてイギリス王室が打ち出した「改正案」等も視野に入れ、反天皇制のための具体的な「女帝」論議をつくり出す必要が早急にせまられているのだ。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.18、1999.1.12号)











  



「文房具」発、女のためのおいしい情報
  麻鳥澄江とジョジョ企画

 ”OK”という手帳がある。いわゆる年間通して使えるスケジュール帳だ。なるほどそれはわかったが、しかし、このOKってのは何じゃい? これにはキチンとルビがふってある。”onna no kairaku” わかるかなぁ。
 97年までは”Schedule note book”と名前が付いていたこの手帳は、女性三人で運営されているジョジョ企画によって制作・発売されている。まず暦(2年6ヶ月分)が巻頭にあり、次に月ごとのスケジュール表。ここに予定を書き込む。大半の手帳の場合、必ず「祭日」として「みどりの日」や「天皇誕生日」やらと、気分の悪い情報が入っているのだが、ここでは単に休日のマーキングだけ。私にはこれも嬉しいかぎりだ。それから週単位の見開きページ。ここには毎日数行づつ書き込めるようになっている。私は日々の会議や集会等の記録を書き込んでいる。これが全体の約半分を占める。何だか普通の手帳のようだが、さて、”onna no kairaku”とは。
 週単位のページが始まる前に、次のような制作者の文章が入っている。
 「OKとは onna no kairaku です。 / 1年は53週あります。毎週の見開きページに、快楽への道しるべを載せました。今年のテーマは<くつろげるお店、宿>です」。
 というわけで北海道から沖縄まで、53の店や宿の紹介が入っている。地図と何屋さんであるかの簡単な紹介、それから経営者からの一言メッセージだ。店はいろいろあって、リサイクル、自然食、お年寄りのための生活洋品店などなど。もちろん、お酒と料理の美味しい店も。「美味しい」「安全」そして「女が一人でもOK」という快楽情報がページの片隅を飾っている。ジョジョ企画のメンバー麻鳥澄江さんに話を聞くために出かけた場所も、実はこの手帳に紹介されている「鬼女の栖(おにのいえ)」という小料理屋さんだった。ここは「毎週水曜日は女だけ」という店で、私が行ったのもその水曜日。麻鳥さんは仲間と楽しそうに飲んでいた。
 ちなみに昨年の特集は、<安眠・お風呂>。これもなかなかの力作であった。すべてにやさしいイラストつきで、たとえばこんな具合だ。
 「自分だけの入眠儀式をデザインする――布団に入る前後に同じ手順を毎日繰り返す。簡単です。どんなことでもよいのです。髪をとく・ゆっくりした運動をする・音楽を決める・香を焚く・自分でつくったお経を唱える・日記をつける・好きなビデオの好きなところだけを見る……。毎日繰り返すことで安らぎと心理的満足を得るわけです」。私も快眠のために決まったパターンの簡単な運動をやっているが、これが本当に効く。
 そのさらに前の年は、「日本で手に入るビデオ映画を紹介します。女性の監督・脚本・原作・製作に注目して集めました。女性伝記や、いわゆる強制異性愛を越えるものも含んでいます」という特集だ。麻鳥さん曰く「200本見て141本載せた」。もちろん、入手方法も入っている。200本とは集めて見るだけでもかなりの骨折りだ。それを取捨選択し、コメントをつけて掲載。できあがったページを見る方は楽しいだけだが……。
 この手帳が提供する情報はこれだけではない。毎年巻末に載っているグループや団体のアドレスも便利。女性たちが女性のために活動をしている団体がメインだ。索引の標語を紹介すると「総合グループ・センター」「政治・法律」「反戦・反核・環境」「性暴力」「はつらつ老前老後」「アジアとの連帯」「女を愛する女たち」「学校・子ども」「からだと心」「表現活動」「出版」「書店」「店:自然食品・八百屋・雑貨など」「店:食堂・居酒屋」「その他」そして「ホットライン」だ。その他公立の女性相談所の一覧もある。また、からだの行動記録表もついている。基礎体温はもちろん、月経や性行為など、自分のからだを自分で管理するための基礎データづくりだ。
 ジョジョ企画は『女たちの便利帳』という、いわゆるディレクトリーも発行している。
”Women's yellow page”を発想して作ったという575ページからなるこの大作は、
実は現在のOKノートから派生してできたものだとのこと。82年、まず最初の手帳をつくり、それからすぐにジョジョ企画発足。17年も前のことだ。その時掲載した情報は3〜40件。それが90年に入ると500件を越し、手帳に入りきれなくて『便利帳』が生まれたということだ。確かに『便利帳』は手帳をひたすら拡大した観がある。が、とにかく情報量は比較にならないほど多い。1ページに4〜5件の情報として、索引部分を差し引いて換算すると2万件を優に越える情報が入っていることになる。86年からは「姉妹たちよ・女の暦」も作られる。「各分野で先駆的な生き方を貫いた女性を毎年12人紹介して好評の月めくりカレンダー / 女たちに注ぐ優しいまなざし、毅然とした姿が私たちを力づけてくれます」というのが、ジョジョ企画の売り文句だ。
 ところで、情報収集と編集作業という、かなりのエネルギーを費やして作られているこの情報満載の『便利帳』や手帳、暦は、すべて「読むもの」の前に「使うもの」として作られている。手帳などはその典型で、誰もこれを「使うもの」以外にはあまり発想しないだろう。暦だってそうだ。最近は部屋の装飾品の一部としてもあるようだが、まずは「読むもの」としては考えられていない。たとえばこの「女の暦」だが、毎年12人の女性を調べ上げ、写真入りのすてきな暦にするのは大変な作業だ。そしてこの暦はすでに10年以上も出され続けている。これだけのものをまとめれば一冊の楽しい本ができるのでは、そう考えてもおかしくない。だがしかし、ここでまたしても麻鳥さん曰く。ジョジョ企画の隠されたモットーは「文房具で表現すること」なのだそうだ。「手帳は必ず開く、そして開いたところに情報があれば読む」「一人一人がバラバラじゃないというメッセージを、知らんぷりして出す」のだそうだ。暦の場合も然りか。ん〜、ものを伝えるということのありようを、「出版」と「読書」、あるいは「かまえて作ったもの」を「かまえて読む」という形態から、少しズラして、情報を自由に徘徊させるってかんじかな。ジョジョ企画の活動の基調はこの暦と手帳と便利帳にあると、彼女は語ってくれた。後日入った情報によると、この「姉妹たちよ・女の暦」は今年三月、『姉妹たちよ――女(わたし)たちの20世紀・100人』というタイトルで再編集され、集英社から発行予定だそうです。道具として使うのもいいけど保存版も欲しい、そんな人には耳寄りな情報だ。
 彼女たちが「文房具」に詰め込んだ情報には、女のからだに関することも少なくない。麻鳥さんは、からだについての3つの視点をあげた。一つ目は知識だ。まずは自分のからだを触ったり見たり、読んだりして知ること。次はからだの問題。中絶、不妊、そしてそれが原因で起こる離婚、等々だ。最後にからだの快楽。更年期も含め、気持ちよく過ごす方法。たしかに、からだの専門家を男に占有されているあいだは、このような視点で女のからだを心配する専門家は望めそうもない。女のからだに関する情報や知識を、できるだけ女の手に取り戻すということなのだ。こんな大事な情報も、手帳には入ってたりするのですぞ。
 男社会のくやしさの中に生きる女たちに励みになるものを届けたい。そういうジョジョ企画の製品はまだほかにもたくさんある。手紙セットやカードセット、冨山妙子さんの作品集やはがき、「草分け女たち葉書」、レコードやCD、手づくりの布製品等々。カタログ等希望の方は、ジョジョ企画に連絡してみよう。 Tel / 047-377-6900 Fax / 047-370-5051
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