私のなかの由井誓

 1

 もうあれから四半世紀近くがたってしまったと思うたびに、なにやらうら悲しい気分にとらわれるのは、もしかしたら私が老いこんでしまった証拠なのかもしれないが、それでも私は、一九六〇年代の十年間の私を、私の人生のなかのいまだに決着のつかないお荷物として、いまも引きずっているという感じから抜けられずにいる。
 由井君が死んで、なにかにつけ彼の人なつっこい笑顔が目先にちらちらしてかなわない日々がつづいたあげく、それならいっそ、私にとって彼はなんだったのか、それをはっきりと自分に納得させることで私なりに彼を弔おうと考えたのである。そして私は、わずかに残っていたあの時代の新聞やパンフレットや切り抜きのはいったダンボール箱を天井裏から引きずり出し、二、三日のあいだ、それに読み耽った。しかし由井君が生きていたとしても、けっしてあれらの日々を懐古的に語ることをしなかったであろうように、私もいま、あれらの日々を懐古的に語ろうとしているのではない。
 六〇年代のあれらの日々を抜きにしては、私と由井君との出会いもなければ、それから四半世紀にもおよぶ交友もありえなかった。多くの出会いと、そしてそれにほとんど匹敵するくらい多くの訣別をふくんだそれに続く日々のなかを、私たちは三分の戦友、七分の飲み友達として、すごした。ある人たちにいわせれば、あいつらは飲んでばかりいた、ということになるのかも知れないのではあるが。
 私が由井君と出会ったのは、一九六六年一〇月一〇日、「共産主義運動の革新と統一」という討論集会でだった。いま、手許にその記録のパンフレットが残っていて、この日にちを確認できるのである。それはいわゆる「総結集」をめぐる反対論者をふくめた討論集会で、私はそこで組織統一準備委員会のメンバーとして「組織方針のいくつかの間題点」なる報告をやらされた。この「総結集」をめぐって社会主義革新運動(社革)は分裂状態にあり、由井君はその社革の機関誌『新しい路線』の編集長だった。とうぜん会場の「総結集」反対論者からきびしい批判と罵倒にちかい発言があって、私のように一九六一年に共産党を除名されてからはどのような政治組織にも属さず、「自立派」を自称していながら、ひょんなことで準備委員会に引きずり込まれた者には、それはおかど違いでしょうと戸惑うような場面も多かった。その時の由井君の毅然とした態度と発言が私にはひどく印象的で、さらに会が終わったあと私のところに来て、ぼく由井です、いやあ大変でしたねと言った時の、例の人なつっこい笑顔がいまに忘れられず、つまり、われわれの最初の出会いの日が、いまになってもはっきりと分かるというわけなのである。
 いまこの記録のなかの私の発言を読み返してみると、たとえば、「……民主主義の問題がある。それは単に党内民主主義―民主集中制の問題としてとらえるのではなく、党と大衆との関係、とくに大衆の自発性、大衆の自立という問題としてとらえることが非常に重要であろう。/つまり、党のもっとも基礎的な部分における自立性と自発性が大衆との深い結合の中て大衆自身の自立性・自発性を呼びおこし、さらにそれが党の指導部に大きくはねかえってくるような、全体的な構造なしには、党内民主主義は積極的な機能を果たすことはてきないであろう。/党内民主主義は単に規約によって保証されるものではなく、このような大衆の自立性、自発性に支えられたとき、初めく党の中で有効に機能しうるであろう。したがって民主主義の問題は、党と大衆との関係としてまずとらえる必要がある。」というようなところにぶつかり、ああ六〇年代だなあ、とあらためて感じるのである。由井君も討論で、参加、能動性というような言葉を使っている。
 自発性、自立性、そして一種の行動主義的な心情――それが六〇年代の運動をつらぬく赤い糸である。六〇年代は、いうまでもなくあの安保闘争で幕を開けたのだが、その結論はいわゆる「前衛党神話の崩壊」であった。五六年のスターリン批判につづく左翼の思想的崩壊と運動の混迷の時期から、その時われわれはやっと抜け出したと実感したのだった。左翼思想の多様化は、トロツキズムから構造改革論にいたるさまざまな潮流を生みだし、日共のなかでも綱領論争が起こった。春日庄次郎や内藤知周の構造改革派がクローズアップされ、やがて彼らは除名されるかあるいは自分から党を出る。由井君もこの人たちと行動をともにし、社革の結成に参加する。しかし私はこの人たちに同調しなかった。それは、日本の共産主義運動への批判は、綱領や政治路線のレベルでの議論では決着がつかないと考えていたからである。 その頃、私は一つの政治文書を書いた。一九六一年九月一八日の日付をもつ「いま、なにが必要か」と題したその文章のなかからいくつかのパラグラフを引用しておく。
「げんざい、日本の共産主義運動をとらえている分裂の過程は、たしかに日共第八回大会前後の綱領と党内民主主義の問題での対立を直接の契機としており、現象的にはそれが、多くの場合、綱領をめぐる対立という形をとって現われ、また、参加者の少なからぬ部分さえが、もっぱら綱領における対立に決定的な争点を見出すという現状にもかかわらず、しかしこの分裂の真の姿は、いわば日本共産党四十年の歴史のなかに、特殊的には戦後十六年の歩みのなかに含まれるすべての問題の政治的・思想的解決への組織的な努力というところにあるのであって、すべてを綱領上の次元でしか考えられない不毛の綱領主義は、この分裂がそのなかに秘めている無限に豊富な思想的・政治的可能性をくみとることができないのである。」
「春日庄次郎は、党内民主主義の破壊の原因を、『誤った路線にたいする幹部の異常な執着』として描き出しているが、この個人的性格からの説明は一定の説得力をもった説明にはなり得ても、そこから出てくる将来の見とおしは、いぜんとして『誤った』路線にたいする『正しい』路線の対置、一つのグループから他のグループへの党内へゲモニーの移動という範囲を出ず、党内民主主義の問題は、またしても少数派の権利主張という形でしか受けとめられないことになろう。」
「ここでは、まず綱領、規的を作り、それを基準にして『先進部隊』を結集することが『さしせまった課題』として提起きれている。旧い路線に対する『新しい』路線、誤った綱領に対する『正しい』綱領の対置、そんなことで今日の革命運動の危機が乗りきれるとでも思っているのだろうか。」
「今日、まず最初に打ち破られるべきものは、まさにこの『党よ、指令を』という思考様式なのてあって、……」
「いま、われわれにとって緊急に必要なことは、すべての戦線のそれぞれの分野に、現場に密着した共産主義者のグルーブを結成することである。そこで、非共産主義者との真に民主主義的関係を作り出しながら、その戦線のすべての経験、すべての課題を総括し、……」
 カビの生えた文書からながながと引用したのは、社革のメンバーとし六〇年代を歩みはじめた由井君と私の出発点の違いを、はっきりと確認しておきたかったからである。私は「前衛党の再建」よりも「自立した活動家集団」の方をえらんだ。いかに理想的なものであっても「前衛党」は自立に敵対すると確信するところまで、私は「行ってしまっていた」のである。
 しかし、私の前に現われた社革の活動家としての由井君は、構造改革論を金科玉条とする綱領主義者でも前衛党主義者でもなかった。彼の考えを私流に乱暴に言い換えると、そこに信頼できる何人かの同志がいて、使いものになる組織ならば、綱領なんかどうでもいい、たとえどんな組織でも運動には組織が必要ですからねえ、ということになろうか。そしてここが由井君のまさに由井君たるところなのだが、ひとたび組織に入れば、その組織を支える日常の辛気臭い仕事を、黙々と担いつづけるのだった。社革においても、共労党においても、彼は一貫してそのように過ごした。しかも彼には偏狭な党派根性というものの一片もなかった。彼の運動における交友はまさに党派を越えていた。

 2

 多くの紆余曲折をへて共労党が結成され、由井君と私が機関紙『統一』の編集を担当することになった。そして一九六七年七月の砂川基地反対闘争、一〇月、一一月とつづく羽田闘争、翌年一月の佐世保エンプラ闘争と息つく間もないたたかいで幕をあけた、あの激動の日々をともにすごしたのである。一緒に仕事を始めてみて、由井君が私同様、共労党結成にあたって大間題となった「モスクワ宣言」「声明」の総路線とやらいうものをめぐる論争に、すっかりウンザリしていたことが分かった。党というものに対する考えもほとんど違わなかった。当時、いいだ・ももや私がことごとに強調することになった「行動の党」というスローカンにも彼はおおいに共鳴した。「行動の党」とは考えてみればおかしなもので、それじゃあ行動しない党があるのか、とでもいわれそうだが、実際、「総路線」なんていうことばかり言っていて、さっぱり闘争の現場に姿を現わさない「党」もあったのである。私にとって「行動の党」とは「活動家集団」の言い換えにほかならなかった。しかし「活動家集団になれりゃ大したものですよ」と彼はいうのだった。
 まったく由井君の言う通りだった。私たちの新聞の印刷所は、中核派の機関紙も扱っていて、校正・大組の日など彼らは十人以上で大挙して現われ、校正室を占領する。運悪くそれとぶつかると二人だけでぼそぼそと読み合せをやっている私たちは、まことにぶざまな思いを禁じえないのだった。しばらくして、私の女房やいいだ・もも夫人が手伝い、それに時々は内藤議長じきじきに校正係を買って出るなど、まことに家内手工業的な状態でなんとかやっていく有様だった。へっ、自発性なんて言ってますがね、えっへへへ、という由井君の自嘲はまた私の気持ちでもあった。
 私は共労党の党員であると同時に、べ平連の運動にも参加していた。いいだ・もも、吉川勇一、武藤一羊も党員であると同時にべ平運の中心メンバーであった。当時、べ平連を共労党の外郭団体と見倣す事情通もいたが、それはまったく共労党にたいする過大評価というものである。共労党のなかにもべ平連にたいする党的な指導が必要だなどと言う者もいるにはいたが、いいだ書記長がべ平連ではとつぜん市民主義者に変貌するわけだから、とうてい無理な話だった。それでもべ平運から共労党に来た若者は、いまや小説家として一家をなしている笠井潔をはじめ、少なくない。
 べ平連を抜きにしては六〇年代の運動は語れないと、いまでも私は信じている。私は別にべ平連の先駆性などというものを主張したいのではない。べ平連は六〇年代という時代が生み出した時代の子であった、と言いたいのである。それはベトナム戦争がこの時代の状況の中心をなしていたということと不可分である。共労党もみずからを「ベトナム反戦派」と規定し、すべての情勢をそこから見ることにみずからの存在理由を見出していたが、しかし状況への関わり方においては、べ平連にはるかに遅れていた。それはこの時代に社会やそこに生きる人びとの意識か大きく変わり、旧来の政治権力を中心にものごとを考える「マルクス・レーニン主義」では、この変化をつかむことが出来なくなったことに原因がある。
 人びとは、プロレタリアートが権力を握ればすべては解決する、というような神話をもはや信じない。人びと、とくに若者がもとめたのは、国家の革命だけではなく生活を変えることてあった。人と人との関係を変えることであった。ヒッピー、ロンク・ミュージック、そしてアングラ演劇ヒッピー、ロック・ミュージック、そしてアングラ演劇……。それらの生活変革派と社会改革派をへだてる壁は、ベトナム反戦運動のなかで急速に消えていった。べ平連はそのことの一つの象だったと言える。
 一九六七年一〇月のはじめに、四人のアメリカ脱走兵が現われて、べ平連運動は非公然の部分をもつことになった。そしてJATECとよばれることになるこの部分の責任を、私が受け持つことになった。ほとんどの時間をこちらの方にとられてしまう私を、由井君は黙々とカバーしてくれた。しかもそれだけではない。この反戦アメリカ脱走兵援助の運動にとって、大きな役割を果たすことになる山口健二をわれわれに引き合わせたのも、由井君だった。山口については、谷川雁が「権力止揚の回廊――自立学校をめぐって」という文章で彼の一時期のプロフィールを伝えているので、ここでは紹介をはぶくが、彼は明治の平民社や大正時代のギロチン社の社会主義者がいまに蘇ったかと思わせるような、根っからの自由革命家――そんな言葉があるとして――なのであった。そのとき以来、由井、山口、そして私の三人は、由井君の死にいたるまで盟友としてすごした。
 その山口健二が、一九六九年の後半にとつぜん姿を消してしまった。それから八一年の一月にまた突然姿を現わすまで、私たちは顔をあわせると、「ケンちゃんはどうしちゃったのかねえ」と話すのを常とした。由井君は彼の豊富・多彩な情報網によって、山口が中国に渡ったことまてはつきとめた。私たちは、彼が例の林彪事件に巻き込まれて「消され」てしまったのではないかと、真剣に憂慮した。山口とは自立学校や 『世界革命運動情報』で一緒だった松田政男――彼もわれわれ二人の共通の友人だった――にいたっては「連合赤軍で総括されちゃったんじやないかね。もっとも山口さんは総括する方にはなっても、おめおめと殺されるなんてことはないだろうけどね」などという妄想を口ばしるのだった。山口健二が十二年ぶりにとつぜん東京に姿を現わしたとき、まず訪れて夜を徹して話したのが、由井君の家と私の家だった。そして後に山口が犯人蔵匿で逮捕されて二月ぶりだかで出て来たときも、三人で祝杯をあげたことは勿論である。

 3

 話が十年も先に飛んでしまったので、また六〇年代に引き戻そう。
 共労党結党の翌年、つまり六八年は、正月早々の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に明け、三里塚、王子野戦病院反対闘争、新宿米タン阻止闘争、そして一〇・二一国際反戦デーと、息もつけぬ闘いの連続であった。全共闘と反戦青年委員会が学生運動と労働運動に隙原の火のように燃え広がりはじめた。結党当初は、「中央委員会の反代々木的・親トロツキズム的偏向」などと批判して腰の重かった学生党員も、ようやく全共闘運動の一角に登場しはじめた。
 しかしこのような運動の拡大と高揚は、同時に、党の路線問題を改めて提起することになった。他の諸党派と共同するにせよ対立するにせよ、結党時の「宣言」「声明」だの「平和共存」だのの、いわゆる「総路線」などでは、たとえそれがただの飾りものにすぎなくても、もはやケンカにならないのだった。とくに党派闘争の場面では、白分自身の党派性を明確にしないでは、とうていやって行けない。そして党派の論理にとっては、世界情勢の分析から一つの街頭闘争の場所の選択にいたるまで、他党派との違いが死活の問題なのであった。そしてこの時、全共闘にかかわる党派は、二つや三つではなく、じつに八派と称されたのである。共労党はここにはやくも、大きな内部対立を生み出すことになる。経営を拠点にした労働運動と構造改革というオーソドックスな路線を堅持する内藤議長をはじめ旧社革の中心メンバーは、いいだ書記長を中心とする「急進派」に同調できなかった。その亀裂は、六九年五月に開かれた第三回大会でもはや修復不可能なところに来た。内藤氏たちは大会の中途で退席し、分裂は避けられないものとなった。この大会で、私は議長団の一人であったが、怒号飛び交う会場を見渡しながら、やっぱり〈党〉は駄目だな、とあらためて自分に確認したのである。私にとって、由井君が『統一』編集長としてとどまり、退場組に加わらなかったことだけが、唯一最大の救いであった。
 この三回大会については、その直後に刊行された『公安情報』(一八九集、昭和四四年六月)に「共産主義労働者党第三回大会について」という記事が掲載されており、私はそれをずっと後になって神田の古本屋で見つけたのだが、一読その詳細・正確なことに唖然として声もなかったのである。
 私はどちらかというと、「真実というものはわれわれの後から追っかけてくるものなんだな。……敵は出て来るんだな」という鶴見俊輔がべ平連について語った言葉に、当時から共鳴していた。綱領と規約にがんじがらめになって、世界大の認識をめぐって大論争をやらなければ、ほんのちょっとした「転換」さえできない〈党〉という組織は、私には居場所がないように思われた。私はそれから後、党にはとらわれない仕事をした。そこでも由井君は陰に陽に私を助けてくれた。
 共労党はその後、さらに三分解するが、それは〈党〉の論理の必然の結果であるように私には思えた。私はそれらの過程になんの関心ももてなかった。私は党を離れた。しかし、由井君は違う。彼はそこに彼を頼りにする若者がいるかぎり、彼らを見捨てたりはしないのてある。
 その後、旧社革のメンバーが労働運動研究所をつくり、由井君もそこで機関誌の編集をするようになってからは、ときどき神保町のその事務所を訪れ、雑談に時をすごし、夕暮時になれば一杯やりに出かけるのが、私と彼のつきあいの常態となった。しかし飲んでいただけではない。それで埼玉県警にさんざんつきまとわれることにもなるのではあるが。
 私はいままで「由井君」と書いてきたが、彼とのつきあいで、彼を「君」と呼んだことはない。いつも「由井ちゃん」であった。そして私は「クリさん」であった。由井ちゃん……、まあ、いい年をして、なんということであろうか。しかし彼は年をとらない、永遠の青年なのてある。これからも……。
 由井ちゃんが、生きいきした姿で私のなかに蘇るのは、こみいった議論の場などにおける彼ではなく、やはり具体的な時と場所、たとえば石が雨のように飛んでくる羽田の路地裏とか、火災瓶の炎が燃え、催涙ガスがたちこめる新宿の街頭とか、――そこで一緒にすごした時の彼である。
 大金久典は、思い出なんか書くな、君と由井の運動とその時代を正面から書け、と挑発する。しかしいまの私には、この程度の中途半端がふさわしいだろう。大金といえば、由井ちゃんが大怪我をした時も、「由井が自動車にはねられてあぶない、すぐ行け」と電話をしてきて、私は、とるものもとりあえず、品川の救急病院にとんで行ったことがあった。こんども「由井が倒れた、絶望的だ」と電話をかけてきたのは彼で、それは何日か後には「いまから二分前由井が死んだ」というつぎの電話のおまけまでがついてしまったのである。大金とは、旧神山派の残党として、これも長いつきあいだ。その大金と由井ちゃんは早大細胞以来の仲間だ。ここにも私と由井ちゃんを結ぶ太い糸があった。人間の縁というものは面白いものだ。
(『由井誓 遺稿・回想』1987年11月刊所収)