変質の時代の永久革命者
埴谷雄高・二〇世紀のヴィジョネール

いまだならざるものも
やがて現われる。
いまだこないものも
やがてやってくる。
埴谷雄高「無表現の精霊」

 あまりにはやく現れたために、同時代の人たちからはほとんど理解されなかった表現者はすくなくない。それらの不幸な表現者にくらべると、埴谷雄高は幸運な生涯をおくったと言えるだろう。たしかに戦争中の『不合理ゆえに吾信ず』のアフォリズムをそのとき理解した人は絶無だっただろう。敗戦直後に『近代文学』で連載がはじまった『死霊』を理解した人はごくわずかだった。しかしそれから十年ほどのあいだに、時代の方が彼に近づいてきたのである。それまで難解をきわめた外国語が、ある日とつぜんわかりはじめたという経験を持つ人はすくなくないとおもうが、ちょうどそれと同じように、ある日とつぜん、私にとって埴谷雄高は了解可能な存在として姿を現したのだった。
 それはおそらく、敗戦からの十年あまりの私の経験と、埴谷雄高の 一九三〇年代の経験が、微妙に重なりあい共振した瞬間であった。それはスターリン批判というようなひとつの出来事を契機にするものではなかった。スターリン批判にショックをうけてというようなことは少なくとも私の場合にはなかった。いよいよ始まったなという感動はあったとしても、ひとりの被除名者として党と革命についていやでも考えつづけずにはいられなかった私にとって、それは「やがてやってくる」ものとして、予期されていたのである。そしてそれがあまりにも手前で足踏みをしはじめ逆行するのをみたとき、私の憤激が埴谷雄高に共振しはじめたのだった。
 埴谷雄高からまずはじめに私が受け取ったのは、目先の「現実」にとらわれてはならない、国家を考えるときには国家が死滅した時点に身を置いて考えよ、党も政治もなくなった無階級社会に身を置いて現在の革命を批判せよ、というメッセージであった。そしてそれは彼を理解するためのもっとも基本的な鍵にほかならなかったのである。
 戦後のはじめに書かれた『死霊』三章の首猛夫と黒川建吉の対話で、そのことはすでに私たちに明示されていた。

 ――無限の可能性を判別し、うけいれる眼をもって、です。
 ――というと……どんな眼?
 ――無限の未来に置かれた眼です。
 ――というと……どんな眼なのだろう?
 ――それは、死滅した眼です。
と、黒川建吉はぽつんと云った。首猛夫はぴたりと立ち止った。
 ――あっは、死滅した眼だって? おお、おお、『未来の眼』と君がいった意味は果たしてそうだったのだろうか。ふーむ、解ったぞ。君はつねに未来の場所から現在を見る。
 ――そうです。一切が死滅してしまった場所に身を置いて、一切を判定するのです。
 ――おお、おお、それこそあのカルノーの原理に表象される、風もなく光もない白一色の樹氷に閉ざされた氷の世界だ。そんな場所に身を置いた君には、一本の糸のような時間の幅から逸脱し、よろめき出てくる無限の可能性が見えるのだね。
 ――そうです。その場所では一切が見えます。

 埴谷雄高にとって二〇世紀つまり自分が現に生きている「この時代」とは、ひとつの壮大な過渡期にほかならなかった。何から何への? 階級社会から無階級社会への、そして国家が人間を支配する世界から国家が死滅した世界への。それは一部の思想的な知識人にとってそうであっただけでなく、大衆に共有された認識あるいは幻想でもあった。そしてそのような認識あるいは幻想をひとつの時代が共有することになった動機は、いうまでもなく第一次世界大戦とロシア革命の体験である。「世界資本主義の一般的危機の時代」とも「戦争と革命の時代」とも表現されたこの時代は、同時にダダイズムや表現主義に代表される芸術的前衛の時代でもあった。政治においても芸術においても「前衛」が登場し、不安に駆られた「大衆」がそれを支えた。この不安に駆られた大衆の存在なしにはどのような前衛もありえなかった。
 しかし、と埴谷雄高はここで重要な保留をつける。彼は言っている。――「二十世紀は戦争と革命の世紀といわれる。おそらくこの規定は誤りではないが、より正確にいえば、それは戦争と革命の変質の世紀と呼ばるべきであって、私達はいま眼前に量が質へ転化しゆく過程をまざまざと眺めつつある。戦争は鏖殺し戦争という戦争本来の最後の目標に達してついに自己の否定を課題とせざるを得ず、つぎに、失う何物もない階級が全力を尽して行いきたった革命は、いまは失ってはならないあまりに多くのものをもっているためこれまでと同じかたちの革命は行い得なくなっている。」(「目的は手段を浄化しうるか」)
 いちどは「無階級社会」実現の戦線に身を投じた埴谷雄高は、そこで階級社会の鋳型にも似たピラミッド状の階層構造を、この陣営もまた保持しつづけていることを発見する。彼は、このような「党」がこの過渡期を指導すれば、「国家の死滅」は覚つかないと自覚する。それは、アナーキストとしてレーニンの『国家と革命』と格闘した末に、その約束手形を信用してボリシェヴィキの陣営に転じた彼が、その手形が空手形であったことを悟る瞬間であった。「私はアナーキストたることを克服して戦列へはいって行ったのだが、普通のもの以上に権力について敏感にならざるを得なかった。私がぶつかって立ちどまるのはつねに権力にからまる問題であり、そして、すぐ想い浮べるのは『国家と革命』で私を克服した内容であった。ところで、そんな私が移って行った戦列のなかに、やがて、われわれが革命すべき当の階級社会のひとつの強烈な、硬化した縮図を見出したとき、私の胸の裡で、複雑な叫びが起った。/レーニンよ、/レーニンよ。」(「 永久革命者の悲哀」)
 そのレーニンについて埴谷雄高は、「レーニンとは、何か。新しい歴史の一ページを開いたレーニンとは、何か。私は、レーニンはただ一揃いのレーニン全集のなかにいて、そのほかの何処にも見出せないと、断言する」と断言する。しかしこれは、いささか負け惜しみではないだろうか。たしかにレーニンが何を考えたかはその全集のなかにあるとしても、レーニンが何をやったのかについては全集はなにも語らないのである。
 しかしながら、「一に理論、二に理論、三に理論」と言い、「認識力は味方のなかの味方」と言う言葉で、埴谷雄高は単純に自分の理論信仰を語っているのではない。「マルクス主義の基本的な好さは、理論家のみが前衛となることである」と言いながら同時に彼は、大衆が理論を獲得し前衛が大衆のなかに姿を没していく過程を強調するのである。それにもかかわらず、埴谷雄高の前衛と大衆の図式はいささかレーニン主義的にすぎるように私にはおもわれる。私はいままでの人生でロクな前衛に出会ったためしがない。
 ところで、埴谷雄高が理論とか認識力にとくべつな重みを与えるのは、彼が既存の陣営から離れて「ただ未来のみを唯一の同盟者としてもつ」「蜘蛛の巣のかかった何処かの古ぼけた隅にいるのんべんだらりとした革命家」になったからではない。ただ透徹した理論に導かれた認識力だけが、国家をささえる政治、その政治を政治たらしめる敵への憎悪、政治のなかの死の跳梁をおわらせることができると彼が考えているからである。
 「死滅せざる国家」を生み出した革命の変質は何に起因するか。それはその国家のなかに階級社会の政治がそのまま生きつづけているからである。それでは階級社会の政治とは何か。それは「お前は、敵か、味方か」というただ一言の問いであり、「奴は敵だ、奴を殺せ」という執行命令にほかならない。
 埴谷雄高がカール・シュミットを読んだ形跡はない。その「敵と味方」の考察は、一見、シュミットに重なるところが多いように見えるが、しかし根本的なところでことなる。シュミットはつぎのように言っている。
 「このような闘争の可能性が残らず除去され消滅した世界、最終的に平和になった地球というものは、友・敵区別の存在しない世界、したがって、政治のない世界であるといえよう。その世界にも、おそらくはたいそう興味深い、さまざまな対立や対比、あらゆる種類の競争や策謀が存在しうることであろう。しかし、重要なことには、それを根拠として、人間たちが生命を捧げるよう要求され、血を流し、他の人びとを殺りくせよと強制されうるような対立は、その世界には存在しえないであろう。このばあいでも、このような政治なしの世界を、理想状態として招来しようと望むかいなかは、政治的なものの概念規定にとっては問題でない。」(『政治的なものの概念』、田中浩/原田武雄訳)
 シュミットはあらゆる価値判断を排除してひたすら「政治的なもの」の概念を確定しようとする。だから彼にとって敵と味方は静的にとらえられるだけで、その間の流動や転化の可能性は理論的には問題にならない。シュミットはいかにして「闘争の可能性が残らず除去され消滅した世界」を実現するのか、そのための可能性はどこにあるのかまでを問わない。だからその友/敵論は、ひたすら《敵》の消滅つまり政治の死滅をもとめる埴谷雄高のそれとは位相をことにする。それでは埴谷雄高が提示する《敵》の消滅とはどのようなものだろうか。
 埴谷雄高にとって、その過程はつぎのように考察される。彼はショーロホフの『静かなるドン』のなかに現れる一枚のビラに注目する。そこにはこう書かれている。――「兄弟の血を流し合うのはもう沢山だ! 目覚めよ、勤労者諸君! 君達の敵はオーストリヤやドイツの兵士ではない、彼等は君達と同じように欺瞞されているに過ぎない。自国のツァーリ、自国の資本家・地主こそ、君達の敵なのだ。君達の銃を彼等に向け直せ。」そして彼は言う。
 「ここに、はじめて、《敵》の新しい姿が現われてくる。戦争のなかにおける敵と革命のなかにおける敵がまったく同一であるという実際的な発見は、二十世紀における最も具体的で切実な内容をもった発見であって、二十世紀が、戦争と革命の世紀、と複合的に強くいわれるのは、一見かけ離れているその両者の奥深い凹所で、同一の敵というただひとつの紐帯がこの上なく緊密に結びつけられているからである。」(「転換期における人間理性」)
 そこから導きだされる結論はつぎのようなものであった。
 「人間が条件によって可変的であるとの革命的な認識は、まず、固定したかたちの敵を容認しなくなったばかりでなく、一般に人間を敵として設定することをも不可能ならしめたのである。もし与えられた条件が変革されれば、それまで敵と見られたものも敵でなくなってしまうばかりか、味方にさえなるのであって、敵は与えられた条件自体であるというその認識は、ひたすら、人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与えるまさに革命的な転変なのであった。」(「政治のなかの死」)
 おそらくこれは埴谷雄高がもっともマルクス主義に近い位置に立った瞬間である。しかし話はここで終わらない。こうして発見された《敵》の新しい姿は、たちまちふたたび古い政治の標語である「奴は敵だ、奴を殺せ」によってかき消されてしまう。ぎりぎりの一握りにまで圧縮された《敵》は、ふたたび膨張をはじめる。そしてついには《味方》のなかにさえ膨大な《敵》が、「人民の敵」が、「発見」されるにいたる。なにがこのような後退をうんだのか。埴谷雄高によればそれは、革命を担った側の政治のなかにいまなお牢固としてある無自覚な階級構造と、「理論的な深さの欠如を示す《敵を殺せ》方式の無反省な一般化」に起因する。外にも内にも敵を見つけ敵を増殖しつづける国家を、「死滅せざる国家」として彼は弾劾する。
 「嘗ては人を殺すことが讃えらるべき勇者の業であったが、いまそれは無理論と無能の証明になった」とはげしく政治/戦争のなかの死を糾弾する埴谷雄高は、そこでつぎのような彼の標語を掲げるのである。――「敵は制度、味方はすべての人間、そして、認識力は味方のなかの味方、これが絶えざる死の顔の蔭に隠れて私達のあいだに、長く見つけられなかった今日の標語である。」(「敵と味方」)
 われわれは膨大な戦争の死者、数さえまだよくわからない政治のなかの死者たちの冷ややかな視線に、さらされつづけているというのが埴谷雄高の実存的な感覚である。

 私――死者はつねに見捨てられた歴史の彼方で、生者を呼んでいるのです。彼は生者に向って、ぐれーつ、と呼びかけているのです。
 彼――なんと呼びかけているんですって。
 私――ぐれーつ、です。
 彼――そして、生者にはそれが聞えないのですね。
 私――そうなのですよ。私にはそれが解ります。
 彼――ほう、どうして、貴方にはそれが聞えると主張できるのですか。
 私――それは、まあ、長年、私が死んでる真似をしてるからでしょうね。(「平和投票」)

 死んでいる真似であって死んでいたわけではない。死んだ振りをしてひたすらヴィジョネールと化した彼は、「憲兵が、大東亜、と問えば、私は、アンドロメダ、と答えて」(同)戦中をすごし、たっぷりと死者の声を聞いた。いや、ぐれーつ、という呼びかけを発しているのは死者だけではなく、じつは《存在》それ自体もまた、ぐれーつ、という呻きを発していることを発見する。彼の革命は制度の変革にとどまらない。社会の革命と同時に存在の革命へ。
 「ここで注意すべきことは、しかしながら、この制度の変革は必ずしも同時に現実の総体の変革の可能性を意味しないということである。ドストエフスキイが『死霊』のなかで適確に指摘したような「地球と人類の物理的変化」といった自然と人間自体の枠をも飛躍しようとする種類の現実の秩序に就いての変革の渇望と闘いから起るさまざまな問題は、芸術や他の領域にゆだねられこそすれ、政治のもつ力がそこまで到達することはついにない。政治は古き生産関係を変革して新しい制度のなかに人間を置き、徐々に或いは急速にその人間の活動様式と社会意識の方向を変革すれば足りる。」(「闇のなかの自己革命」)
 すでに埴谷雄高は一九五八年の「権力について」というエッセイで、「政治の幅はつねに生活の幅より狭い」と断言している。戦前のプロレタリア文化運動のなかで支配的になり、戦中の軍国主義の時代に猖獗をきわめ、戦後のマルクス主義の復活によってふたたび復活し、六〇年代の新左翼運動をも支配した「政治の優位」という考えに、埴谷雄高は一貫してこの「政治の幅はつねに生活の幅より狭い」というテーゼを対置するのである。これはとりもなおさず、日常の生活における生の生産および再生産というもっとも基礎的な過程がかわらないかぎり、革命は成就しないという徹底した文化革命の主張なのである。
 ところで、「存在の革命」とはいったい何だろうか。いや、その前に、埴谷雄高にとって《存在》とは何だろうか。「二十世紀は事実と事物の世紀であって、そのなかに置かれた文学の特質は、一方では、《戦争と革命》に対する力学を掘りさげることと、さらにまた、他方では、暗黒のなかで微光をはなっているような《存在論》を掌のなかに握って、宇宙論的ヴィジョンのなかに私達の生を置くことにある」(「存在と非在とのっぺらぼう」)と彼は言っている。
 埴谷雄高にとっての《存在》論とは、いま有るものの考察にとどまらず、未だ無いもの、彼の用語を使えば「未出現」「虚体」「のっぺらぼう」への幻視をともなわなければならない。なぜならいま「有る」ものは、もしかしたらほんらい有るべき筈のもののかわりに誤って出現してしまったものなのかもしれないからである。『死霊』の主人公のひとり黒川建吉は、「私達の歴史は、逸脱の歴史です」、「歴史の幅から見事に、また、とりかえしもつかずはみ出してしまったもののみが、私達の先人として認められるのです」と言い、「未出現の思索者」を自称するもうひとりの主人公・矢場徹吾は、「この世が終る前に――物体が眼を見開く過程を、私は確かめてみたいんです」と語る。その彼は、膨大な食物連鎖の頂点に立つ人間の倨傲を、そのなかに安住する人間の自己欺瞞を、ガリラヤ湖の魚を無反省に食べたイエスをもふくめて弾劾する。
 ここにはいうまでもなく、埴谷雄高が関心をもったジャイナ教の教義が影をおとしている。ジャイナ教について詳しく述べることはできないが、ほぼ仏教と同時代にインドでおこったこの宗教はきわめて厳格な戒律をもっており、無害、真実言、不盗、梵行、無所得の五つの大禁戒をまもらなければならない。このうち無害つまり他を害さないという戒律はもっとも徹底しており、ジャイナ教の僧は生き物を踏みつぶさないように箒で道を掃きながら歩いたと言われ、これを徹底すればとうぜん一切の食事を拒否するにいたる。ジャイナ教の開祖をマハーヴィーラ(大雄)といい、この大雄と釈迦との対決こそ、ついに書かれることなく終わった『死霊』の最後を飾るエピソードとなるはずだったのである。埴谷雄高は徹底した非宗教者であったが、彼がドストエフスキーの「地球と人類の物理的変化」という幻想にこのジャイナ教の理念を重ねていたことは間違いない。
 ところで、矢場徹吾の言う「物体が眼を見開く過程」とは何を意味しているのだろうか。それは人間と自然との和解であり、木や石が語りかける言葉ならざることばを人間が聞くことができるようになった状態であろう。
 しかし埴谷雄高は神秘主義的にこれを語っているのではない。若いマルクスが共産主義として描き出した世界――「人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの解決である」ような「完成した自然主義として=人間主義、完成した人間主義として=自然主義」の世界と、埴谷雄高が幻視する社会の革命と存在の革命をともに実現した「窮極の世界」とは、それほど違っているとはおもわれないのである。
 このような現実否定に埴谷雄高を駆り立てているのは理論でも倫理でもなく、それは不快感である。「貴方の本体は、何です?」という三輪与志の問いに首猛夫はきっぱりと答える。「ふむ、形而上学的不快ですよ。」それにつづいて作者は三輪与志の内面のつぶやきをつぎのように書く。――「《不快――それが俺の原理だ》と、自身の想念のみへこもりながら、彼はさらに呟きつづけた。《そいつは俺の魂を動かす唯一の槓桿だ。そして、恐らくこの宇宙をもその涯まで動かし得る唯一の槓桿だ。そいつなくしてこの湿った微粒子の果てなき拡散も光の波動もまるきり一歩も踏みだせずに太初の闇そのままに停まっているだろう。そして、そいつなくしてあの神秘な夜、寂莫のなかに暗い樹の芽が静かに芽ぶく音をたてているあの香わしい大気の漂よう夜もやってこないだろう。そうだ。自らをついに持ちきれ得ぬ底知れぬ不快――そいつは宇宙の涯から涯へまでわたって《俺》の原理になっている。……》」
 埴谷雄高としての出発の日に、彼は「――私が《自同律の不快》と呼んでいたもの、それをいまは語るべきか」(「不合理ゆえに吾信ず」)と書いた。ここにはどのような韜晦もない。端的に彼はAがAでしかあり得ないことに不快なのである。人間をふくむすべての存在は、本質的にかつ内在的に、いまある自分とは違う何かに変わりたいと願っているのである。そこには「俺は俺だ」と叫ぶことのできない《俺》もふくまれている。その願望にもかかわらず、変化はそれをおしとどめる力の前に押し戻される。埴谷雄高はその押し戻す力に向って《ぐれーつ》と叫んで手袋を投げる。不快感の深い底からふきあげてくるこの叫びが形をとるところに、埴谷雄高の文学が生まれる。
 「今世紀は死者の意味を問う最後の世紀になった」(「敵と味方」)と埴谷雄高が書いたのは、一九五九年、二〇世紀がその半ばを過ぎたばかりの時だった。しかしその予測に反して私たちは、依然として、そしてますます深く、死者の意味を問いつづけながら二一世紀への扉をくぐらなければならないところに佇んでいる。九〇年代の中頃だっただろうか、私は埴谷さんにソ連の崩壊をどう思うかとしつこく聞いたことがある。彼の答えはつねに判で押したように、「なにも変わらない」であった。二〇世紀の課題が未解決のままに残されたのなら、その解決をはばんだ原因の究明をも含めて、私たちはそのすべてを二一世紀に担っていかなければならないのである。
(『インパクション』122号、2000年12月号)