反戦運動は今も昔もデモから始まる

(聞き手=桜井大子)

桜井 昨日(三月二〇日)、とうとうアメリカ・イギリスによるイラク攻撃が始まりました。開戦へのカウントダウンが始まる前から、日本でも反戦の集会やデモはそれなりにずっと続いていましたが、世界の動きに比べると決して大きなものとは言えなかったと思います。でも、ここにきて「突然に」というくらい、大きく膨れあがりました。
 開戦翌日にあたる今日も、芝公園でWorld Peace Now(以下、WPN)主催の集会が開催されました。私は、昨年から準備されていた「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会主催の集会があったので行ってません。栗原さんはこの集会とデモに参加され、その後こちらに合流されたわけですけど、どうも、お疲れさまでした。
 ところで、昨年くらいから、Chanceなどの若い人たちと、いわゆるオールド左翼と言われる人たちが一緒になって、大きなイベントのような集会が作りだされています。一つ前の大きな集会は三月八日で、この日も栗原さんは参加され、私も会場で合流しました。この日は、これまでで一番大きな集まりとなり、主催者発表四万人ということでした。
 今日の集会とデモはどうだったんですか?
栗原 八日の四万人に比べれば今日は多少すくなかったと思いますね。万単位であることはまちがいないと思うけど(主催者発表は五万人!?)。
桜井 やっぱりそれなりにたくさんの人が集まったんですね。
 この大きな集まりの作り方やありかたなどについて、私もそうですが、反天連や私が関わる実行委員会など、これまで運動をつづけてきた少なくない人たちが、どうやら大きな転換点が来ているのではないかと感じているわけです。このことについてはきちんと考えていく必要があるだろうと思っています。
 だから、五〇年・六〇年安保闘争やベ平連など、長く反戦・平和運動に関わってこられた栗原さんに、いまの反戦運動について少しお話をうかがってみたいと思っています。
 ずいぶん前ですが、『革命幻談・つい昨日の話』(聞き手:池田浩士・天野恵一、社会評論社、一九九〇年)という聞き書き本を出されましたね。大急ぎで読み直しましたけど(笑)、その中で、現在の運動に対比させながら聞き直してみたいと思う話がいくつかありました。一つは「安保闘争とはデモだった」というやつです。
 たとえば、栗原さんよりも年長の福富節男さんも、ずっとデモにこだわってらっしゃいます。そして現在も、「パレード」「ピースウォーク」と表現は変わっていますが、みんなで連れ立って歩いて意思表示している。今もやっぱり反戦運動の表現はデモだ、て感じはしています。
 ですけど、根本的なところで変わってきているという実感を持つ人が少なくないのも事実です。そのあたりから栗原さんが考えられているところを少し聞かせてください。

■動員型から参加型へのデモの転換
栗原 「安保闘争とはデモだった」というのは、ぼくの体験的な話であってね。運動について主体的に考えはじめたのは安保闘争のデモのなかでだったんです。意思表示としてのデモの形態や意味が、六〇年安保闘争を境に大きく変わってきたという実感をぼくはもっています。ひとくちで言うと、動員型から参加型への転換ということです。
 六〇年安保のときのデモは、ほとんどが組織動員なんです。組合が中心で、組合が日当動員するわけ。今もそれはあるけど、当時のその動員力はものすごく大きかった。もう一つの主体としては学生がいた。全学連です。全学連の場合、主流派の全学連と反主流派の全学連とあって、いずれも動員を競ったわけです。どっちにも属さないで参加する学生というのはなかったわけね。自分の大学の自治会がどちらの全学連に属すかによって、自動的に参加するデモの隊列が決まってしまうというかたちですね。
 まだ市民団体というのはほとんどなくて、たとえば小林とみさんたちの「声なき声の会」のようなのがごく少数で参加していた、というのが六〇年安保闘争です。
 六〇年代の中頃から始まったベトナム反戦の運動は、やはり基本的なところでは組織動員ですけど、これは労働者よりも党派が中心になって動員していった。もちろん、労働者も参加していたけれども、学生部隊が前面に出ていったんですね。そのなかでベ平連とか、労働者では反戦青年委員会というのが生まれてきた。学生では自治会に関係なく全共闘という形が生まれた。これは自分の所属や職場に制約されない自立した個人の自発性に根拠を置いた参加の形態です。
 そこにはやっぱり、反安保闘争が始まった五〇年代末とベトナム反戦闘争が盛り上がった六〇年代半ば以降の日本社会の違いがハッキリ出ているわけですよ。
桜井 日本社会の違い、ですか?
栗原 そう、つまり高度成長期に入ったということです。わずか五〜六年の違いだけど、東京オリンピックをはさんで日本社会は大きく変わったんです。
 そこで「市民」というのが出てくるわけ。ベ平連のデモに参加した「市民」というのはね、実は労働者だったり、サラリーマンだったり学生だったり主婦だったりで、いままでの運動のスタイルで言えばそれぞれの職場の組合や自治会やいわゆる民主団体によって動員されていた人たちです。六〇年代の運動組織は共産党系と社会党系に系列化してしまっていて、自治会も代々木系と反代々木系に系列化していて、そういう枠のなかでは自分の意思決定の自由が制約されてしまって納得できないと感じている人たちがベ平連に集まってきたわけですね。
 これは小倉利丸さんが『支配の「経済学」』(れんが書房新社刊)という本のなかで詳しく分析しているんですが、資本の管理が職場中心から余暇を含む全生活的なものに変わってきた。それが高度情報化社会の実態です。そうするとそういう管理に反抗する人たちが当然生まれてくる。そういう人たちを仮に「市民」とよんだわけです。いまはやりのアントニオ・ネグリの用語を使えば「マルチチュード」とでも言うんでしょうか。権力や資本の管理だけでなく、それに対抗する運動組織の管理にもNOと言う人たちです。あらゆる管理にたいする反抗が反戦運動のもっとも根底にある精神として浮上するんです。
 ベ平連の最初は「ベトナムに平和を 市民文化団体連合」なんです。それが「市民連合」になっていった。それはいま考えると大きな転換です。はじめは団体の共闘組織だったんです。それが急速に団体の枠をとっぱらって、あくまでも個人参加の運動に転換していった。つまり、所属している組合とか、あるいは団体とか、そういう枠を取り払って、そこから出てきた個人を「市民」と呼んだわけ。だから、ベ平連の運動には労働者もいたし、学生もいたし、働いている女性も家庭の女性もたくさんいた。そしてみんな個人として平等の資格で参加してたんですね。それが反戦闘争の一つの新しい転機だった。この転換は決定的でした。その頃、わたしたちは「ベ平連は組織ではなく運動である」という自己規定を共有しました。これも現在に生かしたい考えですね。
 現在の反戦闘争の主流は、かつて「市民」と呼ばれたのと同じような人たちの運動です。そのことは素晴らしいことなんだけど、デモのなかにいてぼくは、ああ、もういちど一からやりなおさなければならないのかな、という思いを禁じ得なかったですね。
桜井 そこのあたりがとても聞きたいところですね。
栗原 そこのところはなかなか複雑でね、一口では言えないし一口で言うと誤解されかねないんだけど、あえて言えば数にたいする信仰みたいなものが暗黙のうちに支配しているんじゃないかという違和感です。六〇年安保闘争では、共産党も社会党もいわゆる幅広路線で、デモも徹底的に統制しました。「整然と、整然と」「挑発に乗るな」というのが彼らがつねにくりかえした呼びかけでした。それにたいして反代々木系の党派や学生たちは、一種の実力闘争、激突主義で、それによって敵権力を大衆の前に浮かび上がらせるという戦術を対置したんです。彼らの闘争がなかったら安保闘争は何回か繰り返される議会請願デモで終わってしまったとおもいます。モデレートな合法主義的な運動形態だけが広範な大衆の支持を得ることができるというのは、一種の幻想です。現在の反戦運動に、もういちど安保全学連やベトナム反戦での一種の実力闘争路線を復活させろなどというつもりはもちろんまったくありませんが。

■肉体感覚としてのデモ
桜井 栗原さんはこの本のなかで、「六〇年安保闘争をあれだけ民衆的な規模にひろげた思想的な背景は、やはり平和と民主主義だと思います」と語られてますよね。いま栗原さんが話されたベ平連時代と今のデモ参加者の類似点や相違点については、この栗原さんの六〇年安保闘争への指摘と関わってきますか?
栗原 関わってきますね。でも、今の話は、もう少し抽象的なレベルで考えてみた方がわかりやすいと思う。
 六〇年安保までの運動は、理論やイデオロギーがあってそれに賛成する人が集まるというタイプの運動だったんですよ。だからイデオロギーの違いが表面化するとたちまち組織と運動は分裂してしまう。典型的なのが原水禁運動ですね。鶴見俊輔さんが、敵は誰かという議論からはじめてはいけない。運動をやっているうちに敵は出てくるんだ、と言いました。これは名言でしたね。もちろん一人ひとりは敵についてのイメージは持っている。しかしそこから運動をつくらない、ということです。
 そういう思想の共通性で運動を作るのではなくて、「こういうのはイヤだ」という、ある感覚みたいなもの、そういう感覚を共有している人が集まったのがベ平連です。六〇年安保当時は、学生を除いて、ほとんどが戦争体験がある人たちだから、もう二度と戦争はイヤだというのが基本になった。だから、基本は戦後民主主義です。ベトナム反戦のなかで戦後民主主義は批判の対象になりますが、最初にベ平連運動に集まってきた人たちは、やはり戦後民主主義、戦争被害者の平和主義だったとおもいます。ぼくはあの本のなかで、ベ平連の最初のデモで歌われた「橋のたもとで暮らす人、きれいな丘の上で暮らす人、でも平和のまんなかで暮らすのが、それが一番だ」という歌を紹介しましたが、まさにこれがベ平連の出発点だったんですね。もちろんそれに違和感をもった人、反撥した人もいました。しかしそれをストレートに思想問題にしない、政治路線の問題にしないで、いま言った「イヤだ」という感覚で包み込みながら毎月一回のデモをつづけていったわけです。
 組織はなかなか変化しませんが、運動は継続していくとかならずラジカルになるんです。それは過激になるという意味ではなくて根底的になるという意味です。認識においても行動形態においても、ラジカルになるんです。それは参加者一人ひとりの経験の蓄積がそうさせるんです。毎月一回のデモを積み重ねることによって、参加者は経験を共有していったんですね。ベ平連はその過程で変わりました。たとえばそのなかで被害者意識だけでなく加害者としての日本と日本人という問題も浮かび上がりました。ただ平和が一番だというのではなく、平和は創り出さなければならないという考え、そのためには社会の根本的な変化が必要だというところまで、その平和主義を深めました。まあ、ベ平連らしく「ファンダメンタル・ソーシャル・チェンジ」なんていう英語を使いましたけどね。
 しかしベ平連は変わったけど分裂しなかったんです。平和が一番だという人たちも最後まで行動を共にした。何がそれを可能にしたかと言えば、それはおたがいに違いを許容し尊重するという多元主義の原理です。しかもそれは原理としてまずあったのではなくて、デモ参加者の多様性が生み出した運動の原則だったんです。そういう意味でこれは経験則のようなものです。一緒に歩くというのはすごく大切なんですよ。生活も思想も違う人たちが、お互いに干渉しない。俺の思想の方がおまえのより正しいとか、そういうようなことは一切、ベ平連の中では言わない。そこにあるのは「イヤだ」という共通の感覚なんです。そしてデモのなかで人びとはいろんな体験をし、いろいろなことを考える。その考えはあくまでも経験に根ざしている。ベ平連はけっして無思想ではなかった。デモというのは肉体感覚なんですよ。その肉体感覚をとおして、自分自身の体験をもとに、みんな考える人になっていったんです。
桜井 それはよくわかるような気がします。
栗原 そうですか。肉体感覚を共有するということはすごく重要なことなんです。緩やかな意思表示しかしたくないという人、片方ではジグザクデモくらいやりたいという人が一緒に、まずゆるやかなところで始めるわけですよ。そこで、ある種の肉体的な感覚を共有していく。たとえば、そういうゆるやかなデモでも警官に規制されるわけだね。そういう対権力を経験していく。その経験を、デモという行為を通じて共有するということが、ベ平連を作ったんですね。運動にとって、どのようにしてそういう経験を共有する場をつくるかということが大事なんです。
桜井 いま、栗原さんと一緒に歩いた三月八日のデモを思い出していたんですけど、私たちが歩いた隊列というかグループは、ちょっとしょぼい感じでした。あれくらい主催者に放任された形で、ぶつ切りにされたデモ隊がいくつも連なっていると、その一つひとつは、そのなかで最初に声をあげた人たちによって、そこの雰囲気がある程度作られちゃうわけですよね。私たちがいたところで最初に声をあげた人たちは「戦争反対」を連呼するやり方でした。そこに共鳴できるかどうか、一緒に声をあげたくなるかどうかというところで、私はこの前のデモはちょっと欲求不満だったわけです。さきに声をあげればよかったって。
 ただ、ほかのグループではおもしろく歩いている人たちや、アピールしてるなって感じさせるデモ隊もたくさんあった。そういう意味では、初めてでも何でも、たまたまおもしろいデモ隊に入ったり、対権力というところに自分がいることを認識せざるを得ない場面に遭遇したりすると、その場を仕切っている人に共鳴した人たちはそれを受け継いでいくのではないかしら。
栗原 ものすごく具体的な話になるけどさ、あの時は四万人のデモを三〇〇人づつに区切ってたわけね。そうすると、どの隊列に入るかっていうのは偶然みたいなところが多いわけです。組織で隊列をつくるのでなけば。それで、二回目の時、たとえば今日の芝公園で、同じ人が同じ隊列をつくることができたかというと、できていない。そうすると、最初のこの三〇〇人が経験したことがその時には活かせないんですよ。そこがね、この形態のデモの一番問題なところだと思うの。
 やっぱりね、たとえば反天連とか派兵チェックとか、そういうところが、納得のいく隊列を、賛成する人は誰でも入れるという形であの中に作るべきなんですよ。そこで、デモの形態もみんなで決めていく。
桜井 それで思い出しましたが、三月一五日にも原宿で集会があって渋谷一週のデモがありました。デモは二〇〇〇人くらいということで、やはり二〜三〇〇人ずつに分けられました。その時は八日の反省もあって、最初に私がコールを始めたんです。でもね、それはその場の雰囲気からすれば旧態依然としたもので(笑)、スローガンも、そこにいた私たち以外の人が共鳴するかどうかというと、よくわからないわけですね。でも、そこにいる人たちは私の大きな声を負かすだけのことを始めないと、沈黙するか私たちと一緒に声をあげるしかない(笑)。あえて違うことをやり始める人は出てこなくて、良かったのか悪かったのか。ただ、たとえば「戦争協力するな、自衛隊を出すな」とか声をあげていると、「金も出すな」も入れろとか、「日本政府はアメリカと手を切れ」も入れろとか言ってくる人がいた。あらかじめ作ったスローガンをスピーカーから流してやる時にはできないことですよね。それはけっこうおもしろいことでした。
 栗原さんが言われた、そこで共有したものを次のデモで活かすというところでは、たとえばこのスローガンも入れろ!とここで声をあげた人や、その場をおもしろいと感じた人は、別のところでは自分でやるんじゃないか、と私は思うわけです。ただ、これがデモの持続性に繋がるかどうかとなると、問題はまた少し違うところにあるように思います。
 デモをどのようにつくり出していくかという、呼びかける側に関わる話だと思うのですが、そのあたりはどうですか。
栗原 デモは多様であるべきだ。さまざまな形態のデモがあるだけでなく、一つのデモ隊のなかにも多様な意思表示の形態があった方がいい。それをひとつに統制してしまうのは最低だね。デモは、それをつくった人の思惑をまったく越えてしまうのね、あっという間に。それがデモなんですよ。そこをいいたいわけです。ある意味で小さい運動をたくさんつくる必要があるんです。

■デモのなかで反戦も民主主義も考えるのだ
桜井 今のデモに集まっている人たちが「戦争はイヤだ」という感覚で動いているということについてですが、思想的な背景というところではどうですか。
栗原 当然ながら思想はそれぞれに持っていると思う。いまも言ったように、参加している人はデモのなかで考えるんですよ。「平和」とはどういうことなのか、「戦争に反対する」というのはどういうことなのか。こんなふうに歩いてて、それができるのかとか、一人ひとりが歩きながら考えるわけ。それが重要なんでね、組織する人間が「われわれはこういう立場でやります」とかさ、そういうのはやっぱりダメだと思う。
 その点でいうと、このかんの行動ではデモという言葉が使われないでしょう。もっぱらパレードと言う。これにはぼくはとても違和感があります。新聞やテレビはもっぱらデモと呼んでいる。そのほうがはるかに正確なんです。なぜならデモンストレーションというのは、示威行動ですよね。それは、われわれが主権者なんだという意思表示です。そのところをぼやかしてはならない。
 たとえばデモ規制にたいする態度にも違和感がありますね。規制に対しては闘わなきゃ。「平和に平和に」「非暴力で」って呼びかけるでしょ。ある人たちは「平和に」ということが、いつも規制の枠内でしかやってはいけないということだと思ってるんだな。
 そうじゃないと思うんですよ。あるところでは法を破る。破る権利があるんだから、われわれには。「悪法は法にあらず」というのは民主主義の基本です。まして違法にかけられる規制には断固として抵抗する。たとえば道路交通法をデモの規制に使う。それは法の悪用です。五列縦隊のデモなんてね、テレビで見てたって変じゃない。フランスのデモとか見てごらんなさい。ワシントンのデモだってあんなのはないよ。道路は自動車のためだけにあるんじゃないからね。
桜井 法を破る権利とは、法的な罰則がくっついてくることが前提でおっしゃってるんですよね。
栗原 罰則もあります。不法逮捕もあります。しかし現行法のもとで罰せられることがすべてとりもなおさず悪いことか、そうじゃないでしょう。
桜井 それから、いま言われた道路交通法に対峙することは、歩く自由というか、思想・信条の自由、表現の自由の保障ですね。
栗原 そうです。表現の自由というのは絶対的なことなんですよ。だけど、「非暴力のデモ」ということが、ともすると反戦の表現の自由よりも「逮捕されるようなことはしちゃいけない」ということになりかねないわけね。もちろん逮捕には断固として反対ですが、実際は積極的に捕まることも前提とする行動はあるわけ。非暴力直接行動というのはそうですから。
 六〇年代のベトナム反戦闘争のなかで「非暴力直接行動」という考え方が出てきたわけね。つまりぼくたちはぼくたちの反戦の要求をだれかに委任して実現しようとするのではなく、直接それを表現し、直接その実現を行動によってたたかうという考えです。ぼくたちは「非暴力直接行動委員会」というのをつくったんですけど、たとえばみんなでアメ大の門の前に行って、パッと座っちゃうとかね。そうすると、すぐに警察が飛んできてごぼう抜きでやられちゃうけど。とにかく直接身体で表現しましょうということなんです。そういう意味ではデモも本質的には直接行動なんですよ。
 だけどね、そういうのはイヤだという人もいるわけ。絶対に捕まらない行動で、警察が「ここはいけない」と言ったら向こうの言うとおりに従う。そういう人もいるわけだよ。だけども、そういう人たちを批判しないわけ。そのように言う人にはそういうデモをやってください、だけどその次の隊列は、座り込みとかフランスデモをやりますよ。それをやりたい人は次の隊列に入ってください、と言ってやる。(笑)
 ベ平連の中期以降、学生はヘルメットをかぶって入ってきた。デモといえばジグザクデモしかやらないというんだね。それは、そういう時代なのね、学生の表現としては。それに対しても「結構です、やってください」となる。その場合、静かなデモをやりたいグループがあれば、それはそれでひとつの隊列をつくる。そのあとにもっとはげしい行動をする隊列をつくる。しかしけっして前の隊列を巻きこまない。前の隊列も後の隊列が警官に弾圧されるのを見捨てて先に行ってしまうようなことはしない。立ち止まって目撃する証言者になる。そういうふうに、同じベ平連のデモなのだけど、その中でいろいろな形態のデモがあった。ぼくはそれはとてもよかったと思う。お互いに非難しないんですよ。そして、やりたいことをやる。
桜井 先ほど栗原さんが、今の大きなデモのなかで反天連や派兵チェックが一つ違う隊列をつくるべきだとおっしゃったのは、このことですね。
栗原 そうですよ。
桜井 それから、自分たちの表現の自由については、警察だけではなく主催者側にも認めさせていくと。
栗原 そうです。「平和的なデモ」をやるのは結構。別にぼくたちが暴力的なデモをやるわけじゃないんだけど(笑)、だけど、そのデモのなかで座り込みをやりますよという隊列があっても認めなきゃいけないんだというふうにもっていかないと、このあと相当にしょぼいことになりかねない。今日のデモの感じからいってもそう思いますね。とにかく多様性を保証すること、これが主催者のいちばん大事な役割ですね。
 ただね、ぼくにいわせると、とにかく歩くことが決定的なのよ。歩いて始めてわかるね、これじゃいくらやってもダメかな、とか。それが大切なんだね。はじめからそんなやり方はダメだって切ってしまったら、運動は党派的な運動になってしまう。
桜井 歩きながら、そのデモをつくっている運動も見えてくるってわけですね。これも体験的にはわかるような気がします。
 「平和なパレード」の話ですが、警察の規制に対して自分たちの権利が侵害されていると考える人が、いま圧倒的に少なくなっちゃっているように思います。さらに言えば、そもそもなんで規制が入っているかなどには無関心で、ただ従うに近い印象です。
栗原 そう、そう。そこが本当に民主主義の問題なんだね。つまり、自分の表現における権利というのは憲法で保障されようがされまいが、警察が許可しようがしまいが、人間が本来持っている基本的な人権でしょ。それを自分はあくまでも貫徹させるというのが民主主義なんですよ。

■自律した個人による小さな運動から
桜井 栗原さんは六〇年安保闘争のころの話で、埴谷雄高さんの「指導者の死滅」というテーゼを引き出して話されています。この「指導者の死滅」という現象については、いまの反戦運動ではどのように見られてますか。そのカテゴリーというか、その存在の可能性なりについて、少し話してください。
栗原 あなたの話で、渋谷のデモでこういうスローガンを叫べと、隊列のなかから言ってくる人がいた。ぼくに言わせると、これが指導者なんですよ。一番理想的なのは、どうぞ自分の言いたいスローガンを叫んでください、といって宣伝カーを開放することです。そして、賛成する人は一緒に唱和し、反対の人は黙っててくださいというのが、デモ指揮の一番理想的な形。そして、そこでスローガンを叫んだ人も、次の瞬間にはまた隊列のなかに戻る。つまり指導者として固定しない。それが「指導者の死滅」なんですね。「指導者の死滅」というのはイニシアティブをとる人間がいらないというのではまったくなくて、ある状況に指導者になるということなんだ。持続する運動にとってもそのことは重要だと思いますね。
桜井 「指導者の死滅」というのは六〇年安保闘争のところで語られていますが、似たようなお話で、これはベ平連についてなんですけど、「全体のなかの部分として存在することが、とても大きな意味をもってくる」というふうに話されています。
 本誌七号(二〇〇二年秋号)のインタビューで、彦坂さんは、みんなで集まるという発想を批判的に語られ、「一人ではできないことがみんなとではできる」ということはあるけど、「その時の、一人ではない『みんな』を構成している一人とはどんな一人なのかということが、実は大切なんです」と話されています。「個が全体を構成する」という考えですね。栗原さんの「全体のなかの部分として存在すること」の意味と、彦坂さんの言われていることは、逆向きのようにも聞こえるのですけど、同じことですよね。
栗原 同じことです。ベ平連は個人原理ということをしょっちゅう言ってた。それは運動を形成しているのはあくまでも自立した個人であるという考えなわけ。だから、誰でもが自分で始めなきゃいけない。しかも、他人や他人の運動に対して文句を言うんじゃなくて、文句があるんだったらそれとは違うものを自分でつくればいいんだ。それが全体としてまとまっていけばいいんだ。まとまんなくてもいいんだ、という考えなんです。それが「全体のなかの個人」なんです。つまり全体のなかの部分というのは、全体を一手に引き受けたり、自分が全体だというような前衛主義はいらないということなんです。
桜井 そういう運動論からみて、たとえば三月八日や今日のデモを歩かれて感じられたことについては、いま話していただいたなかで語りつくされたのでしょうか。
栗原 とても語り尽くしていない。というよりも、語れない、つまりまだよくわからない部分がたくさんある。それはこの運動が初発の段階にあるからです。
 ただね、参加する人たちは動員されるんじゃなくて自発的に参加している。これはものすごく良いと思う。ただこれが今後どのように変わっていくか、いまのぼくにはまだはっきりとはわからない。
桜井 「自発的」に対する評価ですが、いまはマスメディアによって反戦運動自体が消費の対象になっているような状況ですよね。戦争もそれへのアンチも情報化(商品化)されて、それを消費している。だから、昨年のワールドカップの騒ぎに参加したいというのと同じノリで、反戦デモに参加するという感覚はあるかもしれない。
栗原 それはあるかもしれない。ただそれもまた良いことなんですよ。情報化社会もスペクタクルの社会も、内部から食い破らない限り克服できないとぼくはおもっています。情報につい言えば、いまの運動にはインターネットが大きな役割を果たしていますね。ぼくはインターネットを運動に使おうと最初に提案した人間の一人ですが、いまの反戦運動でインターネットが果たしている役割はとても大きいとおもいます。しかし同時に、運動の基本はフェイス・ツー・フェイスの人間関係が基本です。そこのところをしっかりと押さえておけば、インターネットは十分に有効な武器として使えます。
桜井 戦争も反戦運動も商品化される世の中であるということも念頭に置いた上でも、その評価は変わらないわけですか。
栗原 変わらないですね。それはあれだけの人が参加するのには、パリで何十万人、ミラノで百万人、ニューヨークでさえ何十万人というデモの報道が背景にあったでしょう。しかし参加者は自発的・主体的なんですよ。やっぱり、組合の動員などで人数を集めたのとはぜんぜん違う。
桜井 組織動員ではないかもしれないけど、マスコミ情報を消費する形の参加も大きいとすれば、マスコミが次にどのようなプロパガンダをするかによって、その自発性はどこに行くかわからないともいえるわけですよね。
栗原 それはそのとおりです。だからあの大きく集まった人たちが、小グループに結晶していく必要があると思うね。前衛が出てくるとか、そういうことではまったくなくて、たとえば初めてデモで出会って、一緒に歩きながらいろいろ話したりして、もう少し私たちでできることをやりましょうとか、そういう形で五人なり一〇人なりの小さいグループができるとかさ。そこでさっき言った数にたいする信仰が克服されていくわけ。そういうことがものすごく大切なんだよね。
桜井 そういう可能性はないわけじゃないですね。
栗原 ないわけじゃないと思いますよ。だから、たとえばあなたたちが、昔の言葉でいえば「普通の市民」とか(笑)、そこで出会った人を、お前はマスメディアに踊らされているとか、思想性がたりないとか、いきなり批判してはダメなのね、まさかそんなことはないとおもうけど。(笑)、もう少し緩やかに(笑)……。気長に。
桜井 私はいまでもそのように批判されている側のような気がしてますけど(笑)。
栗原 とにかく、運動は継続することが重要なんだ。継続しなかったら経験なんて蓄積されないし、共有もできないんだもの。継続すれば運動も人も変わります。

■「現場」にドンドン参入していくこと
桜井 戦争が始まった昨日、近辺も含めてアメ大前に総勢二〇〇〇人ほどの人が集まりました。決して大きい集まりとはいえません。でも、それにしても、戦争報道や外国の反戦運動に比べれば、マスコミの扱いはとても小さかった。これからはもっとそうなると思います。マスコミが反戦ムードづくりをやめて、人の集まりがさびしくなっても、課題は残り、新たな課題が、たとえば北朝鮮の問題などすでに出てきています。このような状況で、運動を呼びかける側が、いま一番考えなければならないことは何かということになりますが。
栗原 ともかく「イラク戦争反対」からさらに一歩進めないとね。小泉は、北朝鮮の問題があるからアメリカを無条件で支持するというわけでしょ。北朝鮮問題というのはね、日本政府にとってはイラクよりももっと重要な問題になってきてるわけですよ。だから、いまからこの問題を反戦運動の中心の課題に据える必要がある。北朝鮮の問題はアメリカの核の傘の下で日本の安全を守るという線上にあります。
 日本はその線を歩むのか、あるいは東アジアの人びととの連帯によって、東アジア全体の情勢を根本的に転換することで朝鮮問題を解決しようとするのか、岐路に立っていると思います。国家の談合によってではなく、民衆と民衆との連帯のなかでね。だから民衆と民衆との連帯運動の真価がいま問われるわけだ。
桜井 それをどのように運動にしていくかというのは難しいですよね。北朝鮮問題については、栗原さんがいわれるように考える人は本当にごく少数です。このかんのデモに参加している人の中でも意見は分かれると思います。運動的には一から始めるという感じになるのではないでしょうか。
栗原 だけどね、反戦運動というものはその過程でかならず自分の足許に帰ってくるという客観的な法則性みたいなものをもっているのね。イラクの民衆にたいする同情は、ぼくも深く同感するし、ぼくも人後に落ちないつもりです。しかしそれはブッシュの戦争政策とそれに無条件に加担する小泉政権にたいする闘いに、つまり自分の足許に回帰しないとただの同情に終わってしまう。北朝鮮の問題も同じです。
桜井 さっき栗原さんがいわれたように、新しい反戦運動をつくるというより、いま盛り上がっている反戦運動に、私たちが声を出して食い込んでいくしかないということでしょうか。
栗原 一義的には言えないとおもいますよ。いわゆる介入という考えはぼくはあまり好きじゃない。しかし同時に、あれはダメだとはじめから決めつけるのにも賛成しない。たとえばね、いまのWPNの運動がベ平連的な広がりをつくれる運動になるかというと、ぼくは現状のままではそうは思わない。鶴見俊輔さんはいつも「ベ平連は大きくなりすぎた」と言っていたけど、ぼくはベ平連が大きくなったことは結構なことだと思う。ただそれは、それぞれの自立したベ平連が、三〇〇以上もできたということなんですよ。それがとってもいいことなんだ。いまのWPNは四万人から始まっちゃった。それはそれで喜ばしいことではあるんですが、運動的に見ると危ういという感じをもちますね。
 四万人の人が集まったことは、人びとの間にそれだけ危機感があるということです。それは決定的に重要なことですよ。ぼくたちはそれを無視することはできない。WPNが良いとか悪いとかそういうことではなくて、あそこにはとにかく四万人の人が集まるんだから、しかも、自発的に集まってるわけだから。
桜井 入っていくとすれば現場ですよね。だとすれば、たとえば反安保の実行委で、一つの自分たちのデモをつくるということはできるかもしれませんね。
栗原 もちろん現場、デモとか集会だよ。
桜井 このかん、日本中が、参戦する側もそれに反対する側もヒステリー状況に陥っているみたいで、本当に暗い気分でした(笑)。マスコミなんて問題が北朝鮮に移ったとたんに手のひらを返すことは目に見えているわけですから、マスコミ情報を消費する形でデモにきている万単位の人々は、一体どうなるのだろうか、とか。このヒステリー状態のなかで反戦を呼びかける側はどのように冷静を保てるのかとか。
 でも、栗原さんと話をして、少し明るくなったような気がします。(笑)
栗原 そうですか。それはよかったですね(笑)。
 やっぱりね、運動というのは基本的にオプティミズムでやらないとダメですよ。たとえば、六〇年安保闘争というのは負けたわけよ。安保条約の改定を阻止できなかった。だけど予期しない勝利もあったんだな。六〇年安保のころは天皇制問題は不在で、誰も何も言わなかった。ところが天皇の方は、アイゼンハワーを呼んで、羽田に迎えに行って、羽田からパレードして皇居に向かうつもりだったんですよ。天皇は自分が元首だと「国民」にアピールしようとした。それが結果的につぶれたわけだね。
桜井 ヒロヒトとしては戦後最大の見せられる外交ができるはずだったんですね。
栗原 そう、それはビックスも書いてるけどね(『昭和天皇』講談社)、ぼくたちは当時そんなことは、全然意図してなかったわけ。だけどそういうことを後になって知る。運動とはそういうもんですよ。
 目先の勝ち負けってあるでしょう。これは重要だけど、そこにあんまりこだわらない。だから、オプティミスティックにやりましょう。情勢はこれだけ切迫してるんだから、こんなにチンタラやってたんではいかんとか、日本人はつい悲壮になるけど、悲壮感で運動をやるのは絶対ダメ。
桜井 昔の話ですが、栗原さんは「運動はおもしろくなくちゃいかん」と言われました。これは私にとってはけっこうな発想の転換で、やっぱり運動は魅力的でなくてはダメだなあって感じ入ったんですが、ここでまたオプティミズムでなくちゃいかんと言われる。若造の私個人としては、とりあえず運動の継続を目指し「運動はおもしろく」をモットーにしています。そして、いずれ「オプティミズムでなくちゃいかん」を実感できる時がくるのを楽しみにすることにします。
栗原 あなた達の周辺にはじつにたくさんの人材がいるじゃないの。音楽運動の大熊亘とか平井玄とか、演劇運動の桜井大造とか池内文平とか、われらが画伯・貝原浩とか。傑出した表現活動家がかぞえあげれば優に二、三十人を越えるよね。そういう人たちとも協力して、一種の祝祭的な空間をつくっていきましょうよ。ぼくも昔ふうに数えると喜寿になって、からだも口ほどには動かなくなったけど、あなたたちの驥尾に付していきますよ。
桜井 栗原さんには、デモを歩いてこられたあとで、また延々とデモのお話をしていただくことになりました。そして、当然ながらデモはこれからも続きます。これからも栗原さんとはずっと一緒に歩いていきたいと本当に願っています。今日は、お疲れのところありがとうございました。
(三月二一日 池袋にて)
(『運動〈経験〉』2003春号、2003年5月)