歴史の再審に向かって

――私もまたレヴィジオニストである――
                            

死者はつねに見捨てられた歴史の彼方で、生者を呼んでいるのです。彼は生者に向って、ぐれーつ、と呼びかけているのです。――埴谷雄高



 ピエール・ヴィダル=ナケは現代の歴史修正主義を包括的に分析した『記憶の暗殺者たち』(石田靖夫訳、人文書院刊)のなかで、最初の「レヴィジオニスト」は、フランスで無実の罪を負わされたドレフュス裁判の「再審」を支持した人たちだったとのべている。このような「再審」というニュアンスで理解されたレヴィジオンであれば、私もまた、レヴィジオニストである。「過去を歴史的に関連づけることは、それを『もともとあったとおりに』認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである」というワルター・ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」の一節に深く同感してきた私にとって、歴史はつねに「いま」から読み直されるべきものなのだ。そのような意味では、再審こそが歴史であり、人間の理念の歴史はこの再審をめぐる階級闘争の歴史だと言うこともできるだろう。
 先日、埴谷雄高が亡くなった。そして珍しく『赤旗』が死亡記事を掲載した。わずか十五行ほどのベタ記事だが、その経歴のところに「三二年治安維持法違反で起訴され、変節して出獄」とある。いつから共産党が「転向」という言葉を禁句にしてもっぱら「変節」と言い換えるようになったのかつまびらかにしないが、埴谷雄高がヴィジオネールへと変身し、文学思想の歴史に希有な存在となり得たのは、彼がそれまでの自身の革命思想に仮借のない再審を加えてはじめて可能になったのである。また、もう一人の注目すべき転向者である中野重治は、「日本の革命運動の伝統の革命的批判」つまり歴史の再審の道をほかならぬ転向を契機にして歩み始め、「自分の文学観の訂正・変改」を通じて「戦争への非協力」の文学的な地点をつくり出した。彼らにとって転向は、いずれもたんなる反省や悔悟などではなく、また従来の思想のたんなる放棄でもなく、「根源化」であった。転向をすべて変節としか言わない共産党の思考には、依然として「正統」にたいする再審の要求を修正主義として排撃しつづけてきた歴史が生き続けている。
 しかし、言うまでもなく、転向のすべてが、また再審のすべてが、埴谷雄高や中野重治の場合のように積極的評価に耐えうるものであったわけではない。転向が敗北であり、そこに深刻な主体の危機をはらむものである以上、その危機をどのように乗り越えるかによって道は岐かれた。一つは埴谷雄高や中野重治のように、よりラディカルに、より根源の方へと進む道、もう一つは現状を受け入れ権力の方へと身をすり寄せる道である。そして後者は、たんに「処世」の術にとどまらず、根本の所で「正史」あるいは「国史」への屈服としてあらわれるのである。戦前・戦中の日本では、それは言うまでもなく「皇国史観」への忠誠を意味した。
 なにがこのように道を分けたのか。躓きの石はもちろん一つではない。民族あるいは国家という石はけっして小さくはなかった。しかし決定的なのは、権力にたいする自分自身の位置をどのように自覚しつづけたかにかかっていたように思う。
 ナチス・ドイツやスターリン体制下のソ連では、転向という現象は存在しなかった。そこでは、思想の抹殺は肉体の抹殺として実現したからだ。ところが、天皇制下の日本では、一九三三年から三八年までの、つまり「満州事変」以後から「日中戦争」にかけてのわずか五年たらずのあいだに、左翼運動参加者の九九パーセントが転向し、体制に協力することで生き長らえた。なぜ、これほど多くのマルクス主義者が転向し、しかも転向しただけでなく積極的に天皇制権力とその戦争に協力することになったのか。そこにはこの国の特殊な社会構造と思想のあり方が端的に示されている。私はかつて転向論を、日本の近代と近代思想を考えるうえでの「戦略高地」と呼んだことがある(『歴史の道標から』所収、「転向論」参照)が、八・一五の敗戦にいたるまでの天皇制下の日本を考えるとき、このような転向論の視点は不可欠なのである。
 そのような転向論の立場から見てとくに興味深いのは、一九四〇年前後のいわゆる「総動員体制」成立期だが、転向した旧左翼がかつての理論や運動論をほとんどそのままに、新体制のイデオローグとして活躍する姿は、この時期ごくありふれた情景だった。彼らの特徴は、理論の徹底的な「道具」化にほかならない。例を文学にとれば、政治の優位性とか主題の積極性とか党の課題を文学運動の課題にするとかいうような、プロレタリア文学理論の根幹をなした主張は、その「政治」「積極的主題」「党の課題」を戦争や大東亜共栄圏建設や総力戦というようなものに置き換えれば、そのままもっとも忠実な国策文学理論になりえたのだった。「講座派」の最高峰と呼ばれた『日本資本主義分析』の著者・山田盛太郎と『日本資本主義社会の機構』の著者・平野義太郎は、ともに転向し、同じ理論を使って中国や東南アジアの社会経済構造を分析し、「大東亜戦争」の理論化をおこなった。これらの人たちにとって、マルクス主義はどのような立場からも利用できる「道具」でしかなかったのである。はじめに埴谷雄高や中野重治の名前を出したのは、すべての転向者がこのようなものではなかったということを、つまり「再審」もまたひとつの闘争の場であったことを言いたかったからである。
 現在の「歴史修正主義」を考えるのに、なんで転向問題から話を始めるのかといぶかしく思う人もいるかもしれないが、もうすこしこの問題を考えてみたい。なぜなら、歴史の再審は、当然のことながらそれをおこなう人間の歴史意識の「訂正・変改」なしにはありえないからである。
 いま、これを書いているところに三月二七日の夕刊がとどいた。その一面のトップには、北海道の二風谷ダムの収容を違法とする札幌地裁判決が報じられている。どれも大同小異だが『毎日新聞』はこのように報じている。
「判決理由の中で、一宮裁判長は『少数民族が先住民族である場合、民族固有の文化享有権の保障は、より一層の配慮が求められる』として、ダムの公共性と比較する際、民族文化への配慮が必要とした。/そのうえで、アイヌ民族について『政策などで、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、民族としての独自性を保っている』と認定。『歴史的経緯に対する反省の意を込めて最大限の配慮をしなければならない』と、先住性を無視してきた日本政府のあり方を批判した。/ダム建設については(中略)裁量権を逸脱した違法がある、と断じた。/最後に『本来なら収用裁決を取り消すことも考えられる』としながらも@ダムはすでに完成し、元に戻すと公共の福祉に反するA不十分ながらアイヌ文化への配慮がされている――を挙げ、『収用裁決は違法だが、請求は棄却する』と結論づけた。」
 この判決は、現在の「良識」と呼ばれる立場をほぼあますところなく表現していると言っても過言ではない。日本民族の侵略支配を「歴史的経緯」に、先住権を「先住性」にすりかえはしながら、「反省」と「違法」は明言する。しかし収用裁決は「違法」だが、ダムはすでに完成してしまったのだから、それを取り壊し原状に復帰させることは「公共の福祉」に反するとして請求は却下する。二風谷ダムが完成したのは一九九四年である。事実上の運用がはじまったのは昨年四月のことだ。わずか一年前につくられた「違法」な事実さえが、「公共の福祉」の名のもとに既成事実として容認されてしまう、これが「良識」の実体なのである。ここに言われている「公共」には、自分たちの聖地を奪われたアイヌ民族はあきらかに含まれていない。良識の「公共」とは、支配民族のエゴイズムでしかないのである。
 われわれにとって歴史の再審とは、この他者を持たない自民族中心史観からの脱却いがいにはありえない。しかもこの判決に表現された「良識」は、じつはかつて植民地を持っていた国民、かつて他国を侵略したことのある国民が、過去を「反省」し過去を「謝罪」するときの、常套の論理なのだ。たしかに違法であった。しかし五百年間つづいてきた原状を変えることは世界の安定という「公共の福祉」に反する。だから……。ここでもこの「公共」には、侵略され植民地化された地域の人びとははいっていない。世界の安定とはこれらの人びとの忍従を強制すること以外のなにものでもないのである。
 ところで、現在の歴史修正主義者らにとっては、このような「良識」史観さえ自虐史観なのだ。彼らの言う「自由主義史観」は、良識史観さえもが認めたこの世界の違法性に目を閉ざし、自国民と自民族に閉じこもり、「他者」から決定的に逃走する。ある友人はそれを「自慰史観」と揶揄したが、まさに名言だ。良識史観も自慰史観もともに「他者」を公共から排除する。だから、歴史修正主義にたいして良識史観を対置したのでは本当のたたかいにはならないのである。
 現在もっとも活発かつ実践的に歴史修正主義の言説を繰り返しているのは言うまでもなく藤岡信勝という東大教授だ。彼の転向は湾岸戦争を転機として起こった。そこで彼は、マルクス主義者としての自己同一性の崩壊を経験し、主体の危機を体験した(はずだ)。
 しかし彼は、自分がいかに強いマルクス主義の影響下にあったか、その「マインド・コントロール」のもとにあったかを繰り返し語るが、仮にそれが事実だったとしても、それからの脱却の過程について、とくに内面の劇についてはまったく語らない。これはどうしたことだろう。「マインド・コントロール」と大げさな言葉をつかっているが、彼は本当にそれほど思想にかけたことがあるのだろうか。
 彼は、一九六二年に大学に入ると「民青系」に属し「労働問題研究会」でソ連共産党中央委員会編の『ソ連邦共産党史』を読んだりしたという。そこで彼はこんなことを書いている。
「私たちが読んだ『ソ党史』は『スターリン党史』と呼ばれるものである。そのころ、反民青派の反スターリン宣伝はすさまじかった。『スターリンの血塗られた歴史』などというおどろおどろしい文字が躍る機関紙を配布していた。しかし、私はこれは要するに宣伝だと思い、まともに検討しようとはしなかった。真実はそれらの人々が宣伝していた以上に、スターリンの支配は『血塗られて』いたのである。日本にはいわゆる『右翼』と呼ばれる人がいて、その主張の当否はともかく、一般の人々の神経を逆なでするようなことをして、結果として左翼的な論調の影響下に人々を追いやる客観的な役目を果たしたと私は見ている。私の学生時代の反民青系トロツキストと呼ばれる人たちは、ちょうどこの右翼と同じ役割を果たしたと思う。彼らの生活態度を見て、その主張などとうてい信用できないと私は思ったのである。/いずれにせよ、学生時代に私は社会主義幻想に深くとらえられていった。」そしてさらにつぎのように付け加えている。「『スターリン批判』とよばれるフルシチョフ秘密報告のテキストを私が初めて読んだのは、講談社学術文庫から志水速雄氏の解説付きで出てからである。」(「反日歴史教育を排す――私はいかにしてマインド・コントロールを脱したか」、『汚辱の近現代史』所収)
 ここには寒々としたとしか言いようのない思想的な遍歴が語られている。生徒を、教科書によってその心を左右されるたんなる受動的存在とみなす、教科書批判における彼の発想は、この民青時代の徹頭徹尾受動的な自分自身の記憶にその淵源をもっているのだろうか。すべては他人のセイなのだ。自分がいつまでもスターリン主義の呪縛から解放されなかったのも、「ニセ左翼暴力学生」のセイだと言うのだろうか。それにしても彼が大学のサークルで読んだのが「スターリン党史」だというのは、いったいどういう記憶によるのだろう。「スターリン党史」というのは、一九三八年に刊行された『ソ同盟共産党(ボ)歴史小教程』のことである。戦後に日本でも翻訳されたが、一九五六年のソ連共産党二十回党大会でフルシチョフによるスターリン批判がおこなわれた後には、反古同然となったものである。それを一九六三年に民青のサークルでテキストに使うということは、ありえない。事実、藤岡があげている『ソ連邦共産党史』は、このスターリン批判後に大急ぎででっちあげられたフルシチョフ党史なのである。
 この混同は、私にはほとんど信じられない。さらに志水訳ではじめてフルシチョフの秘密報告を読んだというが、これが出たのは一九七七年だ。これも私には信じられない。藤岡が大学に入った年の一九六二年から数年間、マルクス主義の内部では中ソ論争や構造改革論争、そして新左翼の登場と、めまぐるしい論争と対立がおこるわけだが、その中心にあったのはスターリン問題だった。いかに忠実な民青であったとはいえ、そのなかで一九七七年まで秘密報告を読まずに過ごしたということは、思想的無関心としか言いようがない。藤岡はさかんにマインド・コントロールとかスターリン主義の呪縛だとか言うが、本気でマルクス主義に取り組んだことなど一度もなかったのだろう。だから一九五六年の前と後で、マルクス主義のなかにどんな変動が起こったかというような、歴史感覚がまったくない。一時が万事、彼には歴史意識が決定的に欠落している。その彼が歴史教科書の批判をはじめたのである。
 その藤岡は自分の歴史観つまり「自由主義史観」について、つぎのように述べる。
「〔日露戦争後から一九四五年までの〕真ん中の四十年間は、経済を無視して軍事一本に突っ走り、軍部の言いなりになった時代でした。その失敗の歴史から学んで、これからの日本をどうするかということを考えるヒントにするのが歴史教育の大きな役目だと私は思います。歴史教育は究極的には、これから日本人がどう生きるかということに深くかかわっているのだと思います。そのためにも、戦前から、日本の進むべき道について、共産主義ではなく、もちろん軍国主義でもない、自由主義路線といういちばん正しい方針を主張していた一群の自由主義者の思想や歴史観から私は学びたい。そして、その人たちの目をかりて、日本の近現代の歴史を大きくとらえなおす、そういう課題を提起したい」(「新しい『近現代史像』を求めて」、『汚辱の近現代史』所収)。
 まるで近代日本の戦争には、経済的な利害などなかったかのようだ。もし藤岡の言うような「自由主義路線」の現実的な可能性がこの時期の日本にあったとすれば、大東亜戦争肯定論がこれほどしぶとく生き続けることはなかったのである。なぜなら、林房雄を先達とする大東亜戦争肯定論の基本的な立場は、けっして藤岡が言っているように「日本は一〇〇パーセント悪くなかった」というところに力点があるのではなく、明治維新以後の百年の近代化つまり資本主義化のコースのうえでは、あの戦争がたとえ悪だとしても、それ以外に日本の生き残る道はなかったのだ、という認識にほかならない。この一種の歴史的必然論と悪を承知で自身に引き受けるというロマン派的なスタイルの前には、わずかに石橋湛山を引き合いに出すのがやっとという藤岡の「自由主義路線」は無力である。明治維新から日露戦争までの日本を全面肯定したうえで、それ以後の歴史、とくに「大東亜戦争」を否定してみせることが不可能なことは、藤岡たちがあたかも歴史の手本のように持ち上げる司馬遼太郎の「歴史小説」が、ついに日露戦争以後を書き得なかったことに、端的に示されているのだ。
 歴史教育の改革者を自任する藤岡だが、しかし彼の歴史についての発言は、司馬遼太郎を、日本の「現代」を書くことができないという司馬が突き当たった苦悶には目をつぶり、ただただ矮小化して利用するだけだ。その一から十までが受け売りでしかない。彼は、戦後の歴史教育が「コミンテルン史観」にのっとった「講座派」的歴史理論によって支配されていると言う。戦後、マルクス主義のなかで、講座派理論をめぐってどれほど熾烈な論争があったか、明治維新の評価についてもどれほどの対立があったか、この歴史教育の「改革者」は、まったく調べてみようともしなかったのだろうか。藤岡は、中学生時代に平凡社版の『世界大百科事典』で歴史の勉強をしたと回想しながらこう書いている。
「その百科事典によると、明治維新は結局のところ、あまり誇れるような立派な変革ではなかったのである。それは、フランス革命などに比べると封建制を根本的に否定したのではなく、農民は少しも解放されなかったと言ってよかった。遠山氏はマルクス主義者の陣営の中でも日本共産党系のいわゆる『講座派』に属する歴史学者の中心人物だった。そして、明治維新をつまらないものとして評価する。この講座派の理論の出発点は、戦前の国際共産党=コミンテルンが、日本国家を打倒するために日本共産党に与えた『二七年テーゼ』と『三二年テーゼ』と呼ばれる二つの綱領的方針に由来するのである。」(「反日歴史教育を排す」、『汚辱の近現代史』所収) もちろんこれにはネタ本があるので、谷沢永一の『悪魔の思想――「進歩的文化人」という名の国賊12人』などはその一つだろう。そこで谷沢はつぎのように言っている。
「左翼学者がこれこそ自分の使命であると痛感したのは、『三十二年テーゼ』を物差しに使って、日本近代史がいかに暗黒社会であるかと暴きたてる立論でした。近代日本は『三十二年テーゼ』が罵っているとおりに悪逆無道であったと非難し、それによって『三十二年テーゼ』が完全無欠に正しいと喚きたてる論証ごっこです。(中略)そのために費やされた精力は莫大な量に達しました。正統を以てみずから任じる学者たちが集まって共同執筆した『日本資本主義発達史講座』(昭和7年5月20日ー8年8月26日・岩波書店)は、その集大成であり金字塔です。」
 この本の表紙カバーの見返しにある渡部昇一の推薦文によると、これは「世紀の大発見」なのだそうである。世紀の大発見とあれば、藤岡がなんの迷いもなく自説のなかに取り込むのも当然だろう。かねてから私は、谷沢の近代日本文学文献の博捜ぶりに感嘆し、彼の『昭和文学年表』に恩恵をこうむっている者だが、文献資料の取り扱いにとくべつ厳しい谷沢にしては、この「世紀の大発見」はとんだチョンボとしか言いようがない。谷沢はいかにも厳密な文献学者らしく『日本資本主義発達史講座』の発刊と終刊の期日を日にちまで付記しているが、それだけの文献学的配慮をするのだったら、なぜ「三二年テーゼ」の公表の日付、そしてそれが日本にもたらされ翻訳が発表された日付を付記しなかったのだろう。「三二年テーゼ」が公表されたのは一九三二年五月二〇日号のコミンテルン機関紙『インプレコール』ドイツ語版(英語版は二六日)である。そこから一般に「五月テーゼ」と呼ばれていたこと、その原文をドイツの国崎定洞が手に入れて日本に送りそれを河上肇が翻訳し、一九三二年七月一〇日の『赤旗』特別号として配布したことなど、たとえばみすず書房版「現代史資料」の『社会主義運動』篇と河上肇の『自叙伝』を見れば簡単にわかることだ。(『自叙伝』では日付に間違いがあるが)。
 つまり、「三二年テーゼ」を学者たちが拳拳服膺して『日本資本主義発達史講座』がつくられたなどということは、その前後関係から言って絶対にありえないのである。
『講座』第一回配本の「月報」第一号の編集後記によれば、「約半年間毎週一回以上の真摯なる研究会」がもたれていた、とある。その前の企画段階からいえば、『講座』の準備は前年の夏頃にさかのぼる。ところで、なぜこんなことにこだわるかと言えば、この一九三一年の七月に、コミンテルンは日本共産党にたいして『政治テーゼ(草案)』と称する指針をあたえ、いままでのブルジョワ民主主義革命戦略の変更を指示していたからだ。そこには明治維新についてつぎのような一節もある。
「この革命がいかに不徹底であったにもせよ、東洋に於ける最初のブルジョア革命であったこと、隣邦にはツァールのロシア、封建的支那、朝鮮を有してゐたこと、先進資本主義列強の注意の焦点が、東洋にではなくて、西欧に向けられてゐたこと等。是等全ては日本資本主義初期の発達を急速ならしめた好条件を形成する。」「日本は今や高度に発達せる帝国主義国である。」
 講座派理論が戦前の日本マルクス主義を代表する理論であったことは事実だ。しかしそれを担った理論家のほとんど全部が戦争中に、その理論を変形しながらアジア侵略の理論的指導者に変身したことも事実だ。それらの事実を踏まえて、講座派理論の批判克服が戦後のマルクス主義再建の中心的な課題になったのである。
 講座派理論の問題、そして彼らの言う「コミンテルン史観」の問題については、スペースの制約でこれ以上ふれることができない。それこそ私のような「老人」の出番であるにもかかわらず、残念だが別の機会をまつ。ただこれだけは言っておきたい。野呂榮太郎たちは、この講座を右のようなコミンテルンの日本認識にたいする異義申し立てとして企画したことは間違いないのだ。そして彼らの主要な関心が恐慌と農業危機と満州への侵略戦争という現実をその根拠にまでさかのぼって解明し、そこからの脱出の道を科学的に探求することであったことも間違いない。それは藤岡が扇情的に言っている「日本国家の打倒」などとはまったく異なるものである。そしてさらに、日本の封建遺制を強調するこの理論が大きな影響力をもったのは、コミンテルンの権威などによるものではなく、当時の知識人と大衆の日常のなかに、被抑圧感や暗澹とした鬱屈感が充満していたからである。彼らは出口を求めていたのだ。しかしその出口は、『講座』が予期したのとはまさに逆に、アジアへの侵略戦争という形で実現したのである。
 さて、話を最初にもどさなければならない。私は、真のレヴィジオンとは自分の過去を含めた全体的な再審でなければならないと言ったはずだ。その基準に照らしてみると、藤岡の「スターリン主義の呪縛」からの脱出はきわめて疑わしい。もちろん彼の政治信条は変わった。それははっきりしている。しかし彼は教育学者だ。その彼の「職業」の部分についてはどうなのか。いや、政治信条と職業としての学問とを分けて云々することがおかしいだろう。しかし湾岸戦争による彼自身の転向を経た後も、彼の教育理論にはほとんど変化が認められないのではないか。いま私の目の前には、彼の教育学関係の論文のコピーが山と積まれているのだが、几帳面さを売り物にする私も、さすがにこれを全部読み通す元気は持ち合わせていなかった。だから私は「ではないか」とひかえめに言う。
 私が藤岡の「転向」における不変の部分になぜこだわるかといえば、それが一九三〇年代末から四〇年代にかけて、この国の転向マルクス主義者がたどったパターンにあまりに似ているからだ。理論の道具化とその道具化された理論を使っての戦争協力というパターンだ。その道具化されたマルクス主義への疑問が、戦後、彼らの転向以前のマルクス主義への再審へと、私たち後進の世代を向かわせたのである。一例をマルクス主義にとったが、これはなにもマルクス主義だけにかぎらない。戦後、転向論や戦争責任論に決定的な段階を画したのが、この問題の提起だった。それは鮎川信夫による『死の灰詩集』批判によって口火を切られた。『死の灰詩集』とは、ビキニ環礁での原爆実験による第五福竜丸の被爆事件に抗議する詩人たちのアンソロジーである。鮎川はこの詩集に収められた詩の多くが、戦争中に戦意高揚のためにつくられた『辻詩集』とあまりに似ていることに衝撃を受け、彼らは、戦争中の翼賛詩人から戦後の平和詩人へと、ただ主題を変えただけで、戦争中の自分の主体や詩の方法にたいする内在的ななんの自己批判もしてこなかったのだと批判した。吉本隆明はこれを受けるように「前世代の詩人たち」を書き、さらにプロレタリア詩人の戦争協力がなぜ可能だったのかを、彼らの文学理論そのものの批判をとおして明らかにした。これは戦後思想の決定的な転換点だったのである。
 小山俊士は「藤岡論理の非論理性を暴く」(『週刊金曜日』一九九七年二月二八日号)で、あまたの批判者のなかではじめて藤岡の教育理論の全面的な批判をはじめた。そのなかで彼は、「最近の藤岡の『従軍慰安婦を中学校で教えるな』という主張も、被害者の証言に対するいちゃもんのあとに残るのは、『人間の暗部を早熟的に暴いて見せること』は『子どもの人格を崩壊させる教育になる』ということだけだ。かつての『社会主義的な人間を育てるための教授法』を、『愛国的な人間を育てる』という目標に乗り換え、そのまま主張されている。その背景にあるのは教育によって子どもなどいかようにでもできるという傲慢な教育観である」と述べている。この「傲慢な教育観」は、藤岡が平和教育の実践的な理論家であったときから持ち続けていたものであったのだろうか。もしそうだとすれば、それはレーニン的な「外部注入論」を源泉にして、戦後民主教育理論のなかにも根強く生きていたものではないのか。
 しかし、これは伝聞で私自身が確認したわけではないのだが、かつて藤岡はパウロ・フレイレの研究会に参加していたことがあるという。もしこれが事実だとしたら、藤岡の現在とフレイレのつぎのような言葉とのあいだに、どのようなつながりがあるのだろう。
「教育者の任務は、自分のみが認識主体であると自認し、認識対象を目の前に据えて、さてその対象を認識してから、おもむろにそれについて被教育者に講釈をほどこすことなのではないのであって、そんなことをすれば、被教育者の役割は、言われたこと(コミュニケ)をただ整理するだけの、記録保管屋に堕してしまうだろう。/教育は伝えあいであり、対話である。知識の伝達などではない。それは語りあう主体相互の出会いなのだ。それぞれの頭のなかにある考えを、おたがいにとって意味あるものたらしめようとする努力なのだ。」(パウロ・フレイレ『伝達か対話か――関係変革の教育学』里見実ほか訳、亜紀書房刊)
 フレイレから仮説実験授業へ、そしてさらにディベートへ、……ここには、もしかしたらとても大きな教育理論上の問題があるのかもしれない。フレイレにおける「関係変革」という相互主体性の思想が、この過程で教授法=技術へと矮小化されていったのではないか。ここでも理論の技術化がみられる。教育理論家としての藤岡信勝のなかで、理論の変質は、湾岸戦争よりもはるか前に、つまり彼の政治的立場の転倒のはるか前から始まっていたのではないか。
 さしあたりの問題は、「従軍慰安婦」の記述を中心とした教科書の内容をめぐる攻防であることは事実だとしても、われわれは、そこにとどまることはできない。従軍慰安婦の問題を教科書に記述するのは、先ほどの例で言えば二風谷ダムの強制収用が違法であると認めるのと同じレベルに属する。それがもしそこにとどまれば、それはただの良識の枠内でおわる。われわれはその枠を突破しなければならない。われわれ自身が再審にさらされているのである。「マルクス主義者」藤岡信勝は、湾岸戦争以後の世界にたいする危機意識から、体制化することで逃走した。そこから彼は彼ら流の歴史の再審を叫んでいる。われわれは湾岸戦争以後の世界の危機の相に立ち止まり、われわれの歴史の再審を対峙させなければならない。
(『インパクション』102号、1997年4月号)