戦前・戦中の一柳茂次

 まず国家権力の奪取から始めるというような革命論が捨て去られてからすでに久しい。しかしどのような移行形態を構想するにせよ、「革命の中心問題は権力の問題である」という命題は、いぜん有効であることに変わりはない。そして国家権力の中枢が軍隊であるという現実もまたすこしも変わらないのである。かりに平和的な、議会を通じてのゆるやかな変革を追究すると称する立場を想定するにしても、いや、その場合にはますます、軍隊工作は革命の死活の問題となる。選挙を通じて平和裏に成立した社会主義政権が、軍隊のクーデタによって一夜のうちに崩壊し、民衆が血の海に巻きこまれたという経験は、チリのアジェンデ政権の場合に限らないのである。
 天皇制打倒が戦略的課題の中心であった戦前の日本の場合、帝国軍隊の解体、その人民軍への再編が、天皇制打倒の具体的な姿なのであった。なぜなら帝国軍隊こそ天皇制の背骨であると同時に、それを構成する兵士の圧倒的な多数は貧しい労働者・農民だったからである。軍隊工作はまず、これらの兵士たちの階級意識を喚起し、彼らを同志として組織することからはじまった。
 日本共産党が党の機関として軍事部を作ったのは一九三二年七月のことである。徴兵制度のもとで、社会主義者やアナーキストが徴兵され一兵卒となり、軍隊のなかでさまざまな抵抗や反逆がおこなわれ、その一部は計画的なものでさえあったことは事実だとしても、帝国主義戦争反対、天皇制打倒をかかげる運動が、組織的に軍隊工作を日程にあげたのはこの時を嚆矢とする。そしてまだ二十歳になったかならないかの一柳青年が、入党して最初についた部署がこの軍事部なのであった。
 浦和高校への入学から左翼グループの結成、反帝同盟への参加、共産党技術部(テク)への協力、そして入党して軍事部の活動へという経過については、本書に収められた一柳自身の回想、発言、論文のなかで、具体的かつ十分に語られているのであえて繰り返すことはやめ、その時代背景と運動の実情について簡単にふりかえっておこう。
 一柳茂次が浦和高等学校に入学したのは一九二九年四月。「うまくパスしたら運動をやろうという心づもり」で受験した彼は、入学と同時に運動に参加した。それから若干の病臥の時期はあったが、一九三二年一〇月に検挙されるまで、彼の活動はつづいたのである。
 あらためて言うまでもなくこの時代は、山東出兵から世界恐慌の波及、満州事変へという大きな時代の転換期であった。かつてない深刻な経済恐慌と農業危機は、日本資本主義の存立基盤そのものをゆるがし、天皇制権力の基礎を荒廃させた。日本の前にはこの時、この危機を革命によって切りぬけていくか、あるいは中国への侵略戦争によって反革命的に切りぬけていくかという二つの道が横たわっていたのである。
 そしてこれに対応する革命運動の側では、三・一五、四・一六の弾圧、さらに翌年の田中清玄を中心とする中央委員会の壊滅の後を受けて、モスクワから帰国した風間丈吉を中心に一九三一年一月、あたらしい中央委員会が再建された。「大衆的活動方法への転換」「党員一万人獲得」を合い言葉に、労・農運動の未曾有の高揚、インテリ層とジャーナリズムにおけるマルクス主義の流行に支えられて、この時代の党は戦前における最大の党員数(約一〇〇〇名)を獲得したのである。
 しかし、にもかかわらず、この期間、党の組織関係、資金関係、そして海外連絡のルートのすべてが、終始一貫して、中央委員の一人である警視庁のスパイM=松村こと飯塚盈延の一手に握られていたのである。風間中央委員会が二年近くも生きながらえられたのは、もっぱら権力の側の「戦術」のおかげであった。網は張られていた。党の大衆化によって党員やシンパサイザーの群が、続々とこの網のなかに「獲得」されていった。権力はもっとも効果的に網を引きあげる時期をじっと狙っていたのである。一九三二年一〇月三〇日に網はあげられた。しかもその直前には、大森銀行ギャング事件という党に決定的な打撃を与えた「事件」を演出するというおまけまでつけてMは姿を消した。
 党との関係での浦高における一柳茂次の主な任務は党資金網の責任者としての仕事だった。長谷川茂の予審調書によれば当時、浦高からは毎月二十円程度が拠出され党資金局に渡っていたようである。満州事変の直後に一柳は入党し、長谷川のもとで技術部に属した。この技術部は間もなく資金局と統合されスパイMを責任者とする「家屋資金局」が創設されるのである。この再編に合わせて、技術部から分離して軍事部が長谷川を中心につくられ一柳はそちらに移る。この軍事部創設もまたMの提案により行われた。
 ここで一つのことを強調しておかなければならない。たしかにこの時、党の中心部分はおおむねスパイMによって掌握されていたことは事実であったにしても、そのことをもって風間時代の運動を否定することはできないということである。まして大衆的分野における運動まで、あたかも権力の掌の上で踊っていたかのように言うことは誤りであるだけでなく事実にも反している。革命運動は指導部だけがおこなうのではないし指導部だけで
おこなえるものでもない。一柳茂次はつぎのように書いている。
「さまざまな戦線に、階級闘争のための組織グループが自発的に〔4字傍点〕生まれ、それらが闘いのなかで共産党との連絡を求める。このパターンは当時の共産主義運動の客観的条件の豊かさを実証する歴史的事実であるが、同時に党中央との連絡がしばしば官憲の弾圧と組織破壊に直結していたことも例証にこと欠かない。共産党は敵の攻撃の集中目標だったというだけでは説明できないところに問題があった。」(『三〇年代共産党史の一断面』)
「当時の労働者、農民、市民、学生が共産党と共産青年同盟に連絡がついてはじめて党員なり同盟員になったということと、かれらが共産主義者になったということとは別のことだ、かれらは自発的にそれぞれの条件のもとで左翼化し、組織化し、そこに「外部の組織」がくっついたのであってこの逆ではない。党組織の一部である技術部、軍事部の活動に参加した人びとについても事情は同じだ、党内の地位となんの係わりがあったろう。」(同)
 これはスパイMの直轄の部署で、文字通り身を挺してたたかった彼の真情であり、負け惜しみでもなんでもない。このような運動観は、どのような外部組織の働きかけもないところで、まず自主的なサークルの組織化からはじめた彼自身の浦高時代の経験からうまれたのである。彼には、人びとの目覚めはその人自身のなかから生まれるのであり、人びとの組織化は彼ら自身の日々の営みのなかから実現するのだという、つよい信念がある。
 一人ひとりの共産主義者がいてはじめて「党」が生まれるのであってその逆ではない。まして「党」の外にいる者を「党外大衆」などと呼んで一段低く見るような作風は、一柳のもっとも忌み嫌うところだった。
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 一柳茂次は一九三二年一〇月三〇日の一斉検挙により逮捕された。三四年四月三〇日に懲役二年、執行猶予五年の判決をうけて市ヶ谷刑務所を出所するまで、一年半を獄中で過ごした。その間、厳しい取り調べにも連絡のあった兵士の名前をいっさい出さなかったことが、彼の生涯の誇りである。しかし、いかに若年であったとはいえ、党中央部の周辺で活動していた者としては、この判決は軽いとおもわれる。おそらく運動からの離脱を表明したのではないだろうか。三四年頃の「転向」についての権力側の基準は、指導者をのぞき、そのような表明をもって転向と認める場合が多かった。
 転向の問題を単純に良心や倫理に還元することはできない。それは一柳のもっとも好む言葉を使えば「具体的状況」にかかっている。ある人物にとっての転向の評価は、その人物の全生涯を通じて、とくに戦前の共産主義者にとっては、彼が戦時中をどのように過ごしたかにかかっているのである。戦争中の一柳の生き方は、偽装転向者、本心における非転向者であった。
 出獄した一柳はすぐに大連に行くが、一年で帰ってくる。そこで何を見たかを彼は語っていないようにおもうが、想像をたくましくすれば、彼にとってとうてい許容することのできない転向者の生態を見たのではなかったろうか。転向者はこの頃から続々と「満州国」に向かったのである。
 帰国後の一柳は若干の準備期間の後に東北大学法文学部経済科に入学する。そこで内藤知周や大島清のような終生の同志と運命的に出会うのである。ここが農業理論家・一柳茂次の誕生の地であった。
 一柳の戦争中の業績については、私はわずかに彼が大学を卒業して帝国農会に入った翌一九四一年、『社会政策時報』の一月号と二月号に連載された「零細農民経済における再生産構造」と題された六十七頁におよぶ長論文を見ることができただけである。長野県農会の「過小農部落経済調査」(昭和十二年度)を細密に分析したこの労作は、日本農業の基礎構造を「半隷農的零細耕作」と「家計補充的副業」との相互依存関係として描き出した講座派とくに山田盛太郎『日本資本主義分析』の成果を継承しながら、「満州事変」以後の農業構造の変化を緻密に追い、ややもすればスタティックに図式化される講座派農業理論を、現実の生成発展の相においてとらえなおそうとした試みだと言えるとおもう。
 一柳茂次は戦後に、「戦前、伊藤律という名前を知ったのは、一九四一年太平洋戦争がおこる数ヶ月まえ、『満鉄調査月報』にのった日本農業の現状分析の筆者としてでした。共通の問題意識が読みとれるように感じたことを覚えています」(「伊藤律とT二つの道U)と述べている。「日本に於ける農家経済の最近の動向」と題された伊藤律の論文も、一九四一年八月号と九月号の二号にわたる長論文で、期せずして一柳論文と「共通の問題意識」が読みとれる力作であった。
 戦争下の徹底した思想統制のもとでこの時期に、栗原百寿の『日本農業の基礎構造』や小池基之『日本農業構造論』、山田勝次郎『米と繭の経済構造』、さらに神山茂夫の『日本農業における資本主義の発達』(非合法文書)などとともに、より若い世代に属する一柳茂次や伊藤律の、偽装されたマルクス主義的方法による日本農業の分析が遂行されていたことは、忘れられてはならない。それらの理論的蓄積が敗戦後の農民運動の隆盛をささえた一要因になったのである。「二つの道」をめぐる論争、あるいは占領軍による農地解放指令の評価をめぐる論争など、戦後の論争のすべてに、戦争中に日本の農業はどう変わったのかという問題が伏流となっていた。それは講座派農業理論の単純な復活を許さないだけの蓄積となっていたのである。
 上にあげたすべての人たちが弾圧を受け、伊藤律はゾルゲ事件がらみで逮捕され、一柳茂次は徴兵された。彼らが再会するのは、敗戦の後である。
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 私が一柳さんとはじめて会ったのは六全協の直後、私たち神山派の除名問題がまだ解決しないままに復職した私の職場、青木書店の編集部に彼が訪ねてきたときだった。それから十年後の一九六六年には、結成された共産主義労働者党の常任中央委員として毎日顔を合わせることになった。その頃のことで忘れられないのは、砂川での反基地集会のことだ。結党後、最初に参加した大衆行動だった。それまでの「総結集」では、宣言・声明がどうしたとか、新しい党を作るのに別党コースはけしからんとか、珍奇な議論に明け暮れていたので、やっと体が動かせると若い党員は解放感をもってこれに参加した。一柳さんも参加した。そして砂川から立川までの延々と続くデモ行進にも、われわれ若者(当時は私も若かったのである)の隊列に入り、くりかえされるジグザグデモにも落後せずに最後までがんばったのである。この人は若者と現場が好きだな、と私はあらためて彼にたいする親愛の感を深めたのだった。
 共労党は一柳さんの財政活動によってささえられた。戦前の党で技術部と資金局の経験を持つ彼は、どんな正しい方針も、どんな名論卓説も、物質的な支えがなければ絵に描いた餅にすぎないことを、身にしみて知っていた。せいぜい数百人の小さな組織にとって、党財政は党費と機関紙収入でというようなキレイゴトはぜったいに通用しないことも知っていた。そしてさらに、スパイMの家屋資金局がやったような詐欺、拐帯、掠奪のような方法が、いかに有害だったかも身近に見てきた。しかし同時に、法を破ることがつねに倫理的に指弾されるべきことであるかのように思っている適法主義者にたいしては、つよい憤りをもって階級的倫理の立場をゆずらないのである。一部の人がときに冷笑を込めて一柳冒険財政と呼んだ彼の財政活動は、戦前からの経験と確固とした思想がふまえられているのである。
 その彼がくりかえし思い起こした一冊の本がある。『同情者〔ルビ→シンパサイザー〕物語』という戦前に翻訳の出た革命前のボリシェヴィキーの技術・財政活動を論じた論集である。彼はこの本のなかから特にレオニード・クラシンの名前を書き留めている。クラシンは、戦前に改造文庫で出たゴーリキーの『回想』のなかに、じつに暖かく活き活きと描かれているが、革命前のボリシエヴィキーの財政活動の中心を担った人物である。彼はマルクス主義者として科学知識普及協会という啓蒙団体を主宰する一方で、ドストエフスキーにおおきな影響をあたえたニコライ・フョードロフを崇拝する神秘主義者でもあった。レーニンが死んだとき、彼も葬儀委員の一人にえらばれるが、やがて科学は死者を甦らせることができるようになると、レーニンの遺体保存をまっさきに提案したのが彼だったという説もある。つまりおもしろい人物なのである。クラシンはその人柄によって多くの人びとから愛され、彼の周りにはよろこんで非合法の党に献金する資本家が多数いたのであった。一柳さんの理想的な財政活動家の姿が、このクラシンであったことは私にはよく分かるような気がする。共労党で私は由井誓と二人で機関紙『統一』の編集を担当したが、一柳財政のもとでただの一度もお金がなくて定期発行が乱れたことはなかった。
 七〇年代に入って私は、共労党だけでなく党というものに見切りをつけた。そうなってからもときどきは神保町にあった労働運動研究所の事務所に由井君を訪ね雑談に時を過ごした。私が現れると由井君はかならずどこからか酒瓶をもってきて、「まあ一杯、えへへへ」と時間に関係なく酒盛りがはじまるのだった。ときに来合わせた一柳さんも加わった。
由井君の葬儀の時、一番死なれたくない奴に死なれちゃったなあ、と私たちは深く深く悲しんだのである。
 由井君がいなくなってからは、労研事務所を訪ねることもなく、したがって一柳さんと顔を合わせることもない日がつづいた。九〇年代のはじめのある昼下がり、神保町の街角でばったりと一柳さんに出会った。「クリちゃん、すこしはやいけど一杯やらないか」とさそわれて、ランチョンで夜になるまでビールを飲んだのが、一柳さんとゆっくり話した最後である。はじめは向きあっていたのが酔いが回ると私の横に並ぶように席を移し、肘で私の脇腹をつつきながら豪快に笑った。このときなにを話し、なにを笑い飛ばしたかはまるっきり覚えていないが、ただひとつの情景だけが鮮明である。とつぜん一柳さんは姿勢を正し声をあらためて、「私たちの世代は本当に無教養なんですよ」と言った。それを二度、三度と、くりかえした。そこには「とんでもない、一柳さんが……」というような合いの手を峻拒する厳しい表情があった。
 一柳さんと私はちょうど十五歳の年の開きがある。一柳さんから見ればその頃の私はまだ青臭い政治小僧でしかなかっただろう。その私に向って彼は、世の中にはマルクス主義のほかにも、まだまだ学ばなければならないことがたくさんあるんだよ、と教えてくれたのだったと思う。

(『一柳茂次 著作・回想』2002年12月、社会評論社刊所収)