小林よしのりの『戦争論』を眺める

 小林よしのりによると、「今やマルクス主義、反権力の真性の左翼はこの日本には極めて少数者になったはずだ。しかしその少数の『残存左翼』はじつにしぶとく執念の活動を続けている」のだそうである。そしてこの「残存左翼」に「うす甘いサヨクの市民グループ」が操られ、さらにその周りに多数の「うす甘い戦後民主主義の国民」がいて、人権・平等・自由・フェミニズム・反戦平和など戦後アメリカから入ってきた民主主義思想に毒され、日本を骨抜きにしているというわけである。
 この構図は、西尾幹二から佐伯啓思にいたる保守派がこの数年来つづけてきた「市民」攻撃をそのままなぞったにすぎない。たとえば佐伯の『「市民」とは誰か――戦後民主主義を問いなおす』の目次をみれば、「戦後思想を支配したマルクスの呪縛」だの「国家に対する義務を負わない『国民』」だの「なぜ市民が『祖国のために死ぬ』べきなのか」だの「『私』が『公』の世界を席巻する日本」だの、なんのことはない『戦争論』が三百四十八頁におよぶ大冊のなかで、壊れたレコードのように繰り返しているお題目のネタのほとんどは、すでに一年前の佐伯の本でお目にかかったものでしかない。
 しかし同時にこの『戦争論』は、右翼・保守派のなかでの重点の移動を表現していて興味深い。ここには、大東亜戦争肯定史観ともコミンテルン史観とも異なる「自由主義史観」を主張し、司馬遼太郎をかついだ初期の「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」からは大きく変質した彼らの立場が臆面もなく押し出されている。「わしは死を賭けて祖国のために戦い、子孫に多様なメッセージを残した祖父たちの功績を讃えることをまず、したい。だから大東亜戦争肯定論をあえて描いた」と言い、日露戦争以後の日本を「愚かでダメになった」と批判する司馬遼太郎を「そりゃ負けたから言ってるだけだ」と一刀両断にする。もはや「自由主義史観」などというものはないのである。それをまだあるがごとくに論じるのは、相当なアナクロニズムと言うしかない。いまや健全なナショナリズムなどというヌエ的なものではなく、「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか?」(本書の帯)なのであり、「欧米人の人種差別意識を痛打し、アジアの独立をうながし、強国が力ずくで弱い国を植民地にする帝国主義時代の幕を引いた」大東亜戦争の再評価なのである。
 いままで書き散らされてきた南京大虐殺虚構論、従軍慰安婦否定論、さまざまな謀略説、東京裁判批判などなどに戦場の「美談」と死のロマンチシズムで味付けした雑炊、ごった煮、闇汁、とでも呼ぶ以外にないこの小林の本がもっている特徴は、それがはっきりと語りかけるべき読者の像をもっていることだ。それは「あちこちがただれてくるよな平和」のなかで鬱屈している若者たちである。これは彼らを「国民」に鍛え上げるためのアジテーションでありプロパガンダだ。「わしが『祖国を守るのが市民』と言ってみると、ずざざっ、これだけで今の日本人は恐怖で顔をひきつらせる。」そのうえで、「今時、だれが戦争を望みますか……、戦争したがって過去の戦争を肯定するなんて、そんなバカがいるわけがない」「平和はしみじみありがたい。その礎となった英霊たちの勇気と誇りは未来へ語り継ぎたいだけである」。いつでも命を捧げることのできる平和国家を、というわけだ。なんだPKOの宣伝なのかい?
 ところで稀少な「残存左翼」の一人として『戦争論』のページをめくりながら、私は奇妙な既視感〔ルビ→デジャビュ〕につきまとわれたことを白状しなければならない。べつに少年の頃の戦争の日々を思い出したわけではない。戦後のことだ。自覚した先進的な集団と無自覚なその日暮らしの大衆、前衛による大衆への意識注入、アジテーション・プロパガンダ。このレーニン主義的な構図からわれわれ左翼は多くの代償を払いながらぬけだしてきた。ところがこの構図は、小林の『戦争論』において見事に復活したのである。ここには、たとえそれを批判するにせよ、「市民」がもっている「戦争はイヤだよ」という心理の深層にある歴代にわたる経験的な伝承に対面しようという姿勢は爪のアカほどもない。あるのはただ、アメリカ占領軍にマインドコントロールされ、牙を抜かれた臆病者とその末裔という低俗な像があるだけだ。
 特攻隊を賛美し、国のために死ねるかと恫喝してやまない小林が、じつは「死」についてなにほどの考えももっていないことはあきらかだ。政治家の汚職が暴露されるたびにくりかえされる彼の秘書や運転手の自殺。汚職政治家を守るために自殺した彼らの死こそ、戦後日本国家における「オオヤケ」のため、つまり国家のための死の一つの典型なのである。小林よ、君は国家のために死ねますか? 「残存左翼」の一人として言えば、ややもすればすぐに「死ぬ気になって」という気分になる自分の愚かさを克服するのに、オレには何年もの歳月が必要だったぜ。死の賛美のなかから生まれるものは、人であれ国家であれ、腐臭を放っている。
 さてそのうえで、ケンカはどうやらわが方が負けていると認めざるをえなかったというのもまた、いつわらざる読後感であった。もちろん内容についてではない。問題はもうちょっと複雑なのである。歴史修正主義者どもにたいする「聖戦」にわれわれが凱歌をあげているとき、小林の同類たちの言説は確実にジャーナリズムに浸透し、大衆をつかみはじめているのだ。これを指して、われわれは内容の勝負に勝って語りに負けていると言う人がいたら、それは間違っている。うまく語られない(伝達されない)内容などというものは、ダメなのである。そのダメなところをこけおどしの倫理主義によって誤魔化そうとする。ますますダメなのである。
(『派兵チェック』1998年8月15日号)