小田切さんとの半世紀

                 

 私が駆け出しの編集者だった一九五〇年代のはじめ、仕事のひとつに「豪徳寺参り」というのがあった。その頃、小田急線豪徳寺駅から玉川電車の宮の坂駅にかけて、その沿線には何人かの作家が住んでいた。玉電の山下と宮の坂の間の踏切を豪徳寺駅の方から右に渡ると、畑の道の奥まったところに、徳永直の家があり、その踏切を渡らずに左に折れると、しばらく行った右側の材木置き場のちょうど材木の陰に中野重治の家があり、少し行って二股に分かれた右の道を行くと手塚英孝、左にまわるとじきに小田切医院の標識が現れ、その先を右にまわってしばらく行くと阿部知二の家があるというぐあいに、そこには、いずれも仕事をかかえて私が訪ねなければならない著者の家が、かたまっていたのである。
 なかでも小田切さんは気軽に企画の相談にのってくれて駆け出しの編集者である私の頼みの綱だった。だから豪徳寺参りのおりには、とくべつな用がなくても小田切宅にはかならず立ち寄ることになり、その頻度は週に一回、あるいはそれ以上にもおよんだ。小田切さんは重かった結核からの回復期で、一日の大部分をまだ寝床で過ごしていたが、私はその枕もとに座り込んで一向に腰をあげないので、いつも奥さんをはらはらさせる結果となった。
 しかし私がとくに仕事熱心だったというわけではない。私にはプロレタリア文学の研究を自分の仕事の一部にしたいという願望があって、小田切宅訪問は編集者としての仕事よりもむしろそちらの分野で教えを請うという方に、重点があったのである。
 その頃、私は神山茂夫の天皇制論に深く傾倒していて、ある日、そのときの情景はいまでも鮮明に目に浮かぶのだが、二階の書斎の床に横たわっている小田切さんを前に、生半可な天皇制論を一席弁じたうえ、厚顔にも、天皇制に反対するということがどういうことなのか、プロレタリア文学の理論家たちにはよくわかっていなかったんじゃないか、などと批判めいたことまで口走ったのである。
 若いということはやはり一つの特権なのだろうか、その青臭い政治論議を、たんに若さにたいする寛容においてではなく、文学史研究にたいする一個の批評的発言にまで高めて受け取ってくれた小田切さんの態度をおもいだすたびに、私は小田切さんの人間性にもっとも深いところでふれたという感動をいまでも覚えるのである。小田切さんは言下に「それは面白い。よしプロレタリア文学の研究会をつくろう」と答えたのだった。
 こうして、小田切進、西田勝、和泉あき、それに小田切さんと私をメンバーにして、後に日本近代文学研究所と命名した研究会が発足した。一九五二年の末のことである。私はその第一回の研究会で、プロレタリア作家同盟解散前後の時期を中心に、いくつかの問題を報告した。その報告は、小田切さんの援助によって、「社会主義リアリズム論争の背景」「ナルプ解体前後」という二篇の論文として発表する機会をあたえられ、それからずっと後に平野謙によって「神山茂夫の立場を戦後的に再現してみせたもの」「戦術論、政策論としての社会主義リアリズム論の偏向は、ここにもっともみやすいかたちで整備されている」と「評価」される破目になった。
 小田切さんは平野謙とともに戦後におけるプロレタリア文学研究のパイオニアであったが、その主張の核心は「ナップのめがねをはずせ」というところにあった。それは日本共産党を政治的に支持したナップ(全日本無産者芸術団体協議会)つまり「戦旗」派をもって、芸術的にも唯一の正統派であり、「文戦」派は、プロレタリア文学史のなかに席をもつことができず、また、ナップ以前の日本文学は克服されるべきブルジョワ文学であり、その最良の部分もせいぜい微弱な批判的リアリズムの作品にすぎないという従来のプロレタリア文学批評の立場にたいして根本的に対立しながら、プロレタリア文学の歴史を、明治の社会小説や大正期の民衆芸術、労働文学の主張などの流れの延長上に位置づけようという試みであった。このような展望のなかから、西田勝の田岡嶺雲研究をはじめ、一連の実証的な研究が生まれ、『明治叛臣伝』をはじめ大杉栄、平沢計七などの著書が、私がいた青木書店からつぎつぎに刊行された。そして、このような立場の集大成として三一書房版「日本プロレタリア文学大系」全九巻が、小田切さんを中心に編集されたのである。
 「ナップのめがねをはずせ」という小田切さんの主張に、私の天皇制論はちょうど呼応するようなかたちになった。「日本のプロレタリア文学運動は、プロレタリアートとブルジョアジーの対立に関心を集中し、広汎な人民の民主的要求にたいして運動上で密着しようとせず、天皇制にたいしてもその批判に進み出たのは『蟹工船』の小林多喜二のほかはきわめて少数であった。日本のプロレタリア文学運動は、事実上ではプロレタリア革命の展望に立った公式的な運動としての性格が強かったのである。運動を『革命的』ないし『人民的』文学運動として展開せず、もっぱら『プロレタリア』文学運動として展開したのは以上のことと関連している」という「頽廃の根源について」の一節は、そのようなものとして書かれている。
 この「頽廃の根源について」という論文は、『思想』の一九五三年九月号に発表され、それにつづく小田切さんのめざましい活躍の口火となったものであった。『近代文学』は、この論文を契機に、一年にわたるプロレタリア文学再検討の座談会を連載した。しかし他方では、翌五四年の春からはじまった日本共産党の神山茂夫除名カンパニアの余波は小田切さんの身辺にも押し寄せ、小田切は神山派だというような中傷が、あちこちでささやかれるありさまだった。しかし小田切さんはそういう中傷に毅然として対し、正真正銘の神山派であった私を研究所のメンバーとして、終始攻撃からまもってくれたのである。それだけでなく、小田切さんは、意見の相違をすぐに組織問題にして排除し裏切者扱いする共産党のやり方を痛烈に批判した「人間の信頼について」を、私が神山とともに党を除名された直後に『世界』に発表し、しかもその論を、具体的な知識人戦線のあり方、ことなった思想的立場の人間との協力の問題として積極的に提起したのであった。
 その後しばらくして私は研究所を離れたが、小田切さんとのつき合いは途絶えることがなかった。小田切さんの要請にこたえてプロレタリア文学史を法政大学で講義したこともあったが、おれには大学教師は向かないと一年でご勘弁願った。
 小田切秀雄の本領はいうまでもなく、文学史に裏付けられた批評である。かつては、中村光夫にしても本多秋五にしても平野謙にしても、文学史と批評とは車の両輪のようなものだった。ところがいまの若い批評家の批評は、作品を歴史から切り離し、作家の創作歴から切り離し、孤立したものとして論じるものが多い。構造主義ののこした荒廃である。小田切さんの批評はそれとは違うオーソドックスなものだった。しかしそれだけではない。彼の日本近代文学をたどるうえでの基本的なメルクマールは、天皇制にたいする距離であり、二葉亭いらいの日本近代文学における近代的自我の追求が、客観的に天皇制にたいする抵抗にほかならなかったことを、作品に即して明らかにしようとするこころみであった。天皇制問題は小田切文学史の核心である。
 昭和天皇の死の前後に、さまざまな形での反天皇制運動が噴出した。そしてこの頃から小田切さんはいままでになく頻繁に電話、手紙、はがきなどで、自分の意見を述べまたわたしの意見をもとめるようになった。
 私と小田切さんは十歳違いだが、私にははじめ小田切さんがひどく老成した人に見えた。運動の世界でも彼が行をともにするのは中野重治であり佐多稲子であり、自分よりも上の世代だった。それがこの頃からか、あるいはそれよりも少し前からか、「ぼくは成熟しないねー」とくりかえすようになった。成熟しないというのは年長の世代のままでヤンガージェネレーションのなかに入っていくことではない。自分自身がヤンガージェネレーションになることである。小田切さんはさまざまな運動のメディアに丹念に目を通し、購読料を払うだけでなくときどき多額のカンパを送ったりして支持を表明した。彼がそのような形で支持した運動のメディアはどのくらいあったのだろうか。わたしを通じて定期購読者になってくれた運動メディアだけでも、いま思い出すだけで五種類に達する。
 彼はそれらをたんなるカンパ、財政援助のつもりで購読したのではなかった。丹念に読んだ。おそらく彼は、長年続けてきた日共批判からはどのような可能性も生まれない、マルクス主義の人間主義的解釈によっては、マルクス主義の復権は不可能だと感じ始めていたのではないか。彼が小さな無党派の運動に共感を惜しまなかったのにはふかい根拠があると思う。
 戦後五十年ということでいろいろな問題が噴出したとき、わたしは『歴史のなかの「戦後」』というブックレットを出した。天皇の「終戦」とはいったい何だったのか、八月一五日から十月四日の治安維持法廃止の指令にいたる五十日間の日本をおおった奇妙な沈黙の意味をもっと考えようというわたしの主張に、彼はながいながい共感の電話をかけてきた。そしてもういちど「戦後文学」を考え直すという決意をのべた。その仕事は八十歳をこえる老齢にもめげず、一九九九年八月号の『群像』から「戦後文学の回想と検討」の題で連載されはじめた。そしてそれは今年の五月号の四回目をもって中絶した。まさに現役での死であった。
(『小田切秀雄全集』別巻)