自然主義と「大逆」の間で
スガ秀実の『「帝国」の文学』を読みながら

 中村光夫は『風俗小説論』(一九五〇年)のなかで、「『破戒』が発表された翌年に、田山花袋が『蒲団』を書き、更にその翌年には藤村自身が『春』を書きました。/この二年間の文学界の動きは甚だ重大で、ほとんど我国の近代文学にとって宿命的な意味を持っています」と書いている。「この二年間」とは日露戦争終戦の翌年の一九〇六年(明治三九年)から一九〇八年にいたる二年間である。そこでなにが起こったか。中村はつづけてつぎのように書く。――「一口に云えば、この間に『破戒』と『蒲団』との決闘が行われ、その闘いは少くも同時代の文学に対する影響については、『蒲団』の完全な勝利に終ったのです。『春』はこの点から見れば、藤村の花袋に対する降伏状であったわけです。/花袋の勝利は徹底的であり、且つ無慈悲なものでした。ちょうど敗者の一家眷属が根絶しにされる昔の戦争のように、『破戒』の系列は作者自身からさえ見捨てられて、文壇からまったく抹殺され、『蒲団』の子孫ばかりが繁栄して文壇の主流を形造った当然の結果、今日では『蒲団』によってつくりあげられた文学の理念から『破戒』を評価するのが、文壇の常識になってしまいました。」
 この『破戒』から『春』へという移行のなかに、日本的リアリズムとしての自然主義の屈折、社会性を喪失した私小説への頽落をみるものは、かならずしもこの中村光夫を嚆矢とするわけではない。中村もその論のなかで言及しているように、一九三八年一一月号の『学芸』(『唯物論研究』改題)に掲載された「明治文学評論史の一齣――『破戒』を繞る問題」において平野謙は、「管見によれば、日本自然主義の正当な発展のためには、『破戒』こそ絶対不可欠の出発点にほかならなかった。藤村が刻苦して築きあげたこの礎石の上に、日本自然主義は組成さるべきであった。しかし、実際の自然主義文学の歴史からみれば、『破戒』は過渡的な一習作として貶せられ、『蒲団』こそ、その発展の最初の実作であるかに眺められている」として、発表当時の『破戒』評を網羅的に探索してそれへの批判を通して、当時の文学界がすでに『破戒』のもつ社会的抗議と自意識上の相克を統一的にとらえることができず、多くが後者だけに注目してその是非を論じるにとどまったと批判した。
 このような平野・中村説は、その後今日にいたるまで、文学史のひとつの定説になっている。これの定説化におおきな力となってはたらいたのが、一九五〇年以降、神崎清を中心とする「大逆」事件関係資料の発掘と、その事件が当時の文学者にあたえた深刻な影響の実態があきらかになってきたことがあげられる。「大逆」事件(一九一〇年)とそれにつづく社会主義運動への徹底的な弾圧、社会思想の禁圧によって、文学者をも深くとらえた恐怖と退嬰的な気分は、自然主義の屈折・頽落を説明する有力な根拠と考えられたのである。
 しかしそれは同時に、そのような「時代閉塞の現状」に抗する文学者とその仕事の発掘・評価への促進力にもなった。それは、「大逆」事件の深い理解者となり、自身もまた強権にたいする批判者としてあたらしい地歩をきずいた石川啄木の仕事の再評価や、その延長上にたとえば白柳秀湖の『駅夫日記』の再発見から民衆芸術論や労働文学そしてプロレタリア文学へとつながる流れを文学史のなかに対抗軸として描き出そうとするこころみへとつながっていったのである。
 スガ秀美の『「帝国」の文学――戦争と「大逆」の間』(以文社刊)は、このような「定説」を再検討しながら、「大逆」事件を中心に据えて、中村光夫のいう「この二年間」という文学的転換期の「時代のカオス」のもつ意味を問い直している。彼は巻頭からこう問題を提起する。――「再び後論を先取りして言えば、『蒲団』もまた、日露戦後の『時代のカオス』のなかから生まれたものではなかったか。平野=中村説が、『蒲団』を『破戒』によって切り開かれた可能性を隠蔽するものとして捉える視点に対しても、本書は異を唱えている。」さらに、「繰り返し強調すれば、その『時代のカオス』は、いまだにわれわれを規定しているはずなのだ。本書全体の文脈に即して言うなら、われわれを規定しているその当のものとは、一九一〇年の『大逆』事件へと帰結する、天皇制と呼ばれもする政治的磁場にほかならない。」
 わたしはこの問題設定にたいへん興味をそそられながらこの本を読んだ。なぜならここにはたんに文学史におさまりきれない現代的な課題が横たわっているからである。
 戦後、「大逆」事件が自由に論じられ、その関係資料の発掘がはじまった段階で、いちはやく当時の文学者の反応に注目しその研究の礎石をきずいたのは、『大逆事件記録・1 獄中手記』(一九五〇年)における編者・神崎清であった。それは平野謙によってより豊富化され(『日本プロレタリア文学大系・序・解説』、一九五五年)、さらに臼井吉見『現代日本文学史・大正』(筑摩書房版「現代日本文学全集」別巻1、一九五九年)にうけつがれた。
 いまそのリストを書写すことはしないが、そこにあげられた作品の大部分が、「大逆」事件と作者自身とのかかわり(一例をあげれば荷風『花火』における囚人護送車との偶然の出会いというような)を素材としているものであった。「大逆」事件をそのものとして名指すこと自体がほとんど不可能であった当時にあっては、このリストは当然のことながら貧弱なものである以外にない。
 このように素材主義的に「大逆」事件と文学との関係を観察すれば、平野・中村説の正しさは疑いない。しかし本当にそうか? とスガ秀美は問うわけである。そしてこの問いを深い共感をもってわたしも共有する。なぜなら素材としての「大逆」事件ではなく、それが文学のなかにどのように「構造化」されたかという視点こそもっとも重要だと考えるからである。以下、論点をしぼって検討してみたい。スガ秀美はつぎのように書いている。
「日露戦後において全般的に意識されることになる前期自然主義=ゾライズムからの脱却の課題とは、帝国主義的膨張によって国民国家の亀裂がさらにあらわになった時、その亀裂から顕在化する『もの』を、『自然』イデオロギーによって隠蔽することだった。もとよりそのような課題は、『もの』が上演=口話的な(あるいは、科学主義的な)メタレヴェルの視点からは捉えられなくなったという危機をも意味している。『破戒』や『蒲団』はその危機のなかから登場したのだが、藤村も花袋も『もの』を『自然』そして、あるいはnatureと錯視することによって、その危機を回避していくからである。」
 まず指摘しておかなければならないことは、ここで言われている「帝国主義」も「国民国家」も、独特な二重性をもっていたということだ。帝国主義の軍事的側面を担ったのはいうまでもなく天皇を大元帥とする帝国軍隊であり、それは天皇の統帥権を盾に「議会」の制約から大幅な自由を持っていた。日清戦争の勝利によって端緒を開いた資本のヘゲモニーは、アジアへの侵出にあたってはもっぱら天皇の軍隊に依存せざるを得なかったのである。
 このことは国民国家の実質をも規定した。あらわになった「国民国家の亀裂」とは、たんにその成熟の表象としての階級闘争の激化というだけにとどまらず、それを隠蔽する牢固とした家父長的家族制の支配と一君万民的なイデオロギーの併存という亀裂であり、ここでは国民国家の主体としての市民は同時に臣民なのであった。
 日露戦争後の文学が直面したのはこのような二重性を構造化した社会だった。そこでは自然主義は啄木が過大な期待をもつことができたように、一種の「危険思想」でありうる可能性をもっていた。支配層にとって、自然主義に限らず、家父長制の旧道徳から逸脱する小説や、かつては文明開化のイデオロギーとして称揚された民権論なども、もはや危険思想でしかなかった。臼井吉見の『大正文学史』の記述を借用すれば、戦後三年目の一九〇八年には生田葵山「都会」、小栗風葉「恋ざめ」、佐藤紅緑「復讐」、白柳秀湖「鉄火石火」、草野柴二訳「モリエール全集・中巻」、ゾラ「巴里・後篇)、など十二篇が発売禁止になり、翌年には、宮崎湖處子「自白」、永井荷風「ふらんす物語」「歓楽」、森鴎外「魔睡」「ヰタ・セクスアリス」、後藤宙外「冷涙」、徳田秋声「媒介者」、小栗風葉「姉の妹」、「モーパッサン短篇傑作集」、アンドレーフ「深淵」、シンキウィッチ「二人画工」など二十三篇、翌四三年(「大逆」事件の年)の発禁二十五篇には、水野葉舟「旅舎」「おみよ」「陰」、小山内薫「笛」「反古」、木下尚江にいたっては「火の柱」「良人の自白」「乞食」「飢餓」「霊か肉か」の単行本がふくまれていた。
「大逆事件」はこのような弾圧の頂点にあった。支配層は社会のいたるところに「大逆」を発見していたのである。だから家父長制社会の支配的道徳からの逸脱や「父」にたいする反抗(「父殺し」)は、そのまま「大逆」へとつながるというスガ秀美の問題構成は正しいのである。
 このような二重性の危機のなかから析出される異物としての「もの」から、あるがままの「自然」へと後退していったのは、日本の文学者の多くが、家父長制の旧道徳にたいして、被抑圧者のポジションにいるかぎりでは「市民」でありえても、彼自身が社会生活のなかで「父」の位置に横滑りしたときには、上に恭順を誓い、下を抑圧するひとりの「臣民」でしかなかったからである。
 それではこのような二重性をもった社会を統括する「強権」とはどのようなものだっただろうか。スガ秀美はつぎのように言っている。
「『大逆』事件で荷風が遭遇したのは、表面的には和解し、そもそも無視しえていたはずの(存在していないはずの)秩序統治的な父権が、そこにある〔2字傍点〕という驚きであった。それは単に明治期天皇制の実体的な『強権』(石川啄木)を前にした撤退ではない。それが強権であることは、明治政府の官僚も務めた父親に応接している荷風によっては、自明のことだったろう。荷風は、その強権が虚構であると暴露していたはずだ。荷風が啄木の『時代閉塞の現状』をはじめとする文章を読んだと仮定して、おそらく荷風は啄木の権力実態視を冷笑したはずである。しかし、虚構であるはずの権力は、確かに機能している。ゾラその人を見れば、彼も存在していないはずの秩序統治的父権と闘っていたのではなかったか。荷風が思考しえなかったのは実体的な権力ではない。荷風はそれが虚構であることを知りながらも、その虚構性が虚構であるがゆえに機能することを思考しえなかったのだ。その時、荷風は真の意味で『冷笑』〔ルビ→シニシズム〕へと撤退するのである。」
 スガ秀美の言うように、天皇制ははたしてこのとき「虚構」だったのだろうか。たしかに天皇制はブルジョワ国家の権力とは異なり膨大な幻想を身にまとうことによってはじめて機能する独特の王権であった。だから自由民権運動を経験した幸徳秋水たちにとって天皇制からの民衆の解放は、基本的には「啓蒙」を手段としたのである。それには民衆の前で、天皇は神ではなく血を流して死ぬ普通の人間に過ぎないという事実を証明して見せる実践的啓蒙という手段も含まれていたとしても。
 予審における第二回聴取書のなかで「実は、睦仁と云う一個人に対しては、歴代の天子の内でも、最も人望があり、且良い人の様に思いますから、甚だ気の毒ではありますけれども、併し、兎に角、天子なるものは、現在に於て経済上には略奪者の張本人、政治上には罪悪の根源、思想上には迷信の根本になって居りますから、此位置に在る人其ものを斃す必要がある、と考えて居たのであります」(原文は片仮名)という管野すが子の発言を引用したうえで、「幸徳が天皇(制)を『迷信』と考えていた様子なのに対して、管野がそれを『迷信の根本』と捉えていたことの、微妙だが決定的な差異を見逃すべきではあるまい」とスガ秀実は指摘している。この指摘は鋭い。なぜなら管野すが子だけが、天皇制を天皇個人ではなく、ひとつの制度としてとらえる視点をもっており、そのゆえに、天皇個人を制度のなかの人間としてとらえることができたからである。
 ところがスガ秀実はこれにつづけて、「天皇(制)が、人民の誤った諸表象(=『迷信』)を可能にしている『ファルス』のごとき『根本』であるとしたら、どうだろうか。事実、幸徳と管野とのあいだの暗黙の差異と葛藤は、男根〔ルビ→ファルス〕をめぐっていることが次第に明らかになるだろう」、そして「『女』であった管野すが子が、表象する主体である男のその表象作用の支えたるファルスを抹消しようとすると同時に、それを欲望しようとしたことは必然的である」と、とつぜん「フロイト的転回」を遂げてしまう。
 明治維新によって成立した近代天皇制は、西欧の歴史から抽出された「絶対王政」という概念を適用するには、あまりにも人工的に構成された王権であった。天皇機関説は支配層にとっては常識にすぎない。それゆえにまたこの制度はその実態を人民から隠蔽するための膨大なイデオロギーを身にまとわなければならなかった。しかしそのイデオロギー的外皮をはぎとれば、そこにあらわれるのは天皇を大元帥とする帝国軍隊という背骨をもち、天皇が「朕が百僚有司」と呼ぶ上は大臣から下は村巡査にいたる官僚制度を脈管体系とするひとつの暴力機構にほかならなかったのである。くりかえすが、この実体的な権力が権力として機能するためには、それが民衆の幻想的共同性によって支えられていることが不可欠の条件だが、しかしこのことは、この権力が虚構であることを意味するわけではないのである。管野すが子はこの幻想性と実体との結節する部分を肉体的に知覚したといえる。それが「女」という存在論的な場所において可能になったというスガ秀実の意見にはわたしも賛成だ。
 文学における「大逆」については、彼は文学者の実生活のなかや、とくに前世代とのヘゲモニー争いに「父殺し」を見、それを「王殺し」のアナロジーとみなすことで「大逆」の一種の遍在性を主張する。「大逆」事件はこのような「『父殺し』に憑かれた日露戦後の文学の帰趨にほかならなかった」と彼は言っている。
 文学における「大逆」つまり天皇制批判の可能性については、それをたんに素材主義的に見るだけでは足りない。それを素材とした作品リストをつくり、論じるということにつきるものではない。その点で、スガの試みは渡部直己の『不敬文学論序説』のレベルをこえている。
 しかし、著者が「啄木的コンテクスト」を括弧に入れて、花袋、荷風、漱石、そしてその延長上に中上健次を位置づけながら「大逆」にかかわる文学的系譜を描きだすことは方法的には理解できるとしても、作品そのものの内在的な分析ではなく、当時のきびしい師弟関係を「父と子」になぞらえ、子の反逆を「大逆」とアナロジカルに等置するようなところには、読者はとまどうのではないだろうか。
 文学が向かうべきは素材としての天皇制にとどまるものではない、と同時に、現実に存在する「もの」をアナロジーとして描くことでもない。遍在する天皇制をアレゴリーとして発見し描くことである。作家が無意識に描いてしまったもののなかに、「大逆」の根拠を発見することもまた批評の仕事だとおもう。
(『情況』2001. 11号))