未完に終わった「最後の論争」

 『埴谷雄高全集』の月報・4(一九九八年九月)に、小田切秀雄は「『死霊』――評価の基軸の問題」という短文を書いている。私の私信の引用とそれにたいする批判がその内容だが、いかにもこの一文は唐突なので、その前後を含め若干の資料的な補足をしておきたい。本来なら半世紀におよぶ小田切さんとのおつきあいのなかで明らかになった文学観の齟齬の、いわば確認ともなるべき論争のはずだったのだが、小田切さんの死によってそれは実現しなかった。いま、この未完の論争を回顧するのは小田切さんにたいする私なりの追悼でもある。
 小田切さんが「党生活者」といえば私は「蟹工船」と答え、私が小田切さんの実感主義を批判すると小田切さんは私をクリハラ社会科学氏と揶揄して切り返すというぐあいに、齟齬ははやくからあったのだったが、それはけっして不快な対立とはならずに五十年近くをすごした。とくに戦後五十年の一九九五年前後に、「戦後文学」派の「終戦」の迎え方を――ということは、「戦後文学」の出発点そのものを、再検討する必要があるという私の主張にいたく共感した小田切さんは、自身も「戦後文学の回想と検討」を一九九九年八月号から『群像』に連載し始め、その課題を共有したのである。この「論争」はこのようななかでおこったのだった。
 発端は山口健二と松田政男が出し始めた小さなアナーキズム系の雑誌『叛』の埴谷雄高追悼号に私が書いた「夢、そして革命の方へ――埴谷雄高の「小説」という装置」という文章だった。これは後に『埴谷雄高 標的者』(深夜叢書社刊)におさめられ、また私のウエッブ・サイト上で見ることができる。(http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_2/haniya/haniya.html)
「埴谷雄高にとって、小説とは現実を「写す」ことでもなければ「再現」することでもないのは明らかだ。その小説は一種の「思考実験」にほかならないが、しかしそれは現実に閉じこめられることはなくても、同時に現実と無関係に荒唐無稽のお話であるわけでもない。だから埴谷雄高の文学・思想はつねに現実と非現実という両極に引き裂く力の磁場としてしか存在しない。それはフィクションを現実をよりよく見るための装置と考える従来の小説論とは決定的に異なる。彼にとってフィクションとは、宇宙に果てがあるとしてその果ての縁にたってその向こうを覗き込むための装置とでも言おうか。従来のフィクションが現実回帰的であるのにたいし、埴谷雄高のフィクションはあくまでも現実離脱的なのである」というような一節が小田切さんを刺激したのだろうか、掲載誌を送るとすぐに全面的に反対だという手紙が来たのである。

「拝復 雑誌『叛』を落掌、ありがとうございました。しばらく前の埴谷と対談された御本はおもしろく、今回の『群像』の文の末尾で紹介したくらいですが、今回の貴論には疑問百出でした。T私流のマルクス主義的解釈Uをめぐる問題なのですが。いずれゆっくりお話できる機会をたのしみにしています。落掌のお知らせかたがたお礼まで。健筆を期待しています。(一九九七年六月一四日)」

「前略ごぶさたしていますがお元気でご活動されているのを喜んでいます。『叛』の出発もたいへん結構なことで、一年分の予約金と多少のカンパを編集部あてに送ったところです。しかしその号の貴君の埴谷論には(ここだけではないが)賛成できないところが多く、重態の肺炎からやっと直ったという状態でなければ、埴谷の作家としての想像力はおもしろいが批評がそれを論理的に裏づけすることは不可能で、現実とのつき合せ以外にいかなる評価軸も究極的にはありえない、と思っています。いずれどこかで議論するのがたのしみです。体力から当分はまだ不可能だが。お元気で。(一九九七年八月一一日)」

 これにたいして私はつぎのような返事を書いた。これが小田切さんが「月報」で引用している私信の全文である。

「お葉書をありがとうございました。ご病気だったことを知りおどろきました。きびしい暑さがつづいております。くれぐれもご自愛のうえご療養に専念してくださるよう願っております。
 お葉書と前後して山口健二から電話があり、『叛』の購読料とご寄付をいただいたと申して参りました。ありがとうございました。ただ、あの雑誌をなんの添え書きもせずにお送りしたために、私も同人に加わっていると受け取られたかとおもいますが、私はたんに一寄稿者にすぎません。山口や松田政男とのふるい付き合いから、とくに埴谷雄高論ということで寄稿をもとめられた次第です。政治的にも思想的にも、とくに「暴力」という問題を中心に、あの人たちと私とのあいだには、おおきなへだたりがあります。今後あの雑誌がどういう方向にすすむのかまだ判然としませんが、このことをぜひ念頭にとどめておいていただきたいとおもいます。
 さて、私の『叛』の文章にたいするご批判ですが、いろいろとゆっくり論じあわねばならない問題があるとおもいます。しかしさしあたり小田切さんの言われる「現実」とはどのようなものかという点にだけふれて、私の疑問を書いておきます。
「現実とのつき合わせ以外にいかなる評価軸も究極的にはありえない」と小田切さんは書いておられますが、その「現実」とはどういうものでしょうか。「観念的な産物としての作品を評価するための客観的(物質的)存在としての現実」というような芸術的反映論に小田切さんが立っておられるとは考えにくいので、それではいわゆる「生活世界」、現象学の用語で言う「レーベンスヴェルト」のようなものだろうか、あるいは、アクチュアリティーつまり世界の問題性というようなものだろうか、もしそうなら、そのアクチュアリティーじたいがすでに「現実」ではなくひとつのイデオロギーの筈だが……などと考えてしまいます。
 プロレタリア芸術論以来、「現実」という言葉でたくさんの芸術論上の問題が見過ごされ隠蔽されてしまったとおもいます。六〇年代のはじめにルカーチの『歴史と階級意識』を読んでから、私は「現実」というタームを安易に使うなと自分に言い聞かせてきました。つまりルカーチの言う「リアリテート」と「ヴィルクリッヒカイト」の相違とその相互関係という問題にこだわりつづけてきました。いま、これを哲学的に論じる余裕がありませんので、芸術論の方にひきよせる手がかりとして、ちょっと長い引用になりますが、『資本論』の「商品の物神的性格とその秘密」の節の冒頭の部分を書き写しておきます。
「商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。商品を分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとに充ちた、きわめて奇怪な物であることが分かる。それが使用価値であるかぎりでは、その諸属性によって人間の諸欲望を充たすという観点のもとでそれを考察しても、あるいは、人間の労働の生産物として初めてかかる諸属性を受け取るという観点のもとでそれを考察しても、それには何ら神秘的なところはない。人間がその活動によって、自然質料の諸形態を人間に有用なように変更するということは、感覚的に明白である。たとえば、木材で机を作れば、木材の形態は変更される。にも拘わらず、机は依然として木材であり、ありふれた感性的な物である。だが、それが商品として登場するや否や、それは、感性的で超感性的な物に転化する。それは、その足で床に立つばかりでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち、そしてその木材の頭から、机がひとりでに踊りだすという場合よりもはるかに奇妙な幻想を展開する。」
 どうもあまりに有名なところをながながと引用して気がひけますが、私はこの箇所は、芸術をかんがえるうえで多くの示唆をあたえてくれるとおもっています。芸術の役割は、机を木で作られたモノとして再確認することではなく、それが頭で立ち、ひとりでに踊りだすという場合よりも「はるかに奇妙な幻想を展開する」そのようなモノであることを発見的に描き出し、さらにこの形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとに充ちた、「きわめて奇怪な物」の背後に、マルクスが発見したように物と物の関係ではなく人と人との関係が隠されているという、人びとが自明のこととしてその存在を疑わない「現実」によって隠蔽されてしまった構造を見えるようにすること、――にあるとおもっております。「見えるようにする」というのは、もちろんそのように描くということも含みますが、主要には受け手(読者)自身の目をそのような「ものの見える目」に鍛えることだとおもいます。
 ものの見える目、つまり想像力を喚起するような作品であるかどうかが、おそらく「評価軸」であって、『死霊』を批評的に論じるとすれば、あの作品のなかで埴谷雄高の想像力がどのように働き、なぜそれを読者は「面白い」と感じるのかを明らかにすることではないでしょうか。もちろん『死霊』はひとつの世界ですから、それをいろいろな側面から論じることができます。たとえば、もっぱら女性という視角から論じることもできるし、革命という視角から論じることもできます。そのことを私はすこしも否定しません。しかしやはり問題の中心は、あの作品がどれだけ読者の目を活性化したか、したとすればそれは何故か、というところにあり、それはもっぱら作品のなかからしかあきらかにできないのではないでしょうか。
 どうも言葉足らずで分かりにくいとおもいますが、こんなところに小田切さんと私との違いがあるようにおもいました。さらに小田切さんとのあいだには、一つはプロレタリア文学の評価をめぐる問題、もう一つには「戦後」および「戦後思想」「戦後文学」をめぐる問題、でおそらく相当に大きな違いがあるようにおもいます。
 十分にご静養のうえ、さらにきびしいご批判をお聞かせいただける日をお待ちしております。
 私事にわたりますが、先日、おもに反天連の活動家が中心になって私の「古希の祝い」をやってくれました。七十歳という年を意識することはまだほとんどありませんが、しかし自分が七十歳になったのだとおもうとひどく奇妙な感じにとらわれます。ナンデモ屋で生きてきて、ふと振り返ることもありますが、いまさら何かになろうとしてももう手遅れですし、また何かになって名を残そうなどという考えは最初から絶無でしたので、まあ、このままでよしとおもっています。ただ、三十年ちかく埴谷さんから「小説を書け、小説を書け」と言いつづけられてきたのが、なんとも脅迫的に耳に残っているのと、ごく最近、ある出版社から『aala』を自分のところで再刊しないかと言われているのが、なんとなく決断の時が来ているのかなという思いを否めなくしております。そういつまでも、あれもこれもというわけにはいかないことぐらいは、自覚しておりますので。
 いろいろ書きましたが、ご病床のなかご無理をなさらずにどうぞ読み流してください。一日もはやくお元気になられることをお祈りしております。(一九九七年八月一四日)」
 
 そしてそれから一年以上の後に、小田切文の掲載された「月報」がつぎの手紙を付して送られてきたのである。
 
「前略ごぶさたしております。同封のものもっと早くお送りせねばならなかったのですが、これが出た直後に大きな骨折をして、北里研究所病院に二カ月半も入院ということになってしまいました。ようやく一応快復に向って、いまは通院なのですが、少し元気になってきました。いずれまた何かの機会に出会えるのをたのしみにしています。お丈夫で活躍してください。奥さまによろしく。(一九九八年一二月二六日)」

 私の私信を使うことに了解を求める電話で小田切さんは、この件についての自分の手紙も自由に使うことを許してくれたので、いまそれらを公表することにした。あらためてこれらの手紙を読みかえしてみると、論争云々よりも半世紀に及んだ小田切さんとの交友が凝縮しているようで感慨深い。
(『星雲』未刊)