alternative autonomous lane No.1
1998.2.20

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目 次

【議論と論考】

座談会◎沖縄の闘いから何を汲み取るか
             (武藤一羊+国富建治+青山薫+天野恵一)

「自由主義」以後の思想的境界(栗原幸夫)

『週刊金曜日』への抗議と要請(天野恵一+貝原浩)

  資料・貝原浩さんへの本多勝一氏の手紙

名護の住民投票と公共性(白川真澄)

【コラム・表現のBattlefield】

「特製・反戦ちんどん屋」はチラシ片手に街をゆく(桜井大子)


座談会 沖縄の闘いから何を汲み取るか

武藤一羊+国富建治+青山 薫+天野恵一

■■沖縄のこの2年以上の闘いから得たもの■■

天野】 恒例になりつつある1年の区切りの座談会というわけですが、この一年の主要な課題である沖縄・安保の問題からいえば2年以上の流れを見る必要があると思います。87年からの知花昌一の日の丸裁判の支援に関わって感じていた「沖縄」というのは、惨憺たるものでした。もちろん反戦地主運動は続いていたわけですけれども、「そこ(焼く)までしなくても…」といった声に代表されるように、ヤマトの政府或いは右翼の攻撃に対して縮み上がった声が大きかった。昌一を防衛していくことが地域社会の中でできないわけではなかったにしろ非常に困難な状態にあって、運動が痩せ細っているなと感じていたわけです。沖縄の闘いの力を実感できる局面が、知花裁判の支援の運動なかではあまりなく、どうなってしまうのかなといった感じが非常に強かった。
 その知花裁判の2審の判決(結果的に裁判闘争の最後)の直前に、米軍兵による例の少女レイプ事件が起こった。それがこの間の一連の沖縄の闘いが始まりですが、次に知花さんが最初の契約切れ反戦地主となるという展開のなかで、僕から見るとそれ以前からは信じられないような動きが沖縄全体で始まった(笑)。基底部にズーッと流れていたものが僕によく見えていなかったということはあると思いますが、沖縄社会にとってもある種の活性化といいますか、信じ難いエネルギーが出てきた。大きな集まりが津波のように続いたわけです。
 この時、僕はこの沖縄のエネルギーとどう協力して、ヤマトでの反安保闘争を作りなおすことがどう可能か、ということが、反戦・反安保闘争のこれ以後の中心問題であろうと判断したわけです。
 95年段階では僕らの反派兵・反戦運動のなかでも沖縄に対する感度はそんなにあったわけではない。幸い僕は反天皇制運動の関係で知花さんとの付き合いと裁判支援で何度も沖縄へ足を運んでいたこともあって、そのなかで見えていた問題が少しあったと思います。そこからのある種直感でこれはすごい局面の展開になるなと。
 実際事態はそのように展開して、ちょっとたつとみんな沖縄問題が軸だと考えざるを得ない状況になり、沖縄との交流が各地で始まったわけです。それがこの2年以上の展開です。そして、昨年末の名護の住民投票で勝ったとことで、ある種の一区切りという感じもします。
 次のスッテップへ向けて沖縄は僕たちが考えるより全然元気です。
 この名護の住民投票に関して言えばヤマト政府(や資本)はものすごい圧力をかけたわけです。例えば、老人を食堂でメシを食べさせ、車で連れていきながらそのまま不在者投票へという管理選挙で、20%近い不在者投票のほとんどがそうしたシステムの動員だったわけです。
 土建屋を中心とするヤマト企業の社員が動員され、賛成表の堀り起こしがされていた。自衛隊・防衛庁だけじゃないんです。
 名護のエリート、支配層、行政のある種の上層の人たちはほとんど基地誘致派で、反対しているのは無名の人々です。それで、国家とヤマトの資本の全面介入の中で勝てるか、というギリギリまで追いつめれた攻防のなかで勝った、というのは「やった!」という実感がものすごくあるようです。ある種の誇りと気概が、あまり情緒的でない人たちからもむき出しで出る。次のステップへの自信が、運動を担っている人たちにはしたたかにある、という実感が今強い。
 公開審理については、地主の証言は終わり、次回の代理人(弁護士)による総括的な主張が残されるだけという経過の中で、この前の打ち上げのパーティーの席などでは、「長生きしていてよかった。ここまでくるとはとても思えなかった」という、ふだんは調子よくアジテーションしているような人たちの本音のようなものが聞けて(笑)なかなかよかった。
 これは反戦地主会の会長の照屋秀傳さんの話しなんですが、「5年前までの公開審理では、バスを連ねて防衛施設庁側が職員動員して会場を埋める。収用委員も大半が向こう側という中で、孤立して反戦地主が断固として主張する、そして途中で打ち切られる、という構図だった。そうした中で、同時に参加していた反戦地主が一緒に酒を飲むという気分にもならず別々に帰ってやけ酒を飲んでいた時代から、反戦地主側の人間が会場を埋め尽くし、収用委員も基本的には防衛施設庁側ではない人間があたって、地主側の主張が時間を取ってでき、実質審議も貫徹された。この十数年幅で見るとものすごく沖縄は前進している」、こう彼は語った。以前はともすると「奇人変人コーナー」であった反戦地主が、抵抗の中心の核であるという了解が庶民感覚の中に定着した。もちろんそれは、断絶があって急に出てきたと言うよりも、かつてあったものが形を違えて表出していると思うんです。「奇人変人コーナー」で孤立している時代も何かがあったわけだけれども、それの作り直しがこの2年間の闘いの中ではっきり出た、という確信があるようです。
 あいかわらず僕たちの方は、その沖縄の力に連帯・協力を追求しつつ、単なる依存にならない形態をどう創るかということで、あたふたあたふたしている。それ以上のことができていない、という感じです。

■■大きな名護住民投票の勝利■■

国富】 沖縄についていえば、今度の名護の市民投票がともかく「勝った」ということはものすごく大きなことだと思います。もしここで負けていたとしたならば、結局沖縄の反基地闘争は、振興策といういわば「カネ」によって絡めとられてしまうものにすぎない、というふうにいわれてしまう。そのことに対する沖縄の主体のものすごい危機感はあったと思うんです。とにかくそれを跳ね返した。しかも、いままで名護というのは反基地運動などのはっきりとした主体が比較的弱かった地域です。そこで、それこそ普通の住民がハッキリと拒否の意思を表明した、それが非常に大きいことだと思います。しかも、非常に不利な条件の中で。
 95年以降の事態について、一坪反戦地主会の会員でもある沖縄の知り合いの話などを聞いていると、一種醒めたというか否定的なところがあった。代理署名拒否から県民投票に至るまでは、大田知事を押し立てた行政依存型の運動とという色彩が強かった、ということと、かつての復帰運動の中心を担っていた教職員会や自治労の運動・活動家が今度の運動でも中心にいる。しかも沖縄では彼らはエリート層で「えらい」人に属しており、かつ、彼らの運動は既に形骸化し落ち込んでしまっている。こうした状況の中で、「はたしてどこまで」という醒めた感覚はあったそうです。それが、県民投票後大田知事が代理署名に応じた以降も、反基地の運動がいままでのあり方とは違ったところから続いてきて名護まで繋がった、そういうことの意味はものすごく大きかった。
【天野】 天皇アキヒトの訪沖が以前にあって、その時にはすでに沖縄の運動の本土系列化が進んでいた。労働組合は闘えない、と現地で私たちを迎えいれてくれた人たちは言い出していた。ただ、反基地闘争への参加はその当時も多かったですけど。
 今回の名護が決定的だったのは、大田知事のときと違って違憲共闘枠・労組枠中心で闘ったわけではないことだな。ゲリラ的に支援した人たちの中にはもちろん違憲共闘にいた人たちもいたんだけれども、反戦地主の人たちや女性グループ、それも多様にいろいろ生まれた。名護自身の運動と名護を支えた運動は、かつてとかなり構造がかわっている。95年に始まったときからも変わっている。少数グループがいくつもでてきて連携するヘゲモニーがそれなりに稼働し出している。

■■運動の担い手の変化と新たな展開■■

青山】 レイプ事件の後に県民大会がありましたね。あれは労組中心だったわけでしょ。
天野】 動員形態はそうだけど、実際にはあれだけの人が集まったわけだから、それを越えています。
青山】 だけど、壇上で演説したなかには女たちの代表はいなかった。高校生はひとりいましたが、それ以外は女性の声は反映されていなかった、と怒っていたひとがいました。そこからどうかわったのか?
天野】 フェミニズムがよくないのは、そういう話だけに関心を持つ(笑)。
 「労組・男→ダメ」という話ではなくて、もちろんそうした男はいっぱいいますが、象徴的なのは、「安保の問題をレイプ問題に矮小化するな」とある活動家が発言するようなそういう構造のなかで問題が始まった。しかし、女たちの運動もそこで労組糾弾にエネルギーをそそいだのではなく、独自にその問題自体を課題とした運動を自分たちで展開した。その結果、安保かレイプかという立て方でなく、問題を考えていく人たちが男のなかでもだんだん増えるかたちでこの2年間の運動が進んだことに意味があると思う。沖縄の女性たちがやっているいろいろな運動の中で語られている言葉だから、そのエピソードだけ抜くと、自分たちの運動がないところでただ一般的に「男はダメだ」と言っていたわけではまったくない。
武藤】 「男はダメ」という文脈じゃなくて、安保とか基地とか、政治の捉えかたの問題じゃなかったのかな。しかし「女性問題に矮小化するな」という言い方、というか感覚には男の作ってきたダメな政治や運動観が絵に描いたようにでているわけで、一般的に男はダメとは、誰も言っていないんじゃないの。高里鈴代さんや内海恵美子さんが話したり、書いたりしているのはそういう話ではなかった。
 反戦地主の運動が、沖縄戦の体験と米軍体験のなかで練り上げてきた絶対平和主義を守り続けてきた。それとは必ずしも同じではない文脈で、しかし結果としてはだぶる形で、沖縄の女性たちの基地や軍隊への迫りかたがわっと表にでてきた。その上、北京会議での女性の人権、女性への暴力や少女の問題などが、世界的な中心問題として浮上して熱い議論があった。レイプ事件はそのなかに飛び込んできた。だから事件自身は偶然でも、それが焦点化されたのは偶然ではなかった。この2年来の沖縄の運動は、反戦地主だけでもない女性だけでもない、しかしそこに共有されるものがあって、安保問題のつかみかたが変わった。国家の安全保障じゃなくて、女性の安全、民衆の安全保障という考えが運動的に出現してきた。それがこの2年半の一番大きなことだと思います。
天野】 高里さんは、一坪反戦地主でもあり、女性の運動のリーダーでもある。そういう人がかなりいるから成立することかもしれませんが。
武藤】 いろんな偶然の要素が重なり合いながら、それがただの偶然じゃなくて、新しい文脈に形成されていく、そして政治過程に転化していくというめったにない歴史的な経験だと思うんですよ。文脈を変えた、というのはすごく大事なことだと思うんです。例えば知花さんは「日の丸を焼いた過激派」というイメージから、象のオリの知花さんとして全然違うイメージで浮上してくる。マージナルにされていた存在から社会の焦点に転移する。沖縄の運動はそこまで持っていった。そこで米日沖関係での対抗の水準が変わるのです。アメリカの強い警戒心と冷戦後という状況のなかでの軍の政治的な巻き返しと重なって、安保再定義になっていく。アメリカ側は、日本の政治家が考えている以上に敏感で、特にレイプ事件はヤバイという感覚があって緊張した。そして日本側の反応を見定めた上で、逆にこの状況は巻き返しに使えるという判断をして、ガイドラインの見直しまで至ったといういきさつがあると思います。
 少女のレイプ事件は偶然ですが、そこから始まった沖縄の民衆の闘いは、遠吠えでなくて運動の側が主導的にプロセスを動かしてきた。そういうことができるんだ、対抗のレベルが押し上げられたんだ、ということを押さえておく必要があると思います。
 そのレベルでもう一歩展開するように運動や行動の形態を考えていくことがまだあまりできていないと思います。
 名護の市民投票の後で、ヤマトも含めて今出すべき要求というのは、普天間問題の対米再交渉だと思います。その線を非常に強く出すべきです。普天間撤去の条件である代替地案が破産したわけだから、破綻した上で再交渉しろと出すべきです。ところが、「そんなことはとても無理だ」というあきらめが先にたってしまっている気がする。実際の経過を見てみればけしてそうではなくて、沖縄民衆の運動の声は2年半の積み重ねの中でアメリカの戦略過程にまで食い込んでいる。
天野】 沖縄の闘いは実際そうなっていますね。沖縄の人たちはそこを意識していますね。ヤマト側は構想力も萎えちゃっている。まずいね。

■■沖縄が見せた大きな可能性■■

武藤】 沖縄は累積的に力をつけている。それを本土の側でどういう運動で受けとめていくか。そこの問題にさしかかっているのだろうけれどもまだあまり見えていない。
 ガイドラインの問題に集約されると思うんですが、ガイドラインもプロセス全体として押さえる必要がある。つまり沖縄から発した力が米国の対応をせまったのに、それにうろたえている日本政府が完全に足下を見られて、ガイドラインの強行にゆきつつあるわけです。日本政府は、沖縄での抵抗ですごく強い切り札を手にした。その切り札の強さに自分が怖じけづいた。使ったら大変だという恐怖に囚われた。その段階でこの切り札は逆に米国の札になったわけです。切り札を使えない状況であることを日本政府に思い知らせる露骨な戦術が、昨年9月以来の空母インディペンデンスの小樽寄港などの砲艦外交だった。しかしそれはもう一度形勢を逆転させるチャンスでもあるわけです。米国との再交渉−−普天間の無条件返還、そして地位協定の改訂など−−の方向に日本政府を追い込んでいくことで形勢を逆転させる。その可能性はあると思います。ただ、山一証券の廃業など経済問題によって消されている状況です。そこを今年どういうふうに逆転するか。
 日本政府・国家はぼろぼろになっていて、どんな一貫した政策体系も出せないでいる。しかし、こちらも滅茶苦茶になっている。で、こちらがもうすこし普通のレベルまで、そんなに優れた戦略的レベルではなくても、常識のレベルくらいまで立て直せば、力関係は良くなる、とわたしは思っています。
天野】 名護の問題で大田知事があいまいになっているのは、普天間返還が凍結されるのではないか、そして自分の国際経済都市構想の前提が失われてしまうのではないか、という危惧が非常に大きいようですね。向こう側の要求があらためて普天間返還と名護ヘリポート基地受け入れがセットで出されてきているので、それに対応しなければならないというのは全くそう思います。
 日本政府にアメリカ政府と交渉しろというのはどういう運動で可能になるのか……。
武藤】 大事なのはどういう論理を組み立てるか、とういうこと。こちらが独自の論理を組み立てないと、「普天間か名護か」と出してくる。あるいは全部で沖縄の痛みを分担しましょう、なんていうことが出てくる。そこのところをつくるのは、何か。前から言っているけれど、橋本政府に米国との再交渉ができるとわたしは思っていないけれども、少なくとも日本政府なら再交渉するのが当たり前じゃないか、という世論をつくることは抜きにできない。そんなことが主張できない政権は資格がない、どの政党ならそれができるのか。少なくともそれぐらいは最低限あたりまえ、という声をあげる必要がある。
天野】 住民投票の意思を尊重する、ということですからね。
武藤】 一昨年の県民投票の結果だって尊重してないのが現状。地位協定の見直し要求は完全に無視している。地位協定の見直しを基地周辺の人々、軍艦が寄港する地域の人びとが中心になって、「アメリカと地位協定の改訂を交渉しろ」と、強く出ないとダメだと思います。安保の破棄からすればずっと手前の要求ですけれど、すくなくともここ2年半の闘いのなりゆきからは、抜きにできないプロセスですよ。そういう政治の展開が必要ではないかと。
国富】 95年の後、96年4月に安保再定義の共同宣言が出て、その直前に普天間基地の県内移転を前提にした返還が打ち出された。その前後は、民主党なども含めて、海兵隊の撤去論だとかいろんな対案が出ていた。その前からは、大田知事にしても何度もアメリカに行って、基地の縮小・撤去を要請に行っている。それが県民投票以降、止まってしまった。
天野】 名護からの反撃を考えた場合、何を立て直すかという点で武藤さんのいまおっしゃった問題は非常に大きいと思います。
武藤】 かつてはそういうのは改良主義的で良くないと言われたけれども、今はそういう元気もない(笑)。
天野】 この間のなかでは、実弾演習場が米軍がヤマトに戻ってくる、50年代から見るとですが、すると実弾演習場の周辺の人たちの闘いがもう一度歴史的経緯もふまえて再組織されて、それがある程度ネットワークされてヤマトの運動として少し横並びに揃いつつあるということは、僕らも多少協力して創った運動のプラス。その上で、全体で政府とのやりとりの運動をどう作れるか。
武藤】 今年はそこをナンとか協力しあいながらつくりたいものですね。実際に、多様な反対や抵抗はすごく広がっていると思います。可能性を持っていると思います。対峙関係の構築なんですよ。対峙関係が作られると、そこから状況を流動化させることができる。向こう側がめちゃくちゃだから、国内政治と日米関係のプロセスとを変容したり切り崩したりして、新しい局面がつくれる。これはできないことではないと思いますよ。
青山】 運動の側がそういった関係をつくるもんなんですか? さっき偶然の要素が多くあっていまの状況が生み出されたとおっしゃいましたが、それを計算してつくれるものですか? 沖縄では基地に対する切実な危機感が多様化した抵抗をひとつにしたのでしょうが、具体的に切実な問題があると人々が感じていない場でバラバラな反対を統一する対峙関係を「つくる」と聞くと、「上意下達はまっぴら」という気がしてしまう。
武藤】 偶然の要素は計算できないから偶然。しかしある流れがつくられれば、偶然はそれにどんどんプラスされていくわけです。偶然の要素を統合しながら沖縄をめぐる日米安保関係の危機状況が生まれた、そこを向こう側は戦線を組み直してきているわけですけれども、そこのいちばん弱い環が日本政府なんです。名護の住民投票ひとつで日本政府はきりきり舞いしている。だから、こちら側がどう押していけるかということを戦略的に考えるべきだと思います。偶然を引き金にしながら起こってくるさまざまな運動が一緒に戦略を考える習慣を再建したほうがいいとわたしは思うんです。

■■実感のある運動と運動の思想や言葉■■

青山】 沖縄・名護の人たちにとっては街に基地があるかないかは現実の生活の中の問題だから、反対運動が盛り上がるというのはよくわかるんです。
 けれども私自身にとっては、NO!レイプNO!ベースの運動をしている知り合いがいるから身近に感じる以外、基地自体は結局「ひとごと」なんです。安保についても「ひとごと」なんです。今のところ、自分の問題として反対に立ち上がるだけの想像力がない。じゃあどうすれば実感として連帯できるかと考えたとき、「(私の住んでいる)杉並に基地を」と言ってみたらどうかと。
天野】 沖縄で「ヤマトに基地をもっていけ」という人は多いですから(笑)。【青山】 そうでもない限り、例えば隣りの奥さんと「沖縄の反基地どう思います?」なんて話は出てこない。運動が理論を作り出すといっても、切実でないからといって運動にリードを頼むべきなのか、それがいいことなのかどうか疑問です。【天野】 実弾演習場が帰ってきた各地で運動が活性化されてきているというのは、基地の問題が日常的に再浮上してきている。もうひとつはガイドラインの問題では、日常的に反戦運動を作っていく条件を向こう側が作りだしつつある事態として受けとめてどうするかということですね。色々なところで戦争ができるように社会が組立直されてきつつあるということは、逆に言えば生活のなかで見ようとすれば見えるようになってきているということでしょ。
 また、湾岸戦争の時の論議で、湾岸戦争のようにあんなにスピーディーに戦争が始まってまたすぐ終わってしまう、とてもじゃないが戦争中の反戦運動だけはまともな反戦運動にならないということがでてきた。そこで、反戦運動の日常化ということが言われたりしたわけだけど、どうやって日常化するのか(笑)。毎日デモすりゃいいわけでもないし(笑)。しかし新ガイドライン安保で日常化を強いられるという、そういう事態がやってきていることをどう受けとめるか、ということだと思う。
武藤】 前に比べれば、ガンドラインの中身は戦争体制との対決を日常化する接点をたくさん含んでいますよね。だからといって、杉並の主婦たちの生活がすぐに変わるかというとそんなことはない。それから、直接ガイドラインに関連する職業の人たちだって、いますぐ生活が乱されるわけでもない。問題はそこのところにあるんです。
 戦後期の日本では社会的にある政治思想が共有されていた。自分に直接関係なくてもその政治思想を媒介にして、人々は「けしからん」とか言っていたわけ。それが解体している状況なわけです。
青山】 それはいいことじゃないんですか。
武藤】 いいところもある。戦後期の政治思想は運動側では平和と民主主義だったけれどこれは解体すべくして解体した。しかし、政治思想一般の解体がいいこととは……。
青山】 政治思想一般の解体がいいとはいいませんが、自分の実感、自分の現実を通さない言葉で語られることがなくなった、という意味で。
武藤】 人間は必ずしも狭い意味での実感だけで行動するわけじゃないですよ。何が実感か、ということだって社会的に媒介されている。今までは民族主義とか反戦平和と民主主義、共産主義とかいったものだったけれども、そういうものがダメになった理由はちゃんとある。でも同時にそのことから、人々が政治思想を持つことそれ自身が抑圧的だ、とういう結論を導きだすのはつまらない議論だと思います。そういうことはありえない。必ず自分の実感を越えたなんらかの判断基準が働いている。例えば、ボランティア貯金にたくさんの人が参加する。それは見ず知らずの人に何かいいことをしましょう、という気持ちが働くわけです。そうれは自分の直接的な実感じゃない。実感を越えた何かが動いている。これも質を点検しなくてはいけない。こちら側に、解放的な意味でのそういうものが、自分の実感を他人に対して媒介するものが何もないという状況は恐ろしい貧困状況。そこでは支配的な政治思想が働くしかない。政府が何か変なことをやってきたときに、「けしからん」と人々が言うことはとてもいいことだと思う。そのときそこにはある批判的な政治思想が働いているんですよ。
青山】 実感だけで動いているわけではないのだけれども、人から与えられた言葉でしか表現できないというのは……。
武藤】 人から与えられたものと、自分の中で作り出してきたものとは、そんなに厳密に分けられないもので、人が言ったことでその通りと思えば、自分なりの仕方でそのことを言う。自分をくぐらせて、しかも人とも共有し得るものとしての政治思想がどう生み出されるのか、ということが大きな課題としてあると思います。そのプロセスをどう作るのか。また、実感として「けしからん」と思っている演習地の住民が、向こう側の言葉の体系に対抗する別の考え方や論理を構築していくことは、運動そのものなんですね。
青山】 それは賛成ですが。新しい論理を作っていくときに、いままでずっと運動を作ってきた人たちが、言葉使いを変えるとか、共有しうるものを勘違いしてたり抑圧的だったりしたことを反省するとか、歩み寄る(笑)姿勢が必要じゃないですか。
国富】 実感に支えられない思想が有効性を持つとか、人々の心を捉えることは現実にはなかったと思います。戦後の反戦平和主義とか憲法理念もそれが人々の心を捉えたのは、戦争体験という実感に支えられていたわけでしょ。「ああゆうことはもう二度と繰り返したくない」という本当の実感だったと思うんです。僕らが全共闘運動の時に、その護憲論や戦後平和論を批判したのも、そのうえで作られた体制の抑圧感というものを感じていたからだからです。
 いま本当に実感だけで動いていて思想がないかというと、必ずあるわけです。かつての反戦平和論を支えていた実感はもうなくなっているけれども、人々が政治思想ぬきで生きているかというとそうではないわけです。例えば、国際貢献論が湾岸戦争のあとに人々の心を引き付け、多数派意識になったというようなこともある。 だから、安保に対してどのような反撃の運動を作っていくかについても、僕らのいまの実感に支えられたある理念や方向性を自分たちがつくりだしていく作業は必要だと思っているんですけれど。

■■反戦運動の日常化と民衆の安全保障という新しい視角■■

天野】 沖縄で、「女子どもの安全保障」といった論議を高里さんたちがしだしたときには、戦後沖縄で米軍支配社会がずっと続いていることの危険を声にしだしたわけです。反戦地主の声は沖縄戦の体験がベースにずっとあった。湯布院では「暮らしの安全保障」ということが言われだした。これらは安全保障を読み替えようということになる。
 基地があって安全が守れるならば東京におけばいいじゃないか。自分たちの暮らしにとっては海兵隊を中心とする米軍の存在は危険である、実感としてあるわけです。国家がやる安全保障は、安全ではない、自分たちの暮らしは自分たちで守らなければならない、安全は自分たちで作り出さなければならないと。それが反基地・反軍隊の言葉になっていく。これらは思想的にものすごく大きな問題を提起していると思います。
 ただむつかしいのは、横須賀の新倉裕史さんと話をしたときに、彼らの運動から見ると、軍隊の暴力性を強調するのは横須賀に展開する米軍の存在様式にみあっていない、といっていた。つまり、横須賀では米軍は住民対策に力を入れてソフトなイメージを演出している。だから、軍隊の暴力性が運動の言葉として現実には十分使えないことがある。そういうズレはある。ただ本質的には変わらないわけだから、そうした言葉が即日的に力になりやすい場所となりにくい場所がある。そのことを前提にしたうえで、運動の思想の問題として練りなおして押し出していくことは必要だと。
 運動が作り出してきた思想というのは、いわゆる学者・文化人が輸入して書いてきた思想とちがって流布していない。闘いの中で出てきた言葉をどうゆうふうに共有していくかということは、文化の問題としても運動の思想の作り方の問題としても非常に大切ではないかと思います。先程の「文体を変えろ」という青山さん発言については、私たちは、硬質な文体に誇りをもって生きてきている(笑)ので難しいですが(笑)、どっちの方向に向けてどんなふうに変えていくのかは、そういう問題を共有しながら青山さんのような人と一緒にやっていくなかでないと不可能ですね。
武藤】 思想と戦術をばらばらにするわけにはいかないでしょうね。思想がない時代じゃなくて、いろんなおかしな思想や理念が徘徊している時代ですよね。こちら側が元気がないので、自由主義史観とかインチキな思想がわんさと若者を集めるなんてことになる。現状肯定と現状合理化の思想は楽だから、そちらへみんないく。それにあらがって現状を否定したり批判したり疑問を呈したりする思想をどうつくるかという難しさがある。沖縄・安保だけでなくどこでも現状に対して何ものかをよりどころにして拮抗するところではじめて運動は成立しているわけだから。【天野】 派兵チェックを始めて5年以上たちますが、初めから僕は軍需産業の問題をちゃんと分析してやらないとダメだと思ってきたんです。闘争の日常化の問題のひとつなんですけれども、今の局面は、自国の軍需産業の活性化が政策的に計られる時期にあって、アメリカでも重化学産業で空洞化しない産業は軍需産業だ、ということで、日本国内では軍需産業のウエイトが大きくなる問題があると思う。テクノロジーの発達で、平和産業と軍需産業の境目がよくわからなくなってきていて、なんでも軍需転換が可能になってきて難しいところはあるけれども、実際に先進国は、武器作って食っている形態なわけでしょう。武器輸出で食っていて戦争を起こしておいてPKOを送り込むといったわけのわからない「国際システム」が稼働しているわけです。その一角に日本も入ってきている。そうしたところをキチンと分析して、そうした企業との闘いを日常のなかに入れておかないとヤバイ段階にきている。基本的な情報が分析できていない。
武藤】 自衛隊だけでは軍需産業はたいしたことにはならない。武器輸出なしには軍需産業は成立しないのですね。だから武器輸出3原則というのは、なかなかいいものだと思いますね。

■■運動としての住民投票の可能性■■

天野】 この間の名護を支える思想、住民投票というのは、政治権力を奪取して政治国家の力それ自身を社会変革の梃子に使っていく発想ではなくなっている。ある種、直接民主主義的な理念の復活で、地域・地方を主体に国家をコントロールしていこうということが出てきた流れは、政治思想上の大きな原理的転換みたいなものと重なっている。個別的な事象として考えないほうがいいと思います。むしろ原理としてそういう問題を定着させていく必要があるのじゃないか。先程の安全保障論議と重なりますが、その場に生きている人たちが決める、国家や行政のトップが決めるのじゃない、そういう発想が大切であり、そういうシステムを作り出していくことをやるべきだという意味が歴史的にも含まれていると思います。名護の住民投票の勝利もその文脈の中で考えるべきだと。
武藤】 それはそうかもしれませんが、いままでの住民投票は全部勝っているんですね。負けたときのことを考えると……(笑)。
 そこはまだ解答がでていない。全国住民投票をやったら大抵の問題で負ける(笑)。制度として一般化するよりも、いまのところは、まず闘争戦術として見ていたほうがいい、とわたしは思います。そこに胎まれている問題はいま天野さんが言った通りでしょうけれども。
 これまで成功した住民投票は、世論調査と違って、県や国家と繋がってきた土建的な利益集団が一元的に支配しているコミュニティ社会で、そのタイプの支配をひっくり返すプロセスで勝ってきた。だから「使用前」「使用後」がどう違うかということを確かめた方がいい。コミュニティ内部の力関係なり基準なりがどのくらい変わったか。いわば戦後国家の自民党的な多数派形成が崩されるということで勝ってきている。それはすごく大きなことだと思います。
天野】 名護の僅差といっても、絶対賛成と絶対反対を比べれば圧倒的なんです。はじめからそれがクリアーにならないように四択というものが仕組まれた。
 たとえもし負けていたとしても何度でもやるということでいいと思う。住民投票自体が県民投票の体験から生まれている。負けたら負けたで何度でもやるという方が健康だと思います。直接住民に問い直すことを何回でもやる、運動の形でやる。一般の選挙が制度的に荒廃してしまっているということがあるわけですから、それとは違ったもので作り出すことが重要です。
武藤】 70年代の住民闘争では、まず「村ぐるみ」とか「漁協ぐるみ」とか、旧構造がそのまま反対にまずまわる。次にそれが買収工作で切り崩されて、反対派は少数派になる。抵抗者は最初は多数派、最後に少数派になって、計画は押し切られる。それをずっと繰り返してきた。最近の住民投票方式の闘いは、この構造を突き破ったと思います。つまり地元の旧構造自身はぐるみ的反対にまわらない状況で、リコールなどで、旧構造を逆に切り崩して、住民投票に持ち込み、多数派をあとで取る。つまり最初は少数派、後で多数派になる。こうした方式が広まってきたことは70年代からみて大きい前進だと思いますね。
国富】 一昨年の巻町の住民投票の前に市民新党にいがたの人たちとも話したことがありますが、危惧があって、もしも負けた場合に、いままで少数派として頑張ってきた運動が、今度はものすごくやりにくくなる。少数派なり反対派の意志というものがどうやって住民投票に負けた場合に表現できるのか。それへの危惧があった。それは勝ったからよかったし、またあるいは勝つことを前提に運動を根性入れて作りました。ただ、いまは非常に有効な形で住民投票がやられていて、うまくいっているわけだけれども、運動の側が住民投票戦術をどうつくるかということについては、よほどいい条件というものを選ばないと大変だ(笑)というのは一方ではあるよね。
天野】 あまり深刻に位置付けないほうがいいと思う。もともと僕らは圧倒的少数派なんだから(笑)、すべての位置でね。それが前提で、それが局所的に多数派に転化する可能性があってやったんだから、一度負けても今度こそそこでは多数派になろうぜ、という運動感覚でやらないとまずいと思う。ぎりぎり切羽詰まった、勝ち負けで命が掛かっちゃうような気分もわかるけど。
 勝てる体験をしたことは重要だし、もうすこしリラックスして住民投票を位置付け直すことが必要だと思う。
国富】 自治連邦的に主権国家を相対化して、住民の自治を構想していく、というのは基本的には支持できます。ただ国家の問題は残る。単純にすべて自治、自治の横のつながりで国家を削ぐことができるかというとそれほど単純ではないと思いますが、原理的な発想の問題としては、自治連邦的な形で今の主権国家を相対化していくやりかたについては有効だと思います。それが出てきているのも、冷戦後の状況のひとつの反映だと思いますが。
武藤】 その見通しは反対じゃないけれども、今の住民投票をそれに直結するものとすることついては、わたしは警戒的なんです。アメリカでは何かというとすぐ住民投票なんですね。何でもかんでも住民投票で決める。これは完全に制度化している。でもそれは自治連邦でもなんでもない。現段階ではあくまで運動として住民投票は位置付けた方がいいと思います。
国富】 主権国家を相対化していく理念の問題として打ち出すより、ということですね。
武藤】 そこにはかなり媒介項を入れて考える必要がある。コミュニティの相互関係がどうなるかとか、複雑な問題があるわけです。利害対立の問題も当然起こるわけでしょ。局所利害がからむわけですから、その調節機能も必要ですからね。【青山】 一連の住民投票でこちら側がずっと勝っているんですが、そのことで向こう側も学んでいて、最終的には、憲法9条で国民投票にもっていくんじゃないか。そうすると、一方で選挙で民意が反映されないという問題があって、今の住民投票は非常に具体的な問題で自分の声が出せること自体はうらやましいと思うんですが、生活に直結しない憲法9条というような問題について行なわれた場合「民意」がどう出るのか。
国富】 国民投票と住民投票は分けて考えたほうがいい。全然違う。国民投票というのは独裁政権が多用する方法でもあるから。
天野】 白川真澄さんの各地方の自己決定権を強化・拡大し、それが連合して「脱国家」という政治構想をめぐる問題は、また次の機会ということにして、今日のところはこれぐらいで。

編集部注:この座談会は、昨年(97年)12月28日に行なわれましたが、97年を昨年、98年を今年と表現しています。

(『派兵check』No.64, 1998.1.15号より)

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「自由主義」以後の思想的境界

栗原幸夫●雑誌『レヴィジオン』主幹
      

 自由主義史観研究会が発足した1995年7月から今日までの、歴史教育をめぐる保守派の二年半のあゆみを眺めると、いろいろなことが見えてくる。そもそも自由主義史観研究会は建前としては、自分を保守派とは異なるものとして出発したはずだ。彼らが発足当初に表明したのは、「大東亜戦争肯定史観」にも「東京裁判史観」にも与さず、「イデオロギーにとらわれない自由な立場からの大胆な歴史の見直しと歴史授業の改革を、多様な形で進めることを目的」とするというものだった。その具体的な主張のなかにあった「健全なナショナリズム」とか「司馬史観」の称揚などにしても、それらは彼らの「自由主義者」としての立場とそれほど矛盾するものではない。
 このような主張は、戦後の民主主義教育のありかたに疑問を感じている中学校、高校の現場の歴史教師たちのある部分に、共感をもって受け取られただろうことは想像に難くない。しかしこの「運動」は一年あまりの後に、中学校歴史教科書の従軍慰安婦強制連行問題の記述に反対するという課題を中心にかかげることによって、急速に変質していった。会の代表・藤岡信勝たちは、彼らが建前としてかかげた「自由主義史観」とは相容れないはずの西尾幹二たちと手を結んで「新しい歴史教科書をつくる会」を結成し、教科書における従軍慰安婦問題をきわめて扇情的に提起して、マスメディアにどっと登場するという戦術をとり、それは一時的に成功したかに見えた。またこのような彼らの姿勢は、実際の行動形態としては急速に右翼に接近して、教科書から従軍慰安婦についての記述を削除する要求決議を地方議会で組織していくという道に進んだ。そういうなかで、教育的な関心から「研究会」や「つくる会」に近づいていた非政治的な現場教師たちが離れていくという状況が出てきた。「研究会」の活力も失われた。一例を挙げれば、インターネット上の「研究会」のホームページは昨年6月ごろからまったく更新されていない。
 このような状況を前にして、たとえば藤岡のように、歴史教科書を作るといいながら、日本の歴史を語るのに司馬遼太郎しか頭に浮かばないようななんとも情けない、そして問題を正当な討論のルールに従って深めるのではなく、マスコミ受けをねらって扇情的にしか扱えない人物のかわりに、もっと「学問的」な装いをもてるような人物の登場をもとめるつぎのステージへの転換がはじまったといえるだろう。そのような要請に応えて「新しい歴史教科書をつくる会」のイデオローグとして登場したのが坂本多加雄だ。
 ではこの坂本の登場によってひらかれた新しいステージとはどういうものかというと、それをひとくちで言えば、自虐史観批判といういわばネガティブなところから出て、もっとポジティブに日本の歴史(彼の独特のカテゴリーを使えば「日本の来歴」)を語ることのできるような統一的な歴史観をつくるということである。そして坂本が彼の著書『象徴天皇制度と日本の来歴』(都市出版刊)で言うところを読めばわかるように、このような要請に応える歴史観は、もはや「自由主義史観」がたとえ建前としてだけであったにせよもっていた多様性の容認とは対立する、国民統合の基軸としての「象徴天皇制史観」なのである。
 本来ならばここで坂本の著書に即してその検討をおこなうべきところだが、それにはすこしスペースが足りない。私は去年の12月にひらかれたフォーラム90 sのシンポジウムでそれを報告し、その記録「自由主義史観の現在――坂本多加雄の『象徴天皇制度と日本の来歴』を中心に」が私のホームページに載せてあるので、関心のある方はご参照いただきたい。(ここをクリック)
 ここで私が、いまとなっては小さなエピソードにすぎない「自由主義史観研究会」の歩みを振り返ってみたのは、あらためて教科書問題や歴史観の問題をとりあげるためではない。1996年の八・一五集会で私は、大江健三郎は「曖昧な日本の私」と言ったけど、いまやその日本は曖昧ではいられなくなったと語った(「曖昧さから脱却する二つの道――戦後五十一年目のわれわれの選択」、『月刊フォーラム』1997年1月号)が、そのような状況はいまはもはや誰の目にもあきらかになっている。そのような状況のなかで、戦後民主主義の中核を担った自由主義者に、何がおこっているのか、そしてわれわれはそれにどのように対したらいいのかを考えたいからである。
 もちろん「自由主義史観研究会」で自由主義を代表させたり、共産主義からの転向者でしかない藤岡を自由主義者と呼んだりしたのでは、戦後の米ソ冷戦のなかで「第三の道」を模索しつづけた真正のリベラルの怒りを買うことは当然だろう。私も藤岡のいう自由主義や自由主義史観をまともに信用するほどナイーブではないが、しかしたんなる客寄せの看板にすぎなかったとしてもその「自由主義」に引き寄せられた現場の教師たちがすくなくなかったこともまた事実なのである。
 発足からわずか二年あまりのあいだに、初発の理念(自由主義)にもかかわらずあれよあれよという間に右翼の走狗と化してしまった藤岡たちの「運動」の歩みは、現在における自由主義の困難性を戯画的にあらわしているのではないだろうか。
 たとえ客寄せの看板にせよ自由主義を彼らが掲げたのは、湾岸戦争とそれにつづくソ連の崩壊によって、世界は自由主義の勝利に終わった、これからは自由主義の世の中だと安易に考えたからだろう。しかし米ソ二極構造の崩壊は自由主義に勝利どころかきわめて困難な状況をもたらしたのである。二極構造の存在は、そのなかでの自分の位置の如何を問わず、自由主義者に「権力」と自分との距離をつねに意識させる決定的な要因であったのだが、それがなくなったのである。
 私は、藤岡たちのようなエセ自由主義者ではない真正の自由主義者たちが、この状況のなかでも、権力からの自立を維持するためのストイックな態度を安易に放棄してしまったとはおもわない。しかしかつての二極が緊張を生み出す状況においては、一極が崩壊してかつてのような緊張が消滅したいまほど、「自立」の選択はじつはそれほど難しくはなかったのである。緊張が消滅した現在、「なにを言っても自由だ」と誰もが信じている。しかし同時に、「すべての言論は政治的な意味をもっている」というのもまた、この「自由」な言論の時代にますます重みを増すテーゼである。
 私がこんなことを考えたのは、鶴見俊輔の『期待と回想』(晶文社刊)における彼の従軍慰安婦についての発言を読み、それを批判した川本隆史の「自由主義者の試金石、再び」(『みすず』97年9月号)を読み、さらにこの川本の批判に「激怒」した藤田省三の反論(同、11月号)を読み、また、戦後の文学者のなかで骨のある自由主義者と私が評価する安岡章太郎と加藤典洋の対談「戦後以後『ねじれ』をどうする」(『群像』98年1月号)での安岡の発言を読んで、暗い衝撃を受けたからである。鶴見も安岡も無縁の人ではない。私には彼らにたいする人間的な信頼感もある。それだけに衝撃は怒りとはならず暗く苦く心に沈む。私はそれを個人の問題、あるいは「転向」だとか「変節」だとか、そういう文脈においてではなく、現在における自由主義の問題として、またそれにたいするわれわれの批判の方法、スタイルの問題として考えたいとおもった。
 本来なら、ここからこの文章を始めるべきだったかも知れない。もし編集部が許してくれるなら、このつづきを書きたい。
                (『反天皇制運動じゃ〜なる』6号、'98.1.13より)

『週刊金曜日』への抗議と要請

 天野恵一の文章をふまえて書かれた貝原浩のイラストがボツになった事(11月14日号の「『天皇行事』のオリンピック 象徴天皇は“国家元首”か?」)に抗議します。
 この件が発生した時、こういう事態がつくりだされるのは、天皇(制)批判の表現を、「不敬」であるとして暴力的に脅迫したり、その表現者やそれを掲載したメディアの関係者を殺傷することまでする人間やグループが現に存在するためであることを忘れずに対処したい、私たちはそう考えました。
 本当に対決すべき相手を忘れて、不必要にハネあがったメディア批判などすることはひかえたいと思ったのです。それは、現在、マスメディアのまるごとの保守化=体制化がさらに強まる中で、個々の主張に大いに批判的なものがあったとしても、権力や大資本の動きを批判する民衆の運動や論理が、それなりに反映する貴重な週刊誌であると、『金曜日』について私たちは考えていたからでもあります。その気持は、いまでも変わりません。
 この事を最初にことわっておきます。
 雑誌発刊直後、貝原が自分のイラストがボツになった件を天野に知らせ、両者で相談して、その時点で製作していた反天皇制運動連絡会のニュース(『反天皇制運動じゃ〜なる』4号・11月18日号)にそのボツになったイラストを載せることを決めました(もちろん天野もメンバーのニュース編集部の了解の下に)。なにが隠される結果になったかを明らかにしておくことは、奇妙なタブーを強めないためには最低限必要だからです。
 その後、貝原あてに、本多勝一(社長)さんの個人名で送られてきた11月15日付の文章には、正直、私たちはガッカリさせられました。ボツにした理由に、まったく納得がいかないのです。
 二人で、どうしようかと相談しつつ、担当編集者に、ボツになった経過を知らせていただきました。
 社長名で貝原に送られてきた文章は、個人の形式で出したが公的なものであると役員会の人は位置づけているということを担当編集者を通して確認しました。そして、『金曜日』の定期購読者である「反天連」事務局メンバーに、『金曜日』編集部から、その文章が事情説明のために送られてきたということもありました。それ以前に社員会議で確認されたものであることも、担当編集者から聞いていました。
 そこで、この主張は『金曜日』の公的見解として受けとめ、これに公的に反論することにしました。
 まず「大前提」の主張について一言。「天皇個人のプライバシー侵害や侮辱(名誉毀損)に類することは、一般人の場合と同じくやるべきではない」。今回のイラストは、プライバシーにはふれないが、「侮辱あるいは『事実に反する』おそれがある」。この主張です。
 天皇は、一つの身体がそしてそのふるまいが国家と「国民統合」を象徴する(公的)存在です。ですから、こういう人物とその一族(世襲という血の論理に支えられた制度ですから天皇個人にとどまりません)は、一般庶民と同じプライバシーを持っていると考えるわけにはいかないと思います。例えば、雅子と皇太子の間に子供ができないということは、象徴天皇制国家にとっては、二人の個人的な問題などではなく、公的な(例えば皇室典範をどうするといった)問題です。ですから、二人のセックスは公務というしかないのです。天皇や皇族を、庶民の公私の区別の基準で扱うわけにはいかないのです。象徴天皇制というのは、そういうおかしな制度です。「侮辱」についても同じです。
 こういう判断こそ「大前提」にならなければならない。私たちは、そう考えます。
 「事実に反する」という点については、問題にされている点にそって、具体的に答えたいと思います。
 まず、(1)の「元首」でないのに「元首アキヒト」というイラストの中の文章はおかしい、という点について。天野は、アキヒト天皇が事実上、元首としてふるまっていることを問題として論じており、それに対応しているわけですから、そうイラストで主張することは、おかしくないはずです。
 (2)のイラストの中でアキヒトが「ファシズムは繰り返す」という言葉があるのは、そんな事実はありえようもないからおかしい、という点について。このセリフは、事実としてあったこと、あることを示そうとしているわけではありません。ヒットラー、ヒロヒト、アキヒトがオリンピック名誉総裁の席につく点を、天野が論文で問題にしている点と対応する表現です。その事実を揶揄するためのセリフですから、事実として、そう言っている必要はないのです。
 ただし、(1)と(2)の問題については、読者に誤解をおこさせるのではないかという不安が出ること自体は、それなりに根拠があると思います。そういうことであれば、貝原と相談して言葉を修正するなりすればよかったはずです(最初は担当編集者はそうすべく動いたのではないですか)。
 (3)の点について。ことさらアキヒトを「貧弱な体」に「貧相な顔」に描いたとも、描かれているとも私たちは感じません(そうであってもよいのです)が、なんで、このパロディ表現を『金曜日』が、許されない「ブジョク」などといって問題視するのか理解できません。
 (4)の軍旗をマワシにしている点も、当人にその気が全くない以上、『先祖還り』を証明できなければ「侮辱」という主張について。(2)にも「もともとアキヒト氏はどちらかというと平和主義者で、右翼もその点で困っていると聞きます」という主張もありますが、どうして『金曜日』は、天皇ヒロヒトは平和主義者で軍部のリーダーに引きずられただけだ(戦争責任はない)という戦後の支配者のつくった神話とセットでマスメディアによって流布された、平和教育をうけた平和主義者アキヒトという神話を、そのまま信じているかのごとき主張をするのでしょうか。今、日本は、「ガイドライン安保」にそって、具体的に戦争遂行可能な国家への大転換をいそいでいる軍事大国です。アキヒト天皇は、その象徴として「皇室外交」などの活動をしているのです。平和主義的になんて生きていません。もちろん、たいへんな軍国主義者も「平和は大切」という一般論は主張します。そういう軍国主義者もその点で「平和主義者」だというなら、アキヒトもそうだといえるにすぎません。
 (5)の貴乃花にも侮辱という点。貴乃花がイラストを見て、なんの関心も示さないか、苦笑いするか、侮辱と思うかは、よくわかりません。しかし、彼の土俵入りを揶揄することが許されないとは、私たちはまったく考えません。
 (6)のヒロヒト天皇が息子であるアキヒトの太刀持ちをしている事と(7)のヒロヒトが菊の紋章をマワシにしている事が「右翼だのからすれば侮辱」という点。
 それは、そうでしょう。「右翼だのからすれば」、天皇をパロディ漫画で描くこと自体がまるごと「不敬」(侮辱)ということになるでしょう。しかし、私たちにとって、それがなんで問題なのですか。
 (8)の「堂々とした論理的展開であれば、いくら右翼が怒ろうと問題で」なく、問題は感覚やイメージに訴えるイラストによる「ブジョク」だという点。
 パロディをねらったイラストが、素材となった人物を「ブジョク」する描き方になることは、ある程度いたしかたないことです。『金曜日』のこの論理を前提にすれば、天皇パロディ漫画など、すべて許されないことになってしまうではないですか。
 だいたい、『金曜日』の連載漫画でも、人間をコウモリ扱いした漫画が描かれていたはずです。そういう事実をふまえれば、実は、例えば江藤淳は「ブジョク」していいが天皇はダメだという主張を、ここでしていると、私たちは解釈せざるをえなくなってしまいます。
 本多勝一さんは1971年に出されたアンケートを集めた本(『我々にとって天皇とは何か』〈エール出版〉)で、天皇ヒロヒトについて、南米の「勝ち組」の「日系人たちに飼ってもらったら?」と答えています。これは「右翼だの」でなくても侮辱と思える発言です(動物扱いですから)。私たちは、それが「堂々とした論理的展開」であるか否かはともかく、そうした発言が、そして天皇(皇室)パロディといえるイラストが、許されないなどと、なぜ『金曜日』が考えるのか理解できません。
 (8)以降、書かれている事は、それなりに理解できないわけではもちろんありません。しかし、貝原のイラストは『金曜日』編集部の依頼で描かれたのであり、貝原が日常的に描いている天皇パロディで、なにも特別なものではない点を考えれば、問題は編集部の判断の方にあるというしかありません(もちろん、自主規制を薦めているわけではないのですが)。それが「冒険」や「はねあがり」などという判断は、とりあえずそちらの勝手でしょうが、こちらがとやかくいわれることではないはずです。
 私たちは、大きかろうが、小さかろうが、どのような企業体にもガードされることなく、裸の個人として天皇(制)批判を書き続けてきているのです。
 以上の点をふまえ、私たちは今回のボツが「天皇制」タブーの拡大に加担する結果となっていると判断し、イラストをボツにしたことに強く抗議します。
 そして、問題のイラストと本多社長名で出された文章と、この文章を、まとめて『金曜日』に掲載するよう、要請します。
 多くの読者に判断してもらいたいからです。読者に何があったかを知ってもらい、論議してもらいたいからです。読者とともにつくる「市民運動のメディア」にふさわしい対応は、それしかないと思うからです。      

天野恵一   貝原 浩
     一九九七年十二月十九日
             (『反天皇制運動じゃ〜なる』6号、'98.1.13より)


【参考資料】貝原浩さんへの本多勝一氏の手紙

貝原浩様
                         本多勝一
 このたびはご労作のイラストをいただきながら、役員会でボツと決定せざるをえず、申し訳ありませんでした。これは代表取締役社長としての私に責任があることですから、私の方からご説明してご寛怒をお願い申しあげる次第であります。
 役員会で検討したさい、私を含めて「ボツ」としたい意見と、修正をおねがいした上で掲載してはとの意見とに割れました。結局、私が代表としての決断をしたわけですが、そこで出た意見も一部に含めつつ、以下にボツの理由をご説明いたします。
 まず大前提として、私の持論は、天皇(および天皇制)批判はいくらでもきびしくやるべきですが、天皇個人のプライバシー侵害や侮辱(名誉棄損)に類することは、一般人の場合と同じくやるべきではない、とするものです。
 そこで今回のイラストですが、プライバシーにはたぶんふれないでしょう。しかし侮辱あるいは「事実に反する」おそれはかなりあると思います。いくつか挙げてみましょう。
(1)現在の天皇(昭和天皇にあらず)は「元首」ではないので「元首アキヒト」とは言えないのではないか。
(2)そのアキヒトが「ファシズムは繰り返す」と直接引用されているような言葉を語った事実はない。またオリンピックでそれを世界に宣するはずもない。(もともとアキヒト氏はどちらかというと平和主義者で、右翼もその点で困っていると聞きます。)
(3)アキヒトがハダカになって、しかも貧弱な体つきで、そのうえ軍旗をマワシにしている。これはどうもブジョクと言えるのではないか。長野の冬季オリンピックに横綱・貴の花が出ることがわかっている人にはあるていど理解されましょうが、知らない人にはなぜ裸なのかわからない。(私はこの時点まで知りませんでした。)貧相に描かれた顔が、貧相なハダカに乗っていてはブジョクになりましょう。
(4)ここで軍旗をマワシにすることも、いくら象徴とはいえ、当人にその気が全くない以上、「先祖環り」を証明することができなければ侮辱となりましょう。
(5)貴の花の土俵入りをもじったとしますと、この格好は貴の花に対してもブジョクになると思います。(もし私が彼だったら非常に不快に感ずるでしょう。)
(6)昭和天皇は明白な戦犯ですが、その「アキヒトの父親」が太刀持ちをしています。つまり息子の下に仕える格好です。これも右翼からみれば侮辱でしょう。
(7)その昭和天皇が菊の紋章をマワシにしている。この点もアキヒト氏だの右翼だのからすれば侮辱とうつるでしょう。
(8)「右翼からみれば」と述べましたが、堂々とした論理的展開であれば、いくら右翼が怒ろうと問題ではありません。問題はブジョクになるかどうかにあります。イラストの場合、論理よりも感覚やイメージに訴える関係上、どうしてもその点が対抗しにくくなるわけで、たとえば朝日新聞社が右翼に襲われたときも、動機はイラストによる侮辱にあったのです。
 そして、これは非常に重要な点ですが、『朝日』のような大マスコミの場合は、右翼が襲ってきても警戒さえしておればかんたんには危害を加えることができません。しかし本誌はどうでしょう。自社のビルでもなければ守衛がいるわけでもなし、全くの素手であり、ハダカ同然です。
 私はこれまで、おそらく日本人の中でも最もきびしく天皇制を批判してきた一人です。昭和天皇にも侮辱に近い言説を述べました。それが、日本軍の侵略(南京大虐殺その他)を詳細にルポにしたこととあいまって、たとえば『朝日』の記者が数年前に襲われて殺されたとき(阪神支局)など、右翼は機関誌で「殺すならなぜ本多をやらないのか」などと書き、それをまた週刊誌が拡大して書いたりしています。これまで私が襲われなかったのは、右翼のテロが迫っているのを悟って以来、あらゆる可能な手段により身を護る手段を講じてきたからでしょう。そして『朝日』の中にいれば、やはり何段階にも守られていました。しかし本誌となるとそうはいきません。そして全くのミニコミならともかく、本誌がすでに一定の社会的影響力をもつに至っている以上、極右もこれを無視しえないでしょう。
 そんなハダカ同然の脆弱な本誌の職場ですが、天皇制批判をやるときは正面から堂々とやります。覚悟を決めてのことです。しかしその場合も、プライバシー暴露や侮辱はしないでしょう。まして今回の場合、そんな正面からの天皇制批判ではなく、オリンピック批判の中の一コマにすぎません。したがって本誌の真意ではないイラストだけのために危険を招き、本誌発行の危機や社員の生命の危険を招くことは、やはり避けたいのであります。そんな危険を冒してまで私の持論に反するイラストを掲載する意味が、今回の場合は認められないと判断し、最終的には私の責任でボツにせざるをえませんでした。現状のようにまだ脆弱な本誌と職場環境では、自己の体力を無視した「冒険」や「はねあがり」により本丸をつぶすことは、何としても避けなければなりません。
 以上の点、なにとぞご理解の上、今後とも協力のほど伏してお願い申し上げる次第であります。(当方の事情でボツにさせていただいた以上、規定の原稿料はもちろんお支払い致します。)もしさらにご説明をお望みでしたらば、直接お会いしてご理解をお願いするのもやぶさかではございません。私は今カンヅメ執筆で信州にいますので、とりいそぎまずはお便りでご説明申し上げました。
 1997年11月15日                        拝具
                (『反天皇制運動じゃ〜なる』6号、'98.1.13より)


名護の住民投票と公共性

白川真澄●フォーラム90s

 12月21日、名護の市民は住民投票によって、海上ヘリポート基地建設反対の意思をはっきり表明した。この勝利は大変なものである。それは、有権者の過半数以上の直接請求で提案された住民投票の内容を市長が勝手に変え条件付き賛成の項目を加えるという新手の撹乱作戦を乗り越えて、かちとられたからだ。そして、金=振興策と国家組織と土建屋を小さな地域に集中投入した国家の力をはねかえして、実現されたからである。
 住民投票の結果の前に窮地に立った国家とそのイデオローグたちは、しきりと反対票と賛成票が僅差であったと言いつのり、住民が反対を意思表示したとはいえないという詭弁を弄した。「建設反対票が賛成票を上回った。だが、小差であり、市民の意向はほぼ二分されていることを示している」(読売新聞12月22日付社説)。
 有権者3万8千人の町で、投票総数31477票中の2372票、7.53三%の差は、けっして小さくない。だが、これを僅差だと言う連中にかぎって、日頃は多数決原理を振りかざし、一票でも上回れば当選する小選挙区制の導入をごり押ししたのである。この論理にしたがえば、前回総選挙では死票率は55%にも達していたのだから、民意を反映できない小選挙区制を廃止するか、今後は7.5%以内の「僅差」で勝った候補者の当選を無効にするのが、筋であろう。
 もちろん、住民投票そのものへの論難も、引き続き行われている。「すぐれて国の安保政策にかかわる問題である基地建設を、住民投票にかけること自体疑問が多い」(読売新聞12月22日付)。すなわち、「最も重要な問題点は、日米安保体制の根幹にかかわる問題の成否が一自治体の住民意思にゆだねられる」ことであり、「国の基本政策をテーマとした住民投票は、本来、間接民主制を基本とする現在の国の制度となじまない」(同上)、と。住民投票は公共性(国益)を損なう地域エゴ・住民エゴが噴出する手段となり、議会制民主主義=代表制システムをないがしろにするものだ、という相変わらずの議論である。
 ただし、面白いのは、こうした住民投票への攻撃にかつてのような勢いが感じられないことである。96年夏には巻町の原発建設をめぐる最初の住民投票や沖縄の県民投票に対して、読売新聞は、二面をつぶした特集を組んで、住民投票への攻撃を仕掛けてきた。これに比べると、今回は実におとなしい。巻町と沖縄に続いて、98年に入ってからも産業廃棄物処理場建設をめぐって岐阜県御嵩町(6月)、宮崎県小林市(11月)、名護市と、住民投票が次々に実施され、住民が自己決定権を行使し国策を拒む手段になってきたという流れに押されているのであろう。
 そこで、国家とそのイデオローグの側は、住民投票に真正面から反対するやり方から、これに枠をはめたり換骨奪胎する作戦へ方向転換しつつあるようにも思われる。名護市長が行った選択肢の複雑化もそうだが、読売新聞も次のように提案している。住民投票を「法体系の中に明確に位置づけ、あらかじめ、テーマ、設問、集票運動などの許容範囲を定めておくべきものだ」(前掲)、と。
 とはいえ、住民投票が地域からのラディカルな民主主義の発展のシンボルとなっていることに腹を立て、これを正面から論難する役割を買って出る輩も、後を断たない。96年の代弁者が西部邁であったとすれば、97年には佐伯啓思がしゃしゃり出てきた。
 住民投票による「『住民の意思』もしくは『市民の意思』の直接的な反映という考え方は、……明らかに、危険な側面をはらんでいる。国家的な『公共性』や政策に関わる問題が、ある特定地区の市民の意思によって決定的に左右されてしまうからだ。そして、彼らは、まず、彼らの個人的なあるいは地域の集団的な事情を最優先させるだろう……。その結果として民主主義そのものが衆愚化する」(『「市民」とは誰か』)。
 佐伯は、住民投票そのものを主題的に論じているのではないが、「『私』の権利や利益から出発し」「国家や公共への責任を見失った、戦後の『市民』が民主主義を担う」事例として、住民投票を槍玉に上げている。“民主主義の衆愚化”論は、市民や住民は代表者を選ぶ能力はあっても高度に専門的な政策を判断する能力はないと見なして、議会制=代表制民主主義を正当化する点で、西部と同じである。だが、佐伯が力をこめて非難するのは、住民による直接民主主義は国家的な公共性を無視する私益=エゴを横行させるという点である。
 「国家の枠が存在して初めてわれわれは、政治的次元での公共的問題を定義することができる」(『This is 読売』97年10月号)。国家的公共性以外には、“公共性”は存在しない。これが、佐伯の全立論の出発点なのである。
 だが、名護の住民投票が明らかにしたのは、この国家的公共性の虚構性であり、市民や住民による、“もうひとつの公共性”の立ち上げである。日米安保や米軍基地による国家の安全保障という国家的公共性と、住民の生命や人権という市民的公共性とは両立しない。名護の市民の多数は、金よりも生命を、日米安保よりも人権を優先して、基地建設反対を意思表示した。このことが私益に終始する地域エゴの噴出だなどと決めつける議論の錯誤は、普天間基地周辺の住民たちが名護の反対運動の支援に駆けつけた一事をもっても、明らかである。           (『向い風・追い風』4号、'98.1.16より)

「特製・反戦ちんどん屋」はチラシ片手に街をゆく


【人殺し・戦争はいけません! 戦争のためのガイドラインはいけません! アメリカの戦争の片棒を担ぐ安保はいけません! はい、戦争反対のちんどん屋ですよ〜! チラシを受け取ってちょ!】

 「特製・反戦ちんどん屋!?」「特製」というのであるから特別にあつらえたものにちがいない。「反戦」と銘打っているのだから、反戦デモに参加するために集まったちんどん屋だろうなど、おおかたの人が推測をたてるであろう。
 世の中そんなに予想外の、とんでもなくキテレツなことがそうそう起こせるわけではない。そのような推測はだいたいにおいて当たっているのである。が、その予想がほんの少しだけど決定的に違っているだろうことがある。それは、このちんどん屋とはデモを賑わすために要請されてきたのだろうという暗黙の前提があるのではないかということだ。
 確かにデモを賑わせながら渋谷の街を練り歩いた。喜納昌吉の歌や、琉球ネシアンのエイサー、アメリカ先住民の太鼓と一緒に、このちんどん屋もその場を盛り上げながら渋谷の街を歩いたのだった。しかし、実はこのちんどん屋の目的はデモだけではなかった。本コラム一発目に紹介しようと思えるような"battlefield"における表現の試みをやったのだ。 
 「新ガイドラインに反対する」という一点を結集軸として、できるだけ大きな枠で集まりをつくろうという計画が、昨年(97年)末に練り始められた。場所は代々木公園の野外音楽堂があるB地区、時は98年2月1日。大枠が決まったのは98年を迎えてから。この2・1行動の企画がおおやけになった直後から、この会議場には「特製ちんどん屋」のメンバーが必ず参加していた。代々木公園で大集会をやろうというこの企画に、ちょっとちがったスタンスで参入しようという魂胆なのだった。何をやるのかというと……。
 集会に参加するために集まった人々ではない、一般の通行人や公園に遊びにきた人、あるいは駅周辺をウロウロ歩き回る人々に、反ガイドライン・安保や反戦を訴え、ついでに代々木公園での集会を宣伝するという(やっぱりちんどん屋だからね)、いわば企画番外編になっちまおうということなのだった。集会参加者は、いってみれば何の働きかけの必要もなくサッサと集会会場である代々木公園へ向かう。ガイドライン反対の一点はすでに共有している人々なのだ。人目を引き、違ったアピール力をもつ、せっかくのちんどん屋だ。ガイドラインってなんじゃい!ってなことをいいそうな人々への働きかけも含めて、2・1行動では宣伝マンに徹してみよう。このことを大きな目的として、「特製・反戦ちんどん屋」は2・1行動に要請されたわけではなく、積極的に関わっていったのだ。
 「特製・反戦ちんどん屋」のメンバーは、ちんどん屋・朝日堂、そして地理的にも内容的にも幅広い音楽活動を展開している大熊亘(当日はクラリネットをひっさげてきた)、ソウル・フラワー・モノノケサミットなどでチンドンを叩くこぐれみわ。いってみれば彼女・彼らがいることで、寄せ集めとはいえ、純正というかとにかくちんどん屋らしいちんどん屋ができあがった。そして、アラブの太鼓の音が聞こえるぞと思いきや、パレスチナ行動委の岡田剛士もいるし、三線の音が聞こえると思えば琉球ネシアンの幸野真さん。それからチラシまきが数人――この中には劇団「野戦の月」の桜井大造も入っていて、彼は街頭戦(?)におけるドタンバでのリードをとってくれた。そしてナント、私もその構成メンバーの一人。私はチラシまきのつもりでいたが、実態を見ればとてもそうとは呼べない弁士なるものをやり、とにかくへたな鉄砲を撃ちまくった。この構成メンバーのうち、朝日堂や大熊亘については、昨年廃刊となった『月刊フォーラム』で私がもっていた同名コラム「表現の"Battlefield"」で、自律的な活動を続ける表現者としてすでに紹介している面々だ。
 私たちは何度かの会合をもち、当日のイメージや配りたいチラシについて打ち合わせた。チラシはできるだけ受け取りやすいサイズと見出しで、受け取ったらとりあえず読んでもらえそうな内容をこころがけた。当日は、体をサンドウィッチする肩かけの看板を朝日堂さんが準備してきた。できるだけの準備はやった。して、その「特製・反戦ちんどん屋」の影響のほどはいかに? 
 音的な話をすれば不満など出るわけもない。いわばもともとスゴ腕のメンツが集まっているのだ。街なかの反応もなかなかのものだった。率直な感想は楽しかったの一言。目に見える結果を語れば、一時間余りでチラシ800枚が人の手に渡ったし(準備したチラシが800枚、もっと作っておけばよかった!)、通りすがりの女性からは手にねじ込むようにカンパを握らされた。ナンだ、ナンだ?ってな反応も少なくない。とはいえ、おみやげの反省材料も少なくはなかった。主には私自身に起因するところ大ではあるが。
 ちんどん屋の端くれとして今回このパフォーマンスに加わった私自身の感想なるものを、せっかくだから反省を込めて1点、2点。
 実際に歩き始めるまで、私自身ちんどん屋の構成メンバーの一人という自覚は薄かった。駅頭などでチラシを配りながら誰かがマイクでアピールする、おなじみの街頭情宣の延長線にいるような気分だったようだ。歩きながら、「そうだった、あたしゃこの環境(ちんどん屋)のなかでしゃべるんだった」と驚いたことを記憶している。これ自体は立派な反省すべき点なのかもしれない。頭のなかでの「面白い試み」ってやつと実際の行動とのギャップは、その場でなんとかしなければならなかった。その上せっかく作った「しゃべくり用台本」は、ほとんど役にたたない。ほんの少しでも音が切れ、「アンポ」やら「ガイドライン」やら、「コロス」だの「コロサレル」だのの話が始まるや、人々の流れは残酷にも変わってしまう。焦る私はどんどんフレーズを短くし、メッセージはストーリーを無視した言葉の羅列と変わっていく。言葉で人々に訴えていくという方法をあまく見てはいけないのだった。そのことは重々認識していたつもりであったが、さらにあまかった。すばらしい語り口調や声の持ち主であるとか、とてつもなく人目を引く出で立ちであるとか、そのような要素もまったくゼロで、小手先の言葉や表現の工夫くらいで「無関心」の関心を引こうってのは「あまいっ!」ことをあらためて痛感させられた。あるターム、たとえば「アンポ」や「ガイドライン」ということばそのものが人々の関心を引くような、ある程度の社会的・環境的な条件が揃っていればまだしもだが。もっとも、そのような状況下でのこのような表現の工夫のあり方は、また違ったものに変質していかねばならないのだが。
 普段の街頭情宣や街頭デモ行進では多くの人に無視されながら、それでもめげずにやり続けている。それには慣れっこのはずだった。しかし、今回は違った。なぜなら、これはそのような状況そのものを変えていく一つの試みとしてのパフォーマンスでもあったのだ。目立ち、人の関心を引くために、できるだけ多くの人に話を聞いてもらい、チラシを受け取ってもらうためにやったパフォーマンスなのだ。ちんどん屋そのもの(演奏)への反応はすこぶるいいものであったが、多くの人は私の言葉には無関心を決めていた。「さぁ、弁士さん登場してちょ」となったとたん、そこに作り上げられた一つの場が壊れていく……。「人の流れが変わったときの、あんたの後ろ姿が哀しげだったよ」と冗談で言ったメンバーの言葉はグサリと胸にきた。何をどのように変えていけばいいのか、それはこれから考えていくしかない。
 案はいろいろあるんだけどね、実際やるのはむずかしいのさ。と、このセリフだって「言うは安し」だが、とりあえずはこの「特製ちんどん屋」については次回を乞うご期待なのだ。今回は、みんな「試作品」を作るつもりで取り組んだといった方が正しい。その段階ですでに出るべき役者はかなり揃っている。しかし、その可能性をここで云々するというよりは、実は「次回」を具体的に作るということそのものが一つの"battle"であり、表現の模索なのだ。要するに、少々失敗があり、まずいものになったとしても、まずは具体的な模索がなければ「次回」もクソもないのであった。何だかとっても大変な気分だわ。
 ところで、2・1行動の集会そのものは……。集会のあいだ中、私たちは表参道、原宿駅頭で奮闘中だったので、報告はなし。デモは歌、エイサー、チンドン太鼓にクラリネット、その他鳴りもの多数。アピール効果のある久々の楽しいデモであった。さすがに喜納昌吉は盛り上げてくれたし、我らがチンドンもぶっ続けの行動でヘトヘトになりつつ最後までデモを賑わせてくれた。私はといえば、うまくいかなかった自分のパフォーマンスを反省しながら(?)眉間にしわ状態で歩いたのだった(のかもしれない)。