中野重治「再発見」の現在

 中野重治は現在、もっとも多く論及される過去の作家の一人である。生前の中野重治は、熱烈な、しかし少数の読者をもつ文学者だった。小説をのぞけば彼の著作のほとんどは初版三〇〇〇部程度のものが大部分だったのではないだろうか。しかも共産主義運動の分裂・抗争は、この作家を党派的・非文学的な、したがって一般の読者を遠ざけるような毀誉褒貶にさらした。そのような党派的・政治的な批判・評価は、文学の根底を支える社会的な対立・階級闘争とは無縁な虚構にもとづくものであったがゆえに、その虚構の崩壊とともに雲散した。中野重治の再評価、現在的な再発見は、そのような社会的・思想的状況の変動と無縁ではなかった。
 しかしそのような、社会主義体制の崩壊にゆきつくような政治状況の変動とオーヴァーラップしながら、むしろ中野重治の現在的な再発見をうながしたものの主たる要因は、一九九〇年をはさむ数年間にこの国が直面した「昭和」の終りと画期としての戦後五十年の到来ということであったと思われる。ここでの「再発見」のおもな特徴は、そのほとんどがプロレタリア文学時代をカッコにいれて、もっぱら転向以後の中野重治を論じるというところにあった。
 このような中野重治の現在的な再発見に先鞭をつけたのは江藤淳である。一九八五年一月から連載を始めた『昭和の文人』が完結して一冊の本になったとき、「平成元年」(一九八九年)という日付をもつその「あとがき」に、「『昭和』という時代を、『一身にして二生を経るが如』き時代として捉え直してみたいという構想は、最初からあった。つまり、それは日本人が、ほとんど例外なく『転向』を強制された時代であった。しかし、戦前に『回帰』の強制としておこなわれたこの『転向』は、第二次大戦後には奇妙なことに『離脱』への集団的競争という様相を呈しているかのように見えた。いずれにせよ、それが『昭和』という時代の基本的な構造であったとするなら、そのなかでわれらの文人たちは如何に生き、かつ書かねばならなかったか。」とそのモチーフを記している。
 中野重治が「この時代」を一身に体現した文学者であることは、あらためて「発見」されるまでもない。しかし江藤淳が「昭和」の終りのこの時期に発見した中野重治は、いままでの中野重治像とは著しく相貌を異にしていた。彼はおなじ「あとがき」のなかでこんなことを書いている。
「私はこの仕事〔『昭和の文人』〕によって、ほとんど中野重治という文人を再発見したといってもよい。彼は若年の頃の詩に詠じた『豪傑』にこそならなかったが、終生 廉恥を重んじ、慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対して、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。」
 もちろん中野重治は再発見され、再評価されるべきだ。単に再発見だけでなく、今後もくりかえし再再再…発見されるだろう。しかし発見は事実に即し、テクストそのものに即しておこなわれなければならない。もちろん時代の変化によって、読みの変遷はある。それがあるからこそくりかえし「再発見」が必要になり可能になるのだから。だが、自分の姿に似せて相手をつくりかえることは「再発見」でも「再評価」でもない。そして江藤淳によって再発見された「日本民族の不幸に慟哭する中野重治」「天皇を愛する中野重治」は、まさにそのようなものであった。江藤の中野重治再発見のほんの一例だけをあげておこう。
 江藤は中野の「米配給所は残るか」という小説から、敗戦の数日後に女教師に連れられた国民学校一年生ぐらいの子供たちと出会った時の主人公の感慨を引用する。――「ほしがりません、勝つまでは。今となって、教師は何と子供たちに説明するのだろう? 説明しないわけには行くまい。先生の説明だけを子供たちが待ちうけている。非道な、凍るような無残さ。そして子供たちは、手でさわれるようなその心に話を受けとりきれまい。受けとれぬように話が出来ているのだから。子供たちといっしょに細っこくやせたわかい女教師を見送って、Qは口をきゅっとつむいで泪ぐんだ。」
 これを受けて江藤淳は書いている。――「これはほとんど、無言の慟哭というに等しい悲哀に充ちた文章ではないか。敗残の身となった兵隊の、国民に対する慚愧の感情を、敗戦が幼い子供たちの心に刻み込もうとしている、『非道な、凍るような無残さ』を、これほどの痛切さで書き留めた文章が、そこらへんにいくつもころがっているだろうか?」そしてさらにこんなことまで書く。「つまり、彼は、茫然自失し、その心に敗亡の悲哀しかない。革命も共産党もいったいどこの世界の話だろう、と告白しているのである。中野重治という《進歩的》文学者に対して、世間一般が抱いているイメージを想起すれば、これは控え目にいっても驚くべきことではないだろうか。」
 再発見は一人の人間全体、中野重治という一人の文学者のまるごと全体の再発見でなければならない。それを前提にすれば、この一節からこのような感想を引き出せた江藤の批評家としての読みは、まったく「控え目にいっても驚くべきことではないだろうか」。
 慟哭というような、中野重治にもっともふさわしくない姿においてではなく、中野はこのとき身をきられるような痛恨を感じていたことに間違いない。しかしそれは「革命も共産党もいったいどこの世界の話だろう」どころではない。彼自身かつてその隊列に参加した革命と共産主義運動の敗北のうえに猛威をふるったあの戦争のなかで翻弄され、いままた天皇の無条件降伏という「非道な、凍るような無残さ」から逃れられない子供たち、女教師――総じて日本の民衆にたいする、中野自身の自責の思い以外の何でありえたろうか。たとえそれが、彼自身の言葉として語られなかったとしても。そしてそれが中野重治という作家の全体が、いまわたしたちに語りかけていることの、まっとうな再発見というものである。
「昭和とはいったい何だろう……『昭和の文人』というのは、もちろん一種の転向論です」と江藤は富岡幸一郎との対談(『離脱と回帰と』)で言っている。しかし彼には転向というものがもっていた日本独自の両義性がまったくわかっていない。彼にとって革命とは単純に日本からの離脱、つまり反日本、反民族でしかなく、転向とは単純に天皇制への回帰でしかない。だから彼は「雨の降る品川駅」について、辛や金や李や「も一人の李」を「醇乎たる朝鮮人」とよび、それにたいして「詩人中野重治は、好むと好まざるとにかかわらず、『日本天皇』の正統的な臣民以外のものではあり得ない」のであり、彼らのあいだには「決して解消することのできぬ距離が、厳として存在する」ゆえに、彼ら朝鮮人革命家たちの日本天皇にたいする報復行為は「醇乎たる忠誠心の発露」であり、彼らへの中野の呼びかけは「留保の余地のない『反逆』行為にしかならない」と言うのである。
 天皇にたいする反逆行為が、日本人民にたいする「醇乎たる忠誠心の発露」でありうること、それこそが「非道な、凍るような無残さ」のなかに子供たちや女教師をとどのつまり突き落とすことになるあの侵略戦争への道にたちはだかることであったこと、そういう認識はここにはひとかけらもない。
 転向をアレかコレかに切りちぢめた結果、江藤による中野の作品の読みはぜんぶ狂ってしまう。たとえば『村の家』だ。江藤は書く。――「勉次は、『転向』して共産党を捨てたと称する以上は、当然『日本の天皇』に対して忠誠を誓う立場に戻ったはずである。そして、そのような立場に戻った人間にふさわしい謹慎の態度を、世間に対して示さねばならぬはずである。」しかし勉次は縷々と説得する父親孫蔵の最後の言葉「そういう文筆なぞは捨てるべきじゃと思うんじゃ」にたいして、ただ一言「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と答える。江藤にとって、これは裏切りなのである。
「ここで勉次の転向が、偽装転向であるかないかはさしたる問題ではない。勉次が共産党の『非合法組織』に属していようがいまいが、父の、『普通の社会人として接して来た仲間の人びと』の、『完全な好意と善意を裏切』ることをもって、『正しい』と信じて憚らない、その顕著な心的傾向が問題なのである。」「『老父』はもとより『私利私欲』のためなどではなく、『正しさ』のために、『むごたらしく……蹴落』されたのである。人間の『完全な好意と善意を裏切』ってまで、守るに値する『正しさ』があるという、冷酷な思想にまたしても踏みにじられたのである。無残な思想にまたしても踏みにじられたのである。」
 世の中には「完全な好意と善意」から生まれた悲惨や悪がどれほどあるか、それこそ文学の大きな主題の一つではないか、などとあらためて言う気もおこらぬ。ここにあるのは『村の家』一篇の中心となっているモチーフの完全な無視、あるいは意図的な歪曲である。転向者中野は、ムラとイエに直面することを通してこのとき、天皇制というものを二まわりも三まわりも深くとらえる契機を手にしたのである。
 このように、江藤淳によって提示された「再発見」された中野重治の像は、歪んでいた。しかしそれはまた、まったくのナンセンスというわけではなかった。それは従来の中野重治理解の盲点に私たちを気づかせるという役割を果たした。
 中野重治は江藤淳が『昭和の文人』で描いたように、祖国の敗亡に慟哭したりはしなかったが、また、ポツダム宣言受諾の報をきいて哄笑した荒正人や喜びにふるえた小田切秀雄たち、雑誌『近代文学』を創刊して戦後の思想と文学に決定的な刻印を刻むことになる人たちのように、敗戦を解放としてもろ手をあげて歓迎したわけでもなかった。中野重治にとって敗戦は自分の敗戦でもあった。彼はこのとき自分を「敗軍の卒」と呼んでいる。彼は何に敗れたと考えたのだろうか。自分の郷土が異国の軍隊に占領されることへの暗鬱感の方が、ポツダム宣言の保証する自由のもたらす解放感を上まわるほどには、彼もまたナショナリストだったということだろうか。おそらくそれを否定することはできないだろう。しかしそれ以上に決定的だったのは、戦争が、その戦争を始めた人間の手によって終結を迎え、その過程に自分を含めた批判的な知識人も民衆もいっさい関与できなかったという、底知れない無力感だったのではないだろうか。そしてこの無力感は、自分たちは無傷で戦争中を過ごしてきたのではないという苦渋の記憶によって倍加され、「解放」を謳歌する若い世代にたいするはげしい苛立ちとなって爆発する。中野重治のように戦後をむかえた「左翼」はほとんどいない。いわゆる無条件降伏論争以来、「戦後」批判をかさねてきた江藤淳が、中野重治に着目したのは慧眼といえる。しかし彼は党派的な対立感情からか、左翼のなかにこのような「真正」な人間がいるはずがないと考えたのだろう、その結果さきに見たような歪んだ中野重治像を描く結果となったのである。
 このような江藤淳的な中野重治像に異議を申し立てその訂正を試みるためには、いままでの中野重治論の基調をなしたプロレタリア文学者や抵抗文学者という「無垢」な中野重治をそれに対置することではなく、転向後の、とくに戦争中の中野重治を主題化することこそがもとめられた。転向という問題、抵抗という問題、近代と超近代という問題、伝統と近代化という問題、国家と郷土という問題、等々が浮かび上がってきた。そしてこれらの問題は、直接にか間接にか昭和天皇の死とか戦後五十年というこの時代の画期をめぐる言説と、さらに戦後の日本がたどりついた近代の閉塞感と深くかかわっていた。中野重治はこのような時代の画期と時代の閉塞感のなかで、きわめてアクチュアルな存在としてよみがえったのである。
 戦中の中野重治を再検討するに当たって重要な意義をもったものに戦中日記の公表がある。この「敗戦前日記」は『中央公論・文芸特集』の一九八八年冬季号(一二月)から一九九二年春季号(三月)にわたって連載されたが、これには柄谷行人「中野重治と転向」(一九八八年冬季号)、埴谷雄高「中野重治との同時代」(八九年夏季号)、伊藤信吉「叙情的往来の断片」(八九年秋季号)、岡井隆「『斎藤茂吉ノオト』から『鴎〔正字〕外 その側面』へ」(同)、吉本隆明「転向論の広がり」(九〇年秋季号)、加藤典洋「中野重治の自由」(同)、安岡章太郎「『梨の花』―記憶の作用」(九一年春季号)、岡井隆「中野重治と斎藤茂吉」(同)などの論が伴走した。それは一種の中野重治ルネッサンスとでも言える光景であった。そしてこのルネッサンスのなかに、マルクス主義の影はほとんど見られない。ミリアム・シルバーバーグが一九九〇年に刊行された彼女の著書("Changing Song"日本語訳『中野重治とモダン・マルクス主義』)を、「中野重治を救済する」という章からはじめたのは、意味があったのである。そこで「救済」されるのは言うまでもなく「マルクス主義者としての中野重治」以外のなにものでもなかった。それは一九九〇年の時点においてだけでなく、現在においてもいぜんとして「救済」にあたいする。シルバーバーグの救済法が適当であったかどうかは別にして。
 この小論は最近の中野重治論を展望するのが主たる目的ではないので、ごく簡単にその後の展開をひろっておくと、一九九一年には「中野重治の会」が発足し、会誌として『梨の花通信』が創刊される。九四年九月には、『群像』が「没後十五年、中野重治の現在」という特集をする。そのなかの「中野重治のエチカ」と題する大江健三郎と柄谷行人の対談は、充実したものであった。九七年には「中野重治の会」の編集になる『中野重治研究』第一輯が刊行される。これには同会が主宰した『甲乙丙丁』と『梨の花』をめぐる二つのシンポジウムの記録とともに、後に『柳田国男とその弟子たち』におさめられる鶴見太郎の「中野重治の郷土意識」や並木洋之の「『転向』についての覚え書き」などがおさめられている。九八年九月には同人雑誌『群』が八年のブランクを経て第十号を発行し、一〇〇頁をこえる満田郁夫の「恋愛小説として――『歌のわかれ』再論」が発表された。九九年六月には明治学院大学言語文化研究所の『言語文化』第十六号が「中野重治没後二十年」を特集し、林淑美「〈奉体〉という再生産システムをめぐって――中野重治の敗戦直後」、並木洋之「〈一九四〇年問題〉への視覚――野間宏・布施杜夫・中野重治・大西巨人」それに私の「『斎藤茂吉ノート』一つの読み方――総力戦と中野重治の『抵抗』」などが掲載されている。また、名古屋の「雑談の会」が会誌の『雑談』四一号を「中野重治没後二十年」の特集に当て、菊池章一、岡田孝一、藤森節子などの論文ないし回想が収録された。単行本についてはあえてふれない。
 このように、アクチュアルに中野重治を論じた論考のほとんどすべてが、戦中と敗戦直後の時期の問題に集中していることがわかる。それは江藤淳のような全面否定においてではなく、また戦後民主主義派のような全面肯定においてでもなく、「戦後」というものを再検討するというこの時代の課題にかさなり、その「戦後」の出発点となった「天皇による終戦」を許すことになった戦中の「抵抗」を再検討するという課題につながった。そこで浮かび上がったテーマから、いくつかをえらんで概観してみたい。
 ひとつは中野重治における近代と超近代という問題である。中野重治の反君主制の立場は、けっしてコミンテルンのテーゼやロシアのナロードニキへの心情的な共感からうまれたものではなかった。それは先行する日本文学者の苦闘を引き継ぐ形でおのずと彼の肩に背負わされたものである。したがってそれは輸入品でも付け焼き刃でもない。彼は「近代」を強く希求しその実現のために努力したが、しかし同時にマルクス主義者として、その近代は限界にきておりもはや近代そのものとしては実現し得ないことを知っていた。彼が転向を表明して出獄した直後の一九三四年六月十一日の日記に、雑事のあいだにさりげなく「五月テーゼをすこしよむ」としるしているのに私は注目する。「五月テーゼ」とはいうまでもなく一九三二年五月にコミンテルンが発表した「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」いわゆる三二年テーゼである。そしてそれは一年半の後に「小説の書けぬ小説家」につぎのように登場する。
「おれは出てきて三十二年テーゼというのを読んだんだよ。そして訊いてみた、これや読んだかつて。みな読んだという。読んでてあのざまはなんだい? お前だつてそうだつたんだろう? 研究会でもやつたかというとやつたという。異議なし異議なしで通つたんだろうといつたらそうだと言やがつた。おれは革命家でもプロレタリアでもないがね、証文は渡してあつても背中は曲るんだ。異議なし異議なしじや話にならんてことはいつておくよ。」
 中野重治がこのとき三二年テーゼから読み取ったものは、もちろん日本共産党の任務というようなことではない。「日本においては、すべての封建的諸関係が決定的に粉砕されるに至らなかった。それ故に資本主義の発展は、つねに国内市場の非常な狭隘さと衝突してきた。日本資本はその発展途上におけるすべての封建的障碍を粉砕せずに、前資本主義的諸関係の残存物を、最大限にかつ全面的に利用する道をとった。資本主義的搾取は、半封建的基礎における農民の基本的大衆の掠奪と結びついてきた。しかし、日本資本が、これらの封建的諸関係の残存物に適応し、それを利用すればするほど、それは益々多く国内市場を狭隘化し、外国市場に益々多く依存するようになり、その市場の暴力的、軍事的拡大の道へ益々強くかりたてられたのであった。」(「日本の情勢と日本共産党の任務」)という日本社会の認識であった。そして一九三五年前後の中野重治の社会評論には、このような社会認識をごくごく具体的なところで確かめようという試みが、随所にみられる。
 『斎藤茂吉ノート』で、斎藤茂吉に体現された近代的自我の問題につよくこだわったのは、この日本的近代への中野重治の批判的考察の中間的な決算といえるだろう。であれば、そこでの考察が、その同時代に近代批判の論陣を張った保田輿重郎との交差を生むことになったのは必然のなりゆきだった。中野重治と保田輿重郎という対抗軸は現在の中野重治再発見のほとんどすべてに見え隠れするプロブレマティックである。この視角をもっともはやく提起したのは桶谷秀昭である。彼は「保田輿重郎――昭和批評の一軌跡」(『新潮』一九八二年五月号、のち「偉大なる敗北の歌」と改題して『保田輿重郎』に収録)で、中野重治が『斎藤茂吉ノート』中に保田輿重郎の「柿本人麻呂」中のアララギ批判の一節を引いて「今日の時節に全く大事な疑問」と書いたのをとらえ、「中野重治が保田輿重郎のアララギ万葉観の批判に正面から立ち向つたとしたら、座談会『近代の超克』に匹敵し得る、あるいはずつと奥行のあるもう一つの近代の超克論争が生まれたかもしれな」かったのに、中野重治はそれを「『今日の時節に全く大事な疑問』とだけ云つて、遣り過した」と惜しんだ。
 山城むつみは中野重治を中心に据えた長編評論「転形期の思考」(『群像』一九九八年一月、三月、五月、七月、九月、一一月号に連載)においてこの問題をとりあげ、『斎藤茂吉ノート』中、「ノート九 短歌写生の説」の後半はこの保田輿重郎の「今日の時節に全く大事な疑問」にたいする答えとして書かれているので、桶谷の主張するようにけっして「遣り過ごし」てはいないと批判した。そのうえで、中野重治の答えにはあいまいさがあり、「中野の核は『ノオト九』後半では、『あいまい』なまま暗示されるにとどまっている。だが、戦後の短編『広重』は、その精神をより明確に分析してくれるだろう」と指摘した。それでは『広重』が明らかにしたものはなにかといえば、それは「卑しさというエレメント」だと言う。「戦時下・保護観察下に『卑怯な世渡り』を通じてその卑しさの底に垣間見た『広重』の相、卑しさというエレメント」。それは中野重治が「あわれでみじめな国民生活の線」まで降りてきたことであり、中野重治の鴎外評を参照すれば、「保田もまた『哲学上また人生観上、どたん場に落ちることがなかった』かぎりにおいて『あわれでみじめな国民生活の線まで降りてくることができなかった。むろんそこから出発してはいない』と言えるだろう。その意味で、戦後の中野がやはり鴎外を遇した言葉で言えば、保田輿重郎は『日本の人民および日本の文学の最もすぐれた敵』(『鴎外位置づけのために』)なのである。二葉亭と鴎外の関係は中野と保田の関係(『斎藤茂吉ノオト』と『万葉集の精神』の関係、『広重』と『みやらびあはれ』の関係)に相似である。」と山城むつみは言う。たしかに「中野重治と保田輿重郎の差異は思いのほか小さい。だが、その小さな差異が両者を決然と分かっている」のであって、この差異をあたかもなきがごとくに論じることに彼はつぎのようにつよい批判の言葉を投げかける。「共産主義・マルクス主義という神話が崩れたとまことしやかに吹聴される現代では、いかにもイデオロギーを括弧の外に括り出したかのような口調で両者の対立を隠蔽することこそ、マルクス主義・共産主義を担うべき主体・基体の存在を見失わせることに加担している点で、最も悪質で反動的なイデオロギーなのではないか」と。まったく同感である。
 山城むつみのこの長編評論にはこのほかにも論じられるべきいくつものテーマがふくまれていて、現在の中野重治「再発見」のもっとも注目すべき成果といえる。
 さて、紙数の制約もあり、あと一つのテーマをとりあげておわりにしたい。それは中野重治における国家と郷土という問題である。国民国家の終焉というようなことが言われる一方で、いままでになく国家主義の言説が横行するこのごろ、戦争中の中野重治が展開した日本主義の批判を思い起こす機会はますます多い。私は「中野重治の『わが国』『わが国びと』」(『梨の花通信第二十三号、一九九七年四月)という短文で、中野重治の柳田国男にたいする敬愛についてふれ、「……大衆化論争における本質的な対立は、それを革命思想のレベルで考えると、世界的普遍性の抽象的なところから出発するか、あるいは『微小なるもの』のもつ歴史的具体性から出発するか、の決定的な対立にほかならなかった。大量転向が出現した背景には、『わが国』『わが国びと』に対する無知と侮蔑、そしてそれへのまっとうな評価と批判をもちえなかった革命運動の伝統があった。しかもそのことへの反省は、転向というプロセスを経験してはじめて可能になった。転向とは歴史と現実への帰還でもあったのである。日本の革命運動の伝統の革命的批判とは、とりもなおさずそういうことだった。その反省にとって、当時、柳田国男の仕事が頼るべきほとんど唯一のものであっただろうことは、想像にかたくない」と書いたうえで、中野重治における『わが国』『わが国びと』の発見、再発見が、柳田国男の『常民』概念をほとんど超え得なかったのではないか、それが戦後、一例をあげれば「五勺の酒」の天皇にたいする「同胞感覚」というような問題にもつながるのではないか、とのべた。
 鶴見太郎の『柳田国男とその弟子たち――民俗学を学ぶマルクス主義』(一九九八年、人文書院刊)は、緻密な実証的調査をふまえた戦争中の柳田民俗学と転向マルクス主義者との関係についての画期的な研究であった。しかし戦中の柳田国男については、私の短文にもふれたが先駆的な益田勝実の「『炭焼日記』存疑」をはじめ村井紀の『南島イデオロギーの発生――柳田国男と植民地主義』(一九九五年、太田出版刊)や川村湊の『「大東亜民俗学」の虚実』(一九九六年、講談社選書メチエ)のような批判があり、鶴見がこれらの柳田批判にかりに反対であるにしてもまったく無視するのはフェアーではない。その結果、柳田と中野のあいだの山城むつみの言う「小さな差異」が見えなくなってしまう。それはこの二人の関係からいまこそ多くの教訓を引き出さなければならないのに、その芽をつぶしてしまうことにならないだろうか。
 現在を、日中戦争の前夜だとか、いやすでに総動員体制の時代だというように、過去の歴史とアナロジカルに描き出すやりかたを私はとらない。しかし戦争中の中野重治は、現在のわれわれにじつにたくさんのことを語りつづけていると思う。それをよく聞くことのできる聴覚を鍛えていきたい。
(『新日本文学』1999年11月号)