alternative autonomous lane No.26
2000.3.17

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栗原幸夫のホームページへ

目 次



【ML情報】

憲法問題メーリングリストへのご參加を

【議論と論考】

強化する〈文化の守護者としての皇室像〉(宮内 晶)

「日の丸・君が代」強制拒否運動の報道――本当に語られるべきことが語られていない(天野恵一)

マラリア有病地への「軍命」による強制移住の体験−−八重山平和祈念館問題(天野恵一)

【「憲法論議」を論議する】

「憲法解釈学的錯視」への具体的批判を持続する「反改憲」運動を!(天野恵一)

【言葉の重力・無重力】(1)

新しい衣装の下に透けて見える守旧的立場――『和平工作:対カンボジア外交の証言』を読む (太田昌国)

【書評】

高橋哲哉『戦後責任論』を読む(栗原幸夫)

【海外情報】

中国・世紀を越える思想論争(章海陵・北野誉訳)

ゴラン高原の自衛隊(森田ケイ)








 

憲法問題メーリングリストへのご參加を

 国会の憲法調査会も動き始め、憲法問題はいよいよこの国の将来を決定する重要な争点として浮上してきました。私たちはこの事態に受け身に向き合うのではなく、つぎのような立場から積極的に発言し行動してゆきたいと考え、そのための一つの手段として憲法問題メーリングリストを立ち上げることにいたしました。その立場とはつぎの3点に集約されます。

(1)憲法論議を国会における政党間の論議から広く国会の外へ開放し、普通の生活人の考えが自由に表明できるような多樣な場の創出を追求する。またその場合も、いわゆる「国民」の枠をこえて在留外国人の討論への参加を保証すること。
(2)憲法論議を護憲・改憲論議やあれこれの条項をめぐる論議に限定せず、なによりもまずわれわれの住む社会と国家は憲法との関係でどうなっており、それはどのようなものであることが望ましいかという、現実の社会と国家の方から問題を考えていく。
(3)平和・人権・人民主権の擁護・拡大をもとめ、それらの課題を担っている地域住民運動や社会運動と連帶し、情報や意見の交流の場の一つとして機能すること、また同時に、憲法やそれにかかわる理論的・思想的な問題について、活動家と研究者の意見交流の場の一つになることを期する。

 この立場に賛同し、下記の「規約」を承認していただける方は、ぜひこのメーリングリストにご参加ください。

〈目的〉
平和・人権・人民主権の実現をもとめる立場から、現在進行中の憲法改定論議を監視し、批判的な論議を深めてゆく。そのために以下のことをおこないます。
(1)憲法問題にかかわる運動・集会などの連絡・紹介。
(2)憲法問題にかんする論考の紹介および論評。
(3)必要な情報や意見の交換と蓄積。
(4)オフ・ラインの集会などへの參加。その他。
〈参加資格〉
上記の目的を承知のうえで希望する方はだれでも參加できます。このメーリングリスト内では、參加者は本名(日常的に使われているペンネームをふくむ)を用い、ハンドルネームの使用は認めないこととします。
〈運営〉
若干名の運営委員が全般的な運営上の責任を負いますが、參加者はだれでもそれに対し自由に意見を述べ、その改善を要求する権利をもちます。新規参加者の登録および退会希望者の登録抹消、一時配信停止などの技術的な管理のために、2名のメーリングリスト管理者を置きます。(出発時においては呼びかけ人が運営委員を兼ねることとします)。
〈会員登録〉
參加希望者は、氏名(本名あるいは日常的に使われているペンネーム)および住所、配信を希望するメールアドレスを明記して下記にお送りください。
owner-kenpo@jca.apc.org
登録者の個人情報は、管理者がこのメーリングリストの円滑な管理・運営のためにのみ使用し、他に漏らしたり流用することは一切ありません。
〈登録抹消〉
以下の場合には登録を抹消します。
(1)3カ月以上にわたってメールの配信ができなくなった場合。
(2)メーリングリストの運営に大きな支障を来すような行為をおこなった場合。
(3)特定の參加者に対する嫌がらせ行為をおこなった場合。

なお、技術的な情報は登録のお知らせと同時にお送りします。

呼びかけ人
小倉利丸*、太田昌国、栗原幸夫、野村知之*、武藤一羊、吉川勇一
(*印は管理者)







強化する〈文化の守護者としての皇室像〉

宮内 晶●美術愛好家

 「平成」以降、皇室は、美術・文化の守護者・推進者としてのイメージを強力に打ち出そうと努めてきた。それは具体的に美術界のなかでどのように展開されているのだろうか。特に今回は、アキヒト天皇即位十年を記念して開かれた一連の記念行事のなかから、東京国立博物館(平成館)で開催された「皇室の名宝展」を取り上げ、論じてみたい。

◆「皇室の名宝」展
 「皇室の名宝」なる展覧会が開かれていたのは、一九九九年十二月四日から二〇〇〇年二月十三日のことである。私は会期終了の迫る二月十日の昼過ぎに訪れたのだが、まず、会場入口から遥かに離れた券売場まで続く長蛇の列に圧倒された。入館までの待ち時間二時間とのこと。すぐあとに仕事があった私はこの日はあきらめて、二月十二日の朝、再び来館した。最終的な入館者数はまだ知らないが、数の上ではまずまず成功の展覧会だったと言えるだろう。
 展覧会のカタログは、企画者の意図を代表して、まず東京国立博物館館長の次のような言葉を冒頭に載せている。「このたび天皇陛下御即位十年を記念して、特別展『皇室の名宝――美と伝統の精華』を開催いたします。皇室はいずれの時代においても、社会の展開に重要な役割を果たしてこられ、芸術の守護者・推進者としての役割を担い、わが国の文化の豊かな発展に、大きく貢献されました」(傍線は引用者)。そして、とりわけ若い世代に本展を見て欲しいことを強調して終わっている。(カタログでは、続いて宮内庁長官、NHK会長の挨拶を載せている。)
 この館長の言葉が物語るように、展覧会ではいたるところで「連綿と続く」という語句が多用され、@皇室、及び皇室(日本)文化の歴史の連続性と、A「古来からの文化の守護者・推進者たる皇室」というフィクションが、強く押し出された。今日私たちが「連綿と続いてきた」と思いこまされている皇室の「伝統」の多くが、近代に入ってからの新たな発明であったことは、T.フジタニをはじめとする研究者たちによってすでに証明されていることである。
 六つのテーマ別に作品は、縄文・弥生時代からはじまり、あとで述べる一部の例外を除いて、現代までほぼ時代順に並べられている。だが、「御物」を中心とした「皇室コレクション」が、どの時代に皇室所蔵になったかに注意して見ていくと、明治政府の廃仏毀釈で困窮した寺院や官制展覧会からの献上品や買い上げ品など、実に多くの作品に関して、それが明治以降の出来事であることに気がつく。皇室所蔵の来歴順に、二一一点の作品を並べ替えれば、全く異なった展示となったことだろう。
 会場では、教科書で見覚えのある《聖徳太子像》(明治十一年献納)や狩野永徳の屏風絵《唐獅子図》(明治二一年献上)、伊藤若冲の《動植彩絵》(明治二二年献納)などの周りに、幾重にも人垣ができていてゆっくりと絵を見ることなどできなかった。人波に押されるようにして出てきた出口では、図録や絵葉書などのほか、皇室関連のPRビデオ『天皇皇后陛下――国民と共に/宮中の御公務』(企画・宮内庁)も販売されていてギョッとする。
 だが、今回の「皇室の名宝」展に関して感想を記した(政治的ではなさそうな)美術関連のホームページを私は偶然に見つけたのだが、そこに書き込まれた感想――「〈万世一系〉の天皇制は未来永劫〈日本国〉にて続くのか?〈美術〉と〈権力〉は不可分ということがよくわかる展覧会」――をみると、展覧会企画者の意図はみごとに裏切られていると言えるかもしれない。

 さて、展示されていた作品群のなかで、特に私の興味を引いたものがふたつある。
 まず、第六のテーマ「新しい伝統美」の会場でひときわ目を引く、明治天皇と皇后の一対の油彩画である(写真1)。楕円形のこの二枚の肖像画は、それぞれ豪華な装飾を施した金色の額縁に入れられて、壁面の中央から見る者を見下ろす。そして、この二人の周りを、当時の日本が条約を締結していたロシア、オランダ、イギリス、ドイツなど十四ヶ国の元首の肖像画がぐるりと取り囲んでいるのである。十四枚の元首の肖像画は、天皇・皇后よりはるかに小さいサイズである。
 これは実は、明治七年に計画された「宇宙之御盛殿」――、つまり皇室を中心とした国家を作り上げようとしていた当時の「日本」による理想の世界像である。これらの《明治天皇・昭憲皇太后肖像》(明治七年)と《締盟国元首肖像》(明治八年)は、イタリア人画家のジュセッペ・ウゴリーニによって描かれ、宮中に納められたという。その後、行方不明となったアメリカ合衆国大統領の肖像画に代わって、本展では別の画家による作品が差し替えられていたが、そのようにしてまで企画者は「宇宙之御盛殿」を「再現」したかったわけである。
 さらに、本来の配置のほかに、この展覧会で独自に付け加えられた展示がある。それは、明治天皇や元首の肖像画の左右に、風景画が多数配置されていることである。向かって右には、天皇が明治初期に国内を巡行した際、随行した画家によって描かれた当時の「珍奇な事物」や風景、風俗などの油彩画十数点。向かって左には、伊藤博文の琉球地方巡視に同行したとされる(*同行には諸説あり)山本芳翠による、琉球の風景や風俗画《九州・琉球巡視記録画連作》が数点が配されている。琉球を取り込むことによって「日本」の境界を定め、その「日本」のなかに「世界」を取り込むこの配置は、帝国主義的図像そのものである。金色の額縁に入れられた油彩画は、真っ赤な壁面から浮き立ち、見る者を圧倒的に威圧する。だが展覧会カタログでは、各作品は別々に収録されており、このような配置で展示されたことは全く分からないのである。
 次に驚いたのが、展覧会場の最後の出口付近に陳列された作品である。それは、長谷川昇の《母性》という約九〇cm四方の油彩画だった(写真2)。ルノワール風の画面では、キモノを着た女性が赤ん坊に乳房をふくませており、彼女の背後には幼児が肩にすがって甘えている。そして絵の横には、「……長く皇室で愛され続けている作である」で結ばれる解説が付けられていたのである。
 私が驚いた理由は、この《母性》が、展示の最後を飾る位置に配されていたことである。なぜなら、時代順に並べられた展示の規則を、一九二六年に制作された《母性》は破っているからである。事実、カタログの最後は、一九九〇年に制作され、大嘗祭の式場に置かれたという東山魁夷・高山辰雄の屏風で終わっている。その時代順の規則を破ってまで、あえて《母性》で展覧会を締めくくった理由は――あくまで想像でしかないが――母性イデオロギーを称え、その精神を鑑賞者たる「国民」に植えつけようとしたものだと考えられるだろう。(同展の会期が、ちょうど皇太子妃の〈ご懐妊・流産〉騒動と一致したのは、実に皮肉なことである。)このように、先に見た帝国主義の図像のあからさまな再現・構築と、《母性》の称揚は見事に符号して、展覧会を完結しているのである。

◆三の丸尚蔵館(ハード)と皇室展覧会(ソフト)
 天皇の在位十周年を記念する「皇室の名宝」展が開かれた東京国立博物館の「平成館」とは、いったいどのような建物だろうか。これは、皇太子成婚を記念して計画され、一九九九年十月に開館したばかりの博物館である。開館式典には、皇太子・雅子の臨席のもとで、小渕総理や中曽根文部大臣らが出席し、小渕が同館での文化財の展示が「心の教育の充実」につながると祝辞を述べている。歴史的に振り返れば、東京国立博物館と皇室の関係の深さ、いやそれどころか、天皇制と結びついて「帝国博物館」や「日本美術史」なる装置が構築されていったことは明らかである。建物の来歴だけに限ってみても、明治期の宮廷建築の極みとされる表慶館は、一九〇〇年に大正天皇(当時皇太子)の成婚を祝って国民が「奉献」したものであるし、現在の本館は、旧本館が関東大震災で大破し使えなくなっていたため、昭和天皇の即位を期に復興が計画され国民から献納された建物である。
 さて、「皇室コレクション」については、もうひとつ忘れてはならない機関がある。それは、皇居東御苑内にある三の丸尚蔵館である。一九八九年昭和天皇の死後、アキヒトと皇太后から、六七〇〇点の美術工芸品が国に寄贈されたと言われるが、それを収蔵・研究するために設置されたのが「三の丸尚蔵館」である。一九九三年十一月三日の開館と同時に、作品の展示公開もはじまり、現在まで二〇回余りの展覧会が開催されている。また、即位十年を記念して同館では、六回の特別展――「慶祝の風景」(第一回)、「御慶事のかたち」(第二回)などが開催された。皇室コレクションだけを扱った美術館・研究機関が建てられたのは、近代以

降、三の丸尚蔵館が初めてである。それゆえ、同館の行方を見ることは、皇室の文化戦略を考える上で今後、必須になるにちがいない。
 今回の「皇室の名宝」展にも、主催者の東京国立博物館の学芸員のほかに、この宮内庁三の丸尚蔵館や宮内庁書陵部の担当者が参画しており、いまや皇室関連の展覧会に、彼らは欠かせない存在となっている。同様の展覧会は、この数年に限ってみても、一九九七年に京都国立博物館の開館百周年を記念して行なわれた「宮廷の美術――歴代天皇ゆかりの名宝」展や、九七年から九八にかけて米国ワシントンで開かれた「皇室コレクションにみる十二世紀間の日本美術」展などが挙げられる。後者は、宮内庁が、スミソニアン国立研究機構フーリア美術館/サックラー美術館、文化庁・国際交流基金と共催で開催した展覧会で、一九九四年の天皇・皇后のフーリア美術館訪問を記念して企画されたという。そして、宮内庁側の取りまとめを行なったのが三の丸尚蔵館なのである。このように、天皇・皇后の「外交」と合わせて、今後、皇室コレクションが海外を飛び回る機会は増えるであろう。そして日本政府が、当然される予想される捕虜虐待や植民地支配をめぐる批判を、「芸術」でかわそうとすることは容易に予測される。
 一方、文化財をめぐっては、「秘匿される皇室の私的な宝物」という皇室用財産の従来の規定が、公共性・公開性を旨とする世界の文化財のありかたと明白に「齟齬をきたす」ようになってきた、という指摘が研究者によってなされている。陵墓の公開要求などに直結するこの問題を、宮内庁をはじめ日本政府がどのように取り組むつもりなのか――そのことと、海外での皇室コレクションの展覧会の動きと合わせて、考えていく必要があるだろう。
 出版界では、このような動きと呼応して、朝日新聞社が、「週刊朝日百科シリーズ」として、百巻を超える大企画『日本の国宝』(全111巻)にひき続き、『皇室の名宝』(全12巻)を一九九九年四月から刊行している。このように平成に入ってから、展覧会や出版を通じて、皇室の芸術・文化イメージを創り上げ、人々の関心を高めようという動きは急速に目立ってきている。いずれにせよ、「芸術の守護者・推進者」たる皇室イメージが、今後、ますます強調されることは必至であるが、それらは「国際親善」を標榜する「皇室外交」の具体的な動きと連動させて分析されなくてはならないだろう。(みやうち・しょう)
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.3.15, no.32)











「日の丸・君が代」強制拒否運動の報道
本当に語られるべきことが語られていない

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 「『日の丸』・『君が代』の強制に反対する広島県民の会」と「『日の丸・君が代』強制に反対する相談ホットライン」から、あの、政府・文部省の「日の丸」強制によって校長が自殺においこまれた広島世羅高校の卒業式で「卒業生の言葉」を、その場で語った(「国歌斉唱」に、多くの友人とともに立ちあがらなかった)、生徒のメッセージがFAXで送られてきた。
 「誰が初めに座ったのかはわからない。私は私の意思で着席した。私は12年間の学びを『間違いじゃないよ』と主張したかった。『強制しなければ掲げられない旗や歌は、いくら法制化したってしょせん根無草。』いつか読んだ本の一文が頭をよぎった」。
 そのメッセージの一部分である。地元の『中国新聞』(三月一日)は、それなりにこの件は大きく扱っている。
 「一年前の卒業式に前校長が自ら命を絶ち、国旗国家法制化のきっかけとなった世羅郡世羅町の県立世羅高校(田辺康嗣校長)は、昨年は見送った国歌斉唱を盛り込んだ卒業式を開き、二百一人を送り出した。/フロアに卒業生と在校生が向き合う対面方式だった昨年までのスタイルを、今年は国旗を三脚に立てたステージを使う方式に変更。全員が起立し、開式の言葉に続いて国歌斉唱に入った。教職員の一部がすぐに着席。カセットデッキから君が代の演奏が流れ、歌の冒頭にささかかると、卒業生全員と出席した二年生二百二人のほぼ全員が次々と座った」。
 この記事も、おきていることの上つらをなぜただけの記事である。座っていることで、「君が代」を拒否することを、態度で示した一人一人の意思の内容をつたえる姿勢が、そこにはまったく欠落している。そのことを、できるだけ具体的につたえる。それがジャーナリズムの任務ではないのか。何故、一人一人が拒否したのかを。
 『神奈川新聞』(二月二十八日)には、こうある。
 「集会は、市民グループ「『日の丸・君が代』の法制化と強制に反対する神奈川の会」の主催。午後一時から、県議や学者、市民ら十五人がそれぞれの立場から、国旗国歌の強制に反対するリレートークを行い、市役所周辺までデモ行進する予定だった。/広場では、やじ馬が遠巻きに取り囲む中、同会のメンバーら約二十人と日の丸を掲げた政治団体員数十人が警察官のつくった壁をはさんで対立。『日の丸を強制するな』『君が代は国歌だ』などと激しい怒声が飛び交い、ものものしい雰囲気に包まれた」。
 こう右翼の暴力的介入によって混乱した状況をつたえたあと、ものが言えなくなり「怖い」、「戦前と同じタブー」という批判の声を紹介している。
 右翼には、それなりに批判的な記事である。しかし、右翼の暴力を、ここまで野放しにして、こんな集まりはつぶしてしまえという態度だった、あの神奈川県警に対する批判的コメントは、なにもなしだ。
 合法的な(警察に届けでることを強いること自体も問題とはいえるのだが、とりあえず、届けでている)情宣とデモを、天皇主義右翼が暴力でつぶす。百人ぐらいはいたという右翼。県警のリーダーの方は、まったくその暴力をまともに止めようとしていない(それだけの警備の人数を集めようとしていない)。
 集まりの参加者からの報告を聞くと、「諦めた方がいい」、「われわれ(警察)がいなくなって、ケンカになってもいいのか」と、主催者側に呼びかけ、一方的に主催者側を規制するだけで、右翼はかなりやりたい放題の状態が続いたというのだ。
 「市民警察」のタテマエの神奈川県警は、合法集会が右翼につぶされるなら、それでよしという態度だったのだ。この事への批判が、この記事にはまるでない。全国紙も取り上げない状況下で、右翼への批判的な記事を(あたりまえだが)大きく載せた事は、評価すべきなのかもしれないが、(特権を持ち、それゆえに腐敗しがちな国家)権力のあり方に、常に批判的に切りこむというジャーナリズムの、あたりまえの姿から見たら、ずいぶん後退した記事である。
 マス・メディアの、そして警察のあり方への具体的批判を、私たちは忘れるわけにはいくまい。政府が「強制しない」と公言しながら行った、「日の丸・君が代」の国旗・国歌への法制化とは、こういう事態(右翼の、警察のそうした態度)を必然的につくりだしているのである。
 私たちはこのような状況に入ってることを見すえつつ、「強制」拒否の抵抗運動を、さらに広げてゆかなければならない。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.3.15, no.32)











マラリア有病地への「軍命」による強制移住の体験−−八重山平和祈念館問題

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 2月26日、27日、28日と私は「民衆の安全保障」をテーマとする、沖縄サミットに対抗する国際会議づくりへ向けて、10人ぐらいの沖縄の人と会うために沖縄に行った(この国際会議自体は、6月30日、7月1日、2日の予定)。
 その時、私は、新しい平和祈念資料館の監修委員として、オープン直前なのに、行政の御都合主義で、まったく追いつきようもない作業を押しつけられている安里英子にインタビューした(本号に掲載されている)。
 平和祈念資料館が行政の責任者たちによって、日本軍・米軍の残虐さを薄める方向へ改竄された件についての、県(行政)の責任は曖昧にされたままであり、沖縄のマス・メディアも、新しい平和資料祈念館の内容・今後の運営についても、まともに論議していない事実について、ほとんど報道しようとしていないと、彼女は怒りをあらわにしていた。
 私は帰ってきて、すぐ『もうひとつの沖縄戦−−マラリア地獄の波照間島』(石原昌家監修・石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著・ひるぎ社)を読んでみた。この 1983年に出版された、聞き書きをベースにした新書は、波照間島住民の惨劇は、日本軍(陸軍中野学校出身の将校の山下虎雄と名乗り、来た時は学校の教員としてふるまった男が現地を支配した)が、「本土決戦」時に展開しようとしていた「秘密遊撃戦」(正規軍壊滅後のゲリラ戦にそなえて住民を組織して闘う作戦)を先行的に試みた結果であることを、すこぶる具体的に明らかにしている。米軍の空襲が開始され、おびえる住民の心理を利用し、マラリアにかかる可能性が大きい西表島(南風見=はいみ)に、豚や牛の家畜はみな殺しにさせ(ひそかに生かされていたものもいた)、軍隊の食料としつつ、あらかたの住民(マラリアの危険を感じ、他の島へ移住した人もいた)を強制移住させたのである。日本軍の敗戦で、波照間島にもどってからも、いや、その後の方が大量に、人々はマラリアで死に続けたのだ。1945〜47年の波照間におけるマラリア被害として、罹患率92.4%(1396人)、死亡率32.3%(488人)という恐るべき数字が示されている。
 「南風見から引き揚げてきてから大変でした。家族がマラリアに罹り、私も寝たきりで親が亡くなるのもわからないし、兄弟が亡くなるのもわかりませんでした。家の中では、おじいさん、子どもたちとみんな枕を並べて寝ていましたが看病する人もいないので、……私に当時一歳の男の子がいて、マラリアに罹り、その子がそばで寝ていても、看病することもできずに旧暦の8月12日(新暦9月17日)に亡くなりました。また、あいついで8月18日(新暦9月23日)にはおじいさんが亡くなりました」。
 こういう証言がいっぱい、この本にはつめこまれている。飢えにあえぎ、医者も薬もない状態で、人々はマラリアでバタバタと死んでいったのである。
 「沖縄戦も敗戦間近の6月、八重山地域において、風土病のマラリア有病地として恐れられていた地帯へ、日本軍により住民の『退去』が行われ、その結果、多くの罹患者が出、3千6百人が犠牲となった」。
 こう書きだされている「八重山平和祈念館改ざんに関する経緯」(『平和祈念資料館問題特集 歴史の真実は歪められてはならない』沖縄歴史教育者協議会編〈1999年 12月発行〉所収)は、援護法による国家補償を要求して設立された「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」(1989年5月)の活動が「マラリア平和祈念館」をつくりだしていった過程と県の改竄のための介入という事態をこまかく(写真入りで)レポートしている(『けーし風(かじ)』〈第25・1999年12月〉号にも、潮平正道の「祈念館建設及び記念碑建立に携って」があり、こちらも写真入り)。新平和祈念資料館との整合性をはかるといういい方で、日本軍が命令によって住民を移住させたという事実を隠す方向での改竄がくわだてられたのだ。国家の軍隊の責任を隠そうとしているのである(強制された「退去」を「避難」に書き換えていることなどに象徴される)。
 平和祈念館の改竄と連動した改竄が八重山平和祈念館にもくわえられていたのだ。
 『もうひとつの沖縄戦』には、こうある。
 「西表の護郷隊にはマラリアの薬はあったが、そこに疎開していた波照間住民に配給されなかったのである」。
 そこには山下と名乗る、住民に暴力をふるいつづけた男(暴行による死者も出ている)、この「残置諜者」の家族などはマラリア用の薬を持っていた事実も書かれている。
 軍隊は、住民(民衆)を守るためにいると語りながら、住民(民衆)を守らなかったばかりか、自分たちの作戦と利害に基づいて、人々を死に狩り立て続けたのである。ヤマトの人間の沖縄人への歴史的な差別という要素もプラスして考えるべきであろうが、ここには軍隊の本質が露呈しているのだ。
 歴史的に発掘され、記録されてきた、この事実を、日本政府の意向を先取りして、沖縄・稲嶺県政は、隠蔽しようとしたのである。
 私たちは、「民衆の安全保障」という概念を「国家〈軍隊〉を主体とする安全保障」と対置してきた。主体が国家であることを排除しないNGO文化がつくりだしてきた「人間の安全保障」という概念(最近は政府サイドも愛用しだしている)との違いを強調してきたのも、国家と対峙する民衆による民衆のための「安全保障」という思想的な視点こそが、大切だと考えているからである。「民衆の安全保障」という概念は、こうした沖縄戦での住民(民衆)の具体的体験が、くみこまれ、さらにきたえあげられなくてはならない。
 世界を支配する国家の「首脳」の会議に対抗する「民衆の安全保障」のための国際的な集まりのテーマの中に、この2つの「祈念館」を支えた理念(歴史経験)とそれの改竄という問題をも据えるべきだと私が考えるのは、そうした理由からである。
(『派兵チェック』2000.3.15, no.90)












《「憲法論議」を論議する・6》

「憲法解釈学的錯視」への具体的批判を持続する「反改憲」運動を!

天野恵一●反天皇制運動連絡会


 桜井大子、小倉利丸、高田健、栗原幸夫、池田五律、この間この〈「憲法論議」を論議する〉の連載に書かれた文章をあらためて読みなおしてみた。「反天連」事務局メンバーの二人(桜井、池田)以外の人々が、権力者たちが明文改憲に向かう状況下に、どういう運動をつくり出すかという運動の方法論についてストレートに言及している。
 全員が、今まであった「改憲対護憲」の土俵で「護憲」に加担しようという立場ではなく、そういうスタイルを超えようという点では一致している。
 そのことを前提にしてであるか、小倉は(栗原もこれに近いかと思う?)スッキリと象徴天皇制をなくせという、権力者の「改憲」に自分たちの「改憲」を対置しようという主義だ。それに対して高田は、今までの「護憲」のスタイル(儀礼的・形式的権力としての象徴天皇からの逸脱の批判)と象徴天皇制があること自体の問題(憲法の平和主義・民主主義・人権の原則との自己矛盾)をも問題にするという二本立てで、権力の明文改憲に反対する広い共闘関係をつくり出そうという主張である。
 私は、この両極の主張、それぞれに不満がある。例えば、もっぱら「信教の自由」という憲法理念で、靖国問題を闘ってきた護憲派の人々との、いろいろな共闘の長い歴史的体験をふまえて、いいたいのだが。象徴天皇制自身への批判ではなく、象徴天皇制の政治的強化・特定の宗教(神道)と国家を公然と媒介しようという皇室(それをかつぐ人々の)動きに反対し続けてきた護憲派の人々と私たちの「反天」運動との共闘関係は大切にされなければならないと私は考える。彼や彼女らは、象徴天皇制自体を批判する入口にまで来ているのであり(そこに入り込んでいる人も少なくない)、私たち以上に戦前(戦中)の天皇制の抑圧・支配のありようを具体的にふまえたそれなりに鋭い批判の切り口を示すことも少なくないのだ。
 だから私は、小倉のいう別の「改憲」という運動のスタンスを、「反改憲」運動の中ではとりあえずは取らない方がよいと思う。しかし、わたしは高田のいう二本立て(予定調和)路線に共感しているわけではない。政府サイドがくわだてる、九条(平和主義)を全面的にかつ最終的に解体してしまおうという改憲に反対という立場で、広く運動をおこそうという点では高田の主張に賛成である(こういう一般論ということでいえば、基本的なところでは、小倉そして栗原も、それに反対しているわけではないのだろうと思うが)。
 私は小倉や栗原同様(もちろん「反天連」事務局の二人も当然)、象徴天皇制の解釈学(象徴天皇制の〈民主主義〉に引きよせた解釈)=「護憲」運動と天皇制国家=戦後国民国家のありようを、根本的なところで相対化しようという努力である反天皇制運動とは、原理的な対立点があると考えているのだ。
 私は〈憲法解釈学的錯視〉と読んできたのだが、象徴をひたすら非政治・非宗教というタテマエに引きよせて解釈し、それが象徴天皇制だと強調する護憲論は、事実として象徴天皇制の示している独自の政治的・宗教的統合力(国家の身体としての天皇〈皇族〉があり、皇室神道の神である天皇が象徴であるということから必然的に発生する力であり、それは実法によってこそ根拠づけられているのだ)を見えなくさせてしまうという傾向を不可避的に持っている。
 非政治・非宗教をいう実法上のタテマエによって支えられた象徴天皇制のイデオロギー統合。私たちは非政治性(非宗教性)なのだと自称すること自体の政治性(宗教性)をこそ具体的に批判しなければならないと考えてきた。それは私たちの天皇制批判の思想と運動の原則ともいうべきものになっている。
 護憲派の解釈学こそが、「国事行為」外の天皇(皇室)の行為を正当化する論理(解釈)をつくり出してきてしまったという、皮肉な歴史的事態をも忘れるわけにはいかない(これは枠をはめようとして、結果的に枠の拡大の正当化に加担してしまうという錯視であるが)。
 こうしたことをふまえれば、「護憲派」と反天論(運動)とは、ギリギリのところで対立していることは明らかである。政府の改憲に反対するという点で「護憲」の人々とも共闘しながら、その協力の場で、具体的に、私たちの反天皇制の思想を公然と運動的に主張し続ける必要こそがあると思うのだ。
 「反改憲」という広い枠の中に積極的に入り、憲法論の枠をこえた天皇制批判の論理を運動的に(具体的に様々な切り口から)提示し続けることこそ必要だと私は考えているのである。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.3.15, no.32)













《言葉の重力・無重力》(1)

新しい衣装の下に透けて見える守旧的立場
『和平工作:対カンボジア外交の証言』を読む

太田昌国●ラテンアメリカ研究家


 河野雅治著『和平工作:対カンボジア外交の証言』という本がある。1999年12月、岩波書店から刊行された。本に巻かれたいわゆる帯の惹句には「冷戦後の国際社会の風向きを読み、戦後初めて日本が仕掛けた和平外交。外務省のキーパースンが明かす舞台裏の真実」とある。また「時代の風を読みとれ。外交ゲームの本領」とも言う。著者は外務省の現アジア局参事官であり、参考までに記すと、現在51歳。
 ここまで書けばおわかりだろう、東西冷戦体制の崩壊を大きな契機にして起こった国際環境の変化を受ける形で、長いあいだ内戦に苦しんできたカンボジアに平和をもたらすという目標の下に一連の国際的な試みがなされた時期があったが、本書は、自らそのプロセスに関わり、日本が画期的な役割を果たしたと考える外交官の手になる回顧録である。時代は、和平プロセスが開始された1989年から、和平協定の成立、国連カンボジア暫定行政機構の設立、日本国会におけるPKO(国連平和維持作戦)法案成立、自衛隊のカンボジア派兵などを経て、1993年のカンボジア制憲議会選挙の実施にまで至る数年間である。団塊の世代に属する著者は当時四〇歳代前半、外務省アジア局の南東アジア第一課長の任にあった。
 前天皇の死、天安門事件、東欧社会主義国の崩壊の始まり、イラクのクウェート侵攻、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、ソ連崩壊……と続いた、私たちにとっても忘れることのできない激動の日々と同時代に、このカンボジア和平の試みはあった。当時を思い起してみると、確かにたとえば1990年 6月、日本政府のイニシアティブで開かれた「カンボジアに関する東京会議」の際には、米国の影に隠れて顔の見えないと言われてきた日本が、初めて独自の外交政策に乗り出したという肯定的な評価がメディアでは一斉になされた。カンボジア和平について各国関係者が次々と記録を書き始めている時に、日本が後手をとって競争に負けると、またしても「日本外交には顔がない」と批判されるのでそれを避けるために書いたと著者は明け透けに語っている(朝日新聞99年 1月18日付け「カンボジア和平:日本の工作舞台裏は」)。
 自信と自己肯定に満ちたこの本から、いくつかの重要な特徴を読みとることができる。
(1)河野は、カンボジア和平をめぐって日本独自の動きを模索し始めた時に、米国を出し抜いてはその逆鱗に触れると心配する周辺の声を聞いている。その後の経過は、いくらか自慢めいた、米国高官との友情・信頼物語として薄められて書かれているが、米国の傲慢な在り方から考えると想像に難くはない。防衛協力のための新ガイドライン策定の過程に見えるように、まったく主体性を欠いた対米交渉の局面はいまだ多く見受けられるにはせよ、団塊の世代が主要な部署を占めつつある官僚機構や企業の戦略部門に、「対米追随」を問い「日本が自画像を描く」ことが必要だと考える潮流が生まれていることは確実だと思われる。朝日新聞は2000年 1月19日付けの「日米安保調印40年」を記念する特集記事でその潮流に触れ、社説でも「したたかな(対米)交渉力」を持つことを提言している。河野は外務省という対米追随の目立つ省内で、いち早くそこを抜け出た先例の意味合いをもつ人物なのかもしれない。企業内部に同じ例を探ると、昨今メディアへの登場が目立つ三井物産戦略研究部長・寺島実郎を挙げることができる。全共闘運動体験もちらつかせる寺島の論議についてはいずれこの連載でも触れるが、いずれにせよ今後は、この「自立した」親米派の台頭が徐々に目立つものになるだろう。私たちはその意味で、新たな状況に直面しているのだと言える。
(2)河野の新しさは、しかし哀しいかな、米国にいくらかは物怖じせず、自分のイニシアティブで動いた、という地点に留まる。彼が自ら「外交ゲーム」を楽しんだ様子は、確かに本書から伝わる。それすらもが、日本の官僚世界/政府機構の中では、不思議なことに従来は見られなかったあり方かもしれないが、それ以上ではない。カンボジアがあの内戦に陥った歴史過程、それを招いた大国の責任、和平に関わる国際社会(国連)や周辺諸国の責任−−本書で、この肝心の諸問題が問われることはない。日米軍事同盟を堅持することも、PKOに日本が参加することも、河野にとっては自明の正しい前提である。問いは、したがって、ゲームにふさわしい程度の浅いものになる。折角先駆的な努力をしてきたのに、肝心な詰めの段階では国連常任安保理事国に委ねなければならなくなり悔しい、やはり日本は安保常任理事国にならなければならない、という結論が導かれる。「対米自立」という新しい衣裳の下には、現代世界が抱える問題の根には届きようもない、無惨なほど守旧的で、大国主義を当然と見なす態度が澱んでいることを見抜くことが必要である。
 * * *
新たに連載が始まる。本を読むことに徹したい。他人の本を読むのだから、椎名麟三を少し真似て、「他人の穴の中で」というシリーズ名を考えたが、前例があることがわかったのでやめた。行き詰まった私に代わって、本誌編集部がシリーズ名をつけてくれた。
(『派兵チェック』2000.3.15, no.90)





《書評》

高橋哲哉『戦後責任論』を読む
栗原幸夫

 最初に白状しておくと、私は戦後責任にかかわる高橋哲哉の発言に偏見を持っていた。それはたとえば、「この汚辱の記憶、恥ずべき記憶は、『栄光を求めて』捨てられるべきものなどではなく、むしろこの記憶を保持し、それに恥じ入り続けることが、この国とこの国の市民としてのわたしたちに、決定的に重要なある倫理的可能性を、さらには政治的可能性をも開くのではないか」(「汚辱の記憶をめぐって」)というような言葉が、大衆の間でそれほどポピュラーとは思えない西欧の哲学者、エマニュエル・レヴィナスの言説の文脈の中で語られたり、「恥じ入り続ける」とか「終りなき羞恥」などという言葉がそれこそ羞恥なく語られるある種の言語空間にたいする違和感からうまれたものだった。
 「この国とこの国の市民としてのわたしたち」に向けられる高橋哲哉の主張は正しい。しかしはたしてその「わたしたち」のなかの「わたし」は、これにこころから同感し、「恥じ入り続ける」だろうか。どうも私には、高橋のこのような言い方が共感されるのは、記憶とか責任とかポリティックスというようなタームが、日常的に通用しているごく狹いサークルのなかだけで、世俗の大衆の中では同感よりも反発が生まれるのではないかと思う。しかしもちろんこれは加藤典洋のいう「語り口の問題」にとどまるものではない。はるかに深く「戦後責任」を担うべき主体にかかわる問題なのである。
 しかし私の「偏見」にもかかわらず、こんどの本、『戦後責任論』(1800円、講談社刊)は素直に読めた。この本は、大部分が時間も場所も異にした講演の記録でありながら、戦後責任論講義とでも呼びたくなるくらいに体系的だ。そして噛んで含めるように語られている。高橋哲哉はこの本でまず、責任とは何かというそもそもの出発点から話を始める。そして日本語の「責任」に対応する英語の「レスポンシビリティ」が「応答可能性」という意味をもつことを手がかりに、「レスポンシビリティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれること」だと言う。「私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。」
 だから他者の呼びかけに応えることは責任を果たすことであり、それは良いことである、と高橋は言う。しかしテレビのコマーシャルをはじめ呼びかけの洪水にさらされているわれわれは、日常的にはその呼びかけの大部分を無視して生きているのだから、その無数の呼びかけのなかからどれを選んで応えるかは、この責任=応答可能性論からは答えがでてこない。それで高橋もとつぜん、「一方には『英霊の声なき声を聞け』という靖国派の呼びかけもあるわけですが、どの呼びかけに、どのように応えるのか、それが私たちの自由に属する選択、判断なのです」と言って、その回答を読者にゆだねてしまう。私はこういうやり方を嫌いではない。なぜなら読者を考えさせるからだ。しかも高橋哲哉はこれにつづく別の講演のなかで、元「従軍慰安婦」の呼びかけに対する応答可能性というような具体的な問題を通してこの判断の基準(正義)に多角的な示唆を与えていく。それは説得的だ。
 限られた紙面なのでこれ以上の紹介は端折る。読みやすく分かりやすい本だから直接お読みいただきたい。以下、若干のコメントを付け加える。
 こんどは「偏見」ではないまっとうな疑問を書く。その中心は、高橋哲哉は責任を負うべき個人を歴史と状況の具体性の中でとらえていないのではないか、ということである。もちろんこれは、個人の責任を歴史や状況の方に転嫁して免れようというのではない。戦争責任を個人の倫理拔きに語ることができないのは言うまでもないことだ。戦後責任についても同様だ。しかし日本の侵略戦争はあれこれの個人の発意によっておこなわれたのではなく、この国の独特の社会経済構成から、いわば必然化されたのである。すくなくとも敗戦まで日本資本主義は戦争と不可分であった。人びとの意識もまたこの構造によって規定されている。だから、天皇を始め戦争指導者の犯罪〔2字傍点〕の追及があくまでも彼ら個人の罪責を裁くことになるのと異なり、戦争のなかの国民の責任〔2字傍点〕を問題にする場合、この構造を認識すること、つまり何故という問いが不可欠なのである。
 戦争被害者である他者の呼びかけは、それを聞いた人間のなかに倫理的な責任の自覚を生む。しかしそれはさらにそのような事態を生み出したのは何故かという問いにつづくことによって責任を歴史のなかへと開き、その原因の解明に向かわなければならない。そしてさらにそのような罪あるいは誤りを繰り返さないために、その原因を取り除く行為につなげてゆかなければならない。つまり倫理は認識に、さらに行為(変革)へとつながらなければ、責任は個人の倫理的な自覚ないし倫理的な告白におわってしまうだろう。同じ誤りをくりかえさないためには、いくら決意を表明してもそれだけでは足りない。この構造をさらに深く認識し、それを変革する集団的な努力が不可欠なのである。いかに応答しようと個人だけで責任を負いきれるものではない。いかに決意を固めようと個人だけで戦争を食い止めることはできない。それにはそれにふさわしい「運動」とそれをささえる集団的主体が必要なのである。
(『派兵チェック』2000.3.15, no.90)




《海外情報》

中国・世紀を越える思想論争   
章海陵

 
 世紀が交差する中国で、激しい思想論争が交わされている。一般民衆には知られていないが、思想界全体を揺るがしている。今のところ論争に当局の介入はなく、また両派が政治の力を借りて相手を攻撃しようともしていない。自由主義と新左派が展開している激しい論争は、互いに時代への危機感を背景として、国際的な思想潮流とも接合し、官製のイデオロギーを脱し、中国の改革の現実と結びついている。また、両派の精鋭はそれぞれ、社会の底辺で生活した経験を持っている。両派の激しい舌鋒のうちにこそ、中国の希望の種火を見出すことができるのだ。
 1997年秋、作家韓少功が社長を務める海南省の雑誌『天涯』に発表された、若い研究者・汪暉の「現代中国の思想状況と近代の問題」は、こう述べた。中国はすでにグローバル化した資本主義システムのもとに組み込まれた。自由主義者は体制主流のためにこれを弁護している。その理論は「右派的な政治のために、その政治的合法性の危機を脱するための理論的口実を提供した」と。雑誌『読書』の編集長でもある汪暉は、99年初めにも、「討論の核心は、改革が必要か否かということではなく、また市場が必要か否かでもなく、さらには民主が必要か否かでさえない。われわれが寡頭政治による改革の道を歩むことを本当に望んでいるのかどうか、である」と述べている。
 汪暉の文章は論争の火蓋を切った。焦点は自由主義者の強調する「人間の尊厳」と、新左派が強調する「社会的公正」のいずれを重視するかにある。研究者たちは次第に論争に参加し、新左派と自由主義の二つの陣営が形成された。新左派の代表的人物は汪暉のほか、甘陽(香港大学アジア研究センター、シカゴ大学研究員)、崔之元(マサチューセッツ工科大学政治学部)、韓毓海(北京大学中国文学部)、王紹光(香港中文大学政治学部)らで、彼らの理論的陣地は『読書』である。自由主義の代表的人物は李慎之(前・中国社会科学院副院長)、徐友漁(中国社会科学院哲学研究所)、許紀霖(上海師範大学歴史学部)、朱学勤(上海大学歴史学部)、汪丁丁(北京大学経済学研究所)、劉軍寧(北京政治学者)らで、彼らの思想的園地は『公共論叢』である。興味深いのは、この二つとも中国三聯書店の出版物であることだ。実は論争の相手同士、私的には親しい友人であったりもする。論争は「グローバリズムと近代化」「自由と民主」「市場経済と社会的公正」など、ほとんど中国の政治体制改革と、市場改革の中で出現したあらゆる敏感なテーマに及んでおり、ユーゴの中国大使館がNATOのミサイルに攻撃された事件まで、含まれている。
 新左派と自由主義者の論争の場となっている雑誌『天涯』は、この論争は実質的に「『五四運動』以来三度目の近代化への努力である……『近代』に関する討論は、疑いなく社会思想の新たな分化を示している」と総括している。
 たとえば、新左派は、90年代以来、中国大陸における経済領域は迅速にグローバル化にすすむ過程にあり、国を越えた資本と集権体制の一体化が出現したとみなし、「グローバル化」の背後にある不平等な関係を明らかにしなければならない、という。自由主義者は新左派はあまりに偏っているとみなしている。徐友漁はWTO加盟問題を例に挙げて、「グローバリズムの波が高まったこの20年間に発展途上国の経済成長率は先進国の二倍となった。今後20年、途上国の経済成長率は先進国の三倍になるだろう。グローバル化と世界的な貿易体系が、途上国の経済発展にプラスに作用したのだ」という。
 ほかに、自由主義者は個人の尊厳と自由についての特別な意義を強調する。しかし中国の思想文化の伝統の中で、自由の要素は一貫して正視されてこなかった。わずかに今世紀初めの啓蒙新文化運動の中でようやく注目されたにすぎない。世紀を終えようとしている現在、依然として個人の自由は中心的なテーマになっておらず、制度的な保障も得られていない。新左派は、民主を自由よりも重視する。市場経済のもとでは、自由とは往々にして「奴隷になることの自由」を意味するとみなしている。韓毓海はいう。「今日、特殊利益をもつ者はたしかにより多くの自由を要求している。だが多くの大衆は発言できる場所と自己を表現する方法としての民主を要求しているのだ」、と。一方、自由主義派の徐友漁は、「新左派の思考の出発点は現実ではなく理論だ。欧米左派のグローバル資本主義システムに関する知識と概念を中国に適用し、中国の国情を変形して、新マルクス主義の分析枠に適合させているのだ」という。
 けれども新左派と自由主義者はともに国家の改革の現状を憂慮している。80年代、中国人は衣食を基本的に解決し、90年代には生産力を大きく向上させた。しかし計画経済はけっして市場から去っておらず、政治権力と結合して市場を壟断している。中国社会科学院の経済学者楊帆は、80年代初期に発展することが許された商業資本は、80年代後期には生産資本となり、90年代初期には金融資本に発展した。それぞれの段階で改革と発展があったが、それはまた腐敗の深化を促した。改革による利益は少数の人びとに占有されてしまった、と述べている。彼はまた、少数の人びとの暴利と不法な収入は、共産党の支配下を逃れて国外に移転されている。「中国の資産流出は、おそらく1000億から2000億ドルの間にのぼるだろう」と述べている。
 新左派の韓毓海は、「思想が崩壊した今日、遅れてやってきた自由主義が深く人びとの心に入り込んでいるが、それはもはやひとつの戦闘の号令とはなり得ず、価値中立の装いをこらすだけにすぎない」と指摘している。しかし自由派の朱学勤は、新左派が「この地の市場経済が、けっしてかの地の市場経済と同じではないことを忘れている。それはより多くの権力による規制と牽制を受けているのだ。つねに『見えうる足』が『見えざる手』を踏みつけているのである。新左派が批判する社会の不公平は、より多くはそうした野蛮な『足』によるものであり、その汚れた『手』にその咎めを帰するべきではない」という。
 自由主義思潮が大陸の思想界で窒息させられて50年になるが、90年代の後期にそれが再興した。これは「天安門事件」の反省を通じた最初の「覚醒」である。自由主義者は、理性、法制、妥協と漸進をもって「六・四」式の急進的な革命に代えることが、中国社会を進歩させる唯一の道であると考えた。自由主義思潮の精神的資源は、欧米の学者ハイエク、ポパー、バーリンなどであり、中国の胡適、殷海光、陳寅恪や顧准らである。95、96年の二年間、多くの内外の自由主義者の著作が発掘され、この思想伝統を中国において迅速に復活させたのである。
 新左派の登場も同様に、知識界の「天安門事件」の反省の結果である。彼らは努めて海外から学術的栄養を吸収し、その思想的武器庫には、欧米の新マルクス主義、フランクフルト学派、フェミニズム、エコロジーなどがある。ジェイムスン、アミン、サイードらも、新左派に思想的探索路を与え、フーコーの理論が、新左派の自由主義を批判する武器となっている。
 上海の王暁明は、「90年代以来、普遍的に存在してきた一種の情緒として、中国が市場経済改革と近代化の道を進めさえすれば、国家は自然に理想的な状態に到達するとして、中国の複雑さや、市場経済改革の複雑さ、前進することの困難さをおろそかにしてきた。論争は、こういった楽観的な情緒を打破した」という。
 新左派と自由主義の学者は、ともに「書斎の学問」に甘んじてはいない。彼らは少なからず社会の底辺で生活したことがあり、苦労を体験し、国の実情についても深く認識している。彼らの学問は盲従せず、虚飾に満ちた叙述をしない。彼らが今後の中国の運命に影響を与えることができるか否かは、彼らの思想的な質にかかっている。その優秀な頭脳が中国を新しい未来に導いていくことを期待したい。
(『華夏文摘増刊』202号/2000.1.10 所収)(北野誉訳)









ゴラン高原の自衛隊 【再開 その9】

森田ケイ

 日本時間2月28日午前6時、アラビア石油がサウジアラビアとクウェイトの旧中立地帯に持つカフジ油田、フート油田など、サウジアラビア分の採掘権益が失効した。この日の共同通信から、いくつかのポイントを抜き出しておく。●クウェート分の権益は2003年1月まで残っているため、現地での操業は継続するが、「日の丸原油」の象徴として約40年間保持し続けた最大級の自主開発油田権益の半分が失われる。●アラビア石油の現地資産は、サウジアラビアが無償で接収する。これに伴い、同社の原油販売も半減するが、日本への供給は同国が肩代わりして行う。●同社の資産は半減するが、負債は残る。さらに接収に伴う様々な費用で、今後多額の特別損失の計上が見込まれる。
 もちろん、この権益延長交渉の中心課題は、総工費2200億円(建設後25年間の運営維持費を含めると総額5000億円)といわれる鉄道建設計画だった(本紙86号に掲載の拙文を参照のこと)。28日に記者会見した同社の小長啓一社長は、目に涙をためながら「痛恨の極み」と語った(共同通信・同日付)とされるが、そもそも、この社長・小長が「『鉄道建設を私のライフワークにしたい』と大見えを切った」(朝日新聞・2月17日付)ことが発端の一つのようだ。元通産事務次官の小長としては、原油(=「戦略資源」)確保の一環としてある“日の丸原油”(=アラビア石油)への政府の積極的な支援を期待しただろうし、通産省の天下り先としてのアラビア石油という会社の維持も重要だと考えていたのだろう。
 しかし、状況は変わってきていた。「一九八〇年代、米国や英国に石油の先物市場が発達して、メジャー(国際石油資本)の市場支配力が弱まった。[中略]商社幹部は『石油はカネさえ払えば、どこからでも手に入る。日本の自主開発拡大政策は時代遅れ』と言う」(朝日新聞・2月29日付)。
 まさにここに、“原油の安定供給”を錦の御旗としてきた石油公団の問題がある。石油公団は「1960年代から1970年代にかけて石油自主開発の重要性が認識されると同時に、我が国企業に対する政府支援の要望が高まりました。政府はそのような要望に応え、我が国海外石油開発事業の総合的推進母体として」1967年に設立された「石油開発公団」で、1978年に「国家石油備蓄の必要性から石油開発公団法を改正し、国家石油備蓄事業を実施することとなり」これに伴い、名称を「石油公団」とした(注1)。
 この石油公団が何をしてきたか。2月3日付の朝日新聞は、「一九六七年の総合エネルギー調査会で、原油供給源の分散化などを目的に、自主開発の比率を三〇%程度まで拡大する目標が設定された。石油公団のこれまでの出資と融資の累計額は約一兆八千六百億円で、このうち国の資金は一兆二千億円(九八年度末現在)」と報じた。しかも現在の日本の原油輸入における自主開発比率は15%(今回のアラビア石油の一件で、比率はさらに2%下がる)。そして同記事は、石油公団が抱える「回収の見込みが少ない債権額は四千億円を超える」として、石油開発会社が失敗した具体例を挙げている。例えば1974年設立の「サハリン石油開発協力」に、石油公団が「出資金、貸付金、棚上げ利息、保証債務の合計」で464億円をつぎ込んだが、解散準備中。 1980年設立の「日中石油開発」には1488億円、今年中に解散する方向という。
 つまり、アラビア石油のカフジ油田発見(1960年)を契機とし、高度経済成長からオイル・ショックを経るなかで、日本国家(=石油公団)は、石油開発各社に大金(=国家資金=税金)をバラまき、そして石油産業界は「油田の探鉱、開発のために試掘井一本を掘削するにも陸上では一億〜十五億円、海上では五億〜四十億円の巨費がかかる。その割には、油田、ガス田の発見率は世界平均数%」(産業経済新聞・2月 29日付)という“ギャンブル”を続けてきたのだ。
 一方のサウジアラビアは、人口の急増などの理由から、これまで以上に外国企業の投資を積極的に求めているという。「欧米メジャーはサウジの戦略変化に敏感に反応し、ここ数年、石油・ガス開発に関する合弁事業計画などを企業トップ自らが王室首脳に持ちかけてきた。ところが日本は国内の経済事情もあって、官民とも冷淡な対応を示し続けた」(朝日新聞・2月29日付)。具体的には、「日本からサウジへの投資は、八〇年代半ばごろまでは石油化学プラントなどの大型投資が四件あった。その後十年近くは大型投資が途絶え、九六年以降は小規模な投資が四件あった程度」(朝日新聞・1999年7月30日付)なのだという。
 “カネは出すから石油をくれ”と言うだけの日本(政府/企業)と、“将来のことも考えて投資するから、一緒にビジネスを”と働きかける欧米各社。サウジアラビアがどちらをパートナーとしたいかは、明らかだ。欧米の場合、武器輸出や軍隊の駐留という“魅力的”な付属オプションも、ある。
 もう一つ、新聞報道を引用する。「ベイルートからの情報によると、レバノン訪問中のサウジアラビアのアブドラ皇太子ら同国訪問団は三日、レバノン政府と総額一億三千万ドルの有償援助を追加する覚書に調印した。/一方、レバノン各紙は同国政府が日本赤軍メンバー五人の日本移送拒否を決めたことで、日本政府が一九九六年に決めた総額一億二千万ドルのレバノンへの有償援助(円借款)を破棄する可能性を指摘している。/レバノン政府は近く五人の申請している政治亡命認否の結論を下すが、同時期に調印された日本の円借款とほぼ同額のサウジ有償援助が、レバノン側にとって日本政府の圧力への対抗策の意味合いを持つとの観測も現地では流れている。」(東京新聞・3月4日付)
 この動きが事実とすれば、その意味は大きい。つまり、今回のアラビア石油の一件も含めて、“戦後日本”を支えてきた基本構造の不可欠の一要素としてあった“国家的/歴史的な石油・エネルギー政策”が完全に破綻した、というだけではない。中東世界(および今後の“中東和平プロセス”全体)にとって、日本国家とその資本は必須な存在ではない、との意思表明なのではないか、ということだ(注2)。  (3月10日 記)

注1:石油公団のホームページから(http://www.jnoc.go.jp/)注2:ニューヨーク・マーカンタイル取引所の原油先物相場は、1990年の湾岸危機以来の高騰中。米国産標準油種WTIの4月渡しが3月7日、一時1バレル=34.2ドルまで上昇、との報道があった。サウジアラビアは今、基本的に強気でイケルと考えているのではないか、という要素もあるだろう。
(『派兵チェック』2000.3.15, no.90)