いま「大衆」について考える

 党派の時代はまた大衆の時代でもあったので、「党」のあるところつねに「大衆」が問題になった。党と大衆団体、党員と非党員大衆、党派性と大衆性というぐあいに、これは対概念をなしていたのである。大衆はときに党によって指導されるべき愚昧な集団であり、またときに党員にとって惜しみなき献身の対象とされた。つまり党の都合によって大衆は上げたり下げたりされるわけだが、どんなときも党は大衆の「半歩前」を歩む英明な集団であった。このさい半歩前というのが重要であって、党は半歩どころか十歩も百歩も前に行くことができるのだが、そこはぐっとこらえて大衆を置き去りにしないように、半歩前にいるのが大切だとスターリンは言った。
 ふざけるんじゃないよ、という声があがったのは六〇年安保闘争の渦中からである。記念碑的な論集である『民主主義の神話』(1960年10月、現代思潮社刊)におさめられた「定形の超克」のなかで谷川雁は、反パルタイ・反イデオロギーとしてあらわれてくる大衆の自立運動を促進し、そこに行動的な世界を形成させるために、党派的契機ではなく、解党的契機によって結合する反パルタイ連合の形成を提唱した。ここでパルタイと名指されているものは、ヨヨギ共産党だけでなく党派的なものすべてを指していることは言うまでもない。そしてその先に、パルタイ的集中点として「今日のパルタイ概念とは縁もゆかりもない反パルタイ的パルタイ」がもとめられるようになるだろうと予言している。なんとなく「無党派の党派性」とかいうことばを思い出したりするね。
 おなじ本の中では、これはほとんど時代の象徴的な表現とさえなった「擬制の終焉」という吉本隆明の論文が名高いが、こんにち運動論的な立場から見れば、この谷川の論文にはおおくの貴重な示唆がふくまれている。
 六〇年安保闘争は党―大衆図式の崩壊のはじまりであり、それにつづく60年代全般の経験をとおしてわれわれが無党の運動へと転身し始めたその出発点となったできごとであった。それが転機であり出発点であった以上、まだ「反パルタイ的パルタイ」とか「真制の前衛」(吉本隆明)というような両義的な概念でしか方向は語られていないが、しかしここにはまちがいなく今日に通じる問題が提起されていたのである。
 今日では、無党派であることはごくあたりまえのことのように考えられている。党派に属することの方が異常であるように受け取られている。そしてそうなったことには歴史的な根拠があると私はおもう。その歴史的な根拠とは、主として国家・支配体制の構造的な変容である。私がここでとくに強調しておきたいことは、党派ははじめからバツ、無党派ははじめからマルというように、歴史的にではなく原理的にこの問題を片づけてはならないということだ。もちろん「党」には原理的に否定されなければならない理念も含まれていることは言うまでもない。しかしそれがわれわれに明らかになったのは、膨大な犠牲者をふくむ大衆の経験によってである。その経験から私たちは十二分に学ばなければならない。なぜなら無党派の運動は、まだなにほどの実績も持っていないので、その将来において党がたどったと同じような否定的な存在にそれが転化してしまわないという保証などどこにもないのである。民主主義の問題にしても、直接民主主義というすばらしい組織原則が現実的にはひとりの指導者の独裁になってしまうという逆説がここでおこらないという保証もないのである。
 ところで私がいま考えていることは、党―大衆図式が崩壊したあとで、大衆はどこに行ってしまったのかということだ。「大衆の原像」によって前衛党神話を解体した吉本隆明は、「マス・イメージ論」をへて高度成長下の大衆の全面肯定にいたった。そしてそれはバブルの崩壊で歴史的サイクルを終わった。吉本の場合、大衆は党を乗り越え自立し、自分がすべてを決定するわけだから、そこには党も運動も存在しない。あるのは大衆の欲望だけだ。それは崩れた。そして高度成長・大衆消費社会の幻影が崩れた後にはおおきな空洞が残っている。一人一人の大衆の胸にもぽっかりと空洞がある。
 もちろん決定するのは大衆である。党でも活動家でもない。それを十回も確認したうえで、無党派の運動にとって大衆とは何かを考えよう。「私たちが大衆だ」という主張は謙虚のようでほんとうのところ誠実でない。われわれは少数派で十分だという考えは、責任の放棄になりかねない。

(『反天皇制運動じゃ〜なる』1999年4月13日号)