「《死霊》了」を考える


 四年余の中断を経て書き加えた『死霊』九章の続稿ペラ八枚の末尾に、埴谷雄高は「《死霊》了」と書いた。ほんとうに『死霊』は終わったのだろうか。作者自身が「了」と書いたのだから終わったのだというのでは、いささか単純すぎるだろう。「《死霊》了」の話を聞いたとき、私はほとんどわが耳を疑ったのだった。
 全集では未定稿として扱われることになった続稿を除く九章の原稿が出来たのは一九九一年だが、その前後数年間、私は埴谷さんに会う機会を比較的多くもった。そして会うと埴谷さんの話題は、かならず九章の「むずかしさ」になるのだった。
 埴谷さんは『死霊』の書かれてしまった部分ではなく、執筆中の、あるいは構想中の部分についてよく話した。六章執筆中のことだったが、とつぜん紙と鉛筆をとりだしてボートの平面図を描き、ここに津田夫人がつかまっていて、ここに黒川建吉がいて、と例の隅田川とおぼしき河の眞ん中で転覆したボートの情景を懇切に解説してくれたこともあった。それほど予告篇を克明に語った埴谷さんだったが、九章のときはまったく違っていて、話はいつも「いやー、弱りましたねえ」という嘆声ではじまるのだった。
『死霊』は作者の予告によれば、三輪高志、矢場徹吾、首猛夫、三輪与志の四兄弟がそれぞれの内面を吐露する四つの山場をもっているはずだった。このうち首猛夫と三輪与志という『死霊』の世界の対極をなす最重要人物の内面は、まだ語られていないのである。
 しかし私は、予告が実現しなかったから『死霊』は未完なのだと主張したいわけではない。『死霊』未完の意味をもうすこし埴谷雄高に即して考えてみたいのである。
 私にこういうことをあらためて考えさせたのは、大江健三郎の刺戟的な、あるいはあえて言えば挑発的な「『死霊』の終わり方」(『群像』一九九九年四月号)を読んだからだ。彼はそこで、『死霊』は未定稿をふくむ九章で完結したのであり、この作品は「三輪与志と津田安壽子の愛の物語」だと主張したのである。
 もちろんこういう読み方があっていいし、それを非難する理由はない。しかしこれが、「なぜ『死霊』が終らなければならないか、小説として終っているかそうでないかというようなことは、それこそ小説家の――三輪与志の言葉を使うならば――陋劣な〔原文3字傍点〕ところだと、思想家埴谷雄高の強力な支持者たちに言われるだろう」とか「確かに、長い中絶の後、一九七五年に発表された五章夢魔の世界以後は、作者が『死霊』の文章を書きつぐことによる思想の展開の面白さに動かされているおもむきがあり」というような文脈のなかで語られると、あるいは「思想家埴谷雄高の強力な支持者」の一人かもしれない私としては、ちょっと異議をはさみたくなる。
 大江健三郎から見ると、「思想家埴谷雄高の強力な支持者」は、『死霊』のなかに思想の展開の面白さだけをもとめて、「小説的構築へのねばり強い意志」などみとめていないかのようである。しかしそうではないのだ。
 埴谷雄高が「《虚体》論―大宇宙の夢」と題された九章に難航したのは、その思想的な内容についてではなく、まさに小説的構築に苦心してのことだった。思想としての「《虚体》論」はすでに、はるか以前に埴谷雄高のなかにかたちをとっていたのである。埴谷さんは私との対談のなかでこう言っている。
「気配とか不快だけじゃ抽象概念で、それなら『不合理ゆえに吾信ず』でいいんですよ。あのアフォリズムはそういうことをやっているんです。しかし、小説の方じゃ、こんなでしたかといって顔を撫でたら、ノッペラボウになってくれないと困るんです。アッとびっくりする本来未出現の出現存在がないと困る。」(『埴谷雄高 語る』)
 無いものがあたかも目の前に在るかのように書かなければ、それは小説ではない、と埴谷さんはくりかえした。もちろんこれはたんにフィクションについて言っているのではない。埴谷さんは一九六〇年の日付をもつ「不可能性の作家」というエッセイのなかで、「これまでも嘗てなく、また、これからも決してないだろうところの客観的な対応物をもたぬ或る種の事物を扱う不可能性の作家」について書いた。そこで埴谷さんはあえて「不可能性」を可能にするという高いハードルを掲げて見せたのである。
 それから十五年の後に『死霊』五章が発表されたとき、埴谷さんはふたたびこの高いハードルに向かって走り始めた。私たちはそれに熱い声援を送った。それはもしかすると、マラソン・ランナーに勝手に沿道から伴走する、滑稽なファンに似ていたかもしれない。しかしそういう伴走者にとって、「《死霊》了」は、『死霊』を書きつぐ埴谷さんの力の終りを意味しても、『死霊』の終りを意味しないのである。
(『埴谷雄高全集・15』月報、2000年7月)