alternative autonomous lane No.8
1998.9.20

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目 次

【議論と論考】

「核の傘」・「核による安全保障」批判の方法について――高島義一論文への疑問(天野恵一)

イワンは善い王様か、って!?(池田浩士)

綻び目から読みかえす「プライド」(たいらひとし)

【チョー右派言論を読む】

第三者(=敵)を想定していない戦争マニュアルだって?(太田昌国)

産経だけ(?)の「共和国」情報――反戦派の「共和国」論を、今(伊藤公雄)

【コラム・表現のBattlefield】

勝っても負けても、とりあえず「知らせる」が勝ちの闘い――「思いやり予算」違憲訴訟・東京(桜井大子)

【海外情報】

フランスの核(コリン・コバヤシ)








 


「核の傘」・「核による安全保障」批判の方法について 高島義一論文への疑問

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 8月8日・9日、私(たち)は長崎の「ピースウィーク実行委」の活動に参加した。インドの新聞記者が来ており、被爆者たちの訴え(もちろん核実験は許されないという)に答えて、防衛上の抑止力として核保有は必要と語り、なんで日本は原爆を投下した国であるアメリカの核の傘の中にいるのかと、問いかえしたということが現地の新聞・テレビなどで話題になっていた。
 日本の政府は、核抑止力を前提にし、アメリカの核戦略を積極的に支えている。インドの記者の核抑止力論の肯定には反対だとしても、こういう彼の疑問は当然であると、私は考え、爆心地公園での集会でも、そう発言した。
 アメリカの核攻撃体制を支える核の加害「国民」として私たちが生き、生きされているという現実を抜きにした、一般的な核被害のすさまじさ(それは本当にすさまじいものであるが)と「核実験・兵器の禁止」の訴えは相手の心をうたない。ある欺瞞をそれに感じるのは、あたりまえなのだ。
 今年8月、広島・長崎市長が、アメリカの「核の傘」からの脱却をはじめて訴えたのは、その欺瞞に、遅まきながら自覚的に少しは対応しようという姿勢のあらわれであろう。
 長崎の平和祈念式典で読み上げられた被爆者「代表」の小峯秀考の「平和の警い」も、こう政府に要求している。
 「核兵器は悪魔の兵器であり、人間として絶対に使ってはいけないと、どうして世界に向かって叫ぶことができないのでしょうか。それが『核の傘』というしがらみのためだとすれば、一日も早く『核の傘』から独立する道を探すべきではないでしょうか」(『西日本新聞』8月11日)。
 「唯一の被爆国」の全面強調という、被害者ナショナリズムの論理に、少しずつヒビが入りだしている。
 本島等前長崎市長も、侵略戦争の謝罪を先にキチンとすべきだということを、公園の集会で強調していた。
 アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館の広島・長崎の被爆展示の拒否という問題もあって、加害者としての日本をふまえない、原爆被害からの原爆禁止のアッピールは、外国の人々の心をうたない。広島・長崎でもこういう認識が一部の活動家のものから、やっと、それなりに一般的なものになりつつあることが、そうした発言に反映しているのだろう。
 アメリカ帝国主義の攻撃的核戦略の歴史を具体的に示し、それへの正面からの批判こそが重要であるという、まっとうな主張を高島義一が展開している(『かけはし』9月7日号)。
 ただ、そこで高島は、こう語っている。
 「また、インド・パキスタンの核実験に抗議するさまざまな行動の中でも、『アメリカの核の傘に入っていてはインドやパキスタンを批判できない』と繰り返し語られた。『アメリカの核の傘からの離脱』、あるいは『アメリカの核の傘に頼らない安全保障』という要求は、反核市民運動から日本共産党まで共通のスローガンになってしまっているように見える。/しかしこのような要求やスローガンは、アメリカ帝国主義の核戦略への批判を回避するものであり、時代が労働者人民に求めている闘いの方向性をあいまいにし、真の問題点をおおい隠す役割を果たしかねないものである。『アメリカの核の傘に頼らない安全保障』という表現は、これまで、民衆の生活や生命を含む『安全』が、アメリカの核『の傘な』るものによって『保障』されてきたとうう了解の上にしか成り立たない」。
 「すなわちそれは、アメリカ帝国主義の核戦略の積極的意義を承認するものになりかねない」(「『核の傘に頼らない安全保障を』という混乱した要求について」)。
 この点は、論議の進めかたが、少々乱暴すぎないか。
 例えば「長崎平和宣言」は、日本政府に、「『核の傘』に頼らない真の安全保障を追求してください」と要求している。この主張は、「核の傘」は「真」の「安全保障」とはいえないという認識があって、はじめて成立するものではないのか。「核の傘」による平和(核抑止論)への疑問や批判が、いろいろな「『核の傘』からの離脱」の要求の動きとして、この間、示されてきているのである。
 確かに、日米安保体制への批判もない「核の傘離脱」論もあり、アメリカの核戦略へのキチンとした批判のないそれも少なくあるまい。
 しかし、この「核の傘」批判の動きのまったくの外部から、まるごと、それらは「真の問題点をおおい隠す」とバッサリ〈革命的〉に切りすてるという論法は、やはりいただけない。
 「民衆の安全にとって核兵器はいらない」という主張を広げ、アメリカの核戦略とそれに積極的にくみこまれている日本政府への批判の運動を、より大衆化するためにも、私たちは「核の傘」への疑問・批判の声の「内側」から、「核の傘」へのより具体的な批判の言葉(と行動)をつみあげていくべきではないのか。(『派兵チェック』 No.72. 1998.9.15)















イワンは善い王様か、って!?

池田浩士●京都大学教員


 赤と青の色刷りの大見出しに、DJの二文字が踊る。新聞によってレイアウトは異なるものの、どれも第一面はこのローマ字が主役で、たたきつけるように目に飛び込んでくる。超人気ディスク・ジョッカーの大醜聞(スキャンダル)のニュースが、連日、新聞の一面トップを飾っているのである。
 そのローマ字二文字以外を、せめて音読\\文字どおり音読\\だけでもしようと、街頭の新聞売りスタンドの前に立ちどまるのだが、つぎつぎと小銭を出しては新聞を上から取っていく手にはばまれて、子音と母音の組み合わせを頭のなかと口のなかで試みているうちに、やはり目に焼きつくのはDJの二文字だけだ。DJから思いつくのは、ディスク・ジョッキーくらいしかない。というわけで、有名ディスク・ジョッカーの大不倫疑惑となったのである。一九九七年十月、つかのまの訪問客としてソウルに滞在したわたしの頭のなかのことだ。新聞スタンドのすぐかたわらでは、作業用ベストにナップザックにスニーカーの、一目でわかる日本人旅行者の男が、黒い犬と並んで路端に坐った乞食を、あらゆる角度からカメラに収めている。ジャリカシャチーというシャッターの音が、耳底にこびりついた都会の喧噪を切り裂いて響く。恥知らず奴! 倭奴!!
 大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の名でそれぞれ呼ばれている「二つの国家」にかかわることと向きあうとき、その入口でまずつまづくのが、こういう恥知らずな「日本人」の存在である。「民衆ハ直接朕が綏撫ノ下ニ立チテ其ノ康福ヲ増進スベク」云々と、韓国民衆にたいして明治天皇睦仁が一九一〇年八月二十九日付の「韓国併合ノ詔書」で口約束したその舌の根も乾かぬうちから、いや、「併合」以前にもすでに、「日本人」は、韓国民衆から「倭奴」と呼ばれ「チョッパリ」となじられるにふさわしいことを、山ほど、いや海ほども、してきたし、いまもしつづけている。いやしくも大統領選挙の一候補者を、あろうことか大不倫疑惑の超人気ディスク・ジョッキー・タレントと勘違いした、このわたしも含めて。
 入口で恥知らずな「日本人」につまづいたわたしは、つづけて左足を踏み出した瞬間、今度はDJこと金デジュンにつまづいて倒れている友人のからだにつまづいてしまう。この友人は、恥知らずな「日本人」を自分自身の恥として受けとめ、倭奴ではない人間として韓半島の友人たちとつきあうことを、自分のテーマと思い定めて生きてきた。それも、李承晩に反対し朴正煕にも全斗煥にも抵抗したような部分の韓国民衆とこそ、友人としてつきあいたいと、念じてきたのだった。だから、軍事政権に反対して日本に亡命し、その日本から「不法」に韓国へと拉致された金大中をも、「民主化運動」の一種のシンボルとして、支援したいと念じてきた。その金大中が、ディスク・ジョッカーならぬDJとして、ついに大統領となり、そのDJ大統領が、不倫疑惑どころか、併合天皇睦仁の曾孫と、世紀の会見をする段取りとなったのである。
 併合天皇睦仁とその後裔たちの路線とはまったく別の道を、朝鮮半島の人びととのあいだに 拓 こうとしてきたわたしの友人たちは、まず、たえず、くりかえし、「日本人」が韓半島の人びとにたいしてなしてきたこと、いまもなしつつあることを、自分自身の所業として引きうけることから、その道の第一歩を踏み出さざるをえなかった。「さきの大戦」とか「不幸な過去」とかいうような天皇語を口ずさんでいれば済む、というようなものではないこの一歩は、サッカーや甲子園や毒物事件の観客として姿を現す「民衆」と比べても決してヒケをとらないほど多くの不可視の人びとによって、『ナヌムの家』の上映運動や松代大本営工事現場あとの慰安所保存やその他もう数え切れないほど多様な試みによって、いたるところで踏み出されている。「申しわけありません」というような言葉ではない試みが、しかも主として、一九四五年八月までの歴史に直接の責任を持たない人びとによって、それどころか、一九六五年の「日韓条約」の時点でもまだこの世に存在していなかった人びとによってさえ、さまざまに模索されている。DJは、この人びとの思いに添うような関係のありかたを、玄界灘の向こう側から、模索しようとしているのか。
 かつて、「教科書問題」と呼ばれるものがあった。歴史教科書の「侵略」という記述を、検閲官(以外の何ものであるか)が、「進出」と書きかえるよう強要した、あの問題である。当然のことながら、韓国や中国をはじめとするアジアの諸地域から、強い糾弾の声が発せられた。わたし自身は、ある理由から、教科書には「進出」と記されてしかるべきだ、という意見だったが、日本の「進出」によって侵略されたアジア諸地域の人びとの糾弾は、まったく正当だと考えていた。そのとき、わたしが不当だと考えたのは、「ドイツでは歴史的責任を教科書でしっかりと教えているのに」という一部「日本人」の発言だった。もちろん、戦後の、西ドイツでさえ、ナチス第三帝国の所業については、日本と比べれば比べることもできないくらい、学校教育のなかで教育してきていた。日本の国営教育が、それと比べてどれほど無責任で犯罪的であるかは、筆舌につくしがたいほどだ。
 にもかかわらず、「ドイツでは」の発言に、わたしは同意できなかった。そのとき、西ドイツの刑務所には、あの西ドイツ赤軍メンバーたちがモガディシュ空港ハイジャック事件のどさくさに獄中で殺されたあともなお、政治犯が少なからず在監していた。そのうちのひとり、ペーター=ユルゲン・ボークは、自分が「テロリスト」(過激派の西独語訳)となったのは、父たちの世代が戦後も一貫してナチの犯罪と侵略戦争にたいする責任をとってこなかったことの責任をとろうとしているからだ、と明言していたのである。この明言が言い逃れでないことは、客観的にも立証できる。一九八三年一月、ヒトラーの首相就任五十周年を機会に、ある反体制メディアが発表した高等中学校生徒へのアンケート調査の結果では、ヒトラーの首相就任の時点でドイツ国内に住んでいたユダヤ人の人口比率は、という問いに、大多数の生徒が、五%前後、と答えたのだった。「ユダヤ人がドイツ人の職を奪っている」というキャンペーンで大失業時代のドイツの政治権力を選挙によって掌握したナチズムの歴史の現実を、西ドイツの学校教育は少しも教えてなどいなかった。現実は、たった〇・五%あまりのユダヤ人だったのであり、この極小部分が完全失業率四〇%以上という地獄の原因だ、などということなどありうるわけはなかったのだ。一九三二年の選挙民がこれにだまされてヒトラーを選んだばかりではない。戦後の「非ナチ教育」なるものも、この瞞着から学ぶことをしていなかったのである。
 さて、では、併合天皇の曾孫と会見して、「不幸な過去」だの「遺憾」だの「反省」だのという「言葉」を引き出そうとしているのかもしれないDJに、わたしは何を言うべきなのか。一九三二年末のユダヤ人とまったく同比率で「日本」に存在している在日韓国・朝鮮人のために、いまの日本の失業率と不況がもたらされている、とは、たとえわたしが自由主義史観主義者に鞍替えし、恥などという文字も音色も忘れはててしまったとしても、もちろん言えるわけもない。恥をしのんで、せめて言えることは、「ドイツでは歴史的責任がきちんと学校で……」と一部日本人が発言したとき、そのドイツに、歴史的責任をきちんととることを主張したがゆえに政治犯として囚われていた人びとがいたということ、そして、いまのこの「日本」にも、みずからの責任を天皇制との不可分の関係で問いつづけている人間たちがいる、ということである。
 そしてさらに、恥をしのんでわたしがこれを言いたいと思うのは、赤と青の色刷りで踊っていたDJそのひとに、などでは毛頭ない。ある為政者ないし最高権力者が、「いいひと」である、などということは、古今東西、未来永劫、ありえない。一寸法師でも、イワンの馬鹿でも、おヒメさまと結婚してオウさまになれば、貧民でも細民でもなく、王様なのである。日本の元・一寸法師は悪い王で、昔それに支配された国の元・イワンの馬鹿は善い王だ、などということは絶対にない。かれが一寸法師や馬鹿やDJのときのこころを失っていないかどうかは、事実で確かめるしかない。それを確かめるためにも、韓国の友人たちとともに確かめるためにも、DJ・天皇会見にわたしが絶対に反対であることを、わたしは明言しなければならない。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.171, 1998.9.8号)















綻び目から読みかえす「プライド」

たいらひとし●反天皇制運動連絡会


 さて、今号からの「反天論議」のテーマは、すでにロードショウも終了し、今から観ようにも観られないという点で遅ればせの感はいなめないが、映画『プライド』である。本誌先号の太田昌国氏をはじめとして、すでに様々なメディアを通じ論評されて来たこともあり、とりわけ映画にも通じていない私にとって、議論の先鋒を務めるのは非常に心苦しいものがある。が、まぁ編集部ゆえ仕方はあるまい。
 伊藤俊也(『プライド』監督)は、映画の完成から公開までが四週間という宣伝期間の短さをなげきつつ、映画のヒット(98年上半期の国内映画興行成績で七位)に満足しているそうが、私も×日間という短い準備期間に冷や汗をかきつつ、あれやこれや資料をさぐりつつ考えてみた。
 そこでの感想は、まずは右派論壇においてこの作品の注目度が想像外に低いということである。いつもながらの産経系のメディア以外では、ほとんど無視に近い。その代わりかどうかはさておき、津川雅彦(東條役)がナショナリスト然と「たった一人の闘い」を演じている様が気の毒(かつ滑稽)でならない(むしろ同時期の右派論壇の主要テーマは『レイプ・オブ・ナンキン』叩きであった)。
 津川は語る。「戦後五十数年、残虐な国民性を持った侵略国、軍国主義日本と必要以上に左翼から辱められてきた日本人は国を愛すると云う当たり前の心にまで、完全に萎縮をきたしてしまった。……この日本人の無責任が、物と金とに狂奔し、心を失い、親と子の愛まで薄っぺらなものにした大人達を量産した。……子供の非行は、愛に飢えた子供達の悲鳴なんだ」(『プライド』劇場用パンフからの抜粋)。ことあるごとに「親と子の愛」等々に関し発言してきた津川は、人間味溢れる東條という役作りを通し、戦後民主主義への鬱積を経て、「和魂の美しさ」(津川)にまで思想を「昇華」させてしまったようだ。この主演役者をしてナショナリストとしての身ぶりに変えさせてしまった(?)あたりが、さまざまな批判的論者に指摘されるところの「自由主義史観」映画の面目躍如たるところだろうか。
 しかし、右派論壇の注目度の低さは、産経系メディアである『正論』の特集の組み方からして、その原因を推論させる。98年9月号の同誌は東條由布子(英機の孫)の「祖父・東條英機と『プライド』と八月十五日の逃避行」というエッセイと並べて、三〇頁にわたる「東條英機の東京裁判供述書」を、その特集に据えている。なぜこの供述書の抜粋を『正論』は今さら掲げるのか。それは、津川雅彦をして、禿びた鉛筆をなめ、床を這いずり、月の明かりの下で、額に牛脂をしたたらせつつ、この供述書を書き記すという、この映画のひとつのクライマックスを熱演させつつも、それに続きアジア・太平洋に対する侵略戦争を本質的に肯定するこの供述書を、スクリーン上で大演説させることはできなかったからではないのか。南京大虐殺に関する証言や、虐殺を否認する東條、あるいは東條の宣戦布告とインド独立のシーンの関連づけなど、すでに様々な論者に指摘されているように、「欧米帝国主義に対するアジア自衛の戦争」という歴史観を観る者に植え付けるシーンを織り込むことはできたわけで、そのこと自体の問題はある。しかし、結局のところ、クライマックスで東條に供述書をアジらせることでその歴史観を謳歌することは、加瀬英明といった右派論客を擁した実行委員会をもってしてもできなかった。そして、それは饒舌さを排し、作品全体を通じて「人間・東條」への共感を軸に物語を構築してきた伊藤の「作品性」ゆえの帰結なのだろう。
 心ならずも紙幅は尽きた。映画を見つけない私にとっては、『プライド』は当初の義務感を越えて「興味深く(ママ)」見れた。太田氏もいうように、「『戦後的〈平和と民主主義〉批判』と『戦争責任の追及の不徹底さ』」に関する我々と共通の問題意識は、映画全体の文脈によって歪んだ形でこそあれ存在している。開戦責任をめぐって悶絶する東條のシーンなどは、そこに「裏切り者」たる戦後日本の支配層やとりわけヒロヒトの姿を想起させ、「劇場映画でこんなシーンが見れるとは」などと、あらかじめひねくれた視聴者である私を喜ばせもした(もっとも直後、その津川=東條の悶絶も、いしだあゆみの「これでいいのよ」で雲散霧消させてしまうあたりに、この映画のイデオロギーの巧みさを感じさせられるのだが)。作品の表現自体で論じたい点も多いが、紙幅は尽きた(ふぅ)。
 本当は、ここからは左派の批判に言及し、この先の議論の論点を出してみるつもりだった。まとめていえば、「来歴」(坂本多加雄)を紡ぎださんとする相手に事実の誤謬を軸にした批判は有効なのか、そしてデマゴギーを生み出し続ける相手でこそあれ、たとえば「上映中止」運動のような相手の表現を封じ込める形での批判は、権力によってであれ何であれ相対的に表現を封じ込められる側にあるだろう私たちのとる手段なのか、議論がほしいところでの議論が乏しいように思う。さらに、「日本の映画業界、映画人がこんな邪悪な作品を引き受けていいはずはない」(山田和夫・映画評論家――「大日本帝国」や「連合艦隊」が日本映画界のお家芸だったのでは!?)、「この『プライド』ほど、ちかごろ日本人のプライドを傷つけた愚作を知らない」(本多勝一)などと、作品に批判的な立場から「国を憂うる」発言が渦巻いているのは、何とも気分が悪い。いざ、積極的な議論を!
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.171, 1998.9.8号)















《チョー右派言論を読む》

第三者(=敵)を想定していない戦争マニュアルだって?

太田昌国●ラテンアメリカ研究家

 前田哲男&取材班の「在日米軍基地の研究」を読むために、ふだんは目を通すことのない雑誌『潮』を買った。98年10月号である。本紙編集人のカルーイ調子に合わせて言うなら、ふだんなら目次を見る限り「チョー右派言論」も「チョー左派言論」も載っていないらしいこの雑誌に、私はあまり興味をもてなかったのだと思える。
 3回連載になるという前田報告は、ここでの話題ではない。他にどんな記事が載っているのかと思い、パラパラをページをめくっているうちに、「日米中新時代:試される日本外交」なる対談が目についた。朝日新聞記者・船橋洋一と国際関係論専攻・田中明彦の対談である。船橋といえば、1995年の、沖縄における米兵による少女暴行事件から翌年の日米両政府の普天間基地「返還」合意にかけての時期、朝日新聞ワシントン総支局長として米国に駐在していた。いきおい、沖縄基地問題や日米安保についての記事を船橋は多く書いた。それがいいと思っているのだろう、船橋には、問題の本質を離れて、つまらぬ人間関係論や人物論で事態を説明しようとする傾向があり、そのごまかしとずらしの論理を私は何度も批判した記憶がある。この時期の日米関係を彼はその後『同盟漂流』(岩波書店)のなかで論じた。いたずらに長大な同書にも、彼のその傾向・性格はくっきりと現われていたので、「チョー右派言論」は何かにつけて朝日や岩波の「左派性」を論難するが、いまどきそれほどのことはないぜ、買いかぶりだぜ、と内心思ったりしたものだ。
 さて、米国大統領の中国訪問(98年6月)と、結果的には延期されたが江沢民の日本訪問を前になされたこの対談では、日本政府が明確な指針を持ち、米中の決定に従属することのない日中関係をつくることが重要だと主張する点でふたりは一致している。それはともかく、日米関係についての船橋の主張は一段と飛躍を重ねたようだ。大要曰く「日米ともに教訓として学ばなければならないことは、日米安保の枠組みこそがアジア・太平洋の最も安定的な構造であり、それを公共財的なものとして考えるべきだ。われわれにはその信念、自信がなければならない」。曰く「中国は冷戦的な視点からガイドラインを批判するが、これは建設的戦略的パートナーシップであって、第三者をにらんだものではない。日米同盟についてのWHYは二年前の日米安保の再定義で確認した。ところがHOWがずっと抜けていた。それを遅ればせながらやりましょうというだけのことだ。想定しているのは、邦人救出とか難民とか地域紛争とかで、そのとき日米で何ができるかという問題だ。それを冷戦意識で見すぎるきらいがある」
 新ガイドラインや、それに基づく国内法整備としての周辺事態法案が想定している戦争行為(日本の自衛隊が担う後方支援なるものも、もちろん含めて)が「第三者をにらんだものではない」などと、船橋は、どんな理念の遊戯に耽ると言えるのだろう? 冷戦時代の意識そのままに、日米安保を不動の前提と考えているのは日米両政府や己れ自身であろうに、その罪を他者になすりつけて、この男は恥じてはいない。ホワイトハウスやペンタゴンや永田町に蝟集する人間たちの動きや関係を探っていれば、世界の構造が分析できると思い込んでいる船橋は、安保の具体的な現実の下に生きる人びとの姿も、「第三者」が新ガイドラインに抱く当然の恐れも、目に入らないのだ。論議を深めることなく、できることなら秘かに既成事実をつくりたいと考えている政府の意向に、船橋の論議はおもねている。
 対談相手の田中も相当なものだ。「アメリカには、(ガイドラインに)合意したのだからきちんと法律を作らなければ困る、それが日米関係に対する日本の真面目さを測る物差しになる、という意識が相当強いことは事実で、法制化を引き延ばしたり、中身を変えたりすると、日本は不真面目だということになるでしょうね」。この国際関係論の学者は、政府と議会・政府と民衆との間には、(とりわけ政府の非民主主義性が目に余る場合には)非和解的な対立も起こりうるという「民主主義」のイロハも知らぬのか。
 田中はさらに、ガイドラインがあるからといって(という文脈で言う)、「日本国民自身の心構えとして、軍事力の海外展開は絶対にしないという信念さえあれば問題にならない」と。この男が、新ガイドラインや周辺事態法案を読んだうえで、そして米国の近代史について常識程度の知識をもったうえで、この発言をしているのだとすれば、私たちはいったい何と言うべきだろう?
 船橋の意見にせよ、田中の論議にせよ、彼らとてかつてならとても恥ずかしくて公言できる水準のものではなかったような気がする。「第三者」(=敵対するであろう者)を想定していない戦争マニュアルがあるとか、政府が決めたことを議会は妨害してはならぬとか、海外での自衛隊の軍事活動を法制化した法案を「真面目に」成立させても国民に軍事力の海外展開を許さぬという心構えがあればそれは実現しないなどというに等しい考えは、それ自体が無効であることくらいは常識だったからである。彼らの論議はこの常識を楽々と反古にしており、しかも『潮』の編集者はそれを黙認している。私はいままであまり深く考えたことはなかったが、この程度の低劣な対談が『潮』に載ったり、船橋の空虚な大著が岩波書店から出版されたりすることには、この愚劣な状況を加速させるというくらいの「意味」は持っているのかもしれぬ。「チョー右派言論」が跋扈している場は、私たちの想像以上に広いようだ。(『派兵チェック』 No.72. 1998.9.15)














《チョー右派言論を読む》

産経だけ(?)の「共和国」情報
反戦派の「共和国」論を、今

伊藤公雄●男性学

 8月31日に行われた、朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」と略す)のミサイル実験は、日本国内の軍事大国化をもくろむ人々に大きなショックとともに絶好のチャンスとして受け止められているようだ。これまでにないほどの「共和国」に対する強硬な抗議が行われる一方で、TMD(戦域ミサイル防衛)論議や独自の偵察衛星の打ち上げの議論(これについては、アメリカ合衆国からの「安保体制」の枠内でというストップがかけられたようだが)、さらには、この間、一定停滞してきた日米ガイドラインの早期確立といった声が、さっそく新聞紙面を覆った。
 個人的にはこのニュースを知ったとき、ぼくは、それほどビックリしなかった。むしろ、すぐに「ああ、ヤッパリあの記事は本当だったんだ」と思った。というのも、8月中旬にある新聞で、米軍からの情報として、「北朝鮮、近くにミサイル実験準備か」といった記事を読んでいたからだ。もちろん、なにを隠そう「産経新聞」である。その日、他の新聞にも目を通したが、各紙とも、こうした情報はいっさい見つけられなかった。
 こうした目で、日本のメディアを見ていると、やっぱり「変」だと思わざるをえない。なにしろ、8月31日から9月の初旬にかけて、日本のメディアは「何の予測もされていないところに、突然ミサイルが」といった論調に終始したからだ。産経新聞(およびフジ・サンケイ系の夕刊紙など)だけが、未確認情報としてではあるが、この情報をキャッチし、公表していたのである。どんなルートで知ったのかはわからないが、とりあえず「産経新聞、エライ」なのだ。
 というより、この程度の情報は、防衛庁はもちろん、政府中枢、さらに多くのジャーナリストの耳に入っていただろうと思う。少なくとも産経新聞の一読者でしかないぼくでも知っていたわけだから、日本のメディアが「予測もなく突然」といった報道をする方が、どうかしていると思う。
 前回も書いたが、他のメディアでは得られない、こうした情報が読めるのも、産経新聞ならではのことだ。
 何度もいうが、ぼくは、この新聞の政治的主張には反対だ。でも、日本の多くのメディアが報道しない情報を、この右派・保守派のメディアだけが、けっこう頑張って書いているのを読むと、複雑な気持ちになってしまうのだ。
 逆にいうと、戦後の日本のメディアのもつある種のタブーが気になるのだ。「共和国」や中国について、何だか「歯にものがはさまった」ような書き方しかしてこなかった、戦後のメディア。(太田昌国さんもときどきこの紙面で似たような内容のことを書かれているが)「社会主義を自称してきた国・社会の矛盾」を、なぜ、メディアはきちんと論じないのかということだ。
 逆に、ぼくたちがかなり極端な情報であっても、一般に語られない情報を知り得るメディアが、産経をはじめとする右派・保守派を通じてでしかないことをこそ考えたいと思うのだ。
 こうした傾向は、反戦や軍事大国化反対の運動のなかにも、実は少なからず存在しているようにも思う。というのも、このごく近くの「共和国」という国について、そして、現在の日米韓の軍事同盟が「敵」として想定している国に関して、ぼくたちがほとんど何の判断も明らかにしていないし、またそのことについて発言もしていないように思えるからだ。「共和国」の政治体制をどう日本の反戦派は考えるのか。飢餓の問題について、どのような対応が可能なのか。もし万一(まったく可能性がないとはぼくには断言できない)、「共和国」のミサイルが日本に向けられたことが判明したとき(あるいは各メディアが、そう報道を開始したとき)、日米韓の戦争準備に対して、どんな声を準備できるのか。こうした問題への判断を抜きにした、軍事大国化への反対やガイドライン反対は、おそらくは、単純な反「共和国」宣伝に乗せられている(あるいは乗せられようとしている)多くの人々に届くことはないのではないか。その意味で、産経系保守メディアとは異なった視点、反戦や反軍拡の観点からの、「共和国」論が、ぼくたちに、今、本格的に問われているということでもあるだろう。
 8月の末、産経新聞は、今年3月、「共和国」においてクーデター計画(1個師団規模の反乱計画)が発覚し、大量の粛正があったと伝えた。そして、例のごとく、このニュースを伝えたメディアは、産経以外では、少なくともぼくの目にはふれていない。(『派兵チェック』 No.72. 1998.9.15)







































勝っても負けても、とりあえず「知らせる」が勝ちの闘い――「思いやり予算」違憲訴訟・東京

 「どうやら『思いやり予算』とかいうやつがあるらしい」程度でいい。その存在を知っている人はいったいどれくらいいるのだろうか。そのような調査結果が手元にあるわけではないのでよくわからないが、いくらなんでも「知ってる」くらいの人だったらそんなに少ないわけではあるまい。が、「知らない」、とにべもなく答えた人がその場にいた5人中4人だったというシチュエーションを、私は実際に経験している。とはいえ、それを一般化するわけにもいくまい。私は、他のシチュエーションを知らないのだ。
 それでは、その「思いやり予算」ってやつがいったいナニモノなのかってのを知っている人は、はたしてどのくらいいるのだろうか。「在日米軍のために日本政府が支払っているお金のことだろ?」くらいのことなら、「思いやり予算」の名称を知っている人であればとりあえず知っているであろう。ならば、その額は? 使途は? お金の出どころは? 決算は? 管理は? ここで自信を持って答えられる人はグ〜ンと少なくなるはずである。せいぜい、お金のでどころが私たちの税金であることを指摘できるにとどまるのだ。はたして、これで知っているということになるのであろうか。
 私はここで、なにも知らないだろう多くの人たちのことを「知らない」ということで責めたてようというわけではない。なにを隠そう、その多くの無知な人間の私は一人であるのだ。さらにいうならば、予算を出している当の日本政府だって、使途や決算や管理についてはその真相をよく把握できずにいるのだ。
 要するに、私たちには情報が流されず、何も知らされていないということ、そして、その「私たち」のなかには政府の役人たちも入っているだろう現実があることを、とりあえずは言いたかったのであった。
 もちろん、「思いやり予算」についての情報は、100パーセント閉ざされているわけではない。ある程度ならば、努力すれば少しはその情報を得ることができそうなのだ。実際、苦労して情報を集めている人はいるし、その調査結果や分析が文字化されているものもある。そして、それらのわずかではあるが貴重な情報をフル活用しながら、この「思いやり予算」って奴がとんでもないシロモノであることを全面に押し出して、訴訟を起こしている人たちがいる。「在日米軍を支える『思いやり予算』にNO!の声を上げよう!」と始まった「思いやり予算」違憲訴訟・東京の原告団だ。
 事務局が発行しているニュースはこの訴訟についてこのように語っている。この裁判はその1「違法に使った税金を返せ」という裁判 その2「『思いやり』は違法だ」という裁判 その3『思いやり予算』だけではない裁判 その4当事者として闘い、沖縄と連帯する裁判 その5とにかく出来ることからという裁判
 であると。そして最終的に124人の原告が集まり、3月17日提訴、5月26日第一回公判、そして9月1日第二回公判を経
て現在に至っている。
 実は、「思いやり予算」に支出した税金を納税分から返せ!というこのような裁判は、この訴訟が最初ではない。「異議アリ! 思いやり予算」と称する裁判が、関西で昨年(97年)ひとあし先じて始められている。東京での取り組みは、この関西での訴訟をモデルケースにして始められたという。
 ところで、裁判というものを表現の一形態として捉えるのは、広義の意味ではともかく、一般的にはかなり無理があるように思われるかもしれない。こじつけとさえ言われるかもしれない。しかし、ことこの裁判に関しては、少なくとも単に闘いの場としての裁判であるにとどまらず、伝える行為(表現)としての裁判として機能することが十分に考えられるのだ。
 一庶民の金銭感覚では何のリアリティも感じさせないほど高額の、しかも自分たちが支払った税金から、在日米軍駐留経費が毎年出されているという事実(98 年度予算:6.342
億円、そのうち「思いやり予算」:2.538億円)。それだけでもとてつもなく大変な問題
である。ところがそのこと自体を知らない人が少なくないという、さらに困ったゆゆしき問題がある。それだけではない。そのお金が一体どのように使われているのか、正解を出してくれるところは日本中探しても何処にもないだろうということもある(米軍基地は日本ではないのだ)。すなわち、アメリカ以外真相を知るところナシという状況なのだ。「思いやり予算」の問題は、それ自体の問題性と、知らないし知りようがないということ(すら知られていないということ)の二つにあるのだ。シラナイシラナイのナイナイづくしなのだ。イッタイドーナッテルノ? と書きながら腹立たしくなってくる。
 この訴訟自体は、「戦争のための米軍基地にお金を出すなんて許せない」「まずもって憲法違反だろう!」「私はそのために税金を払う気はまったくないぞ。払った金返せ!」にある。が、くどいほど書きつらねてきたこの「在日米軍駐留経費・思いやり予算」の「知らない、知りようがない」という側面から考えると、この裁判を続けること自体が、少しでも多くの人にこのことを伝えていくという表現行為として私には見えてくるのだ。
 この訴訟は、まず「東京違憲訴訟原告大募集!」の呼びかけから始まった。同時に賛同の呼びかけも。個人あての発送だけで少なくとも1000人の人の手にわたっているという。また、この呼びかけはあらゆるところで手渡され、いろんな人によって読まれている。提訴当日や公判の日には、記者会見や集会・報告会なども準備され、できるだけ多くの人に知らせるための行動も同時に考えられている。そして、当日参加できなかった原告・賛同人をはじめとする人たちに、その内容を伝えるためのニュースも発行されている。実際、このような裁判が始まったことをキッカケに、たとえば私は「思いやり予算」について「こんな裁判が始まるんだけど、私やってみようと思うんだけど、一緒にやんない?」なんてことが職場の同僚に言えたりするし、公判には原告や賛同人以外の人も傍聴に来ているというから、やっぱり効果アリと私は読むのだ。
 しかし、現実はそんなに甘くもなさそうである。一つには、裁判を継続させること自体の困難さがある。事務局のメンバーは、「争点をどのように創り出すかだ」と口をそろえて言う。憲法論議・理念を展開するだけでは、打ち切ることだけを考えている裁判官の思うつぼ、というところらしい。既に出されている判例以上の結論は出せない、ということで切られることは明らかであるというのだ。ならば、次なる手は? そんなに簡単に出てくるものでもないのだろうが、方向性は見えつつある。彼らは言う。
 「まずは、えー!? というような事実を発掘すること。かなりの数あるはずなのだから」
 「安保や憲法の問題など、本筋から攻めることと同時に、具体的でシンボリックなものを展開すること」
 「面白い裁判、面白い内容・争点を創り出すために、実態を暴き出す必要があるし、そのためには、たとえばその調査法や情報の所在を知っている私たちの側の協力者を増やしていく必要もある」と。
 要するに、「違憲である」という正論だけをくり返すのでは、それをくり返す間もなく裁判は打ち切られ、人々の関心もすぐに遠のいてしまう、ということなのだ。メディアだって、新しいことを出していかないことには報道してくれない。
 そして、問題は堂々めぐりにぶつかる。一番引っぱり出したい「え〜!?」というような
事実は、防衛庁内部にだってほんの一握りの人間が握っているか、あるいは握らされていないかというのが現実であったのだ。しかし、彼らは「協力者を増やす」という、堂々めぐりからの脱出の手だてをすでに講じ始めている。まだまだ、これからなのだ。裁判を継続させる中で、何千億という大金(公的資金)が米軍のために具体的にどのように拠出されているのかを暴き出す。そして、それがどのように違憲なのかを裁判で争う。具体的な争点で裁判を展開することによって外に向かってもアピール力を増していく。物事は、フローチャートどおりには進まないことくらいわかっている。だが、可能性をもった一つの方法である以上、やらない手はない。
 敗戦後53年間、日本政府は軍事的な領域でアメリカにたてついたことがあったろうか。むしろ、すすんで従属を選択してきている。そして、これからもその構造は変わりそうにもない。いま、審議待ちとなっている「周辺事態法案」、新ガイドライン・安保を思い起こしただけで、疑問の余地ナシなのである。このようなニッポン政府を相手に裁判といってもねぇ、と頭がクラクラしたりもする。だが、いままで放っておかれてきた「思いやり予算」をせっかく問題として世に知らしめることができる機会であると思えば、それだけでもやりがいがあるというものである。
 関西もそうであるが、この東京での訴訟も全国から原告が集まっている。沖縄、九州、四国、関東、東海、北陸、東北と、少人数づつではあるが、全国レベルの闘いとなっている。五人の弁護団(代表・内田雅敏弁護士)と、力強い協力者、そして奇抜な発想力や関西の訴訟グループとの密なる関係の維持、うまくまわればきっと面白いことになるだろう。賛同維持会員はまだ募集中だ。もちろん、裁判支援金も。
 この裁判闘争の勝敗は、とりあえず多くの人に「思いやり予算」がとてつもなく大変な問題であるとして伝えられるかどうかに、私はその勝ち負けをみてしまうのだ。

会費:年3000円
郵便振替:00120-4-406620(名義:「思いやり予算」違憲訴訟)
連絡先:Tel/Fax 03-5275-5989(市民のひろば)
ホームページ:http://www.jca.ax.apc.org/peace-st/no-omoi-t/index.html *詳細は連絡先まで


















《海外情報》

フランス核問題の行方
コリン・コバヤシ●美術・社会批評/美術家

「その晩、私は世界が災厄に向かって、突き進んでいると考えざるを得なかった」

 核というアポリア*のはじまり
 1938年12月オットーハーンが発表した世界で初めての核分裂反応現象を予見し、マンハッタン計画**の火付け役となったハンガリーの科学者レオ・シラードの言葉である。ここから原子力エネルギーが恐ろしい原爆となり、また今日の原子力発電から核燃料サイクルに至る道程がはじまる。現代文明のアポリアがはじまったのだ。広島の原爆投下時に「フランス・ソワール」紙は原子時代の幕開けを賛美したが、逆に、アルベール・カミュは「人間があからさまにした破壊への熱狂」を賛美することを不謹慎とした数少ない作家だった。
 近年、連続的に起こった原子力関係の事故やスキャンダルは、今までタブーだったフランスにおける原子力のヴェールを剥がしはじめた。フランスの原子力の歴史を簡単に辿りながら、その実情と反対運動の経過を見てみよう。

 フランスの核開発とその実態
 フランスの原子力の歴史は、核兵器の開発から始まったといえる。原子力全般の管理当局である原子力庁(1)は核兵器製造を管理するものとして発足した。つまり、民事核と軍事核は表裏一体である。核戦略に関しても、その後の原子力エネルギー政策に関しても、国民議会でまともに討議されたことは一度としてなかった。
 フランスは周知のごとく、ド・ゴール政権以来、米ソの核の傘下に入らずに独自の核抑止力によって自国の主権を守ることを国策としてきたから、日本のような核兵器廃絶運動は希薄だった。フランス人の大半が核兵器を当然のことと受け止める反面、放射能の危険性に関しては極めて曖昧な知識しか持っていなかった。サハラや太平洋モルロア環礁における核実験もほとんど真相は明らかにされずにきたが、今年2月に「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌(2)は、軍部が初めて公開した資料に基づき、惨憺たる事実を明らかにした。
 核産業の出発点であるウランの採掘開発から再処理工場に至るまで、フランス核燃料公社コジェマ社(3)が一手に引き受けている。鉱山の大半はフランスのほぼ中央部にあるリモージュ地方にあり、現在ではそのほとんどが閉山され、ウランはアフリカなど諸外国から輸入されている。しかし残土や残滓物を廃坑の穴に野ざらしに放置しており、人形峠(4)よりも無惨な状態である。ウラン坑で働いていた労働者は、放射能の危険性について無知のままだった。現地での残土の野ざらし放置に対する住民の告発と反対運動が組織され始めたのは、やっと80年代の後半から90年代に入ってからである。
 1958年、南フランスのマルクールに最初の核兵器用プルトニウムの抽出工場が完成、操業してきた。ノルマンディー上陸作戦の展開されたコタンタン半島、ミレーの「晩鐘」でも有名な岬には、ラ・アーグ再処理工場があり、1966年以来使用済み核燃料の再処理を行っている。

 反対運動のはじまり
 地元には、当初から建設に反対し、闘ってきた市民団体クリラン(5)が現在も反対運動を続けている。彼らは同時期に建設されたフラマンヴィル原発にも反対してきた。当時、再処理工場がどのような作業をする工場なのか、住民に充分な説明がされたことなどなかった。300人近い漁師や反対派市民たちが結束して反対運動を展開したが、政府は3千人の機動隊を送り込み、鎮圧した。
 60年代には、サハラ砂漠や仏領ポリネシアで核実験が盛んに行われたが、現地では、旧東ドイツを思わせる徹底した諜報活動と、軍・警察の検閲と規制で、反対派、独立派はおろか、本土から来た記者なども完全に封じ込められてきた (2)。

高速増殖炉「スーパーフェニックス」          
 フランス本土の反対運動のなかで、もっとも大きな展開があったのは、スーパーフェニックス高速増殖炉(SPX)の反対運動だった。1977年7月31日、建設予定地のクレイ・マルヴィルで全国から10万人近い反対派の市民たちが結集した。近隣のスイスやドイツ、ベルギー、イタリア、スペインの反核派も集まった。SPXが東部の国境に近かったこと、また高速増殖炉が事故になった場合の脅威を知っていたからだった。しかし、それに対しフランス政府はまたも大量の機動隊と騎馬隊を投入し、催涙弾を水平撃ちするなどして極めて過酷な弾圧を行ない、死者1名、重傷5名、負傷100名を出した。
 SPXは、兵器級プルトニウムを大量に抽出し、核兵器の生産を容易にする軍事的な影の任務を帯びていたため、仏政府は専制的な手段で、この中性子高速炉計画を貫徹しようとする政治意志を持っていたのはうなずける。だが、この危険極まりない原子炉はほとんどまともに機能したことがなかった。10年間にたったの半年くらいしか稼働しなかった。「もんじゅ」以上のナトリウム漏れ事故を数度起こしているが、発見が早かったため、大事には至らなかっただけのことである。しかし、この弾圧を境に大きな反対運動のうねりは退いていった。現地はラ・アーグと並んで過疎地であるにもかかわらず、地元の自治体には多額の税金が落ち、高給取りの職員が二千人以上定着したのである。
 SPXを含む原発反対運動は、だからといってそう簡単に霧散霧消したわけではなかった。1976年から始まったブルターニュの西部先端、フィニステール県の岬に近いプロゴフの原発計画には、78年9月の最初の反対デモに5千人、一週間後のブレストのデモには1万5千人と膨れ上がった。それからというもの80年まで、数千人から数万人のデモが毎回組織され、同年2月、3月は、毎日のようにデモや建設予定地でのピケが繰り返された。3月16日の反対集会には6万人近い反対派市民が集まった。火炎瓶と催涙弾の応酬や、度重なる機動隊との衝突と弾圧で逮捕者を数多く出しながらも、反対運動は決して収束しなかった。法廷でも激しい支援闘争が展開された。プロゴフ原発計画は中止され、ついに反対運動は勝利したのだ。
 その後、昨年6月1日に行われたロワール河河口のカルネ原発計画の反対集会でも地元の住民たちが2万人も結集し、この地方の反核精神の強さを見せた。結局、この原発計画も白紙撤回に終わったのである。

 論調の変化
 その背景には様々な要因が挙げられる。今日、フランス電力公社は、電力を過剰生産しており(電力の75%以上が原子力により生産され、フランスは電力の輸出国だ)、当分、新しい原発は必要としてないこと、廃炉にかかる費用や廃棄物の処理費用などを考慮すると、原発の経済性は明確ではなくなってきている。エネルギー政策を原子力一本槍でいく時代は過ぎ、推進側内部でも天然ガスや他の再生可能エネルギー(風力、太陽熱など)の可能性を真剣に検討する時代になってきている。そして、左翼連立政権に代わり、緑の党党首が環境大臣に任命されるという大転換期にきている。

独立放射能研究所の誕生
 1986年のチェルノブイリ事故は、フランスにおいては、日本のような反原発運動の大衆的なうねりを生まなかった代わりに、アクロ(6)とクリ=ラッド(7)という二つの独立放射能研究所を生んだ。フランス政府の「チェルノブイリの放射能の雲はフランスには来なかった」という虚言を暴いたのも、これらの創設に参加した科学者たちである。
 アクロは、とりわけラ・アーグ再処理工場を中心に西部地域の放射能監視を行ない、コジェマが提出している資料の欺瞞性や不完全な調査、放射能汚染を指摘してきた。クリ=ラッドは、ラ・アーグも含めマルクールの核施設周辺やリモージュ地方の放射能測定と分析を行い、前者は周辺地域のカマルグ地方でプルトニウムが検出されたことを明らかにし、後者は、廃坑に棄てられた残土の中に強い放射能を検出しており、さらに一部にはチェルノブイリ級の線量を示す場所などを報告している。またチェルノブイリの放射能の雲によって、フランス東部国境一帯やコルシカ島に極めて強い汚染地帯があることを厳密な測定分析によって明らかにしている。
 アクロとクリ=ラッドの研究分析作業に対し、もはや核ロビーも反論しえなくなり、両者とも公認された信頼性のある独立研究所の地位を獲得している。これは問題意識を明確に持った、各地の国立大学の研究者や教授たちが、真実の追及に努力を重ねてきた結果といえる。
 フランスでは、これら民間の手で設立された放射能研究所が政府の核タブーの壁に与えたインパクトは重要だ。政府関係諸機関は虚言を言い続けることができなくなったばかりでなく、核当局は情報公開をせざるをえなくなってきており、今年2月2日の政府閣内委員会の声明でも、情報の透明性を高めるために、政府の外部に独立した諮問機関を設ける方針を打ちだしている。
 また、ワイズ・パリ(8)のような民間情報機関が83年に設立以来、果たした役割も大きい。同機関はラ・アーグ再処理工場などに対するレポートや、モックス核燃料の将来についての総合分析を日本の原子力資料情報室等と国際的なチームを組んで行い、非常に高い国際的評価を受けている。

 核産業の不透明性
 このような民間機関の大きな役割が意味を持つようになった背景には、企業・政府が一体となった産政共同体があり、軍事組織のような機密と検閲に守られた産業構造があることを見逃してはならないだろう。企業が巨大になり、生産や生産物の危険性が高まるほど、機密機構がより強固になり、そこでの業務は全体主義的管制システムによって管理されるから、民主的公正さからはますます遠ざかることになる。どこの核施設も、ナチスの強制収容所を連想させるような鉄条網や電流を流した鉄線を幾重にも張り巡らし、物々しい警備のもとに作業が行われている。
 この業界では、監督する側が監督される企業側に天下りしたり、同じ学閥の仲間が重要なポストに就いたりする癒着関係ができ上がっていることを、市民が察知しはじめている。人類の未来を決定してしまうほどの重要な事柄が、一部の核官僚の手にのみ握られているということは、民主主義の原則からいっても許容しがたい。
 二年前、マンシュ中・低レベル核廃棄物貯蔵所から、プルトニウムを含む高レベルの放射性核種が検出されて大問題になった。これは市民団体クリランと独立放射能研究所アクロ、クリ=ラッドなどの運動と監視があって初めて明るみに出された事実で、「ル・モンド」、「リベラシオン」など全国紙が大きく取り上げている。完璧な管理を謳っていたコジェマ社と、放射性廃棄物管理庁アンドラ(9)の運営管理のずさんさが公になりはじめた。
 核廃棄物の問題は産業廃棄物の問題の中でもっとも厄介なものである。処分方法を持たずに、生産ばかりが先行するゆえに、原子力産業は「トイレなきマンション」とも呼ばれる。原発が稼働し続けるかぎり、永遠に核廃棄物は増え続けることになる。核廃棄物の中には2万4千年以上の長い半減期(放射能量が半減するのに必要な歳月)を持つものもある。増え続ける核のゴミをどうするのか、明快な解答はいまだない。

 白血病多発の恐れ?
 1996年12月、医学研究分野で信頼性の高い雑誌 「英国医学ジャーナル」に、フランスのブザンソン大学医学部の統計疫学専門家ジャン=フランソワ・ヴィエル教授の、ラ・アーグ再処理工場周辺の子供の白血病に関する研究(10)が掲載され、発病の増加を示す示唆的な数値が発表された。それは工場周辺に生活する子供たちが海岸を散歩したり、魚介類を定期的に摂取すると、生物連鎖によって濃縮された放射能が体内に吸収され、白血病が発病するリスクが高くなることを示したものだ。
 この話題はすぐフランスに伝わり、大きな反響を呼び起こした。地元では猛烈な議論が沸騰し、連日、新聞はこの問題を報じた。地元では30人以上の母親たちが「怒れる母親の会」を結成し、すべての情報の公開と放射能排出ゼロを求めて立ち上がった。
 当時のジュペ内閣は、パリ大学薬学部長スーロー教授を座長とする科学委員会に調査を命じたが、この報告(11)は調査期間の短さと内容からいっても、また核産業側と政府機関からの代表が大半を占める科学委員会のメンバーの構成からいっても、公平と客観性に欠くものだった。
 同じころ、再処理工場の排水パイプが干潮時に海面に露出し、通常値の3千倍に及ぶ高い放射能がクリ=ラッドによって測定された。コジェマ社は、パイプ内の残滓物を棄てないことを条件に排水パイプの洗浄作業を行うことにしたが、グリーンピース国際チームは研究船を出し、作業を監視するとともに、排出口の沈殿物を採集し調査した。同社の清掃作業はいい加減で、多くの残滓物が海に放出されたことが判明した。このような状況の中で、テレビでも海洋ドキュメンタリー番組として知られているフランス第3チャンネルの「タラサ」がラ・アーグ問題を扱い、民放TF1も反対派、推進派両者を招いて討論番組を放映した。ここに至って、環境派市民たちと核産業側との戦争といってもいいほどの対立が表面化した。

 地に墮ちた超不死鳥とその後
 一方、SPXは度重なるトラブルのために停止していたが、経済的効率があまりにも悪く、投資額とバランスがとてもとれないと、保守・革新両政権から判断されてきて、98年2月2日ジョスパン現政権が最終的な閉鎖を再確認した。この最終決定に至った裏には、昨年の総選挙前に社会党と緑の党の間で合意されていたとはいえ、20年以上も継続されてきた粘り強い反対運動の歴史がある。大集会が度々開かれ、全国行進も行われてきた。こうした運動を多くの科学者がサポートしてきたし、マルヴィル委員会をはじめとする現地の運動の実に根強い闘いがあったばかりでなく、緑の党やグリーンピース(12)、ヨーロッパ人反対委員会(13)などのラディカルなアクションもあった。SPXが経済的な破綻を起こしたのも事実だが、空気や水に触れるとすぐ爆発を引き起こす 6トン近い液体ナトリウムを技術的に完璧にコントロールできないこと、ましてや操業の結果として極めて毒性の高い放射性核種プルトニウムが作り出されることに、エコロジストたちが反対する大きな理由があった。
 ところで、SPXのある現地では、閉鎖決定後、日常生活の社会的雰囲気が非常に悪化している。地元での圧倒的多数派である推進派が、SPX閉鎖に絶対反対を唱えて、連日、激しい閉鎖反対運動を展開している。それに肩入れしているのは、与党であるはずのフランス共産党やその影響の強いCGT系労働組合である。村の道路という道路は、ことごとく「閉鎖反対」のスローガンが書かれた張り紙で埋め尽くされている。閉鎖に賛成しようものなら、恐喝電話や手紙がくるという。民主主義の国フランスにおいてさえ、こうした状況の中で、現地ではほとんど自由に自分の意見を述べることができないほどの隠微な雰囲気が支配しているのである。
 しかし、ヨーロッパで最後までフランスが固執していた高速増殖炉計画が破綻し、撤退した事実だけは揺がないだろう。

 欧州の原発の未来
 ドイツはとうにこの計画から撤退しており、電力会社も原子力から撤退すると表明している。イタリアも1987年の議会での投票で、原子力開発を放棄した。スウェーデンは、スリーマイル・アイランド原発事故の二年後の1980年、国民投票を実施し 58%を獲得して、現行の計画以上は原発を発展させないことを決定した。1997年2月、バルスバックの二基の原子炉を最終的に廃炉にする日程も決めた。スウェーデン市民ははっきりと脱原発を選択した。これがヨーロッパの商業原子炉の初の廃炉となる。
 今日、フランスは56基の軽水炉と1基の高速増殖炉フェニックスを稼働させており、現在、建設中の2基を含め、日本と並んで突出した原発大国だ。すでに14基がモックス燃料(ウランとプルトニウムの混合燃料)を搭載しており、危険度は一段と増大している。論調は変化したとはいえ、原発からの脱出はまだまだ難しそうな雲行きである。

 これからの課題
 今後、起こるのは核の再処理、モックス燃料、ゴミの貯蔵、廃棄物輸送の問題である。核兵器の必要性が低下し、高速増殖計画が破綻した今、極端に毒性が高く半減期が気の遠くなるほど長いプルトニウムを産出する再処理を続ける必要があるのか、たいへん疑問だ。またすでに製造済みのプルトニウムを処理する方法として、モックス燃料を使いはじめているが、製造、輸送、使用時の経済性、安全性の点から見ても問題は多く、後追いしようとする日本の悪しき先例となっている。
 またこれから正念場を迎える核廃棄物の地下貯蔵問題もさしせまった重大事である。5月末に、地下貯蔵に反対する大きな国際集会が、地下研究所の予定されているフランス東部ビュール村近くのヌフシャトー市で開催された。悪天候にもかかわらず、3千人余りが参加し、予定地の畑に麦の種をまいて、放射能よりも「生きている大地を!」と訴えた。ヨーロッパ諸国や日本からも岐阜県瑞浪市を含む東濃地方の代表がアピールを行った。
 誰でも不安なく暮らしたい。だが、原発ナシの方策はあるだろうか。それを可能にするもう一つの社会のあり方を創出できるだろうか。行き場のない核のゴミをどうするのか。そのゴミを生み出す原発を稼働させ続けてよいのか。未来世代に対する責任も、わたしたちに問われている。
 未来世代に、地球という遺産を継承するのではなく、サン・テグジュペリの言うように、わたしたちは「未来の子供たちから、この大地を借り受けている」のだから。
(OVNI N。422 9/15号)


(1) CEA : Commission l'Energie Atomique
31-33, rue de la F仕屍ation, 75015 Paris
t四. : 01 40 56 10 00
(2) Nouvel Observateur, Essais nucl斬ires : Les archives interdites de l'arm仔 N。 1735 1998
(3) COGEMA : Compagnie g始屍ale des Mati俊es Nucl斬ires
2, rue Paul Dautier, BP-4 V四izy-Villacoublay Cedex t四. : 01 39 26 35 50
(4) 人形峠 : 日本の原子力開発のウラン採掘と廃棄が一緒になった場所。鳥取・岡山県境に位置し、3つの鉱山があった。1955年から25年間操業して閉山する。ドラム缶百万本分が不法投棄されていたのが1988年に発覚し、大問題となった。現地の植物、茸、川魚に放射能汚染が検出され、防毒マスクもつけずに働いていた旧作業員百人以上が肺ガン発病の危機に晒されている。
(5) CRILAN : Comit de recherche et d'information et la lutte antinucl斬ire
10, route d'Etang Val, 50340 Les Pieux
t四. : 02 33 52 45 59
(6) ACRO : Association pour le contr冤e de la radioactivit dans l'Ouest
138, rue de l'Eglise, 14200 H屍ouville Saint-Clair t四. : 02 31 94 35 34
(7) CRII = RAD : Commission de Recherches et d'Informations Ind姿endants sur la Radioactivit 471, ave Victor Hugo, 26000 Valence
t四. : 04 75 81 26 48
(8) WISE PARIS : World Information Service on Energy
31-33, rue de la Colonie, 75013 Paris
t四. : 01 45 65 47 93
(9) ANDRA : Agence Nationale pour la gestion des d残hets radioactifs
1/7, rue Jean Monnet, 92298 Ch液enay-Malabry
t四.: 01 47 87 09 09
http://www.andra.fr
(10) British Medical Journal N。7074, Case-control study of leukaemia among young people near La Hague nuclear reprocessing plant : the environmental hypothesis revisited
(11) Rapport Souleau : Comit scientifique pour une nouvelle Etude Epid士iologique des leuc士ies dans le Nord-Cotentin, le 1er juillet 1997
(12) Greenpeace France
21, rue Dodot de Mauroy, 75009 Paris
t四. : 01 53 43 85 85
(13) Les Europ仔ns contre Superph始ix, actuellement ヌ R市eau Sortir du Nucl斬ire ネ
9, rue Dumenge, 69004 Lyon
t四. : 04 78 28 29 22 www. sortirdunucleaire. org