瓦礫のなかから拾い上げるべき一冊の本

高山岩男著『世界史の哲学』

 「世界史の哲学に就いて私見を発表する勇気を生じ、またその義務を感ずるに至ったのは、支那事変の勃発後、日頃教室で顔を合せていた学生で、卒業後戦地に赴く人々が出てきた頃であった。彼等は支那事変の意義が何処にあるかを訊ね、それを掴えることによって戦場の覚悟への一助とするという風に見受けられた」という序文の一節は、『世界史の哲学』という本の時代性をよく語っていると同時に、その戦後の運命を予告するものでもあった。 神がかり的な聖戦思想からは距離をとりながら、理論的な歴史観によって「十五年戦争」を基礎づけ、学生たちの動員に小さくない役割を果たしたという意味で、この本とその著者の責任が問われるのは当然である。しかし有責の判決は無視あるいは抹殺を意味しないし意味させてはならない。
 死が目の前に宿命のように立ちはだかっていたあの頃の若者にとって、この本が、あるいはこの本が代表した「世界史の哲学」が、ひとつの救済であったことを、いまの人びとはなかなか理解できない。しかし戦後の進歩派が軽蔑しあるいは哀れむようには、あの若者たちは愚かではなかったし単純にだまされたのでもなかった。この問題の中心は、弾圧と転向によってマルクス主義が退場した後の歴史意識の空白を、何が埋めたのかということなのである。若者たちの現実にたいする否定の意志を、マルクス主義にかわって何が表現したのかということなのである。彼らにとって福本イズムと世界史の哲学は、十五年の歳月をへだてて等価であった。その否定性という点だけでなく、その観念的な全体性という点においても。
 冷戦という共存の時代がおわり、いま、わたしたちはふたたび世界は何処に行くのかという問いに直面している。それは二つの大戦の戦間期に世界が突きつけられた問いの復活だと言えなくもない。そして、現実にはボリシェヴィズムとファシズムと「大東亜戦争」として運動化し体制化した「新秩序建設」の試みが失敗し崩壊した瓦礫の整理さえつかないうちに、われわれはふたたびおなじ問いに直面しているのである。たんに前車の轍を踏まないためだけでなく、あたらしい活路を切り開くためにも、失敗した試みのすべてが掘り起こされ再検討されなければならない。
 もちろん高山岩男の『世界史の哲学』は、戦後の五十五年間を黙殺されつづけてきたわけではない。たとえば廣松渉による内在的な批判もすでに存在しているが、それらをふまえて、「世界史の哲学」の反欧米帝国主義の主張が、そのまま日本帝国主義のアジア侵略の擁護になったという事実こそ、いまあらためて再考されるべき主題なのである。グローバリゼーションという米国資本の世界的覇権にたいするたたかいのなかで、それを資本主義的近代の総体的な超克という方向にすすめるのか、あるいはふたたび反米ナショナリズムに依拠した日本の帝国的復活を夢みるのか、という岐路にわれわれは立っている。そのような状況のなかで、この『世界史の哲学』が、おなじ問題圏に属する座談会『世界史的立場と日本』などとともに、瓦礫のなかから拾い上げられ微細に再検討されるべき本のひとつであることは間違いない。
(『場』 No.18, 2001.05)