「戦後文学」の起源について
――“最後の頁”からの出発――

1 遺書として

 その頃、日本人の大部分は、生きて戦争の終わりを迎えられるとは、おもっていなかった。死を決意したというわけではない。まして、死して悠久の大義に生きるというような理念を信じたわけではない。世俗的な言葉で言えば「じたばたしても仕方がない」というあきらめの境地と言おうか、しかしそこにはデカダンスもセンチメンタリズムもほとんどなかったようにおもう。それを小林秀雄の目から見ればやはり「国民はだまって事変に処した」ということになるのだろう。しかしこの「だまって」という沈黙のなかには、いろいろな思想の萌芽がうずまいていたはずである。
 戦争中とくにその末期の文学・思想について、そこには見るべきものはなにもなく、ただ戦争協力と荒廃だけがあったという見方がある。これはまったく間違った見方だ。この見方からは、戦後文学・戦後思想はなんらそれ自身の内的必然性によって生まれたのではなく、せいぜい占領政策の申し子にすぎないか、あるいは戦争に協力した知識人が無反省に再転向して時流に迎合したものにすぎない、という評価しか生まれない。じじつ戦後文学否定論者のおおくがこのような立場に立っている。しかしこれは事実に即していない。このような一面的な見方を克服するためには、「戦後的なもの」がいつ、どこで生まれたのか、その起源をさぐることが必要である。
「戦後的なもの」は戦争の「外部」からとつぜん姿を現したのではなかった。それは戦争の「内部」に胚胎していたのである。だから、いままで信じていた戦争の理念が敗戦によっていっきょに崩壊し、なにが善でなにが悪であるのかその基準を人びとが喪失した時代、それが「戦後」だというのは、たしかに戦後の実存主義的な感性に適応的な説明ではあるが一面的だ。
「戦後」派とは戦争体験派であり、その体験の中心は言うまでもなく「死」である。明日しれぬ命という実感は、兵役を目前にした若い世代を内省的にした。何のために自分はこの世に生まれたのかというような、前世代の青年たちにとっては観念的な問いでしかなかったものが、死を否応なく意識しないではいられない日常のなかできわめて具体的な切迫した問いとして、青年たちをとらえた。おそらくこのときほど日本の青年が哲学に関心を抱いた時はなかっただろう。そしてマルクス主義が禁圧された思想的空白のなかでこの人たちが出会ったのは、西田哲学だった。あるいはもう少し広い意味での京都学派の哲学だった。その中心は言うまでもなく「主体性」である。あらゆる戦後思想・文学に共通するキーワードが「主体性」であったことはあらためて言うまでもないが、その「主体性」論の誕生の地もまた戦争期の状況なのである。
 戦争末期の状況のなかで、死と直面しながら、自分の存在の痕跡を残そうとした孤独な営み――それが戦後思想・文学が胚胎した誕生の地である。だからそこにうまれた一群の作品は、多かれ少なかれ「遺書」のおもむきをもっている。そのようなものとして、花田清輝『自明の理』『復興期の精神』、武田泰淳『司馬遷―史記の世界』、竹内好『魯迅』、本多秋五『「戦争と平和」論』、埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』、文学以外では、丸山真男『日本政治思想史研究』、石母田正『中世的世界の形成』などを、われわれはすぐに思い浮かべることができる。これらがどのような状況の下で書かれたか、それを代表的に語っている文章をつぎに引いておこう。本多秋五は戦後にはじめて刊行された『「戦争と平和」論』(一九四七年九月、鎌倉文庫刊)の「はしがき」につぎのように書いている。
「『戦争と平和』に、最初自分の問題のあることを感じたのは、昭和一二年から一三年にかけて、役所の歳末首休暇にこの小説を読みはじめたときからであった。
 昭和一六年の一月役所を罷め、以来明けても暮れてもトルストイで、一八年の一〇月、一まず稿を終えた。読み直しをしながら順々にタイプにまわし、タイプの打ち終わるまでにまた一年かかった。
 最初から、発表は、たとえできたとしても、十年後のことと覚悟していた。しかし、いずれ自分は兵隊に取られるだろう、取られないまでも、戦死同様の死に方をする確率がすこぶる大きい、死んだあとには、せめて子供と原稿だけは残っていてほしい、と思ってタイプに打たせたのであった。タイプに打ち終えたのは、一九年一〇月のことであった。フィリッピン方面の敗色が明らかになり、十数日の後にはB29の東京初空襲を迎えるころであった。」
 本多秋五が陸軍二等兵として召集されたのはそれから半年あまり後の翌年五月である。
 竹内好の『魯迅』は一九四四年一二月に日本評論社から出版されたが、戦後再刊された創元文庫版(一九五二年九月刊)の「あとがき」に彼はつぎのように書いた。
「私の『魯迅』は、いまではもう古い。改めて出すだけの価値があるかどうか、疑問である。しかし、一方からいうと、この『魯迅』は私にとって、なつかしい本である。追い立てられるような気持ちで、明日の生命が保しがたい環境で、これだけは書き残しておきたいと思うことを、精いっぱいに書いた本である。遺書、というほど大げさなものではないが、それに近い気持ちであった。そして実際、これが完成した直後に召集令状が来たのを、天佑のように思ったことを覚えている。その張りつめた気持ちは、いまでもこの本を読みかえすとき甦ってくるものである。私は『魯迅』を書くことによって私なりの生の自覚を得た。この「処女作」は、ほかのどの本よりも私にはなつかしい。」
 竹内に召集令状が来たのは『魯迅』の原稿を出版社にわたしてひと月もたたない一九四三年一二月一日である。
 ほかの著者たちにとっても事情はほとんどおなじであった。もうひとり、社会科学の方からひろっておこう。
 丸山真男は戦中に書かれた論文を本にした『日本政治思想史研究』の「英語版への著者の序文」に、「一九四四年七月という時期に応召することは、生きてふたたび学究生活に戻れるという期待を私にほとんど断念させるに充分な条件であった。私はこの論文〔「国民主義の『前期的』形成」をさす〕を「遺書」のつもりであとに残して行った」と書いている。
 昭和初年のマルクス主義運動の壊滅のなかから生まれたこれらの人たちの著作が、さまざまな意味合いで「戦後」の文学と思想におおきな影響をもったことはあらためていうまでもないが、しかしこれらは「戦後」を予見して書かれたのではなく、まったくその反対に、日本の近代文学/思想の「最後の言葉」として書かれたということは、とくに強調しておきたい。彼らに戦後への展望はないのである。それにもかかわらず、彼らの戦争末期の作品が「戦後」をひらくものとして戦後に迎えられたのはなぜか。近代文学の「最後の言葉」がなぜ「戦後的なもの」でありえたのか。いくつかの視点からそれを考えてみたい、というのがこの稿のモチーフである。

2 転向の影の下で

 藤田省三は「戦後の議論の前提――経験について」(『精神史的考察』所収)のなかで、「戦後の思考の前提は経験であった。どこまでも経験であった。いわゆる「戦争体験」に還元し切ることの出来ない色々のレベルにおける経験であった。経験的基礎からかけ離れて宙に浮いた「議論」や天から降ってきた「虚妄」の思想体系が何の内部的葛藤も経ないで内容空疎な全体像となっていたのが戦後の思考状況なのではない」と言い、その「戦後経験」として、第一に、国家(機構)の没落が不思議にも明るさを含んでいるという事の発見、第二に、すべてのものが両義性のふくらみを持っていることの自覚、第三に、「もう一つの戦前」、「隠された戦前」の発見、「もう一つの世界史的文脈」の発見をあげ、つぎのようにつづけている。
「私たちはとかく戦後の「価値転換」という表面に眼を奪われるあまり、戦後の思考の実質が実は「もう一つの戦前」によって形成されていたことを見失いやすい。しかし戦後の経験を思考によって造形する際に働いていたものは殆ど尽くと言っていいぐらい「もう一つの戦前」なのであった。「もう一つの戦前」が次々と姿を現し、一つ又一つと発見されて行く過程が戦後史なのであった。過去についての発見が現在を形造り未来の在り方を構想させるという、動的な時間感覚の存在と働きが其処にはあった。そこでは過去は既存の所与ではない。更めて発見されるものであり、その意味で現在の営みであり、明日にも又更めて発見されるものであるという点で未来なのでもあった。「もう一つの」という言葉の意味はそこにあり、複合的な時間意識と「未来を含む歴史意識」がそこに躍動していた。この時間の両義性と可逆関係が戦後経験の第四の核心をなしていた。」
 藤田省三がここで指摘した四つの柱は、われわれが「戦後」を考えるときに説得的であるように見えるし、また同感するところも多い。たしかに、マルクス主義の復活と隆盛という方から見れば、戦後の新しさには「もう一つの戦前」の発見、あるいは正当な復権ということがあったのは間違いない。「獄中十八年」や「亡命十六年」が、畏敬や希望の国民的な広がりを持ち得たのがそのことを雄弁に語っている。
 しかしこれは、「もう一つの戦前」の無批判的な復活にはげしく抗うことをつうじて、はじめて「戦後的なもの」が見えてきたという私の経験とひどく違っているようにおもわれる。敗戦直後のいわゆる「主体性論争」にせよ共産党内部の志賀・神山論争にせよ、そこで争われたのは「もう一つの戦前」と「もう一つの戦中」、戦前のオーソドックスなマルクス主義の無批判的な復活にたいする戦中経験に固執する自立的な思想・運動者の対立だったのである。
 吉本隆明はかつて「戦後文学は、わたし流のことば遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である」(「戦後文学は何処へ行ったか」)と言ったことがある。彼はこれを否定的な規定として言ったのだったが、私は肯定的な意味をこめてこれを承認したい。「戦後的なもの」の出発点は「転向」である。もちろんすべての転向が戦後に往く道であったわけではない。それではなにが転向を生んだのか、転向によってなにが可能になったのか、そしてその可能性のなにが「戦後」につうじていたのか。――
 私は先に「戦後」を準備することになった何冊かの本をあげたが、そのすべてが多かれ少なかれ「転向」の影のもとでの労作であったことに注目しなければならない。当時の厳重な言論統制と検閲制度のもとでは、体制批判的なすべての言論が「奴隷の言葉」を使わざるをえず、「マルクス曰く」というスタイルの戦前型の文章は完全に影をひそめたが、そのことはまた否応なく思想の自立をうながす結果ともなった。しかしそこで決定的な契機となったのは「奴隷の言葉」ではなく「転向」だった。もちろんすべての転向が思想の自立を準備したわけではない。転向したプロレタリア作家の大部分は、プロレタリア文学理論の核心をなした「政治の優位性」論をそのまま温存して、逆のヴェクトルをもった政治に「従属」していったのである。「政治か文学かではない文学だ」と見得を切った林房雄も、数年の後には天皇制と侵略戦争のイデオローグとして「政治の優位性」を実践することになる。
 林房雄と同世代のプロレタリア文学運動の中心的な担い手のなかで、転向をつうじて思想の自立への道を歩むことに成功したのは、わずかに中野重治だけだったといってもいい。(私の「中野重治と転向の問題」「敗北からの再建の道――三〇年代後半の中野重治」、いずれも『歴史の道標から』れんが書房新社刊、を参照いただきたい)。
 ここでは中野重治より一世代後の、「戦後文学」の実質的な担い手となった人たち――彼らもまた、その大部分が多かれ少なかれ末期のプロレタリア文化運動にかかわり、逮捕・転向を体験していた――の「転向」について検討する。
 埴谷雄高は一九三〇年、二十歳の時に出席不良のために日本大学予科を除籍され、プロレタリア科学研究所農業問題研究会をへて農民闘争社に入り、翌年には日本共産党に入党、三二年三月に逮捕され不敬罪と治安維持法によって起訴される。翌三三年一一月、転向を表明して懲役二年執行猶予四年の判決をうけて出所。彼の転向の契機は一つには彼が体験した党のなかになお無自覚に温存されているピラミッド型の階層構造にたいする批判と、彼がアナーキストからボリシェヴィズムに転ずるに当たって決定的な役割をはたした『国家と革命』でレーニンが描いた国家の死滅という未来図が、現実の革命のなかではまったくの絵空事でしかないことの発見であり、もう一つは獄中でのカントとくにその『純粋理性批判』中の先験的弁証論との出会いだった。その出会いについて彼は戦後につぎのように書いている。
「恐らく人生には、ひとつの決定的な出会いという瞬間があるのだろう。他のものにとってはさしたる事柄でないひとつの事象が、その当人にとっては生死の大事となることがあるのだろう。私にとって、先験的弁証論はまさしくそれであった。晨に道を聞けば、夕に死すとも可なり、とはかくのごときものかと魂の奥底深く酷しく思いしった。〔……〕勿論、この領域は吾々を果てなき迷妄へ誘う仮象の論理学としてカント自身から否定的な判決を受け、そこに拡げられる形而上学をこれも駄目、それも駄目、あれも駄目と冷厳に容赦なく論破するカントの論証法は、殆んど絶望的に抗しがたいほど決定的な力強さをもっている。けれども、自我の誤謬推理、宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能の課題は、カントが過酷に論証し得た以上の過酷な重味をもって吾々にのしかかるが故に、まさしくそれ故に、課題的なのである。少くとも私は、殆んど解き得ざる課題に直面したが故にまさしく真の課題に当面したごとき凄まじい戦慄をおぼえた。私の眩暈は、同時に、私の覚醒なのであった。〔……〕そして、嘗てカントの課題であったものがまた私の課題となったとき、私のまずとるべき方法は極端化であった。灰色の壁に囲まれたなかに、ただひとりで眼を閉じて端坐していること、そのこと自体がもはや私に無限の問いかけを呼ぶ課題なのであった。私が眼前に意識するものより私が意識すること自体が端的な課題なのであった。」(「あまりに近代文学的な」)
 これは「戦後文学」のひとつの峰である『死霊』が、すでにこのときに作者のなかに胚胎したことの明確な証言である。そして埴谷雄高の転向は革命思想からの水平な離脱つまりそれから何かへの転化ではなく、垂直な飛翔であり、その垂直軸からみればそれは根底化という様相をしめす。永久革命者というフェーズにおいて彼は非転向である。
 埴谷雄高がこの国のマルクス主義の理論と運動から宇宙の高みにまで一挙に離脱したのにたいし、本多秋五の場合はその思想的自立へのあゆみは慎重であり、まさにその対極に位置した。彼は戦後に書かれた「転向文学論」のなかで「小林多喜二の線」ということを言っている。
「小林多喜二の線は、外的強制にあって挫折した。もちろん、外的強制は非合理なものであった。しかし、それはある歴史の現実性をつかんでいた。その意味で、それは非合理的合理であった。それと合理的なものとの戦いは、この合理的なものが観念性をまぬがれえなかったかぎりで、非合理と合理的非合理との戦いであった。この二つのものの戦いは、われわれの眼前いたるところに見出されるのであるが、歴史の急カーブにおける抵抗最大の点では、この二つのものの戦いが、生きた人間を呑みつくして戦われる。問題は、この非合理なもののもつ現実性、合理的なものの漂わされている観念性にある。詰まり、母なる国民大衆の動きにある。」
 これは、プロレタリア科学研究所芸術部会のもっとも期待された理論家であり、またプロレタリア科学同盟執行委員会の一メンバーとして一九三三年一一月二三日に検挙された本多秋五が、自分の経験にてらして転向を運動論的に語った数少ない文章のひとつである。ではここで言われている「小林多喜二の線」とは何か。本多秋五はそれを「当時の戦闘的なプロレタリア文化活動家に愛用された言葉でいえば、職業的革命家〔6字ルビ→ベルーフス・レヴォルチョネール〕たる道であった。もっと正確には、文学者にして同時に職業革命家たる道であった」と言っている。
 がんらいプロレタリア作家同盟は、一、日本におけるプロレタリア文学の確立、二、ブルジョワジー、ファシストおよび社会ファシストの文学との闘争、三、労働者農民その他の勤労者の文学的欲求の充足、の三項目を目的にかかげ、これを承認する者を同盟員としてきたのだから、「革命的プロレタリアートの陣列にあっては、文芸家もまた基本的にはプロレタリアートの政治家に外ならない」(宮本顕治)とか、「政治の優位性の全面的理解は、単に「主題の積極性」および組織的活動等による補助的任務を行うことにあるばかりでなく、又自己を最も革命的な作家、即ち「党の作家」に発展させることを意味する」(小林多喜二)とか、「ナルプにはより同伴者的、より小ブルジョワ的作家はいるが、同伴者作家や小ブルジョワ作家はいない」(同)とか、「我が同盟は、あらゆる革命的作家を成員として獲得して行くものであるが、その中に、指導のボルシェヴィキ的方向を拒む「同伴者グループ」が別個に存在し得るものではない」(「右翼的偏向との闘争に関する決議」)とか言われると、そんなことを決めた覚えはない、と開きなおる人間が出てきても当然だった。
 まして「主観的要因の強化」が、創作活動よりも組織活動により重点をおくことであったり、多数者獲得とはプロレタリア文学の読者を獲得することではなく、党や組合の拡大のことだと言われ、作家に共産党や全協のオルグの役割まで背負い込ませようとするに至って、ついに作家の反乱は避けられなくなった。さらに加えて、ボリシェヴィーキ的指導は、「三二年テーゼ」の戦略をそのまま文化運動にもち込んで、「戦争とファシズムにたいする闘争」のスローガンを「戦争と絶対主義(天皇制)にたいする闘争」と書きかえ、ことごとに「×××テロル反対」「戦争とブルジョア・地主的××制支配に奉仕する反動文化打倒」等々のスローガンを機関誌に書きつらねることによって、組織全体をますます非合法化していった。日和見主義とは、このようなボリシェヴィーキ化以来の方針について行けずに、それ以前の状態にとどまっている者の総称にほかならなかった。(拙著『プロレタリア文学とその時代』参照)
 文化運動とその組織を非合法の共産党と半非合法の全協の拡大・強化のための「補助組織」と位置づけ、大衆組織でありながら「ボリシェヴィキ的指導」つまり共産党の指導をその成員が無条件に受け入れることを要求する「芸術運動のボリシェヴィキ化」の路線は、その提唱者であった蔵原惟人が逮捕された後も宮本顕治や小林多喜二によって継承され、「議論の余地なきもの」と称して一切の批判や逡巡に日和見主義のレッテルを貼って攻撃したのである。
「小林多喜二の線」とはとりもなおさずこのような「文化運動のボリシェヴィキ化」の路線にほかならなかった。そして「転向」の初発の姿は、この路線にたいする疑問・逡巡・反対であり、その路線からの離脱なのであった。本多秋五も「転向文学論」のなかで、「「右翼的偏向」ないし「調停派」ないし「攪乱者」は、事実においても転向と一本につながったのであるが、それを事前に一本と直感させたのは、そこに暗黙に、しかも歴然と、小林多喜二の線が、ひとびとの頭のなかに描かれていたからである。小林多喜二の線からの離脱――これが、それらを「転向」と一本のもの、と直感させたのである」と言っている。
「小林多喜二の線」からの離脱がただちに「転向」としてしか実現しなかったのは、それにかわる現実的な運動が存在しなかったからである。なぜそれが存在しえなかったかといえば、そのためには「ボリシェヴィキ的指導」つまり共産党に異を立てる以外になかったからである。インテリゲンチャのなかに党の神秘化・絶対化の心情が支配していた当時にあって、それをあえておこなえたのは、全協刷新同盟で分派闘争の修羅場をくぐった神山茂夫ら少数の労働者活動家たちだけだった。(上原清三「「左翼」作家への抗議」、『神山茂夫著作集・第一巻』参照)
 だから「転向」を文字通りの転向に終わらせず、思想的自立への契機に転化するためには、自分がいままで「議論の余地なきもの」としてきたもろもろの理念と理論を相対化し、再検討することが避けてとおれぬ道であった。エルダー・ジェネレーションの中野重治はそれを「日本の革命運動の伝統の革命的批判」と呼びその道を歩んだ。後続の世代である埴谷雄高、本多秋五、平野謙、武田泰淳、そしてやや異なった道を通って花田清輝、竹内好などがそれぞれの経験をはぐくみながら、それぞれの自立の道を歩んだ。そして今日、それらの歩みを見渡すと、当然のことながらそこにはきわめて個性的な多様性が存在すると同時に、おどろくほどの問題関心の類似性を発見するのである。
 
 3 必然と自由

 では、そのような多様性のなかにみられる共通の問題意識とはどういうものだったか、そしてそれが「戦後的なもの」の誕生の地になったのはなぜか、を見ていきたい。そこでまず、本多秋五の『トルストイ論集』「あとがき」の長い引用からはじめる。彼はこのように語っている。
「『戦争と平和』は、一九三七年の暮から翌年の正月にかけて初めて読んだとき、ここに自分の問題が内蔵されていると感じた。
 トルストイは青年の理想や願望が一つ一つ破れて行くのを描き、一国家、一国民の運命においても同様のことが繰り返されて行くのを描いた。人間の意志願望とは無関係なある力が歴史を動かしているという感銘がここにはある。それが私をひきつけたらしい。
 そこからトルストイは、歴史は人をつくり、人は歴史をつくる、歴史における個人の役割りはどれほどのものか、という問題にぶつかった。それが自由と必然の問題である。それは最初からトルストイが予想していたことではなかったが、そこへ導かれてみると不可避な到達点と思われた。それはまた私にとっても、大変に興味ある問題であった。
 私は大学一年のときエンゲルスの『反デューリング論』を読んで、第三篇社会主義のなかの、今の翻訳では《理論的概説》とあるその第二章の最後にあらわれる「必然の国から自由の国への人類の飛躍」にいたって、びっくり仰天した。今まで考えて見たこともない人類史の未来図がそこに除幕されていたからである。そのときの瞠目的な印象は永く私の頭に残った。
 自由と必然との関係については、おなじ書物の別の個所に書かれている。

 ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。「必然性が盲目なのは、それが理解されないかぎりにおいてのみである。」(傍点はエンゲルス)自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。……自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である。(国民文庫、村田陽一訳『反デューリング論』1、第一篇哲学)
  
 ここを読んで、そうだ、と思った。初めて聞く意見ではあるが、たしかに思い当る節があるので、そうであるにちがいなかろう、と思った。そして、そこで、安心していた。
「満洲事変」から「支那事変」へ、そしてその後の戦争の拡大深化と、「黙って事変に処した」国民の動向とは、マルクス主義の理論体系という骸骨の一部を齧っただけで何かわかったような気になっていた私にとって、まったく理解できないものであった。
 ヘーゲルとエンゲルスの「自由とは必然の洞察」論ではやって行けなくなった。
「必然性」もわかりにくいものであった。必然性があるとして、歴史のなかでどこまでが必然か、そんなことは容易にわかるものではない。しかし、「自由」はもっとわからなかった。「自由は必然の洞察である」といっても、「自由は自然的必然性の認識である」といっても、渇いた人間の前に「地面を掘って地下水に達すれば、そこに水がある。」という真理をおかれたようなものである。今日ただ今、金もなければ、いいたいことをいうこともできず、やる瀬ない悶々の情を訴える術も知らない人間にとって、何の間尺にも合いはしない。
 いつか、ヘーゲルとエンゲルスの「自由」の概念は、桶狭間に殴り込みをかけた信長の「自由」を説明しえない、と考えたことがあった。ヘーゲルとエンゲルスに対する八つ当りだが、そこにも幾分の理由があったはずである。」
 ここには「昭和」のはじめに新思潮としてのマルクス主義に出会った若いインテリゲンチャが経験した、わずか十年のあいだの目まぐるしい転変の精神史が要約されている。「理想や願望が一つ一つ破れて行」った青年たちは、『戦争と平和』の主人公たちであると同時に本多秋五の同世代の青年たちである。「一国家、一国民の運命」とはナポレオン戦争下のロシアであると同時に日中戦争下の日本と日本人である。なぜ自分は歴史の流れのなかでいまここにいるのか? ここにいることの必然性のなかで自分の自由とは何か? 戦前の日本マルクス主義の最後の言葉は、「軍事的・半封建的資本主義」が存在するかぎり戦争は不可避であるという認識だった。この不可避=必然性を解体するのは唯一「プロレタリア革命に強行的に転化する傾向をもつブルジョワ民主主義革命」であるとされた。そしてその可能性が潰えたとき、左翼インテリゲンチャたちは赤裸で必然性=戦争に呑みこまれていったのである。そこでは日本資本主義の脆弱性という認識は、もはや自分一個の「自由」とはなり得なかった。そしていうまでもなく、この必然性のなかでの自由の探求は、人はいかに生きるべきか、という問いと直結していた。
 このような問題意識が生まれる場所は「歴史」だった。ミーチン=ラズモフスキーの『史的唯物論』のような「教程」類で学んだ「歴史観」では、とうていこの問いに答えることはできなかった。
 戦中期は歴史哲学の時代だった。唯物史観が権力の弾圧によって退場を余儀なくされた後に、この歴史哲学の時代がやってきた。その時代を担ったのは京都学派だった。先鞭をつけたのはプロレタリア科学研究所哲学部会の責任者を解任された三木清の『歴史哲学』(一九三二年)である。それに高坂正顕『歴史的世界』(一九三七年)がつづき、高山岩男『世界史の哲学』(一九四二年)でひとつの頂点に達する。周辺をも含めてこの人たちは政治的な差異をふくみながら、「近代の超克」派を形成することになる。これとの関連で、西田哲学のなかからその批判を通じて出発した花田清輝が、最後まで「近代の超克」派であったことの戦後的な意味は、あとで検討したい。
 しかしこのようないわば大文字の歴史とは異なった歴史への関心があった。かつての唯物史観が歴史の必然性をかかげて人びとを階級闘争の戦線に動員したのと同じように、「世界史の哲学」もまた歴史の必然性をかかげて人びとを「大東亜戦争」へと駆り立てたのだったが、それとは異なる文学的な歴史への関心が生まれた。それを代表するのが小林秀雄の『歴史と文学』(一九四一年)一巻にほかならない。本多秋五は「当時――単行本『歴史と文学』の発行されたのは昭和一六年九月のことであった――孤独と懐疑のうちに自由を探し求めていた僕は、『歴史と文学』や『文学と自分』のなかにベルグソンや臨済のそれに似た自由を確信的に、しかもたしかに肉声で語っている現代日本人の声をきき、それまで無縁にひとしかった小林秀雄の世界が急に自分に生きて作用しはじめるのを感じたのであった」(「小林秀雄論」)と書いている。
 かつて本多秋五たち若い左翼インテリゲンチャにとっては、人間の中心に「宿命」を見る小林秀雄は理解不能な「変な奴」(同上)でしかなかった。しかし運動の崩壊と転向と戦争といういわば三重苦に突き落とされたとき、彼らはプロレタリアートの歴史的使命という目的論的な人間観から、いやでも自分個人の宿命に直面しなければならなかったのである。その地点で小林秀雄と彼らを分かったのは、前者が宿命を絶対化し現実を絶対化したのにたいし、後者がその宿命を「必然性」として受け入れながらそのなかで「自由」を追いもとめた点にあった。と言ってもその違いはそれほど大きなものではない。小林秀雄も「抵抗が感じられない処に自由も亦ない」(「疑惑」)と言っている。
「トルストイの宿命論は、絶対追求者の現実肯定の形といえる。宿命論は当然に諦念の哲学である。意欲放棄の哲学である。しかし、意欲もまた宿命の産物と見られるとき、宿命論は意欲の固執を帰結する。宿命論は自我肯定の哲学でもある。/一八一二年役は「行わるべくして行われた」とトルストイはいう。そのトルストイが、それを「人間の理性と人間のあらゆる天性に反する」という。人間によって、行わるべくして行われた事件が、人間の天性に反するとは何の謂か? 必然を必然とのみ眺めたなら、「単純でしかも恐ろしい意義」などなかっただろう。現実の矛盾が肯定され、歴史の「不合理」が腹の底まで承認されていたら、ハーディの『覇王たち〔ルビ→ダイナスツ〕』のような冷やかな観照の歴史文学は書かれたとしても、『戦争と平和』は書かれなかったであろう。「人間の理知にとって、様々な現象に対する原因の綜合は、とうてい不可解なものである。しかし原因探求の要求は元来人間の心に備わったいる。」(第一三編第一節)まさにその不可解不可抗なものに対して、一方それを認めつつ、他方あくまでそれを解明し、それに向って抗争せんとするところ、運命忍従の諦念と歴史解明の意欲との相戦うところ、そこにこそ『戦争と平和』の発展がある。」(本多秋五『「戦争と平和」論』第三章)
 一八一二年役を「大東亜戦争」と読みかえ、「『戦争と平和』の発展」をわれわれの自由と読みかえれば、この一節は戦争下の本多秋五の心象風景を語り尽くしていると言っても過言でない。
 
4 自同律と自明の理 
 
 
 一九三三年十一月、転向した埴谷雄高は懲役二年、執行猶予四年の判決をうけて豊多摩刑務所を出所する。「ひとの思想によって考えるのを止めてからの私には、虚無の日々をいとおしむものうさ〔4字傍点〕がおぼえられた」(『不合理ゆえに吾信ず』)と彼は書く。
 埴谷雄高はこれから数年間、当時、九段下にあった大橋図書館にかよいデモノロギイ関係の本を読んだりしてすごす。「灰色の壁から出たのちの私は、馬鹿げたことには、ひたすら、論理学と悪魔学に耽溺した。それらは一見奇妙な領域であったが、私にとっては、その二つはシャム兄弟のごとく一端が結びついている双生児であった。ひとつは私の思考を厳密に統御する巨大な壁にも似た形式で、他のひとつはあらゆる制約と形式を破って奔出しようとする生のエネルギイの最も始源的なかたちと私に思われた」(「あまりに近代文学的な」)と彼は回想している。埴谷雄高にとってデモノロギイは、「自同律の不快」をこえて「存在の革命」にいたる思考の通路をきりひらくにあたってひとつの補助的な役割を果たした。とはいえ、彼にとっての「存在の革命」はけっして錬金術のような高等魔術の「アート」ではないのである。彼にとって問題はつねに「考え方」なのであった。「他に異なった思惟形式がある筈だとは誰でも感ずるであろう。何処に? その頭蓋をうちわっている狂人を眺めているかのような表象を私はつねにもつ」(『不合理ゆえに吾信ず』)と彼は言っている。
 埴谷雄高にとっての「論理学」と「悪魔学」は、本多秋五にとっての「必然」と「自由」に相当する。埴谷雄高の言う「自同律の不快」、つまりAはAであることの不快とは、本多秋五の「必然性」とそれほどへだたったものではない。本多秋五がそれを歴史のなかで考えたのにたいし、埴谷雄高は存在論的に考えたのである。そのような問題に関心が向く背後にはいうまでもなく、巨大な必然として彼らを呑みこんだ戦争があったことはいうまでもない。
 埴谷雄高が自同律について独自の考えを展開するのは戦後になってからだが、戦争の末期におなじ問題を執拗に考えつづけていたのが花田清輝である。やがて戦後文学の両極を形成することになるこの二人は、戦争中には相知ることはなかった。花田は埴谷の『不合理ゆえに吾信ず』を知らず、埴谷は花田の『自明の理』も『文化組織』に連載され戦後に『復興期の精神』としてまとめられたルネッサンス的人間の探究も読んでいない。しかしそれにもかかわらず、この両者にはおどろくほどの問題意識の類似があり、同時に戦後の対立を充分に予測させる相違があった。
 花田清輝は一九〇九年の生まれ、本多秋五は一九〇八年、埴谷雄高は一九一〇年の生まれである。つまり彼らが大学を卒業した一九三〇年前後は、マルクス主義と左翼運動のもっとも盛んなときであり、埴谷雄高は非合法の共産党員に、本多秋五は半非合法のプロレタリア科学同盟常任中央委員となった。ところが花田清輝はこの時代にマルクス主義にはほとんど関心を示さず、もっぱら西田哲学と映画、そしてモダニズム系の芸術に関心をもってすごす。彼がマルクス主義に本格的にとりくむのは、すでに運動も崩壊した後の一九三六年からである。
「その後、わたしはマルクスやレーニンの本を読みだしたが、これとて、べつだん、共産主義に興味をもっていたからではない。戦争がすでにはじまっていたので、そういう「危険な本」は古本屋の店頭に一山いくらで並んでおり、しごく、簡単に手に入れることができたからだ。わたしは、それらの本に教えられて、インフレーションや地代や国際収支について書いた。そうして、その種の一夜づけの論文を、おそれげもなく雑誌社に売った。マルクス主義者からの反撃がなかったのは、当時、かれらがむりやりに沈黙させられていたからであろう。そのため、わたしは、いつかわたし自身を、マルクス主義者の一人だとおもうようになった。」(「読書的自叙伝」)
 そのような思想的転換を花田清輝にもたらしたひとつのきっかけは、松島トキとの結婚である。彼女は市バスの車掌として、左翼労働運動の拠点であった東京市交通労働組合に属し、活動家の経歴を持っていた。後に花田はこんな事を書いている。――「戦争中、たえず義民的なものにたいしてわたしのいだき続けていた劣等感について告白して置かなければならない。そのときは、すでにただの女房にすぎなかったが、どうやらわたしの女房は、元義民だったらしいのだ。したがって、二人で街をあるいていると、かの女は、ときどき、特高から、なれなれしく声をかけられたり、ネンネコで赤ん坊を背負って大井警察へ呼ばれて行ったりした。そして、そのつど、特高は完全にわたしを黙殺したので、わたしは、かの女にたいしてハバがきかないような気分を味わわないわけにはいかなかった。」(「恒民無敵」)
 彼女は結婚後、銀座のバーにつとめて生活を支え、また後には、かつて『レーニン重要著作集』などの左翼出版社として有名だった白揚社や戦後いちはやく『戸坂潤選集』や石母田正の名著『中世的世界の形成』を刊行した伊藤書店の有能な編集者となった。ちなみに『戸坂潤選集』は花田の蔵書によって編集されたという。
 花田清輝の最初の評論集『自明の理』は、一九四一年七月に彼の主宰する「文化再出発の会」から刊行された。そのタイトルがしめすように、形式論理の批判と弁証法的論理の称揚がかくれたモチーフになっている。
「形式論理の諸法則は、自同律に還元される。そうして、この自同律ほど、自明であるとともに、また神秘的なものはあるまい。〔……〕なるほど、ものはつねに何らかの仕方でAでもあり、非Aでもある。あらゆるものは矛盾にみちており、不断に変化しつつある。心理主義的な芸術家はそれを知らないではない。否、かれらはそれを知りすぎるほど知っているのだ。論理的なものがつねに歴史的なものであり、生産技術の未発達な時代において形式論理が栄え、十九世紀にはいり、資本主義的産業技術が発展するとともに、もはやそれが昨日の王座から追われてしまったものであるという事実に間違いのないかぎり、いやでも現代の知識人は形式論理的思惟の虚妄を痛感させられている。況んや歴史の転形期にのぞみ、風波はげしき階級分化の過程に生き、自己の動揺する心理を持ち扱いかねているかれらである。
 とはいえ、表現するということは別なことだ。心理的変化と、そのすべての動揺にたいして、できるだけ完全な表現をあたえるためには、これをひとまずその相対的安定性と普遍性において認識しなければならぬ。差別性を抽象して、対象をそれ自身と同一のものとして捉えなければならぬ。ここにおいて形式論理が再び登場する。」(「錯乱の論理」、『文化組織』一九四〇年三月号)
 ほぼおなじ頃、埴谷雄高は彼の処女作にあたる「Credo, quia absurdum」(「不合理ゆえに吾信ず」、『構想』一九三九年一〇月号)で、「賓辞の魔力について苦み悩んだあげく、私は、或る不思議へ近づいてゆく自身を仄かに感じた。/〔……〕/すべて主張は偽りである。或るものをその同一のものとしてなにか他のものから表白するものは正しいことではない」と書き、さらに「私が《自同律の不快》と呼んでいたもの、それをいまは語るべきか」と書いていた。
 
6 ルネッサンス的人間の研究

 花田清輝が戦後文学のパイオニアとして登場するのは言うまでもなく『復興期の精神』によってだが、それを構成する諸篇は「ルネッサンス的人間の探究」としてそのほとんどが一九四一年四月号から一九四三年一〇月号までの『文化組織』に掲載された。
 花田清輝は、人びとはルネッサンスを闇のなかから浮かびあがってきた、明るい、生命にみちあふれた世界としてイメージしているが、本当にそうだろうかと問う。死なくしてどうして再生がありえようか。「再生は、死とともにはじまり、結末から発端にむかって帰ることによっておわる。」
「当時における人間は、誰も彼も、多かれ少かれ、かれらがどん詰りの状態に達してしまったことを知っていたのではないのか。果まできたのだ。すべてが地ひびきをたてて崩壊する。明るい未来というものは考えられない。ただ自滅あるのみだ。にも拘らず、かれらはなお存在しつづけているのである。ここにおいて、かれらはクラヴェリナのように再生する。再生せざるを得ない。人間的であると同時に非人間的な、あの厖大なかれらの仕事の堆積は、すでに生きることをやめた人間の、やむにやまれぬ死からの反撃ではなかったか。」(「球面三角―ポー」、『文化組織』一九四一年一二月号)
 クラヴェリナというのは、生息条件が悪くなると自分の器官をどんどん単純化し、ついには胚子的な状態になるが、環境が好転するとふたたび構造が複雑化しもとの生体を回復する小さな海鞘〔ほや〕貝の一種である。ここで花田清輝は「注目すべき点は、死が――小さな、白い、不透明な球状をした死が、自らのうちに、生を展開するに足る組織的な力を、黙々とひそめていたということだ」と、この貝に託して自分の抵抗の意志を語っているのである。
 このようなルネッサンス観がこの時期にどこから花田清輝にやってきたのか。たしかにルネッサンスは一種の流行であった。イタリアは枢軸国の友邦であった。一九四二年にはレオナルド・ダヴィンチ展がひらかれ、中学生の私も見に行った。隠れ左翼の側でもたとえば羽仁五郎の『ミケルアンヂェロ』(岩波新書、一九三九年刊)が「ミケルアンヂェロは、いま、生きている。うたがうひとは、『ダヴィデ』を見よ」というその書き出しで、遅れてきた少年たちの胸をしびれさせていた。しかし花田清輝にとってルネッサンスはけっして明るくも自由でも解放でもなかったのである。そのようなルネッサンス観を彼にもたらしたのは、おそらくフランツ・ボルケナウの『封建的世界像から近代的世界像へ』だっただろうと私はおもっている。
「マニュファクチュア時代の哲学史研究」という副題をもつこの著作は、『近世世界観成立史』(新島繁・横川次郎共訳)という題名で、一九三五年に叢文閣からその上巻が出版されたが、下巻は未刊に終わった(戦後、一九五九年に水田洋らによって完訳版がみすず書房から出版された)。しかしこの本は、戦争中の丸山真男、奈良本辰也、石田雄、武谷三男、原光雄、近藤洋逸、田中吉六らの仕事に大きな影響を与えた。このなかで花田清輝との関係で注目すべきは田中吉六である。彼の代表作『スミスとマルクス』は戦後、花田が編集顧問となった真善美社から一九四八年六月に刊行されたが、そのノートはすでに一九三六年から七年頃に書かれたという。花田清輝は中野正剛の大政翼賛会入りを機に「東大陸社」を退職し、文化再出発の会とその機関誌『文化組織』の刊行に全力を注ぐ一方、生活のために秋山清の紹介で「林業新聞社」に就職する。そこで出会ったのが田中吉六だった。久保覚の周到な年譜(『花田清輝全集』別巻)には「同社で、マルクス主義研究者の田中吉六を知り、翌年一〇月に田中吉六が退職するまで、毎日欠かさず喫茶店で「再生産論」など日本資本主義論やマルクス主義の理論的問題について討論を重ねる」とある。
 田中吉六が『スミスとマルクス』を書くうえで、方法的に依拠したのがボルケナウの本だった。そしてその訳書は、水田洋の『封建的世界像から近代的世界像へ』訳者序文によると、花田が古本屋でマルクス文献のゾッキ本をあさっていたころ、やはりゾッキ本として店頭に積まれていたのである。ボルケナウは「著者の序文」でつぎのように言っている。
「わたしの眼に映じたままの十七世紀の一般的性格について述べておきたい。それは人類史上もっとも陰惨な時代の一つである、とわたしはあえて言いたい。まだ宗教が大多数の人心を確実に支配している。しかもこの宗教は、その柔和な宥和的な相貌をかなぐりすてて、ただ恐ろしい相貌のみをとどめていた。〔……〕中世の拘束された生活秩序から、ただその圧迫だけがのこされた。ルネサンスの巨人たちがほめたたえた美の国は、没落してしまった。シェークスピアがなおたたえることのできた、英雄的心情の誇らしげな自尊心は、色あせてしまった。ラシーヌにとって、激情とは、二度と取返しのつかない呪いの深淵へとみちびくものでしかない。死さえもが、資料のしめすところによれば、この恐ろしい世紀にあっては、他のいかなる時代よりも苛酷だったようである。死ぬことは、まだ、人類がむかえるべき明るい日にたいする信仰によってやわらげられていなかったし、またもはや、一つの自己完結した生活圏に当然おこるべき自明の出来事として安心できるものでもなかった。啓蒙の光はなお地獄の恐怖を和らげておらず、かといってまた、素朴な信仰の時代の甘美さはうしなわれて、もはや、そこから楽園の微光がさしこんでくることも期待できない。このおそるべき時代の地上の地獄のなかで、あの鋼鉄のように堅固な個々の思想家がうまれた。かれらはその熱烈さにおいてピュアリタンの「信心家(godlys)」にもおとらず、生きることがもちうる意味をひろく探求したのである。」(みすず書房版、氈E二一頁)
 私はボルケナウのこの本が花田の「ルネッサンス的人間の探求」の種本だなどと言おうとしているのではない。彼は、ルネッサンスとくにその後期を中世から近代への転形期としてとらえ、その煉獄のような世界のなかで近代を切り開いた「鋼鉄のような思想家」がどのようにして生まれたかを、たんなる思想史としてでもなく、芸術史としてでもなく、また社会経済史としてでもなく、それらを統合した精神史的な視野において描き出したこの本から、いまをいかに生きるかを考察する手がかりをえているのである。彼は戦争末期の現在を「すべてが地ひびきをたてて崩壊する」どん詰まり、つまり一大転形期ととらえ、おなじく中世のどん詰まりであったルネッサンスの知識人の像を描くことでこの転形期における知識人の生き方、彼に即していえば「たたかいかた」を提示するのである。花田清輝にとって抵抗も芸術も、すべてはこのどん詰まり、つまり終焉からはじまる。
 しかし、現在のどん詰まりは言うまでもなく中世のどん詰まりではない。終焉を迎えているのは近代である。だから花田の目はルネサンス的人間にたいする評価と同時に批判を含むことになる。
「例をあげる必要があるであろうか。『デカメロン』の著者は、晩年、司祭となり、ダンテの地獄篇を講義した。ルターは、農民戦争の勃発とともに大衆に見捨てられ、さびしく笛を吹いていた。ハイネは、放蕩息子のように神に帰った。ストリンドベリは――ストリンドベリもまた敬虔な神秘主義者に転向した。終焉の地コローノスにたどりついたオイディプスのように、いたましい挫折とはげしい悔恨とを経て、かれらはようやく眼がみえるようになる。盲目のオイディプスは誰からも手をひかれず、人びとの先頭に立って、神苑の奥深く、歩いて行く。透明な冬の日ざしを思わせるこのような晩年にたっするためには、我々は相も変わらず、朝、昼、晩の三拍子をとって進まなければならないのであろうか。テーベの王となるために、スフィンクスの謎を解かなければならないのであろうか。父を殺し、母と結婚しなければならないのであろうか。それは、まったく馬鹿気ている。いきなり晩年から出発するのが、ルネッサンス的人間の克服の上にたつ、我々すべての運命であり、一気に物々しく年をとってしまうのは、なにもラディゲのような「天才」ばかりのたどる道ではあるまい。したがってまた我々は、消え去る青春の足音の木魂するのをききながら、『退屈な話』の老人のように、しずかに頭をふることもないのだ。むろん、ルネッサンス的人間の轍を踏まないということは、馬鹿気たことをしまいとつとめ、平穏無事な生涯をおくるということではない。いったい、うまれて、次第に年をとって、もうろくしてしまうほど、馬鹿気たことがあるであろうか。退屈な話があるであろうか。オイディプスの晩年からはじめるということは、むしろ、そういう植物や、動物のような状態からの我々の脱出によって可能であり、人間の生長や、世代の闘争や、歴史的発展などにたいする生物学的解釈への訣別を意味する。一言にしていえば、それはエヴォリューションとレヴォリューションとの区別の上に立つということだ。語呂が似ているせいか、イギリス人は、屡々この二つの言葉の意味を混同する。」(「晩年の思想」、『文化組織』一九四三年六月号)
『復興期の精神』はルネッサンス的人間の探究であると同時にその「超克」の探究でもあったことを見逃してはならない。花田清輝にとって「近代」とは希求されると同時に超克されるべき対象なのである。

7 「どん詰まり」から

 あらゆる意味で「どん詰まりにきた」と時代を見切るとき、とつぜんあらゆるものがその輪郭を鮮明にし、人びとはそれをしっかりと見極める目を獲得するのである。それを川端康成風に「末期の目」と呼ぶか、『死霊』の主人公のひとり黒川建吉のように「死滅した眼」と呼ぶか、あるいは「二十歳にして心すでに朽ちたり」と頽唐期の詩人を気取るかはともかく、明日への安易な楽観を決定的に奪われた人間に残された問いは、ただ、われわれは何処からきたのかという問い以外にない。
 花田清輝はエドガア・アラン・ポウが彼の代表作である『大鴉』の制作過程を語った「構成の哲学」("The Philosophy of Composition" 創元社版『ポウ全集・3』所収では「構成の原理」となっている。)を引きながら、「究極の言葉は、たちまち発端の言葉に転化する。万事が終ったと思った瞬間、新しく万事が始る」というポウの作詩法に注目し、さらに「人は死の観念に附き纏われることによって、きわめて生産的にもなり、組織的にもなるのではないか」、死の観念こそ「私流に、一言で表現すれば、あらゆる闘争の麺麭種だ、ということになる。したがって、白鳥の歌をうたうためには、人は、かならずこの観念を所有していなければならず、またポーの勇敢に試みたように、まず、結びの一句から、はじめなければなるまい。どん詰まり〔デヌウマン〕からの反撃は、それほど困難ではない。死の記憶が、絶えず我々を驀進させ、死の想像が、つねに我々を組織的に一定の軌道のうちに保つ」(「終末観―ポー」、『蝋人形』一九四二年一一月号)という。
 この時期、なにが終ったとおもわれていたのだろうか。終焉について、あるいは終末について語った人は多い。八紘一宇だの大東亜だの新秩序だのとかけ声は明るかったが、終末感は人びとの胸に深く根付いていたのである。
 戦争中、もっともauthenticな生き方をしたと私が考える中野重治は、日中戦争の勃発後わずか一ヵ月の後に、この「事変」を「過去のすべての事件の決算としての一つの事件」(「条件づき感想」、『改造』一九三七年九月号)と呼んだ。彼にとってもやはりこの戦争が意味するものはひとつの終焉であり決算だったのである。
 日本浪曼派の保田輿重郎にとっても目前の事態は「文明開化の論理の終焉」(「文明開化の論理の終焉について」、『コギト』一九三九年一月号)であった。彼はこの論文のなかで「日本の文明開化の最後の段階はマルクス主義文芸であった。マルクス主義文芸運動が、明治以降の文明開化史の最後段階であったのだ」と言い、また「マルクス主義は、文明開化主義の終末現象にほかならぬ」とも言っている。
 これに小林秀雄の、わが国の自然主義小説はブルジョワ文学というより封建主義的文学で、マルクス主義文芸はこれをブルジョワ文学と誤認して攻撃し、結果的には文学の近代化を実現したにすぎない、という主張(「私小説論」、『経済往来』一九三五年五〜八月号)や、それと伴走した中村光夫の「ブルジョア文学もないうちから、そのブルジョア文学を否定するプロレタリア文学が登場し、勝利(一時的にしろ)するという我国独特の奇観」(「転向作家論」、『文学界』一九三五年二月号)とか、「我国のプロレタリア文学は文学のブルジョア化(近代化)運動の現われであった」(『行動』、一九三五年四月号)というような発言をかさねてみると、この時期に、「近代」あるいは「近代文学」という問題が、どれほどの複雑な様相をあらわしてきたかがわかる。
 林達夫のいうように、まさに時代は「歴史の暮方」を迎えたのであったが、しかし言うまでもなく、ミネルバの梟は歴史の暮れ方に飛び始める。日本の近代の相矛盾する様相が随所に露呈したことは、その近代が「終焉」を迎えていることの、そしてその近代の総体的な認識が可能になったことの証明なのである。
 日本のマルクス主義は、一九三二年以来、『日本資本主義発達史講座』(全7函、岩波書店刊)というかたちで、近代日本の総体的な把握に一応の結論をつけた。もちろんそこには少なからぬ弱点があり、その弱点からさまざまな誤った行動的選択が生まれた。しかし同時に、その誤りの一部はすでに戦争中に地下文書のかたちで批判されていた。(神山茂夫『日本農業における資本主義の発達』、『神山茂夫著作集・2』所収を参照)。
 日本におけるブルジョワ文学の非在を主張する小林・中村と、その対蹠的なところから文明開化の論理の終焉を主張する保田輿重郎とは、しかしその後その違いを明確にしていくことはなかった。一方、「泣いて」『文学界』入りを拒絶した中野重治は、この両者の日本近代にたいする認識をもっともよく批判し得た一人だった。彼は日本がまぎれもなく資本主義社会であり、そこに生まれた自然主義文学はブルジョワ的なものにほかならないと指摘しながら、「中村氏や小林氏の判断はとるにも足らぬものだろうか。私はそうは思わない。日本の自然主義文学が封建主義文学だったとか、日本にはブルジョア文学などというものはなかったのだとかいうことは間違いだが、この間違いとしての「冗談」は、日本のブルジョア文学がそれほど封建的なものを引きずってきたことの、日本ブルジョアジーの封建主義にたいする戦いがそれほど中途半端で、その勝利が不徹底で、敵である封建主義とのずるずるべったりの妥協にすべりこんだことの、そしてこの妥協のためにうっちゃらかしにされたブルジョア的なものをプロレタリアートが拾いあげねばならなかったことの左まえの反映にほかならぬと思う。鏡に映ったものは左まえだったけれども、鏡の質がよければ正しく映っただろうところの実体はあったしあるのである」 (「二つの文学の新しい関係」、『教育・国語教育』一九三六年四月号)と、日本の「独特の近代」をふまえて答えているのである。
 一見矛盾した言い方のようではあるが、日本では超近代の実現は近代の実現をうちに含みながらでなければ不可能であり、また、近代の実現も、それが超近代の思想と運動によって牽引されないかぎり不可能だったのである。この関係を無視したすべての「近代の超克論」や「世界史の哲学」は、「新秩序建設」を呼号する侵略主義にとりこまれ、その補完物になる以外に道をもたなかった。特殊な日本近代の認識の正否がひとつの思想、一つの行動の運命を決めたのである。(その例として生産力理論、昭和研究会の東亜協同体論、あるいは平野義太郎の民族政治学などを想起されたい。)
 これらの変節した旧マルクス主義理論家たちについて、花田清輝は「ロビンソンの幸福」(『文化組織』一九四二年六月号)のなかで、つぎのように書いた。
「すべてを社会的・歴史的に規定し――つまるところ、時間にさまざまな名前をつけ、我々の破壊の理論家は、アジア的生産様式や半封建的地代について、若干、スコラ哲学的な論争をしたにとどまり、幸か不幸か、かれらの大部分は、わが身を焼きつくす蛾のよろこびを知らずにおわった。縦にむかって、バベルの塔のように伸びつづけていた時間的世界が、突然、横にむかって、万里の長城のようにひろがりはじめたとき、かれらの時間にたいする挑戦は終止符をうたれた。しかし、いったい、理論家とはなんであろうか。かれらの時間や空間にたいする挑戦とはなんであろうか。ナポレオンの猛烈な言葉をつかうならば、所詮かれらは「絶えず本を書かずにはおれない虫けら」にすぎないのではあるまいか。」
 この痛烈な翼賛知識人批判の文章を正確に読みとるためには、今日では若干の注釈が必要である。――さまざまな名前をつけられた「時間」とは、日本の当面する革命を社会主義革命とするか、あるいはそれより一段階前のブルジョワ民主主義革命とするかという、戦略論争における革命の性格規定を意味する。そしてその論争に参加した理論家たちは若干のスコラ的な論争をやっただけで、実際の革命に参加することはできなかった。ところが日本の半封建制、後進性を暴くのに熱中した彼らは、ひとたび侵略戦争が始ってアジアにたいする日本の「指導的役割」が強調されるや、半封建的日本にたいする挑戦のかわりに、アジアの後進性にたいする日本の先進性という主張をはじめた。いったいこういう「理論家」とはなんであろうか。しょせんかれらは「絶えず本を書かずにはおれない虫けら」なのだ、というわけである。
 まことに日本の近代(=資本主義的社会経済構成)をどのようにとらえるかは、あらゆる理論・思想にとっての試金石であった。「最近の所謂「歴史小説」の問題に寄せて」(署名・高瀬太郎、『クオタリイ日本文学』第一輯、一九三三年一月)という長論文によって蔵原惟人の衣鉢を継ぐ理論家として注目された本多秋五は、すでにこの論文のなかで林房雄の『青年』や島崎藤村の『夜明け前』における維新史の理解とそこから発する作者の日本近代理解の狂いが、作者と作品をどこに導くかを予言的に分析している。これにつづく「森鴎外論」(『文化集団』一九三四年八月号)では前者になお色濃く残っていた文芸社会学的な記述が後景にしりぞき、特殊な「近代」のなかで鴎外の人と作品が内在的に解明されている。それは蔵原惟人的な輸入理論としてのマルクス主義文芸理論が、日本社会の総体的な認識という場に直面することによって、いかに土着化していったかをしめすひとつの里程標であった。
「憲兵が、大東亜、と問えば、私は、アンドロメダ、と答えて、ついにこの星雲のごとき本体を察知せしめるところなく、敗戦時まで過ごしきたった」(「平和投票」)と書く埴谷雄高は、その共産党員としての地下生活時代に党の農業綱領策定に参加した経験をもっている。その彼が、一九二〇年代から三〇年代にかけて日本のマルクス主義者のあいだでかわされた日本資本主義論争に関心をもったことは疑いない。しかしその後の埴谷雄高にとって、「近代」という問題は日本の現実からはるかに「アンドロメダ」的な論理の世界に飛翔している。彼の自同律にたいする挑戦は、合理主義や実証主義に代表される近代的思考様式を超克する試みであり、ポウとランボオとドストエフスキーを先蹤者とするその流れの発見でありそれへの参加であった。とはいえその埴谷雄高もまた、他方では『死霊』において、前近代的な「アジア的思考様式の極点」として津田康造を位置づけ、彼にたいする宣戦布告をする首猛夫を描くのである。(『死霊』第二章)
 中野重治の世代と本多秋五、花田清輝、埴谷雄高たち後の「戦後派」とのあいだには、時代は「どん詰まり」にきたという共通の認識がありながら、しかしそのあとの歩みには微妙な対立が見られる。中野重治の戦争末期の到達点は『斎藤茂吉ノオト』(一九四二年六月、筑摩書房刊)だが、それにいたる連作『歌のわかれ』(「鑿」「手」「歌のわかれ」、一九四〇年八月、新潮社刊)で自分の青春をあとづけた作者は、このノオトでさらにそれを現代日本の"Sturum-und Drangperiode"とかさなった茂吉の青春との対比において、日本の近代と近代文学の宿命的な姿をえがきだすのである。そこにはかつて「「郷土望景詩」に現れた憤怒」で萩原朔太郎の憤怒に共感しながら開発資本主義を一刀両断にして社会主義による救済を説いた中野青年はもはやいない。彼の目は成熟しおだやかになったが、しかしそこにはいささかの郷愁がただよう。そのような中野重治を花田清輝は「たとえば、或るノスタルジアは、いかにも戦闘的な顔つきをして、かつてわが国にも青春の時代があり、当時、世代の対立は熾烈をきわめたものだ、などという。かれが古びた青年であることはいうまでもない。青春は過ぎ去ってしまったが、晩年はまだ訪れて来ない。ツルゲーネフ風にいうならば、かれは希望に似た哀惜と、哀惜に似た希望との間を彷徨しているのだ。なぜ一気に物々しく年をとってしまうことができないのか」(「晩年の思想」)と批判する。花田のいらだちは、中野重治ともあろうものがなぜ斎藤茂吉と自分の青春にこだわって、近代の地平にまで後退してしまうのかといういらだちだったと言えるだろうか。
 しかしそれでは花田清輝の超近代の思想がこの時期にどれだけの可能性をもっていたかといえば、これもまたはなはだ心許ないものでしかなかっただろう。たしかに憲兵隊の一部には近代の超克論を危険思想視する者がいたことは事実だが、総じてこの超克論は時代の流行思潮だったのである。そしてその実現形態は昭和研究会であり「満州帝国」であり大東亜共栄圏だった。もちろん花田清輝はこれらにいささかも同調はしていない。しかしこれら、とくに昭和研究会にたいする批判に典型的にあらわれているように、彼の批判はもっとラディカルになれという挑発に終始した。
「改良主義的な意図をいだいた人びとは、屡々、封建勢力と資本制力の均衡の上に立つ国家を「超階級的」であるかのごとくに錯覚し、この二つの勢力の妥協を企てながら、なにか素晴らしい「ユートピア」でもつくり上げつつあるかのように思いこむ」(「ユートピアの誕生―モーア」、『文化組織』一九四二年一二月号)と、彼は天皇制国家のもとでのユートピアを描き出すもろもろの超克論を嘲笑する。そして彼はコペルニクスに託して彼の「闘争の仕方」をつぎのように書いたのだった。
「進歩派の漫罵も、保守派の讃辞も、コペルニクスにとっては、無意味であった。ほんとうのことがわかれば、かれらのすべてが、たちまち共同戦線をはり、顔いろをかえ、猛然と歯をむきだしてかれに飛びかかってくることはあきらかだ。しかし、そんなことは大して気にする必要はない。何故というのに、かれにはかれ一流の闘争の仕方があるからだ。すなわち、両派の対立を対立のまま釣合わせ、闘争の激化をはかり、自滅をまつこと。その間にかれの理論が正しいものであるかぎり、それは、どんどん各方面にひろがってゆくにちがいない。」
「自分自身、本気になって闘争するつもりのない人間にかぎって、派手な闘争に喝采するのであり、そうして、喝采することによって、わずかに自分を慰め観念的に昂奮するものなのだ。」
「ほんとうの素朴さは――そうしてまた、ほんとうの謙虚さは、知識の限界をきわめることによってうまれてくる。それは、ほんとうの闘争が、一見平和にみえるようなものだ。」(「コッペルニクス的転向」、『文化組織』一九四一年七月号、『復興期の精神』収録にあたり「天体図―コペルニクス」と改題)
  
7 最後の頁が最初の頁

 本多秋五は「『「戦争と平和」論』の意味」(『群像』一九六一年二月号)という短文のなかで、「私は『戦争と平和』のなかに自我再生の道を学んだ。私の文章は、現実の壁につき当てた自我の挫折と、その再生を語っているはずである。ボロジノの戦いを私は「自由」と「必然」の戦いだと読んだ、ということの意味がそれである。別の言葉でいえば、あれは客観的には転向の書であった。(主観的には、私は当時自分を転向者と思っていなかった。思っていたらあの書は書けなかっただろう。)公式破却の道を求める書であった」と書いた。
 自由とは必然の認識であり、その必然の実現にむかって自分の行動を律することが倫理的な生き方だという考えは、一九二〇年代のインテリゲンチャを深くとらえた人生論であった。そこには、伊藤整が後に「認識者と求道者」と呼んだ二律背反を生む前の、新思想がなおわかわかしいロマンチシズムを身にまとっていた時代の息吹があった。彼らの自我の解放は、最高の認識とその認識にもとづく「唯一の党」の実践への献身のなかで実現すると信じられていた。しかし急速に時代は暗転し、自我追求の道と弾圧下の政治主義的な「運動」とのギャップは鋭い対立となって、運動をも運動参加者をも挫折へとはこんでいったのである。
 このような自我の挫折は、一九三〇年代の文学的インテリゲンチャが多かれ少なかれ体験したことである。「薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば俺はこれだけ」という埴谷雄高の独白も、そのことの表現以外ではない。
 エンゲルス風に、あるいはさらにさかのぼってヘーゲル風に、「自由とは必然の認識だ」といい、その必然の認識にもとづく実行に身を投じることによって個人の自由もまた実現するのだという理解に、自分の体験から疑問符を付した人たちは、「こころならずもの転向」から「こころからの転向」への関門をくぐったといえなくもない。その意味では本多秋五が自著を「客観的には転向の書であった」というのは正しい。しかしこの「転向」は同時に「公式破却の道」の探究そのものであったのである。もしこの「公式」が当然にも破却されるべきもの以外のなにものでもなかったとしたら、これははたして「転向」であろうか。むしろこれは思想的な「回心」とでも呼ぶべきではないか。なぜならこのとき彼は、思想が真の思想であるための第一条件である「経験」に、その両足でがっしりと立ったからである。
 戦後文学の小説ジャンルにおける第一声となった野間宏の『暗い絵』の主人公・深見進介は日中戦争の前夜に、革命は二年以内にくるという認識のもとにその準備に献身する友人たちの選択を情勢に促迫された「仕方のない正しさ」でしかないと感じ、彼らとはことなる「仕方のない正しさではない、仕方のない正しさをもう一度真直ぐに、しゃんと直す」道を探求する。それは彼にとって「自己完成」の道であり「自我実現」の道だった。『暗い絵』もまた文字通り必然における自由を追い求めた作品だったのである。
 もう一つの戦後文学を代表する作品『自由の彼方に』で椎名麟三が提出したのも、「プロレタリアート」という神話化されたものではない現実の下層労働者にとっての実存的な自由という問題だった。
 こうして戦争中の自由を巡る思索と体験は、戦後文学を戦後文学たらしめた酵母だった。そしてそれらの体験はまた、マルクス主義には「空隙」があると主張し、戦争中の体験とオーソドックスな「弁証法的唯物論」のあいだにあるこの「空隙」を埋める主体的な唯物論の探究をかかげた梅本克己をはじめとする「主体性論」が、戦後思想の出発点となった理由でもあった。
 歴史‐自由‐主体――このトリアーデが戦争下に「戦後的なもの」を準備する誕生の地であった。問題が広くそして深く共有されたのは、その文学的ジェネレーションがわずか十数年前のマルクス主義の思想的・文学的「制覇」を身をもって体験していた世代だったからである。
「最後の頁が最初の頁」というのは花田清輝の初期の文章のタイトルだが、戦争末期にあたかも「遺書」のように、そしてまた近代日本の思想・文学の最後の言葉のように残された一群の作品を戦後からさかのぼって読むとき、これほど適切な言葉はないようにおもわれる。
(『文学史を読みかえる』第5集、2002年2月刊)