戦時下の文学的抵抗――田木繁の場合

 いままで4回におよぶ「田木繁の集い」の報告やその他の資料を送っていただき、また自分の手許にあったプロレタリア文学関係の資料を参照しながら、いちおう『田木繁全集』に目を通しました。とうてい全部を精読したとは言えないのですが、田木繁の人と作品について、わたしにはいままでこの会で論じられてきたことに付け加えられるものはそれほどないな、という思いでした。それで以下、田木繁から若干の距離を置きながら、彼が生きた時代・運動・問題というように大きく枠組みをとって、考えてみたい。そういう大きな枠組みのなかに置くとまた田木繁のちがった側面が見えてくるのではないかという、かすかな予感を持って以下、いくつかの問題を検討してみます。
 私の話の中心のテーマは転向と抵抗です。いままで田木繁の転向について何人かの方が論じていますが、その論の前提には、プロレタリア文学(運動)から離れたことがとりもなおさず転向である、そして転向は敗北であるという定式があるようにおもいます。私はここのところをもう少し突っ込んで考えてみたい。そこでまず、プロレタリア文学者にとって転向とは何だったのかということから考えてみます。
 田木繁はある聞き書きのなかで、「私は方法論的には共産主義者としての転向は何回もした。(しかし)マルクス主義者としての転向はしたことはないのです」と答えています。この言葉のもつ意味はたいへん大きい。そしてここには田木繁の転向だけでなく、ひろく日本のプロレタリア文学者の転向を考える際の鍵になるような問題が含まれています。そしてそれを理解するためには、プロレタリア文学(運動)とは何だったのかということから始めなければなりません。
 こんにち、ある作品が労働者の生活を描き、あるいは社会主義的な理念を表現しているとしても、それをプロレタリア文学とは呼びません。戦前のある時期の中野重治をプロレタリア作家と呼ぶことはあっても、戦後の彼をプロレタリア作家とは呼ばない。また明治時代に白柳秀湖の「駅夫日記」が、いかに労働者の生活と意識を先駆的に描いたとしても、それをプロレタリア文学とは呼ばない。つまりプロレタリア文学はあるかぎられた時代にだけ存在したのです。それはだいたい一九二〇年代のはじめから三〇年代の中頃までです。そしてその特徴は、理論と運動と作品がいわば三位一体をなしているという点にあります。理論とは一般的にはリアリズムにかんする理論ですが、中心的には「主題の積極性」という主張です。運動とは政治(革命)運動との関係における文学運動の位置づけの問題であり、中心的には「政治の優位性」という主張です。これらの関係のなかではじめて作品がうまれ評価される、というのがプロレタリア文学の特徴です。
 もちろんたとえばロシア象徴派の運動にしても、フランスの超現実派の運動にしても、前衛的な文学・芸術運動(プロレタリア文学運動もその一種と考えることができる)には多かれ少なかれこの三位一体が見られますが、プロレタリア文学運動の特徴は、それを統括する「至高点」に「政治」をもっているというところにあります。ロシア未来派のようにきわめて政治的な意識をもった芸術運動でも、芸術の自律性についてはいささかの動揺もなかったのとくらべて、プロレタリア文学運動はその点で特異だといえます。
 いま、「至高点」としての「政治」という聞き慣れない言葉を使いましたが、しかしその「政治」なるものも、プロレタリア文学の全期間を通じて同じであったわけではありません。プロレタリア文学の始めを文学史の常識にしたがって一九二一年の『種蒔く人』の創刊におくとすると、そのとき「政治」という言葉で表現されていたのは「第四階級」という概念でした。それが「プロレタリアート」となり、「革命的プロレタリアート」となり、ついに「革命的プロレタリアートの党」にまで「純化」されていったのが、それからほぼ十年間のプロレタリア文学運動の歩みでした。一九三〇年に蔵原惟人が、「ナップ芸術家の新しい任務――共産主義芸術の確立へ」という論文を発表して、芸術運動のボルシェヴィーキ化を主張します。彼はその内容を「我々の芸術家が、わが国のプロレタリアートとその党とが現在において当面している課題を、みずからの芸術的活動の課題とすること」と規定しています。
 プロレタリア作家同盟がその前年、一九二九年に結成されたとき、彼らが掲げた綱領は、日本におけるプロレタリア文学の確立、ブルジョアジー、ファシストおよび社会ファシストの文学との闘争、労働者農民その他の勤労者の文学的欲求の充足」の三項目でした。ところが「ボルシェヴィーキ化」のコースが採択されて以後、「革命的プロレタリアートの陣列にあっては、文芸家もまた基本的にはプロレタリアートの政治家にほかならない」(宮本顕治)とか、「政治の優位性の全面的理解は、単に『主題の積極性』および組織的活動等による補助的任務を行うことにあるばかりでなく、又自己を最も革命的な作家、即ち『党の作家』に発展させることを意味する」(小林多喜二)とか、「我が同盟は、あらゆる革命的作家を成員として獲得して行くものであるが、その中に、指導のボルシェヴィキ的方向を拒む『同伴者グループ』が別個に存在し得るものではない」(「右翼的偏向との闘争に関する決議」)というような主張が主流を占め、ついには創作活動よりも組織活動が重視され、作家に共産党や全協のオルグの役割まで要求されるようになりました。このような運動のありかたを後年に本多秋五は「小林多喜二の線」とよんでいます。
 プロレタリア文学運動はその出発の時から「階級」とか「革命」といういわば絶対的な価値をもっていました。文学を通じてその価値に貢献することを、自明のこととしていました。しかし作家たちにとって、このような要請はかならずしも非文学的な強要とは受け取られなかったとおもいます。第一次世界大戦とそれにつづくロシア革命によって、世界は変わり始めているという実感は、このとき多くの作家を捉えていました。初期のプロレタリア文学に、たとえば葉山嘉樹の『海に生くる人々』や中野重治の『春さきの風』、小林多喜二の『蟹工船』や武田麟太郎の『暴力』のような今日から見ても心を打つすぐれた作品が多いのは、作家と時代との一体感にそれらが支えられているからです。
 しかしその貢献すべき対象がしだいに「党」へとしぼられていくにしたがって、その要請に応えられる作家はごく少数の「純文学」系の作家に限られてきました。「大衆文学」系の作家(それがプロレタリア文学全盛期の主流を占めていたのですが)は、イデオロギーを水増しするものときびしく批判されるようになりました。後期の小林多喜二はほとんどただ一人、「党の作家」をめざして刻苦勉励したわけですが、彼の文学観は、よい作品を創るためにはよい生活をしなければならないという、求道的私小説家の文学観とさほど隔たってはいなかったとおもいます。しかしこれは錯覚に過ぎません。自身の党的な実践のなかからうまれた私小説的な『党生活者』が、入党以前の非体験的な『蟹工船』にはるかにおよばなかったことは、こんにち冷静に読めばあまりにあきらかです。プロレタリア文学はその運動においても作品においても、ボルシェヴィーキ化以後、急速に下降線をたどりはじめました。
 私はプロレタリア文学には三つの柱があったといいましたが、そのうちの理論と運動については、すべて間違っていたとおもっています。それにもかかわらず、プロレタリア文学作品は正当に存在したし、それを無視して二〇年代から三〇年代にかけての日本の文学史を語ることはできないと信じています。そしてそれらの作品は、矛盾した言い方のように聞こえるかもしれませんが、理論と運動の幼稚な政治主義にかきたてられた芸術意識によってはじめて可能になったものです。ボルシェヴィーキ化以前のプロレタリア文学がもっていた前衛的な芸術意識は、そのようなものとして時代を圧倒しました。それがボルシェヴィーキ化のスローガンのもと党によって統制され利用されるようになると、作家たちの反乱はさけられないものとなりました。作家同盟はわずか三年あまりで崩壊します。
 さてここで、ふたたび最初に引いた田木繁の「自分は方法的には何回も転向したが、マルクス主義者としての転向はしたことはない」という言葉にかえります。それはプロレタリア詩人としての彼の考えをじつによく表していると思います。彼は思想としてのマルクス主義は終始一貫して持ちつづけてきたが、プロレタリア文学については何回も考えを変えた。彼は一九三六年七月に小熊秀雄への公開状を書き、そのなかでつぎのように言っています。
 「今日になっては既にお互いの追憶に属することだが、かのナルプ解散以後吾々をして雑誌『詩精神』へ結束せしめたものは何か? それはこの国に残存する公式マルクス主義者に対する反撥に外ならぬ。」「吾々はプロレタリア文学の官僚主義的伝統に対して、それぞれのやり方で尻をまくった。」
 これは転向でしょうか。当時の通念からすれば転向だったでしょう。しかし「小林多喜二の線」からの離脱がただちに転向としてしか実現しなかったのは、それにかわる現実的な運動が存在しなかったからです。なぜそれが存在しえなかったかといえば、そのためには「ボルシェヴィーキ的指導」つまり共産党に異を立てる以外になかったからです。インテリゲンチャのなかに党の神秘化・絶対化の心情が支配していた当時にあっては、それはほとんど不可能な選択でした。
 ですから私は、ボルシェヴィーキ化のコースが存在するかぎり、プロレタリア作家の転向は不可避だったとおもいます。この段階での転向はなんら倫理的に非難されるべきものではありません。それは変節ではありません。しかし運動を崩壊させたという意味ではやはりそれは敗北に違いないでしょう。問題はその後です。組織はすでにない。運動は同人雑誌単位でほそぼそとつづいている。そういうなかで、ひとりひとりの作家がいかに自分を立て直していくのか、だれの指示も受けず、自分一人の文学的営みをとおして自分を立て直していくのか、それが問われるわけです。「文学作品として打ち出した自己批判を通して日本の革命運動の伝統の革命的批判」に進み出た中野重治を、私たちはその典型的な作家としてもっています。田木繁もまた過去の総括から始めます。彼は前に引いた一節につづけてつぎのように書いています。
 「周知の如く吾国文学運動の発展の歴史に於いて、社会主義リアリズムのスローガンは下からの勢力として、傾向的な流派として発生しなかった。それは今までのすべてのスローガンと同じく、ソヴェトに於ける提唱に際して、逸早く翻訳導入された。それは唯物弁証法的方法にとってかわってすげかえられた。こう云う理論的作業に対しては、わが国プロレタリア文学の理論家達はそれこそ『遙かドイツを凌ぎ、ソヴェトに迫っている』水準に到達していた。従ってそこでは絶えず主張され、実践されるかわりに、絶えず解説され教訓されることが慣わしであった。このやり方に於いては、わが国の理論家達はまことに手に入ったものであった。その体裁は堂々としており、また丁寧懇切をきわめていた。しかしながら真実の文学運動というものは、果してこう云うやり方で発展するものであろうか? そして吾々の文学運動は今日に至るまで事実発展と云い得る発展を示したであろうか? ナルプ解散を機にして、こう云うことを最も痛感したのは、吾々であった。〔中略〕作家個人は自己に帰らねばならぬ。そこから個人々々に特殊な立ち直り方を発見せねばならぬ。特殊な発展の方向を発見せねばならぬ。」
 中野重治はこの時期に島木健作を批判して、転向からの立ち直りということはけっしてもとに戻ることではない、過去の批判を通してあたらしい自分をつくることだと主張しました。田木繁もほぼおなじような問題意識をもっています。そしてこの時期に、どれだけかつて自分が信奉したプロレタリア文学の方法を批判・克服したかが、その後の、つまり戦争中の在り方を決定します。戦後、私たちは吉本隆明の「前世代の詩人たち」という評論によって、文学者の戦争責任を文学理論そのものに内在する問題として解明するところまですすみました。つまりこういうことです。転向したプロレタリア詩人の多くが戦争翼賛の詩を書いた。そのほとんどが、政治の優位性、主題の積極性というプロレタリア詩の方法のままに、奉仕すべき政治を革命から戦争へと入れ替たにすぎない。つまりプロレタリア詩あるいは文学の方法は、いささかも戦争協力への文学の動員にたいする抵抗の支えにならなかっただけでなく、積極的に協力へと道を開く役割を果たした、と。
 田木繁のプロレタリア詩からの離脱・克服の文学的な作業は『機械詩集』(一九三七年刊)からはじまります。ここに収められている詩のなかでいちばんはやく書かれたものは一九三四年二月の作品ですが、このあたらしい出発は「生産場面を描け」というプロレタリア文学の問題圏のなかからおこなわれます。しかしこの出発は、従来のプロレタリア文学の主題的な要請であった階級闘争の現場としての生産場面という考えにたいする批判としておこなわれます。彼は、生産場面詩と生産場面における闘争詩とは全然異なった二つの概念を表現していると言い、自分が理解し主張する生産場面詩とは「純粋に労働の本質的なもの、生産方法の本質的なもの」を表現する詩なのだと言います。つまり彼が『機械詩集』で追究したのは、疎外される以前の本然的な人間労働の形であり、機械をなかに挟んで自然と向かい合う人間の精神の働きだと言っていいでしょう。
 田木繁が京都大学に入学した一九二七年は、福本主義の全盛期でした。彼は社会科学研究会でそれを学び、たちまち福本イストとして理論闘争に頭角を現したようです。そういう理論的人間としての側面が、このとき彼にいい具合に作用したようにおもいます。たんに感覚的にではなく、プロレタリア文学理論を労働の本質論にまでさかのぼって実作を通じて克服しようとする彼の問題意識が、生産場面を主題化しながら『機械詩集』を、そのころ流行した体制迎合的な生産文学から決定的に隔てることになったのでした。「絶対の目標としての生産点を前にして、ぼく自身は甚だ大それた方法を用いました。それはパルタイリヒカイト(党派性)放棄ということです」と彼は書いています。これは党の課題を芸術活動の課題とするというようなボルシェヴィーキ的党派性からの決定的な訣別です。党派性になお自分の良心を託した多くのインテリゲンチャが、戦争を通じて日本の社会変革が可能だと考えて総動員体制のイデオローグになり、結果的には紛れもない戦争協力の迷路に彷徨い込んだのにくらべ、田木繁の歩んだ道は決定的に違っています。それは強烈な現実拒否です。総力戦体制から逃れて「釣り狂」の毎日を送ることができたのは、もちろんそれだけ恵まれた環境に彼がいたということですが、しかし恵まれた環境だからというだけではすまない問題がここにはあります。この戦争という現実を拒否する彼の生き方の根底には、おそらくかつての「拷問を耐える歌」を書いた彼に通じるものがあるように、私にはおもえます。主体性や自我主義とはおよそ逆の、新即物主義的な立場で『機械詩集』を創った田木繁は、しかしその前提としてきわめて個性を重視する人でした。まさに「私一人は別物だ」というわけです。
 彼は『釣狂記』のなかで、こんなことを言っています。
 「打ち明けて云えば、彼は心の中で聊かも魚つりなど愛しているのでない。或いは単にそれが魚つりが魚つりだけのものであるならば、誰がのんびりとそんなことばかりしていられるか? しかし彼にとってはなんとかしてそれから逃げよう、逃げなければならぬと思いこんでいる彼の詩があるのだ。彼が彼の詩から逃げきれぬ限り、嘗て詩人であった彼自身を抹殺できぬ限り、彼は彼の魚つりから離れるわけに行かぬ。彼は彼の詩から逃げうるたった一つの、それ以外にない手段として、魚つりを発見したからだ。」
 そしてさらにこのように回想します。
 「二十代の三吉は詩作を以て世に立とうとしていた。がそれは凡そ一般の物柔らかな、靉靆〔ルビ→あいたい〕としたものでなかった。いつも赤目をつりあげた、いきり立ったものであった。彼自身の定義に従えば、最も詩的なものとは、最も激しい人生の苦しみに、正面から向かいあった人間の姿にほかならなかった。従ってそういう詩を作りあげるためには、絶えず世の中の激しい葛藤の中に立ち、激しい感情に自らをかきむしらねばならなかった。/こういうような詩は、はじめの内は少し世の中に迎えられたように見えた。が間もなく世の中の事情は変わり、一般にこういう詩をみとめることも、又こういう詩を書きつづける余裕を与えることもしなくなった。のみならず唯一つ、楽しい詩しか認めぬような時勢になった。従って詩人として生きのびるためには、三吉も何らかの形で、楽しい詩を書く外はなくなった。が彼にはどうしてもそれが出来ぬのであった。」
 楽しい詩とは戦争を肯定し、日本を肯定し、人生を肯定し、……現実を肯定する詩です。彼はそのような詩から断固として逃げようとします。『釣狂記』は一九四一年一一月号から翌年二月号の『文化組織』に発表されました。つまり「大東亜戦争」開戦を間に挟む四カ月です。当然、言葉にも表現にも韜晦はさけられません。しかし彼は変わっていません。釣りにおいても、彼の技術や道具にたいする偏愛は一貫したものがありますが、いまは指摘にとどめます。また、この時期の詩作についても立ち入りません。そのかわりに戦後に刊行された『杜甫――イロニイの旅』の方から戦争中の田木繁を振り返ってみようとおもいます。
 『杜甫』は敗戦直後から詩雑誌『コスモス』に時間をおいて掲載され、一冊の本にまとめて刊行されたのは一九七五年のことですが、その大部分は戦争中に書かれています。彼は単行本のあとがきのなかで、「最後まで私をして杜甫に執着せしめたのは、心情的、肉体的血縁といったものであった。具体的にいえば、その正面切った反抗精神と骨肉に徹するリアリズムであった。それは従来の日本歌人、俳人にはもとより、私の専門のリルケやゲーテにもないものであった。それに対する共感、献身をなんらかの形で、わたし自身の文章で残しておきたかった。」「杜詩の本質に迫ることは、従来の日本の歌人、俳人、更に高踏派の詩人などの立場からはなし得ない、それにはプロレタリア詩人として出発した私の立場が一番近い」と書いています。
 杜甫は儒家の説く賢人政治の実現を期して政治を志したが挫折した人間です。そして官を追われ諸国放浪の旅に出た彼にとって、詩はかつてのように政治への手段ではなく目的そのものになりました。そしてそのとき彼の詩は、もっとも鋭い政治性と民衆性を獲得したのでした。田木繁は、杜甫の転換の機微に自分のプロレタリア詩人以後の歩みを重ね、そこから詩人としての自分の生き方を模索したのだとおもいます。中野重治は全集第二十五巻の著者うしろがきのなかに、「ずっと前、私は田木繁(笠松一夫)の差し入れてくれた『国訳漢文大成』本で杜甫をまとめて読んだ」と書いています。中野の出獄は一九三四年五月ですから、すでにその頃から田木の杜甫にたいする関心は、これを読めと中野にすすめるほどのものであったのでしょうか。
 しかし戦争中に田木繁が『杜甫』を書き始めたについては、中野重治の『斎藤茂吉ノオト』に強く触発されたということがあります。田木は転向後の中野重治の動静に強い関心をもっていたようです。それは個人的な親交にまでおよび、「中野重治夫妻、赤ちゃんを連れて、洲本からの帰途来訪。折からみかん山は花盛り。翌日、有田川へハス釣りに案内。これも大雨のあとで大漁。大へん二人に喜ばれた」と、田木自身、年譜の一九四一年五月七日の項に書いています。『斎藤茂吉ノオト』が出版されたのはそれから一年の後です。彼は戦後書かれた『杜甫』の「まえがき」を「昭和十七年七月と著者署名にあるから、戦争突入直後のことだろう、中野重治から『斎藤茂吉ノオト』をもらった」と書き始めています。そして「中野重治の言い方を借りるなら、『杜甫にたよって試みたこの私自身の文学観の訂正・変改』は果してどの程度成功したか?」と問いかけています。
 つぎに『杜甫』からすこし長い引用をします。この部分に田木繁の杜甫観と問題意識が凝縮しているように思えるからです。
 「ひるがえって考えるときは、これらの言葉通りの桃源郷や蓬莱山や祝融峯や羅浮山を、杜甫自身、どれだけの現実性をもって考えていたかということは疑問である。それらはそれら自身としては意味を持たず、ただ魏闕に向かう心、一飯だに君を忘れざる心との関係において、反対の極として設定された観念――ロマンチシズムの唐代的形態として理解されるべきでないかと思う。長安滞在中に心理的に影響を及ぼした大きな事件、『考功の第』と『三司推問』との二つの事件によって傷口をひろげられた心中の矛盾は、それを外部へ押し出すためには、そのような両極的構成を用いる外はなかった。それは尋常一様の手段では不可能であった。心理的イデオロギー的さらに行動的イロニイによるほかはなかった。このromantische Ironie(浪曼的反語)を実生活の中で実現するために、遍歴の旅へおどり出していった。十余年間にわたって、大陸を南北に、また東西に横断し、途上血肉をもって裏づけた無数の作品を書きつづけた。
 従ってこの場合、作者にとって江湖の志と魏闕に向かう心と、どちらが本音であるかなどということは、問題とならぬ。晩年の心境が政治的か非政治的かということも問題にならぬ。そういう問題の設定の仕方自身がまちがっている。いうべくんば、それは反政治的という形をとった最も政治的な心境にほかならぬであろう。本音であり、現実的であったのは、唯一無二に、この両者の間に宙ぶらりになった心中の傷痕、その傷痕を実生活のなかでたしかめていった過程にほかならぬ。一歩々々這うようにして、頭を叩きつけるようにして、現実へ立ち向かっていった――その這い方、その頭の叩きつけかたにほかならぬ。心中の矛盾、悲劇は確かに杜甫をして信ずべきは日常煩瑣な現実の生活、それのもたらす肉体的苦痛以外にないことをしるにいたらしめた。たとえば、秦州、同谷、成都間における行路難に対する、成都における草堂経営に対する、また百姓生活への打ちこみ方における、更に(き)州から湖北・湖南に至る水上の険における……。それらを彼はくりかえし、いやになるほどくりかえし、彼の肉体的実感によって実証した。史上空前絶後の現実主義文学の出現した所以である。」
 ここで注目すべきところは、野に下った後の杜甫の生き方を「ロマンティッシェ・イロニイの実生活のなかでの実現」と呼んでいることです。ロマンティッシェ・イロニイという言葉は、当時、日本浪曼派がさかんに使った言葉ですが、田木繁にその影はまったくありません。イロニイは彼の生き方そのものであったとおもいます。
 イロニイをひとくちで説明するのはむずかしいことですが、こういうふうに考えたらどうでしょうか。絶対的に強い権力が目の前に立ちふさがっている。しかし自分はそれを支持できない。といって、正面からそれに立ち向かうにはあまりに自分は無力である。じゃあどうするか。……こういう状況におかれた人間のとる態度の一つとさしあたり考えておきましょう。そのときイロニイは、絶対的に強いと皆が見ている権力に対して、正面から戦いを挑むのではなく、自分は弱い、ダメな人間だ、という装いをとりながら、その強い権力がじつはそんなに強いものではないことを、権力自体に暴露させてしまう、という手法です。よく引かれる例にソクラテスの弁明があります。ソクラテスは権勢をほしいままにしているソフィストに呼びだされて尋問される。彼らに逆らうことはできない。そこで彼は自分を無知な人間にすぎないといい、智徳ともに高邁なソフィストたちに教えを乞うとしてつぎつぎに質問を発する。その過程でソフィストたちの無知が聴衆の前に暴露される。……こういう弱者の戦術とでもいえるものが、この「実生活のなかで実現したイロニイ」です。
 田木繁のこのイロニイ的生き方を考えるうえで見逃すことのできないのが、花田清輝との関係です。花田は田木とも中野重治ともちがって、プロレタリア文学運動とはまったく関係のないところからマルクス主義に到達した人です。彼は一九四〇年一月に岡本潤や小野十三郎などどちらかというとアナーキズム系の詩人たちと『文化組織』を創刊しましたが、さきにも言いましたように、『釣狂記』はこの『文化組織』に発表されました。田木をこの雑誌に結びつけたのはおそらく小野十三郎だったでしょう。花田清輝は『文化組織』にほとんど毎号、「ルネッサンス的人間の研究」と総称され、戦後に『復興期の精神』として刊行されたエッセイを連載しました。それは転形期における知識人の戦い方という内容を持っています。その一つ「コッペルニクス的転向」(戦後、「天体図―コペルニクス」と改題)のなかで花田はつぎのように言っています。
 「我々の転向が凄惨な闘争のはてにうまれた、いわば紆余曲折をへた結果の改宗であり、したがって、多かれすくなかれ、悲劇的な色彩を帯びているのに反し、十六世紀の孤独な転向者――最初の転向者コペルニクスの転向は、あくまで朗然たる転向であり、しかもそれは不思議なことに、闘争の拒否の上に立って、人目につかず行われたのだ。ここにコペルニクス的転向の特徴が――いや、すべての転向らしい転向の特徴が、最も明瞭なかたちであらわれているように思われる。コペルニクス的転向は颯爽としているかもしれないが、コペルニクス自身はいささかも颯爽としていなかったことを意味し、さらにまた、こういう転向にくらべると、なるほど今日の転向は、はなはだ颯爽としないこと夥しいが、転向の前後を通じ、闘争をもって唯一無二の信条とすることに変わりなく、ただ闘争の立場をかえるにとどまる我々の転向者のほうが、コペルニクスよりも、はるかに颯爽としていることを意味する。」
 これは東亜協同体論や生産力理論によって、「闘争の立場をかえ」ながらあいかわらず颯爽と指導者として振る舞っている多くの転向左翼にたいする批判です。そんなものはただの変節にすぎない、本当の転向はもっと創造的なものだというのが花田清輝の主張です。そしてそれは中野重治にも田木繁にも通じる転向観です。「闘争をしているとも見えなかった人間が、実は最も大きな闘争をしていたのだ」というのが、花田のコペルニクスへの賛辞です。おそらく田木繁はこれら一連の花田清輝のエッセイを読んで力づけられたとおもいます。
 もし『杜甫』を書くという不断の努力がその裏側に存在しなかったら、『釣狂記』は抵抗の意味をほとんど持ちえないだろうと私はおもっています。『釣狂記』と『杜甫』という表裏の存在は、田木繁という一人の詩人の「実生活のなかに実現したイロニイ」であり、抵抗であったと言えます。この事実を前にして、「島々動く」を戦争翼賛かどうかと議論をする気は私にはありません。未踏の道を孤独に歩けば躓くこともあるでしょう。躓いたらまた立ちあがって歩きつづければいいのです。彼は躓いたことをいささかも隠しませんでした。そしてたとえ躓いた瞬間があったとしても、その道がどのような道であったかこそが、問題の中心であるはずです。