「主体性」論争のなかで
「フォイエルバッハ・テーゼ」の回想

 カール・コルシュは彼の主著『マルクス主義と哲学』の新版に付した長文の序文を"Habent sua fata libelli"(書物にはそれぞれの運命がある)という言葉で書きはじめている。「フォイエルバッハ・テーゼ」を一冊の本と言うことはできないにしても、この「テーゼ」の紹介からその解釈をめぐる論議は一つの運命とよぶにふさわしく、それは日本における唯物論哲学の歴史総体の中心に位置しつづけたといっても過言ではない。
 福本和夫によるマルクス主義の哲学的な基礎づけが人びとの関心の的になったとき、かれがその論文にくり返し引用して「主体」について「テオリアとプラクシス」について論じたのもこの「テーゼ」を基軸にしてであったし、それにつづく三木清のマルクス主義の人間学的な再構成の試みを導いたのもこの「テーゼ」を念頭においてのフォイエルバッハの読み直しをつうじてであった。それから数年の後、運動の後退期に福本と三木への批判に立って、加藤正がミーチン的ロシア・マルクス主義の制覇に果敢にたたかいをいどんだのも、この「テーゼ」の理解を巡る論争においてであった。そして福本はコミンテルンによって批判されて舞台を去り、三木は観念論的偏向と断定されてプロレタリア科学研究所唯物弁証法研究会の責任者と機関誌編集長の地位を追われ、加藤正は唯物論研究会の会合で正式に誤謬と判定された。まことに「フォイエルバッハ・テーゼ」を論じた人びとの著作にもそれぞれの運命があったのである。
 コルシュはこれを自分の本について言っているのだが、読む側にとってもまた本は時に運命的な出会いをすることがあるし、また運命的な状況のなかで特別な意味をもってくる本もある。佐野文夫がヘルマン・ドゥンカー版から訳した戦前の岩波文庫版『フォイエルバッハ論』をわたしは戦争の末期に手にいれて愛蔵したが、その巻末の付録「フォイエルバッハ論綱」が、とくべつな意味をもって議論の中心に登場するのは、敗戦直後のいわゆる「主体性論争」の渦中においてだった。
 半世紀たってやっと見えはじめたものもあるし、半世紀のうちにさっぱりと忘れ去られたものもあるが、あの敗戦直後の「主体性論争」も、おそらくこれに属するだろう。そのなかでの「フォイエルバッハ・テーゼ」をめぐる熱っぽい論議も、こんにちでは忘却の彼方にあるだろうし、ましてその論議の熱っぽさを想像することはむずかしい。
 なぜ、あの論議はあんなに熱っぽかったのかといまから振り返ってみると、それは間違いなくそれぞれの主張がそれぞれの論者の個人的な体験に深くかかわっていたからである。その個人的な体験とは、あの戦争中をどうやって生きてきたのかというそのひと個人の戦争体験にほかならなかった。階級あるいは党という観念的な普遍性に解消できないあくまでも「個」としての体験にこだわることを通じて、「主体性」の主張者たちは戦前のマルクス主義の無批判的な復活につよく抗ったのである。
 文学においても哲学においても、かれらに共通するのは日本のマルクス主義(者)は戦争を通じて試されたのであり、その試練の総括ぬきに戦前のマルクス主義を復活させてはならないという立場であった。かれらは文学においても哲学においても「戦後派」を形成した。つまり「戦後派」とは戦争体験派だったのである。そしてその戦争体験とはあくまでも「個」としての体験であり、戦争という「必然」のなかでいかに個としての「自由」を実現するかという課題に、日本のマルクス主義は答えられなかったという体験をその中心にふくんでいた。
 たとえば戦争中に書きあげられ戦後にはじめて刊行された『「戦争と平和」論』のなかで本多秋五は、トルストイの『戦争と平和』中のボロジノの会戦を自由と必然のたたかいとして論じている。本多秋五には軍事的・半封建的云々という日本資本主義の性格についての認識や、その構造的な必然としてのアジアへの侵略戦争という認識も十分にあっただろう。しかしこの必然性を生みだしている構造を変革する革命運動が敗北した後に、ひとびとは武装解除されたまま現実化した戦争という必然のなかに呑みこまれたのである。そこではもはや、自由とは必然の認識であるというような一般論では間尺にあわない、そのひと固有の自由が問題なのだった。そしてこのような個的な、あるいは実存的な自由については、戦前のマルクス主義、とくにミーチン流の「レーニン的段階」化したマルクス主義はなにも答えなかった。
 敗戦直後の主体性論が哲学者からではなく文学批評の側から強力に主張されることになったのは、このような状態のもとでは当然だったと言える。しかしそこに弱点もうまれたのだった。マルクス主義の客観主義的な理解に対置されたのは、実感の尊重であり自我=主体性の確立という一種の人間主義だったのである。明治維新から七十年あまりしかたたず、しかも主要な都市のほとんどが廃墟となった日本で、もういちど本当の近代を作ろうという志向が力をえたのは理解できないことではないが、日中戦争以後、日本の近代はどん詰まりにきたという認識は、左翼・右翼をとわず共通していたのである。敗戦によって、かつての「近代の超克」論者がこぞって民主主義者に変貌したとき、戦時中に「すでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれたやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」はいないのである。)」と、もっとも「フォイエルバッハ・テーゼ」的な人間観を披瀝していた花田清輝だけが、いぜんとして近代の人間主義の批判者として戦後の前衛芸術運動のイデオローグたりえたのであった。
 哲学的な主体性論が登場するのは、文学的な主体性論より一年の後だったが、田中吉六、武谷三男、三浦つとむらを起用した花田清輝の雑誌『綜合文化』をのぞいては、不思議なことに哲学者からの文学者への呼びかけも、文学者からのそちらへのアプローチもほとんどなかったように思う。哲学的な主体性論の第一声であった「唯物論と人間」において、梅本克己がマルクス主義に残っている「空隙」についてのべたとき、その問題意識は本多秋五がかれの自由と必然論で体験的に語った問題とほとんど重なっていた。しかし両者の間に交流も討論もうまれなかった。「理論」にひきまわされたプロレタリア文学運動の記憶が、「近代文学」派の文学者たちを理屈嫌いにしていたのかもしれない。
「フォイエルバッハ・テーゼ」の解釈史をたどる余裕もその能力も私にはないが、いまふりかえってみてはっきり言えるのは、ヘーゲル左派はもちろんフォイエルバッハもシュティルナーもろくに読まずに論じられた結果の弱点である。良知力や廣松渉によるヘーゲル左派の研究やその文献が翻訳・紹介されるのは一九七〇年代に入ってからである。その結果、私たちは科学主義にたいする人間主義という図式におちこみ、アルチュセールや廣松が主張した認識論的切断やマルクス主義の地平について、本来「テーゼ」がもっている意味を十分に読みえなかったと思う。
 しかしそれにもかかわらず、私にはこれらの議論がなつかしい。戦前の福本和夫、三木清、加藤正、戦後の梅本克己、田中吉六、三浦つとむ、梯明秀、黒田寛一……と、「フォイエルバッハ・テーゼ」とそれに触発された「主体的」唯物論の担い手たちは、もちろんその間に多くの対立を含み、また事実、仲間の間での論争も熾烈をきわめたのだったが、そこにはひとつの目立った特徴があった。それは彼らの発言のすべてが、彼ら自身の経験にふかく根ざしていたということである。経験(対自化された実践)に根ざした理論だけが人をとらえるという教訓は、わたしが戦後の主体性論争から学んだ最大の教訓であり、それはまた「フォイエルバッハ・テーゼ」の真髄だと信じている。
(『情況』2001年7月号)