歴史・経験・再審
インタビュー 栗原幸夫氏に聞く『世紀を越える―この時代の経験』

聞き手・米田綱路(『図書新聞』編集長)

なぜ失敗したのかという問いをぶつける
 ――栗原さんは先頃『世紀を越える―この時代の経験』(社会評論社)を刊行されました。そこで、この本をめぐってお話をおうかがいたしたいと思います。
 この本を一読して感じたことなのですが、通底するテーマとして、栗原さんは二〇世紀の経験について、「なぜそうなってしまったのか」を繰り返し問い続けておられるように思います。戦争責任にしても、転向や戦時下の抵抗の問題にしても、繰り返し「なぜ」の視点から問うておられますね。しかも、絶対的な高みからではない、本質顕現論的でない批判、歴史的具体性のなかで「なぜ」を問うことの必要性を説いておられます。そうした「なぜそうなってしまったのか」を問う栗原さんのお考えについて、まずお聞かせ願えませんか。
 栗原 キリストとは文化的にもあまり関係のない人間までが、イエスの生誕を起点にして二〇世紀だ、二一世紀だとさわぐのは滑稽だし、歴史の流れはそんなもので区切られるものでもありません。そのことを前提にして言うわけですが、二〇世紀はよく戦争と革命の時代と呼ばれますが、そういう観点に立てばそれは八〇年に満たない年月です。私じしんはそれよりもずっと広く、「現代」「この時代」というようにとらえますが、どういう問題から見るかによって時代の区分は変わってきますから、いずれにしても一夜明けたら新世紀なんていうのは意味がありません。
 そのことをまず確認したうえで、さいしょに二〇世紀という問題を考えてみましょう。いま二〇世紀を振り返る議論が盛んですが、そのほとんどがこの時代のあたらしい試みが失敗の連続だったという評価ですね。いまになってロシア革命を改めて研究しようとか、あるいはマルクス主義についてもっと深めて研究しようという動きは、外国では若干見られるんですけれども、日本では非常に評判が悪くなってしまった。「さて、話変わりまして」とか「過去は水に流して」というのが日本人は好きなんだなあ。私なんかは、あれほどひどい失敗をしたのにまだ性懲りもなくこだわりつづけている愚かな奴だと言われかねない。
 私はこうした考え方にまったく反対です。人間の歴史は、大部分が失敗した歴史だと思うんですよ。埴谷雄高さんは逸脱の歴史だといっていますけれど、歴史というものは、だいたい失敗の集積だといっていいと思うんですね。我々が歴史にこだわるのはなぜかといえば、失敗こそが我々の歴史そのものだし、その集積から我々の未来が見えてくる、その集積を踏まえて未来をつくらなければいけない。つまり、人間は何か行動したから失敗するわけで、頭のなかで考えているだけでは失敗しないんですね。私は歴史に無意味な出来事なんてないと思います。もし無意味な出来事があるとすれば、それはいま生きているわれわれの怠慢、その意味を問う努力を放棄したわれわれの怠慢いがいのなにものでもないです。我々にとっていちばん大切なのは、人間の行動の蓄積のもっている意味をもっと尊重して、そこから未来を見るというスタンスをもつことで、そうでなければ未来は永久に来ないだろうと思います。
 だから、歴史とはその失敗の集積であるということを踏まえて、なぜ失敗したのかという問いをぶつけることが、未来を拓いていく契機になるだろうと思っているわけです。これはなにも戦争責任の問題に限らず、歴史にたいする対し方の問題なんですが、戦争責任の問題にしても、ある人が戦争責任を問われるような行為をしたということを、事実として明らかにすることはもちろん必要だし、それが出発点ですけれども、そこで止まってしまうんじゃなくて、なぜ彼がそのような過ちを、罪を犯してしまったのか、なぜそのようなことが起こったのかということが決定的に重要なんだと思っているんです。
 私は、戦争中からプロレタリア文学に興味をもっていて、本を探し出しては読んでいたんですけれども、そういう文学がどうして戦争中になくなってしまったのかという疑問をずっともち続けていたんです。だから、戦後になって私は、なぜプロレタリア文学は消滅したのかという問題意識をもって勉強を始めたわけです。
 ところが、その「なぜ」を問うことは、ある組織や個人にとっては困ったことになるわけですね。というのは、その「なぜ」が、戦争中その人たちは何をやっていたのか、という問いかけにすぐつながってしまうからです。そういう問いかけをされるのが困る人が、知識人のなかには圧倒的多数なんです。ですから、「なぜ」という問いかけは同時に政治的なあるいは権力的な状況のなかに否応なく引きずり込まれてしまう。そういう経験を、私は戦後ずっとしてきました。それでますます、この「なぜ」という問いかけこそが、問題の核心にぶつかる問いになるなということを、いまもって考えているわけです。

理解することは正しく批判すること
 ――その「なぜ」を問うことは、まさに「転向」や戦時下の「抵抗と協力」というテーマに直結することになるわけですね。
 栗原 敗戦直後に、戦前に左翼・マルクス主義者だったたくさんの人たちが、自分は「抵抗者」だったんだというポーズで復活してきたわけですが、彼らが戦争中に何をやっていたのかということを知らない人は多かったんです。
 戦争中、私は一〇代の子どもだったんですけれども、山田盛太郎の『日本資本主義分析』と平野義太郎の『日本資本主義社会の機構』という二冊の本は、私にとってのバイブルだったんです。私はこれらの本を読んで、日本とはこういう国だったのかと初めて知ったというくらい、大変恩恵を受けた本なんです。ところが、私の戦争中の体験でいうと、中学五年生の時に「大東亜会議」があって、「大東亜共同宣言」が発表された。そのなかの経済の部分だったと思いますけれども、平野義太郎が解説を書いていて、それが載った新聞の切り抜きを修身の時間にもっていって学習させられたんです。
 その時の衝撃というのは大変なものだったですね。まだ中学生ですから、平野義太郎がその時期、『民族政治学の理論』や『民族政治の基本問題』といった本を書いているということは知らなかったですけれども、彼が「大東亜共同宣言」の解説を書いて、とうていマルクス主義者とはいえないようなことをいっている、これはいったい何だろうかと思いました。このことは、私の戦争中の非常に大きな体験なんです。
 戦後になっても、私はずっと平野義太郎という人にこだわり続けてきました。戦後になって、たとえば『大アジア主義の歴史的基礎』などを探し出してきて、彼が戦争中に何をやっていたのかということを戦後になって知るわけです。そしてあらためて講座派の指導的な理論家からヴィットフォーゲルのアジア社会論の紹介者をへて民族政治学つまり日本の東南アジア占領政策に寄与する研究者に転身していく過程を、文献的にも追ってみたんです。それともうひとつ、あるとき武田泰淳さんと話しているときに平野義太郎が話題になって、――武田さんは竹内好さんの盟友だから中国研究者としてはとうぜん平野にたいして厳しい批判者であるわけですが、その武田さんが戦争末期に上海で平野にあったときの話として、そのとき平野義太郎は絶対に転向していなかった、と言うんですね。
 この話は私にはショックでした。なぜなら私は武田さんの人間観察眼を深く信頼していましたし、そう言われて戦後の平野義太郎の行動を見ても、戦争中の彼が主観的にはいぜんとしてマルクス主義者を自認していただろうと思えたからです。主観的にはマルクス主義者である人間が同時に戦争遂行の理論家でありえたのかという疑問、それはたんにその人間の倫理とか性格とかだけでは説明がつかない、彼の理論や思想そのものをふくめた原因が解明されないとだめだと思うようになったんです。
 そういう体験を踏まえたあとで、周囲を見回してみると、何だこの人たち、戦争中もけっこうたくさん本を書いていたし、いろんな国策的な仕事をやっていたじゃないか、それがどうして、自分のやっていたことは「抵抗」であって、「抵抗者」だというポーズで戦後復活できたのか。そのことが、私にとってとても心外で、「裏切られた」という感じが強かったんですね。
 マルクス主義者の戦争協力という問題を提起したのは、日本共産党のなかで「神山グループ」といわれた人たちで、当然のことながら大変評判が悪かった。四面楚歌というような状態でした。そこでは生産力理論批判などをやったわけですけれども、私もその一端にいて、だいぶいじめられましたね。ただ、そのときの「神山グループ」の生産力理論批判はたしかに先駆的ではあったけど、最近になってかならずしも全面的に正しいとは思えなくなってきたんです。
 というのは、それが絶対的な高み、観念的な党という高みからの批判だからです。特に神山茂夫という人は、戦争中も党の再建運動をやっているわけで、戦後その批判をやる資格はあるわけですが、党の高みからぶったたいてしまったのでは、やはり戦争中に、本当に旧左翼の転向者がやろうとした真意のようなものまで否定してしまうことになり、それではだめなんじゃないか。つまり、やろうと思った意図に反して戦争協力になってしまったところが重要なのであって、初めから戦争協力しようと思ってやったわけじゃない。その違いを見ること、そこに「なぜ」という問いが出てくるんです。
 「抵抗」しようとしてやった行動なり言動が、なぜ翼賛や協力になってしまったのか。その「なぜ」を明らかにしない限り、我々はまた同じことを繰り返すことになるだろう、そう思い出したんです。やはり、絶対的な高みから批判するということではだめであって、いちどその人たちが生きた時代の大衆の目線にたって、その人たちがその時に考えたこと、行動したことを、その時の具体的な状況のなかで全面的に深く理解する必要がある。それが、いまの私の考えなんです。
 理解するということは、その人のやったことを容認するということではない。それはぜんぜん違うことなんです。なぜそういう行為をしてしまったのかということを理解することが、戦争責任論や戦後責任論をこれから深めていく上でも、決定的に重要なことだと思います。
 最近、池田浩士さんの『火野葦平論』(インパクト出版会)が出ましたが、戦争作家であった火野葦平の小説を読んで、戦争に勇んで参加した兵隊たち学生たちはたくさんいるわけです。それだけの大きな役割をはたした火野葦平が、しかももともとは左翼として運動もやった彼がなぜ、非常な善意、誠実さをもちながら、戦争に参加し、それを肯定的に描いてしまったのか。池田さんは、その「なぜ」を五五〇頁を使って緻密に跡づけたわけですね。それは、火野葦平をまるごと容認するということでは全くない。池田さんのやったことは、火野葦平をまるごと全人間的に理解しようすることだったんですね。
 それをやらないで、ある人間を断罪するという戦争責任の追及の仕方はだめです。それを我々がやっていちばん喜ぶのは、たとえば自由主義史観の連中でしょう。理解するということは、正しく批判するということです。
 火野葦平は自殺してしまったわけですけれども、もし火野葦平がこの池田さんの本を読んだら、彼は自殺しないでもっと違ったかたちで、自分のやったことについての責任を取る、小説家だからもっと違ったかたちで作品を書くことができただろうと思いますね。そういう意味では、この池田さんの『火野葦平論』という本は、いまなお少なからずいる火野葦平の愛読者のこころにまでとどく力をもっていると思います。 
 私はそういうかたちでしか、戦争責任、戦後責任の問題は解決していかないだろうと思うわけです。良心比べのようなやりかたをやっていたのでは、この問題は解決しないでしょう。

歴史認識や経験をもっと中心に置くべき
 ――良心比べと、倫理の極点探しのようなことになってしまっているように思います。その良心と倫理に異論があるといっているのでは決してなく、それが極点であるために自分から遠い、遠ければ遠いほど矛盾なく臆面もなく同化し賛同できるという意味で、しかもそれを正義としてしまう心性が、私は何か重要なものを欠落させているのではないかという気がするのです。ただ、それを言うと良心や倫理にケチをつけるような格好になってしまう。そのことで、あいつはけしからんというような話になる。そこが難しいと思います。
 栗原さんは戦争責任、戦後責任について、なぜそうなってしまったのか、その構造を認識する必要を強調しておられますね。
 栗原 戦後五〇年をへた一九九五年頃から、戦争責任の問題が改めて問われる時代が始まったと思います。そのなかでいろんな議論があったわけですけれども、どうしても疑問というかためらいをもつのは、責任の問題が個人の倫理の問題としてだけ論じられる傾きがあることなんです。
 つまり、戦争というのは悪である、そこに参加した行為は悪である。その責任を取れという呼びかけに対しては無条件で答えなければならないというのは、私は倫理だと思うんです。私は、歴史認識や経験をもっと中心に置くべきだという考えをもっています。
 たとえば、火野葦平は戦争中に何をやったらよかったのか、と問い返してみる。彼はそこで反戦小説を書けばよかったのか、戦争小説を一切拒否する、つまり作家であることをやめればよかったのか。そういう問いに当然行かざるを得ないですね。私は、そういう問いは無意味だろうと思います。
 ある人たちは、総力戦体制からどうやって逃げるかを考えるべきで、自由にものが書けないんだったら書くべきではないというんですね。でも私は、作家はやはり書くべきだし、書いていいと思うんです。問題は、そこで戦争を肯定的に書いたか否定的に書いたかではなくて、たとえ戦争を肯定する立場で書いても、主観としては肯定的に書きながら、しかし作品としては、戦争のリアリティが、侵略戦争のリアリティが意図に反してにじみ出てしまうような作品であればいい。よく書かれた小説というのはそういうものなんですよね。あからさまにそこで政治的な主張をする必要はない。戦争肯定を主張しようとした作品が、その戦争の本質を暴露してしまうというのが、本当の意味でのリアリズムだと思うんですね。作者のイデオロギーと作品が実現するリアリズムとは同じではない。
 そういう小説をもし書くことができれば、それはすばらしい。火野葦平という作家にはそういう作品を書く可能性があったと思います。

「なぜ」という問いを体験につきつける
 ――侵略戦争のリアリティは、もしかすると戦争を肯定し協力し推進した人たちのことばや経験のなかにこそ温存されているとすら思えるときがあります。結局それを隠し、「なぜ」と問われないまま戦後が時を経てしまったことになるのですね。
 栗原 戦争中やれたこととやれなかったことがあるわけですね。しかしやってしまったことを隠したやつが多いというのは言語道断です。けれども、火野葦平はぜんぜん隠さないんですね。しかも、自分の考えを簡単にひっくり返さないんです。自分の考えは、戦後もやはり正しかったと思っていた。あの戦争がアジアの解放のための戦争であったという点については、自分は意見を変えないということを、占領軍の将校を前にして断言するわけですね。
 そうやって、まさに彼なりの「なぜ」を、小説として書いていくわけです。それはもちろん、全面的に深められるところまでは行かなかったわけですけれども、それは作家としていちばんまっとうなあり方なんじゃないかと思います。よく戦争で死んだ人は無意味な死を死んだ、犬死にだという人がいますが、それは、歴史に無意味な出来事があるというのは、そう言う人の怠慢以外の何物でもないとさっき言いましたが、それとおなじで、そう思う人間の怠慢なんですね。埴谷雄高流に言えば、「ぐれーつ」とわれわれに語りかけている死者の声を聞くことのできない愚鈍な人間だけが人の死に犬死にがあると思っているんです。火野葦平にかぎらず、大岡昇平にしても野間宏にしても、その他、戦後文学を担った作家たちはみんなこの死者の声に耳を傾ける姿勢をもちつづけています。彼等にとって戦争で死んだ人はけっして無意味な死を死んだのではない。これは私は戦争を考えるときの基本だと思っています。死者を背負うことなしに我々は前進することは出来ない。死者を敵に渡してはならないんです。
 戦争が終わったとき、私は一八歳だったんですが、あと半年で兵隊に取られるというぎりぎりのところだったわけです。そのころの私たちの年齢の青年は、この戦争で死ぬのは宿命だと思っていました。けれども、何で自分たちがこの戦争で死ななければならないのかということは、どんな暢気な人間でもやはり考えるでしょう。そして、なぜ自分はこの戦争のなかにいるんだろうかと当然考える。
 私の場合、先ほど言ったように山田盛太郎と平野義太郎の本がバイブルだったわけですから、たんに資本主義、帝国主義だから戦争があるというのではなくて、日本のような軍事的・半封建的な資本主義のもとでは、中国に対する侵略は必然的なんだという考えです。これが日本マルクス主義の最後の到達点です。林房雄の『大東亜戦争肯定論』はそこで止まったわけですけれども、マルクス主義者はそうではなくて、だからそういう必然性を解消する必要があると考える。その必然性を生み出している軍事的・半封建的資本主義を解体しなければ、戦争の必然性というものを解消することができないというのが、マルクス主義の考えだったわけです。
 ある哲学者が、戦争が必然なら反戦なんて意味ないじゃないかといったのでびっくりしたことがあるんですが、必然性というのは、ある条件のなかの必然性ですから、その構造を壊してしまえば必然性は消滅するわけですね。そこが、日本のマルクス主義がいちばん大きな問題として、最後に到達した考えだったと思います。日本の一九三〇年前後の革命運動が敗北したということは、つまりその構造を変えられなかったということです。
 だから、私は丸山真男さんが言った「日本共産党の戦争責任」というのは、非常に重要な問題を提起していると思います。それを戦争責任と呼ぶべきかどうかはべつにして、共産党に重大な責任はあるんです。戦争を防ぐことができるような革命の主体形成に彼らは失敗したわけですから。もちろん戦いに敗れることはあります。時に敗北はしかたないことですけれども、敗北の原因はもっぱら権力の弾圧によるもので、自分は永久に正義の立場に立っていたんだというようなことをいうのは大間違いであって、やはり、日本の革命運動の敗北の上に、あの戦争が現実化してしまったわけですから、共産党も日本の左翼・マルクス主義者も含めて、責任が問われるのは当然です。
 そういう視角から見ると戦争責任論というのは、やはり個人の責任と同時に運動の総括として出てこなければいけないわけですね。そういう考えを私たちは戦後してきたわけで、そこで個人の倫理の問題に責任を解消してしまうことはできない。
 先日亡くなった本多秋五さんが、戦争中『『戦争と平和』論』というおおきな本を書きました、本になったのは戦後ですけど。あのなかで取り上げられているメインテーマは、必然と自由という問題なんです。本多さんはいろいろなかたちで書いていますけれども、自分は自由とは必然性の洞察だというマルクスの主張を無条件に支持していた。ところが戦争になってみると、この自由論では自分がいまどう生きたらいいかという問題に、解答が出てこなくなってしまったというんですね。そこに、もう一度トルストイの『戦争と平和』を手がかりにして、自由と必然という問題を考え直さなければならなくなった原因があるんだと書いています。
 戦争は、必然的なものとして起こってしまった。それは、革命運動の敗北が生み出した一つの結果なんです。そのなかで、それでは人間にはどのような自由があるのかということになると、かなり実存主義的な問題になってくるわけですね。そういうところから、戦後に梅本克己さんの主体性論が出てくる。そこで問われたのは、認識と実践的倫理との関係、それを担う主体という問題です。とうぜんその背景には戦争中の経験があったわけです。それともうひとつ主体の自由というものが、戦争中一人ひとりに問われてきたということがいえると思います。しかしその自由は、大きな必然性のなかでの自由であり、必然性に抵抗するなかで、かろうじて感じることのできる自由感のようなものです。私は、それしかなかったんだと思うんです。
 ある必然性が支配しているなかで、それに抵抗する自由というのは、やはり限られていると思うんですね。問題は、人間の歴史というのはその場で解決がつくのではなくて、一区切りついたあとで、それをどのように次のステップに活かすかたちで、「なぜ」という問いをその体験に突きつけてみることです。そのことが重要なのであって、それをやらないと我々にとって前進はないだろうと思うんですね。
 戦争に協力したやつはけしからんということを、中国や朝鮮や東南アジアの、つまり日本が侵略した地域の人たちが日本人に向かっていうことは当然だと思います。侵略されたあの人たちにとって、「なぜ」を問うことなんかナンセンスです。日本人の行為を理解することなんか必要ない。日本人はただ敵としてだけ目の前にいたわけですからね。けれども、日本人が日本人に向かって戦争責任を問う場合は違う。加害者が加害者の責任を問うわけですから。もし立場が違ったら自分も罪を犯したかもしれない、あるいは将来同じような状況におかれたら、自分も罪を犯すかもしれないという怖れをもって、何故だ、と問わなければ、あの戦争の経験から、日本人は本当の思想を生み出すことができないんじゃないかと思うわけです。

在野性を失った学問・思想
 ――そのことは、日本人の問題を他人事であるかのようにけしからんといえてしまえる、歴史認識をめぐる問題でもあるのですね。
 栗原 アメリカ占領軍の占領政策のもとで、日本人は軍閥にだまされたんですよというところから戦後が始まったというのは、本当に不幸なことですね。そして一方では、一億総懺悔があった。その頂点には、天皇が一切の責任を認めないで死んでしまうということがある。これはもう酸鼻ですね。つまり、倫理的な崩壊の原点です。しかもその体制を日本人の大部分がいまだに支持している。つまり、天皇と民衆のもたれ合いの関係はいまもって変わっていない。
 そこでは、誰か一人がけしからんというだけでは問題は済まない。そういう意味では、戦後の責任の問題が、今日までなぜ解決できないままに続いているのかということをもう一度原理的に問い直す必要があるだろうと思いますね。それには、倫理の問題と認識の問題が両輪となっていないとだめだというのが、私の考え方です。
 ――なぜ日本人が戦後の責任の問題を問えないままできたのかということと、栗原さんがいわれている思想の技術化の問題とが、実は密接に結びついているように思われます。倫理だけではなく、歴史認識や経験をもっと中心に置くべきだといわれましたけれども、そのことは思想の問題としていえば、なぜ欧米の理論装置を輸入し援用することでしか日本のありように何かをいえないのかということととも関わってくるのではないでしょうか。輸入し援用することが悪いといっているのでは決してなく、そのことがまさに構造として、日本人が戦後、責任の問題を問えないできたということと深い次元で結びついているように思うのです。それは、思想が血肉化していないといった次元の問題ではない、もっと本質的な日本の思想的問題であると思うのですが、いかがですか。
 栗原 理論的装置ということでいうと、戦後六〇年代まで、「体験」と「経験」が私たちが歴史を考えるときの基本的なタームだったんですね。ところが、いまはそうではなく「記憶」という言葉が使われている。どこからそれが使われるようになったのかよく知らないですけれども。
 いまは戦争を体験した人たちが少なくなってきましたけれども、私は、体験として語られる戦争論はだいたい五〇年代でおわったと思います。しかしそれを対象化して、普遍的なところにその体験を引き出していくことによって成立する「経験」は、歴史の上で決定的な意味をもっていると思うんです。ですから、いまの「記憶」という言葉の使われ方が腑に落ちないし、何かよくわからない。べつに「記憶」という言葉を使うことに反対しているわけではなし私も使いますけど、もしそれを歴史とくに戦争との関連で使うとしたら、いままでこの国でそれらの歴史がどのような言葉で語られてきたのか、「記憶」という言葉はそれとどのような関係があり、どうしていま「記憶」というあたらしい言葉でそれを語らなければならないのかが、明らかにされなければならないと思うんです。思想を紡ぐ者にとって肯定的にせよ否定的にせよ土着した概念の継承性というのはとてもだいじなことだと思うんですよ。そうでないとそのときどきの外国で流行しているタームが、新しいような装いで輸入されて我々自身の積み重ねてきた蓄積が見えなくなってしまう。しかし、それが流行っているといっても、それは非常に狭いある種のサークルのなかですね。
 ――それは、書評紙の編集にいる人間として痛切に感じることなのです。それほど日本の知的世界は狭いのかと思うほどで、私個人としては批判的でありたいと考えています。問題は、「記憶」をもってして了解し成立し得てしまう狭さ、その心性ではないでしょうか。そしてそこには、狭さが生む敷居の高さがある。敷居のなかにいる人間はそのことに無自覚で、それはもう思想ではなく「思想研究」でしょうけれど、しかも、たとえば思想が大学という制度内のものになって、そこでの流通用語を乗せて成り立ってしまう書評紙なり雑誌の限界があるように思います。そのことが日本の現代思想を規定している以上、問題は構造的で、根は深いと思えるのですが。
 栗原 まったくその通りですね。一九六〇年代に構造主義が入ってきて、それ以降、現代思想が学術ジャーナリズムの上でもてはやされる時代がずっと続いてきましたね。しかし、その中身を見ていると、もてはやされる対象はころころ変わっても、輸入業者が活躍するという意味では、日本は明治以降ぜんぜん変わっていないと思うほどです。
 非常に残念なのは、六〇年代の末から、批判的な知識人がみんな大学のなかに入ってしまったことです。そして、こういうあり方が、思想を変質させていると思います。食うために大学の教員になることは普通のサラリーマンになることとすこしも違いはないのに、大学に籍をおいているというだけで研究者であるとか思想家であると錯覚している。つまり大学に入ることが駄目なのではなく、そういう錯覚に安住していることが駄目なんです。しかもおおかたのジャーナリズムもその同じような錯覚にとらわれている。私は学問も思想も在野性ということが決定的に重要だと思っています。日本の思想史や研究史に決定的な足跡を残した人は、右であれ左であれ大部分がアカデミーの外の在野の人じゃないですか。それは当然のことなんで、思想が生まれるのは大学の研究室からではなくて人々の行為する現場からなんですね。だからそれを自覚して努力している人にたいしては、たとえその人が大学に属していようと尊敬し信頼しています。それに米田さんが指摘なさったように、ジャーナリズムの側にもおおいに問題がありますね。ジャーナリズムがアカデミズムにおんぶしてしまっているという構図が非常に強い。こういう状況は、現在の思想におけるある種のモダニズムとして表れているわけです。竹内好さんなら、それをはっきり近代主義というでしょうね。近代主義と権威主義だな。
 なぜそうなったのかというと、いろいろ原因はあるでしょうがひとつには、私は思想的な創造や理論的な研究が運動化していないということだと思います。むかし私たちが何かを主張しようとするときには、まず自前のメディアをつくったものです。それは、商業雑誌に原稿を売り込んだり、原稿の注文を受けて書くという関係で仕事をしている人たちとは全然違う。そういう思想生産の回路がかつてはあったし、いまも細々とながらあるんだろうと思いますけれども、ほとんど注目されなくなってしまった。
 いまはたとえばインターネットを利用して自前のメディアがもっとつくりやすくなっているにもかかわらず、思想生産という意味においては、本当に適さない難しい時代だと思います。だから、外国製のタームを使うと何か考えているような気になれる、そういうことが通用してしまうのでしょうね。カルチュラル・スタディーズの輸入業者なんて戯画的ですね。まるで柳田国男なんて名前も聞いたことがないみたいな顔をしている。アホか。

レヴィジオンにさらされる歴史
 ――栗原さんは本のなかで、歴史の再審について論じておられます。とりわけ九〇年代に入って、歴史の再審を「日本人の歴史」を取り戻すというような方向で進める動きが顕著になってきています。それを批判し対抗していく者も、歴史の再審という問題に直面し続けているわけですが、さきほどお話しになった「なぜ」を問うことも、また栗原さんが編集された『レヴィジョン』も、自前のメディアをつくって歴史の再審という問題に取り組む試みなのですね。
 栗原 再審というのはレヴィジョンですよね。つまり悪名高い「修正」です。フランスでホロコーストを否定する連中があらわれて、歴史修正主義とよばれる。ヨーロッパではナチスによるホロコーストは歴史の「正史」としてあった。それを無いというのだからこれは歴史の修正で、彼等を歴史修正主義者と呼ぶのは正確です。しかし日本の戦後の「正史」のなかには南京大虐殺も従軍慰安婦も存在していないんですよ。だから自由主義史観派のそれらにたいする否定論を、ヨーロッパ仕立ての歴史修正主義という言葉で呼ぶことは、まったく不正確です。問題の深刻さを見えなくさせるだけです。だからそういう連中にたいする皮肉を込めて私は、「私もまたレヴィジオニストである」と言ったわけです。日本の「正史」は修正されなければならない。しかしそれだけでなく、歴史はつねに再審という意味でのレヴィジョンにさらされなければならないんです。そこであたらしい意味が見出される。その再審の場こそが階級闘争の場なんですね。
 私の書くものは、つねに序論であり呼びかけでしかないんです。つまり、共同作業の呼びかけなのであって、中間的な結論さえ私にはないんですが、方向としては、二〇世紀の経験を投げ捨ててしまうというのがいちばんだめなのであって、それにあくまでもこだわっていく。そして、いろんなかたちで、現に存在したものも、ついに存在できなかったものもふくめて、二〇世紀の経験を読み直してみるということなんです。
 それには、いろいろな補助線が考えられますね。私は、本のなかで「星座」というような言い方をしてみたんですけれども、歴史が社会主義に向かって進んでいるんだという目標がはっきりしていれば、経験はその目標のなかで位置づけられます。ところが、その目標がなくなってしまって、経験を位置づける座標がなくなったということが一つある。つまり、経験が散乱してしまったんですね。ですから、散乱してしまった経験を、いろいろな補助線を引いて描き直してみる。
 私はそういう呼びかけをしてきたわけですが、それをいろいろなかたちで、共同作業としてやりたいと思っているんですね。つまり運動としてです。
 それから、社会主義という目標がなくなって、同時になくなってしまったものが一つあるんです。それは資本主義批判なんですね。いまのグローバリゼーション批判にしても、これは資本主義批判としてやらない限り有効ではありません。それをふまえないと、グローバリゼーション批判はただの反米ナショナリズムになりかねない。そして資本主義を解体しない限り、現在我々がとらわれている閉塞状況は解消しないんだということを、もっとはっきりさせるべきだと思います。
 「近代の超克」つまり資本主義を超えるという課題は、「この時代」の人間が背負わされた課題です。その課題を解く具体的な回答として人びとがえらんだのが、ボリシェヴィズムとファシズムだったわけですね。なぜ人びとはボリシェヴィズムに資本主義を超える解放の夢を見ることができたのか、なぜ人びとはファシズムを資本によって堕落させられた人類の救済者と錯覚することができたのか、いま私たちはそれを全力を挙げて解明する必要があります。なぜならその解き方を間違えたことは事実だとしても、その課題自体はすこしも消滅していない。だとすれば、これからもわれわれはその課題を背負って進む以外にないでしょう。それにはその失敗の原因をどれだけ深く洞察するかに現在のこの幻滅を乗り越える可能性がかかっていると思うからです。そうでなければ、二一世紀などといっているけれども、資本主義のもとでは地球はもうその半分ももたないんじゃないですか。だから、資本主義をどうやって乗り越えていくかという問題は、それこそ我々のこれからの死活問題になってくると思いますね。
 さいごにいままでの話の流れからははずれますが、こんどの私の本の出来方についてちょっとお話ししておきたいと思います。この本におさめられた文章はすべて、今までインターネット上の私のウエッブ・サイト(http://www.shonan.ne.jp/~kuri)に掲載してきたものの一部です。社会評論社の松田健二さんがそれを読んで本にしようと言ってくれました。選択と構成も、私も意見は言いましたが基本的に彼の手になるものです。なにが言いたいかというと、これらの文章はいままで私のサイトで自由に、ということはタダで読めたしこれからも読めるものなんです。それを今度は本として定価をつけて売るわけです。これはおそらく新しい試みですね。私はオンラインのメディアと「本」はむしろ相乗効果を生みながら共存できると楽観的に考えているんです。「本」というモノに対面したときのよろこびは、やはりコンピュータのモニターでデジタル・データとしての文章を読むのとはまったく違いますからね。そこそこに売れて版元があまり損をしないようにと願っています。
 それからもうひとつ、いまは自分の研究を発表したいと思っている人、なにかを表現したいと思っている人は、無数にいるわけですね。文章を書くのはけっして一部の物書きの特権ではなくなっています。そしてその発表の場としてインターネットが果たす役割は決定的に大きいしますます大きくなっていきます。だから編集者は関心のあるサイトをウオッチして、あたらしい書き手を発掘するとてもいい場所をもっているわけです。そういうサイトをもっている人にはたくさんの普通の生活人がいます。それらの人がペーパー・メディアに登場することは、まえに言ったような現在のジャーナリズムの偏りを正すうえでもおおきな突破口になると思います。
(『図書新聞』2001年2月17日号)