戦時下の抵抗について

キムチヨンミさんに答える

 わたしの片々たる「発言」にたいして長文の批判をいただき、少しばかり戸惑っています。もちろん「片々たる」というのはいい加減なとか軽いとかいう意味ではありません。座談会での主題から多少はずれたところでの断片的な発言という意味です。いまのわたしにはあなたの『水平運動史研究』という労作を正面から論じる用意はありません。ではなぜたとえ片々たる発言にせよあの本を読んでのわたしの「留保」を表明したかといえば、それはあの本が問題意識において、わたしがいままでやってきたささやかな歴史研究と強く交差するところがあったからです。そのわたしの研究とは主として一九二〇年代から三〇年代にかけてのプロレタリア文学運動史の分野です。わたしが具体的な資料をある程度網羅的にふまえて何かを言えるのは、わずかにこの小さな分野だけです。と言っても、プロレタリア文学運動は文化運動の一部であり、そのプロレタリア文化運動は革命運動の一部であり、そして当時の状況からしてそれは国際共産主義運動から大きな影響を受けていたという意味では、それらについての多少の知見を持たずにはこの小さな領域を研究することはできませんでした。あなたのわたしに対する批判は、これまでわたしがやってきたこれらの仕事を検討することなしに、(おそらくわたしの著作を一冊も読まずに)座談会
での発言だけを取り上げているので、あなたにたいするこの返事はあれらの発言が出てきた背景を理解してもらうためにも、いままでのわたしの仕事にも触れないわけにはいかないかもしれません。
 あなたは「運動と思想は歴史的具体性の中でラジカルに批判される必要があるのだ」という、あなたの『水平運動史研究』を積極的に推奨した『aala』95号のコラム「われわれの『戦後』を皮省するための強力な起爆剤」 (署名=K)の一節を肯定的に引用して、
「……というK氏のことばに、わたしは同意する。このことばどおりに、アジア丸平洋侵略という日本人のぼうだいな具体的諸事実の集積を、できるかぎり細部にいたるまで明らかにし、『歴史的具体性の中でラジカルに』、とくに日本の『作家』の侵略責任をはっきりさせる作業を、ただちにはじめてほしい」と要求し、さらにつづけて「そのような作業に具体的に着手するなら、わたしが『水平運動史研究』のための作業の過程で、野間宏のような文筆者とかれのような文筆者を肯定してきた日本のインテリにたいして感じたラジカルないきどおりを、いくらかは具体的に感じてもらえるだろう」とつけ加えています。このあなたの批判を手がかりにわたしの考えを述べるかたちで、あなたへの返答を書いていきたいと思います。(なお、コラムおよび編集後記の執筆者Kはあなたの推測通りわたしです。ここで実名を使わないのは、この雑誌の編集・制作担当者として自分の名前が繰り返し誌面に登場するのを避けるという、それだけの理由です。)
 わたしはラジカルという言葉を使うときには、「ラジカルであるとは、ものごとを根底においてつかむことだ。そして、人間にとっての根底とは、人間そのものだ」というマルクスの言葉をつねに念頭に置いています。ですからここで言っている運動や思想にたいする「ラジカルな批判」も、もちろん例外ではありません。運動や思想は人間に体現され担われています。ですからそれにたいする批判はそれを担った人間にたいする批判抜きには成り立ちません。これはあなたにとっては改めて言うも愚かなほど当然なことです。しかしかつて、運動史とは綱領や方針・決議の歴史でしかなかった時代もありました。もちろんいま問題はそこにはありません。問題、あるいはあなたとわたしの分かれ目はその先にあります。一例をあげれば、あなたは野間宏が一九四〇年に大阪市役所社会部福利課福利係員として「部落厚生皇民運動」に協力した事実を発掘し、かれがその事実を戦後も隠していただけでなく、その時期の水平運動の真の姿を歪曲して描き、戦争に積極的に協力した松本治一郎らを戦後も一貫して解放運動の指導者として賞揚しつづけたと、具体的な事実を積みあげて批判しています。これはまったく必要な作業です。事実を徹底的に集め、分析し、あきらかにすることが歴史研究の不可欠の前提であることは言うまでもありません。しかしそこで留まってしまってはそれはたんなる暴露であり告発でしかありません。それが歴史であるためには「なぜ」が解明される必要があります。
 野間宏は一九四〇年に、なぜ「部落厚生皇民運動」に「貝体的につよくかかわ」ったのか? このとき彼は天皇主義者でもなかったし右翼・軍国主義者でもなく、左翼思想の持ち主でした。その彼が、「皇民運動」にどんな可能件を認めていたのか、そしてそのような誤認はなぜ生まれたのか? これらの「なぜ」が解き明かされるべき問題です。これがわたしにとっての「ラジカルな批判」の意味です。そしてそれは「皇民運動」やこのような選択を孤立したものとしてではなく、当時の社会運動や「総力戦」下の民衆の生活や意識という「歴史的具体性」のなかに置くことで、はじめて解明できる問題です。なぜなら野間宏のような選択はこの時代の旧左翼にとって例外的なものではなく、戦争を利用して「軍事的・封建的帝国主義」を崩壊に導くといういわゆる「生産カ」理論に依拠する「抵抗」 (あなたの批判にもかかわらずやはりカッコをつけます)は、合法性をまもることで大衆との接点を確保しようとした旧左翼の多くが採用した戦略でした。この「生産力」理論については前号の座談会での討論の一テーマになっているので解説を省略しますが、より立ち入つた論究としてはわたしの 「転向論」(『現代の眼』一九七七年一二月号、『歴史の道標から』に所収)を参照して下さい。
「抵抗のための偽装が、なぜ積極的な協力になってしまったのかという問題は、たんに生産力理論だけではなく、戦争中のすべての偽装転向者がつき当たらなければならない問題であった」とわたしはその論文の中に書きました。そしてまたこんなことも書いています。――「問題はこれらすべての『事実』を明らかにし、それをつらぬく転向の論理を糾明することである。個人的な責任の追及が目的なのではなく、敗北を生んだその一歩一歩の論理の追求が問題なのである。その追求の果てに、天皇制的倫理とその対極をなす非転向の倫理を、ともに揚棄する現実的な非転向の倫理を発見しなければならない。なぜ倫理なのか。それは思想をこの日本の歴史と現実のなかで自立的に生かそうとするかぎり、その場はつねに両義的であり、そこでの思想の担い手の選択は、けっして論理だけで決定されるものではないからである。」
 自分で自分の文章を引用するのは気がひけますが、なんだ十年一日どころか二十年同じことばかり言っているのだなと笑われるのを承知であえて引用しました。そうです、「両義性」なんです。あなたは編集後記の「日本の近代史のなかには、このような両義的な場が無数にある」という一節を取りあげ、「わたしは、このことばは、日本の現在と過去の侵略という決定的な問題にたちむかうことを回避する者のことぱであるように思われる」と批判していますが、この古い文章の一節はそれにたいする答えになっていないでしょうか。多くの両義的な場があったからこそ、多くの批判的な民衆も知識人も翼賛体制のなかにからめとられ、抵抗のつもりが協力に、そして積極的な加担になっていったのでした。
 こいうことを言うと、たちまち「侵略と」いう決定的な問題にたちむかうことを回避する者のことばである」とお叱りをうけることになりそうですが、わたしは検事にたいする弁護士の役割を演じるつもりは毛頭ありませんし、まして情状酌量などを弁じているのでもありません。わたしは野間宏を弁護するつもりはないのです。ただ理解したいのです。理解することがかれの行為を「ラジカル」に批判することになると思うからです。そこでもう少しくわしく野間宏について見てみましょう。それを歴史研究の一部として、野間という歴史的人物をどのように記述すべきかという方法の問題として考えてみたいと思います。
 あなたは戦中の「部落厚生皇民運動」への加担、戦後におけるその隠蔽と部落解放同盟指導者の虚像の宣伝者として野間宏をきびしく批判しています。その批判は正当です。しかし野間宏にはそれ以前に、非合法共産主義者組織である京大ケルンの同伴者としての野間があり、また「皇民運動」への加担を経た後の一九四三年にも、治安維持法違反の嫌疑で逮捕され大阪陸軍刑務所に収監された兵士・野間宏があります。あなたはこれらをすべて無視しましたが、これらはひとつながりのことがらであり野間宏はそれらのすべてを含んではじめて野間宏であるわけです。その一部だけを指してこれが野間法だと言うことはできません。しかし同時にその一部は全体と不可分の一部でもあります。ですからわれわれは、部分を全体のなかで見る時はじめて「根底」に達することができます。
 若い野間宏が日中戦争の前夜に京大ケルンの同伴者としてどのような考えを持っていたかは、小説『暗い絵』の主人公・深見進介の形象をとおしてきわめて鮮やかに語られています。かれは氷杉英作や羽山純一や木山省吾などケルンの中心メンバーに強い近親感をもちながら、行動を共にすることができない。作者は木山たちの情勢認識を次のように書いています。――「彼は日支の衝突を日本の支配階級の最後的危機と判断し、現在は日本の『何をなすべきか』の時期であると結論したのである。そして彼は『プロレタリア革命への転化の傾向を持つブルジョア民主主義革命』の到来が二年以内に来ると考え、すべての力はその準備に充てられなければならないと考えているのである。合法主義者と云われる小泉清の一派との分裂の状態も主としてこの判断に基づくのである。」しかし深見進介はこのような彼らの行く道と自分の生きようとする道とが何処かで交叉しながらも、そして交叉するほどもっとも近づきあいながら、ついに一つに重なり合わぬというような、もどかしい痛みを感じている。そのもどかしさの原因は、かれらの選択が情勢に促迫された「仕方のない正しさ」でしかないと、かれには感じられるからです。深見進介はかれらと別れ、「仕方のない正しさではない。仕力のない正しさをもう一度真直ぐに、しゃんと直」す道を歩もうと決心します。
 そして永杉英作たちのその後について作者はつぎのように書きます。――「永杉英作は大学を卒業する間際に検挙され、非転向を声明して一年余りの獄生活の後、獄死し、羽山純一は大学を出るとすぐ出征して軍隊生活中逮捕され、飛行機で内地に送られて来たが、陸軍刑務所で獄死したのである。戦争は永杉英作、羽山純一の判断を超えて進行した。そして彼等は力尽きて倒れたのである。深見進介は、永杉英作、羽山純山、木山省吾の獄死についてはずっと後になって知った。それは彼が三年余りの兵隊生活を終えて内地に帰還してからのことである。彼もまた問もなく検挙され、転向して出獄し、生活費を得るため軍需会社に勤めたのであるが、彼等の事件を聞いた彼は、『いよいよ、やったな。』と思い、如何なる力を以てしても変えがたい彼等の意志を感じ、此の夜のことを思い起こした。彼には彼等の行動が間違いであるとは考えられなかった。しかしまた彼は、彼等の行動に深い底から、心と体をゆすられるように感じながら彼自身が間違っていたとも考えなかった。そして、彼は永杉英作、羽山純一の死を知ったとき泣いた。そして、木山省吾の死を知ったときには、すべてを失ったように慟哭したのである。」これらの作中人物にはすべて実在のモデルがあります。
『暗い絵』にはこのような政治的なモチーフだけでなく、それとからみあって「自己完
成」とか「日本人の肉体のねじれ」というようなモチーフがありますが、ここでは作品論をするわけではないので、はぶきます。まさに暗黒時代と呼ぶにふさわしい日々に、この「仕方のない正しさ」ではないそれが同時に自己の実現であるような道を、野間宏はおそらく水平社運動のなかに見出したのではないでしょうか。それは永杉たちのような弧絶したたたかいではなく民衆にいたる道であり、差別の構造を解消することによって軍事的・封建的帝国主義の杜会的基礎を解体するたたかいでもあると、講座派理論を学習した野間宏には思われたのかもしれません。言うまでもなく『暗い絵』からすっかり省かれたこの深見進介のその後の物語は、後に『青年の環』として形をとることになります。しかしなぜこの物語が『暗い絵』には片鱗も姿を現さないのか? これはわたしにはたいへん微妙な問題を含んでいるように思われます。
 ご承知の通り野間宏は敗戦の直後から小説『暗い絵』を書き始めました。それはこの小説の主人公として形象化された実在のモデルたち、――永島孝雄、布施杜生らへの顕彰と鎮魂の想いに駆られて書かれています。しかしそれには同時に、総力戦体制のなかでねじ曲げられ、ついに兵士として侵略戦争の前線に立ち、検挙されたとはいえただちに転向を声明して保釈されふたたび戦地に赴き、除隊後は軍需会社に就職しただけでなく右翼の組織に加わるまでにいたった、彼自身の「仕方のない正しさ」ではない生き方の末路についての苦い思いがその裏側にはあっただろうと思います。それが小説の時間的な流れを無視して、とつぜん永杉英作たちのその後が語られ、彼らの死を聞いて慟哭する深見進介がじつは転向を表明して軍需会社に勤めていたという事実が挿入された背景でしょう。小説はしかしそこに立ち止まらず、すぐにまたもとの時間に帰ってしまいます。野間宏はこの時、白分の歩んだ道にたいする慘憺とした思いをもっているだけで、それを総括する余裕を持っていなかったのだろうと思います。野間宏はこの時点でも永島たちの道に同調しなかった自分を正しかった(すくなくとも間違っていなかった)と考えていますが、また同時に自分の選んだ道の慘憺たる結果も身にしみていたでしょう。そしてその双方を超える第三の道があの戦争中に存在しえたかについては、まだなんの手がかりもつかんでいません。ですから『暗い絵』はまさに暗い絵なのです。
 この戦争中に自分が選んだ道を相対化して描き出すことによって、あり得たかもしれない第三の道を探究しようというのが、『青年の環』を書き始めたときの野間宏のモチーフであったと思われます。しかしこの探究はたちまち挫折し、『青年の環』はながい中絶を迎えることになります。その中断は十二年におよびました。そしてこの十二年の間に、部落解放運動と野間宏との関係は大きく変わり、彼は解放同盟の看板文化人になっていました。――こう断言するのには既発表の第一部および第二部とその書き直し稿との対比をふくむ『青年の環』全巻の読み直しが不可欠ですが、いまのわたしにはその余裕がないので、さしあたり仮説として言うことになりますが、――このことが『青年の環』の初発のモチーフを決定的に破壊した最大の原因だとわたしは考えています。
 こうして抵抗が協力に頽落していった自分の経験を描くことから野間宏は撤退し、かつての「暗い絵」はいかがわしい「明るい絵」にとって変わられました。それがいかがわしいのは、あなたが正当に指摘しているように、リアリティーを描くためにフィクションが構成されるのでなく、リアリティーを隠蔽するために虚偽がでっち上げられているからです。なぜそういうことが起こったのかつ? それは彼のなかに「重大なコンヴァージョ
ン」(本多秋五『物語戦後文学史』)がおこり、「仕方のない正しさ」を全面的に肯定し始めたことと関係があります。政治との関係でかれのポジションは百八十度転換しました。
 あなたは「野間宏が朝鮮戦争のさ中に言っていた『日本民族の苦しみ』『国民文学』『レジスタンス文学』『日本民族解放革命』『民族の再建』の分析・批判をおこなってほしい」と要望していますが、野間宏のこれらの主張は当時の日本共産党の「新綱領」――民族解放民主革命をかかげた五一年網領――への忠誠の表現に過ぎず、その民族主義的な誤りについてはすでにその当時に、野間宏の属していた『人民文学』派に対立する『新日本文学』派からきびしい批判がおこなわれ、歴史的にもすでに決着済みの問題だとわたしは思っています。問題はその後彼が「反代々木」に転じた後も、この政治との関係は基本的には変わらなかったということです。それは解放同盟との関係においても同じでした。しかも彼はここでは一つの「権威」になりさえしたのでした。
 歴史を隠蔽する力は権威主義的な組織の中でもっともつよく働きます。なぜなら歴史の真実は権威を崩壊させるからです。野間宏と『青年の環』についてわたしが言えるのはさしあたりはこんなところです。日本のAA作家会議の歴史的総括はこのような野間宏の問題とかならずしも同じではありません。AA作家会議の歴史とそれをふまえた反省をわたしは「アジア・アフリカ作家運動小史」(『歴史の道標から』に再録)という文章に書いていますが、それはあくまでわたし個人の見解です。わたしは共同性を背後に背負った発言を好みません。あなたは「日本アジア・アフリカ作家会議は、日本の『作家』たちのアジア侵略加担の諸事実を具体的に総括したことがあったのだろうか」と書いていますが、わたしは作家会議としてはそういう「総括」はしたことがなかっただろうと思います。しかし日本のAA作家運動は、堀田善衛の、アジアとくに中国を侵略した日本にたいする経験的な深い文学的思索をその出発とし、その個人的な営為を受け継ぐ人びとによってやはり個人的な営為として今日にいたったのだと思います。それは文学にたずさわる人間の集団にとってふさわしい在り方ではないでしょうか。そのような営為の継続として、一例をあげれば日本AA作家会議会員・池田浩土の「〔海外進出文学〕論・序説」(『インバクション』連載中)は書きつがれています。
 あなたは「日本の他地域・他国植民地支配に反対してたたかった日本人はいたのか。日本の台湾・朝鮮植民地支配に反対して敗北の名にあたいする敗北を経検した日本人は、ほとんどいなかったのではないか。たたかわなければ、勝利もしないし、敗北もしない」と言ってわたしの「敗北から学ぶ」という主張を批判しています。これは承服できません。あなたは植民地解放のたたかいと日本本国における帝国主義打倒の革命闘争とをすっぱりと切り離してしまっています。しかし十五年戦争のなかで軍事的・封建的帝国主義(天皇
制)の打倒なしに、どうして植民地の解放が可能だったでしょうか。もちろんこの時代の運動には多くの誤りがあったことは事実です。だからこそ「敗北から学ぶ」ことが必要なのです。たとえば「一国一党主義」というコミンテルンの組織略線もその一つでしょう。しかしこの路線の中で日本の共産主義者は在日の朝鮮人革命家と深い同志的な関係を各所に作り出すことができたのでした。プロレタリア文化運動史を研究する人間にとって、朴恩哲、金斗鎔という名を忘れることはできないし、革命運動史を研究するとき太平洋戦争の前夜に党の再建を試みて検挙され獄死した曹今同の名を神山茂夫の名とともに見逃すことはできません。
 にもかかわらず、これらの運動は徹底的に潰滅しました。獄中の者の大部分は転向し
て、獄外にあった者もいろいろの経路をたどって、総力戦体制に組み込まれていきまし
た。彼らはそのなかで自分に何ができるのかを模索しなければなりませんでした。そこであなたの言う「抵抗はかんたんなことではなかったが、民衆を侵略戦争に煽動しないでいることはできた」という問題にぶつかります。わたしはこれは、たんに沈黙を守るということではなく、いかにして総力戦体制から「逃走」するかという問題だったと思います。そしてそれに作家として成功したのは、江戸の戯作者を演じた永井荷風、江戸に「遊学」した石川淳など、ごく少数の根っからの近代主義者でした。その「逃走」がどれほどの緊張感をもっていたかは、たあとえば荷風の『断腸亭日乗』を見ればわかります。
 さて、スペースがなくなりました。まだ「主権国家」という問題が残っています。あなたはそれは侵略という事実の前では二義的な問題だと言います。わたしは違うと思います。アジアの一隅で脱亜入欧のうえヨーロッパ型の国民国家をつくるという道を選んだとき、日本のその後の運命は決まったのでした。そしてこのような道ではない、アジアとともに生きる道の探究は、その端緒の試みも含めて大アジア主義に転落し脱亜入欧の補完物になりました。われわれはまだ、このコースを断ち切っていません。それが大東亜戦争肯定論が何度でも繰り返される原因です。思想的にも実践的にもこのコースを断ち切ることが、われわれの過去を清算するための最大の課題だとわたしは信じています。
(季刊『aala』1994年冬号)