高橋哲哉『戦後責任論』を読む

 最初に白状しておくと、私は戦後責任にかかわる高橋哲哉の発言に偏見を持っていた。それはたとえば、「この汚辱の記憶、恥ずべき記憶は、『栄光を求めて』捨てられるべきものなどではなく、むしろこの記憶を保持し、それに恥じ入り続けることが、この国とこの国の市民としてのわたしたちに、決定的に重要なある倫理的可能性を、さらには政治的可能性をも開くのではないか」(「汚辱の記憶をめぐって」)というような言葉が、大衆の間でそれほどポピュラーとは思えない西欧の哲学者、エマニュエル・レヴィナスの言説の文脈の中で語られたり、「恥じ入り続ける」とか「終りなき羞恥」などという言葉がそれこそ羞恥なく語られるある種の言語空間にたいする違和感からうまれたものだった。
 「この国とこの国の市民としてのわたしたち」に向けられる高橋哲哉の主張は正しい。しかしはたしてその「わたしたち」のなかの「わたし」は、これにこころから同感し、「恥じ入り続ける」だろうか。どうも私には、高橋のこのような言い方が共感されるのは、記憶とか責任とかポリティックスというようなタームが、日常的に通用しているごく狹いサークルのなかだけで、世俗の大衆の中では同感よりも反発が生まれるのではないかと思う。しかしもちろんこれは加藤典洋のいう「語り口の問題」にとどまるものではない。はるかに深く「戦後責任」を担うべき主体にかかわる問題なのである。
 しかし私の「偏見」にもかかわらず、こんどの本、『戦後責任論』(1800円、講談社刊)は素直に読めた。この本は、大部分が時間も場所も異にした講演の記録でありながら、戦後責任論講義とでも呼びたくなるくらいに体系的だ。そして噛んで含めるように語られている。高橋哲哉はこの本でまず、責任とは何かというそもそもの出発点から話を始める。そして日本語の「責任」に対応する英語の「レスポンシビリティ」が「応答可能性」という意味をもつことを手がかりに、「レスポンシビリティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれること」だと言う。「私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。」
 だから他者の呼びかけに応えることは責任を果たすことであり、それは良いことである、と高橋は言う。しかしテレビのコマーシャルをはじめ呼びかけの洪水にさらされているわれわれは、日常的にはその呼びかけの大部分を無視して生きているのだから、その無数の呼びかけのなかからどれを選んで応えるかは、この責任=応答可能性論からは答えがでてこない。それで高橋もとつぜん、「一方には『英霊の声なき声を聞け』という靖国派の呼びかけもあるわけですが、どの呼びかけに、どのように応えるのか、それが私たちの自由に属する選択、判断なのです」と言って、その回答を読者にゆだねてしまう。私はこういうやり方を嫌いではない。なぜなら読者を考えさせるからだ。しかも高橋哲哉はこれにつづく別の講演のなかで、元「従軍慰安婦」の呼びかけに対する応答可能性というような具体的な問題を通してこの判断の基準(正義)に多角的な示唆を与えていく。それは説得的だ。
 限られた紙面なのでこれ以上の紹介は端折る。読みやすく分かりやすい本だから直接お読みいただきたい。以下、若干のコメントを付け加える。
 こんどは「偏見」ではないまっとうな疑問を書く。その中心は、高橋哲哉は責任を負うべき個人を歴史と状況の具体性の中でとらえていないのではないか、ということである。もちろんこれは、個人の責任を歴史や状況の方に転嫁して免れようというのではない。戦争責任を個人の倫理拔きに語ることができないのは言うまでもないことだ。戦後責任についても同様だ。しかし日本の侵略戦争はあれこれの個人の発意によっておこなわれたのではなく、この国の独特の社会経済構成から、いわば必然化されたのである。すくなくとも敗戦まで日本資本主義は戦争と不可分であった。人びとの意識もまたこの構造によって規定されている。だから、天皇を始め戦争指導者の犯罪〔2字傍点〕の追及があくまでも彼ら個人の罪責を裁くことになるのと異なり、戦争のなかの国民の責任〔2字傍点〕を問題にする場合、この構造を認識すること、つまり何故という問いが不可欠なのである。
 戦争被害者である他者の呼びかけは、それを聞いた人間のなかに倫理的な責任の自覚を生む。しかしそれはさらにそのような事態を生み出したのは何故かという問いにつづくことによって責任を歴史のなかへと開き、その原因の解明に向かわなければならない。そしてさらにそのような罪あるいは誤りを繰り返さないために、その原因を取り除く行為につなげてゆかなければならない。つまり倫理は認識に、さらに行為(変革)へとつながらなければ、責任は個人の倫理的な自覚ないし倫理的な告白におわってしまうだろう。同じ誤りをくりかえさないためには、いくら決意を表明してもそれだけでは足りない。この構造をさらに深く認識し、それを変革する集団的な努力が不可欠なのである。いかに応答しようと個人だけで責任を負いきれるものではない。いかに決意を固めようと個人だけで戦争を食い止めることはできない。それにはそれにふさわしい「運動」とそれをささえる集団的主体が必要なのである。
(『派兵チェック』2000.3.12, no.80)