文化の戦略に向って

桑野隆著『民衆文化の記号学』を読む

 構造主義の流行は終ったといわれている。もしそうだとすれば、いまこそ日本人の手による本格的な研究を期待すべき時だろう。桑野隆の『民衆文化の記号学――先覚者ボガトゥイリョフの仕事』 (東海大学出版会刊)は、そのような期待が正当なものであることを告げている。
 構造主義が一九六〇年代の後半に、全世界的に流行したのには、一つの時代的な必然性があった。その時代の特徴をひと口でいえば、分業社会の生み出す疎外への大衆的な不満の爆発である。毛沢東の「五七指示」とルカーチの『歴史と階級意識』の再刊が、この時代を象徴する。それは全体性への渇望の時代であった。言語論を基礎にして学問の個別領域の壁をとりはらい、総合的な社会・文化理論を追究する構造主義は、まさにこの時代にふさわしいものであった。個別科学という知のブルジョワ的形式を「「批判」して全体的な歴史科学を打ちたてようとしたマルクス主義が、さまざまな要因によってそれを実現しえなかっただけでなく、むしろ逆に全体への志向を喪失してしまったその空隙こそ、構造主義の流行を生み出す思想史的な条件であった。
 しかし構造主義は、学際的(インターディシブリナリー)というところにまでは至っても、真の全体化を実現することはできなかった。個別的専門化を基本的な構造とするアカデミズムの枠のなかでは、マルクスが志向したような全体化は望むべくもなかったのである。六〇年代後半の大学闘争が提起した講座制打破の課題が実現されぬままに闘争が終息した時、アカデミズムの枠のなかでの構造主義の可能性も失われたのであった。しかも方法としての構造主義がもっていた熱気とは裏腹に、実際に「作品」として現われた構造分析の多くは、ほとんど唖然とするほどにもいい気な、静的な分析的理性の典型でしかなかった。分解し、整理し、説明するだけの、時に精緻な、あるいは珍奇な「分析」を読まされた後に残るのは、つねに「それでどうなの?」という苦いつぶやきである。中心と周縁とそれを媒介するトリックスターという、ワソパターンのくりかえしであらゆる対象を「解説」してくれる「構造主義」には、読者としてもいささかうんざりしたものだ。 
 ロシア・フォルマリズムとプラハ学派と、さらにレヴィ=ストロースまでがごちゃまぜになって流れ込んできた日本における構造主義ブームのなかでは、共時系のなかに歴史を回復することによってフォルマリズムの静的・分析的側面をのりこえようとしたバフチーンの苦心も、日常言語と詩的言語のスタティックな二分法をこえようとしたムカジョフスキーの仕事も、その本来の意義において十分に理解される余地は少なかった。記号論の先駆者である彼らの仕事の本来の意味が十分に理解されていないということは、今日の記号論のあり方に大きな偏りを生むことになっているのではないだろうか。ボードリヤールなど二、三の例外を除き、今日の記号論が、それが本来もっていた文化批判の機能を喪失して体制側に吸収されている状況は、このことと無関係ではないように思われる。
 桑野隆は本書の序文のなかで、ボガトゥイリョフを、たんに民俗学、文芸学、民族学、演劇学の「輝かしき代表者」、あるいは「記号学の開拓者」とのみ評価することに異議をのべ、それらすべての学問領域を総合して、構造主義ないし記号論という彼自身が開拓者の一人でもあった「その先駆的な方法を駆使して民衆演劇を初めとする民衆文化に迫り、民衆の想像力の世界が孕む豊かな同時代的可能性を剔出していった点」にボガトゥイリョフの「第一の貢献」があったと評価している。ボガトゥイリョフの学問自体が、じつは近代における学のあり方への批判なのであった。桑野は、ボガトゥイリョフやヤーコブソンらによって結成されたモスクワ言語学サークルやプラハ言語学サークルが、「それぞれの『専門』知識を寄せ合う平和的な連合ではなくて、個にこだわることなく、境界侵犯も物かは、たがいに無遠慮に介入し合う性格のもの」であり、「理論家が実践者(詩人、演出家、等)によって介入されることすらまれではなく、またその逆もしかりであった」とのべている。したがって桑野が本書で試みたのも、「ボガトゥイリョフの民衆文化の詩学・記号学を同時代の芸術運動(ことにメイエルホリドの演劇)との関係、さらに広くは精神史的状況全体のなかで把握する」ことであった。
 理論をたんに理論として記述するのではなく、その理論を必然のものとした歴史的状況に目をくばり、またその理論が実際に生きて働いている創造の現場、なかんずく同時代の芸術運動との相互協力と緊張関係に注目するという桑野の方法は、たんに本書で特徴的に貫かれているだけなく、今日までの彼の仕事を一貫している。
 彼の最初の仕事は、レーニンの死に際して芸術左翼戦線(レフ)の機関誌『レフ』が特集した『レーニンの言語』の翻訳(三一書房刊)であった。この特集は、マヤコフスキイ、卜レチヤコフ、ロトチェンコなどが結集した前衛芸術家集団レフと協力していたオポヤズ(詩的言語研究会)の共同作業であった。詩的言語の日常言語からの区別、その現実的有用性からの自律を強く打ちだしたオポヤズは、ここで一転して詩的言語と情動言語の区別、そして演説の語法の研究へとすすむのである。ここにはすでに、後にバフチーンやボガトゥイリョフによって展開される「広場の叫び」「もの売りの呼び声」などの宣伝の記号論に通じる突破口がひらかれている。数あるロシア・フォルマリズムの文献のなかから、まず最初に『レーニンの言語』をとりあげたところに、はやくも桑野のフォルマリズム運動にたいする彼自身の位置決定を読みとることができよう。
 桑野のつぎの仕事はヴォロシノフ名義で刊行されたバフチーンの『マルクス主義と言語哲学』(未来社刊)の翻訳である。これが記号とイデオロギーの科学を言語哲学のうえに据えるというパイオニアと呼ぶにふさわしい労作であり、フォルマリズムの内在的な揚棄を試みたものであることは改めて言うまでもない。つづいて桑野は自身の著作として『ソ連言語理論小史――ボードアソ・ド・クルトネからロシア・フォルマリズムへ』(三一書房刊)を書きおろす。この本の序文で彼は「……わたしは、当時とくに顕著に見られた、言語学を中心とする諸科学と、ロシア・フォルマリズム、ひいてはロシア・アヴァンギャルド運動との緊密な関係、いうなれば理論と実践の相互作用に関心をいだいている」とのべている。――これらの歩みのうえに本書が置かれていることを、いわば問題史的におさえておくことは必要であると思われる。
 ボガトゥイリョフは一八九三年にヴォルガ河畔の都市サラトフで生まれた。一九一二年にモスクワ大学の文科に入学し、古代ロシア文学、古代演劇、フォークロアを研究する一方、モスクワ県ヴエレヤ郡やアルハンゲリスク県シェンクルスク郡その他でフィールドワークをおこなう。彼が大学で二年下のヤーコブソンと共同でおこなったフィールドワークの結果は、後に『戦争と革命の時代のロシアにおけるスラヴ・フィロロジー』という象徴的な表題をもつ単行本となって刊行された。ボガトゥイリョフは一九一五年、ヤーコブソンらと共にモスクワ言語学サークルを結成し、詩学の領域で大きな業績を残したことは、今日では広く知られている。マヤコフスキイ、パステルナーク、マンデリシュタムらの詩人たちやトマシェフスキイ、ブリークらの文学研究者も参加したこのグループの活躍については、桑野の前著『ソ連言語理論小史』が一章をさいて詳述している。
 一九一八年にモスクワ大学を卒業したボガトゥイリヨフは、教育人民委員会図書部門や共和国・革命軍事ソヴェト政治局政治教育機関の仕事に従事し、一九年から二一年までサラトフ大学で教鞭をとるが、ふたたびモスクワに移り、演劇スタジオ「サチーラ」を指導するかたわら教壇にも立つ。国内戦に動員されたときも、彼の任務は赤軍劇団グループの演出であった。青年時代の彼は演劇の熱愛者であり、彼自身、一時は俳優をこころざしたことがある。これは後の彼の理論的な仕事のあり方に大きな影響をあたえた見落すことのできぬファクターであろう。
 一九二二年、彼はソ連邦全権代表部職員ならびにプラハのモスクワ文学博物館職員として、チェコスロヴァキア共和国に派遣され、ヒトラーが侵攻してくる一九四〇年に至るまで十八年間を同地で暮すことになる。つまり彼の第二次大戦前の主要な著作は、すべてチェコで著わされチェコの出版物に掲載された。しかもこれらの著作こそが彼の代表作にほかならなかったのである。スターリニズムのもとで悪戦苦闘のすえながい沈黙を強いられたパフチーンにくらべ、プラハ言語学サークルの自由な雰囲気のなかで生活できたボガトゥイリョフは、同時代のソ連の言語学者仲間では異例の幸運をもったというべきであろう。しかしソ連帰国後の彼は不遇であった。彼がふたたびその学問的才能を発揮できるようになるのは、一九七一年に世を去る前のわずか数年間であった。
 本書の構成は、ボガトゥイリョフの伝記的流れにそって、一九二三年を中心とするロシア・フォルマリズム時代の仕事(第二章)、プラハ言語学サークルの一員として機能構造主義そして記号学を駆使し、民俗衣裳や民謡を分析してゆく一九二八、九年から三五、六年にかけての仕事(第三章)、その記号学を民衆演劇に適用しつつ、一連の民衆演劇論を公にし、プラハの演出家や学者を記号学的アプローチにいざなってゆく一九三七、八年の仕事(第四章)、それまでの民衆演劇論の成果を結集した『チエコ人・スロヴァキア人の民衆演劇』(一九四〇年)の紹介(第五章)、そして三十年近くの空白の後に再出発したソ連記号学とともに甦った「民衆文化の記号学者」ボガトゥイリョフの仕事が、パフチーンのカーニバル論と交叉し合う一九六〇年代(第六章)というぐあいにすすめられている。
 しかしここで強調しておかなければならないのは、著者はボガトゥイリョフの伝記を書いているのでもなければ、また彼の多岐にわたる学問的業績を平坂に万遍なく紹介しているのでもない、ということである。著者の問題意識は鋭くかつ明晰であり、それは民衆文化と芸術との相互関係、より具体的にいえば、民衆演劇と前衛的演劇、フォークロアと文学との関係を、記号論的構造分析をとおして明らかにする、ということであった。
 なぜボガトゥイリョフにとって民衆演劇が中心のテーマになったのか。それは他のフォークロア・ジャンルにくらべて、この時代にはなおそれが遺物としてではなく生き残っており、しかもメイエルホリドをはじめ多くの前衛芸術家たちの関心の的でもあったからである。ここでいう民衆演劇とは、スコモローフ(放浪・大道芸人) の芸や、年中行事や家庭の祝いごとに見られる演劇的要素などをも含んだ、フォークロアの演劇を指している。
 桑野は「芸術的記号の自律性を旗頭としていた点」にアヴァンギャルド芸術の一般的な特徴を見る見解にたいし、「その特徴だけでは、二十世紀初頭のロシアのみならずヨーロッパ全体の前衛芸術に共通する傾向は語れるかもしれぬが、ロシア・アヴァンギャルド運動の独自性は語り尽くせない。……フォークロアに対して寄せた前衛芸術家たちのひときわ高い関心こそが、重要なのである」と指摘している。ボガトゥイリョフの「独立した記号体系としての演劇」という主張は、一方では演劇を「制約的」〔ウスロヴヌイ〕(能や歌舞伎の所作や仮面の約束事を思い出してもらいたい)なものと規定することで、様式や、舞台と観客との従来の関係を根本からとらえ直す契機となったと同時に、他方では、フォークロアのなかに、隣接した記号体系を発見することを可能にし、この二つのものが統一的に把握されることによって自然主義をのりこえた真に民衆的な演劇を可能にするのである。ここではフォークロアと芸術は一方交通の関係にあるのではなく、相互に浸透し合い、また時に否定し合う弁証法的関係にある。ボガトゥイリョフは、「伝統と即興」という関係を、たんに民衆演劇のジャンルにおいて追求しただけでなく、民衆の美術、音楽、舞踏、言語芸術、衣裳などのなかに探り当て、その主要な特徴として解明した。伝統を固定化に抗して生きかえらせ、時に伝統の記号体系を機能転換させる即興の創造性というテーマは、ポガトゥイリョフの一貫して追求したものの一つである。
 このようなボガトゥイリョフの志向を支えたのが、プラハ言語学グループの機能構造主義であったことはいうまでもない。彼は 『チェコ人・スロヴアキア人の民衆演劇』のなかで、「演劇の典型的特徴は、それが多くの機能を有しているばかりか、機能ヒエラルキーのなかで美的機能はしばしば後方にしりぞき、それ以外の機能のひとつがドミナントになっていることがあることに存する。/演劇の機能のヒエラルキーにおいては、他の社会的事実の機能体のヒエラルキーにおけると同様、機能の交替が生じる」といっているが、ここに彼の機能構造主義がよく表現されている。あるものには多くの機能が並存しており、しかもそれは並列的にではなく一つのヒエラルキーをなしているのであって、どの機能がそのヒエラルキーのなかでドミナント(支配的)になるかは、そのものがどのような構造のなかに置かれるかによって決定される、したがってそれが異った構造に置きかえられる時、機能の交替、つまり機能転換が生じる、というこの考えは、今日的に見ても、たとえば「政治と文学」というような問題に新しい光を投げかけるものといえよう。
 桑野はこの本のなかで、ボガトゥイリョフを中心に、パフチーンをはじめ多くの同時代の学者や芸術家の発言や仕事をあわせ紹介しながら、「人形劇と生身の俳優の演劇」「見世物小屋」「チャップッリン」「記号としての衣裳」「演劇の記号学」「広場の笑い」など、きわめて魅力的なテーマにふれているが、そのすべてを紹介することはできない。最後に本書の結論的部分における著者の言葉を引用して、若干の私見をのべて終りたい。
「ポガトヮイリョフが今日の演劇に託したものを全的に実現するためには、民衆的世界感覚に通じ、それに与し、その演劇化、記号化を図りうる者でなくてはなるまい。メイエルホリド、ブリアン、さらにはブレヒト等は、まさしくそのような人物であり、かれらは民衆演劇に学び、それと対決することによって、民衆演劇を現代に甦らせたのであった」。そしてつぎのようにつづける。――「しかし翻って、いわゆる価値の多様化という美名の下で真の意味での積極的な多義性とはすっかり無縁になった今日の日本を見るに、このような試みは、ある意味ではいっそう困難であり、淡い夢のような気もしないではない。偽の道化が氾濫している。かれらは『裏返す』のではなく、『はぐらかす』にすぎない。民衆的世界感覚につらぬかれた記号学が存分に肯定的な力を発揮しうる素材や状況は、もはや今日の現実には見あたらないかのようである」。
 記号学が一種のモードとして体制化され、伝統的な大道芸は国立劇場の舞台(!)で演じられている、という日本の現状では、著者のこのペシミズムは正当なものに見える。しかし著者はさらに「過去を歴史的に関連づけることは、それを『もともとあったとおりに』認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである」というベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」の一節をもってこの難関をのりきろうとする。私としては右の文章ではじまるテーゼ、の全文を引用したい。そこには桑野の問題意識の延長上につながるはずの、今日の文化的戦略の展望が描かれていると考えるからである。
「歴史的唯物論の問題は、危機の瞬間に思いがけず歴史の主体のまえにあらわれてくる過去のイメージを、捉えることだ。危機は現に伝統の総体をも、伝統の受け手たちをも、おびやかしている。両者にとって危機は同一のものであり、それは、支配階級の道具となりかねないという危機である。どのような時代にあっても、伝統をとりこにしようとしているコンフォーミズムの手から、あらたに伝統を奪いかえすことが試みられねばならぬ。メシアは単に解放者として来るのではない。かれはアンティクリストの征服者として来るのだ。過去のものに希望の火花をかきたててやる能力をもつ者は、もし敵が勝てば〈死者もまた〉危険にさらされる、ということを知りぬいている歴史記述者のほかにはない。そして敵は、依然として勝ちつづけているのだ。」(野村修訳)
 ルカーチが史的唯物論の「機能変化」(Funktionswechsel)について論じたのは一九一九年のことである。その時彼にとっては、プロレタリアートの勝利によって変化した社会構造のもとで、史的唯物論がいかに機能変化するかが最大の関心であった。今日われわれが直面しているのは、ブルジョワジーが社会のさまざまな重層的なレベルにおけるへゲモニー装置を支配している社会、このような「構造」のなかで、「革命的」な思想さえもが「機能変化」させられているという現実である。「ロシアの左翼の画家たちが五十年前に考え出したものが、現在のアメリカではほとんど公認された芸術となっているのはなぜか」(『革命のべテルブルグ』、水野忠夫訳)という、ロシア・フォルマリズムの先導者であったシクロフスキーの自己への苦い問いかけは、彼自身のそれへの回答の陳腐さにもかかわらず一つの歴史的な現実に即している。
 この現実はわれわれに構造論的な、また記号学的な思考を要求する。と同時に、われわれがこの「現実」に現実的にうち勝つためには、死者をも同盟軍としてよびもどさねばならない。ボガトゥイリョフもまた、よびもどされるべき死者の一人である。桑野隆のこの本によって、彼は確実にわれわれのもとによびもどされた。彼の理論をいかに今日の文化の戦略に生かすかは、桑野を含めたわれわれ自身の課題である。
(『新日本文学』1981年5月号)