alternative autonomous lane No.20
1999.9.19

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目 次




【議論と論考】

東ティモール情勢を、PKF凍結解除に利用しようとする日本政府と右派言論(太田昌国)

象徴天皇制と「四つ巴」の現状(栗原幸夫)

日の丸・君が代・天皇制(大津健一)

住基法改悪と戦後史の転換(佐藤文明)

「二重思考(ダブル・シンキング)」・「言葉の崩壊」について−−山口二郎の「正論」をめぐって(天野恵一)

いまこそ、「憲法論議」をとりもどせ(桜井大子)

皇室外交」と憲法――小沢一郎の「日本国憲法改正試案」をめぐって(天野恵一)

ゴラン高原の自衛隊(森田ケイ)

【表現のBattlefield】

第145回国会をめぐる攻防は、運動と表現の問題を突きつけてきた――魅力のない運動は力を持たぬ、書くのは簡単なのだけど(桜井大子)













東ティモール情勢を、PKF凍結解除に利用しようとする日本政府と右派言論

太田昌国●ラテンアメリカ研究家

 東ティモールの将来の地位を問う住民投票の結果が明らかになった数日後、いわゆる残留派私兵が独立派の住民に対する暴行を続ける情勢を観察しながら、読売新聞政治部の笹森春樹は書いている。「日本政府は住民投票後の混乱に備え、邦人救出のため海上保安庁の巡視船をディリ沖に待機させるなど、邦人保護については素早い対応を見せた。だが、独立派住民の生命が大量に奪われようとしている現実を直視し、国連平和維持軍(PKF)派遣を含む治安回復をめざした国際社会の動きに積極的に関与しようという姿勢は、今のところ見られない。というのも、国連平和維持活動(PKO)[筆者註:民衆の軍事アレルギーがまだしも強かった戦後50年間を、軍事用語の使用を忌避しながら軍事の実態を作り出すという姑息な手段で乗り切ってきた支配層の意図を思えば、「活動」ではなく「作戦=operation」と読もう、と相変わらず私は主張する]協力法でPKFの本体業務 の参加が凍結されており、治安回 復のための国際的な議論に加わりづらいという事情があるためだ。(……)焦眉の急の治安回復が実現できなければ、独立プロセスそのものが崩れかねない。政府と各党は、今回を機にPKF凍結解除の法改正に早急に動く必要がある」(同紙9月8日付朝刊)。
 マスメディアの一部が東ティモール情勢を利用してPKF解除を扇動しはじめた9月上旬に、自民党と公明党間の政策協議においては、「PKF凍結解除については五原則の堅持を条件に合意する」旨の確認がなされた。だが、(1)停戦合意、(2)受け入れ同意、(3)中立性、(4)上の原則が崩れた場合の中断・撤退、(5)武器使用は生命防護に限定−−から成るPKO参加五原則なるものすらも、カンボジア、モザンビーク、ゴラン高原と続けられてきている自衛隊派兵の過程で踏み躙られてきた。自民・公明両党の合意は、なし崩し的に事実上解除してきた「凍結」を、前国会の余勢をかって法律的に定めるという意志を固めたものと解釈することができる。
 ところで、ハビビ・インドネシア政権も12日になって渋々受け入れを表明した国連平和維持部隊の派遣は、他ならぬ現地・東ティモール独立運動派の指導者たちによっても歓迎されていることが、この間の報道から見てとれる。去る7日、7年ぶりに釈放された独立運動指導者で、ゲリラ組織ファリンテルの総司令官シャナナ・グスマンは、釈放直後、大要つぎのように語った。「小さな、自衛の手段さえない同胞が直面している深刻な事態から彼らを救うには国連平和維持軍しかない」。さらに、ハビビが同軍の受け入れを表明した12日には「ハビビ大統領がこの勇気ある決定をしたことをたたえるとともに、国連と国際社会がただちに行動するよう訴える。時を失うことはできない」とも語っている。
 このように、東ティモール情勢を利用してPKF解除へ突き進もうとする日本政府とこれを積極的に後押しする右派言論がめざす方向性は、現地・東ティモール独立派の願いに合致しているかに見える。だが、両者は似ても似つかぬ正反対の回路を伝って、 1999年9月段階での「きわめて現象的な」一致点に辿り着いているにすぎないことを、ここでは見ておきたい。
 インドネシア政府に拘束され獄中にあった時期のシャナナ・グスマンの最後のメッセージを伝えているのは、青山森人著『東チモール:抵抗するは勝利なり』(社会評論社、99年8月刊)である。この本の資料編に収められている チピナン刑務所で書かれた「1999年・新年のメッセージ」は一読に値する。彼は今年前半にも、将来独立する東ティモールが、国軍を持たない非武装社会になる展望を語っていたと伝えられたことがあるが、以前から洩れ聞こえてくる片言隻語にも確固たる政治哲学が感じられた。獄中からのメッセージは、その思いを裏づける。グスマンはハビビの怯懦を当然にも見抜いている。国際社会、とりわけ「民主主義と人権のチャンピオン」を気取る国々への幻滅も深い。1975年12月インドネシア軍の東ティモール侵略の前日に米国大統領フォードと国務長官キッシンジャーがスハルトに会い、援助と武器供給の継続を約束したのだから、これは翌日行なわれる侵略のゴーサインであったことは可能な推測の範疇にある。半年前ベトナムで喫した手酷い敗北を、米国は必死に取り繕うとし、スハルトはそのための盟友であったのだ。こうした内外の敵対者に対する厳しい批判と同時に、独立派への自戒の言葉も多い。正しさを過信し、野心に溺れることを戒め、解放闘争の「英雄」が独立の「英雄」になる第三世界の運動の過ちにも触れる。山のゲリラであったことへの誇りから、軍事的力に依存する「乱暴者になるのはやめよう」という言葉が、おそらく国軍廃止への思い・展望に繋がる考えなのだろう。
 これだけの考えを持ちつつ、グスマンらは、35年に及ぶ直接的な支配者・インドネシアからの独立を達成するという戦略的展望の下で、国連平和維持軍に期待するという戦術を駆使している。その戦略的展望のなかには、東ティモール侵略後も一貫してスハルト体制を支持し続け、インドネシアに対するODA(政府開発援助)の最大の供与国であった日本のイメージもくっきりと描かれているはずである。グスマンらの「国連平和維持軍歓迎」の立場は、いまさらハビビ政権への兵器売却中止をちらつかせた米国や、平和維持軍への大量派遣を目論むオーストラリアのように「民主主義と人権のチャンピオン」風にふるまおうとする国々の立場とは明確に異なる。もちろん、それは、東ティモール情勢を奇貨として軍事的な露出をいっそう企てようとする日本政府・右派言論の立場との間にも、天と地ほどの開きがある。メディアの情報操作に抗して議論の出発点をそこにおくために、真意を語るグスマンらの発言にもっと耳を傾けたい。(99年9月14日 記)
(『派兵チェック』No.84, 1999.9.15 号)




















象徴天皇制と「四つ巴」の現状

栗原幸夫●文学史を読みかえる研究会

 この連載(「チョー右派言論を読む」)も今年いっぱいで終りになるそうで、まったくいい潮時だろう。と言うのも、最近のチョー右派言論には、さっぱり面白いものがないのである。なぜ面白くないかといえば、現実の方がはるかに言論の先を行ってしまったからだ。一年前に日の丸・君が代の法制化を主張した右派言論は皆無だったはずだ。それが自自公という野合政治の力学のなかで、ヒョウタンから駒がでるように実現してしまう。盗聴法しかり、改正住民基本台帳法しかり。これらを強行した政府の側にはまともに論じるに値する言論など皆無である。
 しかしあえて想像力を働かせて現状を透視すると、意外におもしろい構図が見えてくる。ごくごく仮の分類で「右」と「左」とわけてみると、この二つが整然と対立しているのではなく、「右」のなかにも「左」のなかにも対立があって、いわば四つ巴になっているのが見えてくる。その対立はいままでの党派的な対立=差異とはちがって、もうすこし根本的なものである。それがもっともよく示されたのが「日の丸・君が代」法制化問題にあらわれた象徴天皇制をめぐる立場の違いだ。天皇制をどうするかというような、ややもすれば現実の生活からは離れていると受け取られがちな問題提起ではなく、「日の丸・君が代」という具体的なモノが問題であったために、それと不可分の天皇制がこれも具体的な問題として受け取られた。
 「日の丸・君が代法制化問題で真に問われているのは、じつは、象徴天皇制をどうするのか、二十一世紀の日本でもこれを維持するのか、それとも不要とするのか、という問題なのだ。」「戦後半世紀を過ぎ、二十一世紀を展望するとき、今回の問題は、日本が日の丸・君が代とともに、それと不可分の象徴天皇制からも離脱するという選択を真剣に考慮する『決定的な機会』になるべきではないか、と私は思う。」(「真に問われているのは象徴天皇制をどうするかだ」、『論座』9月号)という高橋哲哉の主張に共感したわれわれの仲間は多い。私は高橋がこの論文で「日の丸・君が代」に反対する根拠としてあげている論点のすべてに賛成だが、そのうえで若干の保留をつけたい。それはこの「真に問われているのは象徴天皇制をどうするかだ」という主張を運動のなかに持ち込んだ場合、それは運動の実体に即さない観念的な最大限綱領主義に堕してしまわないか、という点がひとつ――「日の丸・君が代」法制化に反対だが象徴天皇制は支持するという人は結構多い――、しかしそれ以上に私がこだわるのは、象徴天皇制が問題だという高橋の論が、前記の「四つ巴」の対立を「右」「左」の、つまり象徴天皇制護持・強化か、象徴天皇制廃止か、のふたつの対立に単純化してしまっているのではないか、はたしてそれは現在われわれが直面している課題を考えるうえで有効なフレームか、という疑問である。
 現在、天皇制の存続を主張する立場はおおまかに言って三つあるとおもう。第一は、九条をふくむ象徴天皇制国家を規定した現在の憲法を護持する立場。戦後民主主義派だ。第二は、象徴天皇制を立憲君主制に改変し、天皇に(比喩的な意味でだが)「三分の一の権力」をあたえようとするもの。これは「普通の国」路線だ。第三は、われわれの言う「チョー右派言論」にあらわれた「天皇抜きのナショナリズム」。もちろんこの命名は実態をあらわしてはいない。象徴天皇制を文化天皇制に改変し、天皇を一切の政治的な機能から解放することによって逆にその「国民統合」力を高めようというもの。古代王権の構造の現代的復活と言ってもいい。一種のロマン主義である。
 当然のことながら後の二つは明文改憲をめざす。しかしここで注意しなければならないのは、どのような立場のものであれ、現在の憲法を明治憲法にかえせと主張するものはいないということだ。最近の事態を見て戦前への回帰だという人が少なからずいるが、そんなことはない。象徴天皇制を戦前の絶対天皇制にかえすことなどできないのである。最近は、戦前・戦中の天皇制を立憲君主制だと主張するものが、自由主義史観派だけでなくいわゆる進歩派のなかにも見られるが、独立した統帥権をもった天皇を大元帥として頭に戴いた帝国軍隊を背骨とする立憲制国家などというものはあり得ないのである。
 現在われわれが直面しているのは日本の過去への回帰ではなく、戦後国家の超克をめぐる新しい事態なのだ。もちろんその結果うまれる日本国家が過去の絶対主義的な国家や戦後国家よりも良いなどということはない。ワイマール共和国の後に生まれたナチス・ドイツがワイマール共和国よりも良いとはとうてい言えないものであったように。しかしまた、多くのドイツ国民がナチス国家の成立を喜び支持したのも事実である。なぜならナチスはロマン主義を身にまといながら「新しいもの」「解放する者」としてやってきたのだ。これに抵抗する側は、現状維持か、あるいは観念的な革命スローガンで対抗しようとした。大衆の「魂」をつかんだのはナチスだったのである。しかしこの問題については次回にふれよう。
 いま、われわれが集中して考えなければならないのは、このような戦後国家の超克が課題となるときに、米国の経済的なバブルの崩壊が、日本にどのように波及するかという問題である。素人のたぶんに主観的な考えに過ぎないが、周辺事態法の最大のターゲットは、じつは日本の「国内事態」なのではないか。予想される米国経済の崩落、財政危機をできるだけ日本にしわ寄せしようとする米政府、そのしわ寄せを「国民」に転化する日本政府――ついに立ち上がる日本人民(!)一連の法整備はこの大衆の反乱にたいする日米の軍事協力による治安対策なのではないか。なに古い? う〜ん、どうせオレは古いよ。(『派兵チェック』No.84, 1999.9.15 号)















日の丸・君が代・天皇制

大津健一●日本キリスト教協議会幹事

 ■二つの流れ
 二〇七日間続いた通常国会が八月一三日閉会した。この国会が終わってみて、この国の前途に大きな不安を抱いているのは、私一人だけではないはずだ。かつて歴史学者A・トインビーは、歴史が問いかけることに誠実に答えなければ、歴史は繰り返し問いかけてくる、と述べたが、私たちはこの国の敗戦の中で問いかけられた事がらに誠実に答えてこなかった。そしてそのつけを今払わされているように思う。
 通常国会が終わって、私はこの国の二つの流れが明確にされてきたように思う。一つは、日本が完全にアメリカの世界戦略の中に組み込まれ軍事国家としての歩みを始めたことである。旧ガイドラインでは、主に日本有事におけるアメリカの軍事的支援を取り決めたものであったが、新ガイドラインでは、アメリカが行う戦争に日本はいつでも協力しなければならない内容を持っている。そしてアメリカ軍による日本全土の基地化が今後推進されることになる。しかし、これは単なる日本のアメリカへの従属政策ではなく、政治権力者たちの本当のネライは、有事法制化などによって憲法九条を空洞化させ、日本の軍事化への道を開くことである。自国の海外権益の保護という点において日米両国の支配者の利害は一致している。
  日本の軍事化の方向は、今後有事法制化問題や憲法改悪に関する論議を通して推進されることになる。
 一方、日本がもくろむもう一つの危険な流れがある。それは天皇制を基盤にしたナショナリズム(国粋主義)への回帰である。これは八月一六日付けのタイム誌にも「日本 ナショナリズムへの回帰」という特集記事として記載されている。回帰だというのは、明治以降取られて来た富国強兵政策とそれを支える原理として使われてきた天皇制への回帰である。敗戦後も、最高の戦争責任者である天皇の責任を追求せず温存してきたあの天皇制である。「日の丸・君が代」法制化があたかも唐突に出されたように見えたが、すべて天皇制強化というシナリオのもとに出されてきたものと捉えることが正しい。私たちは新ガイドライン反対の取り組みの中で、この次は必ず靖国神社国営化法案が出てくると予想したが、案の定終盤国会の流れの中での野中広務官房長官の靖国神社に関する発言で明らかにされた。
 政治権力者たちは、戦後の「謝罪外交」に別れを告げ、二一世紀に向かう日本として「強い日本」の再興をイメージしているように思われる。この意味で藤岡信勝や小林よしのり、石原慎太郎などの自由主義史観のかつぎ手は、それを補完する役割を果たしている。新ガイドラインに見られる戦争への道が国家の軍事的側面を強化するものであるとするなら、「日の丸・君が代」の法制化、天皇在位一〇年記念式典、靖国神社国営化の構想などは、「強い日本」を支えるイデオロギーとしての天皇制の強化への道であると言える。我々を再び戦争に駆り立てる軍旗・軍歌としての「日の丸・君が代」であり、これから生み出されるであろう戦死者の対応策としての靖国神社国営化の構想である。
 小渕恵三首相は、八月一三日の国会閉会後の記者会見で「富国有徳」の国づくりを述べたが、この発言は、「日の丸・君が代」の学校現場や市民生活の中での押しつけ強化という問題だけでなく、国家による新たな教育への介入を意図するものとして受け取ることができる。「強い日本」を担う期待される人間像が提起されることにも警戒が必要である。
 今日の日本には、アメリカの世界戦略に追随する姿と、「強い日本」を支える天皇ナショナリズムの再台頭という二つの流れが共存しているように思う。しかし、この二つの流れは相対立するものを内含しているが、日米の利益が一致するところにおいてのみ協力関係が維持されることになる。しかし、私たちにとってはっきりしていることは、この二つの流れがアジアの平和、特に東北アジアの平和に貢献するものでないことだけは確かである。

 ■忘れてはならないアジアの視点
 八月四日の「衆議院国旗及び国歌に関する特別委員会」における仙台の地方公聴会の公述人として立ったとき、ある国会議員が「あなたはアジアの戦争被害のことについて感情的にいっているが、それと『日の丸・君が代』となんの関係があるのか」と質問したのを思い出す。この質問に象徴されているように国内の賛成派の論議は、「日の丸・君が代」の定着化論であり、「日の丸・君が代」が持つ歴史的背景を無視するものであった。
 日本のアジアへの侵略戦争、植民地支配の象徴であった「日の丸」、それを支えた天皇(制)をたたえる歌「君が代」の法制化は、日本軍によって経験させられた台湾、中国、朝鮮半島などのアジアの人々の心の中にいまも残るトラウマ(いやされることのない深い傷)に触れるだけでなく、戦後一貫して放置してきたアジアの戦争被害者への国家の責任を覆い隠すものであると言える。これは、決してアジアの戦争被害者たちが死ぬことによって消し去られていく問題ではなく、今後幾世代にも亙って歴史の記憶としてアジアの人々の間に語り継がれていく問題である。私個人のアジアの人々との出会いの経験の中でも、アジアの人々の心の深いところで「日本人を信用していない」という思いを強く感じさせられる。戦前だけでなく敗戦から今日にいたるまで、私たちはアジアの人々から信頼を得る行為をしてこなかった。アジアの戦争被害者による日本政府の謝罪と補償の要求になんら誠意ある応答をしていない。国家として心からアジアの戦争被害者にお詫びをし、その具体的行為としての国家補償がない限り、「日の丸」はアジアの人々の血のしるし、「君が代」は最高戦争責任者の天皇(制)を賛美する歌でしかない。
 そして今、戦争法といわれる周辺事態法などによって北朝鮮や中国などに対する敵視政策をとり、「日の丸・君が代」を国旗・国歌とする法案を、国民の間に定着しているという論理だけで可決採決して通してしまう国のあり方を心から恥ずかしく思う。

 ■今後の取り組み
 「君が代」の「君」は、象徴天皇であり、「代」は、そのような象徴天皇のもとにある日本であるというこじづけの解釈が国家の名においてなされ、それを国民に押しつける国家の体質はファシズムだといわざるを得ない。「日の丸・君が代」の押しつけは、「良心・思想の自由」への侵害である。また、「即位の礼・大嘗祭」によって明らかにされた「神的権威」を持つ天皇賛美を強制することは、「信教の自由」への侵害でもある。国家が私たちの内面にまで介入するとき、私たちは、はっきりと「否」という姿勢を貫く必要がある。悪法を法として受け入れないで抵抗を示すことは、私たちの良心の戦いである。指紋押捺制度や常時携帯制度を含む外国人登録法の不当性に対して、在日韓国・朝鮮人が、指紋押捺拒否という非暴力抵抗運動の先頭に立って戦ってきた。これらの運動を先例として、有事法制化に対しては、戦争に協力しない非暴力不服従運動を、「日の丸・君が代」に対しては、掲揚しない、歌わない非暴力抵抗運動を広げていくことが必要だと考えている。そのためには、一つひとつ(一人ひとり)の抵抗運動を孤立化させないための支援体制をどうするかを同時に考える必要がある。この点において各地での連帯運動と、それを相互に結び合わせる全国的な連帯の輪を広げることが求められているように思うのである。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.26, 1999.9.8号)



















住基法改悪と戦後史の転換

佐藤文明●戸籍研究家

 自自公の連立が動かぬものとなって、悪法の一挙成立が濃厚となった八月のとある集会で、ある参加者が「今国会という言い方ではだめ。第一四五国会であることを銘記すべき」と発言した。たしかに今国会が、これまでの戦後国会と一線を分かつ重要な歴史の転換点として、後世にも振りかえられる特別な国会となる可能性は大きく、それを第一四五国会と銘記する必要があるのは事実である。
 もっとも、この転換点をいくら銘記したところで、私たちがこの事実に反撃していく足場を持つことにはならない。私たちはむしろ、どうしてこのような事態に至ったのかをきっちり整理した上で、効果的な反撃を組織し、この国会の特別な意味を無化していく必要があるだろう。
 それは後日の課題とするとして、ここではとりあえず私が三十年間ウォッチングしてきた国民総背番号制の法制過程の中で、見えてきたことをベースに、盗聴法などの「治安法」と「日の丸・君が代」法案成立の背景を考えてみようと思う。
 総背番号制を考えるとき、わたしは政府を一体としてみるのをやめなければならないと感じている。というのも、そもそもこの構想は対立する政府内勢力によって別々に進められてきたからである。ひとつは一九六七年にスタートした大蔵省をバックとする七省庁の「行政統一コード」検討会である。もうひとつは同年の住民登録法から住民基本台帳法への転換を足場に「戸籍・住民票のコンピュータ化」を目指す法務省(入管局は旧内務省警保局外事課)、自治省、警察庁の旧内務省グループの検討会である。
 両者は明らかに政府内での利害をことにするグループ。内務省は戦前“省の中の省”として国のグランドデザインを描いてきた(結果は戦争への道)。そのために戦後失脚し、各省庁に解体され、代わって“省の中の省”として国政のリーダー格に浮上したのが大蔵省だった。大蔵は自らの省益を確保するため、伸びた税収の配分を通して、経済官庁優位の政策(通産、科技、経企など)を進め、内務省の復活を許さない現実的な(この点で革新勢力が果たした役割は小さい)力となった。
 大蔵が組織した七省庁会議には旧内務省系省庁が一切含まれていない(労働、運輸、建設はもちろん厚生も)。行政の効率化に「統一コード」は必要だが、これを内務省系が運用すれば管理支配の道具になるからだ。もっとも大蔵はそれを恐れたのではなく、管理支配の道具となれば民衆の反対が起き、行政の効率化が進まなくなるのを恐れたのだろう。
 だが事態は意外な展開を示す。一九七〇年に「行政コード構想」が発表されると「国民総背番号制」反対運動が激しく盛り上がり、プライバシー危機が叫ばれる。その結果、厚生省をキーとした(このころになると厚生は予算増額の必要上、大蔵の配下となり大臣も大蔵出身が歴任する)統一コード構想はとん挫し、自治労、全電通による「プライバシーを守る国民中央会議」が発足する。「コンピューター導入を前提に、その環境を整える」という、異色な組織だったが、プライバシーを守るという面での求心力は大きかった。
 大蔵が一九八〇年代にグリーンカード制を導入したとき、これを切りくずしたのは金丸信と春日一幸だが、大蔵は背後に自治省がいたと見ている。また「中央会議」もカード制反対に回るが、その後の中途半端は個人情報保護法の制定には、なぜか協力している。
 九〇年代に入ると「中央会議」は解散するが、厚生省の基礎年金番号に大蔵の納税者番号制が相乗りする国民総背番号制が急に現実味を帯びてくる。自治省と自治労はこれに抵抗。共済年金の厚生年金への統合拒否をちらつかせ、自治労が「中央会議」に代わって厚生省と交渉を重ねた。プライバシーの国際基準クリアーを迫った(というより、厚生省が呑めない難題を押しつけた節がある)のだ。
 こうした中で突然降ってわいたのが、大蔵省スキャンダルであり、厚生省スキャンダルだった。省ぐるみのスキャンダルを免れるには旧内務省系省庁のご機嫌をとるほかはない。政府内で自治省の優位が確立していくのである。また、阪神大震災、オウム事件などの過程で警察、検察の力の強化が期待され、内務省復活までもが叫ばれるようになる。
 色を失った厚生省は一九九七年、ひっそりと基礎年金番号を各人に通知。大蔵省ももはやこれに乗るわけにはいかなくなってしまう。その上で「住基ネットワークシステム」という自治省構想が浮上し、この一四五国会で一気に成立したのである。これを一般的な「国民総背番号制」批判で済ませるわけにはいかないだろう。ここには戦後政治の終わり、戦後の終わりが象徴的に見て取れる。
 経済の低迷により大蔵の力の源泉だった予算の配分権はゼロシーリングで失われ、強い省庁はマイナスシーリングを免れるため、大蔵省への睨みをきかす。社会への不満と不安とが防衛と治安の強化に結びつけられ、防衛庁と警察庁(自治省)が肥っていく。こうした中で、新ガイドライン、盗聴法を含む組対法三法、住民基本台帳法改悪案などの舞台が設定された。「日の丸・君が代」の法制化はこの流れに便乗する形で突然、襲ってきたといえるだろう。
 思えばかつての敗戦で解体された軍部と内務省は「いつか仇をとろう」と考えてきた。新憲法同様「アメリカにやられた」とだけ考えた。すべてはアメリカによる「日本弱体化政策だ」と……。この右翼・国粋主義的な発想の多くは戦後、行き場を失って、文部省の外郭団体の中にもぐりこんだ。防衛庁の周辺にもいかがわしい団体は多いが、文部省は別格である。彼らの仕事は反共、反日教組、そして反民主主義のプロパガンダ。そんなものに国民の税金が使われてきた。
 そして、その復讐が、こともあろうにアメリカの手助け(安保条約のガイドラインを拡大するという形で)によって進んでいる。政府内にはこの動きの背後に「CIAのコントロールが働いている」とみる人もいる。私もその心証をいくつかつかんでいる。そしてまた、政府はなお一丸ではない。それを見落としてはならないだろう。住基法改悪の審議の過程で、厚生省は一貫して住基番号を無視(費用対効果の面から基礎年金番号を利用する、と主張)した。大蔵省も納税者番号として何を用いるか「なお検討中」とし「住基番号に乗るべき」とする与野党の追及をかわし続けた。
 ここでわたしたちは参議院民主党の一部が「住基番号に乗るべき」と政府を追及したのを見落としてはならない。彼らは原案反対を装いながらその実、自治省にエールを送ったのだ。そして、小山峰男(民主党)が地方行政警察委員会の委員長を辞任さえすれば廃案に追い込めたはずの同法を、わざわざ中間報告に立って、委員会審議を無視した異例の本会議採決に荷担した。
 この委員長の出身母体も自治労だが、勘ぐれば自治労は三十年も前から、自治省の差し金で動いていたとも思える。「国民中央会議」は大蔵構想をつぶすためにだけ機能した。省益の追求に労組までもが巻き込まれているのだすれば、われわれ市民はより厳しい監視のを目を育てなけれならない。組合員もまた、労組幹部の監視体制を確立する必要がある。
 思えば住基との戦いは、納税者番号制反対を足場にするほかなかった。が、これは結果的に自治省が仕掛けた土俵に乗ることを意味した。これによってわれわれは、政府内部の矛盾を暴き出し、村支配や談合構造を批判する手だてを失った。だが、納番制はなお先行きが不透明で、すんなり住基番号に乗るとは思われない(そうなれば大蔵はやがて地方徴税権をも自治省に奪われる)。
 ともあれ、この第一四五国会で、日本の戦後後が踏み出された。しかしなお、この展開があまりに急激だったため、これを憂慮する人は多い。総背番号制にしても(番号化は三年後、カード化は五年後)、「日の丸・君が代」にしても(先取り強制されているので、来年の卒業式が現場での正念場となる)、闘いの本番はこれからである。つまり、主戦場はそれが機能する日常にある。より広範な人たちの心を集めたい。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.26, 1999.9.8号)

















「二重思考(ダブル・シンキング)」・「言葉の崩壊」について――山口二郎の「正論」をめぐって

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 前号の本紙((『派兵チェック』No.83, 1999.8.15 号、『aala』No.19に再録)の座談会(「歴史的悪法を大量生産した国会と私たちの運動」――赤石千衣子・高田健・国富建治と私が参加)で私は、社民党の議員たちが「日の丸・君が代」についても一貫して反対してきたかのごとくふるまい続けていたことにふれ「ひどいこともしたけれども心をいれかえて闘います」という姿勢ぐらい示してほしかったと述べた。こういう気分であったのは、もちろん私一人ではなかったはずである。
 衆議院での「日の丸・君が代」法案の採決を傍聴した時、村山(社民党・元日本社会党委員長・元首相)が反対票を投じ、自民党・自由党などの議員から大きなヤジの声があれこれ発せられた。この時のことで、私たちは「立場は反対で、村山の反対投票はよかったけど、ヤジる気持ちは、わかるよな」というような会話をよく交わしたのだ。
 1994年、当時の村山首相(社会党委員長)の下で、社会党は安保体制は堅持、自衛隊は合憲、「日の丸・君が代」は「国旗・国歌」として国民に定着していると是認、 PKO法も是認という原則の転換を公然と行なった。村山ら社民党となったグループは、「日の丸・君が代」についてはそれをまたかなり逆転させたわけである。なんの説明もなしに。反対して当然だが、この年の党大会の時に右翼が「赤旗社会党は『反省』して日の丸社会党に生まれ変われ!」と叫んでいたが、「生まれ変わり」きらなくてよかったとは思う。しかし、この社会党の内部解体を必然的にもたらしたこの原理転換は、村山ら、現在の社民党のリーダー達の責任においてなされたのだ(民主党の問題はここではのぞく)。
 山口二郎は、小選挙区制によって党の存亡が脅かされることが、野党(公明党など)の与党志向の最大の原因と論じつつ、この「自自公」国会について以下のように述べている。
 「この国会の特徴は、法案の審議日程が決まった時点で、既に法案の帰趨が決まってしまったことにある。盗聴法にせよ、国旗・国歌法にせよ、審議の過程ではきわめて重大な疑問が提起された。とくに、盗聴については、参考人意見聴取の中でインターネット関係者が現在の電子メディアの実状と盗聴法の齟齬を的確に指摘し、この法律が欠陥品であることを明らかにした。しかし、こうした議論はまったく立法に反映されていない。むしろ、公聴会や参考人意見がまったくの儀式と化し、誰もそれを自明の前提としているところに国会の病理がある。国会の手続き自体が空洞化していることが、日本では当たり前となっているのである」。
 まったく当然の批判である。「翼賛国会」の病理だ。さらに山口は重要法案をめぐる政府の答弁が、「普通の日本語能力を持つ者にとって、意味不明、理解不能」なものばかりであったと論じ、ジョージ・オーウェルの小説『1984』の「戦争は平和である」などの支配政党の、それ自体がまったく反対の矛盾した主張に違和感を持たなくなる思考法、オーウェルが「二重思考」と名付けたものを思い出すと語っている。
 「言葉を崩壊させ、矛盾を矛盾と感じる理性や感性を一掃する」ことで成立するダブル・シンキングに引きよせて、145国会を批判する山口の主張は鋭い(「野党は『明確な言葉』を語れ−−民主主義の腐蝕にどう対抗するのか」『世界』10月号)。
 しかし、こうした主張が、今日の事態を生み出す大きな契機となった村山(社会党委員長)政権(路線転換)に加担し続けた、あの山口のものであることを考えると、私は怒りというより驚きの気持ちで、いっぱいになってしまう。
 私はかつて本紙22号('94.7.15号)で、村山政権への同調を呼び掛ける山口を以下のように批判した。
 ――どうゆう頭をしていたら、これだけインチキなことが次から次へと主張できるのか。/少数意見を議会に反映させる通路をふさいでしまう小選挙区制に反対する。日米の軍事同盟である安保条約に反対する。非武装国家の理念を宣言した憲法九条に違反する自衛隊に反対し、もちろんその軍隊の海外派兵に反対する。こうした戦後革新政党としての基本理念をすべてアイマイに放棄する方向で、利権配分のシステムをめぐって分裂した自民党の一方(小沢新生党)にだきこまれて連立政権入りした社会党。この保守権力への屈服を正当化するために、今は「自民党独裁をこわすことが第一義である」という屁理屈がさんざんふりまかれた。その細川政権も、当然にも汚職まみれで羽田政権に移動。なんと社会党は政策の面ではズルズルと引き込まれながら、メンツで連立離脱。いろいろフラフラしたあげくに、自分たちがかかげた反自民の大儀もなげすて、最大議会政党自民党との連立。村山政権へということになったのだ。そして自民党と基本政策での対立はないというのだ。/政治腐敗をなくせという声を小選挙区制の実施という「政治改革」論にスリかえることに加担した社会党は、細川(小沢一郎)に支えられた腐敗政権の一角を形成した。−−「『権力欲しさ』の自己正当化の詭弁」(『反戦運動の思想』〈論創社〉所収)
 社会党は選挙で当然にも大敗、この後分解してリーダー村山・土井などは「社民党」として自民党に協力し続け、しゃぶられ続けて、実質的には放り出されるようにして野党へ。
 山口は、こういう信じられないほどデタラメな転換過程をもっとも積極的に正当化するイデオローグであり続けた。そして、「平和基本法」構想を公然たるスタートとする山口らのこうした言論の展開された主要舞台はこの『世界』であった。
 自分の主張に対する責任感とか、反省というのは、まったくないのだろうか。いったい、「言葉を崩壊させ」、矛盾やインチキをそれと感ずる理性や感性を崩壊させるような言論をまきちらし続けているのは誰なんだ。
 今、山口自身が書いていることが、本人にとって少しでも本気なのであれば、彼がずいぶん「ひどいことしてきた」という事実が、彼自身に認識されないわけはないだろうに。なんで反省の言葉が一言もないんだ。
(『派兵チェック』No.84, 1999.9.15 号)



















いまこそ、「憲法論議」をとりもどせ

桜井大子●反天皇制運動連絡会

 この七月から八月にかけて「周辺事態法」「日の丸・君が代法」等々の諸悪法が軒並み成立させられてしまった。その中に「憲法調査会設置法」がある。
 この調査会設置を待ちきれないと見える小沢一郎は、早々に「日本国憲法改正試案」なるものを発表した(『文藝春秋』九九年九月号)。小沢試案批判が目的ではないので、悪口の一つも書かないでは欲求不満にもなるが押さえることにしよう。小沢試案が出る半年前に、これまたあちら側の改憲論者である西修がかなり執拗な展開をしている。『日本国憲法を考える』(文春新書 九九年三月)だ。こちらは、小沢や九四年の『this is 読売』が提唱する、「いかにも」といいたくなるような試案とは少々趣の違う攻め方をしてくる。
 現憲法立案に関与した当該者へのインタビューや史料に基づいて、憲法成立過程の裏事情を引き出しては憲法の矛盾点を指摘していく。また、現実の世界情勢や国内的な諸問題を解決するためにいかに現憲法が欠陥だらけであるのかを展開していく。御用学者が完全に向こう側のブレインとしての仕事をそれなりにこなしているのだ。もちろん、結論はハッキリしている。小沢たちの改憲論とそんなに違いはしないのだ。ただし、実証主義を装う論のすすめ方は、「先に結論ありき」を見えづらくしているのも事実だ。もっとも、天皇条項や軍事問題ではそれも難しいようだが。
 国際的にも国内的にも「元首」的役割を果たし、そのように認識されている天皇が元首でないわけはない。日本を共和制と認識する外国は皆無であり、君主の定義は「独任機関」「世襲」「象徴たる地位」の三点を満たせば十分であり、よって日本は共和制ではなく君主国である。自衛隊が「戦力」であることを認め、「自衛権」「国際貢献」のための自衛隊の活動を認めるべき、等々。このようにしか主張のしようがないのだろうか、「読売」試案・小沢試案と横に並ぶほどの没論理的な結論のだし方である。だが、現憲法制定時において、GHQが「自衛権」を否定していなかったことの論証(マッカーサーノートとケーディス大佐の調整)などは、読んでいておもしろかったりするのだ。それも含め、西の論理展開については一つ一つに批判を入れていく必要があるように思う。
 ところで、天皇が元首的役割を果たしている、日本は君主国である、自衛隊は戦力である、というストレートな認識を私たちはどのように捉えるのか。たとえば私にはそのとおりである、としかいいようがない。いってしまえば私個人はそう認識することから始まっているのだ。だが政府の側にとって、これらを認めることは一種両刃に近い危なさを抱えている。認めさせて「改憲」に突っ走れるのか、認めた以上は憲法に従えと迫られるのか。しかし私たち自身にとっても、解決策がこの二つに一つと思い込んだところには満足できる答えはないかもしれない。たとえば「護憲」を唱えるだけでは太刀打ちできないところにきてしまっているのだ。すでに「改憲」というよりは「憲法を考える」というスタンスで現実的な改憲を唱える西らの登場がある。憲法論議では先手をとられているわけだ。
 この西修著『日本国憲法を考える』と期を一にして、一冊の新書が発行された。田中彰著『小国主義――日本の近代をよみなおす』(岩波新書)だ。詳細にふれる余裕はまったくないが、たとえば「自衛権必要」論に対して二者択一ではない答えの出し方を模索するための示唆に富む一冊となっている。また、歴史実証主義というのであれば、改憲論者が自らのために引き合いに出す史実だけが歴史ではないことを教えられる。たとえば、「押しつけ憲法」論がまかり通っているが、実際は現憲法制定の際、GHQが反政府の立場にある憲法研究会の「憲法草案要綱」を高く評価し、参考にしていたという事実。また、その「草案要綱」自体がさらにさかのぼること半世紀以上、明治国家が大国主義を掲げているなか「小国主義」をとなえつづけた民権運動の理論的指導者としてあった植木枝盛の「日本国国憲案」をはじめとする「私擬憲法案」などが流れこんでいること。田中はこれらを丁寧に論証していく。実は憲法は民衆の手によって検討に検討を重ねられてきた歴史があるのだ。そしてそれは大雑把に言ってしまえば半世紀ごとに実を結んでいる。
 敗戦から半世紀以上を経たいま、そろそろ憲法論議を私たちの手に取り戻したほうがよいのではないかと思うのだ。私は「改憲論者」であるか「護憲論者」であるかなど、とりあえずとっぱらっていいと考えている。実はこれも西や小沢が言ってたりするのだけどね。あぁ、また先手を打たれている。腹立たしい。しかしその先の内容は私たちにしか述べられないのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.26, 1999.9.8号)






















皇室外交」と憲法――小沢一郎の「日本国憲法改正試案」をめぐって

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 「公賓として来日している韓国の金鍾泌首相夫妻は三日、皇居で天皇、皇后両陛下と会談した。宮内庁によると、首相は『ご都合がよろしい時にご訪問されるよう、大統領から重ねて伝言があった。よい訪問になるよう環境づくりに鋭意努力したい』と、改めて両陛下の韓国訪問を招請した」。
 九月四日の『朝日新聞』の記事である。金大中大統領の韓国への天皇(夫妻)の「外交」が、アジアへのかつての侵略の責任の最終的な棚上げの政治セレモニーとして準備されているわけである。外国の元首クラスに訪問してもらえる「靖国」につくりかえたいという、政府の新しい「靖国国営化」政策と重ねて、この「皇室外交」について考えてみると、象徴天皇制国家が、今どのように「再定義」されつつあるかがよく見えてくる。
 小沢一郎は「日本国憲法改正試案」(『文藝春秋』九月号)で、憲法第一章についてこのように論じている。
 「いわゆる、戦後左翼の主張のように、単純に『平和憲法』と思っている人達は、前文の理念的イメージに引きずられて勘違いしている。日本国憲法は立憲君主制の理念に基づく憲法である。天皇が一番最初に規定されていることからも、それは明らかではないか。/元東大教授の宮澤俊義などが『国家元首は内閣総理大臣である』と主張しているのも間違いである。宮澤説は大日本帝国憲法との比較において日本国憲法は共和制であると位置づけているのであるが、例えば第六条に書かれているように、主権者たる国民を代表し、若しくは国民の名に於いて内閣総理大臣及び最高裁判所長官を任命するのは天皇である。又、外国との関係でも天皇は元首として行動し、外国からもそのようにあつかわれている。このことからも国家元首が天皇であることは疑うべくもない。天皇が国家元首であることをきちんと条文に記すべきであると主張する人もいるが、今の文章のままでも天皇は国家元首と位置づけられている。宮澤説は私も学生時代に何回も読んで勉強した経験をもっているが、戦後社会や今日もなされている、戦後左翼が好んでする議論に通ずるものだと思う」。
 ひどく乱暴な論議である。宮澤説は、戦後の憲法学会の通説であった。それは、天皇は国家を代表する元首として外交できる権能を持っていると憲法に明記されておらず、明記されていない政治行為は、してはならないと、その憲法が宣言していたからである。
 小沢は、ここで、外交元首として象徴天皇は存在しているという解釈を確認すれば、文章を書き改める必要はないと主張しているのだ。戦後、保守党は「解釈改憲」で、憲法の禁止する「皇室外交」をつみかさねて(特にアキヒト天皇に代替わりしてからは、ハデに外に動き回って)きた。それを、ネジまげた解釈で正当化してきたのである。小沢は、その解釈がまったく妥当であると強弁してみせているだけなのだ。たとえ宮澤の「共和制」解釈にスッキリしないものがあったとしても、天皇は「元首」として外交でき、日本は「立憲君主制」の国であると単純に規定されているなどの解釈が、あたりまえのはずはないのだ。
 小沢は、文章はそのままで天皇の「元首化」を公的に確認する必要を力説しているのである。
 一九九四年に発表された読売新聞社の「憲法改正試案」は、天皇の規定を第二章にかえて、第九条(天皇の国事行為)の一に「国を代表して、外国の大使及び公使を接受し、また……」という規定を入れるという案であった。この読売試案も、天皇を元首として明記するのではなく、「国を代表」して「外交」する権能があることを明記するというものであった。
 改憲派は、強引に押し進めている「皇室外交」が違憲であることに十分に自覚的であるのだ。だから既成事実を積み上げ、解釈をネジまげ、その解釈こそが今や妥当だと強弁しつつ、あるいはソッと新しい規定を折り込みつつ改憲プランを提示しているのだ(小沢は第二条以下をどう改めるのか、ここでは何も具体的には示していない)。
 アキヒト天皇在位十年式典が政府によって準備されている今、この間、アキヒト天皇の「外交」の成果がマスコミでキャンペーンされ続けてきた。
 「日の丸・君が代」の国旗・国歌への法制化に続く「靖国神社」の新しい国営化の動き。そして、元首象徴天皇外交の、スッキリとした合憲化という動き(これが彼らの明文改憲プランの天皇条項についての、メインの狙いであることは明らかだ)。
 アキヒト天皇在位十年奉祝式典・キャンペーンは、こういう象徴天皇制の再編のプロセスに浮上したものである。
 そして、次の天皇訪韓という政治セレモニーもまた、明文改憲の政治の大きなステップである。このことにも、私たちは注目し続けなければなるまい。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.26, 1999.9.8号)





















ゴラン高原の自衛隊

森田ケイ

 前回、第81号に書かせていただいて以降、ようやくページをいただけた。まずもって「ヨルダンの対日債務『チャラ』話」のフォローから。7月28日付のJapan Times紙に「ヨルダンの債務支援のための計画を策定」という記事があった【注1】。
 6月中旬のケルン・サミットに際して日本の首相小渕と米クリントンの会談がなされ、クリントンから日本に対して、ヨルダンの債務軽減への協力要請がなされた。また同サミットが6月20日に採択した「地域問題に関するG8声明」でも、ヨルダンの債務軽減のための経済援助が「国際社会に対して要請」された。そうした経過も踏まえての記事だ。
 要するに、今年末に予定されているというヨルダンのアブドゥッラー新国王の公式訪日以前に、「〔中東〕地域の和平プロセスが決定的な段階にあるなかで同国の国内的な政治的安定性を高めるために」日本がODAの「ノン・プロジェクト無償資金協力」として数十億円を提供する、というのだ。さらにこの記事は、「ケルン・サミットの前にクリントンはアブドゥッラーに、ヨルダンが合州国に対して抱えている二国間債務の約7億ドルを帳消しにすると確約した。/しかし日本は、この先例に倣うことには乗り気でなかった。こうした措置をとることは、ヨルダンに対する新規の円借款の実施を非常に困難にするからである。援助についての日本の基本方針によれば、日本に対する二国間債務を、たとえ部分的にであっても帳消しにした場合、そうした発展途上国への新規の円借款は停止すべき、とされているからだ」と伝えている。
 ここで2点指摘しておきたい。まず第一には、債務を「帳消し」にした国には、もう「新規の円借款」はしないという「基本方針」だ。極めてドライというか、明確な方針ということもできるかもしれない。しかし基本的には日本企業に金の流れるチャンネルとしての円借款という性格は今もあるだろうから、その意味では、日本企業の利益を保護し、維持するための「基本方針」とも言えなくはないと考える。
 第二点目は、この「数十億円」という日本の援助だが、これはヨルダンの対外債務の、せいぜい1%の軽減にしかならないと推測できる、ということ。
 ●ヨルダンの対外債務は約70億ドル(1ドル=110円だと7700億円)
 ●「数十億円」が、例えば70億円と仮定すると、この債務の約0.9%に相当
 これに対して合州国は7億ドルを「チャラ」にすると「確約」したのだから、これはヨルダンの対外債務の約10%に相当する。先のサミットの際の6月18日、会談で小渕がクリントンに「日本政府はヨルダンの債務支払いの負担を“効果的に”軽減するための何らかの手段を考慮したい、と返答した」(Japan Times、7月28日付)その中身が、これだ。前回の拙文(第81号)でも触れたとおり、「近年我が国はトップ・ドナー国」と自慢する日本に、ヨルダンは対外債務の約4分の1(約20億ドル[1ドル=110円だと2200億円])を負っている。もちろん、「日本が世界中にカネをバラまけば良い」などと単純には思わないが、およそ「効果的」な額とは思えない。どんなにきれいごとを並べても、日本の官僚と政治家どもがやれる「国際政治」とはこの程度、ということだろうか。

 次、7月16日に日本政府が閣議で、国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)への武装自衛隊の派兵を、さらに2年を目途として延長することを決定した。1996年2月から開始されたUNDOFへの派兵は、当初2年を目途とされたが、1997年に2年を目途とする延長がなされ、そして今回2度目の派兵延長だ。これでUNDOF派兵は2002年2月まで(第12次隊まで)可能とされてしまった。
 この決定に先立って7月10日付の「読売新聞ニュース速報」は、「自衛隊の活動が国際的にも評価が高く、国連や紛争当事国のシリア、イスラエル両国などからも引き続き派遣要請が出ていることから派遣延長に踏み切るものだ。また、『UNDOFが存続しているのに、日本だけが途中で帰ってくるのは、国際常識としても許されない』(防衛庁筋)との事情もある」と報じた。派兵を開始した以上、UNDOFが存続するかぎり継続することが「国際常識」だというのだ。
 しかし、長期化するPKO/PKFの場合、参加する各国軍隊の入れ替えや交代があるのは当然のことだろう【注2】。UNDOFでも事情は同じだ。読売新聞が報道しなくとも、 UNDOFカナダ部隊がインターネット上で公開しているホームページ【注3】には「 UNDOF INFORMATION」という文書があり、ここに部隊構成の変化を示す表が付いている。
 ●1974年〜:オーストリア、カナダ、ポーランド、ペルー
 ●1975年〜:オーストリア、カナダ、ポーランド、イラン
 ●1979年〜:オーストリア、カナダ、ポーランド、フィンランド
 ●1994年〜:オーストリア、カナダ、ポーランド
 ●1995年〜:オーストリア、カナダ、ポーランド、日本
 大雑把にペルーは約1年、イランは4年、フィンランドは15年ほどUNDOFに参加していた。「防衛庁筋」からすると、この3ヶ国は「国際常識」のない国ということになる……つまり、こんな「国際常識」自体が大ウソなのだ!

 もうスペースが、ない。9月5日にパレスチナ自治当局のアラファートとイスラエル・バラク首相が新たな合意に調印した。論点だけ挙げておく。(1)「パレスチナ暫定自治」の5年間は1999年5月4日に終了した。今回の新合意は、米クリントンのイニシアチブを受ける形で、もう1年間、この「暫定」期間を延長するものであること。(2)さらに今回の合意過程では、「中東和平プロセス」なるものが、結局はイスラエルに対して譲歩する形でしか合意/実現されないのだということが一層明確にしめされたこと。
 詳細は次号で!(1999年9月10日 記)■

*注1:引用したJapan Times紙の英文からの翻訳は、筆者による。*注2:もちろん、こうした国連PKO/PKFが「長期化する」こと自体の問題もあると考えるが、触れるスペースは、ない。
*注3:以前にも紹介したホームページだ。URLアドレスは、 http://pk.kos.net/golan.html
(『派兵チェック』No.84, 1999.9.15 号)















第145回国会をめぐる攻防は、運動と表現の問題を突きつけてきた――魅力のない運動は力を持たぬ、書くのは簡単なのだけど

 世の中が完全に変わってしまうほどの悪法が次々と成立してしまった。
 正真正銘の戦争法である周辺事態法。市民監視・運動弾圧のために、いかようにも機能してしまう組織的犯罪対策法。住民をトコトン管理するところへの確実な一歩となる住民基本台帳法改悪。いまのところ誰もその波及効果の全体を掴むことができていない、しかし、戦争国家の方針に文句をつけさせないために各自治体の権限を限定するということだけははっきりしている地方分権一括法案。それから、54年前に敗戦を迎えた日本の侵略戦争の責任に対する完全な居直りと、戦後一貫して押し通してきた無責任政治の集大成としてある、そして天皇制を、差別構造を法的に強化し、さらに私たちの歴史認識や価値判断など憲法が保障する思想・信条の自由ってヤツを大きく蹂躙する「国旗・国歌法」すなわち「日の丸・君が代」法。そして、これだけの憲法と矛盾する法律を成立させまくった後に、その現実に合わせるという論法でおこなわれるだろう明文改憲のための法律、憲法調査会設置法。このほか、これらと同列で何の説明もなく並べてしまうには少し無理があるかもしれないが、外人登録法や出入国管理及び難民認定法の一部「改正」。
 いま私は、一体いくつの法律を書き連ねたのだろうか。とにかくこれら諸悪法が、この7月から8月にかけて矢継ぎ早に成立してしまったのだ。
 「悪名高き」で歴史に残る145回国会。国会はいつだってひどい。が、しかし、今回の国会は歴史に残るひどさだった。このことは、事実だ。今国会はひどかったのだ。「議会政治の、民主主義の葬式のつもりで参加した」と、一つの法案が通過しようとする前日の国会行動で、ある参加者は言った。一、二週間後の別の法案成立を目前にしたデモに参加したある人が、また同じことを言った。誰もが言うとおり、この145回国会が「民主主義もクソもあるものか」そのものであったことは、事実なのだ。
 しかし私の中には、それとは違うなにかが胸につっかかっている。言ってはイケナイことのような、しかし、どうしてもひっかっかっていること。言っても仕方がないことだが、考えずにはいられないこと。怯みつつも言葉にし、すぐに後悔しそうなこと。
 どうして私たちはこのように惨敗してしまったのか。
 今までの運動はいったいなんだったのか。今までの私たちの運動、それ以前の私たちが批判したり継承したりしてきた長年にわたって積み重ねられてきた運動は、いったいどれだけの力を持っていたというのだろうか。あるいは、何がこのような結果をやすやすとつくってしまったのだろう。
 私は、ほとんどの法案が成立し、そしてすべての法案が成立確実と報道されていたとき、次のように書いた(『反天皇制運動じゃ〜なる』25号)。
 「すべての法案が本当に成立してしまったとしても、私たちはそれ以降の抵抗線を作り出す必要があるし、これからの活動はそのことへの試行錯誤から始まるだろう。ガックリなどしている暇は実際ないのだ。/結果を法案成立だけで判断するならば、国会における行動において手応えなどまったくなかったとしかいいようがない。しかし、結果を出すのは今回の国会ではなく、これからの私たちであるのだ」と。
 この文章に後ろめたくなるほどの偽りはない。しかし、かなり意気消沈している自分に言い聞かせている側面は強く、強がりを言っているというそしりは免れない。そして、やはり法案成立を一つたりとも阻止できなかったということにおいては、とりあえず運動の側は惨敗したのだと認識するしかない、といま私は考えている。そして、私たちが言ってきた、私たちよりもずっと前から先人たちが言ってきた、日本政府および天皇の戦争責任の問題、差別の問題や基本的人権、表現の自由、自衛隊・米軍基地・安保の問題に対する運動はいったいなんだったのだろうという疑問を払拭できないでいるのも事実なのだ。
 今回成立した法律は、戦後ずっと政府の側が欲しかった法律ばかりではないのか。このかんの「国会攻防における手応え」云々というレベルの話ではないのだ。もちろん、政府の側が周到に戦後一貫してこの機の到来を着々と作り続けてきたとは言えないだろう。しかし国家意思というものを考えるならば、そのことを一笑に付すことなどできないし、これまで積み重ねられてきた運動の側がそのことに無関心であったとも思えない。となれば、どうしてこれまで積み上げてきたものがこの局面で、「今こそ」という力に、驚くほどの圧倒的多数の人々を引き付ける力にならなかったのだろう、と悩ましく頭をたれてしまうのだ。なんて人々は無関心なんだろう、と。
 最終的には、この悲しくなるような問いに行き詰まる。これへの回答は、積み重ねによって作られる部分とタイミングや創意工夫というやつによる魅力的な求心力と、偶然や状況が創り出すさまざまな要素が折り重なって出来上がるものであるのだろう。だが、本当に「言うは易し」なのだ。
 このコラムも、もともとはそういった問題意識から始めたはずであったのだ。ここで紹介した個人やグループ、いろんな取り組みは、どれもふ〜むと頷いたり、う〜むとうならせられるような、一種感動的なものばかりである(それがうまく伝わっていたかどうかは別問題であるが)。そういう意味では、この試みはもう少し続けたいという別の欲望も一方である。しかし、ここ数カ月、運動と表現の問題で感じたことは私にとって重大な何かであったのだ。だが、その何かが今一つ説明しがたいのもとしてある。そして、ただ紹介してどうする、というのも今となってはわき起こってくる。これら言葉にならぬ悶々を無視して、これまでどおり続けるのはよろしくない……とも思うのだ。
 念のために付記しておくと、これは私の方の問題であって紹介される方の問題ではまったくない。そこのところを少し練り直して、再度始められるようであればぜひ、機会をいただきたいと思う。また、何を甘ったれたことを言っておる!とのお叱り等々、ありましたらばお聞かせいただきたい。継続してこのテーマを考えたいとの気持ちがなくなっているわけではまったくないのだ。表現のバトルフィールドそれ自体は、続くのである。
 開店休業中か、とりあえずの閉店か、改装のための一時閉店か、よくわかりません。とりあえず、いったんは閉めることにさせて下さい。それではみなさん、お元気で。
 バイチャ