スペクタクル社会に亀裂をつくるために

ドゥボール著『スペクタクルの社会』

「状況主義者」という奇妙な名前をはじめて聞いたのは六〇年代の末だった。ウニタ書舗の遠藤氏から、フランスの状況主義者というのが日本の新左翼に連絡をとりたがっているのだが……というような話を聞いた。フランスにも『情況』派がいるんですかね、というのは雑誌『情況』から連想した遠藤氏の冗談だったが、その話がどうなったかは覚えていない。
 しかしそれから後も、フランス五月革命の記録などでこの状況主義者あるいは「シチュアシオニスト・インターナショナル」(以下、ISと略す)という名前にはたびたび出会うことになり、わたしの関心は深まるばかりだった。わたしがISにとくに関心をもったのは主として三つの理由からだった。一つは、わたしたちの世代が母斑のようにひきずっている「政治と文学」という問題からであり、もう一つはわたしの六〇年代の結論となった「党によらない革命」という考えに共通するかれらの政治理論であり、最後に、スペクタクルの社会という現代社会の把握にたいする共感であった。
  江口幹の『評議会社会主義の思想』における先駆的な紹介から、最近の小倉利丸の『アシッド・キャピタリズム』でのきわめてエキサイティングな論及にいたるまでISの紹介は絶無ではなかったが、基本的な文献を日本語で読むことはできなかった。ボードリヤールが続々と翻訳されながら、わずか一冊のドゥボールが翻訳されないこの国の貧しさは、まったく腹立たしいかぎりだった。
 こんど、ISの基本的な文献である『スペクタクルの社会』が四半世紀の歳月をへだててはじめて翻訳されたわけだが、よろこばしいことである。もしかするとこういうのを、まことに時宜をえた出版というのかもしれない。これは皮肉ではない。冷戦構造が崩壊して世界が「幻想的に」一つのスペクタクルに統合されてしまった現在、われわれは湾岸戦争という見せ物や、国連平和維持軍だのPKOだのという見せ物、そして政権交代可能な二大政党制のための政治改革などというドタバ夕芝居の観客にまでおとしめられている。このスベクタクルにおおわれた世界に、どのようにして亀裂を生みだし裂け目を作り出すか、それを徹底的に<実践の理論>として考察したのがこの本である。どうしてまことに時宜に適したと言わないでおられようか。
 わたしにとって待望久しい本であっただけに、前置きばかりがながくなった。本論にはいる。
 これはたいへん体系的な本である、と同時に体系化することを頑なに拒否している本でもある。体系的というのは、「近代的生産条件が支配的な社会では、生活全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに追いやられてしまった」という冒頭のフレーズによって現代社会の本質が提示され、最後は「実践的理論がおのずと調整され行動に移される評議会」の創設への呼びかけでおわる、そのテーマの一貫性である。そのあいだには、現代社会における「分離」(「疎外」と読みかえることもできる)の諸相が記述され、スペクタクルとして現れる商品の「物神化」が分析される。ここでの論理は言うまでもなくマルクスの『資本論』に依拠しているが、しかし明らかに換骨奪胎、意識的な「ずらし」がおこなわれている。この「ずらし」がこの本のもっとも面白いところだ。そして「主体と表象としてのプロレタリアート」の章では、じつにへーゲルからはじまり、マルクス、バクー二ン、ヒルファーディング、ベルンシュタイン、レーニン、トロツキー、ローザ・ルクセンブルク、そしてスターリンまでが再検討の対象にされ、ついにパネクークの労働者評議会の主張が再評価される。
 しかしなんと言ってもこの本の中心はこれにつづく「時間」論であり「都市空間」論であろう。人間の解放を、世界市場の時間とその必然的帰結としての「世界的スペクタクルの時間」からの解放ととらえるドウボールは、「プロレタリアートは、自分が作る歴史的時間を生きたいという要求のなかに、自分たちの企図の忘れえぬ単純な中心を見出す」と書いている。そしてその戦場こそ「都市」なのである。ブルジョワジーの「都市開発」に真っ向から対立する労働者評議会の「国土を完全に構築し直す」闘争が対置される。
 ISの運動が一九五二年に結成された「レトリスト・インタナショナル」を母胎としていることに示されるように、文化・芸術の問題はとくにこの運動の特色が発揮される領域である。と言っても文化の擁護などが語られているのではない。まさにその逆である。文化・芸術というまさに幻想のふかくかかわる領域こそスペクタクル批判のもっとも徹底的な遂行が要求されるところであり、その批判は文化・芸術それ自体の否定にまで至るべき領域なのである。とうぜん著者が評価する過去の芸術運動は、芸術の消滅としてのアヴァンギャルドである。しかしそれも、ダダイスムは芸術の実現なしに芸術を破棄しようとし、シュルレアリスムは芸術を破棄することなく芸術を実現しようとしたとしてともに批判され、その統合者としてのシチュアシオニストの位置が主張される。……(以下略)
 心意気を語つただけ、というおもむきがなくはない。しかしこれは一種のテーゼなのである。それは最初に指摘したこの本の性格にかかわる。テーマは体系的に布置されているが、叙述は断片的である。全体は221のテーゼ風の論述で構成される。そのあいだの論理的な起承転結は意図的に切断されている。読者はその空白を自分で埋めなければならない。埋めるという作業において読者は著者を超える。あるいはこの一冊の本を超える。それが著者の望む読むという行為であろう。現代の思想的プロプレマティックの宝庫ともいえるこの本が、七〇年代以降のまさにスペクタクル化された現代思想シーンにも、またいかなるアカデミズムにも回収されずに存在しえたのは、この体系化の拒否と「実践の理論」という自分の性格を固守するそのかたくななまでの一貫性にあったといえよう。(木下誠・訳、平凡社刊)
(『インパクション』1993年9月号)