戦後思想の再読

埴谷雄高著『幻視のなかの政治』

『幻視のなかの政治』が中央公論社から瀟洒な装幀で発行されたのは、1960年1月のことである。最初にまず、収められているエッセイの題名と初出を記しておこう。

「権力について」(『実存主義』1958年12月号)
「政治のなかの死」(『中央公論』1958年11月号)
「憎悪の哲学」(『中央公論』1959年7月号)
「目的は手段を浄化しうるか」(筑摩書房「講座現代倫理」第2巻、1958年12月)「敵と味方」(『中央公論』1959年2月号)
「転換期における人間理性」(筑摩書房「講座現代倫理」第7巻、1958年9月)
「フルシチョフ主義の秘密」(『世界』195年九月号)
「指導者の恐怖」(『日本読書新聞』1958年7月7日号)
「指導者の死滅」(『中央公論』1958年7月号)
「革命の意味」(『中央公論』1959年11月号)

 これを見てもわかるように、『幻視のなかの政治』の中心部分は、1958年の後半から1959年後半にかけて断続的に『中央公論』に掲載された政治的エッセイである(「指導者の死滅」「政治のなかの死」「敵と味方」「憎悪の哲学」「革命の意味」)。いま、あらためてその日付を書き留めるのは、これらの文章が深くその時代とかかわり、またそれを読む者とのあいだに生まれた感応も深くこの時代に規定されていたからである。
 1956年はスターリン批判で歴史にのこるソ連共産党20回大会の年であり、そして埴谷雄高にとっては、四年間におよび療養生活からようやく抜け出すことのできた記念すべき年でもあった。この年かれは「永久革命者の悲哀」を『群像』5月号に発表する。『死霊』の作家はこのときから、もっとも先駆的な政治思想家としてのもうひとつの貌をはっきりと見せはじめるのである。それは同時に『死霊』という作品の幅と奥行を見通すことのできる眼鏡を、われわれにあたえてくれることにもなった。そうしてあの60年代がはじまる。1960年代、それは埴谷雄高の時代であった。スターリン批判という一つの時代の終わりと、60年代というあたらしい時代の始まりのちょうど結節点にこの『幻視のなかの政治』というエッセイ集は立つていたのである。
 回想は多かれ少なかれ自分を抜きには語れない。まして60年代の大半を政治的実行者としてすごした私のポケットには、いつも埴谷雄高が入っていたというのであれば、なおさらであろう。

 死んだものはもう帰ってこない。/生きてるものは生きてることしか語らない。

  それは、絶えざる囁くような暗いリフレインを操返した。二十年? 何をいってるのか。何故、そのとき、組織のなかで闘わなかったのか。何故、そのとき、組織のそとへ出て原因の探求に精根をこらさなかったのか。このニ十年のあいだに私の知り合っている幾たりかはすでに死んでしまった。その裡のひとりは、自殺し、ひとりは、気が狂った。彼等に、お前達は否定的な影響を受けてむだな自己消費をしてしまったのだといっても、もはや彼等はもとへもどらない。彼等がどんな入念な是正をされても、そこに暗い悲哀はのこるだろう。(「永久革命者の悲哀」)。

 これは前年の六全協にもかかわらず、いぜんとして一被除名者としてスターリン批判を受け取った私の心情そのものであった。このときから私は、「すべてを、ピラミッドの階段にひきもどす過去から見るな。すべてを、上下関係のない宇宙空間へひきゆく未来から見よ。針の先ほどの些細な不審も見逃すな。汝の熱っぽい掌の上で験してみよ。たとえそれが現在如何に激烈に思われようと、それらが未来から見て愚劣と看做されるものは、すべて、必ず変革されると、私は断言する」(同)という埴谷雄高の言葉を信じ、それを実行することを自分に誓ったのである。
 無理に自分を納得させるな、ヘンだと思ったらへンだと言え、というのがまことに身も蓋もなく通俗化された私の埴谷的第一テーゼなのであった。そしてへンなものは至る所に見いだされたのだが、へンだと言う奴こそへンなのだというのが「前衛党」のしきたりだったから、数年後には三度目の除名を受けることになるのもまた当然の成り行きだった。

 レーニンが悲愴で皮肉な盲点のなかにあったところの、革命においても変革されなかった唯一のものとは、さて、党である。(「敵と味方)

 この時期に埴谷雄高が提出した政治思想の内容は『中央公論』掲載の5篇のタイトルに端的に表現されているが、その抽象的・文学的装いにもかかわらず、その射程はソ連と〈党〉にたいするきわめて現実的な批判にまで達していた。そしてその中心は形骸化されたソヴェトと死滅せざるプロレタリア国家にたいする根底的な告発にほかならない。若い日に「ソヴェト=コンミューン」と題する戯曲を書くことでレーニンに論争を挑み、ついに論破されてその軍門に下った埴谷雄高にとって、ソヴェト権力を共産党が簒奪するという現実は、レーニンの公約に反する許しがたい事態であった。なぜこのような事態がおこったのか? 埴谷雄高によればそれは、革命前の党がその性格を変えずにそのまま革命後にひきつがれてしまったからである。ツァーリズムのもとできびしい非合法の活動を余儀なくきれた党の性格、つまり大衆から厳密に区別された職業革命家(専従党員)、厳格な上下関係と中央集権主義(民主集中制)、そしてすべてを自分の指導下におくことを義務と考える「前衛」意識……、これらが不変の〈党〉の構成原理なのであった。なぜ革命後もこの基本的な性格は変わらなかったのか? そのとき党が掌のなかにもっていたものが絶えざる死だったからだ、とかれは答えている。

 恐らく歴史のなかで、いまだ嘗て、ひとつの党内でこれほど多くのみ敵対がつくりだされた例はまだ一度もなかった。中世期のヨーロッパ全土に黒死病が名状しがたい恐怖をひきつれて横行したごとく、ほとんど理解しがたい死に方をも含めた、凄まじい死は党内の隈々まで徘徊した《やつは敵だ。やつを殺せ。》という古い政治の公式が毎日何処かの暗い隅で叫ばれ、曠野のなかの深い穴へ葬むられる黒死病の屍体に近いほど数多い無惨な死の顔が絶えずそこで眺められたが、さて、そのとき、《敵》とは何かについて真塾に考えつめたものがひとりもなかったとは、驚くべきことである。
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 自己の内側にせよ外側にせよ、つまり、党にせよ資本主義にせよ、制度の変革は事物の認識なしに不可能である。……これに対して、事物の認識と緑なき人間の抹殺はファシズムの指導原理であるただひとつの感情の高揚(憎悪の哲学)を必要とするだけであって、そのなかにひとたび住めば、何人も絶えざる虚無へ向かう血まみれの行動と無理論のなかで、事物を《変革》すべき主体の革命性を失うことは必然である。嘗ては人を殺すことが講えられるべき勇者の業であったが、いまそれは無理論と無能の証明になった。何故なら、たとえ不可能と見えるほど困難にせよ、医師にとってすべての患者がやがて癒さるべき相手であるごとく、私達にとっては内側と外側の古い制度にひきずられている誰もが、やがてともに歩むべき味方なはずだからである。敵は制度、味方はすべての人間、そして、認識力は味方のなかの味方、これが絶えざる死の顔の蔭に隠れて私達のあいだに、長く見つけられなかった今日の標語である。
                   (「敵と味方」)

「スターリン批判」のかすかな暁光のなかでこの一節が書かれてから今日にいたるまで、なおわれわれは政治のなかで演じられる〈敵〉の殺戮を見つづけているのである。しかもそれらはスターリン時代にくらべてけっして少なくなったわけではない。六〇年代をつうじて〈政治のなかの死〉はますます身近になった。それはもはやソ連のことでもスターリン時代の昔話でもなく、いま、ここでの出来事なのであった。埴谷テーゼはどこか違っている。埴谷さんはもう一歩踏みだすべきところで立ちどまっているのではないかと、六〇年代の経験のなかで私はなんども自問自答したのであった。その中心はやはりいぜんとして〈党〉にほかならない。〈党〉は改革の対象か、それとも解体の対象か? 埴谷雄高は党が大衆のなかに溶解するという自己否定のヴィジョンを明確に描きながらもなお、当面の問題として党の改革の必要性と可能性を疑ったことはないように思われる。しかし六〇年代の経験からわたしがつかみとった結論は、「党こそ諸悪の根源である」なのであった。つまりわれわれの再審の対象は、スターリン批判の時点(1956年)で「この二十年」に限定されるのではなく、十月革命にもレーニンにも及ぶものでなければならないということであった。
「敵は制度、味方はすべての人間、そして、認識力は味方のなかの味方」という標語は、埴谷雄高の政治思想にとっていわば最後の言葉である。わたしもまたこの標語を服膺した。しかし現実の政治のなかではこの標語も両義性をもつように思われた。というのは、この標語はつぎのような認識を前提としている。

 人間が条件によって可変的であるとの革命的な認識は、まず、固定したかたちの敵を容認しなくなったばかりでなく、一般に人間を敵として設定することをも不可能ならしめたのである。もし与えられた条件が変革されれば、それまで敵と見られたものも敵でなくなってしまうばかりか、味方にさえなるのであって、敵は与えられた条件自体であるというその認識は、ひたすら、人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与えるまさに革命的な転変なのであった。(「政治のなかの死」)

 これを主観的能動性つまり「人」に力点をおく毛沢東派が一方にあり、他方の極には制度の改革に力点をおく構造改革派があるという、60年代の運動の党派的論争の場に置いてみると、残念ながらその対立を止揚する深みにまでは達していないのである。人間はかれが生きている条件が変わればかわるとして、では、その条件は誰が変えるのか、と問われると、このテーゼはエンドレスの回転をはじめてしまうのである。1000万とも2000万ともいわれる文化大革命の死者、200万とも300万ともいわれるポル・ポト派に殺されたカンボジアの民衆、それらを一例として考えても、「敵は制度」というだけでは政治のなかの死は姿を消すことはないと思われる。われわれは〈党〉が主導する革命とは決定的に違った道を通って、そのなかで人も制度もともに変わっていくような運動を模索する以外にないのである。
 わたしはいさきか批判的な言辞を弄したが、それはあれから三十五年後の言葉であって、あの1958年という時点で、スターリンの『レーニン主義の基礎』によって教育された一人の狂信的な若造が、それから十年後には「党こそ諸悪の根源」と断定するにいたるその歩みの第一歩をふみだす契機こそ、この一冊の本にほかならなかったのである。そしていま、ソ連とソ連共産党が自分自身の手で解体されるという現実を眼前にして、わたしはあらためて埴谷雄高の政治思想の現代性と先見性を確認する。幻想こそがもっとも現実的であるような時代、それが現代なのだ。
 もちろん、「政治の幅はつねに生活の幅より狭い」(「権力について」)と言う埴谷雄高にとって、政治は部分でしかない。しかしかれの存在論、かれの宇宙論、かれの幻想的な夢の世界……総じて文学と、これらの政治論の試み(エッセイ)とは、じつは分割不能な全体をなしているのである。「制度が変わる」というとき、その制度には存在もまたふくまれている。制度の革命はその射程に存在それ自体の革命までをふくむ。どうしてこれが妄想であろうか。存在の革命とは存在と人間との関係の革命にほかならない。関係が変われば存在それ自体の人間にたいしてもつ意味も相貌も変わるのである。そのような〈革命〉なしにどうして人間はこれから先を生きのびることができようか。そして人間それ自体も数十万年の時間でみれば、いまなお変化の過程を過程しつつあることは自明なことではないか。「革命家とは自己内部ですでに数百年にわたる革命の全過程が完了し、無階級社会のヴィジョンと現在の生活態度がすでに一致しているはずのものの謂であって、まだ萌芽的な小さな事物のかたちのなかに終極のぼんやりした大略な輪郭を幻視しうるのが通例である……」(「革命の意味」)と埴谷雄高は書いていたのである。(『月刊フォーラム』1992.9)