世界戦争・国家・革命

 1 二〇世紀が「戦争と革命の世紀」であると同時に「戦争と革命の変質の世紀」(埴谷雄高)と言われることの意味

 二〇世紀を二〇世紀たらしめたものは、言うまでもなく二度にわたった世界戦争であり、その戦争と不可分の革命――世界の二つの世界への分裂とその対抗的な共存であった。埴谷雄高はかつて、この世紀についてつぎのように書いた。
「二十世紀は、戦争と革命の世紀であるといわれるのが通例である。けれども、より正確に、しかも、忌憚なくいえば、すでに後半を終えた二十世紀は戦争と革命の変質の世紀と呼ばるべきであって、例えば、一九一七年当時、革命の不屈な実際家であったレーニンは、現在では『国家の死滅』についてあまりに屡々徒らに論じたところの御しがたき革命の夢想家とみられ、そして、現指導部の手におえぬその壮大な夢想に対する見せしめの罰として、レーニンの遺体はモスクワの広場に長く曝しつづけられ、毎年、政府の高官の足下に繰返し冷たく踏まれているのだとさえいえるのである。」(「戦争と革命の変質の時代」)
 埴谷雄高は「変質」という事実を指摘はしたが、その原因までを究明することはなかった。そしてこれを彼が書いたのは、二〇世紀もまだ半ばをわずかに過ぎた一九六四年のことだったが、それから三十五年の後、私たちはもはや批判すべき対象としての「革命」さえもっていない、かのように見える。世界戦争ももはや不可能であるかのように見える。戦争も革命も不可能であるかのように見える時代として、私たちは二〇世紀の最後の一〇年間をおくり、二一世紀を迎えようとしている。しかし人類は二〇世紀にどのような課題に直面し、それをどのように解こうとし、解くことに失敗したか、そしてそれらの課題は、解くことに失敗したのであれば現在どのような形で存在しつづけているのか、それとも課題そのものが消滅してしまったのか――これらの問いを避けて私たちは二一世紀への展望をもつことはできない。私たちはあらためて二〇世紀の「われわれ」の経験の総体を再発見し再審し、それらが未来へと語りかけているものに耳を傾けることからはじめなければならないだろう。
 二〇世紀を戦争と革命の世紀と呼ぶ場合、すでにその戦争も革命も、前代のものとはまったく異質のものとしてあらわれたということを、まず確認しよう。たしかに人類は世界戦争というはじめての体験をもった。しかしこの二〇世紀が二回にわたって体験する世界戦争がいままでの戦争と異なるのは、けっしてそれが「世界」に戦場を広げたという点だけにあるのではない。それがいままでの戦争と異質であるゆえんは、それがたんに戦線を地理的・空間的に拡大しただけでなく、社会の隅々にまで浸透し、動員し、それにふさわしく社会を再編成する「総力戦」であったというところにある。
 この総力戦によって国家と社会と労働者階級のなかに何がおこったかを、きわめて興味深く分析したエルンスト・ユンガー(一八九五〜一九九八)は、つぎのように指摘している。
「すでに今次の大戦〔第一次世界大戦〕の終末時に暗示されていた段階においては、少なくとも間接的な戦争行為を孕まないような動きは――ミシンに向う家庭労働婦人のそれであれ――ひとつもない。交戦中の工業国家を灼熱の鍛冶場に変えてしまう潜在エネルギーのこうした絶対的把捉には労働の時代の幕開けが多分最も明白にあらわれている。――この把捉は世界大戦を意味の上でフランス革命に優る歴史的事件としている。そのように膨大なエネルギーを解き放つためには剣を取る腕を武装するだけでは足りない――骨の髄までの、最も細い生の神経に至るまでの武装が要請されている。これを実現するのが総動員――広く分岐し多方面に走る現代の生の電流の網を配電盤のただ一操作によって戦争エネルギーの大電流に繋ぎ、伝える行為――の責務である。」(「総動員」、田尻三千夫訳、『現代思想』一九八一年一月号)
 ここには君主(領主)の戦争とはまったく異質の国民国家の戦争の本質的な姿が素描されている。その中心にあるのは、言うまでもなく彼が「総動員」(totale Mobilmachung)とよぶものだ。戦争の勝敗はこの「総動員」の成否にかかる。しかし社会の隅々までが戦争に動員されるためには、階級対立をはじめ社会の分裂を擬似的にせよ統合する「価値」をかかげることが不可欠であった。ユンガーは第一次世界大戦の場合、そのような「価値」となったのは「進歩」という観念であったと指摘している。世界戦争という構図のなかで言えば、フランスとイギリスは進歩を代表し、遅れたドイツに文明の聖戦をおこなったのであり、ドイツは野蛮なツァーリのロシアに進歩のたたかいを挑んだのである。この関係のなかでは、たとえばフランスの平和主義者アンリ・バルビュスも「この戦争をとりあえず肯定するよりほかに自分の思想に忠実である可能性を見出せなかった。〔なぜなら〕この戦争は彼の意識には進歩の、文明の、人間性の、いや平和そのものの、これらすべてに敵対する一分子に対する戦いとして映ったからである。『ドイツの腹のなかに巣喰う戦争を殺さなければならない』」(ユンガー) 一方、遅れたドイツもまた進歩のために戦うのだった。ドイツ社会民主党国会議員のルートヴィヒ・フランクは「われわれの祖国を反動に対して戦いとらねばならない。したがって戦争が勃発した暁には、社会民主主義者の兵士も誠実におのれの義務を果たすだろう」と演説した。
 第二次世界大戦はこのような「理念」の戦争という特質をさらに深めた。ファシズムという野蛮にたいする民主主義擁護の戦争と自認する連合国と、腐った自由主義的旧秩序を打倒し新しい世界秩序をつくる戦争を主張する日独伊の枢軸国という構図のなかでは、どちらもが聖戦なのであった。それは理念の戦いという装いをもつゆえに、戦争は「絶対戦争」(クラウゼヴィッツ)の様相を呈し、勝者は敗者の理念を支えた国家体制の徹底的な破壊にいたるまで戦いをやめることはなかった。
 このように見てくれば、世界戦争がとくにその敗戦国における革命と不可分であった理由はあきらかである。
 そして人類はこの世界戦争に、もう一つあたらしい経験を重ねることになる。「戦後」という、いまだかつて体験したことのない状況である。それは、戦争に動員され、また自らも積極的に加担した「国民」が、彼自身の戦争体験をふまえて、戦争にたいする態度を再検討しなければならなくなる時期であった。敗戦国では、それは古い支配体制の崩壊の渦中でおこるが、戦勝国でも総動員体制は大衆の社会的進出の大きな流れをつくりだした。総力戦は大衆社会を生み出す原動力でもあったのである。
 世界大戦が人びとに残したものは、前線と銃後という区別も兵士と非戦闘員の区別も、もはやなりたたなくなった場所での、破壊と大量死の体験と記憶である。オットー・ディクスの連作「戦争」に描かれたようなこの体験と記憶によって「国民」は分解する。このとき人びとをとらえたのは、このような破壊と大量死にいきついた「近代」への深刻な懐疑であった。
 こうして第一次世界大戦を経過した後の二〇世紀の人びとにとって、「近代」にたいする批判とその「近代」を超え出ることが課題として意識された。そのとき、資本主義にたいする根底的な批判であり、その世界体制からの離脱を実現した十月革命とその成果が、多くの人びとに人類の希望と映ったのは当然のことであった。
 「近代を超え出ること」――一九世紀にはまだごく少数の芸術家や思想家の関心事でしかなかったこの課題が、とくに最初の総力戦としての第一次世界大戦を経験した後のヨーロッパにおいて大衆的な課題になったときに、「この時代」としての二〇世紀がはじまった。そして「危機」を表出する先駆的な芸術表現や理論的分析を背景に、現実の「運動」としてこの課題を担ったのは共産主義運動とファシズム運動にほかならなかった。この世界と反世界とでも呼べるような相似形をなした対極の「運動」が作り出した磁場が、二〇世紀のプロブレマティックを産出する。とくに共産主義運動におけるボリシェヴィズムの覇権の成立以後、この構造はほとんど固定してしまう。
 この地獄を約束された二つの「運動」とその成果としての二つの「体制」――それは国民社会主義政権のホロコーストによる六〇〇万人の死者と、ソヴェト政権の収容所群島における二〇〇〇万人の死者に象徴される――は、しかし大衆にとっても知識人にとっても「希望」だったのである。この「近代を超え出た」二つの体制のなかで、人びとはたんに「動員」されただけでなく、みずから積極的に参加した。エルンスト・ユンガーの言う「総動員」は、このような「平時」においてもまた実現された。それを可能にしたのは、言うまでもなくマスメディアの出現であり、戦争を通じて顕著になった社会の大衆化・平準化であった。もちろん大衆は「近代の超克」というような大風呂敷のスローガンによって動員されるのではない。このような大風呂敷のスローガンが、小さな具体的な装置に媒介されるとき、はじめて大衆をとらえることができる。民主主義的な改革派も共産主義的革命派も、国民社会主義的革新派も、いずれもがこの「総動員」の経験から学び、自己のヘゲモニーのもとへの大衆の統合・組織・動員を競うことになった。その意味で総力戦こそが戦後の大衆の時代を準備したのである。

 2 一般的危機と支配の変容

 コミンテルンは第一次世界大戦後の世界資本主義を「一般的危機」にあるとし、それをさらに戦後恐慌の段階、相対的安定期、そして戦争と革命の時期である第三期の三つの時期に区別して、それぞれに対応する戦術を決定した。コミンテルンを支持するか否かにかかわらず、大戦を境に世界資本主義があたらしい危機に突入したという認識は、資本の側でも例外ではなかった。むしろ危機感は資本の側の方により大きかったと言ってよい。ロシア革命のインパクトは先進資本主義国の労働者階級にとどまらず、後進国・植民地の民族闘争にも絶大な影響をあたえた。また、戦後くりかえし世界資本主義を襲った恐慌にも、資本主義世界市場から離脱したソ連の経済はほとんど影響を受けないですんだ。このことがこの二つの体制の優劣を示すものとして人びとに受け取られた。
 いわゆる「戦後の混乱」が一応の収束を見た二〇年代の後半になっても、人びとはもはや、世界にかつての「安定」がもどるとは考えなかった。その予感は二九年恐慌によって、たちまち「実証」された。コミンテルンが一般的危機の「第三期」の開始を予言した第六回大会からわずか一年あまりの後である。梅毒第三期という最後の病状をあらわす言葉との連想から、この第三期論は資本主義の末期的な姿をあらわす言葉としてジャーナリズムの流行語になった。
「近代」とは大衆にとっては端的に資本主義のことであり、資本主義とは戦争と恐慌と失業を意味していた。このような状況に直面した資本にとって、この危機を国家の介入による資本主義の再編成によって切り抜ける方向が、ほとんど唯一の脱出路として模索されることになった。ケインズ主義の時代は同時にフォーディズムに象徴されるような労働力の再編成の時代であり社会のシステム化の時代であった。こうして二つの世界大戦の戦間期のなかのもっとも運命的な十年間――一九三〇年代を代表する政治・経済の潮流は、ニューディール資本主義、ボリシェヴィズム、ナチズムのどれをとってみても、国家の経済への全面的な介入と社会の全体主義化であった。
 自由主義や個人主義にかわって国家の介入や統制を人びとが進んで受け入れ支持したのには、いくつかの原因があった。そのもっとも重要なファクターは、政党代議制による議会主義が機能しなくなったという現実である。人びとは、もはや政党の代議制によって自分が代表されるという幻想をもてなくなった。グラムシはこの状態をつぎのように描き出している。――「伝統的な政党が、もはや自己の階級、または自己の階級の一部から、その固有の表現(representation=代表/表象―引用者)とみとめられなくなる。この危機がはっきりと姿をあらわすと、直接の情勢は微妙になり、危険になる。なぜなら、舞台は力による解決に、神がかり的、あるいは教祖的人物によって代表される暗黒の勢力にむかって開かれるからである。」(「有機的危機の時期の政党構造の諸側面について」、『新君主論』)
 グラムシはここでは、政党の機能不全という側面にだけ注目しているが、むしろ事態は逆であって、問題は政党が代表すべき「階級」それ自体が大衆社会化のなかで解体しているというところにあった。産業資本主義の時代のように、比較的に単純な階級・階層構成によって社会が成り立っていた時代には、それらのいくつかの階級を代表するいくつかの政党によって、「国民」の意志は議会に代表されたかもしれないが、大衆社会・情報化社会としての後期資本主義の時代には、この代表関係は大きく変質する。「階級制度の解体は自動的に政党制度の崩壊を意味していた。というのは、これらの政党は実際に利益政党であったため、今や政党が代表すべき利益がなくなってしまったからである」とハンナ・アーレントは指摘し、さらに「政党の階級基盤が不明確に、非現実的になるにつれて、政党はますます世界観政党への方向を強めていった」と言っている。(『全体主義の起源・3』)
 このような政党代表制の機能不全と失業の不安は、総力戦体制のなかで形成された国民統合を根底から崩壊させた。資本は労働者の統合のあたらしいシステムを作る必要にせまられた。それに答えたのがフォーディズムである。
 フォーディズム自体はこの時期にはじめて登場したわけではない。それはすでに第一次世界大戦の前夜に、自動車産業の飛躍的な技術革新に対応できるような労働力の創出を課題としてうまれた、あたらしい労務管理のシステムであって、その中心に有名な「一日五ドルの高賃金政策」があった。この「一日五ドルの高賃金政策」が労働者の体制統合にどのような意味を持っていたかについて、小倉利丸はつぎのように言っている。
「一日五ドルの破格のT所得Uを得るためにはフォードの厳格な資格審査にパスしなければならない。〔中略〕一日五ドルの所得を得るための生活の規範とは、倹約(貯蓄)が行なえること、飲酒の習慣のないこと、家庭内のトラブルがなく、妻は賃労働に出掛けず家庭内の仕事に専念すること、そして、自らの民族的な伝統や習慣を棄て、工場生産の合理性と効率性に適した生活と行動スタイルを身につけること、であった。したがって、一日五ドルという高T所得Uは、決してフォードの『利潤は資本家が独占すべきではない』という資本家の高邁な善意から発したものではない。ステフェン・メイヤーが述べているように、『フォードの計画は、労働者階級の文化を中産階級の産業的価値観のなかで再形成・再構成しようとした』ものであり、五ドルとは『フォードの労働者が機械化された工場生産の効率性に適応するためのエンジンであった』のであり、このエンジンと引き替えに、労働者は工場での労働時間ばかりでなく私生活をもフォードによって管理されることになってしまったのである。」(『支配の「経済学」』六一〜二ページ、れんが書房新社刊)
 フォーディズムは、そのものとしては必ずしも成功しなかったが、このような高賃金と引き替えに労働力再生産の過程、つまり余暇や消費までを「会社」が管理するという労務管理のシステムが生まれ、それはニューディール期から戦後の高度消費社会の実現をささえ、労働者の体制化の突破口となった。
 このような労働=資本関係における大きな変化にたいする洞察を欠き、従来の単純な「労働貴族」批判から社会民主主義への攻撃とストライキ闘争に状況打開の突破口をもとめたコミンテルン=プロフィンテルンの「赤色労働組合主義」が、労働運動のなかで孤立してしまうのは当然であった。そしてこのような戦術が採用された背景にあったのが、先にふれた「世界資本主義の一般的危機の第三期」という情勢評価であった。この「第三期論」は、一九二八年以降のコミンテルン、プロフィンテルンの情勢評価の出発点になった。たしかに情勢は「戦争と革命の時代」の再来を予感させるものがあった。一九二九年末に爆発する史上最大の世界経済恐慌、資本主義的合理化に抵抗する労働者の広範な経済ストライキ運動の高揚、失業者の増加と固定化、恐慌の農業への波及による農民闘争の激化、そして中国、インド等々における革命運動の発展、日本帝国主義の中国侵略を突破口とする帝国主義戦争と対ソ戦争の危機の発展――これらのなかで、第二期の相対的安定期に成立した労働党政府や連立政府(たとえば、イギリス、ドイツ)と労働運動とは鋭い対立を生み出し、いわゆる「社会ファシズム論」が出てくる客観的な背景となった。
 社会ファシズム論とは、一九二九年七月に開かれたコミンテルン第一〇回プレナムにおいて公式に採用された「理論」で、これによると、第二期に深化した社会民主主義者のブルジョワ国家機構への参加は、第三期の激動のなかで完全に独占資本と癒着し、労働者階級の闘争を直接に弾圧する敵対者となった、今や彼らはブルジョワ独裁のもっとも中心的な担い手になったのでありそれは本質的にファシズムの一形態である、というものであった。コミンテルン第一〇回プレナムのテーゼは、つぎのように書いている。
「すでにコミンテルン第六回大会および赤色労働組合インタナショナル第四回大会は、改良主義的労働組合機構のブルジョワ国家および独占資本との合成を確認した。最近、この過程は階級闘争の展開と関連してさらにいっそう進行した。社会民主主義が社会帝国主義を超えて社会ファシズムにまで発展し、かつまた現代資本家国家の先頭に立って、拡大してゆく労働者階級の革命運動の鎮圧に参加したと同様に、社会ファシスト的労働組合官僚は、先鋭化する経済闘争において、完全に大ブルジョワジーの側に移行した。」
 ここから「労働者階級の多数者獲得」という戦術が提起される。すなわち、情勢は「第三期論」が示すように革命の切迫を告げているにもかかわらず、労働者階級の多数はいまだ旧来の社会民主主義的組織と指導のもとにとどまっており、共産党はいぜん少数派にすぎない。しかも社会民主主義はいまや「社会ファシズム」としてブルジョワ独裁の支柱になっている。したがって一切の打撃を社会民主主義指導部に集中し、「下からの統一戦線戦術」により、社会民主主義の影響下にある労働者大衆を共産党の指導下に獲得することこそが、共産党にとって決定的に重要なことになる。――これが「多数者獲得」のスローガンが意味するところのものであった。「第三期論」、「社会ファシズム論」、「多数者獲得」――これは切り離すことのできない一組の戦術体系としてこの時代の左翼の運動を支配した。
 このような「第三期論」に発する主観主義的情勢評価と「社会ファシズム論」「多数者獲得」のスローガンに代表される主要打撃戦術は、ドイツにおける共産党の敗北とヒトラーの勝利の後に、人民戦線戦術の採用によって否定されるに至ったことは周知のとおりである。しかしこの戦術転換は先に述べたような世界戦争と世界恐慌以後の世界の変化――それを「システム社会化」と見るか、「国家独占資本主義化」と見るか、あるいは「大衆社会化」と見るか、論者の立場と視角の違いによってさまざまに名づけることが可能であるにせよ――を、ほとんど視野に入れずに古めかしいブルジョワ的価値の擁護へと後退したのである。つまり第一次世界大戦以後の「近代を超える」という課題は放棄された。
 もちろんこの背景にはドイツにおけるファシズムの勝利があったが、しかし勝利したのはヒトラーだけではなく、スターリンもまたこのとき一人の勝利者なのであった。一九三四年、この人民戦線への転換の年は、それだけにとどまらない決定的な転換の年でもあった。それはソ連共産党第一七回大会(一月)とドイツ国民社会主義労働者党ニュールンベルク大会(九月)で彩られる。前者は反対派にたいするスターリンの制圧を内外に宣言した「勝利者の大会」、後者は「長いナイフの夜」によってエルンスト・レームを中心とする「永続革命派」を抹殺したヒトラーが自分の権力樹立をもって「革命の終了」を宣言した大会である。いずれも「運動の終焉」と体制化を意味する。運動は戦争にとってかわられる。
 人民戦線問題で決定的なことは、それが「近代を超える」という試みの挫折の表現だということだ。わかりやすい例として芸術運動をとろう。一九一七年をはさんでブルジョワ的表現を超える運動としてロシア未来派が出現した。ここからマヤコフスキー、メイエルホリドに代表されるロシア・アヴァンギャルドが生まれる。芸術の革命つまり近代=ブルジョワ芸術の超克がかれらの課題であったことは言うまでもない。しかし芸術自体の政治性と自立性に固執するかれらの芸術運動は、スターリンの奪権の過程であらわれたプロレタリア芸術運動という名の党派的管理によって挫折する。そしてさらに党内闘争に勝利したスターリンにとってプロレタリア芸術の狭い政治主義が「動員」の阻害になったとき、彼はこのプロレタリア芸術を否定して社会主義リアリズムを主張する。世界観ではなくソヴェト政権つまりスターリン独裁を支持するかどうかが作家を振り分ける基準となる。そしてその結果が人民戦線のもっともはなばなしい成果として喧伝された「文化擁護国際作家会議」であった。
 この流れはなにを意味しているだろうか。まず第一に、革命はたんに資本主義という社会・経済制度を問題にしただけでなく、表現とその制度までを含む近代の総体を否定の対象として出発したということである。第二に、プロレタリア芸術はその挫折の産物にすぎず、第三に、その政治主義=動員主義の帰結としてブルジョワ文化との和解に到達したということである。これはファシズムとボリシェヴィズムの対抗がつくり出す磁場の緊張に耐えきれなくなった左翼自由主義知識人にとって、ふたたび近代の地平に退却する格好の逃走路となったのである。
 第二次世界大戦は、さきにのべたような総力戦の特徴を極限にまでおしすすめた。長距離爆撃機、ロケット兵器、デジタル通信、そして核兵器というような、戦争を通じて開発されたあたらしいテクノロジーは、戦後の世界経済に決定的な影響をあたえ、産業構造の劇的な変化をもたらした。それは戦間期にうまれたケインズ主義とフォーディズム的労働管理の統合システムの、極限的な深化の過程でもあった。

 3 社会運動と権力の問題

 戦後の特徴は、膨大に積み上げられた双方の核兵器の存在によって、米ソの冷戦が熱い「第三次世界大戦」に転化する可能性を閉ざしたというところにある。しかし冷戦もまた戦争にほかならず、共存を暗黙の前提にしながら、米ソはそれぞれが経済から科学技術そして文化に至るまでの「総動員」に集中したのである。
 二〇世紀の半分を占める戦後の世界について、具体的に検討することはこの短文の任ではない。そこで最後に、戦争の「変質」と随伴した革命の「変質」について、簡単にふれておこう。
 二〇世紀の世界戦争が革命と不可分の関係にある理由について、私は「総力戦」という観点からその一端をのべた。これを逆の面から見れば、世界戦争が不可能になった第二次世界大戦以後の世界では、旧来の形での革命、とくに社会主義革命もまた不可能になったということである。アメリカもソ連も、ヤルタ協定によって決定した戦後世界の境界線に変化が起こることを望まなかった。それが「平和共存」の真意にほかならなかった。このようないわば戦争も革命も宙吊りにした状態が戦後という時代であった。そのなかで、戦争の遺産としての、そして冷戦に動員された科学の所産としてのテクノロジーの飛躍的な発展を背景に、資本主義先進国は大量生産・大量消費の高度消費社会に、そして情報化社会へとすすんだ。ソ連の崩壊は、資本主義体制におけるこの消費社会化と情報社会化の趨勢に対抗する「社会主義」的な道を見いだせないままに、古くさい国家による統制システムを脱することができなかったことに、大きな原因がある。
 さて、一九九〇年のソ連の崩壊によって、二〇世紀の基本的な枠組みである二つの体制の対抗的な共存という時代はおわった。問題は振り出しに戻ったと言うこともできるが、しかし二度の世界戦争によって世界はもはやロシア革命以前とはまったく異なる姿をあらわしているということも間違いない事実である。この変化は第二次世界大戦の所産であると同時に、その基本的な枠組みが戦間期にできたところの、「現代化」と呼ばれる社会の編成替えによってうみだされたものである。ここでは国家の市民社会への全面的な浸透によって、両者の古典的な二分法はもはや通用しない。ここでは消費から政治行動にいたるまでの、人びとの意識をめぐるヘゲモニー闘争が、決定的な意義をもつ。
 かつてレーニンは「あらゆる革命の根本問題は、国家における権力の問題である」(「二重権力について」)と言い、またさらに「国家権力が一つの階級の手から他の階級の手へと移るということが、この概念の厳密な科学的意義からいっても、また実践的、政治的意義からいっても、革命の第一の、主要な、基本的な目じるしである」(「戦術についての手紙」)と言った。これがまったく間違っていたと言うことはできない。とくに武装蜂起を条件とするような革命の形態においては、これは間違いではない。しかし国家と市民社会が融合してしまったような「現代化」した社会では、このテーゼはまったく不十分だ。たとえばつぎのようなミッシェル・フーコーの洞察とくらべると、レーニンの権力論はあまりに単純かつ粗雑だと言わざるをえない。
「しばしば、近代国家や近代社会は個人を知らないとか無視しているとかいわれる。しかし、よく観察して見ると、驚くべきことにそれとは正反対のことが見えてくる。近代社会ほど個人に注目している社会はないのだ。近代社会ほど個人の配置に関心を抱き、個人を監視、管理、訓練、矯正の仕組みから絶対に逃れられないように取り込んでいく技術の発達した社会はないのだ。兵営、学校、工場、監獄、すべての規律・矯正の大きな仕組みは、個人を捕らえて、個人が何者であり、何ができ、また何に用いたらよいかを知り、どこに配置したらよいかを知るための仕組みなのだ。個人の認識を可能にさせる知の形式として人文諸科学も同じ役割を果たしている。だれが正常でだれが正常でないか、だれが理性的でだれがそうでないか、だれに何ができるのか、個人の見えざる行動は何なのか等々を知ることを可能にするからである。また、統計が現代において持っている重要さも、個人的行動が集団的に作用することを量的に量ることを可能にすることにある。さらに付け加えて言えば、さまざまな社会的な援助や保険のようなもののメカニズムも、経済的に合理化し、政治的な安定をはかるとかいう目的はあるにしても、その他の個人のレベルで人間を捉えるという作用を持っている。/このような個人の存在と行動のすべて、各人の、しかも一人一人の生活・生涯というものは、現代社会の中で、権力の行使のためには、恒常的で、しかも不可欠な要素になっていると言えるのだ。個人というものこそ、権力にとって本質的な対象であり、逆説的なことだが、権力が個人を目指せば目指すほど、その権力は国家管理的権力なのである。」
「十九世紀以来、〈革命〉と呼ばれてきた闘争は、革命を起こす党派が、社会の内部で、経済的・政治的権力として自らを確立することだった。見落としか、誤謬か、あるいはあからさまな理論的選択か、それは私には分からないが、ほぼ確かなことは、これらの革命運動が、ここで問題にしたような権力を全く問題にしなかったということだ。すなわち、西洋社会の歴史を通じて跡づけることができ、私が〈牧人=司祭型〉と呼んだあの権力であり、個人を対象にし、個人というものをその最も日常的な生存の網の目のレベルまで追求していって、捉え、監視し、管理するあの権力のことを、である。」(「政治の分析哲学」、渡辺守章訳『哲学の舞台』所収)
 いかなる国家も、軍隊や警察などの抑圧装置だけでは現存の生産関係を、支配・被支配の関係を再生産すること、つまり人びとを今日と同じように明日も従順に働かせ、その子供たちにも彼らと同じ生活を受け入れさせることは難しい。大衆消費と高度情報化社会となった国々はもちろん、開発によって大衆消費と情報化の道を歩みだした地域においても、情報流通の大衆化・スピード化は、権力が国民的合意を形成するうえで、「国家のイデオロギー装置」の果たす役割を、きわめて大きなものとしている。国家がさまざまな「イデオロギー装置」を通して市民社会の全域に深く進入しているのが現代社会のもっとも大きな特徴である。学校とかマス・メディアとかレジャー施設とか、カルチャースクールとか、さまざまなスポーツ大会とか、地方自治体の経営する博物館や美術館、劇場や文化施設など、一見中立的に見えるこれらの「装置」をとおして、人びとの意識にたいする支配体制のヘゲモニー的支配が貫徹されるのである。
 高度の情報・軍事技術が圧倒的に国家の側に蓄積された反面、大衆消費と高度情報化社会の出現は、大衆にいままで思いもおよばなかったような多様な形態と方法による決定力を潜在化させる結果となった。国家の軍事力と情報手段の圧倒的な優位は、高度資本主義国における古典的な武装蜂起・内乱の可能性をきわめて限定的なものにした一方で、大衆の側に、ボイコットのようなきわめてプリミティブなものから、高度テクノロジーを逆手にとった管理網の攪乱・破壊にいたるきわめて多様な戦術を可能にすることになった。いまや人民は、かつてないほど強大な決定力をもっているのだが、それにもかかわらず、それは行使されないどころか、自覚さえされていないのである。
 このような状況のなかでは、あらゆる形態における「意識の管理」にたいするたたかいが決定的な意味を持ってくる。もちろんこのたたかいは、観念や表現の領域にとどまるものではない。むしろその基本は、「国家のイデオロギー装置」という具体的な場所における大衆的な行動をともなった「運動」なのである。そしてその課題は、その場所を占拠し、その内容を変えていくことだ。ここで「変える」という意味に留意する必要がある。たとえばメディア装置におけるたたかいは、決して伝達する情報の内容の変化(支配のための情報から民衆のための情報へ、というような)にとどまらない。それは従来の送り手と受け手の厳然とした分離とその間の一方通行的な関係自体の変革――つまり受け手の製作過程への参加その他による、送り手と受け手の互換性・相互主体的関係の創出こそが最大の課題になる。また教育装置においては、教科内容の改革と同時に、あるいはそれ以上に、教師と生徒の関係性の変革、ここでもまた相互に教え教わる関係の創出が課題となる。それはまた、学校という装置自体を問題とするところにいくはずである。
 このようなミクロの場――それを国家権力との関係で「ローカルな場」と呼ぶことができよう――における、そこにかかわる人びとの自己決定力の組織化が、決定的な意味を持つ。この組織化をさらに強めて「二重権力」状態をつくり出すこと、さらにそれを既存の権力機構や装置の「占拠」にまで発展させること、このような大衆的な運動とプロセスをぬきにして、社会の変革も「国民国家」の超克もとうていできないであろう。

 後記 第三世界・植民地の問題など、当然ふれるべきテーマで論じ残したものも多いが、以下の各論にゆだねたい。また、本稿には「無党の運動論に向かって」(『月刊フォーラム』一九九五年九月号)、「二〇世紀を読み直すための序論」(同、九六年一一月号)など、既発表の論考の一部を利用した部分があることをお断りしておきます。
(『20世紀の政治思想と社会運動』1998年11月、社会評論社刊所収)