2000.7.24  No.30

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目 次




【議論と論考】

オランダ戦争展拒絶から見えていること(舟越耿一)

天皇と帝国の衰退について(小倉利丸)

「皇太后」ナガコ死亡報道――皇室(「昭和」)の歴史と庶民の歴史の一体化は操作である (天野恵一)

【言葉の重力・無重力】(5)

日の丸、君が代が戦争したわけではない?――加地信行編著『日本は「神の国」ではないのですか』を読む(太田昌国)

「マサコ懐妊報道」を論議する(4)

それでもやっぱりプライバシー論議は必要(桜井大子)

〈民衆の安全保障〉のための運動へ――米兵の少女わいせつ行為と森発言への抗議を! (天野恵一)

【書評】

天野恵一『沖縄経験〈民衆の安全保障〉へ』(国富建治)

伊波洋一著『米軍基地を押しつけられて』(古荘斗糸子)

【再開 その11】

ゴラン高原の自衛隊(森田ケイ)












オランダ戦争展拒絶から見えていること
舟越耿一●長崎大学教員

 いわゆるオランダ戦争展は、正式には「オランダ人、日本人、インドネシア人による日本占領下インドネシアの記憶―個人的証言と全体の印象」という。日蘭交流四〇〇周年記念事業の、オランダ側の公式行事の一環として、一九九九年八月から一一月まで、アムステルダムの国立美術館で開催された。主催はオランダ国立戦争資料館。展示は反響を呼び、日本でも開催したいと打診してきた。ところが、広島市、長崎市、ピースおおさか、千代田区などが断わった。受け入れを決めたのは、福岡県水巻町と大分県臼杵市。以下、長崎から見えている問題点について述べる。
 報道によれば、長崎市は次のような理由で拒絶した。@原爆資料館の設立趣旨になじまない、A資料館は中学校歴史教科書に準拠しているがインドネシアのことは載っていない、B内容の信憑性、記憶の真偽を確かめられない、C戦争の評価にかかわる問題は国の責任範囲であるから、自治体より政府レベルで実施すべきだ。
 さて、これらのどこが問題か。@とCは本稿の中心問題として後で扱う。Aは「子どもだまし」。中学校の教科書に細かなことが全部載っているはずがない。Bは「ないものねだり」。戦争展の正式名称からもわかるように、扱っているのは「記憶」「証言」「印象」なのであって、それらは本来、個人的かつ主観的なものだ。このような文言の積極的な意義はナショナル・ヒストリーを回避していることにある。もっともオランダ側による戦争展は、当のオランダによるインドネシア植民地支配の諸事実が手薄いなどの批判もあり、個人の「記憶」「証言」「印象」も並べ方・集め方によっては責任の所在をあいまいにしたナショナル・ヒストリーになることは言うまでもない。
 さて、問題の@とC。@は、資料館はもともと原爆展示しかしない、Cは、長崎は原爆については語るが戦争の評価にはかかわらないという趣旨。これらは一見すると仕方のない問題であるように思われるかもしれない。
 結論からいこう。世界の人びとは日本への原爆投下を悲しんだかと言えば、そうではない。アジアの人びとや日本軍捕虜となっていた人びとは、「天罰だ」「これで解放される」と喜んだ。アメリカの兵隊たちも「これで戦争終結だ」と喜んだ。原爆投下を人道に反する不法と受けとめた日本人との、この埋めがたい原爆観の相剋。性奴隷や労働奴隷とされていた人びとや捕虜になって虐待されていた人びとに、あなたたちは原爆被害の実態を知らないから喜んだのだと、面と向かっては誰も言えないだろうに、広島・長崎の、いや日本の反核運動は、意識的に戦争責任問題と切り離して核兵器廃絶を主張する。リーダーたちはわかっていてそうする。
 鎌田定夫さんは『長崎平和研究』第九号で永井隆の『長崎の鐘』出版(一九四九年)の経緯に言及し、GHQ謀報課提供の軍事法廷の記録「マニラの悲劇」と抱き合わせであったことを批判して次のように書いている。
 「結果として、永井の原爆体験記から得た強烈な印象は、マニラの虐殺告発記録の強烈さによって相殺、あるいは相対化されることになるだろう。『日本人が人道に対して加えた恐るべき罪科は、日本において五〇年間「皇道」および「大和魂」が教布されてきたことの必然の、かつ避けがたい結果であった。(中略)この無差別な殺傷行為を止め、戦争を終結させるために、アメリカと全世界が原子爆弾を使用せざるを得なかった所以である。』
 これこそ軍事権力による思想文化統制以外の何ものでもないだろう。もちろん、私たちには心からの謝罪と償いが必要であろう。しかし同時に、あの日本降伏間際に加えられた非道な戦略爆撃と原爆投下の残虐、不法をも容認することはできない。問題は日本降伏後、東西冷戦期から現在まで尾を曳いている。」
 次は、これに批判的な視点。一九九七年三月、本島前市長は「広島よ、おごることなかれ」と書いた。そして四面楚歌になった。今も変わらない。しかし同年八月五日の中国新聞は、「おごっているか、被爆地広島」と題する社説で「被爆地の絶対化」があることを認めた。「広島を訪れる人に『被爆地の絶対化』といったものを感じさせるのも否めないようだ。『ヒロシマの心』という言葉がある。『心』は本来、周りの人が感じ取るものなのに、この言葉には『押しつけ』がある。ヒロシマを訴えるには、相手の文化と歴史を知る努力と、教えてもらう姿勢も必要だ。」
 問題は、原爆の絶対化か相対化である。マニラの虐殺と原爆被害が並べられると原爆の意味が相対化されるいう主張が「被爆地の絶対化」を生み出す。「もちろん、日本がやったことには謝罪と補償が必要だ。しかし原爆投下は容認できない」という言い方、このよくある言い方は、平和運動のレベルで戦争責任問題よりも反核を優先する「良心的な」論理である。「良心的」なのは、侵略・加害の告発と責任追及を決して軽視している訳ではないが、被爆地としては反人類的な核兵器の残虐性を優先的に主張せざるをえないという内面のジレンマがそこにあるからだ。
 だがしかし、たとえそこに良心のジレンマがあるにせよ、戦争責任よりも反核を優先する日本の平和運動に、アジアの人びとが共感し連帯してくれるだろうか。アメリカやヨーロッパの反核運動はあるいは何も感じないかもしれない。しかしアジアの人びとは、侵略者・加害者日本がその反省もなしに「平和の使徒」になることを許容するはずがないだろう。上すべりの、エゴイスティックな平和運動だと思われるに違いない。
 だから私は、戦争責任問題と切り離した反核運動はきわめてナショナリスティックな平和運動だと考える。つまり、そうすることによって、日本政府も右翼団体も同席して反核の大合唱ができるからだ。最近では、右翼民族主義者の反核運動への参入が顕著になっており、日本の反核運動は官民あげてのナショナリズム高揚の場に転換しつつあるのではないかとさえ私は考えている。この場面で日米安保=核の傘が追及されないときは一層その色彩は強まり、被害者日本・「唯一の被爆国日本」の大合唱は、戦争責任問題を見事に忘却させる。日本人の戦争の記憶は、広島・長崎の原爆被害に収斂する。
 このような訳で、オランダ戦争展がやれないのは、日本のアジア侵略と未だに清算できない戦争責任問題に触れたくないからだ。そのことによって失うものはきわめて大きい。オランダで原爆展が開催できなくなったのは当然の成り行きだが、日本の反核運動が一方の軸足をナショナリズムに置くように見えるとき、アジアの人びととの連帯は遠のくばかりである。
 私は、昨年の8・6広島の祈念式典の会場周辺で強烈に感じたことがある。それは、どの挨拶も原爆と平和については語りながらも戦争については一切言及しないことの奇妙さだった。つまり原爆が戦争の全景の中で位置づけられていないのだ。どうして原爆投下にまで至ったのかを語らずして原爆の悲惨を語ることの欺瞞。多くの人がそのおかしさに気づかないとすれば、その病幣の深さ。
 この欺瞞と病幣のはじまりは「原爆終戦論」にある。つまり、敗戦に至った一切の責任を原爆のせいにする論法。そのことによって、戦争を開始した天皇の責任も軍部の責任もすべて不問にされ、アジア侵略の過去も原爆によって清算されることになった。これこそ日本の「原爆神話」であり、被爆ナショナリズムもここに始まる。天皇裕仁が「戦争中のことだから、気の毒ではあるがやむを得ない」と語ったことなど皆忘れている。誰も原爆投下に至った責任を問わない、その構図が現在の反核運動にまで引き続いている。
 本論にかえる。オランダ戦争展を拒絶した理由は、原爆の絶対化とその帰結としての侵略・加害の無視及び相対化にある。広島も長崎もまだ世界の共感を得る反核の思想を形成しえていない。反戦を抜きにした反核ではそれは不可能だろう。長崎の一〇市民団体は、オランダ戦争展を受け入れることを求めて、長崎市に申し入れを行ったが、回答はまだない。もう半年以上過ぎた。オランダ戦争展は日蘭戦争原爆展と名称を変えて、なんとか長崎市に参画させようと努力しているが展望はない。これでは一一月に開かれる行政とNGOが連帯した「核兵器廃絶―地球市民集会」も気持ち悪い限りである。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.36、2000.7.11号)











天皇と帝国の衰退について
小倉利丸●富山大学教員

 インターネット上では、けっこう多くの有名人がウエッブのページを持っていたりして、本人が自分で書き込んでいるかどうかは別にして、有名人とファンとの関係はずいぶん変わったと思う。宇多田ヒカルが腰痛でテレビ番組をキャンセルしたとか、しないとかいう話題などは、本人が書き込んだ自分のウェッブのページの情報をスポーツ紙などが後追いしたものだった。村上龍、坂本龍一などもインターネットが好きなことはご承知のとおり。
 さて、じゃー、天皇家もインターネットで情報発信したら受けるだろうか。受けるだろう。マスコミは大喜びで、開かれた皇室がますます開かれ、ますます親しまれることになる、だろう。インターネットの高齢者への普及を加速できるかもしれない。しかし、大方の有名人のウエッブのページ同様、一方通行の情報発信にしかならないから、こうしたインターネットの使い方は、インターネットをある種の簡便なテレビのようにして使うことでしかなく、パーソナルなメディアのような錯覚を与えつつ、むしろインターネットを既存のマスメディアのもつプロパガンダの枠に押さえ込もうとすることにしかならない。
 マスメディアが、国民国家のイメージをつくり出し、国民的なアイデンティティを再生産する重要な媒体であったことをふまえれば、インターネットをこうした役割の新しい主役にしたいという願望がどこの国でもみられ、日本もその例外ではない。天皇の家族をどのような形で「インタラクティブ」なフリをさせつつインターネットに登場させるのか、まあ、その辺は電通あたりが頭の堅い宮内庁の役人と痴話喧嘩でもしながら日夜画策しているにちがいないと思うが、ビル・ゲイツほども国際的な影響力をもつことはできないだろうな。
 しかし、インターネットだけでなく、コンピュータの世界は、もはや天皇のようなものはいらない、という方向でほぼ決まりつつあるのが現状である。それは、天皇、ビル・ゲイツによるマイクロソフト帝国にたちこめつつたる暗雲をみればよくわかることだ。今、ウィンドウズのワードだとかアウトルックだとかで大切な原稿やラブレターを保存している人は、直ちにこのような帝国依存的なコンピュータを棄てた方がよいだろう。今後保存すべきファイルはすべて「テキスト」形式で保存し、帝国の崩壊に備えた方がよいだろう。アップルも右に同じである。
 コンピュータは融通の利かない計算機だが、この計算機を動かすプログラムはかなりアナーキーになっている。昔からじつはアナーキーだったのだが、マイクロソフト帝国の誕生で大方の者が、パソコンを買うと否応なく「ウインドウズ」を強制されることになった。最初からくっついてくるのでこれを使う以外にないのだ。
 コンピュータの世界では、ウインドウズはいわば「憲法」である。文字通りの押し付け憲法。しかし、押し付けだから「改憲」を!といって、もう一つの押し付け憲法を懐から出すこの国の右翼とは違う動きがある。要するにコンピュータの世界に「憲法」はいらない、あらかじめ組み立てられ、内容を改変できないようにしてユーザーに与えられるような「ルール」はいらない、という動きである。*    *    *
 ということで、本紙編集部からの依頼テーマである「改憲」論議とは、ほとんど無縁のような話をしたいと思う。いま述べたように、現在、圧倒的な影響力を持っているのがウインドウズであり、「マイクロソフト帝国」である。いったんこの帝国の住人になることを決めたとたん、マイクロソフトの「法律」は絶対のものとなる。「ああしたい」「こうしたい」の自由は、マイクロソフトがきめた「法律」のなかでしか自由にならない。この法律を勝手に破れば、マシンは動かなくなる。また、意図的に自分の都合にあわせてこのマイクロソフト帝国の法を改竄でもしようものなら、途方もないペナルティが課せられる。
 いままで、プログラムの開発を手がける企業や研究室を別にすれば、一般に、コンピュータの基本ソフトは、ウィンドウズやマックのように、あらかじめ決められた仕組みとして提供されることによって、システムは安定し、この安定したシステムを維持することによって、ユーザーの要求にも応じられると信じられてきた。ウインドウズであれ、マックであれ、基本ソフトのプログラムの中を覗いたり、書き換えることは禁じられている。プログラムは企業秘密であり、システムに不具合があった場合には企業内のプログラマーが対処することになっている。プログラムの中身は、行列のできるラーメン屋の秘伝のスープのような、盗まれてはならないアイデンティティそのものであり、同時に「金の成る木」でもある。
 コンピュータの世界ではこの基本ソフトとはシステムの憲法のようなものであるわけだが、実は、コンピュータの世界でも改憲論争が起き始めているのだ。ウインドウズ98からウインドウズ2000へのバージョンアップのことではない。ウインドウズやマックのような「憲法」はいらないという主張がでてきているのだ。
 「リナックス」という言葉をきいたことがあるだろうか。『日経』などの経済紙などで、マイクロソフト帝国を揺るがすのではないかと(ややおおげさに)話題にされているのが、「憲法」はいらない、という発想にたつといっていいコンピュータの基本ソフト「リナックス」である。じつはリナックスだけでなくフリーBSDなど「ナントカBSD」と呼ばれる別の基本ソフトもリナックスと同様の発想をもっているが、ここではリナックスを念頭において話す。「リナックス」は、マイクロソフトやアップルなど既存の商用の基本ソフトメーカーと根本的に異なるのは、基本ソフトのプログラムをすべて公開し、プログラムを書くことのできる誰もが、自由にプログラムを書き換えることを認めている点だ。リナックスは、世界中のプログラマがボランタリーに協力する体制で開発されているのだが、従来のように、プログラムをその開発者に占有させ、第三者による改変を認めないというのではなく、自由に複製することができ、自由に書き換えることができるが、こうして作成されたプログラムを占有したり、第三者による複製や改変を禁じたりすることを禁じるというルールを作っている。いわば従来の著作権の権利をひっくりかえしたわけだ。こうして自由な議論と不断の改良が可能になった。そのかわりこの基本ソフトを独占して儲ることも難しくなった。
 帝国のビル・ゲイツは、リナックスを目の敵にしていて、中心となる企業や組織のない無責任な開発体制だ、基本ソフトとしての信頼性に欠ける、と批判したが、逆にリナックス陣営からは、ソフトに問題が発見されたときに、一企業のプログラマーにしか改良の権利が認められていないのに比べて、誰でも改良の提案が可能なリナックスの方がずっと柔軟だという反論があり、今でもその優劣は議論の的になっている。
 じつはコンピュータやインターネットの世界では、基本ソフトだけでなく、多くのソフトウェアでも、さらには一般的な文書にまでこうしたリナックスのような考え方が適用され、徐々に市民権を得つつある。唯一絶対のルールをただひとつ押し付けるのでなく、基本的なルールについてさえ複数のオプションを準備して、自由な変化を保証する。自分の書いた文章の自由な改変を保証するケースもでてきている。署名・声明運動での合意形成も、唯一絶対のものがただひとつでなければならない、ということにはならず、さまざまな派生形態を認めることも行われるようになっている。
 ネットワークは「双方向性」と「リアルタイム」が特徴だから、参加者は延々と議論を続けることになりかねない。これは参加者個々人の考え方を一致させるよりもむしろ多様な差異を際立たせることになる場合が多い。そうなったときに、ある特権を持ったものが決めるということよりは、逆に多様性の共存を図ろうとする。約束ごとは固定されて永続性をもつとはいえず、常に再検討に付され、常に改変される余地を残す(もちろんこれはうまくいけば、ということであって、敵対的な関係は常に存在する)。
 ネットワークでの合意形成がこのように、多様性によるきわめて軟弱な構造をもっていることは、一見すると従来のような「法」に代表される断乎とした合意の強制力に比べてなんとも心もとないが、しかし、逆にこの多様性は、矛盾や軋轢をはらみ相互の対立をもたらすかもしれないが、個人の自由度はずっと高くなる可能性もある。そして、こうした合意形成の新しいありかたに慣れてしまうと、法のもつ融通のなさと強制力は、抑圧的でしかないうっとうしい存在になる。
 憲法は、強制的な合意形成の古いモデルの最たるものだ。国家という統治の装置もそうだ。君主制のように儀礼的な権力によって、同意を強制する制度は、マスメディアを介して国家的なアイデンティティを再生産しなければならない二〇世紀前半までの国民国家にとっては、有効な統合機能を果たせたかも知れないが、むしろ現在ではこうした統合機能はますますその機能不全に陥らざるを得ないかも知れない。それは国会やマスコミがつくる世論の内部から来るというよりも、人々がコミュニケーションのなかでとる行動の変化のなかからやってくる。それを国家や天皇という統合の装置の解体へと生かせるのか、逆にIT革命でグローバル化を画策する企業の論理にとりこまれるのか、こうした新たな「改憲」をめぐるステージが今登場しつつあるように思う。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.36、2000.7.11号)










「皇太后」ナガコ死亡報道
皇室(「昭和」)の歴史と庶民の歴史の一体化は操作である
天野恵一●反天皇制運動連絡会

 「皇太后」ナガコの死亡を告げるマスコミ報道は、やはり日本は「天皇を中心とした神の国」である事実を、クッキリと示したといえよう。
 東京タワーの点灯も中止され、競馬などのギャンブルはすべて中止、文部省は学校への弔旗掲揚を求める通達、試合前に球場での黙祷のセレモニーを強制するプロ野球、……他に「自粛」の動きもいろいろあった。そして「神の一族」の神道にもとづく葬儀のセレモニーが続く。
 『噂の真相』(八月号)の「『皇太后逝去報道』の舞台裏事情と宮内庁の相あいも変わらぬ不可解な対応」は、それでも今回のマスコミ報道は、以前の計画と比較すれば、「はるかに小さく地味なものであった」と論じている。確かに、洪水のごとく天皇賛美の映像や記事がたれ流され、自粛が全国に日々拡大したヒロヒト天皇の病気・死をめぐる事態と比較すれば、それは「小さく 地味」なものであったといえよう。
 この記事は、宮内庁がそのように扱う方針を立てたのは、アルツハイマーの彼女を死ぬまで「マスコミや国民の前に一切姿を現わ」せない扱いをしていた結果であると語っている。「新しい時代に切り替えたい」という宮内庁の意思がそうしたのだというわけだ。
 それなりに根拠のある分析である。しかし、私たちは新聞の号外も出たこの死去騒ぎの報道の内容の、あいかわらずのヒドさを、キチンと批判しておかなければならないと思う。
 内容はナガコの人柄賛美一色である。人柄賛美は国家賛美であり、侵略戦争や植民地支配への戦後の無責任の大肯定である。皇族への弔意文の議決に反対してきた共産党まで、国会での決議に賛成したというのだから、共産党もこの「無責任万歳」のセレモニーに加わったわけである。恐ろしい事態である。
 六月十七日。『朝日新聞』には元の編集委員岸田英雄が、彼女の明るさとスマイルが天皇の家族を支えたと論じつつ、こう書いている。
 「白馬にまたがった天皇が神格化されたころ、皇太后もまた『国母陛下』と雲の上にまつりあげられたが、人知れず苦労も多かったようだ。」
 戦中の陛下の「御心痛の様子」をみていたのが一番つらかったというナガコの発言が紹介され、こう続く。「何よりも良子皇太后が人間的に解放されたのは、戦後、象徴天皇制が定着してからだろう。天皇と共に植樹祭や国民体育大会などで沖縄を除く全都道府県を訪れ、『一生ダメだと思っていた外国』(ベルギーのアルベール殿下に)へも、二度旅行した」。
 なんという言いぐさであろう。「国母陛下」として民衆を侵略戦争の地に狩りだし、その戦争の「銃後」の守りに女たちを動員したナガコの戦争責任という問題は、庶民と同様の戦中の「苦労」という物語で整理されることで、消滅してしまっている。そして、戦争が終わることで、庶民とともに「人間的に解放された」というのだ。処刑されるのではと気が気でなく動きまわった天皇ヒロヒト。その時、自分もどうなるかと思いつつ、「陛下のご心痛」を見ていたことは、つらくはなかったのかね、とでも聞いてみたくなるではないか。
 調子のいいエピソードのくみたてで、「人柄」賛美を軸に無責任と偽善にまみれた政治神話がつくりだされているのである。
 ここには、こういう主張もある。
 「戦争中の防空壕(ごう)を兼ねた住まい『御文庫』に湿気が多かったのが影響してひざが悪かったうえ、……」
 湿気がどうしたというのか。「御文庫」というのは、毒ガス対策の装置もついた、当時としては地下につくりだした最大、最強の防空住居のことである。原爆が投下されても、とりあえずは安全ともいわれる天皇・皇后の地下住居のことである。
 庶民は爆弾一発で破壊される防空壕にもぐり、火の海を逃げまどって多くの人々が死んでいった時、戦争での「玉砕」を煽っていた皇后たちは、まったく安全な場所にいたのである。
 庶民は、天皇・皇后などと同じ「昭和の歴史」など生きてはこなかったし、これからも生きないのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.36、2000.7.11号)












《言葉の重力・無重力》(5)

日の丸、君が代が戦争したわけではない?
−−加地信行編著『日本は「神の国」ではないのですか』を読む
太田昌国●民族問題研究家

 「文庫でジャーナリズム、はじめました」と名乗るのは小学館月刊総合文庫である。数年前に刊行が始まったが、私の関心で言えば、徐京植の『子どもの涙』、塩見鮮一郎『浅草弾左衛門』、周恩来『十九歳の東京日記』などに、文庫本としての企画の冴えを感じたが、ふだんはあまり読む意欲が湧かない企画が多い。今月の新聞広告を見て、加地信行編著『日本は「神の国」ではないのですか』を買った。執筆者は、加地のほかに田原総一郎、佐伯彰一、長谷川三千子、ベマ・ギャルボ、大原康男、坂本多加雄、中西輝政、西修、西部邁で、その限りのことなら「産経新聞」や「正論」などですでに読んでいるものが多いから、今さらという感じがするが、内容的にいえば山口昌男の名前があったので、その登場の仕方に関心があった。しかし、どちらかといえば、内容というよりは、その素早い「ジャーナリズム」感覚への興味のほうが優っていたとは言える。
 森喜朗の、いわゆる「神の国」発言があったのは、5月15日に開かれた「神道政治連盟国会議員懇談会結成30周年記念祝賀会」の席上のことである。それから一ヵ月半有余後の7月7日付けの新聞各紙には、この本の大きな広告が載っている(奥付は8月1日となっている)。新聞、週刊誌、月刊誌、単行本、テレビなどを通しての右派ジャーナリズムの動きには、それなりの関心を抱いてきた私だが、この文庫本制作の速度には(私自身は、そのような素早い作業が苦手なだけに余計に)いささか驚いた。内容に先に触れないのは本末転倒であることは自覚しているが、この「速度」は、資金潤沢な右派ジャーナリズムの、今後の展開方向を暗示しているように思える。一定方向をもつ大量の情報を、時を逃さずに、流すことが、世論形成のうえで果たす役割を、十分にわきまえた作業なのだろうという意味において。
 さて、その内容である。以下、本書を卒読しながら考えたことを記しておこうと思う。当日の森喜朗の発言全文を読むと、その会には梅原猛も同席していたことがわかる。梅原猛が神道政治連盟懇談会の祝賀会に列席していて、挨拶をしない(「祝辞」を述べない)ということは考えられない。森の発言もさることながら、私は、梅原のような「学者」がこの種の会合に出て、どんな挨拶をしているのかを知りたく思う。「六〇年安保まではマルクス主義にかなり近かった」(吉本隆明・中沢新一との鼎談『日本人は思想したか』、新潮社、1995年)と自ら語る梅原は、その後「日本研究の外におかれた」沖縄や「国家主義なんて全然関係ない」アイヌ文化への関心を深め、縄文を媒介としてアイヌ・沖縄・日本を結ぶ「日本的なるもの」という歴史的概念の創出に熱心であった。その延長上で展開されてきた梅原理論を思い起こすならば、首相=森の「失言」は、学者=梅原の学問的な粉飾を凝らした「学説」によって、十分に補完されているかもしれないというのは、無理な推測ではない。政治家のときどきの発言・態度を厳しく分析・批判することの大切さを思いつつ、それを時代の「気分」全体の中に位置づけて行なうのでなければ、有名政治家の「失言狩り」に終始し、その背後に広がる全体状況を見失うおそれがあるというのは、私がつねにいだき続けている危惧である。
 野党政治が政府・与党に対して根本的な政策論争を回避し、むしろ政策的にはこれに徹底的に妥協しつつ、後者の指導者の「醜聞」(汚職、異性との「不適切な関係」、失言など)が何らかのはずみで明らかになって、これを叩くことを待ち望むだけだという状況が日本政治・社会のなかに生まれて、久しい。スキャンダルは叩きやすい。当事者の謝罪なり辞職・辞任なりの結果が生まれるなら、カタルシスは得られる。時にそれぞれの「スキャンダル」を追及することは当然としても、そのセンセーショナルな喧騒な中で、本質的な問題が見失われてゆくという感想を私はもつ。森発言に対する関心と同等の度合いで、当日の梅原発言の内容を知りたいという私の思いは、そこから生まれる。それは、森喜朗ひとりの「失言」を追い詰めていけば事足りる、とするのとは違う方向性を切り開きうるからである。
 論者たちの注目すべき論点のひとつは、「天皇を中心とする神の国」なる森の表現は、復古イデオロギーなどではなく、「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」とする憲法の定めを言い換えただけだ、とするものであると思われる。森自身が事後の記者会見で弁明の論拠にしたのがここだったが、これをもっとも強調しているのは坂本である。法律制定などの実際の意思決定は国民を代表した議会がやり、国民の統合の象徴たる天皇が「署名なさる」という行為を媒介としてはじめて法律となるのが日本国のありようであり、この構図を考えると、「象徴」というのはそんなに軽いものではないから「中心」と表現しても国民主権を侵したことにはならず、構わない、と坂本は言う。多くのマスメディアや民主党・社民党・共産党など、もっぱら「戦前の皇国史観への回帰」と捉えて森批判を展開した立場は、こうして「象徴」概念の曖昧さを突かれたときにその弱点を顕にして、太刀打ちが不可能になるだろう。我ー彼をへだつ真の分岐線は、目に見えるところとは別な地点に引かれていることを知ることが必要だと思える。
 ほかには、中西輝政の「論理」が相変わらず突出している。「国旗・国歌」制定に関して、日の丸・君が代は戦争を最も象徴するものとされてきたが、「しかし、よくよく考えてみると、日の丸、君が代が戦争をしたわけではない。戦争は人間がしたのであり、その時代の人間が過ちを犯したのである。日の丸、君が代に罪を負わせるのは全く愚かな話である」などという、噴飯物の一節もある。国民国家のシンボルとしての国旗・国歌が、全体主義国家体制下において、心理戦略の武器としていかに機能したか、という問題意識をすら、この「政治学者」は持たないらしい。驚くべき「水準」の議論が大手を振ってまかり通る現実の異様さが、「慣れ」とともに、異様ではなくなっていく過程にこそ敏感でありたい。トリックスター・山口昌男の論点は、森発言は「時代の気分を表現」しているというものだが、「あまり気にすれば、逆に相手の立場を強くするだけなのではないか」とズラす姿勢にのみ、この文章で一貫して述べてきた意味において小さな共感をもった。
(『派兵チェック』94号、2000年7月15日号)











《「マサコ懐妊報道」を論議する》(4)

それでもやっぱりプライバシー論議は必要
桜井大子
●反天皇制運動連絡会

 論点はすでにいくつか出されているが、皇族のプライバシー問題と「おかわいそう」意識をめぐる論議について少し意見を述べ、論議に加わることにする。
 皇族の「世継ぎ」にまつわる「懐妊の兆候」や「御懐妊」報道。その報道に対して「プライバシー侵犯」という右派メディアからだけとは限らない批判報道。「天皇家にプライバシーもクソもあるものか」を結論とする、「妊娠・出産=私事」が「公務」である制度のおかしさを主張する批判(天野恵一、中嶋啓明)。そして、この批判に対するマスメディアとはまったく違った視点からの批判。すなわち、もともと私たちにとってもセックス・妊娠・出産にプライバシーなどなく、そこにプライバシーがあるかのごとき前提で論議することの持つ落とし穴を指摘する更なる批判(大川由夫)。
 論議の第2回目に出されたこの大川の主張は説得力のあるものであった。彼に続いてさらにいうならば、妊娠や出産のみならず、「家庭」内の「私事」といま呼ばれているものの多くが、実のところ、もともと個人の「私事」としてあったわけではない。「家族」や「家族の営み」が社会から切り放される過程でつくり出されてきた「プライバシー」の歴史というものもある。そもそも、「家族」という単位が社会や国家と対置する形でつくり出されてくる歴史のなかで、国家の側は「プライバシー」を押し出す形で近代家族を形成してきたのだ。そして、いま「私事」と呼ばれるもので管理されていないものを探し出すことは容易ではない。少なくとも私は、その現実を無視するつもりは毛頭ないのだ。
 大川は危惧する。「セックス・妊娠・出産がプライバシーであり私事であることを前提にして議論している限り(略)知らず知らずのうちに、日本の多数派の一員として雅子や徳仁や紀子や文仁たちの『プライバシー』を護る側に私たちも立ってしまうことになるのではないか」と。そして、「『公人中の公人』たる雅子の妊娠・流産はプライバシーかどうか、その報道はどこまで許されるべきか、というような論議に何の意味があるのだろうか」とも。これらの点に関して、前号で北原恵も「同感」の意を示している。
 私にはそうは思えないのだ。大川の主張の多くに対して私は、異論があるどころか論議の前提にならなければならないものであると考える。しかし、私は天皇家にプライバシーがあるか否かは大いに議論すべき問題であると考えるのだ。私たちを「民力」すなわち管理の対象としてしか見ていない国家から、私たちの「私事」(たとえば妊娠や出産)は護られなければならない。そのことへの取り組みはすでに様々な人達によってつくり出されている。そのことと、私たちをそのようにおとしめている制度のトップに座し、一方で私たちの管理のされ方の模範をみせるがごとき、しかも国家の政策の一部としてある天皇家のビヘイビアとその報道のされ方を批判することは、まったく矛盾しない。むしろ私たちが頭をひねるべきことは、大川が危惧する「知らず知らずのうちに」天皇家を気遣い守る側に立たなくてもいいようにすることなのだ。私たちの「私事」と奴等らの「公務」が制度の上で明らかに違うことを伝えていくこと自体は、いまの反天皇制運動の課題の一つであるといっても過言ではないと思う。北原の述べる「私たちは(『私事/公事』の)区別そのものの構造を批判しつつ、マサコの「私/公」の問題を論じなくてはならない」についても、同じことが言えるのではないか。
 しかし、その運動のつくり方が決してうまい具合にいっていないことも事実である。二点目の「おかわいそう」意識をどのように解体するかというテーマも、実はこのことと大きく繋がってくる(六月三日の集会「皇室と人権」で北原が提起)。妊娠・出産によって女の価値が計られる日本社会にあって、マサコの痛みを自分の痛みとして感じる女たちが「おかわいそう」意識に流れるのをどのようにくい止められるか。天皇家にプライバシーがあるなしの論議では太刀打ちできないのではという提起だ。紙面が尽きてしまい、ここでは詳細に述べようもないが、問題は同じところにあると思う。しかし、「天皇家にプライバシーなんかないぞー!」と叫ぶだけでは太刀打ちできないことも事実であろう。おそらくこの課題においても、他の課題との横断的な交流や共闘関係が必要な状況になってきているのだ。この「おかわいそう」問題についてムチをくらうアメを要求するのではない方法で、私たちの主張の通し方を見つけ出さねばなるまい。これはおそらく方法の問題なのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.36、2000.7.11号)









《運動メディアのなかから》

〈民衆の安全保障〉のための運動へ
米兵の少女わいせつ行為と森発言への抗議を!
天野恵一●反天皇制運動連絡会

 6月18日、私たちは「沖縄サミットと民衆の安全保障」シンポを開催(主催は「戦争協力を拒否し、米軍基地の沖縄内移設に反対する実行委」)。3つの分科会の後に、全体会での報告と討論。参加者の中から、内容が論議されないで、「民衆の安全保障」という言葉が一人歩きしている感じがするなどとの声が出たことには、ガックリきた。「安全保障」などという言葉が、私たちの胸にストンと落ちないのはあたりまえだが、そうだからこそ、どうして「国家の」ではないのはもちろん、「人間の」でもなく、「民衆の」なのかを、様々な問題をくぐらせて、これだけ長い論議を積み重ねてきたのではなかったか。このシンポは、そうした作業の一応のゴールとして設定したはずなのに。
 このシンポをステップに、私たちは本番の「〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム」のために沖縄へ向かった。6月29日は名護コースと南部戦跡コースに分かれてのエクスポージャー、30日と1日が国際会議で、2日がオープンの集会(現地沖縄の人々の参加は、ここが一番多かった)。インドネシア、韓国、タイ、台湾、中国、フィジーなど9ヶ国の外国のグループ(個人)が参加し、ピークには百人を超えた。予想外だったのは、沖縄メディア(『琉球新報』と『沖縄タイムス』)の反応である。会議の内容は朝夕刊連続でかなり大きく紹介された。記事の扱いが小さかった『沖縄タイムス』は、すんでから、あらためて大きく紹介してくれた。その、『沖縄タイムス』の6月30日の社説(「変わる安全保障観」)は、沖縄サミットに対抗する集会やシンポジウムが相次いでいることにふれ、このように論じている。
 「安全保障という言葉の意味を、政府による定義づけにまかせるのではなく、市民の側から、市民の立場で、国境を超えた市民共通の利益になるように、定義し直そうという試みが広がっている」。
 「最近、相次いで開かれたシンポジウムで強調されたのは『民衆の安全保障』である。/『人間の安全保障』は、『国家の安全保障』を否定するものではなく、政府も両者を相互補完的にとらえている。/『人間の安全保障』とは一線を画するために、新たに住民サイドから打ち出されたのが『民衆の安全保障』という考え方である。/ことほどさように、安全保障に対する考え方は冷戦後、大きく変わった。/一連のシンポジウムを聞いて痛感したのは、沖縄基地の現状を変更不可能だとみるべきではない、ということである」。
 「広島、長崎の人たちは、被爆体験を人類共通の課題に結びつけ、核廃絶を訴え続けてきた。/ウチナンチューは、特異な戦中・戦後の体験から、どのような理念を編み出し、世界に訴えてきたのか。沖縄サミットを前にして、そのことが私たちに問われているのだと思う。/沖縄社会の基地の過重負担を繰り返し繰り返し言い続けることが大事だ。/それが決して地域の安定を脅かすものではないこと。むしろ逆に、軍事力に頼らない北東アジアの協調的な安全保障の枠組みをつくっていくことが大切なことを、この際、沖縄サミットに向けて、もっと声を大にして言ったほうがいい」。
 これは、私たちの「〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム」だけではなく、6月 24・25日に開かれた「国際女性サミット」なども頭において書かれたものであろう(ここの主催者・参加者が何人も「〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム」に合流している)。
 私たちは、沖縄の歴史体験が集約された、非軍事の安全保障(「軍隊や基地は住民を守らない」という)の主張と行動である〈沖縄経験〉を、私たち「本土(ヤマト)」の人間だけでなく、広くアジアやアメリカの人々も共有することを目指して、この会議を準備してきた。それが、どの程度の成果をあげたのかは、まだ、よくわからない。
 しかし、この文章は、そうした私たちの試みが沖縄社会でかなり広く、沖縄の人々を、それなりに励ますかたちで受け止められたことを、示していると思う。私たちの予想外のところで、この試みは「成功」しているといえよう。
 7月9日の『沖縄タイムス』の社会面の大見出しは「軍隊は人を守らない」である。5月3日未明、家族と就寝中の女子中学生(14歳)に米海兵隊員がわいせつ行為を行った事件への、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の基地ゲート前の抗議集会がレポートされているのである。
 「国際女性サミット」を実現した後に、「〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム」にも参加(発言)していただいた「女たちの会」の共同代表である高里鈴代が、在沖米軍の最高責任者の再発防止に二倍の努力をしたいという発言に「二倍の努力を示すには(沖縄の全基地撤去に向け)軍隊を二分の一にする以外にない」と抗議したと、そこにある。
 沖縄の人々の基地への怒りは、あらたに噴出しつつある。サミットタブーを突き破って、抗議の声は広く深くうねり出している。アメリカの意向に従って、沖縄に基地を押しつけ続け、名護への新たな米軍基地づくりに向けて手段を選ばずという態度である森喜朗首相は、自分の政策の結果うみだされた犯罪を前に「政府がどうこうという話じゃない」などと、信じられない無責任な発言をしている。
 軍隊・基地があれば安全はないのだ。〈民衆の安全保障〉とは単なる理念ではない、行動である。森発言と森首相・政府の沖縄への米軍基地押しつけ(新基地づくり)に抗議する運動へ。
(『派兵チェック』94号、2000年7月15日号)










《書評》

「沖縄経験」に即して「民衆の安全保障」構想を具体化するプロセスの追体験
天野恵一『沖縄経験〈民衆の安全保障〉へ』(社会評論社・二〇〇〇円+税)
国富建治●新時代社

 嵐のように過ぎ去っていった「〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム」(六月二九日〜七月一日、浦添市「うらそえ荘」)のために約一週間滞在した沖縄から帰ってから、あわててこの文章を書いている。
 これまでの「国家・軍隊」を主体とした「安全保障」観を転換し、「国家・軍隊」と闘う民衆自身による「安全」という思想と運動を正面から突き出そうとしたこのフォーラムに、沖縄のメディア(『琉球新報』、『沖縄タイムス』)も関心を示し、多くの紙面を割いた。そこでは、沖縄の反基地闘争の経験と、アジア・太平洋の諸国の運動の経験を共有することによって、より広い文脈の中で、沖縄の人びとの実践と思想を豊富化していこうとするフォーラムの試みが、困難な闘いに直面している沖縄の人びとにとっても次のステップに踏み出すための一つの回路になりうることが、ある程度表現されているのではないか、と私は思っている。
 高良倉吉ら三人の琉球大教授による「沖縄イニシアチブ」の提言は、沖縄戦と戦後の米軍支配、「ヤマト」との歴史的関係に裏付けられた沖縄民衆の「平和意識」を否定し、「日本国の一員」として、安保・米軍基地を積極的に受容することを促すものである。こうした「本土多数派」の安保支持の意識に支えられた「現実主義」にたちむかう論理を沖縄民衆の経験の中から具体化していく上で、軍隊は人びとの安全のためにあるのではないという「民衆の安全保障」の考え方は、沖縄の中でも注目を浴びている。それが沖縄の人びとの経験を自覚化・普遍化していく作業と連なっているからにほかならない。
 『沖縄経験』を主題とした天野の新刊も、この〈民衆の安全保障〉フォーラムの準備過程の中で生み出されたものだ。六月一八日に行われた反安保実「のシンポは「沖縄サミットと民衆の安全保障」をテーマにしたものだったが、分科会の鵜飼哲発言でも、全体会のフロアーからの発言の中でも「民衆の安全保障」という言葉への「なじみにくさ」が指摘された。本書冒頭の書き下ろし「〈非武装国家〉から〈民衆の安全保障〉づくりへ」は、天野をふくめた私たちのこの十年間の運動体験の中から、非武装・非軍事の実現という課題を突き詰め、〈沖縄経験〉を媒介に「民衆の安全保障」という構想を浮上させていくプロセスをかなり具体的・説得的に提出しているのではないか、と思う。
 天野は本書冒頭の書き下ろしを、湾岸戦争の中で多くの人びとが感じた一種の「崩壊感覚」から説き起こしている。それは戦後平和運動の土台を揺るがし、多くの人びとを「軍事による国際貢献」を当然なものと見なす「転向」に駆り立てた。彼は、「加担すべきもののない」世界において、そのある意味での「積極性」を対象化しながら、「非武装国家」化=「非軍事社会」化の理念を明確にしようとした。その中で、一九九五年の米海兵隊員による少女への性暴力事件以来の沖縄の闘いは、決定的な契機となったのである。
 「湾岸戦争の時、加担すべきものなき反戦ということの積極性をこそ主張した私(たち)は、そこで自分たちの反戦行動の原理を『非武装=非軍事』にキチンと捉えるべく、運動を持続した。そして沖縄から大きな反基地・反戦の運動のうねりが突出してきた時、私たちは、この沖縄の反戦の運動に自覚的に連帯(加担)することを目指した」と述べる天野は、さらに「私たちの〈民衆の安全保障〉も、この〈沖縄経験〉をくぐらせることで、より豊かな思想と行動につくりあげていかなければならない」と強調している。
 「沖縄経験」を媒介に、「戦争ができる国家体制づくり」との闘いを国家・社会の非軍事化の実現に向けて進めていくこと――この点で私は、共同の運動経験を十年以上にわたって積み重ねてきた。おそらく過去の革命運動の総括や「革命国家」の軍事力などを中心に、私と天野との間には少なくない不一致点が残されていることは確かであるが、私はこの共同の経験の中で獲得してきた「国家・社会の非軍事化」を実現しようとする論理を大事にしていかなければならないと考えている。違いは実際上の方針に即して論議することによって多くの場合に了解可能であろう。
 「民衆の安全保障」という理念が、たんなる言葉のもてあそびではなく、私たち自身の少なくともここ十年の運動体験に基礎を置いたものであることを理解する上で、冒頭の書き下ろしだけではなく、どこかのミニ・メディアで読んだ記憶のある一連の時事的文章を読み返すことも、大いに役立つ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.36、2000.7.11号)











連帯感の再生のために、そして沖縄を愛し始めた人への沖縄入門書として
伊波洋一著『米軍基地を押しつけられて』〔創史社、2000年、1600円+税〕

古荘斗糸子●うちなんちゅの怒りとともに!三多摩市民の会

 米軍基地を押しつけてきたのは日本とアメリカの政府です。しかし“本土”に住む私たちにこそ、米軍基地を押しつけられてきた沖縄の事実を詳細に知って欲しい、知るべきだ、とこの本は訴えています。短い目次の中にも、訴えたい対象としてでしょう、“本土”ということばが3回出てきます。
 この本は、1995年9月4日から現在までの5年間をレポートしています。その5年前、“本土”に住む私たちの多くは、沖縄で起こった少女へのレイプという衝撃的な犯罪を知り、沖縄のすさまじい怒りと闘いを知り、沖縄に基地を押しつけてきた“本土”の私たちの責任をあらためて感じ、突き動かされて動き出したのでした。そしてその中で、沖縄の問題に取り組むグループがいくつもできました。私たちの会もその一つでした。“本土”、とりわけ東京の西端にある横田基地の近くに住んでいるから考えざるを得ないさまざまなことも、紆余曲折しながら、あと何ができるんだろうと始終悩みながら走ってきた5年間でした。だから、読みながらその場にいた私や他の人たちを思い起こし、読み進むもを止めた箇所が何度もありました。
 普天間基地の返還を口実にして、名護に新しい基地建設を強行しようとする日米両政府の強大な力の前に、崖っぷちまで追い詰められたような、焦燥感に陥りがちな今、もう一度この5年間を整理してみるきっかけを持つことができ、とても勇気づけられました。歴史をあとでまとめたものとは違って、いわば日記のように、その時々に事実をきちんと冷静に書き留めた記録には、誇張も不正確も入る余地はなく、その意味でも貴重な資料として、感動を呼び起こしました。
 私たちの周りには、いろんな思いの人たちがいます。5年前、レイプ事件を基地や安保の存在と切り離して怒った人たち、また4年前、大田前知事が公告縦覧代行を表明した後のチルダイ状態(もう、やれることは無くなってしまったのだろうか? と私に電話をかけてきた高校生もいました)、半年前、稲嶺沖縄県知事に続いて岸本名護市長の受け入れ表明前後のやりきれなさ、無力感を感じたすべての人々とも、ともに沖縄の現状を考え直してみる機会が今、必要です。運動が押されぎみになると、今まで高揚していた時期には考えられもしなかったお互いの思いや意図の違いが目立って見えたり、自ら核分裂をしてしまいそうですが、5年間のそれぞれの場に一緒に居合わせた人々はもちろん、居合わせなかった人々とも、共通の感情、思いを再確認することは、もう一度連帯感、信頼感を再生する助けになると思うからです。
 5年間の沖縄レポートは、「キャッチピース」のニュースレターに連載された伊波洋一さんの「沖縄から」を、8つの問題別に編集し直し、それぞれの5年間が時系列に並べられています。入門書として考えれば、それぞれの問題がはっきり見えて分かりやすいまとめ方だと思います。しかし、多少なりとも沖縄の問題に関わってきたグループ・個人にとっては、問題は自分の中でほとんど全部つながっていて、8つのテーマ毎に5年前から考え直すのは少々しんどい作業でした。せめて3つぐらい、たとえば(1)基地による事故、汚染、実弾演習による日常的な被害、(2)95年のレイプ事件から、代理署名拒否、特措法反対、(3)安保再定義、SACO、名護ヘリポート反対、にまとめてもらう方が、私たちのやってきたことと対比させて考えやすく、わかりやすいと思いました。でも、最後に年表がついているので、それで補うこともできます。
 また、この本はすぐれた沖縄入門書として使えると思いました。「派兵チェック」を読んだこともないけれど、沖縄のことを知り始め、好きになり、気になり始めた若い人たちが私たちの周りに少しずつ現れ始めています。更に、沖縄にあまり関心がなかった人にも十分読みやすくて説得力を持つ本として勧められると思います。
(『派兵チェック』94号、2000年7月15日号)











ゴラン高原の自衛隊(再開 その11)

森田ケイ

 前号の【追記】で、ギリギリのタイミングで6月10日のアサド・シリア大統領の死去というニュースに触れた。
 シリア議会は同日、アサドの二男で34歳というバッシャールの年齢に合わせて、これまで40歳以上とされていた大統領就任規定を34歳以上に引き下げる憲法改正案を可決。また、暫定的に大統領代行となったハッダーム副大統領が、同日付でバッシャールを陸軍大佐から中将に特進させ、軍最高司令官に任命した(例えば毎日新聞ニュース速報・6月12日付)。この2つの「措置」が意味するのは、シリアの政治権力を握るバアス党と軍部がバッシャールの後継を事実上承認した、ということだ。さらに翌 11日、バアス党がバッシャールを後継大統領候補に推薦。13日にはアサドの葬儀が行われ、フランスのシラク大統領(シリアという国家の「昔の大家さん」だ)や合州国オルブライト国務長官ほか、約30ヶ国(約50ヶ国との報道もある)の首脳や閣僚が参列した。日本からは河野洋平外相が参加。バッシャールにとっては、父の葬儀が国際政治への初登場の場となった。続いて同6月27日、シリア議会が彼を「唯一の次期大統領候補に推薦することを全会一致で決めた」(共同通信・6月27日付)。大統領を最終的に選ぶ国民投票は、7月10日に行われるという。
 少なくともシリアの国内政治レベルでは次期バッシャール政権へと向けた動きが順調に進んでいると見ることができるが、逆に、シリア・バアス党が、同国で人口の12 %を占めるだけの少数派イスラム教アラウィー派の出身だったアサドの後継体制を早急に固める必要があったという面もあるだろう。「アサドの実弟でフランスに事実上の国外追放となっているリファート前副大統領ら現体制への不満分子とその支持者ら」によって「激烈な権力闘争が発生する可能性」(産経・6月11日付)も、決してゼロではないからだ。
 一方、例えばクリントン合州国大統領が6月10日、アサド氏の死去に「哀悼」の意を表するとともに「包括的な和平の実現に向けて、シリアと引き続き協力していきたい」と述べた(朝日新聞ニュース速報・6月11日付)ことに象徴されるように、これまでの中東和平プロセスを進め、また支援してきた欧米諸国は、なんとしても次期バッシャール政権の安定と和平交渉の進展を目指すだろう。皮肉なめぐり合わせと言えなくもないが、つまり、次期政権の安定を望むという点においては、「独裁者」と大方のマス・メディアが報じた故アサド政権の背骨=シリア・バアス党と欧米諸国の利益は一致する、のだ。この新政権に対する欧米諸国の今後の対応を注視する必要がある、と考える。
 9月にはイスラエルとパレスチナ暫定自治当局との間での「最終的な地位交渉」の期限が来る。また夏には、イスラエル軍撤退後初めてのレバノン国会議員選挙も予定されている(アサド後の状況でレバノンがどのように動くか、その一つの指標となるだろう)。
*   *   *
 ゴラン高原UNDOFに関連して、外務省のホームページ【注1】によると、河野外相は6月13日のシリア訪問(葬儀参列)の際に「ゴラン高原に展開する国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)に参加している陸上自衛隊員を激励した」という。 ゴラン高原を「訪問した」とは書かれていないし、日程的な制限もあっただろうから、ダマスカス市内で何らかの形で自衛隊員と会った、という程度のことだろう(同市内には、当然にもUNDOF派兵自衛隊の連絡事務所的な場所はあるはずだ。もちろん日本大使館だってある)。そして、この外相のシリア訪問について、同ホームページには「(外相が)我が国がシリアのドナー国として援助を行ってきていることを誇りにしている、シリアがますます立派な国となってほしい旨述べた」(傍点筆者)だの、「大臣が本件葬儀に参列したことにより、中東和平に積極的に取り組むとの姿勢を内外に示すことができた。G8サミット・外相会合では、中東和平は重要なテーマであり、河野大臣がシリアを訪問し現場の雰囲気を直接体験したことは、G8外相会合議長として会議をリードするにあたり大いに役立つものである」という「評価」が掲載されている。「姿勢」だの「雰囲気」だの、およそ国際政治なるもののリアリティは全く感じられない。
 一方、以前から何度も紹介しているUNDOFカナダ軍部隊のホームページ【注2】によると、偶然カナダ部隊は6月10、11日にダマスカスへのツアー(観光旅行)を予定し、10日の日程はこなしたものの、翌11日の日程をキャンセルしている。こうしたカナダ軍のツアーは、シリアあるいはイスラエルの各地へと何度も行われており、部隊員同士の交流と慰労を兼ねたもののようだ。一定の人数の希望者を募って行われているのだろう。6月10日には、ダマスカス旧市街の中にあるガラス細工工房や聖アナニア教会、木製モザイクの工房、スーク(市場)などを回って、基地に帰る前にバスで同市街の脇にあるカシオン山に登ったという。ホームページではツアーの中断について、「彼の悲しい死のゆえに」としか述べられていないが、何か不測の事態が起こったら困るということを当然考えただろう。また、2日間のツアーだが、2日とも「日帰り」で行われる予定だったというのも特徴的だ。
 日本政府・外相河野の能天気極まりない「外交」と、具体的なUNDOFカナダ軍部隊の観光ツアーの行動との落差を、さらには、そうした行動をホームページで公開するカナダ軍と、具体的な行動が全く伝えられなくなっている自衛隊UNDOF派兵部隊との落差を、現在の中東和平プロセスの全体に対する批判的な視野の中で、意識の内に留めておくことは必要だと考える。(7月9日 記)

【注】
1)http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaidan/g_kono
  /syrian00/gh.html
2)http://pk.kos.net/golupdt7.html
(『派兵チェック』94号、2000年7月15日号)