豊かな具体性もつ運動論
天野恵一『全共闘経験の現在』

 この本のキイ概念は「経験」である。体験とも、まして思い出ばなしともはっきりと区別される「経験」。経験は過去にではなく現在に属している。現在の実践の光に照らしだされてはじめて、それは姿を現わす。それは生活(実践)を共有しうる現在に属するがゆえに、世代の違いをこえる。著者の天野恵一と私とではニ十歳違うのだが、私はこの本を読んで年令のへだたりも、「世代論」的な違和感も感じなかった。そのことは著者よりも若い世代にとっても、この本が同じように開かれているということでもあるだろう。
 数年前に、「全共闘ブーム」と呼はれる奇妙な流行があった。しかしこの本の内容はそれとはまったく異質のものである。もちろんこの本全体が、ニ十年前の全共闘運動とは何だったのかを語っているが、それを著者は過去の出来ごととして語っているのではない。現在の運動に生かされるべき経験として語っているのである。だからあの運動のなかで、実現すべくしてついに実現しなかった「可能性」もまた、現に在ったものと同等に、あるいはそれ以上の重みをもって現在に生かされる。それが経験というものの広がりなのだ。
 著者が自分の全共闘体験を通じて発見したものは、宙に舞う言葉のあやうさ、絶対的正義という幻想に立つ運動の他者にたいする暴力性、心情主義や自滅のロマンチスムの陥穿であり、そこでおしつぶされた個別具体的存在としての個人の復権である。
 天下国家を論じることから運動がはじまるのではなく、あくまでも生活のなかの個別的な課題に固執しながら、一人一人が異なった顔をもつように異なった個性をもつ人びとが作り出す、相互主体的な関係が運動の現場なのだという考え、そしてその現場に固執しつづける実践の継続のなかで、個別は全体への道を切りひらくことができるという運動論は、著者の全共闘経験の一つの結論になっている。それは党派主義と、心情的ラジカリズムによって崩壊していった全共闘運動の歴史を、現在の実践の蓄積に立って総括した結論であると同時に、じつは全共闘運のそもそもの「初心」の再発見でもあったのである。
 この本の巻頭に置かれた「運動経験について」という文章で著者は、経験についての総括的な考えをまとめているが、しかしこの本の中身はそういう「理論化」ではなく、さまざまな具体的体験を経験化していく一歩一歩のレポートだと読むことができる。その経験化の過程で必然的に批判の対象として出会うことになった諸思想、諸事象との主体的な格闘の報告である。その対象となった人物だけをざっと拾ってみても、高橋和巳があり、広松渉があり、丸山真男があり、「されどわれらが日々――」から「優しいサヨクのための嬉遊曲」にいたる挫折(ズッコケ)小説の作者たちがある。
 ――というぐあいだ。そして著者はこれらを、評論家として論じているのではない。批判は同時に彼自身の全共闘体験との格闘でもあったのである。
 この本は一つの運動論である。住民運動や「市民」運動の参加者が、これに自分の経験をつき台わせ、そこから自分の思考を活性化できる豊かな具体性をもった運動論である。と同時にこの本は、一人の実行者のなかで、彼の自前の思想がいかに形成されてきたかを感動的に語ってもいるのである。 (インパクト出版会刊)
(『週刊読書人』1989年8月7日号)