中野重治の「わが国」「わが国びと」


 中野重治が召集され入隊するに際して妹の鈴子に書き送った一九四五年六月二十三日づけの「遺言状」に、「柳田国男氏ニ深ク感謝ス」というくだりがある。ふるい友人の佐多稲子や、官憲の監視下での不自由な生活をさまざまに援助してくれた人たちへの感謝につづけて書かれているわけだが、この項だけはなんとなく唐突に感じる。唐突と言ってしまうとかならずしも正確ではない。中野重治の柳田国男にたいする尊崇の念は戦争中の一時のものではなく、柳田の死に至るまでかわらなかった。死の少し前に手作りの草餅を持参した話を中野は「草餅の記」に書いているが、そのなかには「私はただ、あの草餅を柳田さんが食べてくだされたろうことを幸福とする」とまで書かれていた。
 これは尋常ではない。あるいは明治人の師弟のあいだではありえたとしても、中野重治と柳田国男には師弟という関係はない。中野の柳田に対する特殊な尊崇はどこからくるのだろうか。「一九二四、五年ころに私は古本で『遠野物語』初版本を買った」と中野は書いている。そして「一九三〇年に、それから三二年から三四年へかけての間に、私は豊多摩の『官本』で『雪国の春』を読んだ。やはり初版本で、さんざんに読まれてきたらしく、ひどく乱暴に製本しなおしてあったが、その製本も、だれか既決囚の一人の手になるものだったにちがいない。『清光館哀史』のことなどはみなが言う。私は『狐のわな』などに今さらに驚いた。その前後からときどき柳田国男を読むようになったと思う。とはいっても、学問として読んだのではない。」(「折り折りの人」)と続けている。
 豊多摩の独房で、たとえば、「さうして又日本の雪国には、二つの春があつて早くから人情を錯綜せしめた。云々」というような一節を読む中野重治のなかで、後に『梨の花』の主人公になる少年がこらえようもなく喋り始めるのを覚えたであろうことは十分に想像できる。しかしそれだけでは、なお納得できないものがのこる。
 中野重治のエッセイ「わが国 わが国びと」は、「わが国とは日本である。わが国びととは日本人である。そんなら何で日本と書かないか。『わが国』はまだしも、日本人を『わが国びと』などと何でわざわざ言うのか。/それには訣があるが、ここでは書いていられない」と書き始められる。そしてすこし先の方では「これを私は『わが国・びと』として書いている。『わが・国びと』ではない。といって、どこまで他人にそれを主張できるだろうか。心もとない」とも書いている。かくのごとくである以上、これから書くことがどれほと中野重治に即しているかはなはだ「心もとない」わけだが、中野重治における「わが国」「わが国びと」について、またそれとの関連で中野にとっての柳田国男について、考えてみたい。
 一九三〇年代の中頃、政治的に転向を表明したマルクス主義者のなかに、柳田国男を中核とする「日本民族学」に関心をよせる人がすくなからずあらわれたことは周知の事実である。橋浦泰雄は、敗戦の翌年に復刊された『民間伝承』二号の巻頭「大いなる反省の学」に、「だから言はぬことではないと、今更ひらき直るのではないが、我々日本民俗学徒は、夙くから、日本の歴史に対して、不断に反省を求めて来たのであつた」と書き、日本民俗学を抵抗の学と主張した。
 このような日本民俗学評価に対しては、益田勝実の先駆的な「『炭焼日記』存疑」をはじめ多くの批判があるが、そのもっとも包括的でラディカルな『南島イデオロギーの発生――柳田国男と植民地主義』(一九九五年、太田出版)で村井紀は、「柳田の『民俗学』が戦後〃侵略と戦争〃の責任を問われなかったのは、『民俗学』=『民衆の学問』というイメージのほかに、大間知篤三や橋浦泰雄、そして中野重治といった東大新人会などもふくめた左翼転向者のアジールであったことにある」と指摘し、「左翼転向者のアジールは別に『民俗学』だけだったわけではない。文学はともかくとしても『満鉄』などもあったからである。けれど、ここが恰好の避難所であったことも疑えない。彼らは柳田が見いだしていた『民俗』という『内面の領域』・『思考と感情』という『不可視的領域』に『亡命』していたからである」と書いている。
 ほかの人について言う準備がいまの私にはない。しかし中野重治については、民俗学への関心は「亡命」と呼べるようなものではなく、民俗学は彼にとって「アジール」などではなかったのではないか。そのことと彼の「わが国」問題とはふかくかかわっているように私には思われる。
 柳田国男を「学問として読んだのではない」という中野の言葉を紹介したが、それは中野の民俗学への関心が、大間知篤三や橋浦泰雄や、ことなった道を歩んだ石田英一郎とも違うものであったことを語っている。では中野の関心は趣味であったろうか。それはあるだろう。中野の資質として民俗的なものが好きだということはこのさい無視できない。しかしそれ以上に、自分の少年時代の経験にあらためて光を当てたいという願いがあっただろう。なぜそれを願ったかと言えば、もちろんそこには転向という問題があった。転向から自分をもう一度立て直そうという努力とそれは結びついていただろう。そしてその再起の道に中野の初志をつらぬくためには、国家主義イデオローグのふりまく「日本主義」とのたたかいが避けて通れぬ課題であったろう。さしあたっての私の結論をさきに言ってしまえば、中野重治の柳田国男への傾倒は、彼の転向とふかくかかわっていたと思う。それは彼自身の転向からの再起にかかわり、「日本の革命運動の伝統の革命的批判」の実行の道にかかわり、国家主義イデオローグたちの「日本的なもの」とは異なるところで、日本と日本人についての自分の愛情を基礎づけようとする努力にかかわっていたと思われる。
 一九三七年の末に、中野重治はその年を回顧してつぎのように書いている。
「評論における傾向はさまざまであつた。なかでも目だつたのが、民族主義的議論の擡頭であつた。これは不便をもともなつていた。それは、この種の議論が『日本主義』何々という肩書きで出てきたため、反対の議論はいきおい『反日本主義的』何々となり、『日本主義的』何々に反対なのが『日本』に反対の何々ということに取られかねなかつた。あたかも、『日本主義的』何々という議論が、元来そういう混乱を予定していたかのごとくに。」(「評論 小説 詩 戯曲」、『早稲田文学』十二月号)
 一九三七年は言うまでもなく日中戦争開始の年である。内務省警保局はこの年の暮に、中野重治をふくむ執筆禁止リストを出版社にサジェスチョンというかたちで伝える。そういうなかでの日本主義批判である。中野重治の戦略は、彼の「わが国」「わが国びと」を大日本帝国と日本国臣民から切り離すことである。
 私は「中野重治の戦略」と書いた。もちろんこのような状況のなかでは、批判的な発言は戦略的であることによってかろうじて存在することができる。しかし中野のこの「切り離し」は、戦略であると同時にもっと深いところから発想されていた。それは日本の革命運動がもっていた、後に竹内好によって批判されることになる「近代主義」の問題とかかわっている。中野はこの年の年頭に「文学における新官僚主義」と題した、まさに抵抗の書と呼ぶにふさわしいエッセイを書いている。(『新潮』、一九三七年三月号) そこで彼は、日本主義の流行のなかで先頭をゆくイデオローグとして登場したかつての共産党指導者・浅野晃の発言をとらえてつぎのように書いた。
「浅野や小林(秀雄)の調子を見ていると、階級とか自由の抑圧とか国粋主義は反動的だとかいうことをいう人間は、みな『民族的なるものは文化を破壊する張本人であるといふ錯覚』を抱いていると思つているらしいけれども、(中略)世界および日本における諸民族の現状とその行くえとを見てみれば、『民族的なるものが文化破壊の張本人だといふ錯覚』は浅野自身の錯覚でなければなるまい。おそらくそれは浅野自身がかつてそう考えていたことを現わすのだろう。浅野は日本共産党(この五字伏字)のかつての立派な指導者だった。(中略)しかし当時の彼の書いたものなどから推量して考えると、彼らこそ『民族的なもの即ち反動的なもの』という物差しで『民族』をぶちのめしていたのではないのか。」「私は彼らがかつては立派な指導者たちだったことを知っている。けれどもただ書物をとおしてのそれ、彼らが祖先からわが身に直接受けついだ文化と芸術とについて、公式表にもない独自の公式でそれを『批判』し終つたなどと考えていた点が今ごろそんな錯覚を感じねばならぬ彼ら自身の一つの原因なのではないのか。」
 ここにはおそらく、かつての「芸術大衆化論争」の記憶が踏まえられている。だから中野の目は、浅野晃をとおして獄中で非転向をまもる蔵原惟人を、さらにそこをもつきぬけて日本の革命運動を支配していた「ある流れ」の総体にまで向かっていただろう。大衆を労働者、農民、小市民、兵士という普遍的な観念でイメージする蔵原惟人と、小作人、なめし革工、ドック人夫、台所の隅で泣いている小娘、郵便局の窓口で思案に暮れているお神さん、というような個別具体的な存在としてイメージする中野重治との、大衆化論争における本質的な対立は、それを革命思想のレベルで考えると、世界的普遍性の抽象的なところから出発するか、あるいは「微小なるもの」のもつ歴史的具体性から出発するかの決定的な対立にほかならなかった。大量転向が出現した背景には、「わが国」「わが国びと」に対する無知と侮蔑、そしてそれへのまっとうな評価と批判をもちえなかった革命運動の伝統があった。しかもそのことへの反省は、転向というプロセスを経験してはじめて可能になった。転向とは歴史と現実への帰還でもあったのである。日本の革命運動の伝統の革命的批判とは、とりもなおさずそういうことだった。その反省にとって、当時、柳田国男の仕事が頼るべきほとんど唯一のものであっただろうことは、想像にかたくない。しかもそれは柳田の仕事の系統的な研究を要求するような性格のものでもない。そこに中野重治の「学問として読んだのではない」という述懐の正直さがある。
 しかしそのことのマイナスも無視できない。戦前・戦中の柳田民俗学については、川村湊の『「大東亜民俗学」の虚実』(一九九六年七月、講談社選書メチエ)が公正な批判を展開しているが、最小限、村井紀が指摘しているように、中野重治の柳田国男にたいする変わることのない尊敬が、柳田民俗学の戦争協力や植民地支配への荷担の事実をおおいかくすうえで、一定の役割を果たしたことは疑いない。だが、もっと重要なことは、中野重治における「わが国」「わが国びと」の発見、再発見が、柳田国男の「常民」概念をほとんど超え得なかったのではないか、という問題である。それは戦後、「五勺の酒」の天皇にたいする「同胞感覚」云々にもつながる。
 最近の自由主義史観をめぐるジャーナリズムの馬鹿騒ぎをみるにつけ、日中戦争開戦の前後数年間に中野重治が身をもって示した、日本主義イデオロギーとの闘争を思い浮かべることしきりだ。

(中野重治の会機関誌『梨の花通信』第23号、1997年4月)