天皇歌と象徴天皇制の現在

 遷都のために京都から東海道を東京に移動する乗り物のなかで、明治天皇の母親は、われわれのような裏の世界の者が表に出るとろくなことはないと言い続けたという。多木浩二の『天皇の肖像』(岩波新書)は、そのような「裏の世界の者」が絶対君主として君臨した近代日本において、天皇の肖像つまり「御真影」がはたした象徴的な役割をくわしく分析したたいへんすぐれた研究だ。つまり「見えない」天皇を民衆のなかにイメージとして存在させるための象徴的機能をはたすメディアが「御真影」にほかならなかったのである。
 明治天皇の「御真影」が実物とはかけはなれた創作物であったことは、今日ではあきらかになっているが、そのような偽物をふくむ肖像と、側近によって代筆された勅語・勅諭とが天皇と民衆のあいだに存在したわけだが、それらが天皇自身の表現行為であったなどと言うことはもちろんできない。では天皇が何を考え、何を感じていたのかを知る手がかりはまったくないのかと言えばそうではない。ここに「和歌」という伝統的な詩形式があって、これが『万葉集』いらい天皇家と深いかかわりをもちつづけて今日に至っているのである。
 したがって和歌と天皇というテーマは、近代天皇の内面を知るうえで欠くことのできないものであったにもかかわらず、従来その研究は天皇崇拝の立場からだけおこなわれてきた。だからそれらはもっぱら天皇の「叡慮」を「畏〔かしこ〕む」ことに終始した。田所泉の『昭和天皇の和歌』『歌くらべ・明治天皇と昭和天皇』(ともに創樹社刊)は、このような従来の御製謹解のたぐいとはまったくことなった立場から、天皇の「思想、意識、できることなら下意識までを……考究する」ことを意図している。多木の『天皇の肖像』とともに、表象論的な天皇研究にとって欠くことのできない労作である。
 まず和歌が近代天皇(明治、昭和そして現在の天皇)にとって、どのようなものであったかを見ておこう。天皇のことだ、どうせ誰かが代作したのだろうとか、道楽みたいなものだろうとか、そういう考えは正しくない。もちろん一部の人たちが主張するように、明治天皇が「歌聖」とよぶにふさわしいほどの歌人であったとも思えないが、しかしその作品総数九万三千三十二首というのは、半端な数字ではない。このうちもっとも収録作品の多い『新輯明治天皇御集』に収録されて公表されたのは八千九百三十六首である。作品数は宮内庁がその保管する作品原本によって公表している。
 これにたいし昭和天皇の場合は、宮内庁はその作品数さえ公表していない。およそ一万首という説があるが確定はできない。没後の一九九〇年に「宮内庁侍従職」の編纂によって刊行された『おほうなばら』には八百六十五首が収められている。しかしこの歌集には敗戦以前の作品はわずか二十五首にすぎず、終戦時の作品にも除外されたものがある。つまり政治的な配慮が色濃く見られる。田所泉はこのような現状を強く批判し、全「御製」の公開を天皇陵の発掘調査の解禁とともに天皇制の実像を明らかにするうえで不可欠の条件と指摘している。
 しかしこのようないわば検閲された作品群からでも、昭和天皇の「意識」ははっきりと見えてくるのである。和歌はすくなくとも昭和天皇までは自分の内面を表現するほとんど唯一の手段であったのであり、記者会見というような場のなかった敗戦までは、国民に語りかける唯一の通路でもあったのである。だからそこで何が表現され何が語られたかを微細に研究することは大変重要なことだ。以下の論考は、この田所の労作に依拠しながら昭和天皇と現天皇明仁および皇后美智子の歌をとおしていま天皇制に何が起こっているかを考えるひとつの手がかりを得ることを意図している。大正天皇については、三代天皇のうち歌人としての素質はもっとも高いと評価する現代歌人もいるが、この論考は天皇歌の芸術的な評価を目的とするものではないので除外する。
 そこで明治、昭和、現天皇明仁と三者の作品をくらべると、そこには明確な連続と断絶が見て取れる。あえて声調とまではいわないが、その作風において明治と昭和にはいちじるしい共通性があり、また昭和には敗戦の前と後にもほとんど断絶がない。それにくらべ明仁の作歌は前二者にくらべいちじるしい断絶がある。むしろ声調・作風においてはことなるが、皇后美智子の方が前二者に近いとさえ言える。そこで限られたスペースなのでここでは敗戦をはさんでの昭和天皇の意識の連続性という問題と、昭和天皇と現天皇明仁とのあいだの断絶、そして皇后美智子の役割という点にしぼって検討してみたい。
 明治憲法下の昭和天皇が人びとを「民」「国民」「臣民」と呼び、みずからを治者と意識したことは言うまでもない。「あらたまの年をむかへていやますは民をあはれむこころなりけり」(一九二四年歌会始「新年言志」)、まだ摂政時代の作である。「みゆきふる畑の麦生〔むぎふ〕におりたちていそしむ民をおもひこそやれ」(三七年歌会始「田家雪」)。このような「民」にたいする君主の眼差しは、戦後憲法の象徴天皇になってもいささかも変わらない。「よろこびもかなしみも民と共にして年はすぎゆきいまはななそぢ」(「七十歳になりて」、七〇年)。「喜びも悲しみも皆国民とともに過〔すぐ〕しきぬこの五十年〔いそとせ〕を」(「在位五十年」、七六年)。「国民」はいうまでもなく「くにたみ」である。田所泉は「昭和天皇は、明治期と明治天皇の意識の中ではまだ建前に過ぎなかった『一君万民』の思想を、戦前も戦後も保ちつづけていた。民をあわれむ歌、『喜びも悲しみも』の歌は、その端的な証明として読むことができる」と指摘している。
 これにたいし現天皇明仁の作には「民」も「国民」も出てこない。ひんぱんにあらわれるのは「人」「人々」である。「人々の年月〔としつき〕かけて作り来〔こ〕しなりはひの地に灰厚く積む」(「雲仙岳噴火」、九一年)。「種々〔くさぐさ〕の木々植ゑにけり人々と「二十一世紀の森」に集ひて」(「第四十九回全国植樹祭」、九八年)。「人々」は日本人に限らない。「戦ひの痛みを越えて親しみの心育てし人々を思ふ」(「英国訪問」、九八年)。ここでの「人々」は特定はされないが当然のことにイギリス人を含むだろう。
 この英国訪問は、バッキンガム宮殿に向かう天皇夫妻のパレードに、日本軍の捕虜となった旧英国兵士が抗議行動をおこない、その情景はそれを延々と放映したテレビ画面によって、なおわれわれの記憶に鮮明である。その抗議行動にたいする明仁の反応が右の歌だ。それにたいし、美智子の歌はこうである。
  語らざる悲しみもてる人あらむ母国〔ぼこく〕は青き梅実る頃
 これには「英国にて元捕虜の激しき抗議を受けし折り、かつて「虜囚」の身となりしわが国人〔くにびと〕の上もしきりに思はれて」という異例に長い詞書きが付されている。この皇后美智子の作については前にふれたことがある。(「世紀の終わりに天皇制論議の更なる深化を」、『派兵チェック』七六号、一九九九年一月一五日。 http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_6/seikinoowari.html)。そこで私はこう書いた。「このような政治的な題材を歌うことが異例なだけではない。英国の元捕虜の抗議はたちまち『わが国の戦争捕虜』へとずらされてしまう。たんにずらされるだけではない。抗議する英国の元捕虜にたいして悲しみを秘めてなお沈黙する旧日本兵(国民)というイメージが対置されるのである。そこに透けて見えるのは、空疎でワンパターンな『平和』と『謝罪』発言をくりかえす天皇とは異なる、相当にしたたかな言葉の使い手・戦略家である。」
 そこでしばらく皇后美智子の方に目を向けたい。
   聖〔ひじり〕なる帝〔みかど〕に在〔ま〕して越〔こ〕ゆるべき心の山のありと宣〔の〕らしき(「明治神宮御鎮座七十年にあたり」、九〇年)
   赤玉の緒〔お〕さへ光りて日嗣〔ひつぎ〕なる皇子〔みこ〕とし立たす春をことほぐ(「立太子礼奉祝御題 春」、九一年)
   初夏〔はつなつ〕の光の中に苗木植うるこの子供らに戦〔いくさ〕あらすな(「植樹祭」、九五年)
   海陸〔うみくが〕のいづへを知らず姿なきあまたの御霊〔みたま〕国護〔まも〕るらむ(「終戦記念日」、九六年)
 昭和天皇には、皇太子(ひのみこ)つまり明仁を歌ったものが少なくない。「すこやかに空の旅より日のみこのおり立つ姿テレビにて見し」「皇太子の契り祝ひて人びとのよろこぶさまをテレビにて見る」など。しかしその皇太子が作る歌は天皇振りというよりはどちらかというとマイホーム派に近い。そこでは妻の美智子もおなじ貌を見せる。「子供らの遊びたはむるる声のなかひときは高し母を呼ぶ吾子」(明仁、六六年)、「少年の声にものいふ子となりてほのかに土の香ももちかへる」(美智子、同)。「つぶらなるまなここらして吾子は言ふしゅろの葉の柄にとげのありしと」(明仁、七三年)、「さ庭べに夏むらくさの香りたち星やはらかに子の目におちぬ」(美智子、同)。田所泉はこれらについて、「マイホーム・パパのポーズを、次代の『国民統合の象徴』は、周到にうたいあげている。美智子妃のほうは、修練のすえ微細なものの短歌的表現が上達したが、作品はおのずから『御歌所派』とよばれるエコールへの反抗ともなっている」と書いている。
 たしかにここに見えるのは、高度成長期に入った日本の、それほど例外的でもないマイホームの情景だ。ここでは天皇も皇后も、ひたすら「豊かさ」を追い求めている中流家庭の人びとの夢を現実に演じてみせている。しかしそれは皇太子妃の時代の姿である。前に引いた皇后美智子の歌四首は、とうていマイホームにおさまるものではないし、そこに使われている語彙は天皇明仁の歌には絶えて見られない天皇神格化の言語である。明仁の歌には「人」「人々」が多いと言ったが、それと対照的に美智子の歌には「君」が圧倒的に多い。明仁が「人々」と三人称的に他者を名指すのにたいし、美智子はほとんどの場合「君」の二人称で語りかける。おびただしいなかから一例をあげれば、「いかばかり難〔かた〕かりにけむたづさへて君ら歩みし五十年〔いそとせ〕の道」(「戦後五十年遺族の上を思ひて」、九五年)。もちろんここでの「君」は敬意を含む。「おいキミ」などと言うときの君と混同してはマズイ。しかしこの頻出する「君」と、「今日わが君も御田〔みた〕にいでます」というときの「君」はもちろんまったく異なる。
 昭和天皇が戦前から一貫して自分を立憲君主と認識していたというのは、単純に自分の戦争責任を逃れるための方便とだけ見ることはできない。おそらく彼の内面では真実であっただろう。しかし天皇制という制度のなかの天皇としては、これは事実から遠いといわねばならない。制度としての天皇制の背骨はいうまでもなく、議会から独立した不可侵の統帥権を掌握する天皇を大元帥としていただく帝国軍隊であった。しかもその議会自体がけっして民主的代議制ではなく、身分制と治安維持法によって十重二十重に制約されたエセ立憲主義(Scheinkonstitutionalisumus)であったことは、すでに戦前のマルクス主義者によって明らかにされていたところだ。絶対主義的な制度のなかに生きながら立憲君主という幻想をもちつづけた、見方によっては気の毒な宿命を負わされた人物、それが彼の歌から見えてくる昭和天皇の貌である。裏の世界の者が表に出るとろくなことはないという予言は、三代にして的中した。
 昭和天皇の死によって皇位を継承した明仁には、父のように立憲君主=治者という幻想をもつ余地はない。即位に当たってくどいように国民主権の日本国憲法遵守を繰り返し誓約した明仁は、記者へのある回答のなかで、皇位継承者であったという「運命を受け入れ……皇位以外の人生や皇位にあっては享受できない自由は望んでいません」と答えている。
 天皇明仁の歌には奔放さはおろかどのような意味でも感情の流露がない。その作歌はほとんどルーティン化している。歌会始と植樹祭と豊かな海づくり大会が毎年判で押したように繰り返される。凡庸というのともちがう。父裕仁の轍を踏むことをおそれてとばかりも言えない。おそらく彼は、自分がどうして「日本国と日本国民統合の象徴」でありうるのか了解できないのだ。
 人びとが町なかの煙を見て火事を連想する、つまり煙が火事の象徴であり得るためには、煙と火事をむすびつける経験が人びとのなかに蓄積され、普遍的な記憶になっていることが前提となる。天皇明仁について、いかなる意味でも人びとは彼を象徴たらしめるだけの彼についての経験も記憶ももっていない。それは天皇家にとっても一つの危機だ。そこでこの象徴天皇という不可解な存在を天皇制の伝統的な文化の方に引き寄せ、それにつなぐことで活性化しようとしてさまざまなパフォーマンスをくりひろげているのが皇后の美智子である。彼女にはその能力がある。
 戦後国家が至るところで綻びはじめたということは、「豊かさ」の追求を基軸にした戦後的国民統合が崩壊しはじめたということだ。いままでもっぱら、平和、豊かさ、暖かさ、というようなマイホームの図柄で中流意識の統合を計ってきた支配層の天皇のイメージ操作は、いま、大きな転換点に立っている。その端的な例が今回の「日の丸・君が代法制化」であることは言うまでもない。
 これからわれわれが直面することになる改憲論議のなかで、現在の象徴天皇制をどうするかということは、支配層にとってもそう簡単に意思統一できる問題ではない。天皇制の政治的役割の強化の主張はとうぜんあるとして、たとえば福田和也のような自主防衛論者にしても、一方で子供じみたクーデタ計画などをぶちあげながら、同時に天皇については一切の国事行為から解放して京都に居を移し、伝統文化の継承者として「王朝のみやび」にいそしんでもらいたいというような主張もある。
 もちろんわれわれの立場は、いかなるかたちであれ天皇制はいらないというものだ。しかしそれは「いらない」と言えばなくなるものではない。天皇制を天皇制たらしめているもの、それを存続させているもの、それは「国民」の意識だからである。われわれにとっての改憲論議は、第九条を主軸とした平和、主権、人権の社会をいかに現実的に実現するか、そのような社会を実現するための「構成的権力」の主体をいかにして創出するか、という問題である。そこでしか象徴天皇制の憲法的な解決はありえないだろう。
(反天皇制運動連絡会パンフレット『〈アキヒト・ミチコ〉天皇制の「十年」』1999年10月31日刊所収)