alternative autonomous lane No.7
1998.8.24

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栗原幸夫のホームページへ


アメリカのスーダン・アフガン爆撃に抗議する人たち。8月20日、ホワイトハウス前。女性のもっているプラカードには「モニカのための戦争反対」とある。
http://www.sinkers.org/sudan-afghan_demo/
より




目 次

【議論と論考】

小林よしのりの『戦争論』を眺める(栗原幸夫)

伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判(太田昌国)

『プライド 運命の瞬間』論議(天野恵一)

自称現実主義者たちの現実追随――中島嶺雄・中西輝政などの言動に触れて(太田昌国)

「批判」について考える――「自由主義」以後の思想的境界〈3〉(栗原幸夫)

【コラム・表現のBattlefield】

「見せる・感じさせる」で伝える、伝わった――端島・高島ピースクルーズ
(桜井大子)

【書評】

『となりに脱走兵がいた時代』(小倉利丸)












小林よしのりの『戦争論』を眺める

栗原幸夫●『レヴィジオン〔再審〕』編集者

 小林よしのりによると、「今やマルクス主義、反権力の真性の左翼はこの日本には極めて少数者になったはずだ。しかしその少数の『残存左翼』はじつにしぶとく執念の活動を続けている」のだそうである。そしてこの「残存左翼」に「うす甘いサヨクの市民グループ」が操られ、さらにその周りに多数の「うす甘い戦後民主主義の国民」がいて、人権・平等・自由・フェミニズム・反戦平和など戦後アメリカから入ってきた民主主義思想に毒され、日本を骨抜きにしているというわけである。
 この構図は、西尾幹二から佐伯啓思にいたる保守派がこの数年来つづけてきた「市民」攻撃をそのままなぞったにすぎない。たとえば佐伯の『「市民」とは誰か――戦後民主主義を問いなおす』の目次をみれば、「戦後思想を支配したマルクスの呪縛」だの「国家に対する義務を負わない『国民』」だの「なぜ市民が『祖国のために死ぬ』べきなのか」だの「『私』が『公』の世界を席巻する日本」だの、なんのことはない『戦争論』が三百四十八頁におよぶ大冊のなかで、壊れたレコードのように繰り返しているお題目のネタのほとんどは、すでに一年前の佐伯の本でお目にかかったものでしかない。
 しかし同時にこの『戦争論』は、右翼・保守派のなかでの重点の移動を表現していて興味深い。ここには、大東亜戦争肯定史観ともコミンテルン史観とも異なる「自由主義史観」を主張し、司馬遼太郎をかついだ初期の「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」からは大きく変質した彼らの立場が臆面もなく押し出されている。「わしは死を賭けて祖国のために戦い、子孫に多様なメッセージを残した祖父たちの功績を讃えることをまず、したい。だから大東亜戦争肯定論をあえて描いた」と言い、日露戦争以後の日本を「愚かでダメになった」と批判する司馬遼太郎を「そりゃ負けたから言ってるだけだ」と一刀両断にする。もはや「自由主義史観」などというものはないのである。それをまだあるがごとくに論じるのは、相当なアナクロニズムと言うしかない。いまや健全なナショナリズムなどというヌエ的なものではなく、「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか?」(本書の帯)なのであり、「欧米人の人種差別意識を痛打し、アジアの独立をうながし、強国が力ずくで弱い国を植民地にする帝国主義時代の幕を引いた」大東亜戦争の再評価なのである。
 いままで書き散らされてきた南京大虐殺虚構論、従軍慰安婦否定論、さまざまな謀略説、東京裁判批判などなどに戦場の「美談」と死のロマンチシズムで味付けした雑炊、ごった煮、闇汁、とでも呼ぶ以外にないこの小林の本がもっている特徴は、それがはっきりと語りかけるべき読者の像をもっていることだ。それは「あちこちがただれてくるよな平和」のなかで鬱屈している若者たちである。これは彼らを「国民」に鍛え上げるためのアジテーションでありプロパガンダだ。「わしが『祖国を守るのが市民』と言ってみると、ずざざっ、これだけで今の日本人は恐怖で顔をひきつらせる。」そのうえで、「今時、だれが戦争を望みますか……、戦争したがって過去の戦争を肯定するなんて、そんなバカがいるわけがない」「平和はしみじみありがたい。その礎となった英霊たちの勇気と誇りは未来へ語り継ぎたいだけである」。いつでも命を捧げることのできる平和国家を、というわけだ。なんだPKOの宣伝なのかい?
 ところで稀少な「残存左翼」の一人として『戦争論』のページをめくりながら、私は奇妙な既視感〔ルビ→デジャビュ〕につきまとわれたことを白状しなければならない。べつに少年の頃の戦争の日々を思い出したわけではない。戦後のことだ。自覚した先進的な集団と無自覚なその日暮らしの大衆、前衛による大衆への意識注入、アジテーション・プロパガンダ。このレーニン主義的な構図からわれわれ左翼は多くの代償を払いながらぬけだしてきた。ところがこの構図は、小林の『戦争論』において見事に復活したのである。ここには、たとえそれを批判するにせよ、「市民」がもっている「戦争はイヤだよ」という心理の深層にある歴代にわたる経験的な伝承に対面しようという姿勢は爪のアカほどもない。あるのはただ、アメリカ占領軍にマインドコントロールされ、牙を抜かれた臆病者とその末裔という低俗な像があるだけだ。
 特攻隊を賛美し、国のために死ねるかと恫喝してやまない小林が、じつは「死」についてなにほどの考えももっていないことはあきらかだ。政治家の汚職が暴露されるたびにくりかえされる彼の秘書や運転手の自殺。汚職政治家を守るために自殺した彼らの死こそ、戦後日本国家における「オオヤケ」のため、つまり国家のための死の一つの典型なのである。小林よ、君は国家のために死ねますか? 「残存左翼」の一人として言えば、ややもすればすぐに「死ぬ気になって」という気分になる自分の愚かさを克服するのに、オレには何年もの歳月が必要だったぜ。死の賛美のなかから生まれるものは、人であれ国家であれ、腐臭を放っている。
 さてそのうえで、ケンカはどうやらわが方が負けていると認めざるをえなかったというのもまた、いつわらざる読後感であった。もちろん内容についてではない。問題はもうちょっと複雑なのである。歴史修正主義者どもにたいする「聖戦」にわれわれが凱歌をあげているとき、小林の同類たちの言説は確実にジャーナリズムに浸透し、大衆をつかみはじめているのだ。これを指して、われわれは内容の勝負に勝って語りに負けていると言う人がいたら、それは間違っている。うまく語られない(伝達されない)内容などというものは、ダメなのである。そのダメなところをこけおどしの倫理主義によって誤魔化そうとする。ますますダメなのである。
(『派兵check』1998.8.15、 71号)

















伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判
制作委員会やスポンサーの意図は自明だから問わずして
太田昌国●ラテンアメリカ研究

 映画『プライド 運命の瞬間』の監督を務めた伊藤俊也の作品をすべて観ているわけではないが、娯楽作品としてすぐれたものがあるという印象は持っていた。当時の人気マンガ(篠原とおる原作)に想を得た最初の作品である『女囚701号・さそり』(一九七二年)に始まる女囚シリーズにしても、戦時下の横浜の高級娼婦館を舞台にした山崎洋子の原作に基づく『花園の迷宮』(一九七八年)にしても、よく出来た娯楽作品としての面白さをもっていた。
 だが、伊藤の全体像を私は知らず、したがって、『プライド』で東条英機の妻・かつ子を「演じた」いしだあゆみに対してほどには「思い入れ」もない存在であった(いしだは、ふとした表情や物言いにもさり気ない「演技」をこめることの出来る、しかも感じの良い女優として、私の「思い入れ」が深い)。それでも、『プライド』制作委員会を構成するのが加瀬英明らの右派人脈であること、スポンサーは、〈お笑い〉番組「新世紀歓談」(東京12チャンネルで毎日曜朝放映。あの渡部昇一が、江藤淳、谷沢永一、中嶋嶺雄、上坂冬子、中川八洋……などを招いては、誰にも想像のつく、勝手放題の政治・社会放談を繰り広げる)を提供している東日本ハウスであること――などをもって、伊藤が作るであろう作品の質をあらかじめ判定する気持ちには、なれなかった。監督は、制作者からもスポンサーからも相対的に自立した場に依拠して作品を創造しうる場合もあるし、伊藤作品の「意図」や結果としての「役割」を、「客観情勢」によって予断をもって判断したくはないと思う程度には、私なりに知る範囲で彼の存在感を感じていたのだと思う。その意味では、伊藤の年来の友人である映像作家・小野沢稔彦が言うように「伊藤は自分なら東条に内在し、内側から存在そのものを批判することが出来ると自負したのだ」(図書新聞九八年七月四日号)ろう、と考える地点に私もいたのだと言える。
 伊藤は脚本も(共同で)担当し、一年八ヵ月を費やして東京裁判と東条に関係する厖大な資料を漁り、史実に基づく歴史批判を志したようだ。彼が定めた要点は、次のようなものであった。すなわち、米国は日本の敗戦によって戦争が終わったとは捉えず、戦後の世界戦略の中に日本を位置づけた。具体的には、@東京裁判による日本国家の断罪、とくに東条を悪の権化とすること、A平和憲法なる美しきものの制定の代償として安保条約を結び、沖縄を犠牲とすること、のふたつを通して。そして戦後の日本人の多くは、厭戦気分と生活苦のゆえに、戦争責任問題を連合国に預け、見過ごしてきた。ひとり東条は、日米開戦時の首相兼陸軍大臣であり、敗戦の責任者であったというだけで、連合国側はもとより日本国内でも四面楚歌の状況におかれた。そして米国によって「継続された戦争」としての東京裁判の場で、彼はプライドをかけて最もよくたたかった。女囚シリーズ以来、不条理なものとの闘いを強いられたり、その闘いの中へあえて飛び込む人々を好んで描いてきた伊藤からすれば、東条ほど彼の映画の主人公にふさわしい人物はいない、と。
 前段の、日米関係に極限して語っているところには、私たちにとっても必須の課題である「戦後的〈平和と民主主義〉批判」と「戦争責任の追及の不徹底さ」に関わる問題意識があるように思える。それを受けての後段が、東条に関わる一面的で貧しい認識に帰着し、想像上の人物で権力なき「女囚さそり」と、実在の人物で権力を有していた東条を並列して「思い入れ」を語っている以上(梶芽衣子が泣くぞ)、結果は明らかだった。『プライド 運命の瞬間』は、伊藤の豪語とは裏腹に、史実を総合的にではなく断片的に継ぎ接ぎするご都合主義が目立つ作品として成立した。東条役の津川雅彦が主観的に熱演すればするほど、それは津川や伊藤の意図をおそらくは越えて戯画的なものとなった。そのことは、伊藤が意識的に行なったものらしい、敵役・米国のキーナン首席検事の戯画化と、反対方向から補完し合う形となって思いがけぬドラマとして展開する可能性が、本来ならあり得た。そうなれば、所詮は帝国主義戦争でしかない日米戦争に関して、勝者が敗者を裁くことは笑劇としてしか成立しえないゆえんを明らかにする展開もありえたかもしれぬ。だが「敗者」東条はあくまで「プライド」を捨てず堂々と〈真面目に〉ふるまい、キーナンは「勝者」でありながらどこかおどおどと自信無げにふるまう姿が〈戯画化されて〉描かれるという対照性は、作る側の自己(=日本)中心主義のあざとさが際立ち、その歴史認識の底の浅さを明るみに出すだけに終わった。インパール作戦、インド独立、スバス・チャンドラ・ボース、インド代表判事パール、任意の登場人物たる日本人青年(大鶴義丹)などの描き方が、言うも愚かなほど史実に悖り、日本にとって対米戦略上で利用出来る範囲でしか描かれなかったのは、必然的であった。米国以外の〈他者〉が本来あるべき形で存在しない『プライド』は、観念的な非歴史劇となって、終わった。
 ところで『プライド 運命の瞬間』に対しては、制作発表当時からその制作意図・シナリオ上の物語に対して、出来上がってからはその出来栄えをめぐって、さまざまな批判がすでに出ている。散見される、私には妥当と思われぬ批判の一典型を挙げてみる。批判の一翼を担ったひとりが山田和夫だが、彼は数年前、ケン・ローチの『土地と自由』(『大地と自由』と日本語版では訳されていた)が公開された時に、イギリス労働者階級の哀感をよく描いてきたケン・ローチともあろうものが、スペイン内戦時の反ファシズム戦線におけるアナキストやトロツキストの役割を不当に評価して描いているという類いの「批判」を展開した人物である。その歴史観は、私からすれば、はなはだ心許なく、スターリニスト官僚は、いつになったら歴史の見方を学ぶのかと慨嘆せざるを得ない代物である。事実、山田が『プライド』を批判する視点は、たとえば次のようなものだ。妻や子や孫へのやさしさで補強される、東条の人間くさい日常を見せる「人間味」こそ、ごまかせられやすい理屈はない。だが東条を描く時に大前提として正確に描くべきはファシズムの頭領として自由を禁圧し、他国民と自国民に犠牲を強いたキャリアそのもので、それ抜きの「人間味」など存在し得ない、と。
 そうだろうか? 私は、イェルサレムのアイヒマン裁判を取材したハンナ・アーレントの述懐を共感をもって思い出す。彼女は、ごく普通の人間が、あれほど多くの人々を殺しておきながら悔悟の念も抱かぬ様子を見て、裁判傍聴記録に「悪の陳腐さについての報告」なる副題を付した。いかにもまがまがしい邪悪な人物ではなく、与えられた仕事をひたすらこなし、家族を愛する、どこにでもいるふつうの人間たち。それらが犯す過誤だからこそ、それは恐ろしいものではないのか。〈悪〉が極限の悪としてのみ描かれているなら、その前提を共有する観客は自明の結末を目にしてカタルシスを得るかもしれない。だがそれは、文字どおり鬱積した情緒の発散に過ぎない。観客が問題を内省的に捉えることが出来るためには、この場合で言えば東条の「人間味」も描かれて当然であり、だからといって「ごまかされやすい」とは、いったい「自分以外の」誰のことを心配しているのかと、この共産党文化官僚には聞きたいものだ。映画・文学などの芸術表現における人物造型の成否は、このような観点から判断されるべきであって、そのとき山田が持つような先験的な思い込みは無効に帰するだろう。
 最後に。いままで読んではいなかったが、『プライド』を観た後で、伊藤の著作『幻の「スタジオ通信」へ』(れんが書房新社、一九七八年)にも目を通してみた。七〇年代初頭の大泉東映労組闘争の〈主体〉としての伊藤が、ファシズム下の時代、京都にあって「京都スタジオ通信」という文化新聞を出していた無名俳優・斎藤雷太郎の〈行為)の根拠に迫ろうとする内容のもので、気迫の漲る、いい本だった。それだけに、ここから『プライド』へと至る伊藤の二五年間の映像的・思想的彷徨の中身を知ったうえで、『プライド』批判(その二)を書きたいものだと私は思った。
(一九九八年七月三〇日記)
(『反天皇制運動じゃ〜なる』1998.8.4、 13号)

















『プライド−−運命の瞬間とき』論議
現在の伊藤俊也はまったく弁護できない
天野恵一●反天皇制運動連絡会

 「折角!『プライド』に言及するなら今更イデオロギー批判ばかりやりたくない。出来れば援護できるところをたくさん見つけたい、それが正直な心境だった。だがそううまくはいかなかった」
 こんなふうに菅孝行は、映画『プライド−−運命の瞬間』について書き出している(「『プライド』を観る−−オルタナティブな東条映画の可能性と不可能性」『情況』8・9合併号)。映画人としての演出家伊藤俊也についよく知っている彼にすれば、当然の「心境」だろうと思った。
 私にとって伊藤俊也という名前は「女囚701号・さそり」シリーズの演出家というより、『幻の「スタジオ通信」へ』(れんが書房、1978年)の著者として強く記憶されていた。
 「…戦時下の横浜の高級娼婦館を舞台にした山崎洋子の原作に基づく『花園の迷宮』(1978年)にしても、よく出来た娯楽作品としての面白さをもっていた」(「伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判−−製作委員会やスポンサーの意図は自明だから問わずして」(『反天皇制運動じゃーなる』第13号、8月4日号)。
 こういう太田昌国の文章を目にして、ああ、島田陽子と内田裕也主演(たぶん)の、不気味な欲望とエゴイズムがむき出しにされた、あの映画も、伊藤の演出だったのかと気づかされた。「さそり」シリーズ(伊藤演出は3本までらしい)も、おそらく全部見ているのだが、どういうものだったか、よく思い出せない(「日の丸」が権力のシンボルで使われていたはずだが……)。映画についてはそんなボンヤリとした記憶だ。
 しかし、『京都スタジオ通信』を発行していた無名の役者、そして知識人のグループとともに、その通信を『土曜日』と改題して発行し続けた大衆、斎藤雷太郎を論じた『幻の「スタジオ通信」へ』の印象は決定的であった。伊藤は、権力にあまりマークされなかった斎藤の天皇制ファシスト下のしたたかな抵抗の論理と態度を具体的に浮きぼりにすることで、戦後の「市民主義左翼」のつくりだした通説への明快な批判を、リアルに提示してみせたのである。
 「言い過ぎになることを承知で言えば、誰某氏は官権に検挙され、獄中体験を持つがゆえに、そしておそらくは過大な評価ともどもに(ということは、当時の権力が過大な理由を付けて弾圧したということだが)、復権したはずなのである。諸運動についてもまたそのような傾向はある。復権者たちはそのままその傾向に便乗し、本来の運動の姿、その中における個人、そして、諸々の欠陥や弱点についての偽りのない評価−−これこそが戦後の出発点にあたっての冒頭に位置づけられねばなかったにも拘らず−−には怠慢であったのだ。権力の弾圧ぶりをあげつらいながら、まさにその権力が押してくれた烙印は(この逆価値が反転して今や価値となったがために)適度に利用された。それは権力の認定でもあったから、一つの権威とすらなったのである。だから、ある者は勲章のようにそれを見せたがった。もう少し良識派は、その烙印に異議申し立てしながらも、自分が『逮捕される』値打ちのあったことだけは信じようとした。はたしてその値打ちすらあったのかどうかと逆説的に己をみようとするまでに、自己と運動についての内省を戦後の出発とした人は如何ほどあったろうか。/このように述べたからと言って、苛酷な獄中体験や無惨な弾圧下の日々をおとしつめるつもりは毛頭ない。運動の本質に関る評価は、被弾圧の軽重とは峻別されるべきことを言いたいだけである」(イタリックは引用者)。
 こういう主張に、私は、深く共感したのである。
 こうしたかつてのシャープな論理と比較して、この間の伊藤の、見ないで「右翼映画」だと決めつける「組合専従者と呼応した日本共産党仕掛け」による非難は許せない、見れば、そんなイデオロギー映画ではない、素晴らしい内容であることはわかるはずだ、という具合に強弁している文章は、無惨である(「映画『プライド』誹謗中傷を粉砕する」『文芸春秋』八月号)。
 右翼のスポンサーづきの映画でも、伊藤が演出したんだから、何か別のものがそこには、という期待を、まったく裏切った内容しか映画にはない。だいたい、東條英樹の孤独な闘いを描くのだといいながら、占領軍(米国)に、にじりよって、自分たちの侵略戦争の責任を東條らになすりつけて延命した天皇ら、日本の多くの支配者の動きが、まったく描かれていない。東條の「孤独」の歴史社会的意味すら掘り下げられていないのだ。ステロタイプな右翼イデオロギーの図式(あの戦争はアジアの解放のためのもので、アメリカの裁きはすべて不当だ)をなぞったような主張がそこにあるだけなのである。
 「観もしない」批判が、結果的にかなり当たっているというような内容なんだからガックリだ。
 だいたい、イデオロギー批判以前におもしろくない。水垣奈津子はこう論じている。「出来の悪いコメディを見せられているようだった。散漫な構成、活かされない役柄、不十分な説明、そして津川雅彦のオーバーアクト」(「描かれるべき『不条理な』東京裁判が見えない」『アクト』八月十日号)。
 まったくその通り。東條自身の「大東亜戦争」の位置づけと正当化の論理や、パール判事の判決の主張も、そこにはキチンと示されてもいない。インドへの現地ロケもなにも生きていない。「右翼プロパガンダ映画」としても失敗作だろう。
 『アクト』の6月22日号と7月27日号の2回にわたる編集部(加田)の「伊藤監督支持」発言を『かけはし』(7月27日・8月3日)が連続的に批判しているが、こんなトンチンカンで無責任な発言は、批判されて当然だ。ただ、気になるくだりが批判者の方にあった。
 「東條を主人公とする映画は、ドイツでヒットラーを主人公にした映画を作るのと同じである。戦後補償とナチスの復活阻止を法制化しているドイツでは、ヒットラーの映画を作ることは違法ですらある」(及川恒幸「監督への思い入れの余り政治的メッセージを誤読」7月27日号)。
 国家の法的取締まりは、あたりまえなのか。ヒットラーも東條も抜きであのファシズム(戦争)の時代は語れないだろう。どのように描くのか、それだけが問題ではないのか。
 さて、最後に。映画完成以前から共産党系文化人(だけではないが)からの非難の声が多かったということは、作品がすぐれていることなどを保証しない。「本質に関わる評価」と非難の「軽重とは峻別されるべき」である。
(『派兵check』1998.8.15、 71号)
























自称現実主義者たちの現実追随
中嶋嶺雄・中西輝政などの言動に触れて
太田昌国●ラテンアメリカ研究

 ある中国書籍専門書店で、東京外国語大学中嶋ゼミの会発行『歴史と未来』第 24号(1998年3月)を偶然手にした。現在同大学長を務める中国研究者・中嶋嶺雄ゼミの研究誌である。中嶋の初期の著作『現代中国論]イデオロギーと政治の内的考察』(青木書店、1964年)は、当時の時代情況の中では異彩を放つ内容のもので、中国革命の必然性をギリギリの地点で認める立場に立ちつつも、毛澤東思想や「百花斉放・百家争鳴運動」「反右派闘争」「大躍進政策」の批判的な分析が冷静になされていた。その頃までは、エドガー・スノーや竹内好、武田泰淳など、外部の文人的観察者によるいくぶん情緒的な中国論が多く、私自身もその影響を十分に受けていたから、中嶋の著作の異化効果は大きかった。だがその後の中嶋の言論活動をふりかえると、文化大革命論こそ異論も感じつつも相変わらずの冷徹な観察から得るものは多かったが、全体として急速に国策論へと傾斜していくばかりで、彼もまた、掃いて捨てるほどいるありきたりの、日本中心主義を純化させた国際政治評論家になっていくさまを見送るほかはなかった。
 上記の会報に掲載されているは、97年の香港の中国返還時の様子を見にいったという中嶋の短い報告で、返還と同時に人民解放軍が香港に駐留したことの問題点を指摘するなど同感する点もなくはないが、総じて「植民地支配の終焉」という問題意識をまったく欠いたまま、たとえば「英国は香港をここまで仕立てあげたのだから、一言、江沢民が『謝謝』と言ったら中国の株も上がっただろう」などと語る箇所が、現在の中嶋の位置からすれば当然のこととはいえ、目立った。きわめつきは、大要次のように語る箇所だろう。「米国の第七艦隊が英国に許可を求めると二日で香港に寄港できた。中国側は第七艦隊の寄港を認めると言っているが、今後台湾独立派の台頭があれば、認めなくなるかもしれない。国内のさまざまな問題を抱えた中国が大中華思想を強めて、対外的に軍事力をちらつかせかねない時に、米軍のプレゼンスがなくなれば、アジアの軍事バランスを変えるだろう。台湾海峡危機の時に、日本のメディアは住専とオウムばかり報じていたが、このとき空母インディペンデンスが食糧や水を積んで横須賀を出た。極東有事もありうるのだ。シンボリックなことに、横須賀を出たのは『独立』を意味する名の空母だった。このシンボル効果に誰も気づかぬのは問題だ」
 末尾の「シンボル効果云々」の箇所などは、つまらぬダジャレ的な発想を得意気に披瀝する評論家ならではの水準だ。私も中国ナショナリズムの行方には懸念を持ち、この十数億の人びとを抱え込む大帝国は、台湾やチベットや新彊ウィグルなどの「分権独立」を認めない限りやっていけないのではないか、と思う。しかしナショナリズムに対する警戒心は、足下の日本に対してはもちろん米国に対しても持っているから、米国の軍事プレゼンスがアジアの安定に必要だなどという考えは持ちようもない。中嶋は、国家間・民族間に歴史的に積み重ねられてきた不平等性を軽視したり無視したりすべきではない。アジアにおける米軍の軍事プレゼンスなるものを重視するからには、中嶋は横須賀や沖縄に象徴される軍事基地も容認しているのだろう。米国が、19世紀末の提督マハンの海外進出戦略に基づいて、根拠地(前進基地)と移動海軍(艦隊)の増強を不可欠の前提として、対外貿易と海外における経済的展開を可能にしてきたことくらい、「国際問題評論家」中嶋が知らないはずはないだろう。米国のこの一世紀に及ぶ近代史にあっては、経済と軍事は、自国の利害を賭けてここまで密接な関連を持ってきた。他地域からの収奪のためには、他の民族・国家との共存・共栄など歯牙にもかけなかった史実が、世界一の大国・米国の20世紀史からは任意に取り出すことができるのだ。
 その起点というべき典型的な一例を挙げよう。一世紀前の1898年、キューバがスペインからの独立戦争に勝利しそうな形勢になると、米国はスペインに宣戦を布告しまもなく勝利した。停戦協定・講和会議は、米国の思惑どおりに米西間のみで行なわれた。スペインが領有してきたキューバは米国の「保護国として独立」し、同じくフィリピン、グアム、プエルトリコは現金取引によって米国に「委譲」されることになった。キューバは、(1)米国が必要と認めた場合には内外政に介入すること、(2)他の諸外国と条約や債務協定を自由に結べないこと、(3)米国に海軍基地を提供することなどを認めざるを得なかった。
 国際関係においてこんな「規準」を持ち続けてきた米国の艦隊の力で、中嶋は、中国の大国主義のどこを抑止できるというのか。冷戦期の不毛な軍事バランス論にいまだ拘泥している中嶋には、アジア経済に関する発言も多いが、ここでもいまある現実を不動のものとして前提としたものが多い。ドルを基軸通貨とする体制に黄昏の時が迫っているいまこそ、世界の平和と安定化のためには、特定の通貨に特権を与えない多元的な通貨→経済システムを構想すべきであることは誰の目にも自明のことだと思うが、未来に向かうこんな目を惰性的な現実主義者は持ちたくないようだ。同じことは『諸君!』7月号の中西輝政「『経済敗戦』の焼け跡から」にも言える。「レイプされても基地なしでは食ってゆけない沖縄に象徴されるような、日米関係をめぐるトータルとしての『悲しき日本』」などと表現できる中西は、「平和を保つ究極の拠り所は軍事力である」という根本問題への態度こそ核心だと主張し、「いま離れるにはアメリカは強すぎる」から安保体制の維持を強調する。自称現実主義者たちが、現実追随主義者でしかないことが、ふたりの言動から透けて見える。
(『派兵check』1998.8.15、 71号)





















































「批判」について考える
「自由主義」以後の思想的境界(3)
栗原幸夫●『レヴィジオン〔再審〕』編集者

「卑怯な人間」がいるのではない、「卑怯な行為」をした人間がいるだけだ、というのは意外なことにサルトルとレーニンに共通する人間観である。と言ったからといって、レーニンに実存主義的な面があったなどと主張したいわけではない。レーニンの場合、人を彼がどのような観念や思想をもっているかによってではなく、どのような行為によってそれを表現したか、あるいはどのような行為によってそれを裏切ったか――つまり観念によってではなく行為によって評価するという、徹底した唯物論的な立場に立っているのである。
 これにたいし、人間は最初は何者でもない。「人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間はみずからが造ったところのものになるのである」というサルトルの考えが厳密に言って同じわけではないが、両者には、二つの世界大戦をへだてて二〇世紀という時代が生んだきわめて時代的な人間観という点で共通した性格がある。それは、もはやかつてのような安穏な人生などどこにもない「異常な時代」に、状況に翻弄され有為転変を重ねるしかない人間を、どこで受け止め、どのようにしてその人間に「信」をつなぐことができるのか、という問題なのである。
 なぜこんなことを最初に言い出したかというと、日本の左翼のなかには、伝統的に一枚岩的な人間観が支配していると思うからだ。英明な指導者は、生まれたときから英明で人生にひとつの汚点もなく、転向した人間は生まれたときから裏切者でその人生にはどのような評価すべき事績もない、というわけだ。けっきょく、死んでみなければわからないので、ある種の指導者のように死んだらとたんにボロくそに言われて歴史から抹殺されてしまう人間もあらわれる。古い中国のことわざに「棺を蓋〔ルビ・おお〕いて事〔ルビ・こと〕定まる」というのがあるが、なんとなくそれに似ている。これはなんとも寂しい話で、死んだ人間を顕彰するよりも、いま同時代を生きている人間とどのような「信」を結ぶかということにもっぱら関心のある私にとっては、どんなに右往左往して一貫性を欠くように見えても、やはり行動のなかで自分を表現しつづける人間を友としたい。
 しかしここですぐにちょっとした難題にぶつかる。どんなにすぐれた思想をもった人間も、ときに行動においてとんでもないことをやらかす、という現実をどうするかということだ。サルトル=レーニン的基準から言えば、とんでもないことをやらかした人間はもちろんとんでもない奴だということになるが、それはそうだとして、ではそのとんでもないことは、彼の思想とどういう関係にあるのかと問う必要があるのではないか。そこで出てくるのは、「にもかかわらず」と「であるがゆえに」という二つの回答である。正しい思想にもかかわらずとんでもないことをやった彼は、思想を裏切ったのであるというのが第一の回答だ。第二の回答は、正しい思想とおもわれていたその思想自体がじつはとんでもないものだったのだ、というものだ。前者はヨヨギ的論理であり後者は吉本隆明的説明だと言えるかもしれない。
 そんなにきれいに割り切れるのかというのが、ここで私がひっかかる点なのだが、これを詳しく展開するにはちょっとスペースがたりない。そこでこの問題はいちおう措いてつぎにすすみたい。
 はじめになんとなく面倒なことをもちだしたのは、この人間観の問題が批判のスタイルにふかく関係していると思うからである。いま私たちがいちばん警戒しなければならないのは、「批判の全体主義」とでもいうものだと思う。「本質顕現論」と呼んでもいい。いままでネコを被っていたのがとうとう本性をあらわした、というアレである。この立場にたてば、当然にも批判は被っていた「ネコ」にではなく、隠されていた「本性」の暴露と糾弾に集中される。それは全人格的な否定と抹殺にまで行き着かないうちはなかなか止まらない。
 もちろんこのような「ネコ」と「本性」の二元論はサルトル=レーニン的ではない。一人の人間が、時にとんでもないことをやり、時にすばらしいことをやる、というのが彼らの、おそらく経験的な認識だったのである。ではその「時に」とはどういうものかといえば、それは「状況」だと答えるしかない。
 私は「続」の文末で「湾岸戦争と冷戦以後の世界でおこっている思想的な崩壊を、その根拠にまでさかのぼって解明したい」という私の関心を記しておいたが、「湾岸戦争と冷戦以後の世界」――これがここで言う「状況」なのである。湾岸戦争は、政治的にも軍事的にももはやソ連は存在しないにひとしい、ということを世界に認知させた。二〇世紀を二〇世紀たらしめた二つの体制の対立的共存という世界構造は終わった。人びとはそこに示された米国の圧倒的覇権の前に、茫然自失したのである。
 衝撃は、この二つの体制、二つの思想、二つの政治的立場の対立のなかで、双方に批判的なスタンスをとりながら、一種の緩衝地帯を造ることに腐心したリベラルにとって、とくに大きかった。
 ここで私が問題にしているのは思想としてのリベラリズムではない。その社会的な機能であり実践態としてのリベラリズムである。たとえばそれをウォーラーステインはこんなふうに描いている。――「リベラリズムは、右翼と左翼双方の政治的困難を、直接解決するものとして登場した。それは右翼に対しては譲歩を説き、左翼に対しては政治組織の必要を説いた。そしてこの両者に対しては忍耐を説き、長い目で見れば中道を行くことによって(誰にとっても)より多くのものが獲得できるだろうと説いた。」(「リベラリズムの苦悶」)
 このような中道主義は、いかがわしいものとして両方の陣営から攻撃された。第三の道を追求するチトーはソ連にとってはアメリカ帝国主義の手先であり、アジアの非同盟主義はアメリカにとっては中国の別働隊なのであった。そして鶴見俊輔はマーフィー(駐日米大使)の手先と共産党から攻撃されたのである。しかし五〇年代の後半以降、このような中道主義を超えて、既成の両翼をともにするどく否定する自立主義が登場し、「リベラリズムの苦悶」の時代がはじまるのである。鶴見俊輔はこの自立主義に付かず離れずというかたちで「同伴」した。その時代を象徴するのが一九六七年二月におこなわれた吉本隆明との対談「どこに思想の根拠をおくか」である。ことごとに食い違うこの対談を発表当時に読んだとき、私はほぼ全面的に吉本に賛同した。それから二〇年ぐらいの年月をへだてて必要があって再読したとき、鶴見の発言のほぼ八〇パーセントに同感している自分を発見しておどろいた記憶がある。そして今回読み直してみて、鶴見の発言は吉本の自立主義なしには存在根拠をもたない、彼自身が自認するとおりの「同伴者」の思想だったことを確認した。同伴者が同伴すべき対象を失ったとき、彼は迷走する以外にないだろう。
 もちろん私は、吉本自身がそれから遠く離れてしまった思想的な原理主義をもういちど復活すべきだなどと考えているわけではない。しかし鶴見のプラグマチズムなりリベラリズムなりが、その原理主義と「同伴」的に対峙していた時、間違いなく彼は「輝いて」いたのである。ここにはいま何が必要なのかを考える上でのひとつの手がかりがあるように思える。
 とにかく、「本質顕現論」的批判ではない批判の仕方を追究していきたいし、運動のなかで共有していきたいと思う。湾岸戦争以後の、シーソーの一方がとつぜん消えてしまったために他方が跳ね上がり、その反動で傾いたもう一方にどどっと転げ落ちた中央にいた連中(リベラルと呼ばれた人たち)を、簡単に「裏切ったなー」とやっつけて、私たちの仲間をやせ細らせることはしたくない。しかし彼らに対する批判は、厳しく説得的におこないたい。そのためには、問題を個人の資質や倫理に収斂させるのではなく、状況論的かつ運動論的に「なぜそうなったのか」を解明する以外にないと思う。(『反天皇制運動じゃ〜なる』1998.8.4、13号)






























「見せる・感じさせる」で伝える、伝わった――端島・高島ピースクルーズ
 
 8月といえば、8・6の広島、8・9の長崎、そして8・15だ。その前後には、メディアも、政府側も、右派も左派も、市民運動の現場も、毎年なんらかのアクションを起こしたり、声明を発したり、する。そして私は、8・9の長崎に行って来た。首都圏で活動を続ける「沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会」が長崎ツアーを企画し、私も一泊二日の強行路線でそのツアーに参加したのだ。
 長崎といえば、原爆、出島、隠れキリシタン、カステラ・オランダ・ポルトガル。普通に関連させて出てくるものは、だいたいこんなところだろう。違う視点でちょっと違ったことを考えた奴が「造船所っ!」と答えるかもしれない。しかし、ここでいったいどれだけの人が「軍艦島」、「端島・高島」と答えるのだろう。
 私にとって、今回初めてこの目で見ることのできた端島、通称「軍艦島」。この島を一周するところをUターン地点とする「端島・高島ピースクルーズ」に、私たち長崎ツアー組も参加したのだ。
 高島は長崎港から西南に約14.5キロメートル離れたところにある。端島はそこから更に西南5キロのところだ。端島は現在、人の足を拒む無人島と化している。乗船時に配られたパンフレット『端島・高島ピース・クルーズ '98――炭坑の島・強制連行の後を訪ねて』には、ともに「日本最古の炭坑のひとつ」である、と説明が入っている。
 このパンフレットによると、
 「1868年佐賀藩主鍋島直正はイギリス人トーマス・グラバーとの合弁による高島炭坑の開発に当たり、日本で初めての洋式立坑(北渓井坑)を掘り、翌年着炭に成功した。1874年、外国人の採鉱を禁止する日本坑法によって高島炭坑は工部省鉱山寮の官有となり、設備の増設補修を行い、囚人を労働力として年産7万トンを採掘した。同年末……蓬莱社に……払い下げたがその経営は困難で、1881年三菱社に譲渡、……1973年第一次合理化、1975年の第二次合理化を経て、1986年 11月27日……その幕を閉じた」。
 端島は「高さ10メートル余の強固な防波堤を築き埋め立てることにより原姿の約2.8倍に拡大され、結果面積0.1平方キロメートル、周囲1.2キロメートル、東西160メートル、南北480メートルの小島となった。又、コンクリートの建物を上へ上へと積み重ねた様は戦艦「土佐」に似ているというので『軍艦島』と呼ばれるようになった。……1883年佐賀藩深掘領主鍋島氏が採掘を始め、1890年には財閥三菱の所有となり(10万円で買収)、以後1974年の閉山まで三菱のヤマであった」。
 この二つの島のほかに、伊王島、香焼島などもある。そして、これらの島々では、日本が敗戦を迎えるまで、長崎に原爆が落とされるまで、朝鮮人、中国人の炭坑夫が地獄のような毎日を強制されていたのだ。強制連行されてきた、採炭の経験など皆無の多くの朝鮮人・中国人が強制労働を強いられたのだ。
 船は一時間以上をかけて端島=「軍艦島」のすぐそばまで行く。それまでの間中、デッキから見える三菱長崎造船所のドック群や、伊王島、高島、等々の説明をアナウンスしてくれた。説明をしてくれたのは、ピースクルーズ実行委員会のメンバーだ。ときおり長崎在日朝鮮人の人権を守る会の人が、さらに詳しい説明を入れてくれたりした。
 長崎港をゆっくりと抜け、三菱造船所を右に左に見ながら説明を聞く。予想以上に大きい。遠くに見えていた米軍イージス艦に次第に近づいていく。すぐそばを通るときなど、騒いでいたのは東京からきた私たちだけではなかっただろうか。ここではみんな、こんなものを珍しくもなく眺めているのだろうかと、軍都長崎に妙な気分になるのであった。
 それからさらに30分、船が完全に長崎港を出て、あちらこちらに島が点々と見え始める頃には、波は大きくうねり始め、船もかなり揺れる。近づいてくる島々についてなされる説明の内容も、重たくなってくる。それにともなって、私の体もだんだん重たく息苦しくなっていった。
 高島炭坑は「二度と帰れぬ鬼が島」、端島は「監獄島」と呼ばれていたという。日本が敗戦を迎えるまで生き延びた人以外は、一度足を踏み込んだが最後、その名のとおり「二度と帰れぬ」という強制労働を強いられる監獄の島だったいう。脱走を試みて、海に飛び込んだ人も少なからずいたそうであるが、みな亡骸となってあちこちの沿岸にたどりついたという。それでもその脱走に成功した人は、いたにちがいない。少なくとも、その脱走成功者として、俳優松坂慶子の父親は名乗りをあげているという(彼はその脱走の経験を書き込んだ本を一冊世に出している)。私は、それらの話を聞いたり、友人たちと話をしながらうねる波を見つめた。
 とてもこの海に飛び込むことなどできやしない、と思えた。ましてや向こう岸は遠い。水は透明のようだが、とてつもなく暗い。風と揺れと暑さで、息苦しい。体が沈みそうになり、息苦しさの絶頂に達した頃に「監獄島」であり「軍艦島」と呼ばれる端島のすぐ近くまできた。コンクリートの塊が海の真ん中にポツンとたっている。コンクリートの集合住宅。8月の照りつける太陽とも、何もかもとも無関係に存在するかのようにそびえ立つコンクリートの塊に、黒い窓の後が点々とつている。かつてそこが部屋であったことを、そこで生きたり死んだりした人の存在を知らせる。島という概念からはほど遠いシマ。強制連行された朝鮮人や中国人は、ただでさえ年中湿気に覆われているこのコンクリート住宅の、一番湿気が多く、衛生的にも最悪の下の階に住まわされていたという。
 ここで、豆かす8割・玄米2割のメシが一膳、海底炭田での一日12時間労働。環境の悪さと労働条件の悪さ、栄養の悪さで病死。リンチや拷問による死亡。生き延びるためだけの体力が残っているかどうかという最悪の条件で、この海に飛び込めるのだとしたら、それはそれでも、まだここよりもいいかもしれないというかすかな望みを、このうねりまくる海に見たからにほかならない。そのことを考えるだけで、ここでの劣悪な状況がうかがえるというものである。
 ここで私が紹介した島に関する話は、すべて船の上で聞いた説明や、配られたパンフレット、長崎で手にした本などから引いたものだ。これらの情報はすべて、長期にわたる調査を続ける人たちが存在し、そしてそれを伝えようとする人たちがいて、初めて私たちが知るところとなったのであった。しかし、ピースクルーズ実行委員会の「伝える」は、報告書やスピーチでは終わらない。
 一つの情報はただの言葉として発せられるのではなく、私たちの想像力をかき立て、言葉に血を通わせ、過去に発せられた呻きの声をも蘇らせる、そんな力をピースクルーズは備えていた。そんなに遠くない過去の現実として、私たちに迫ってくるのだ。そんな伝え方ができるものとして、この「端島・高島ピースクルーズ」はあった。確かに私たちは、船に乗ることによって初めて知ることのできる、海の状況や島の状態を目の当たりにしたのだ。そして、そこでの海底採炭労働や生活状況にかんする説明の言葉に、私たちの想像力は大きく動き出し、胸が痛くなるのであった。
 このクルーズ体験は、情報量から考えればほんのわずかのことを知ったにすぎない。しかし、肉体的に、あるいは感性的に理解できた部分が多く、結果的にはこれから私の中にいつまでも気になるしこりみたいなものを残した。実際、船に乗らなければ、数字のデータが多い調査報告書に手を伸ばしてみようなどとは、なかなか思わない私であったろうと思うのだ。
 船に乗せ、海に出し、風にさらし、島を見せる。できるだけ近くで、等身大の島とその周りの環境を見せる。そのことは、長崎の小さな島に閉じこめられていた日本の侵略戦争や経済第一主義の犠牲になった、日本人を含む多くの人々の歴史を、日本の近・現代史の問題として私たちに伝える有効な方法であったのだ。
 船に乗るまでは長崎に着いたばかりということもあり、早朝からの行動で少々疲れていたり、それでも多少の浮かれ気分で、「わーい、海だ、船だ、クルーズだぁ」と喜んだりしていた。使用前使用後ではないが、船に乗り込む前と後の私の気分の違いようは、説明しがたいものがあったのだ。私にとって偶然のように体験できたピースクルーズであったが、主催者の実行委員会には感謝するばかりである。
 これから「長崎といえば」という枕詞には、原爆と並んで端島・高島、軍艦島・監獄島・鬼が島と、私の場合、答えることになるのだ。

 














《書評》

関谷滋・坂元良江編
『となりに脱走兵がいた時代―ジャテック、ある市民運動の記録』(思想の科学社刊、5700円)

小倉利丸●オルタナティブ情報メーリングリスト管理人

 本書を読んで、ジャテックの運動はもしかしたら、まだ終わってはいないのではないか、という気分にさせられた。
 たとえば、脱走兵だったジョン・フィリップ・ロウが本書に寄せている文章のなかに次のようなくだりがある。
「いまでさえ、いえ、多少の社会的、物質的成功を達成したいまだからこそ、私の暗い秘密として、だれの目にもふれずに隠されつづけています。知っているのは、妻と、家族のなかのごく親しい何人かだけです。子どもたちにももっと大きくなるまでは話さないつもりですし、たとえ時がきて話したとしても、彼らが本当に理解できるとは思えません」
四半世紀すぎた今でも脱走兵であったことは隠されねばならない「暗い秘密」としてまだ続いている出来事なのだ。ベトナムはいかに不正義の戦争であったとしても、多くの米国人にとっては、いまだにこの戦争から逃げ出そうとした兵士達を許すことができない。中米で繰り返される戦争から湾岸戦争まで、ベトナム以降の米国の戦争をロウはどんな気持ちで見守っていたのか、彼の書いたエッセイには触れられていない。
 ジャテックは、「反戦脱走米兵援助日本技術委員会」の略称といわれている。ベトナムに平和を市民連合(ベ平連)の運動から生まれた在日米軍兵士の脱走と国外脱出を援助する組織として67年の暮ころに結成された。佐世保に停泊中だった空母、イントレピッドから逃げ出した四人の水兵の国外脱出を援助したのをきっかけとして、その後多くの米兵の脱走と国外脱出を支援することなる。
 米兵は、日米安保条約によって、民間人のような正規の手続きを経ないで国外に出たとしても日本の国内法に抵触することはない。国外脱出を援助しても違法な行為にはならないということを巧みに利用して、脱走兵をかくまい、米軍や日本の公安警察にさとられずに主としてソ連経由で第三国へと脱出させるための運動が当初のジャテックの活動だった。文字通りの非合法活動ではないとはいえ、オープンに展開できる市民運動とはまったく違って、活動の多くの部分は「地下」で行われざるをえなかった。このジャテックの運動はその後、スパイの潜入などで脱走兵が次々捕まるといった状況の中で、軍隊内部での反戦運動の支援へと転換してゆく。
 本書は、ジャテックの運動を当事者による回顧やあらたな取材、そして機関誌や年表などの資料で再構成したもので、戦後日本の反戦運動の記録として特筆に値する記録、証言録となっている。第一期の国外脱出運動から、その挫折、そして第二期の軍隊内での反戦米兵運動への転換の経緯が語られる一方で、脱走兵達のエピソードや岩国の反戦喫茶「ほびっと」の活動まで、運動全体のプランナーであった人たちから自分のささやかな生活の一部を脱走兵のために割いた市民達にいたるまで、それぞれの体験からジャテックが語られている。
 ジャテックに関った人たちは多彩だ。学生、大学教師、ジャーナリスト、小説家、映画監督、弁護士、国会議員、会社の重役、新左翼の党派の活動家、これらの人々の友人やそのまた友人。そして、実際に脱走兵の日常に一番関ったに違いないこうした人たちの家族。本書では言及されていないさらに多くの人々と活動があったことは間違いないから、ジャテックの運動の広がりは思いの外広い。その広さに、武器は持たないが、しかし確実に日本の市民社会の中には、国家と対峙できる市民的なゲリラの運動があったのだということを見て取ることができるように思う。
 私はいまでも「ジャテック」という言葉を聞くと、なんとなく気持ちがざわつく。身近にありながら遠い存在、それが私にとってのジャテックだったからだ。私は当時仙台に住んでおり、自宅通学の高校生で、とうてい脱走兵をかくまう仕事に関るような条件は持ち合わせていなかったが、仙台のベ平連の事務所にはしょっちゅう出入りしていたのでジャテックの存在を身近に感じたことがある。多分、私と近しい大学生や大人の活動家達は、どこかでジャテックに関っていたと思うが、私には詳しいことはわからなかった。文字通りの非合法活動ではないとはいえ、オープンに展開できる市民運動とはまったく違って、活動の多くの部分は「地下」で行われざるをえなかったから、すくそばにありながら、謎めいていた、それが僕にとっての当時のジャテックの印象だった。
 そして、ここ数年、時折ジャテックのことを耳にする機会が何度かあった。元べ平連の吉川勇一さんや第一期ジャティックの責任者でもあった栗原幸夫さんなどとお会いした折りに、時にはジャテックのことが話題になることもあった。また、昨年暮れには当時の脱走兵のジェラルド・メイヤーズが来日し、確か同じころにテレビでもドキュメンタリーの放映があったと記憶している。だから、わたしにとって本書の刊行は、決して突然のことではない。いやそれどころかむしろ、何かもう一度あのジャテックそのままではないにせよ、何かそれを継承するような活動を必要とするような雰囲気がじわじわと迫ってきているような感じがある。ベトナム戦争から四半世紀が過ぎ、いつのまにか日本自身が自国の軍隊を海外に派兵する時代になってしまった。この時代の大きな変貌は、外国の軍隊の兵士ではなく、まさに自国の軍隊の兵士に対して、かつてジャテックが行ったのと同様の行動が必要になってきているともいえる。こうしたなかで反戦運動は市民運動の中でもとりわけ重要な課題になりはじめている。本書の座談会で、小田実は、「ひとりでもやめる、これが脱走兵の原理だ」と語っていたが、このように軍隊を辞める人たちをひとりひとりつくりだす運動がますます重要になってくる不幸な時代を迎えてしまった。だからこそ、ジャテックの運動は、その運動論、反戦の思想のいずれからみても、まだ終わってはいない運動なのだと思う。