20世紀を読み直すための序説

 われわれがいま、どのような時代を迎えつつあるのかを知るためには、われわれが生きている「この時代」、つまり二〇世紀がどのような時代であり、それがかかえている課題はどのようなものであり、それをどのように解こうとし解くことに失敗したか、そしてその課題はどのようなかたちで現在に生き残り二一世紀へと引き継がれようとしているのか、……このような問いの総体が検討されなければならない。
 昨年、戦後五十年目の年に日本は思わぬ出来事にあいついでみまわれた。年明けそうそうの阪神大震災、そしてオウム事件、金融破綻。その間にも無視できない存在となった無党派層の増大と五〇パーセントを切る投票率。薬害エイズ問題の解明の過程で暴露された官僚と企業と学者の共犯。……ここに示されているのは構造的な危機であり、支配の正統性の根底からの動揺にほかならない。
 このような一連の事件をたんに日本の戦後五十年を象徴する事件としてだけとらえるのではなく、二〇世紀の最後の五年間を迎えた世界の出来事としてとらえること、そしてまた同時に、阪神大震災に一九二三年(大正一二年)の関東大震災の記憶を、無党派層の増大にワイマール共和国の経験を、金融破綻にかさねて一九二九年恐慌の記憶をよびもどすこと。……もちろんこれらが過去の出来事のたんなる「反復」でないことは自明のこととして、しかし、これらの出来事が持つ意味の重大さは、われわれに否応なく世界への/からの視線と過去への参照を要求するのである。
 私たちは何処からきて何処へ行こうとしているのか? このような問いを掲げることにいまの私たちはひどく臆病になっている。旧世代は戦争中の「世界史の哲学」で煮え湯を飲み、戦後のヤンガーゼネレーションは社会主義への全世界的移行期というユートピアで挫折した。米ソ対立のなかに宙吊りになったまま核戦争の幻影におびえて世界の未来については判断停止をつづけてきたリベラリズムは、冷戦の崩壊とともにはじまったあたらしい事態のなかで急速に分解した。いま、世界についてわれわれは何を語ることができるだろうか。
 それでもなお私たちは世界について語ることを始めたいとおもう。もちろんそれはひとつの図式として世界史を描くことではないし、イデオロギー的立場から自分の信条を吐露することでもない。それはまずなによりも、今日の時点をふまえて二〇世紀の経験を再点検することから出発する。しかもその経験は、粉砕されて統一性を失い断片として散乱している。
 このような経験の断片化と散乱を生み出した原因は、言うまでもなく目標(テロス)の消滅にほかならない。二〇世紀が「歴史の必然性」とその必然性の結果としての社会主義という「目標」につよく呪縛されていたことはあらためて言うまでもないだろう。それはソ連の崩壊を目前にした一部の人が、それを「歴史の終焉」とはやとちりしたことによく示されている。「歴史の終焉」論は「歴史の必然性」論のメダルの裏側なのでる。しかしながらソ連の崩壊から五年の後のいまでは、「歴史の必然性」論も「歴史の終焉」論も、ともに現実性を失ったたんなる虚偽意識でしかないことが自明のこととなっている。経験を束ね、全体の布置を描いてみせるような中心は、イデオロギーとしてさえももはや存在しないのである。
「ここを広く見わたしてみる。時代は腐敗し、しかも同時に陣痛に苦しんでいる。事態は悲惨であるか、さもなければ卑劣であって、そこから脱け出る道はまがりくねっている。だが、この道の果てがブルジョワ的なものでないだろうことは、疑うべくもない。
 新しいものは、とりわけ厄介なかたちでやって来る。」(池田浩士訳)
 一九三五年に刊行された『この時代の遺産』の序言をブロッホはこう書き出した。ナチスの政権獲得から二年の後である。ナチスのつぎはわれわれの番だという倒錯した希望をもったドイツ共産党は、ドイツ国内ではすでに壊滅している。しかもこのとき、スターリンがもっとも信頼し親近感をもったのはヒトラーである。ドイツからソ連に亡命したおおくの共産党員はやがて収容所群島のなかに姿を没した。そのようななかで、ブロッホにとってさしあたり確かなことは、時代の腐蝕感と曲がりくねった道を歩んでいるという感覚だけである。「この道の果てがブルジョワ的なものでないだろうことは、疑うべくもない」という言葉はなかば心情の吐露であり、しかもその現実的な姿はすでに「国民社会主義」によって反ブルジョワ=反ユダヤ人というかたちでなかば実現されている。
 この一九三五年にブロッホは亡命地のパリで、おなじように亡命してきたヴァルター・ベンヤミンに再会する。そのベンヤミンを回想して彼はつぎのように語っている。
「副次的なものへの感覚、ベンヤミンはそれを持っていましたが、ルカーチにはそれがまるで欠けていました。ベンヤミンは意味深い細部を見る比類のない目を持っていました。本筋からはずれたところにあるもの、思考の中や世界の中でここから芽ぶきはじめたみずみずしい要素、おあつらえむきに生じたものでなく、それゆえぴたりとねらいすませたまったく独自の注意を受けるにあたいする、型にはまらず・尋常でなく・中断する・個別的存在を見る目です。このような細部、このような意味深い些細なことに対して、このような意味深い副次性のしるしに対して、ベンヤミンはたぐいない瑣事拘泥的な文献学者的感覚を所有していました。文献学者的というのは、この場合、観察されもし、また解読されもしたからです。感覚によるいたんだテクストの解読、書籍を読みふけるのではなく、書籍を通しての解読。その書籍に彼は耳の上まで埋まっていたばかりでなく、注意深く解読されるべき世界の経験に耳の上まで埋まっていました。つまりベンヤミンの持っていたのは独特に文献学的な感覚で、それはもっとも明瞭な感覚でもあり、外的諸現象およびほかならぬ目立ちながら気づかれないもの、あるいは気づかれないまま目立っているものは、この感覚のおかげで、こんな直感という形において、および現象ないし文字という形象において彼の目の前に顕現したのです。」(好村冨士彦訳)
 ここには『パサージュ論』のノートを書きつづけるベンヤミンの風貌が的確に描かれていると同時に、「現代」という問題にぶつかるとき、私たちがたえず立ち返ってきた『この時代の遺産』という一冊の本をつらぬくブロッホ自身の視線が語られている。
 その通りなのだ。われわれにとって必要なことは、二〇世紀を完結した物語として語ることではなく、「注意深く解読されるべき世界の経験」の集積として、あたかも「いたんだテクスト」のように解読することであり、「目立ちながら気づかれないもの」や「気づかれないまま目立っているもの」を形象として現前化することなのである。
 このような立場に立つかぎり、経験が断片化し散乱しているという状況はなんら悲しむべきことではない。むしろそれこそが有利な条件なのである。なぜならわれわれにとっての関心事は過去を統一的に再構成することではなく、その散乱した経験の星座のなかから「もはや意識されていないものを、まだ意識されていないもののなかへ組み入れること」(ブロッホ)だからである。
 とは言っても、散乱した経験の星々をいくつかの星座として描き出すためには、その無秩序の集積のうえに、幾本かの補助線を引くことから始めなければならないだろう。それによって経験という星の光は異なった輝きを示すだろう。ではどのような補助線が可能だろうか? どこにどのような補助線を引くか、それ自体が論争的な問題であることは言うまでもない。しかし確かなことがひとつだけある。それは若い中野重治の言葉をそのまま借りれば、「微小なるものへの関心が必要である。」「すべては試されねばならない。綿密に選択されねばならない。そしていかに微小なる発見をもおろそかにしてはならない。それは事実に関するからであり、事実すなわち物こそ、そして物のみが、真実の知識を与えるからである。」(「詩に関する断片」)ということである。いままでの二〇世紀に関する「正史」や完結した物語のなかでは、ほとんど気づかれることのなかったような、そして事実、歴史の動向にとっては無きに等しかったような無力で些細な試み、あるいはそこまでさえも形をとり得ないままに消え去ってしまった試み、――それが視野のなかに浮き出てくるような補助線が発見されなければならない。
 その際、出発点となるのはおそらく危機意識にとらわれた二〇世紀の「大衆」である。ハンナ・アーレントはつぎのように書いている。
「全体主義運動は、いかなる理由からであれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能である。大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する個別的な階級意識を全く持たない。「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験しともに管理する世界に対する共通の利害を基礎とする組織、すなわち政党、利益団体、地域の自治組織、労働組合、職業団体などに自らを構成することをしない人々の組織、すなわち政党、利益団体、地域の自治組織、労働組合、職業団体などに自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。潜在的には大衆はすべての国、すべての時代に存在しており、たとえ高度の文明国であっても大抵は住民の多数を占めている。ただ彼らは正常な時代には政治的に中立の態度をとり、投票をせず政党に加入しないことで満足しているんである。
 ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的には全く無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党が馬鹿か無感覚で相手にならないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。ただこの場合、ファシズムは最初からヨーロッパ住民のこの分子に目を向けたのに対し、共産党は成立当初は完全に国民国家の利益政党としての、労働者階級の一過激政党立ったため、ファシズムと同じ道をとり始めたのは比較的おそく、ほぼ一九三〇年以後のことだという違いがある。共産党のこの変化の原因は、一つには、やはり一九三〇年頃にようやく勝利を収めたロシアのスターリン政権の意向にこの方向が完全に沿ったこと、また一つには、ファシズムその競争の中で共産主義者がファシスト的方法を自分も利用しようと意識的に学びとったことだった。「大衆の心」を掴もうとするこの競争の結果は、双方の運動の成員がともにこれまで一度も政治の舞台に登場したことのない人々から成り立つようになったことである。これは当然に政治的プロパガンダの全く新しい方法を著しく導入し易くし、なかんずく、政治上の敵対者の論議を黙殺できるようにした。運動は原理的に政党制度の枠外に身を置いたばかりでなく、一度もこの政党制度に組み込まれたことのない、従って政党制度によって「堕落」させられていない大衆を集めてメンバーとしたからである。」(『全体主義の起源』3、大久保和郎・大島かおり訳)
 アーレントの描く「大衆」は、五〇年代の大衆社会論がもっていたペシミスティックな色彩がそのまま反映していて、その像についてはさまざまな異論や補足がありうるが、彼女がここで描いたこの枠組みからは、多くの素材をくみ取ることができる。動員される大衆、あたらしいプロパガンダとしての大衆文化、大衆社会とそれをささえる技術、政党代表制の崩壊、等々。そしてなによりも大衆との関係でとらえられたスターリニズムとファシズムの類縁性。
 二〇世紀の危機はこのような「技術」「大衆」「政党代表制の危機」を背景に現実化した。その危機は、たんなる経済危機でも政治危機でもなく、大衆の危機、生活の危機であった。そしてなによりも生活の継続性を保証する装置が文化であるという意味でそれは文化の危機として現前化した。『方丈記』の鴨長明の言葉を使えば「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思いをなせり」というわけである。そこで古い都をとりはらい、あたらしい都を建てようという運動が当然のこととしておこる。二〇世紀をつらぬく基調は「近代の超克」である。
 このような大衆の危機あるいは危機のなかの大衆をもっともよく表象するものは表現主義である。いまからちょうど二十年まえのことだが、わたしはこんなことを書いている。――「私見によれば、ファシズムを論じる際の決定的なポイントは、『危機』をどうとらえるかである。危機をたんに経済過程あるいは政治的上部構造の危機とのみとらえるのでは、不十分であろう。危機はブルジョワジーだけをとらえるのではない。国民生活の隅々までが、それを支えていた土台の崩壊によって震駭させられるのである。それは一人ひとりの人間の価値意識を崩壊させる。彼らは反逆する。破壊する。しかしそれが社会主義の方向に組織されるかどうかは別のことがらである。このような大衆的な危機意識は、時に芸術がもっとも良く表現する。第一次大戦直後の表現主義運動を無視してドイツ・ファシズムを論じることは実りが少ないと私には思われる。」(「国家を論じるとは……」、『肩書きのない仕事』所収) いまもってわたしは、二〇世紀前半の危機を具体的に再構成するためには、表現主義の両義的な性格を微細に研究することが不可欠だと考えている。そしてその危機からの脱出の試みとしての「近代の超克」の運動が、ボルシェヴィズムとファシズムに帰結したということこそ、問題の中心をなしていると考えるのである。 
 「近代を超え出ること」――一九世紀にはまだごく少数の芸術家や思想家の関心事でしかなかったこの課題が、とくに最初の総力戦としての第一次世界大戦を経験した後のヨーロッパにおいて大衆的な課題になったときに、「この時代」としての二〇世紀がはじまった。そして「危機」を表出する先駆的な芸術表現や理論的分析を背景に、現実の「運動」としてこの課題を担ったのは共産主義運動とファシズム運動にほかならなかった。この世界と反世界とでも呼べるような相似形をなした対極の「運動」が作り出した磁場が、二〇世紀のプロブレマティックを産出する。とくに共産主義運動におけるボルシェヴィズムの覇権の成立以後、この構造はほとんど固定してしまう。
 この地獄を約束された二つの「運動」とその成果としての二つの「体制」――それは国民社会主義政権のホロコーストによる六〇〇万人の死者と、ソヴェト政権の収容所群島における二〇〇〇万人の死者に象徴される――は、しかし大衆にとっても知識人にとっても「希望」だったのである。この「近代を超え出た」二つの体制のなかで、人びとはたんに「動員」されただけでなく、みずから積極的に参加した。エルンスト・ユンガーの言う「総動員」(トータル・モビリゼーション)は、このような「参加」なしには実現しないのである。しかも大衆は「近代の超克」というような大風呂敷のスローガンによって動員されるのではない。このような大風呂敷のスローガンが、小さな具体的な装置に媒介されるとき、はじめて大衆をとらえることができるのである。池田浩士が「〈参加の時代〉の果てに――簒奪された文化革命の歴史」(『xxxxxxxx』所収)で緻密な分析をおこなっているように、この動員はたとえば「ティングシュピール」のような大衆参加演劇という形式などを駆使しておこなわれる。池田浩士はナチスによって案出=再興されたこの演劇形式を、「参加者の総体が演じるものと観るものとの区別をのりこえ、客体であると同時に主体であることによって共同体のなかで合一することができたとしても、その参加者の個々人は、本質的には参加者でしかなかった。かれらは、だれによってであれとにかく準備された場で、参加者として主体的にふるまったにすぎない。」とその限界を、つまりその動員するという側面を指摘しつつ、さらに「それどころか、表現主義やヴァイマル文化がついに果たせなかったほどの主体性をもって、かれらは文化の参加者だったのだ。資本主義がいまなお模索しつづけている参加主体としての消費者を、かれらはティングシュピールのなかで、孤独と空しさと相互の敵意を忘れ、一体となって、主体的に演じきったのだ。」と、動員されることが同時に主体的参加=自己解放でもあったという、この倒錯した関係を的確に指摘しているのである。
 fascismにfascinateされる大衆と大衆的文化人、共産主義の理念に惹かれその運動や体制の現実に目をつぶる知識人。二〇世紀の、とくにその前半を特徴づけるのはこれらの存在である。そしてわれわれの二〇世紀の経験を読み直すという試みにとって、これらの動員=参加の小さな具体的な局面とその装置の発見は、まさにアクチュアルな課題なのである。
 一九三四年は一つの転機の年である。それはソ連共産党第一七回大会(一月)とドイツ国民社会主義党ニュールンベルク大会(九月)で彩られる。前者は反対派にたいするスターリンの制圧を内外に宣言した「勝利者の大会」、後者は「長いナイフの夜」によってエルンスト・レームを中心とする「永続革命派」を抹殺したヒトラーの権力樹立をもって「革命の終了」を宣言した大会である。いずれも「運動の終焉」と体制化を意味する。運動は戦争にとってかわられる。総動員には総力戦という目標があたえられる。
 ここで問題になるのが「人民戦線」だ。これについてはまだ資料が決定的に不足している。知識人世界にたいする影響という点では、デミトロフやトレーズよりもはるかに大きな存在であったウイリー・ミュンツェンベルグの行動を具体的に解明するための資料は、まだない。スターリンがコミンテルン七回大会の人民戦線戦術を、本当のところどう考えていたのか、それを語る資料もまだない。
 しかし人民戦線問題で決定的なことは、それが「近代を超える」という試みの挫折の表現だということだ。わかりやすい例として芸術運動をとろう。一九一七年をはさんでブルジョワ的表現を超える運動としてロシア未来派が出現した。ここからマヤコフスキー、メイエルホリドに代表されるロシア・アヴァンギャルドが生まれる。芸術の革命つまり近代=ブルジョワ芸術の超克がかれらの課題であったことは言うまでもない。しかし芸術を芸術の問題として解決しようというかれらの意図は、スターリンの奪権の過程であらわれたプロレタリア芸術運動という名の党派的管理によって挫折する。しかし党内闘争に勝利したスターリンにとってプロレタリア芸術の狭い政治主義が「動員」の阻害になったとき、かれはこのプロレタリア芸術を否定して社会主義リアリズムを主張する。世界観ではなくソヴェト政権つまりスターリン独裁を支持するかどうかが作家をふりわける基準となる。そしてその結果が人民戦線のもっともはなばなしい成果として喧伝された「文化擁護世界作家会議」であった。
 この流れはなにを意味しているだろうか。まず第一に、革命はたんに資本主義という社会・経済制度を問題にしただけでなく、表現とその制度までを含む近代の総体を否定の対象として出発したということであり、第二に、プロレタリア芸術はその挫折の産物にすぎず、第三に、その政治主義=動員主義の帰結としてブルジョワ文化との和解に到達したということである。これはファシズムとボルシェヴィズムの対抗がつくり出す磁場の緊張に耐えきれなくなった左翼自由主義知識人にとって、ふたたび近代の地平に退却する格好の逃走路となったのである。これは日本も例外でない。大正アヴァンギャルドからプロレタリア芸術へ、そして転向を経て幻想的人民戦線としての『文学界』にいたる過程は、小林秀雄の「私小説論」を「昭和文学」前期の帰結とする、平野謙を代表とする現代日本文学史の公認の叙述となっている。
 「近代を超え出ること」を課題にした二〇世紀の最初の三十年間の帰結が、なぜふたたび近代の地平に回帰し、ファシズムとの対抗関係という条件のもとでブルジョワ文化の擁護にまわることになったのかという問いは、われわれが二〇世紀の経験を読み直す場合のもっとも基本的な「補助線」のひとつであろう。
 「近代を超え出る」という課題は、こうして人民戦線によって棚上げにされ、それにつづく第二次世界大戦の「日・独・伊ファシスト枢軸国と米・英・ソ民主主義連合国」というこれまた幻想的な対抗図式によって押し隠された。その状態は戦後も冷戦構造の崩壊まで基本的にはつづいたのである。
 冷戦構造の崩壊は、戦争と冷戦のなかで凍結されてきた危機を露呈させた。世界はふたたび二〇世紀の課題、「近代を超え出る」という課題に直面しているのである。もちろんその条件は、二〇世紀はじめの時代とはおおきく異なっている。二〇世紀を特徴づけた戦争も革命も、いまのわれわれはその可能性についてではなくその不可能性を前提にしてしか語ることができない。しかし状況はたとえばイマニュエル・ウォーラーステインによればつぎのようになっているのである。
「わたしは、人びとが一五〇年間にわたって、一方では自分たちは社会主義者だと言いつのり、他方では保守主義者だと言いながら、実際のところはリベラルからそれほど離れていたわけではないと言おうとしたのです。またリベラリズムは、そうした二つの対立する立場を、右翼と左翼の双方から中道へ向かって引き寄せる磁力となっていたと言いたかったのです。
 一九八六年に起こったことは、一つにはこうした磁力が崩壊し、リベラリズムが周辺の議論のすべてを引きつける能力を失ってしまったことだったということを、わたしは示したかったのです。また人びとが、こころの底では保守主義者の心性をもっていようと、あるいは社会主義的なものをもっていようと、誰かれなしに理性的改良主義こそが真の解決策だと同意させてしまう、リベラリズムの魔力が消えてしまったと言いたかったのです。
 この点についてさらに論じましょう。『われわれは、今や、みなケインジアンなのだ』とは、ニクソンが言ったことです。またわれわれは、みな中道主義者でもあるのです。ところが、実際には中道は事実上崩壊してしまいました。そして、突然に左翼が解放されただけでなく、右翼もまた解放されたのです。右翼は知的な意味でも解放されたので、保守主義者は突然、真性の保守主義者になれましたし、また、リベラルな中道派という衣を脱ぎ捨てて正真正銘の保守主義の言葉で語り始めました。これらすべては、中道主義のプログラムが諸問題を解決するだろうという信念が、右翼にせよ左翼にせよ、双方ともに堅固なものではなかったということと、関係があったのです。まったく突然に、われわれは両極化しつつあるのです。」(京都精華大学のシンポジウムでの発言、『リベラリズムの苦悶』所収)
 これは人民戦線というかたちで「近代を超え出る」試みを近代のなかに回収する余地が、もはや近代そのものに失われてしまった、ということなのである。その主体的な要因は、地域概念をこえた第三世界の登場、そして人民戦線を主導したコミンテルン系共産党の後退とあたらしい左翼の登場ということであろう。われわれは振り出しにもどったが、その振り出しはまったく相貌を変えてしまっている。 かつての道はもはやなく、あたらしい道はまだない。だからわれわれはこの歴史哲学的な場を読み解くための集団的な努力をつづけなければならないのである。
(『月刊フォーラム』1996年11月号)