われわれにとっての「憲法論議」とは

 昨年八月の、こちら側の連戦連敗という事態を見ていると、たしかに向こう側が一方的に勝利して、彼らのいわゆる戦後国家の超克というプログラムが、着々と実現しているように見える。海外派兵の可能な「普通の国」、天皇の政治的機能の強化による国民統合、戦後民主主義の最終的な精算、それらの仕上げとしての改憲。――事態は一見、このような彼らの明確なプログラムにしたがって進行しているように見える。しかし本当にそうなのだろうか。
 この、いまわれわれの眼前で進行している事態を、もう少し違う角度から見てみよう。違う角度とは経済の方からという意味で、政治的な出来事も一度は経済の方から見るというかつては常識だった方法が、近頃はすっかり馬鹿にされ忘れ去られてしまっているのは嘆かわしいことである。そして経済の方から見た現在の日本国家は、とうてい向こう側の連戦連勝などと言えるようなものでないことは、誰の目にも明らかなのだ。九九年度末の国債発行残高は三三四兆円。地方自治体の公債をあわせると国の抱える長期債務(借金)は約六〇〇兆円だ。二〇〇〇年度末の国が抱える借金は国民一人当たり五四〇万円になる。
 総理大臣・小渕は「私は世界一の借金王」と言っているらしいが、冗談ではない。その借金は国籍を問わず、日本列島の住民みんなの肩に税金という形で転嫁されるのだ。そんなことができるのか。また政府の首脳は「深刻なのはよく分かった。どうしたらいいか教えてほしい」などと言っているらしいが、あいかわらずの公共事業中心のバラマキ予算を組んでいる。彼らのやっていることは、利権と権力に執着した「後は野となれ山となれ」というニヒリズム以外のなにものでもない。整然としたプログラムなど何もないのだ。
 日本国家の崩壊は、なにも財政に限ったことではない。選挙を回避しながらの政権党の数合わせのための離合集散は、議会代表制の機能喪失を誰の目にもあきらかにした。いまやこの国の政体を議会制民主主義だと考えるようなお人好しはいない。崩壊は治安機関にまでおよんだ。神奈川県警の一連の事件は氷山の一角に過ぎない。汚職事件は自衛隊でもおこった。そして国民教育の全般的な崩壊である。崩壊したのは「学級」だけではない。いまわれわれが目にしているのは、日本という国民国家の全般的な崩壊現象なのである。 かぞえあげればきりがないこのような崩壊現象にたいする向こう側の対応が、新ガイドライン、周辺事態法であり、盗聴法、住民基本台帳法のような一連の治安立法であり、天皇による国民統合の再構築(日の丸・君が代法制化)であり、日本をこんなにしたのは戦後憲法だ、だから「人心一新」のために憲法を変えろという改憲論である。彼等の危機意識の中心にあるのは「周辺事態」ではない。一人当たり五四〇万円の借金を背負い込まされた日本列島住民の反乱なのである。その反乱に在日米軍が要請に応じて日本列島のどこにでも鎮圧に出動できる体制の整備のための法的保証こそ、ガイドラインであり周辺事態法であり有事法制なのである。
 このなかで向こう側が中心に考えているのはいうまでもなく国民統合の再構築だ。しかし天皇を中心にそれを実現しようという彼らの思惑は成功しないだろう。もちろん彼らはこれからもあの手この手を考えてくるだろう。しかし先日の「天皇即位十年をお祝いする国民祭典」なるものが暴露したように、天皇制の大衆化にははっきりした限界があり、それはけっして若者のサブ・カルチャーにまでその触手を伸ばすことはできないということ、また天皇の再神格化を望む者も、天皇制自体が米国の国益によって生き延び、安保条約と沖縄の長期占領を貢ぎ物として保身を計った昭和天皇の所行が知られている以上、天皇とナショナリズムの間には非融和的な歴史があること、そしてなによりも、天皇主義右翼、たとえば神社本庁や日本会議がじつは理念とは遠い利権集団でしかないこと、などによって天皇中心の国民統合の道は彼らが夢見るほど簡単ではないのである。また天皇中心の国民統合という路線は夢よもう一度ということで、それによって日本の未来が見えてくるということもない。
 おそらく向こう十年ぐらいの間に「財政再建」の名のもとにおこなわれる収奪にたいし、列島住民の爆発をおさえる有効な向こう側の方策は、テンノウヘイカバンザイではなく、反米ナショナリズムだろう。経済的には円を基軸通貨とするアジア経済圏、軍事的には日本の独自の再軍備と地域的な安保体制の創設、つまりあたらしい大東亜共栄圏構想であろう。この構想にとって汚物にまみれた天皇制はむしろ邪魔なのである。天皇制を「九重の雅び」に封じ込めようという一部右派の「放言」には多少の現実味がある。
 アジア主義もナショナリズムも過去において右翼の独占物ではなかった。むしろ左翼こそが理論的にも実践的にもその推進者であったのである。安保世代が中心を占めている現在の官僚制度は、転向者・革新官僚が「新体制」(真の意味での「国家社会主義」)のプランナーとなった戦時中の状況と、似ているように私には見える。彼らが何を考え何を構想しているかは、とくに注目する必要がある。この国の政治を自民党や野合連立政権のレベルでだけ見ていると、とんでもないしっぺ返しをうけることになるだろう。
 テーマは憲法論議である。それなのになんでこんなことを長々しく書いたのか。それは改憲論が現実味を帯びてきたその現実的な背景をまず認識する必要があると考えるからだ。憲法論議は言うまでもなくこの国をどのようなものに作り替えるのかという、いわば理念についての議論が中心になるが、しかし憲法自体はあくまでも現状の確認でありその法的な規定であって、実現すべき目標をのべるものではない。憲法は理想でも綱領でもないのである。だからわれわれは向こう側が仕掛けてくる憲法論議を、憲法論議の枠から引きずり出さなければならない。もちろんその前提として、憲法論議をまず国会の外へ解放しなければならない。そして憲法論議がじつは護憲・改憲という対立ではなく、この国の改造のプログラムとそれを実現する主体の形成をめぐる対立なのだということを、明らかにしていかなければならないのである。(なお、私の憲法観については十年ほど前に「憲法のイリュージョンについて」という短文を書いた。参照いただければありがたい。)
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.30号、2000.1.20日)