パンク右翼のクーデタ計画を読む

 文壇事情にくわしい私の友人に言わせると、福田和也を右派のイデオローグなどと言うのは買いかぶりであって、彼が右翼とかファシストとか自称するのは、文壇政治のための衣装にすぎないのだそうである。そうでもあろうかとも思うが、小林秀雄の「さまざまな衣装」という知識人への皮肉なヤジを思い浮かべるまでもなく、左と言わず右と言わず、知識人が高々とかかげた思想が、流行のファッションにすぎなかったという事例は戦前も戦後もさんざん見せつけられてきた風景だから、福田だけをとりたててどうこういうこともないようにも思われる。それに時代の流行は圧倒的にファッシスト福田の方に傾いていて、本屋の棚を覗いてみれば一目瞭然というところだ。
 ところでこの福田和也だが、藤岡某とか西尾某のようなマスコミに踊る連中とはちょっと違って、パンク右翼などと呼ばれながら『近代の拘束、日本の宿命』(文春文庫)のようなけっこうまともな著作もあり、私にとっては佐伯啓思とともに無視したくない右派系言論人の一人だ。もちろんなかには『保田輿重郎と昭和の御代』というようなほとんどH・P・ラブクラフトの怪奇幻想小説の世界を髣髴とさせる愚作もあるけれど。
 ところでその福田和也が「『新国家』の建設をシミュレートしたタブーなき思考実験」をうたい文句に「一九九九年日本クーデタ計画試案」(『文芸春秋』11月号)なる怪文書を書いている。いわゆる「自由主義史観」のバカ騒ぎを冷然と侮蔑し、「新しい歴史教科書を作る会」にも同調せず、実行の世界から一歩離れたところで批評家としての立場を築いてきた福田が、最近の乱世の毒気にあてられてトチ狂ったのかとおおいに期待してさっそく読んだ。ナンジャコレハ、というのが単純な読後感なのだが、ここには乱世のなかに生きる庶民の危機意識など爪のアカほども反映していない(だから彼はファシストなんかじゃない)。頭でっかちのパンク坊やがでっちあげた観念遊びである。しかしこの国のパワーエリートのなかには、庶民とは何の関係もない頭でっかちのパンク坊やがけっこう多いから、やはり一応は検討しておく必要があるかもしれない。
「冷戦後の歴代政権は、東西の壁が破れた後の、ダイナミックかつ無秩序な、国際政治、経済にまったく適応できなかった。過剰投機のために不良債権を大量に抱えこんだ金融機関を処理することもせず、あらゆる問題を先送りしてきた。結果として、あれほどの隆盛を誇った日本経済は、崩壊の淵に立たされ、社会が溶解の兆候を見せるに至った。周辺海域では領海侵犯が頻発し、国土の上空をミサイルが通過する始末である。」
 これが福田の現状認識である。なんと一国主義的な単純な認識であろう。そのうえで彼は言う。
「このまま日本が非決断のままにとどまった場合、どのような事態が出来するか、その結果、国家機能が完全に停止した場合、いかにしてその機能を回復するか、さらに危機をどのように克服すべきかについて、識者の援けをうけつうタブーなき思考実験を試みた。/その結果として、憲法の停止と、超法規的処置による国政の掌握、新政府による懸案の果断、迅速な処理という、クーデタの実施及び政権の樹立という一案を得たものである。」
 ではその中身は如何。いまそれをくわしく紹介する余裕はないが、要点だけを二,三摘記しておくと、非議会勢力も含む党派横断的少壮政治家、若手官僚、自衛官、メディア関係者が主体となり、陸上自衛隊の一部を実行部隊として、まず金融機関、電力配電中枢、通信・情報中枢、交通機関の要所、ならびに皇居、首相官邸を中心とした、永田町、赤坂周辺を占拠したうえで、新政府の樹立を宣言する。この政府の首班として、リベラル系野党の党首を据え、非常事態宣言を布告、憲法の一年間の停止と、一年後に国民投票を実施し新政権承認の是非を問うこと、国体護持を告知し、両院の解散を行う。憲法停止にともない、国民の諸権利の制限を含む、非常事態法が発令される。そのうえで「衆参両院の全国会議員、局長以上の官僚経験者、東証一部上場企業の役員経験者は、公職及び経営から追放(パージ)され、審問を受け、刑事罰、民事罰、資格停止などの処分を受ける。」
 福田はさらに「クーデタの成否は、アメリカによる承認にかかっている」と言う。そしてつぎのように主張する。ここがこのクーデタ計画のハイライトとも言うべき部分だ。
「その場合に決め手となるのは、経済的利得であろう。〔中略〕日本がアメリカの財政再建を助けるために、向こう五年にわたって国債発行額の八割を引き受け、さらに向こう二十五年にわたって国債を売却しない、という提案を行う。さらに航空機や兵器など、高価なアメリカ製品の大量購入をも約束する。」
 何のことはない、自民党政権よりも手前どものクーデタ政権の方がお得ですよと、アメリカを説得しようというわけだ。この構図は新政権の防衛政策なるもので全面開花する。「自衛隊は国軍として改組される」「同時に核武装の準備を開始する」「日米安保の精神を最大限に尊重する」――これが防衛政策の中心だ。そして日米新安保条約を締結し、極東、太平洋西部、インド洋にまたがる地域での、直接的な軍事行使を含む緊密なアメリカとの協力関係を形成し、緊急時の基地、役務提供を約束すれば、アメリカも日本国内の基地を返してくれるだろうと、ノー天気な予測を述べている。
 要するにこのクーデタ政権は、日本を完全にアメリカの軍事体制に繰り入れることで、世界の警察官を気取るアメリカの「下っ引き」にするだけの話だ。それがアジアの民衆からどれほどのNo!をつきつけられることになるか、この従属ファシストの想像力はまったくみじめとしかいいようがない。
 先日、天野恵一とお酒を飲んでいたら、とつぜん彼が石原慎太郎の『宣戦布告「NO」と言える日本経済』を絶賛(!?)しはじめて、同席したものを驚かし、座はおおいに盛り上がったのだったが、石原が多分に昔の大アジア主義に似たところがあるとはいえ、アジアを主体にアメリカの覇権に対する抵抗を考えるのに対し、福田のクーデタ計画はお粗末の限りだった。本来なら石原の主張をならべて論じるべきだったが、スペースも大幅にオーバーした。いずれまた。
(『派兵チェック』1998年11月15日号)