2000.10.20  No.33

カバーページへ

栗原幸夫のホームページへ

目 次




【議論と論考】

[沖縄サミット]は何をつくりだしたのか――サミットに対抗した多様な動きの成果の検証を! (天野恵一)

【言葉の重力・無重力】(8)

多様性の中の、いくつかの忘れがたい表現――文藝春秋編『私たちが生きた20世紀』を読む(太田昌国)

【書評】

我部政明著『沖縄返還とは何だったのか――日米戦後交渉史の中で』(山本英夫)

前田哲男著『在日米軍基地の収支決算』(梶野宏)

【抗議声明】

イスラエルはパレスチナ民衆への虐殺戦争を直ちに停止し、全面撤退せよ!










[沖縄サミット]は何をつくりだしたのか
サミットに対抗した多様な動きの成果の検証を!

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 「沖縄を『サミット、サミット』とお祭り騒ぎに巻き込んで『銭どぅ宝』を県民全体に浸透させていこうとするうねりの中で、沖縄県内の七つの大学の学生たちの手で『もう一つのサミット』と題して、シンポジウムを持った。『沖縄の将来』について考えるという一つの目標を持って語り合うことで、あらためて沖縄の厳しい現実が明確になった」。
 こう語っているのは沖縄大学の一年生である田丸尚絵(「日本の政治のまやかしの民主主義がしっかりと見えた」『労働情報』560〈6月1日〉号)。
 沖縄サミットに対抗する集まりは、実に多様にうみだされた。田丸は、大学生中心の活動をレポートしているのである。その多様な動きの中の一つであった「〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム」の記録をまるごと一冊の本にする作業を、私たちは進めている。そして、全記録にプラスして、総括の座談会を収めるため、私はピープルズ・プラン研究所の武藤一羊と9月20日沖縄(那覇)に行った。その夜、「基地・軍隊を許さない女たちの会」で活動している那覇市議の高里鈴代(彼女は、11月の那覇市議選の選対の事務局長でいそがしく動いていた)と、一坪反戦地主会の新崎盛暉(その夜、彼らのつくっている『けーし風』第28号発送の日であった、それは、沖縄サミットに対抗したいろいろな動きを全体的にレポートしている特集〈G8サミットを越えて〉)と四人で座談会。
 その座談会の中で、新崎は、「対抗サミット」の国際会議など、ずいぶんいろんな活動がこの間沖縄に集中したが、誰もすべてに参加できるわけではなかった。サミットがどういうものであったのか、という問題を含めて、自分がやったものの内容(体験)を持ちよりつつ、全体を検証するような集まりを、東京の方で準備できないか、と提案。私はたいへんなエネルギーを使った作業を、やりっぱなしにせず、多様な活動の個々の動きを交流させ、キチンといくつもの課題とグループをクロスさせ、問題を対象化していくことの必要性を感じていたので、沖縄の人々(グループ)との共催ということで、東京に帰って準備に入りたいと答えた(東京の女性グループはすでにこの動きを部分的に開始していた)。
 翌日、武藤と私は、環境のテーマで国際会議を持った宇井純(研究室)をたずね、この件での協力をも要請して、帰ってきた。
 「今回のサミットに投入された800億円のうち、約300億円余りが警備費、残りはほとんどプレスセンターをはじめとする建設、整備費だという。琉球銀行はサミットの経済効果を400億円と見積もっているそうだ。だがこれはあくまでPR効果としての試算、つまり広告費であり、決して地域格差の是正につながる投資ではない」。
 こう論じている遠藤大輔は、サミットを礼賛し続けた体制側のサミットの政治の演出のポイントは、「米軍基地とその被害」という現存するものを、ないように見せ、存在していない「沖縄の経済発展」をあるもののように見せることであったと分析している。そして、彼はここでこういうシャープな検証作業をもしているのだ。
 「最も象徴的なのは、安室奈美恵の歌うテーマソング『NEVER END』である。クリントンらの前で披露され喝采をあびたこの曲は来客の歓迎のためではなく、むしろサミットへの期待感を煽るための県民自身に対するメッセージだったと私は考えている。『遠い未来だった』で始まるこの歌の歌詞はラブソングの形をとって『過去の払拭と再開、未来への希望』を歌っている。歌詞にある『あなた』が『アメリカ』なのか『日本』なのか不明だ。しかし沖縄出身の安室が『私たち』と歌うとき、その主体は明らかに沖縄県民へと投錨され『いっさいを自戒し、協調によって生存していく』という物語が基地問題の払拭と沖縄の経済発展を示唆していく。/重要なのは、この歌詞の裏に『ディスコミニケーション』というテーマがある点だ。1コーラスのAメロにあたる『遠い未来だった 遠い国だった 遠い記憶だった』では、『あなた』と『私たち』の間に溝があったことを示し、2コーラスで『ずっと奇跡だった ずっと描いていた やっと解ってきた きっと大事なこと』と歌い、その溝の解消もしくは歩み寄りを暗示。だが、『大事なこと』が何なのかは最後まで語られない」(「『沖縄サミット』キャンペーンの危険なレトリック」『インパクション』121〈9月25日〉号)。
 小室哲哉(作詞・作曲)のこのレトリックが、本当のところ、どういう効果を沖縄の人たちにもたらしたのか。森(首相)にかつて、天皇式典で沖縄出身者だから「君が代」を歌えないと、政治的非難をあびた(歌わない、歌えないで、あたりまえだ!)安室。その安室の歌は、ねらった効果をあげたのか。
 サミットそのものにも、検証されなければならないことが、いっぱいであるのだ。 10月3日『朝日新聞』は、名護への新基地づくりを推進している人の中の工法(利権)をめぐる、海上基地派と埋め立て派の対立はまだ続いていることをつたえ、「サミット休戦」をはさんで、反対派の動きをふくめて進展はないと論じている(「沖縄サミット後の普天間問題」)。
 サミットの間が「休戦」であったわけがない。体制側が何をどのようにしかけ、それと対抗した私たちを含めた多くの人たちが、どのような成果を手にしたのか、あるいはしつつあるのか。このことの全体の検証が、アメリカの意向にそって戦争遂行可能な国づくりへ向かう日本政府、新たな米軍基地づくりへ向かう日本政府(沖縄県・名護市)と対決する運動の未来のために必要なのである。
(『派兵チェック』 第97号、2000年10月15日)


《言葉の重力・無重力》(8)

多様性の中の、いくつかの忘れがたい表現
文藝春秋編『私たちが生きた20世紀』を読む

太田昌国●ラテンアメリカ研究者

 文春文庫が文芸書の分野で独特の選書をしているのは周知のことで、日頃から何かと世話になる。それに加えて、「文藝春秋編」と名乗るノンフィクション・歴史物の分野でも侮るわけにはいかない企画がある。『「文藝春秋」にみる昭和史』(半藤一利監修、全4巻)や『エッセイで楽しむ日本の歴史』(上・下巻)などは、主として批判や反発の思いと、稀に共感の思いがさまざまに起こるのは当然としても、なかなかに読ませる企画物になっている。後者の場合は、古代から幕末期までの雑多な歴史的な事項に関して200人あまりの人びとが文庫本4〜5頁分のエッセイを寄せている。雑学的な知識が得られ、いわゆる歴史好きな人びとには満足のいくものになっているだろう。稀にラディカルな例外はあるが、編者たる「文藝春秋」が、対象として想定している読者一般の歴史認識の水準をどの辺りにおこうとしているかがわかる。佐藤誠三郎の「PKOと尊王攘夷の情念」や小西甚一の「進歩的文化人と『徒然草』」などは、「敵」ながら、巧みである。
 その流れで、興味深い本が出版された。文藝春秋編『私たちが生きた20世紀』(上・下巻)である。もっともこれは雑誌『文藝春秋』2000年2月臨時増刊号の文庫化だというのだが、元本は読み逃した。実に400人近い人びとが「私の戦争体験」「わが家の百年」「忘れ得ぬ人」などのテーマについて1500〜3000字程度で語り、「20世紀 世界を動かした人々」「20世紀 世界を知るための本ベスト30」「20世紀 世界を変えた事件」などをめぐる座談会が収められている。この種の、20世紀回顧的な書物はすでにたくさん出始めているが、出版社の宣伝力や文庫サイズの気安さは別にしても、実に多様なテーマに関して多彩な人びとが、わずか数分間で読める短文を寄せているということ自体が、ひとつの魅力となっているような書物である。
 この多様性をむりやりひとつの色に塗り込めて批判するつもりはない。この本は決して単色ではないし、そんな批判は有効ではないだろう。だが、多様性の中にさり気なく埋もれている、特徴あるいくつかの表情については触れておきたい。短文だから触れることができなかった、というだけには終わらない強引な結論と断定が試みられている文章は、やはり、私が一連の時評的な文章で日頃から批判の対象としている人びとによって書かれているようだ。
 平川佑弘の「シンガポール陥落とディエンビエンフー陥落」という文章は手がこんでいる。「東亜侵略百年」といわれたイギリスの東洋支配は、1942年の日本軍によるシンガポール陥落によって終止符を打たれたとする平川は、若い日々に自分の仕事先や旅行先で知合ったベトナム、シンガポール、インドなどの国々の「任意の誰か」が吐いた、歴史的過去としてのシンガポール陥落を歓迎する親日的な言葉を随意に引用する。この「陥落」作戦には日本側に三分の理があったが、米国がそれを理解していれば、ディエンビエンフーでフランスの東亜百年の野望を挫いたベトナムの理も理解でき、あの悲劇的なベトナム戦争は避けられただろうとするのが表題の趣旨だが、その「論旨」を補強しているのは、平川が自らの文脈で恣意的に引用するベトナム人らの言葉である。平川によれば、日本のふるまいは「反帝国主義的帝国主義」であった。そのうえで、ふたつの「陥落」を同一の水準で捉えるという歴史の詐術をあえて行なう。
 渡辺昇一は「二十世紀──日本がなかったら」との仮説を立てる。白人絶対優越のアパルトヘイトは世界的に完成し、その後何世紀も続くことになっていただろうというのが、自問に対する自答である。たしか彼は、南アフリカにおけるアパルトヘイト体制が廃絶された直後にも、同じ趣旨のことを『正論』に書いた。アパルトヘイトを背後からしっかりと支えた日本の対南ア貿易の実態を知る者は、そんな非論理を臆面もなく声高に主張できる1990年代初頭の言論風景に、救いがたい頽廃を感じた。「植民地と白人優越主義が日本のおかげでなくなったのが二十世紀の状況だが、それを前提に二十一世紀の世界は展開する」というのが渡辺の御託宣である。
 曽野綾子も、相変わらず、すごい。「二十世紀」に「最も才能のない詩人による駄詩」を捧げた曽野は「日の丸は戦死者の血で染まった旗だそうだが、戦後の日の丸は、抗議もできぬまま堕胎された一億の胎児の血で真赤。アカイ、アカイ、ヒノマルハ、イツモ、アカイ。一億といえば、大東亜戦争を三十数回くり返すと、戦死者がやっと同じ数となる」とうたう。「堕胎された一億の胎児の血で真赤」な日の丸とは、戦後史の中で日の丸が(曽野から見て)しかるべく尊重される場になかったことのメタファーのつもりなのだろうが、(日本人の犠牲者三百万人を生んだ)大東亜戦争を三十数回くり返すと「戦死者がやっと同じ数となる」と「駄詩」がうたう以上、「一億の胎児」は「戦死」したものとして仮想されていることになる。「大事な」日の丸がいかにその価値を貶められてきたかを言うために、曽野は信じがたいレトリックを駆使している。
 「二十世紀開幕を告げた日英同盟と日露戦争」と書くのは山内昌之である。「日英同盟は平和の確立にも貢献した」ことを、当時の日本駐英公使の口を借りて主張する。「日英同盟が日本に名実ともに帝国意識をもたらすきっかけとなった」ことを述べた箇所では、英国の社会主義者の満州・朝鮮訪問時の発言と夏目漱石の「満韓ところどころ」の一節を引きながら、「二人の日常からすれば信じられないほど差別的な感慨かもしれない。しかし、率直なだけにリアリティに富んでいるのだ」と、決して否定的にではなく解釈する。歴史的評価の違いが生じるのは当然としながらも、「確かなのは、アングロサクソンの海洋国家と協調しているとき、日本は内外で平和を享受し国運も隆盛に向かった事実であろう」と断言する。そして「日米安保条約の解消を安易に唱える前に、まず日英同盟の意義やその破棄で失われた損得勘定を検証することも大事」だと続ける。
 山内が言う時期は、朝鮮義兵闘争に対する弾圧や朝鮮の植民地化、大逆事件による幸徳秋水らの刑死……そのほか「内外で平和を享受し」たと断言するためには、「偽造する山内学派」となるほかはない歴史的事実がぎっしり詰まっている。アングロサクソンとの現代的協調である現行日米安保体制を肯定するための論拠として、山内がいかに貧相な歴史観の泥沼にはまっているかが歴然としている。
 「多様性」とは、かくも厄介な問題を抱え込んでいる。
(『派兵チェック』 第97号、2000年10月15日)

《書評》

安保・沖縄返還交渉のベールを剥ぐ!
我部政明著『沖縄返還とは何だったのか−−日米戦後交渉史の中で』〔NHKブックス、2000年6月、970円+税〕

山本英夫●『派兵チェック』編集部

 著者は、米国の公文書の公開が進んできた中で、それに地道にアクセスしながら、沖縄返還とは何だったのか、何であるのかを、日米安保の本質に立ち返りながら追求している。 その第1章は、「安保条約とは何か―不平等は是正されたか」。たった 10条しかない同条約(60年に改訂された現在の安保)の背後に17もの主要関連文書があり、未だにその内3つが秘密扱いされている。だが、これまでに公開された文書を読み解けば、米国が対日政策において、また沖縄統治政策において、何を考えてきたのかを知ることが出来る。第2章は、「施政権返還の背景」であり、ここまでが本書の根幹・問題意識と言えよう。何故、沖縄だけ米軍の施政権下に置かれたのかという歴史的現在的な問題意識から、著者は開示された情報に丹念に当たり、分かりやすく紐解いてゆく。改めて驚かされる事実も少なくない。例えば、60年1月の日米安保の付属文書「吉田・アチソン交換公文等に関する交換公文」には、「秘密の了解」として在韓国連軍に対する武力攻撃が起こったとき、「そうした武力攻撃への対応として国連軍の統一指揮下で日本に駐留する米軍によって緊急にとられるべき戦闘作戦が、事前協議をへずに、開始される」と書かれているという。
 そもそも米国が沖縄を占領下に置き続けた根拠は、基地の自由使用にあったことを本書は明らかにしている。基地の「自由使用」を巡る交渉史が以下、第3章「米国の交渉戦略―研究資料が示す舞台裏」、第4章「交渉開始―愛知・マイヤー会談から」、第5章「佐藤・ニクソン共同声明―核再持ち込みの密約はあったのか」で展開されている。
 第6章は「もうひとつの密約―日米で食い違う巨額の補償費」だ。返還を認める代わりに金をボッタクル米国とそれを容認し、民衆にウソをつく日本政府。そして「思いやり予算」は、沖縄返還の過程で生まれたということが良く分かる。終章は「もうひとつの断面『ガイドライン関連法』」だ。
 この終章は、つっこみ不足だが、本書は、96年の安保再定義からSACO合意・基地の沖縄内移設、新ガイドライン・周辺事態法なとを分析する一視角を与えてくれる。安保・沖縄問題に欠かせない一冊である。
(『派兵チェック』 第97号、2000年10月15日)







「思いやり予算」のベールを剥ぐ!
前田哲男著『在日米軍基地の収支決算』〔ちくま新書、2000年7月、660円+税〕

梶野宏●『派兵チェック』編集部

 著者が「はじめに」にで述べているように、「本書の主なねらいは、日本にある米軍基地が安保条約第6条の下で、いま、どう動いているかを知るとともに、「日米地位協定」という巣の中に不自然に産みつけられ、政治家の思いつきから、軽はずみにも「思いやり予算」と名づけられた奇妙なかたちの卵を、その生成、肥大の過程にそくして観察検証しながら、日米安保条約にもとづく両国の同盟関係が、いったいどのような財政基盤、経費分担の下で運用されているかを分析していくことにある」。
 第1章で自衛隊と米軍の軍事協力の実態を概観した後、第2章では、在日米軍基地と地域住民の生活との接点で起きていること(PCB、重金属、劣化ウランなどによる基地汚染や全土上空で行われる低空飛行による事故など)の点検により、いかに米軍が日本の国内法に拘束されず、自由自在に日本の陸・空・海を活用しているかの実態が浮き彫りにされる。その「見えない基地」の活用がわれわれの生活にいかに危険な存在であるかがよくわかる。
 そして第3章で在日米軍基地を支えるために、税金(特に「思いやり予算」の名目で)がほとんど米軍のいいなりにエスカレートして投入されている事実が整理されている。この過程の日本政府の、およそ交渉というものに値しないまったくの対米従属性と「国民」に向けての言い訳の終始は、改めて連続して整理されたものを読むとあきれかえるほかない。その結果が、62億円で始まった「思いやり」が20年後に2,700 億円を越えることになっている。金額だけでなく、その使われ方の中味(在日米軍の電力消費量は、鳥取県や福井県全体をはるかにうわまわるという事実だけでも驚き。本当に電力だけ使っているのか?)も検証される。
 先月、「思いやり予算」の根拠となる、「新特別協定」(2000年3月で期限切れとなるものの延長)が、日米防衛委員会で締結された。国会承認が必要となる「特別協定」なので、なんとか国会での審議で問題点が焦点化させられないものか!
(『派兵チェック』 第97号、2000年10月15日) 








《抗議声明》

イスラエルはパレスチナ民衆への虐殺戦争を直ちに停止し、全面撤退せよ!


 9月28日、イスラエル右派リクード党の党首シャロンが、他のリクード党国会議員たち、さらには数百人とも報じられているイスラエル警官の護衛と共に、エルサレム旧市街にあるイスラーム教の聖地「ハラム・アッ=シャリーフ」への「訪問」を強行しました。
 エルサレム旧市街は、現在の中東和平プロセスにおいて最大の争点の一つとされています。そしてシャロンは、1982年のイスラエルによるレバノン侵略とサブラ・シャティーラ両難民キャンプでのパレスチナ人虐殺に直接の責任を負う、当時のイスラエル国防相であり、「殺し屋シャロン」とさえ呼ばれました。こうした人物による「訪問」は、パレスチナ人たちに対する挑発行為以外のなにものでもありません。彼は、「イスラエル国民は、ユダヤの聖地であり国家の一部である場所を訪問する権利がある」と述べたと報じられています。
 これに抗議するパレスチナ人たちとイスラエル警察/軍との衝突から、現在に引き続くイスラエル軍による一方的な戦争=パレスチナ人虐殺が開始されました。イスラエル軍は、戦闘ヘリや対戦車ミサイル、そしてメルカバ戦車さえ投入し、28日からの1週間で殺されたパレスチナ人は約60人、負傷者は1200人以上に達しています。

 シャロンは事前に訪問を行うとの意向を公けに表明していました。そして、それを強行したのは、汚職の疑いで捜査を受けていたネタニヤーフ前首相夫妻を証拠不十分との理由で不起訴とすることを、イスラエル検察が正式に発表した(9月27日)、その翌日でした。
 7月の合州国、キャンプ・デーヴィッドでの中東和平交渉は、具体的な成果を得ることなく終わりました。これを受けてイスラエル国内では首相バラク(労働党)にかわって前首相ネタニヤーフ(リクード党)に対する世論の支持率が高まっていたのです。それゆえ、同党の党首シャロンの「ハラム・アッ=シャリーフ」への「訪問」強行は、この不起訴をも視野に入れながら、党内でのネタニヤーフの復権を牽制し、東エルサレムに対するイスラエルの「主権」を誇示することで自らの人気回復を狙った計画的なものだったのです。
 そして一方、現在のイスラエル軍によるパレスチナ人虐殺戦争の激化は、和平交渉の「混迷」を背景としてのイスラエル国内でのネタニヤーフやシャロン、そしてリクード党全体への支持の高まりに対し、これを非難するための口実として、バラクが意図的に「容認」しているのではないか、とさえ思わざるを得ません。イスラエルという国家の政治家たちは、パレスチナ人たちを挑発し、さらに虐殺し続けることで、その国民からの支持をより多く取り付けようとしているのです。こんなことは決して許されません。

 10月に入ってからの国連安全保障理事会での公式/非公式の議論のなかで、多くの国の代表がイスラエルを非難したにもかかわらず、このイスラエルを擁護しつづける合州国の態度もまた、強く非難されなければなりません。
 もちろん、「当事者に対し、一刻も早い事態の沈静化に向け、最大限の自制をもって対応するよう強く求めたい」(河野外相/10月3日)や、「双方とも挑発と暴力を控えて、一刻も早く事態の鎮静化を図ってほしい」(中川官房長官/10月4日付)などという表明もまた、圧倒的な軍事力によってパレスチナ人たちを虐殺し続けているのがイスラエル軍/国家であるという現実に一言も言及しないという、そのようなレトリックゆえに、虐殺を行い続けているイスラエル軍/国家に与する立場からの発言です。

 以上を踏まえて、私たちは以下を要求します。

 1:イスラエル軍は、パレスチナ人に対する虐殺戦争を直ちに停止せよ。
 2:イスラエル軍は、東エルサレムを含む1967年の軍事占領地全てから撤退せよ。
 3:イスラエルは、パレスチナ民衆の決して譲り渡すことのできない諸権利である「独立・帰還・民族自決」を無条件に承認せよ。

 2000年10月6日

立川自衛隊監視テント村/明治大学駿台文学会/反天皇制運動連絡会V/MSP(プロレタリア連帯運動)/アジア連帯講座/国連・憲法問題研究会/ピース・チェーン・リアクション/派兵チェック編集委員会/戦争協力を拒否し、有事立法に反対する全国Fax通信/沖縄の反基地闘争に連帯し、「有事立法」に反対する実行委員会(新しい反安保実V)[準]