alternative autonomous lane No.3
1998.4.20

カバーページへ

栗原幸夫のホームページへ

目 次

【議論と論考】

平時を呑み込む有事の論理――監視される日常生活(小倉利丸)

新ガイドライン状況と中東/湾岸危機――「当事国」としての日本と「周辺事態」(岡田剛士)

国民総背番号制は何を狙っているのか?(宮崎俊郎)

多数多様体的な反天皇制の流れを!(杉村昌昭)

【コラム・表現のBattlefield】

暴力と表現を支配する権力者たち――平野恭余子著『天皇と接吻』(桜井大子)

【資料】

日本「自由主義史観」の正体(抜粋)(ギャバン・マコーマック)


平時を呑み込む有事の論理
監視される日常生活
小倉利丸●富山大学教員

 戦後の日本は、自衛隊をある種の例外的な軍事組織とみなして、「平和」のための法、政治、経済、社会体制を前面に打ち出してきた。東西冷戦のなかで、極東の東西対立に巻き込まれながらも、国内的には軍事的な制度や戦時総動員体制のような強制的な翼賛体制が表面化しなかったのは、憲法九条の戦争放棄条項による戦力保持の禁止がもたらした城内平和体制の結果であった。言うまでもなく、この代償を一手に担ったのは沖縄であり、植民地支配から解放されたアジア諸国は、今度は経済的な搾取の対象として市場を媒介とした従属を被ることになった。
 戦後半世紀の日本の日常生活はこうして一見すると戦争の体制とは一線を画した「平和」の領域とみなされることになったわけだが、これは極めて特異な体制でもあった。というのも、近代国家が大衆民主主義、あるいは国民主権の制度を採用するということは、同時に、主権者である「国民」が国家の軍事的機能に関しても「平等」にその義務を負うということを意味しているからだ。
 すべての「国民」を兵士として動員できる体制、これが実は国民主権に基づく民主主義国家が一般に内包している制度的理念である。近代国家の枠組も、その理念としての平等や民主主義もこの意味で決して手放しで賛美できるものではないのだ。むしろ近代国家という枠組そのものを根底から問い直すことがなければ、この平等と民主主義にはらまれている総力戦の罠から逃れることはできない。
 よく知られているように、軍事技術は、同時に民生用の技術に転用されることによって、資本主義の市場経済を支えてきた。それは、マイクロエレクトロニクスやコンピュータのような製品の技術にかぎったことではない。今私たちがごく当たり前に思っている製品の規格の標準化(異なるメーカーの製品であっても互換性があるということ)は、ネジ一本にたるまで徹底しているが、これも軍需生産の展開にともなって普及してきたものだ。また、労働者の労働意欲の開発などもまた戦場での兵士の士気高揚研究の転用だった。昨日まで人を殺したこともない市民を殺人機械にいかに効率よく転換できるか、戦場の異常な環境のなかでパニックに陥らない組織をささえるメンタリティの確保のための技術は工場の労働力の士気高揚に転用された。軍事・政治の技術と民生技術の境界は便宜的なものにすぎない。
 市民生活の秩序もまた、こうした軍事・政治の技術と無関係ではない。交通管制システム(Nシステムはそのもっとも顕著な例だが)、防災組織、大都市の地下鉄網から住民基本台帳の電算化、人口管理のための戸籍制度にいたるまで、人々を労働力として管理するシステムは、有事においては同時に軍事的な総動員体制のための装置に転用できる。学校教育は、もっとも見えやすい例だろう。労働力再生産のための装置であると同時に、ナショナルアイデンティティのためのイデオロギー装置(日の丸・君が代を強制したり皇室行事や国家行事に動員したり、集団行動の訓練をすることは、読み書きテクニックの習得とは何の関係もない)でもあるわけだから、平時の体制と有事の体制とは表裏一体である。
 刑事犯罪のための制度もまた、例外ではない。いわゆる民主主義体制をとり、思想信条の自由や政治的権利の自由、結社の自由などが法的に保証されている諸国では、公然と政治的な理由によって 反体制運動を弾圧することができない。だから、運動を一端犯罪化して、刑法の枠組みのなかに組み込んで摘発するという方法がとられることになる。「運動の犯罪化」とよばれるこの手法は、政治的な弾圧や権力による人権侵害を隠ぺいし、人々の政治的権利行使や異議申し立ての行為を、政治行為ではなく、刑法上の違法行為として抑圧することになる。
 今国会に上程されている組対法は、この運動の犯罪化を、さらに新たな段階に推し進めることになった。すでに諸外国で立法化されている組織犯罪対策のための諸法は、マフィアなどの文字通りの組織犯罪だけでなく政治的な組織をもテロリスト組織と呼んで犯罪化することを共通の特徴としている。また、盗聴法は、組織犯罪に限らず、個人レベルの行動についても適用され、従来は権力によるものだとしても非合法行為だった盗聴捜査を合法化し、将来の「犯罪」を事前に監視できる法的な強制力を捜査当局に保証している。
 しかも、この盗聴法は、もしこれが成立してしまうと、さまざまな波紋を及ぼすことになるだろう。通信という離れた距離の間のコミュニケーションを盗聴できるとする規定は、面と向かって行われる会話などの盗聴行為に拡大されるだろうし、さらには音声の盗聴が許されるのであれば、さらにはビデオによる盗視をも合法化するだろう。すでにこうした方向はドイツなどで現実のものになっている。更に、盗聴法をふまえて、暗号使用の法規制を警察庁は射程に入れはじめている。こうなると、私たちのコミュニケーションの大半は完全に権力の前で丸裸になってしまう。室内には盗聴・盗視装置が、屋外には監視衛星のカメラが、という一昔前であればSFの世界での話が今ほとんど現実のものになりつつある。
 こうしたなかで、有事体制とは、もはや平時の体制と区別をつけることなどできない。皮肉なことに、憲法九条は、こうした平時にくみこまれた有事体制を推進する基本的な枠組を用意してしまった。すべてが平和憲法のもとで、平和な市民生活のために、という大義名分によって権力による市民的な権利の抑制・弾圧を合法化してきた。九条幻想を撃つ観点が今、必要になっているのかもしれない。(『派兵チェック』67号、1998.4.15)

新ガイドライン状況と中東/湾岸危機
「当事国」としての日本と「周辺事態」

岡田剛士●パレスチナ行動委員会

 二月二三日、アナン国連事務総長とアジズ・イラク副首相が「了解覚書」に署名。これによって今年一月以降の一連の「第二の湾岸危機」はとりあえずの結末をみた。しかし基本的な危機の構図に変化はない。
 今回の「危機」のさなかの二月一六日、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ暫定自治地域内で放送されていた九つのTV・ラジオ局を暫定自治当局が封鎖した。アラファート体制が、被占領パレスチナ全域で高まりつつあった「イラク支持」=「反米・反イスラエル」という民衆の声を封殺しようとしたのだ。
 これは単なるエピソードという域を越えて、一九九一年の湾岸戦争とそれ以降の「中東和平プロセス」が生み出してきた「パレスチナ人がパレスチナ人を支配する」という「新しい中東/パレスチナ状況」を明確に示していると考える。逆の言い方をすれば、パレスチナ人たちの闘いとその結集軸を無力化し、その問題=歴史的な大義を「地域紛争」という枠に切り縮める中から、今に至る中東和平プロセスが開始されてきたのだ。
 この和平プロセスの基本的な枠組みの一つは「土地と和平の交換」であり、もう一つは「中東地域経済開発計画」だが、この二つともが、イスラエルの相変わらずの強行姿勢と合州国の後ろ盾、そしてこれに反発する中東諸国という「対立」構造の中で頓挫しつつある。イスラエルによる東エルサレムの併合へ向けた動きの加速化や入植地建設は「土地と和平の交換」を絵空事とした。また「経済開発計画」にしても、その目玉たる「中東・北アフリカ経済協力開発銀行」設立の目処すら立っていない。合州国はクウェイト以外に基地使用の同意を得ることができず、結局は振り上げた拳を自ら降ろすしかなかった。三月一七日にイスラーム諸国会議機構(OIC)外相会議は対イスラエル関係の見直しを求める共同声明を発表している。
 こうした状況の一方で、日本政府の中東への関与は強まる一方だ。二月一三日、リチャードソン米国連大使との会談で橋本首相は「武力行使支持」を表明。一方、同月二二日、山崎拓・自民党政調会長は「米軍の武力行使で難民や死人が出たら人道上の支援を」と述べた。国連安保理では日本とイギリスが共同提案したイラク警告決議が採択(三月二日・決議一一五四号)。小渕外務大臣は「日英共同提案によるものであり、内容的にも極めてバランスのとれたものとなっている。……努力が結実したことは極めて喜ばしい」などと三月三日の談話で述べた。
 さらに村岡兼造官房長官が三月一六日、「イラクの八カ所の大統領関連施設に対する国連査察に同行する日本人外交官として、蒔田恭雄イラク臨時代理大使と上村司サウジアラビア大使館参事官の二人を選んだことを明らかにした」(朝日新聞・三月一七日付)。二月二三日の「了解覚書」に基づく特別査察チームへの参加だ。
 コーエン米国防長官が新ガイドラインに基づく共同作戦計画(BPC)の発足決定の翌日(一月二一日)、米海軍横須賀基地を訪れ空母インディペンデンスの艦上で整列した兵士を前に「重要な任務で中東に向かう。……同盟国を守るため、アメリカの力を見せつけなければならない」と述べたこと、そして同空母は今もペルシャ湾岸で実際に展開していること、ゴラン高原UNDOFへの自衛隊派兵の継続といわゆるPKO協力法の「改正」案の国会上程なども、現在の「新ガイドライン」状況の中での動きとして押さえておかなければならない。
 イスラエルによる軍事占領という歴史的/根本的な問題を「脇に置いた」ままでの中東和平プロセスは、しかしパレスチナ人たちが望み続けてきたような「公正な和平」を中東地域にもたらすものでは決してない。その矛盾から結果するのが更なる軍事的対立であることは、この間の合州国の対イラク政策からも明らかだ。その合州国に連動/追従しつつ、一方でそれなりに自立的な政治的、経済的、そして軍事的な日本国家の中東への関与は、日本の社会全体の戦争国家化を必然的に要請するだろう。「地理的な概念ではない」とされる「周辺事態」の現実が、「今・ここ」の中東には明確に存在する。
(〈沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会〉機関誌『向い風・追い風』1998年4月2日号より)

国民総背番号制は何を狙っているのか?

宮崎俊郎●戸籍と天皇制研究会

 毎日のように民間機関からの個人情報の流出事件がマスコミを賑わせている。その際「プライバシーを守れ」と声高に叫ばれる。以前からこの「プライバシーを守れ」というスローガンに違和感を感じ続けてきた。私も原告として係わっているが、天皇の図像をモチーフとした大浦作品の閲覧禁止・売却をめぐって争われている富山県立近代美術館の訴訟では、被告の富山県は「作品そのものが天皇のプライバシー侵害の恐れがある」と主張している。ここまで来るとプライバシーという概念とは一体何なのかと問わざるをえない。
 同じ富山県立近代美術館訴訟で前回行われた原告サイドの本人尋問に立った九州大学の横田耕一氏は、「プライバシーとは権力に対して存在する概念であって権力者にプライバシーは適用されない」と明快に言い切った。ところが、現実の社会関係の中ではプライバシーという概念は、多くの場合権力との対抗関係において使われていない。「私の他者に知られたくない情報」が知らないうちに他者に知られている場合、プライバシー侵害であると通常規定される。
 しかし、水平的な人間関係におけるプライバシーの存在は、差別構造を隠蔽していくことにつながりかねない。つまり、その情報を明らかにすることによって差別される恐れがあるからこそ、多くの人はその情報を隠したがる。私たちはそういう意味でのプライバシーのいらない社会を目指しているとすれば、「プライバシーを守れ」というスローガンには違和感をどうしても感じてしまう。
 冒頭プライバシーの問題に触れたのは、今国会に上程されている住民基本台帳法の改「正」案に対する運動サイドの問題を考えていく際にどうしても避けて通れないと感じているからである。
 今回の法改「正」の眼目は、全「国民」に十ケタの統一番号を付番する住民票コードと全国共通様式で「希望者」に市町村が発行する住民基本台帳カードの導入である。
 まず、住民票コードがこれまで構想されてきたあらゆる国民総背番号制の中で最も網羅的なものであることは言を俟たない。国や自治体は個人に関する膨大なデータベースを保有しているが、現在は対象業務ごとに独立している。住民票コードが付番されるとそれらを統一的に管理することが技術的にも可能となってくる。自治省はこの住民票コードが私たちの危惧するような国民総背番号制にあたらないことを次のような点から強調しようと試みている。(1)住民票コードを保有し、管理する全国センターは国の機関ではなく、自治大臣が指定する指定情報処理機関であること(2)全国センターにおいて保有するのは、住民票コードと氏名、住所、性別、生年月日の四情報のみであること(3)省庁の利用については対象業務を法律で別表として列挙するC民間部門の利用を禁止する。自治省の導入の大義名分には、住民サービスの向上があり、その筆頭に住民票の広域公布が挙げられているが、全国センターで保有する四情報だけでは当然のことながら広域公布できるわけがない。市町村---都道府県---全国センターというラインとは別に市町村をネットワークするシステムがなければ住民票の広域公布は成立しないのだ。とすれば、わざわざ統一的な番号を付番しなくとも今回自治省が挙げている住民サービスには十分応えられるはずである。また、省庁の利用については別表方式で法律に明記することになっているが、都道府県や市町村の利用対象業務については条例で定めればよいことになっており、野放しの状態である。現在国の情報公開法が検討されているが、全国センターは国の機関でないがゆえに情報公開の対象外になってしまう。全国センターの実態に関する情報はブラックボックス化してしまうのである。
 ざっと考えられるだけでも様々な問題点が浮かび上がってくる。そのうえ、計算根拠はわからないが、住民基本台帳ネットワークの年間経費は二〇〇億円で、住民の負担軽減が二七〇億円、国・地方の効果が二四〇億円なので、十分ペイするというのが自治省の試算である。朝日新聞の論壇でも論じられていたが、当然これだけの経費を注ぎ込むとしたら多目的利用が推進されないと割に合わないという主張が大手を振って罷り通っていきそうである。
 そもそも、国民総背番号制については七〇年代から手をかえ品をかえ導入が画策されてきた。九〇年代には、社会保険庁による基礎年金番号、国税庁による納税者番号、そして自治省による住民票コードと華々しく登場し、今回の住民票コードでその争いに一気に決着をつけようというのが自治省の思惑である。住民票コードの出生から死亡までの網羅性を鑑みると、他のシステムの番号を将来的には統合していく可能性が高く、納税者番号として利用したいという意向を自治省は持っているとも言われている。
 もうひとつの大きな問題は住民基本台帳カードの発行である。発行主体は市町村であり、「希望者」に発行することになっている。しかし、このカードには八〇〇〇文字程度の情報を書き込むことができ、先述の四情報のほかに、健康診断・診療情報の記録、家族を含む血液型・病歴、緊急時の連絡先、図書館の貸出記録など多様な情報を記録することが可能となる。そうすると、様々な行政サービスを効率的に享受するにはこのカードが不可欠だということになり、カードを拒否する人間が疎外されるようになるだろう。その状態から「国民登録証」へは紙一重である。
 私たちは外国人登録証の現在と闘いの歴史を見てきている。外国人登録という名の下に行われているのは、同化と排除であり、徹底した治安管理である。「国民登録証」はますます日本「国民」を固定化すると同時に、「国民」一人一人を緻密に管理していく。「国民登録証」不携帯で逮捕される時代はそう遠い未来のことではないのかもしれない。

 さて、最後にもう一度冒頭の論議に戻らねばならない。今回の住民基本台帳法による国民総背番号制の最大の狙いは、これまで見てきたように「国民」支配の緻密化と効率化にあり、新ガイドライン体制・組織的犯罪対策法等の有事立法・治安立法と同じ地平に位置している。プライバシーという概念を再度権力に対する対抗的概念として読み直すことを通じて、この問題に関心を寄せている人々の相互理解を深化させていかない限り、反対運動の広がりを獲得することは困難だと私は思う。(『反天皇制運動じゃ〜なる』9号、1998.4.15)

多数多様体的な反天皇制の流れを!
貝原イラストの掲載拒否問題をめぐって

杉村昌昭●龍谷大学教員

 貝原さんには悪いけれども、このたび『週刊金曜日』に掲載を拒否された天皇(制)批判のイラストはそんなにすぐれたものではないと思います。なんか、いまの状況にフィットする(毒々しくであれ、軽々しくであれ、激烈にであれ、どこか見たとたんにピンとくるような)といった感じに欠けているわけです。もっとも、小生、怠慢にして、天野さん書いた文章の方を読んでいないので、その「文」とのフィットの仕方は検証していないのですが、いずれにしろ、かりに天野さんの文章とはうまく接合しているとしても、イラストとしての今日的自立性には欠けているのではないでしょうか。
 もともと「文」なしの自立的イラストとして描いたわけではないのかもしれませんが、やはりイラストに対しては(パロディー的なものならなおのこと)イラストとしての一種の自立的完結性を私などは求めたくなるのです。いや、いや、貝原さんのこのイラストにはむしろ自立的完結性は十分あるのですが、いかんせん今日的インパクトが弱いのです。
 図柄や記号性(相撲にしても、軍旗にしても、ナチスのしるしにしても)がいかにも「古典的」といいましょうか、なんか古くさいわけです。そして、このイラストの掲載を拒否した本多勝一氏が恐れたのは、おそらくこの「古くささ」なのではないでしょうか。なんといっても、天皇を「侮辱した」などといって、人を襲うような右翼は古くさい人たちにきまっているわけですから。本多さんはそう正直にいったらよかったのに、細々と反対の理由をこねあげようとするものだから、話がこじれて非生産的になってしまったのではないでしょうか。あるいは、本多さんも古い人なものだから、このイラストの「古さ」に衝撃を受けて、かつて右翼に脅されたトラウマが蘇ってきたのかもしれません。
 しかし、これだけいってすませてしまうには、少しもったいない出来事ではあると思いますので、反天皇制の運動の未来にむけての視座から若干の私見をつけくわえてみることにします。
 ここに現れた天野さんや貝原さんたちと本多さんとの分岐は、おそらくパロディーの理解の仕方の問題ではなくて、本質的には天皇制に反対する仕方、あるいは天皇制に対するスタンスのとり方の違いの問題ではないかと愚考します。
 といって、両者は、一方は右翼への「挑発」(貝原さんや天野さんはそう考えないかもしれませんが、右翼はそう受け取ることが可能であるという意味で)、他方は右翼への「警戒」(これは明瞭です)というかたちで、ともに右翼(ただし「想像上」の)への「配慮」を軸にして逆説的に接合しているともいえます。
 しかし、反天皇制運動の立場から本当に「配慮」しなければならないのは、現在の一般的な「市民」(これも「想像上」のそれといわざるをえないのかもしれませんが)の天皇制に対する考え方、そのスタンス、その感情といったものの多様なあり方ではないでしょうか。そこのところを、もう少し深く掘り下げていったら、貝原さんのイラストはもっとヴィヴィッドな力で見る者を引きつける図柄になったでしょうし、また本多さんにしても、あんなに力んでいてみっともない言い訳には陥らなかったように思われます。
 こういうと、貝原さんや天野さんは、「本多みたいなのが一般市民の典型なんだ」と反駁するかもしれませんが、そういってはミもフタもありません。本多さんもふくめて、「一般市民」にはいろいろに異なった人々がいて、天皇制に対しても、表だってはあれこれいったりやったりしないまでも、さまざまな「想い」を潜在させている人がたくさんいるはずなのです。そうした人々の多様な「想い」をありのままにひっぱり出しながら、それを天皇制反対の流れに結びつけていく(ただし、反対という点では共通しながら、その表現の仕方は多数多様に異なっている)という努力を運動はすべきではないかと思われます。そして、このような運動のあり方は、いつでも、どこでも、だれでも、どんな仕方ででも、自発的に可能なものとして追求されねばなりません。
 天野さんも貝原さんも本多さんも、なにか天皇(制)を「特別扱い」しすぎなような気がします。天皇(制)はたしかにきわめて「特別な存在」だと私も思いますが、皇族を「特別扱い」しすぎることが、かえって、反天皇制運動にとってネックになっている面もあるのではないかと、最近の「市民意識」の水準から推察する今日この頃です。(『反天皇制運動じゃ〜なる』9号、1998.4.15)

暴力と表現を支配する権力者たち

平野恭余子著『天皇と接吻』(草思社)

 おもしろい本が出版された。平野恭余子著『天皇と接吻』(草思社)だ。タイトルもなかなかに刺激的である。もちろんこれは、天皇と接吻しようなどという気持ちの悪い話ではない。敗戦から7年間続いたGHQ(連合軍)による日本占領期の映画検閲の検証なのだ。
 本書は、著者がニューヨーク大学大学院在学中、「米国を中心とする連合軍が日本占領中に実施した、日本映画に関する検閲政策」をテーマに、約7〜8年の研究期間を費やしてまとめられた博士論文の日本語版である。400ページにも及ぶ詳細な調査とその分析からなる本書は、映画人と占領軍、あるいは映画会社との攻防や、その背景にある政治的なファクターを関連させながらその時代の一端を見ていくというものである。長期にわたる調査・研究がまとめられた本書のうまみは、何といっても一次資料の豊富さだ。著者平野が直接とったインタビューも含め、それらの資料の引用や紹介だけでも私たちは多くのことを確認することができる。
 占領期の活字における検閲は有名な話だが、映画においても、占領軍が組織したCIE(民間情報教育局)とCDD(民間検閲支隊)からによる二重検閲が存在したという事実。今更ながらのようだが、この事実の裏舞台を垣間みるというだけでもかなり興味をそそられる話である。圧倒的な軍事力で占領し、そしてその占領政策を円滑に進めるために考えられた一つの方法が、この検閲なのだ。
 著者平野は、戦時中、日本の戦争映画を分析していた米陸軍省戦略事務局調査分析課の報告が、「(日本映画について)<国家に管理されたプロパガンダの道具としての>効果がひじょうに高いとの結論にいたっている」と紹介している。また、調査対象とされた日本映画を見た、当時ハリウッドで働いていた監督たちが「優れて効果的であり、米国でそれと同じレベルの作品が作れるかどうかは疑問である、と全員が述べている」ことを紹介し、米軍のプロパガンダ映画の有名な監督キャプラの発言も次のように引用している。「(キャプラは)佐藤武が1938年に監督した『チョコレートと兵隊』という映画を評して、次のように述べた。『このような映画にわれわれは勝てない。こんな映画はわが国では10年に一本作られるか作られないかであろう。大体、役者がいない』」と。
 これらの言葉は、日本の戦時中の映画が戦意高揚のためにいかに尽力していたかを示すものであり、また、敗戦後の占領政策を裏付けるものでもあったのだ。これら日本映画の「効果」を知っていた占領軍(米軍)は、「映画を通じて日本の民主化をはかることの可能性が大きいと確信」し、占領期間中、外国からの輸入映画も含め、検閲体制を続けることになるのだ。
 7年間続いたGHQによる検閲に対する映画人たちの言動は、その善し悪しの判断は横におくとして、かなり興味深いものがある。
 たとえば、反戦映画としても知られる『暁の脱走』。この作品は、最終的に7回に及ぶ脚本の書き直しが命じられ、残された脚本と検閲側の書類は膨大な量だという。 ヒロインを「慰安婦」から「慰安歌手」に、「実際の戦闘の場面」を疲労困憊した兵士の映像に変え、細かいところではヒロインの名前を一転二転、台詞も加筆と削除を繰り返し、約10カ月後の第8稿目にして、やっと制作の段階に一歩踏み出すことができている。原作の田村泰次郎著『春婦伝』、映画製作者・田中友幸、監督・谷口千吉、そしてGHQの合作ともいうべき作品が、現在私たちが見れる『暁の脱走』なのだ。
 これだけの書き直し、「不許可」の連発にもめげず、妥協と、そして譲れない何点かをめぐって執拗にやりとりを繰り返す映画人の姿が浮き上がってくる。その過程で、たとえば検閲官のコメントに対して「なるほど筋が通っていると思った」との監督の感想が出てきたり、「占領軍の検閲よりも、戦争中の日本政府による検閲に対する不満や怒りの方がはるかに強かった」様子が紹介される。
 執拗に民主化を押しつける占領軍。軍国主義や不平等、「非民主的」の範疇に入るものはすべて押しつけられいたといっても過言ではなかった戦時下に比べれば、占領軍の政策は検閲も含め、受け入れやすいもの、むしろ学ぶべきものとして受け取られただろうことは容易に想像がつく。しかし、その民主主義を根付かせる一つの題材としての「接吻」シーンの奨励と、それに戸惑う映画人たちの紹介などは、何だか滑稽でさえある。そしてその滑稽さは、占領軍にかしずくように、何とか応えようとオロオロしている日本の映画人の姿にみるのである。
 民主主義を奨励する映画をつくる。強制とはいえ悪くはない。しかし、敗戦直後の今、「接吻」シーンではなく、もっと大事なことはあるのではないか。と、このように考えた映画人はいなかったのだろうか。仮にいたとしよう。しかし、その映画は製作できなかったのだ。いかに民主主義をとなえようと、それが占領というものなのだ。占領軍が「よし」とはんこを押さない限り「よし」にはならない。
 本書で紹介される亀井文夫監督の『日本の悲劇』がその例であろう。彼自身は、戦前は反戦思想の持ち主として治安維持法違反で逮捕、作った映画は上映禁止をくらうという経歴の持ち主だ。そして、占領下においてはまたしても上映禁止、およびフィルム没収。作品を見ているわけではないので内容的なコメントは入れられないが、しかし、内容の評価はこの際どうでもよいのだ。軍国主義国家の下でバッテンをつけられ、民主主義国家に変わりましたといってやはり占領軍にバッテンをくらう。彼は一貫してその時に描きたい映画を作っただけなのだ。そして、それを許さない全く違う二つの支配体制があったということなのだ。占領下での没収のとき、一本のフィルムが隠しおかれた。映画製作関係者の徳光嘉雄らしい。「日本映画新社に残っているたプリントは私が隠したものだ。……危険を承知で隠した」と述べていることを、著者は、同じく制作関係者渡辺健策へのインタビューで聞き出している。あっぱれ。これで後世の私たちも観ることができるというものだ。日本においても、このような"battle"が展開されていたのだ。
 一国を支配するとは、大義名分が何であれ支配者側の論理ですべてを強制的に動かすことである。日本のGHQ支配下の「民主化」もそのひとつであり、後に現れた「反共政策」も次元は同じなのだ。本書にも出てくる組合を奨励し、組合をつぶしていった政策の転換も、「占領支配」という次元からみれば、何ら矛盾する話ではないのだ。支配者側にとって有利か不利か。最終的にはその論理で動くのだ。そして、その政策の実行部隊の一つに映画という「現場」が選ばれたのだ。
 ロシア・アバンギャルドが示した芸術の持つ力。それは、ロシア革命期前後、権力者のためにしか存在しなかった芸術を、民衆の、そして民衆の解放のための表現として作り変え、人をつき動かすほどの大きな力を発揮した。そして、それに学んだナチス・ヒトラーの芸術やメディアを駆使したプロパガンダ・文化政策。これは「表現の"battlefield"」をめぐる歴史の典型的なサンプルであるのだ。そして、日本における戦時下、およびGHQ占領下における映画検閲だって、このサンプルを彷彿させる。要するに、支配形態の典型の一つとして暴力と文化・芸術を制するという「お徳用セット」があるのだ。
 体制批判のために生み出された芸術たちをも、すぐさま権力者たちは自らの道具として使い始める。権力の側は権力者であるがゆえに、その影響力を国家レベまで押し拡げるほどの時間と金、人を動かす力をもってる。いわば国策としての芸術が再登場するのだ。そして、検閲を通した表現・言論の統制。メディア媒体の体制内化。これは歴史上のはなしではなく、現在進行形の問題でもあるのだ。 
 文化を制して人世を制す、かぁ。なんぞ新しい表現のあり方を……と模索すること自体は重要このうえないのだが、まずはせっかく発したメッセージがかき消されてしまうという最悪の状態をどのように阻止していくのか。
 これこそは、本当に基本的な"battle"なのかもしれない。

《資料》

日本「自由主義史観」の正体(抜粋)
 
 ギャバン・マコーマック(Gavan McCormack)
 
●オーストラリア国立大学太平洋学研究学部  
『創作と批評』(韓国語)、97年冬号
(原題:"The Japanese Movement to 'Correct' History")

             
 

(前文省略)
1.「自由主義的歴史記述」と「正しい歴史」

  半世紀前に終わった戦争に対する責任問題が、その戦争の記憶が消えつつある現在、逆に日本では次第に切迫した問題になりつつある。この問題から生じた社会的・政治的亀裂は深まりつつあり、その国際的な波及が益々深刻になっているためである。
 1990年代初め、日本の植民地主義・侵略による犠牲者の側から、日本の謝罪と補償を要求する訴訟が東京の裁判所に数十件なされている。訴えた人は、従軍「慰安婦」、南京などの大虐殺の犠牲者たち、戦時徴用から生きて帰った人たち、そして日本が中国で使用した生物学的・化学的攻撃の犠牲者およびその家族たちである。中でも一番むずかしいのは「慰安婦」問題であろう。
 ジュネーブに本部をおく国際法律家委員会は1994年、「慰安婦」報告書にて、幼い少女たちを含む多数の女性たちが戦時中、日本の軍事施設に監禁されたのみならず、殴打や拷問を受け、繰り返し強姦されたと指摘した。
 1996年2月、国連の人権委員会は「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、この女性たちに日本がおかした行為を「反人道的犯罪」と断定した。この委員会は、日本が犠牲者に補償すること、公訴時効に関係なく責任者を処罰すること、さらに日本は教育課程にこの歴史的事実を含めることなどを勧告(クマラスワミ勧告、半月城注)した。
 ソウルやマニラ、ジャカルタなど、過去「大東亜共栄圏」に属した多くの都市で、憤慨した犠牲者がぞくぞくと立ち上がり、50年前に彼女たちが体験したことを語り始めた。韓国(南北)やフィリッピン、中国、タイ、インドネシアなど各地で女性が名乗り出、自分たちが体験したことを活字や口頭で証言し始めた。その人数は1997年初め、すでに23,000名に達した。
 戦争の反省も、焦点はこちらの方へと変化してきた。これまで議論してきたのは、いつも男性の政治家や軍人、学者だったが、1990年初めから女性が50年間の沈黙の末に立ち上がり、日本に向かってとてつもなく深刻な道徳的、政治的、文化的な質問を浴びせはじめたのである。
 1996年12月、アメリカ司法省の犯罪局は、戦犯と認められる日本人の入国「不適格者名簿」を準備したと発表した。その名簿に入っている(名前が明らかにされていない)12名中、3名は慰安婦組織に関係している一方、残り9名は中国で細菌戦を行い、囚人たちを相手に数知れない残酷な罪を犯したハルビンの「731部隊」関係者とされている。
 事件後50年たった現在、ワシントンは日本人をナチ戦犯と同じように扱うことに決めたが、これは彼らの犯罪が格別嫌悪すべきものであり、これに荷担した嫌疑がある者は公訴時効の保護を受けてはならないと宣言したことになる。(途中省略)

2.「慰安婦」の挑戦、「大変な性犯罪の国」日本

 現在、「自由主義者」がもっとも強硬に否認するのは従軍「慰安婦」である。彼らは、彼女たちの存在自体も、日本帝国主義軍隊下で奴隷さながらの境遇も、彼女たちの蒙った苦痛も、さらには彼女たちが日本から謝罪と補償を当然受けるべきことなども全て否定する。
 彼らにとって、「慰安婦」の話は「わが国の歴史に対する誇り」を増進するわけではないので無用なものであり、そのような話をする人たちは皆「悪い側」である。基本的に「自由主義者」が否定する根拠は経験的と言うよりも先験的である。
 彼らはそもそも日本という国家が大規模に「従軍慰安婦」の連行のような犯罪をおかす道理がないと考えるので、そうした主張は憎むべき捏造であると固く信じているのである。
 したがって、教科書がこのような内容を扱うのは「反日」行為であり、「自虐的」な行為であり、日本を腐らせ、挫折させ、溶解させ、解体させるに等しいというのである。
 さらに「慰安婦」という間違った歴史を教える学校は、巨大な上九一色村(オウム真理教本部)、すなわち全国民を反日的イデオロギーに汚染させるマインドコントロールセンターになってしまうというものである。
 藤岡にとって「慰安婦」問題は、「日本を侮辱する政治目的で1990年代に作り出された根拠のないスキャンダル」である。それは「外国勢力と結託し日本を破壊する巨大な陰謀」である。このようなウソが教科書に載せられれば、日本はたとえようのないほど淫乱で愚かで狂的な民族にみえてしまう」というのである。
 従軍「慰安婦」という複雑な問題を語るとき、「自由主義史観」学派は戦争史研究でよく知られている歴史学者、秦郁彦の作業に大部分依存する。秦と藤岡は「慰安婦」は本来公娼であり、日本帝国軍隊の将軍より収入が多く、客である一般兵士の100倍に達する収入を稼いだと捏造した。
 秦によれば、「慰安婦」の仕事は「危険負担が多いかわり、対価がよかった」というのである。さらに補償請求訴訟を起こした女性たちは、この機会を「宝くじ当選」の機会のようにとらえ、お金ほしさに訴訟を起こしたというのである。
 秦と藤岡は、強制連行や公的な責任の所在を立証する文書がないと主張している。さらに彼らはこの女性たちの証言は宣誓したうえでなされたものでないと一蹴し、はなはだしくは偽証法に抵触するとまで言っている。
 彼らは、私的な契約書により運営された「慰安所」と日本帝国軍隊の関係をこんな比喩を持ち出して説いた。「慰安所」は文部省内の食堂にたとえられる。建物を使用しているから賃貸料・衛生管理などは建物に定められた規則に従わなければならないが、その運用や職員管理は根本的に独立したものだというのである。
 このような場合、文部省はその建物の食堂で起きる労働関係やサービスに何等の責任がないのと同様、日本軍隊は買売春が合法的で現在とは価値基準が違っていた時代の、過去のセックス産業に対し責任をとる理由がないというのである。
 また秦は財政的に配慮した論拠も展開する。もし慰安婦補償責任を公式に認定し彼女たちの要求をいれたら、日本の国家財政が困難になるというのである。たとえば、強姦行為一件あたり300万円の補償金とすると、数年間に起きた強姦行為の件数を全部考慮に入れ、女性一人あたり700億円も支払うことになる。すると、全体補償額は日本の国債に匹敵することになると彼は見積もった。
 彼の主張の根拠がこのように原則や真実から離れ、財政的考慮と実利の問題に変わっていくのはまったくおかしなことであるが、このような言葉のすり替えは、道徳の基盤が薄弱な談論によく見られることである。
 慰安婦女性たちに対し、彼らが提起する抗議の底流には、日本という国家をどのように規定するかという問題が控えている。藤岡と彼の同僚、西尾幹二は次のような主張を繰り広げている。
 日本を、似たような犯罪や乱行をおかした他の近代国家と比較し得るかもしれないが、日本はナチドイツとは根本的に違うというのである。西尾の冗長な抗弁によれば、日本の神権政治国家体制下で天皇は大司祭として「若干、高圧的な愛国戦争」を遂行したかもしれないが、ナチドイツのような「歴史的に例がないテロ国家」の範疇に入るような反人道的犯罪はおかさなかったというのである。あわせて藤岡は、日本はテロリスト国家でも「大変な性犯罪国家」でもないとつけ加えた。
 たしかに人種虐殺計画自体はナチドイツにだけあったが、問題はアジア戦争の死傷者数と破壊範囲は、ヨーロッパ戦線での被害に匹敵するか、あるいはそれ以上であったという点にある。
 犯罪行為もまた大変なものであった。慰安婦の場合が特にひどかったが、他にも(731部隊の記録が衝撃的に明らかにしているように)日本の医療および科学エリート層がおかした犯罪や人種イデオロギーと、「優生学」におけるナチとの類似性において、そしてもっと広くは戦時の「強制労働」(徴用)など恐るべきものがあったのである。(途中省略)

3.人と運動

 ところで藤岡とは一体、どんな人物なのか? そして彼がくり広げた運動と、その運動の系譜はどのような脈絡を持っているのか? 1943年に生まれた藤岡は、戦争が敗北にさしかかるちょうどそのころ「勝利確信」という意味で「信勝」と名付けられた。
 彼の述懐するところによると、若いころ彼は左翼集団の主張「一国平和主義」を信奉し北海道大学で研究していた。そこで教育方法論を専攻する学者としてある程度の評判をえた。
 1980年代初期、彼は東京大学に移ったが、のちにラットガース大学(Rutgers University、米国ニュージャージー所在、原訳者注)で一年間、文化人類学を研究して帰ってくるまではほとんど無名の人物であった。
 その一年間、彼は「転向」と呼びうるような一種の危機を経験した。湾岸戦に対する日本の対応に羞恥心を感じていた彼は、マイケル・ワルザーの『正当な戦争と不当な戦争』とか、リチャード・マイニアの『勝者の正義』のような本を読んで深い感銘を受けた。特にマイニアを読んで「眼からウロコが落ちた」と彼は述懐している。
 彼の目には、日本は「国家としての安寧を保持しようとする意志」が不足しているとうつる。また彼は「大東亜戦争」を「正当な戦争」に見るようになった。戦後日本の平和憲法を、日本を束縛するくびきであると同時に、日本固有の民族主義的感覚の出現を妨げる障害物と見るようになった。
 彼の叙述は知的なものもあるが、かなり情緒的(または宗教的)なものであり、論理的な一貫性がまったくない。折衷主義がその特色である。
 彼に影響を与えた日本人の中で、彼が最も重点をおく人物は、石橋湛山(1884-1973,新聞編集人・政治家で、第1・2大戦間に有名な自由主義者であった)、司馬遼太郎(1923-1995,有名な戦後小説家で主に歴史的主題を扱う)である。
 しかし、藤岡は次のような事実をわかっていない。石橋は文字どおり「自由主義」に立脚して、1920年代に日本を辛辣に批判し、日本が植民侵奪を中止し、「小日本主義」を維持することを強力に主張した人物である。
 また、明治時代をいきいきと劇画化した司馬を藤岡は熱烈に称賛するが、司馬は作品『丘の上の雲』において、露日戦争の英雄で偉大な民族主義者の乃木将軍を冷徹かつ辛辣に描いたのみならず、帝国主義国家・日本に同調する考えをまったく持っていないのである。それどころか、1930年代の中日戦争を「不当で意味のない戦争」「侵略戦争」または石油と資源を獲得しようとした植民戦争と呼んでいる。 
 藤岡がいう、左・右翼を超えるという詭策は、歴史上しばしばみかける手法である。彼も自分の変貌の理由は、左右対立の歴史的膠着状態を超えることにあったとしている。
 実際のところ彼は、第二次大戦以前に日本がしかけた戦争を無批判に肯定している。そこで彼のいう「自由主義」というレッテルを取ってしまえば、彼の史観を伝統的な右翼史観と区別するのはほとんど不可能である。
 理論的に一貫性が見られない彼の見解は、新しい自由主義歴史観ではなく古い皇国史観である。のみならず転向者の例にもれず、藤岡は右翼に再び生まれ変わったのちも、「左翼」時代の構造中心的思考と「宣伝煽動」(アジプロ)スタイルを固守している。
 一時、構造を優先視するあまり日本共産党の公式路線に依存したが、そのような彼の性向は改宗以後も依然として残っているだけでなく、同じように独断的で独善的な「正当性」を構成する新しい原動力になっている。
 新しい「自由主義」の「知的」基盤がこのように藤岡と西尾などにより構築される間に、これに歩調を合わせるかのように各地のキャンペーンも進行している。この運動の特徴は、戦前戦後の右翼集団および国粋主義集団がよく用いた威嚇と暴力にある。
 その中には「自由主義的」な要素などまったく存在しない。教科書出版業者に対し、いろいろ脅迫的な要求を浴びせた。右翼前衛隊を乗せたトラックが軍歌を鳴らしながら威嚇的なスローガンを叫び、彼らの気に入らない出版社を取り巻いた。
 「反日本的」教科書の著者と出版社の名前が「自由主義史観」の本とパンフレットに特筆大書され、教科書の執筆者が住む住宅の拡大写真が散布されるなどの威嚇がなされた。
 1960年、社会党党首浅沼稲次郎を暗殺した極右過激分子を愛国志士として称賛する冊子などが出版社に配達される一方、1987年に朝日新聞社を襲撃した赤報隊(この事件で数名死亡)のようなファシスト暴力組織が藤岡を支持した。一連の威嚇事件で、これといって目新しいことは何一つない。
 藤岡と彼の同僚がマスコミに向かって警告と抗議を浴びせたり、文部省に直接政治的圧力をかけたが、彼らのキャンペーンは明らかに失敗した。地方自治体を巻き込み、東京(霞ヶ関)に教科書改訂要求を出そうと全力をつくしたが、たった一県(岡山)と小さい地方公共団体11カ所が決議文を東京に提出したのみで、残りは決議文を簡単に保留した。
 そのうえ、岡山県でのやり方は県の住民たち、とくに女性にとって驚きであり衝撃であったため、すぐ他の地方でこのキャンペーンを阻止する全国的運動がすぐ展開された。(途中省略)
            --------------------
(半月城通信による補足)

 「従軍慰安婦」など、教科書記述の削除や変更などを求める地方議会の動きですが、マコーマック教授が書かれた文章はすこし古いので、その後のデーターを下に補足します(注)。
 下表を見てわかるとおり、「従軍慰安婦」などの記述削除はどっこい藤岡教授たちの思惑どおりに進んでいないようです。これはいうまでもなく、市民運動などの反対が強硬なためですが、そのため請願方法も微妙に変化しつつあります。その動きを、下記の資料をまとめた出版労連の俵氏はこう伝えています。
 「最近の地方議会における右派勢力の動向の特徴は、「従軍慰安婦」などの記述削除を求める請願(陳情)が簡単には採択されない状況を考え、削除要求請願(陳情)をいったん取り下げた上で、自民党が意見書(案)を提出するやり方である。
 その際、記述削除を引っ込め、検定を適正にせよ、など教科書検定の強化を求める内容にしている。長崎県・新潟県議会の例がその典型であるが、これには、社民党までが賛成する事態になっている」(注)

○地方議会の動き
1.都道府県議会(27)、下記以外に新提出が7都道府県

  削除に否定的な結果(11)
○取り下げ・・・・・・・(6)青森、栃木、神奈川、石川、大阪、熊本
○議場配布のみ・・・・・(1)福井
○廃案・保留・・・・・・(2)東京、京都
○審査せず・・・・・・・(2)愛媛、福岡

  削除に肯定的な結果(7)
X趣旨採択・・・・・・・(2)岡山、鹿児島
X意見書採択・・・・・・(5)茨城、千葉、新潟、香川、長崎

  継続審査(9)
秋田、山形、福島、山梨、兵庫、鳥取、徳島、大分、沖縄

2.市区町村議会(330)、下記以外に新提出が23市区町村

  削除に否定的な結果(230)
○取り下げ、撤回、不提出・・・・・・・・・・・・(10)
○否決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2)
○不採択・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(55)
○却下、不了承・・・・・・・・・・・・・・・・・・(4)
○審議未了、審議打ち切り・・・・・・・・・・・・(19)
○議場配布のみ、議長預かり、審査せず、
 取り上げず、取り下げ、受理せず、廃案・・・・(140)

  削除に肯定的な結果(38)
X意見書採択・・・・・・・・・・・・・・・・・・(29)
X陳情の採択(意見書は提出せず)・・・・・・・・・(4)
X趣旨採択・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(5)

  その他(62)
継続審査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(57)
委員会付託・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(3)
扱い決まらず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2)

(注)俵義文「日本軍”慰安婦”と教科書」
  『第3回「日本の法は」セミナー報告レジュメ』97.11.15

……………………………………………………………………………………………………
 
4.理解と解釈をめざして

 過去数年間、藤岡が主導し起こした運動は戦後日本の民族主義構造に深く根ざしている。その上、脱冷戦期の変化した状況に合わせ、かつ日本があらゆる面で超大国になるという野心をベースに世界的経済超大国に浮上した状況に合わせて修正され改定された運動であるといえる。
 湾岸戦が進行する間、アメリカで藤岡が個人的に悟ったことや、国際社会で日本が自国のイメージと国力をありのまま発揮できないと考えて彼がやるせない羞恥を感じたことなどは、かの世代がみな共通に経験することである。
 その世代は歴史に無知であり関心もない。彼らにしてみれば、日本国の犯罪やその暗い歴史がどんどん追求される一方、(「せっせと稼いだ」日本円を背恩忘徳の世界各国に分け与えながら)政府代弁人がここ数年、こっけいにも「謝罪外交」を推進する日本の状況が屈辱的に感じられる世代である。
  また彼らは、日本がアメリカの勢力圏に(そして傘の下に)入り、ずっと低姿勢を維持するほかないありさまに、また同時にアメリカがことさら面倒を見るふりしながら日本を攻撃するような同国の措置に怒りをおぼえる、そんな世代である。

 誇らしく汚辱のない栄光の歴史を創造しようとする彼らの叫びは、強烈な情緒的反響を呼び起こすようである。彼らの願望は、彼らのある種の「被害者意識」に見ることができる。藤岡の運動は、このような被害者意識をうまく活用したため、本当の犠牲者が実際に名乗り出ると、彼らは一層憤慨するようになった。
 戦前に日本が占領したあらゆる地域で、老女たちが立ち上がり日本政府を告発したことが、彼らにはもっとも我慢がならないのである。そうした女性たちの主張が一般にかなり真剣に受けとめられたのに加えて、彼女たちが日本政府を過度に侮辱するものと彼らの目には映ったため、彼女たちの話だけでも日本の生存自体がおびやかされると考え(先に指摘したように)「日本を破壊しようとする巨大な陰謀」を感じたのである。
 このような居直り強盗の開き直りにしたがえば、犠牲者である女性は逆に加害者になり、日本の名誉と徳を暴力的かつ威嚇的に害する仕掛け人になってしまう。

 彼らとヨーロッパ修正主義者との類似点は明らかである。「慰安婦」や南京大虐殺を神話にしてしまうことは、ユダヤ人集団虐殺を否定することに等しく、双方とも犠牲者が加害者に様変わりしてしまうのである。
 一例として、1980年にフランスの文学者ロベール・フォリソンが述べた言葉をとりあげよう。「ヒットラーがガス室を使用しユダヤ人を虐殺したと主張するのは、明らかに歴史的偽りである。この偽りで得をするのは主にイスラエルと世界中のシオニストであり、その犠牲者はドイツ国民である」
 この発言の文脈で仮にヨーロッパを東アジアに変えると、犠牲者の入れ替えなどがそのまま通用するのである。
 繁栄を謳歌する金持ちの国・日本の一隅に根をおろした難問は、このように強烈な恨みの感情、「被害者意識」、汚辱の払拭と純粋および癒しへの渇望、そして誰もが「誇りをもてる歴史」を、<それがあたかも歴史の役割>であるかのように構成しようとする意志や動きである。
 こうした一連の議論では汚辱が執拗なテーマになる。彼らには真実の否定よりも自国の恥部をさらすほうが、歴史が一層汚染されるかのように認識される。そのためこの集団は、一世代にわたる歴史家たちの研究結果などをいとも簡単に無視する。
 そうした研究結果を読みもせず、時には(テレビ番組で)歴史学者・吉見義明のように慰安婦に関し集中的に研究をすることを、倒錯症患者ではないかとあからさまに決めつけたのである(西尾幹二教授を指す、半月城注)。
 日本の批評家や知識人は、こうした風潮が提起する問題にかなり深刻に向き合っている。歴史学者の中村政則は藤岡現象をナショナリズムとインターナショナリズム、国粋主義と西欧化のサイクルで揺れ動いた近代史という脈絡でとらえている。
 中村は戦後50年の今日、日本に対する新しく肯定的な欲求が若い層、ことに戦争の歴史を知らずテレビやマンガにつかり、独自の考えを持たず成長した若い世代で頂点に達していると見ているのである。
 佐藤学(藤岡と同じく東京大学教育学教授)がみるところ、藤岡と彼の仲間は「ポスト・バブル、ポスト・オウム真理教」の現象、「逸脱した自己中心的民族主義」を代表しているが、これは(すくなくとも今までは)すぐさま外に表れず、内部に突入するという点で奇妙に歪曲された民族主義であるとしている(注1)。
 政治学者・石田雄はこの現象を、日本の知識人とくに(自身が定年退職するまで身を置いた)東京大学の知識人たちが一般的に当面した危機をかいまみせてくれた証拠であると感じている。
 彼は「自由主義」史観という発想を一方では擁護する。しかし石田のいう自由主義史観とは、実践的には日本の戦後世界観が単に米日関係というレンズを通してのみ解釈されるのを克服する運動であり、多様なアジア的主体と「在日」主体をもとに、特に社会的弱者や犠牲者など、退廃的な公式講壇では無視してきた人たちの立場にたち、見て考えて感じる法を習うことである。
 石田の自由主義は、「正しい」歴史観を発掘し注入しようという藤岡の主張に正面からぶつかることになる。石田が行った批判は、在日朝鮮人批評家である徐京植も提起する。徐は、藤岡の大義が受容されるのに比例して、自身が属する在日同胞社会のような日本の少数民族のための空間が狭くなると指摘する。
 藤岡現象を見て、多くの知識人が感じる懸念と驚きを國弘正男はこう表現する。いま自分自身「日本的ファシズムの到来」を目撃しているという実感を振りはらうことはできない。

5.結論

 藤岡は、「東京戦犯裁判史観」はアメリカが日本を占領したとき日本に強要したものであり、また日本が度重なる侮辱をうけるようになった根源であるとしたが、それはきわめてあやふやな評価である。
 東京裁判について日本の左翼もこれまで右翼に劣らず批判してきた。左翼は、裁判は歪曲されていると主張してきた。まず、罪が敗者にだけあるかのように規定することからしてそうであるが、−−これは日本以外ではすでに久しく受け入れられてきた批判であるが−−それ以外にも政治的理由でいくつかの核心的な問題、たとえば天皇であるとか、731部隊などを調査対象から削除した決定が裁判を歪曲したというのである。
 半世紀を過ぎた現時点で東京戦犯裁判問題に光を当てれば、この問題は一層明白になろう。その場合、この論理は文字通り真正な「自由主義者」には歓迎されるだろうが、藤岡と彼の仲間にはどうにも手に負えない方向に進むことになろう。
  究極的に戦犯裁判の問題は、責任がどこにあるかという点にとどまらず、過去の米日合意という陰謀の際に、誰が責任を隠蔽し回避したかということも対象になる。

 さて、次第にボーダレスになりつつある世の中で、世界的に国家意識がなくなったとか、国家内の勢力バランスを今までのやり方では統制することができなくなったと嘆く傾向があるが、藤岡たちの異色ぶりはこの問題に対するけた外れの情熱にある。
 日本は国連安全保障理事会の常任理事国になるべきであるとみずから声高に主張するほどの世界的経済大国になり、20世紀成功神話の主役になった現在、藤岡らがみずからを脆弱であると懸念するのは理解しがたい。そもそも彼らが懸念するのは一体何であるのか?
 あえて例えてみれば、それは自分たちのありようを、世界的にパワーの被害者になりつつあると捉える産業社会の都市大衆が持っている「ルサンチマン(怨恨)の政治学」に近いものであるが、日本の場合、経済的要因の役割は非常に小さいようにみえる。それよりも藤岡を動かすものは、国家権威が縮小の方向に向かい、その権威と象徴が凋落して解体するかもしれないという懸念である。
 ここで次のような解釈も可能である。藤岡がとりわけ熱心に日本の民族主義を叫ぶのは、自民党の核心派閥のような政治勢力がすでに立場を変えてしまった状況で、自分たちは萎縮し孤独な少数に転落したと考える人たちの絶望感のためであるともいえる。
 われわれがここで深刻に考えなければならないのは、むしろその立場の変化のほうであり、変化が引き起こした熱狂的な反対ではない。もちろん、この熱狂的な反対も、時には知的一貫性の欠如と情緒的な力が融合して相当な効果を生みだすので見過ごしにはできない。

 藤岡と彼の仲間は、長い歴史や記憶に基因する日本と隣国との距離は狭めることはできないと主張する。中国や韓国などの反日感情はあまりにも深いので「私たちがアジアの隣国とお互い理解しうる歴史観を確立しようとすれば、結局、私たちがひざまづくことになる」というのである。
 藤岡のことばを直接聞いてみよう。彼は「私たちは日本人であるから、何よりも日本および日本の国益の観点で考えるのは当然である」と述べている。ここで否定できないのは、日本の歴史を肯定的に見ようという藤岡の計画と、彼が日本政府に求める政策が万一採択されたりしたら、日本とアジア国家間の親善関係はとうてい話にならないほど後戻りしてしまうという事実である。
 日本がアジア諸国に対し、偏狭な国家の自尊心や自国の正当性なるものを全面におしだして発言すれば、またあたかも戦前の教科書のように歴史教育のかわりに、伝統的な徳目や民族主義を高揚させるためひねり出した教訓的なお話を選び注入するような教科書を採択すれば、日本は隣国と衝突し、その国の歴史は(日本の帝国主義的侵略と戦争の記憶を記述するかぎり)間違いであると非難するしか道はないのである。

 しかし、日本の民族主義感情の20世紀末式発露は、日本民族主義の核心的な二つの要素を見落としている。一つは天皇であり、もう一つはアメリカである。この二つは民族問題の表裏の関係にある。
 日本ではこの二点について虚心坦懐に討論することがタブー視されてきた。民族的な誇り、栄誉、汚辱の払拭が独特に織りなされた日本特有の現象は根本的に日本の総体を日本的自我の精髄−−汚染されない崇厳な帝国的本質−−を基盤に構築されてきた歴史的な自己表現方式に基因する。
 日本が侵略国であるとか「強姦の国」などと表現され、この本質が汚されるというのは彼らにとってまさに許されざることである。
 肯定的で純粋な日本を築こうとする彼らの新しい試みが、これから天皇問題をどのように扱うのか興味深いところである。

 日本の民族主義者たちが抱えるもう一つの問題は、彼らもおいそれと言い出せず、抑えるかあるいは精々のところ茶化して表現するのが関の山であるが、それは日本が軍事的にであれ戦略的にであれ、アメリカに引き続き依存しているという事実に対する怨望である。
 彼らはこれまでのところ、歴史論議を新局面に引き込んで、そこで日本を究極的に善と見るようながむしゃらな見解を披露し、それに新しく威厳まで付加したが、今後この波及効果は予測できない形で表れそうである。
 現在のところ、藤岡の歪曲された偏狭な民族主義的スローガンに支持を与えている民族主義諸団体は、遅かれ早かれこの核心問題に内在するアンバランスに出くわすことになろう。そうした時、われわれは日本の右翼民族主義者をこの最新の衣で覆っているその薄っぺらなうわべの下に、何が隠されているのか知ることになる。

 結局のところ心配なのは「自由主義的歴史記述」集団が標榜する自由主義にあるのではなく、彼らの実際的な反自由主義にある。元来、自由主義は明らかに独断主義や伝統主義、とくに国家の名において乱舞するあらゆる伝統や立場より優れており問題ではない。
 冷戦体制以後の日本が、自国民からは衷情を、世界各国からは尊敬を受けられるような核心的要素を中心に、過去、現在、未来を有意義に統合しうる日本を構築する強烈な熱望を、こんなやり方で表現するとしても、それは必ずしも心配するに及ばない。そうした願望自体、普遍的なものであるからである。
 真に不安なのは、自由主義とか合理主義とかの用語が、反自由主義的かつ反合理主義的な思考方式を仮装するために乱用されているという点である。さらに、不安にも1930年代の暴力と不寛容を浮上させた政治手法、つまり自分たちが反対するものは何であれ「反国家的」とか「自虐的」とレッテルを貼り、半世紀前に軍国主義の凄惨な犠牲者であった女性たちを再び犠牲者にしてしまおうとする政治手法が、20世紀後半の日本でかくも広範囲に支持を得られるという事実である。(完)
          -----------------------

(注1)佐藤学氏のオリジナルな発言は下記のとおりです。
 僕は、この(「自由主義史観」などの)現象を解くキーワードは「ポストバブル」と「ポスト・オウム」だと思っています。「ポスト・バブル」を覆っているのは、日本人を煽り立てていた経済的な威信が崩れた危機感です。「ポスト・オウム」というのは、『脳内革命』もそうですが、頭の中を組み換えてしまえばすべてがくつがえるという気分の蔓延です。
 「自由主義史観」がやっている操作は、歴史の書き換えよりも史観の転換で、頭の中の史観さえ転換すれば侵略の事実もぶっ飛んでしまう。そこには内部があって外部がない。内部に突入することによってエキセントリックでエゴセントリックスなナショナリズムが露呈しています。(以下省略、佐藤学他「対話の回路を閉ざした歴史観をどう克服するか?」『世界』97年5月号)


(注2)中村教授の「批判」提言
(前半省略)
 ふつう批判にはイデオロギー批判、内在的批判、体系には体系を対置する方法の三通りがあるが、一番レベルの低い批判は「自虐史観」だの「謝罪史観」などというレッテル貼りのイデオロギー批判である。いうまでもなく、最高の批判の形態は「体系には体系を」である。
 その意味で、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が一日も早く完成することを願っている。私自身も昨年12月、ある近現代史フォーラムで「自由主義史観研究会」の人々が信奉している司馬遼太郎史観の再検討を始めた。その内容はいずれ公刊したいと考えている。
 もう、扇動的で低次元の批判の時期はとっくに過ぎている。われわれ歴史学者も教育学者も現場の教師たちも「昭和史」論争やドイツ歴史家論争のような、「体系には体系を」のレベルの高次の論争を繰り広げるべきである。
 (中村政則『「日本回帰」四度目の波』毎日新聞 97.2.4)

  追記
 翻訳に関して一言つけ加えます。韓国語の論文では、中村教授などの発言は日本語から英語、英語から韓国語へと重訳になるせいか、すこし意味が通じにくくなっています。そのため論文中の日本語による発言に関しては、発言者本人のオリジナルな日本文を尊重し翻訳を行いました。そのため、私の訳文は韓国文とは微妙に異なるところがありますのでご了承ください。
 ただし石田雄氏の原文は入手できませんでしたので、私の訳文は同氏の主張と多少ニュアンスが違っているかもしれません。同氏の主張は、『月刊オルタ』97年3月、P15ー19(異質な他者の視点を踏まえて歴史を見る)から引用されたようです。
(半月城通信およびオルタナティヴ運動情報メーリングリスト〈aml〉より)
半月城通信のURLは http://www.han.org/a/half-moon/ です。